ReMemory  『生きのこった森の石松』  『あい子の東京日記』 公演情報 燐光群「ReMemory 『生きのこった森の石松』 『あい子の東京日記』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

      名優中山マリさん、鴨川てんしさんお二人が、それぞれの演目を一人で演じる。お名前の順番は、レディーファーストにさせて頂いた。総論から始めると、極私的演劇論ということになろうか。今更、言うまでもないことだが、演劇は総合芸術だ。それは、劇作家、役者、演出家、舞台美術家、照明さん、音響さん、制作スタッフや観客総てが相俟って創る壮大な想像力の時空であり、その総合力が機能する場である。そのキーになるのが、本番で板の上に立つ役者さんだ。殊にその能力の高さ、個性、そして個人史を当に我々も生きている同時代の現代史に刻んでこられたお二方の、齢を重ねた身体を通して人間を晒す力には、改めて世界を見直す契機を頂いた。(追記3.26本日、マチソワあり)

    ネタバレBOX

    「あい子の東京日記」2019/3/23 19時 ザ・スズナリ
     第2次世界大戦直後、空襲や敵襲の恐れは無くなったものの、一般庶民の食糧事情、殊に都市部のそれは、戦中より寧ろ悪化していた。何故なら、戦中は隣組等の締め付けもあり、配給制度がそれなりに機能して居た為、最低必要な物資は比較的まんべんなく行き渡って居た為だ。然し敗戦後は、強い者が正しい、という強者の論理が幅を利かせた。だから、ヤクザや政治屋、資本家、食糧を持つ者、のし上がった悪党、権力者等が必要物資を独占的に私有していた。つまり富の集中・寡占が起こり庶民の生活は戦中より厳しかったのだ。現在で言えば、自民党議員やその支持者、与党支持者らが喧伝するトリクルダウンがまかり通っていたのである。ただGHQを始めとする占領軍が放出する物資は、闇市にも出回っていた。そんな時代、夫をレイテで亡くした戦争未亡人、中山あい子は、中間小説の旗手として頭角を顕し、アメリカ大使館でタイピストの職にも在りついた為、日本人従業員用の宿舎に住むことができ、食糧に困ることなど全くない当時の庶民からみれば別天地での暮らしをしていた。子供とはいえ、千代田区町1丁目1番地という華やかな暮らしをさせてくれる番地を誇らしく思っていたという。自分も何回か東京を転々とした際、住んでいた白銀の迎賓館を誇りに思っていたことを思い出した。雨の降った直後、庭には蛙がのそのそ出て来たし当時の日本としては偉く垢抜けた外車や高級車が迎賓館の出入り口を往来する姿、植え込みの美しさなどを今も鮮明に思い出す。
     更に、諸般の事情から大使館を出ることになった母娘は神田にあったビルの管理人としての生活を始めるのだが、ヨーロッパのアパルトマンのように中庭を中央に持ったビルでは、動物を飼うことも許されていたので、鶏を飼い新鮮な卵を入手することもできたのだという。無論、あい子が管理人を選んだのは、小説を書く時間が得られたからであった。様々な人の出入りも多かったようで、マリさんは自由な雰囲気の中で時代を明確に印象ずけながら育ったようだ。興味深いのは、マリさんが死んでしまいたい! と言った時のお母さん、あい子さんの返事。敗戦へまっしぐらに突き進んでいた頃、あい子さんは、こんな時代に子供は産みたくないと堕ろす為、冷たい海などに何度も浸かった李、ガタゴト揺れの酷いバスに長時間乗ったりして堕胎を試みたのだが総て失敗、マリさんは無事に生まれた。生命力の強い子なのだから絶対自分から死ぬ、などと言ってはいけないとさとされるのだが、話はもう1つあって敵機が超低空飛行で母子を狙ってきた折、米兵の嘲笑うような笑顔が見えたという。もうダメか、と覚悟した母に米兵がウィンクをして飛び去った。おぶっていたマリさんはいつも笑っていたので、その笑顔が2人の命を救ったのだとマリさんは言われた。生涯の仕事となった女優になった経緯なども小学校時代に遡って語られるのだが母と娘の人生に時代が密接に関与して、時が経った今、下北のスズナリで1人芝居を打っている彼女の姿が現実とフィクションの統合性として姿を現すさまが、グー。
    「生き残った森の石松」2019.3.23 20時10分 ザ・スズナリ
     鴨川てんしさんの石松は,屋台のおでんやである。それもはんぺんに黒いのがある、名古屋おでんというのが渋い。無論、黒は悪や異界を象徴するのが常であるから、白・黒双方を以て世界をより多様に表現する器として機能しているのは当然だ。
    中でも森の石松は、次郎長一家の大物で最も人気のあるキャラクターかも知れないから、その逸話は数多く、伝説の類も異譚も数多い。無論、講談や映画など娯楽芸能にもたくさんの作品やバージョンがあるから、その資料だけでも大変な数に上ろうが、そういった背景をベースにしながら、ここで語られることは一点に集約する。即ち1979年に亡くなった友である。友を通じて紡がれるアウトローへの共感である。それは、日本人の殆どが実感しなかった1989年という世界的パラダイムシフトへの注意喚起であり、内向きな日本人の状況への余りにも無防備でナイーブな感性及び鈍感へのアウトサイドからの呼号である。
     一宿一飯の恩義ということが股旅物では良く出てきた。これは、江戸幕府が無宿人を徹底的に取り締まる中で、水呑み百姓の多かった当時の長子相続制下で次男、三男に生まれれば、家を出て都市の下層労働者や職人になるか無宿人、即ち流れ者、ヤクザになるしかなかったアウトローの生活の底の底で、野垂れ死にを救って貰ったことに対する恩義を意味した。このような下層社会を見た者、経験した者、そして想像力を働かせ繋がろうとした者達への普遍的レクイエムの象徴として日本の学生運動退潮期に亡くなった友への痛恨の痛みを、ヤクザではありながら、情に弱く、義侠心に篤い、無鉄砲な所が何故か可愛い森の石松に仮託して描かれたのが今作ということになろうか。
     “団塊の世代”という言葉を発明したのは堺屋太一さんだが、この中で用いられている団塊という単語は元々、地学の言葉だそうで、地層中に見られる周囲とは異なった成分で形成された塊を言う。学生運動が盛り上がった頃の世代を指すが、この年代の人々は、友人や知己、或いは親族・眷属に闘争の過程で亡くなった方や傷ついた方を抱える人々が多い。そのことで心の傷を抱える人々が多いのだ。そういった人々への慰めのメッセージでもあるから、世代が異なると恐らく理解できない内容をも含むのだが、そのギャップをてんしさんの存在感、何とも言えない人間的な味、そして過ごしてこられた時の重さが滲み出ている演技で見事に形象化している。

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    2019/03/24 11:23

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