近代作家コレクションvol.6 さよなら平成公演 公演情報 J-Theater「近代作家コレクションvol.6 さよなら平成公演 」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

     ものには好みがあるから一概に否定はできないのだが、(一部重複箇所あり)

    ネタバレBOX

    三島由紀夫に関しては一般の評価は高すぎるのではないかと思っている。作品として「仮面の告白」や「癩王のテラス」は面白いと思うが、生きるという基本的な条件と彼の葛藤は彼の作品には希薄であるように思われてならないのだ。結果、彼の作品は表層的で、枯れている。丁度形は保っても内容は空疎なミイラのような、そんな印象を持たざるを得ないのである。そして挙げた2作はその例外である。即ち生が通っているのだ。
      今回、朗読された「道成寺」は、ミイラ的な作、極めて陳腐だ。無論、古典の道成寺を下敷きにした翻案であるから、それを考慮に入れれば更に読み込むことは可能であるが、能の道成寺に比して、その身体表現と当に命懸けの演技が要求される能作品と異なり、三島の主張自体は、既に使い古され飽きて捨てられた搾りかすに過ぎない。(例えばオスカー・ワイルドなどが散々使った手法・主張である)問題は仮にそうであっても、現在ヴィヴィッドにその主張が時代を撃ち、時代の隠れた部分に在る事実や病弊・疾患などを抉り出せれば何の問題も無い。然しながら、現在の日本でこの作品を上演することにどのような意味が存するのか定かで無いように自分には思われるのだ。虚を描くにしても埴谷雄高などは虚体に対して悩み対峙しようとして格闘したが、三島にはそれが無い。生きたストラグルの無い所に真の文学等成立しようも無いのだ。そんなもの・ことは単なるマスターベーションにすぎまい。そのことを徹底的に意識して道化を生きれば面白かったであろうが、ナルシシストであった彼にそれは望むべくもなかった。2日間に亘る公演で都合4回上演するような作品ではあるまい。
     寧ろ1948年にラジオドラマとして放送されたという三好 十郎の「女体」の方がずっと面白い。女学校の1年違いの友人が鄙びた温泉に来て8年ぶりの自分達の変容等が語られてゆく中、ダンサーをしている女が自分の職業をパンサーと自嘲する辺り、実に深いのだ。敗戦後、男は米兵を中心とした連合軍兵士に対し一切抗うことも出来ぬ中、“やまとなでしこ”であった女がパンパンとして稼ぎ、家計を支えた実体を見事に表しており、米軍のみならず英連邦連合国兵士のレイプ等の犯罪についても日本は国家として見て見ぬ振りをする密約を交わしていたことも顕わになった。現在までこの状態は続き、慣れ切ったのか日本国民の殆どが、知らぬ振りをするに至っている。何たる恥! 恥じることすら知らないとは! こパンサーという言い方には、自嘲のみならず、音的には豹の意味も含まれるから、その猛獣としての猛々しさと同時にネコ科の動物のしなやかさと優美、色香さえ漂うことは。無論誰にでも分かることであり、それがタイトルにも見事なまでに呼応している点も見逃すことができない。
     芥川が宇治拾遺物語に題をとったことでも知られる「地獄変」は25分で朗読できるようにカットされてはいるものの、良秀とその娘、火の車に飛び込み一緒に焼け死んだ猿、そして残虐な大殿のサディズムが痛い迄に描かれた部分はキチンと残されているので、作品としての振り幅はやや狭くなってはいるものの、傾聴に値する。また、芥川と三島の差は、己の生を賭けたストラグルを通してオリジナリティーが担保されているか否かにあると言えよう。
     岸田國士の「チロルの秋」は如何にも彼らしいセンスの作品。
     感心したのは、紙芝居という形式で演じられた「ちぃちゃんのかげおくり」という作品であまんきみこさんの作。“かげおくり”とは子供の遊びで天気の良い青空の晴れ渡った日に、太陽に背を向けて自分の影をみながらゆっくり10数えた後、青空を振り返ると空に自分の影が見えるというものだそうだが、自分は今作で初めて知った。第2次大戦末期毎日のようにB29による空襲が行われて日本の街々が灰燼に帰していた時期の話である。紙芝居の絵が素晴らしく、演者の岩崎聡子さんの声の使い分けも見事なものであった。無論、原作の文章も痛切に心に沁みる。ラストの解説的な部分だけは削った方がより深みが増すと思うが。
     芥川は、もう1作品扱われている「蛙」である。どこかプリミティブであった頃のギリシャ哲学を聞かされるようで陳腐な感は否めないが、日本のエリートがエリート然としていられた最後の時代の彼我の意識差を表象した作品としてみれば、それなりの面白さはあるものの、ゴーゴリの「検察官」にあるブラックユーモアを感じない訳にはゆかない。
     ところで、シナリオを読みながら噛んだりするシーンが在った点、全体として何故、今、この「国」でこのような作品がセレクトされなければならないかというセレクトの面では、鋭角的な批評意識が低いように思われる。全体構成の中での各作品対比などにも表れているこのような批評的視点の弱さ、時代の本質を見抜き揶揄する視点に欠ける鋭さの欠如が気に掛かる。

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    2019/03/16 14:54

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