飛び加藤 ~幻惑使いの不惑の忍者~
東宝
福岡市民会館(福岡県)
2012/07/10 (火) ~ 2012/07/10 (火)公演終了
満足度★
飛べないアヒル
カーテンコールで出演者の誰かが「こういう純粋なエンタテインメントな作品は最近少なくて」という発言をしていた。エンタテインメントも随分安っぽくなったものである。
脚本は陳腐で矛盾だらけ、役者の演技は質がバラバラで噛み合っておらず、手妻や和琴もドラマに有機的に関わっているとは言い難い。部分部分としては見るべきものもあるが、総合的には雑、としか言いようがないのである。結局、これらの欠点を見過ごした演出の河原雅彦が無能なのである。
ところがネットの感想を散策してみると、これが案外、評判がよい。どういうこっちゃ、とよく読んでみると、「涼風さんがよかった」とか「手妻が素敵だった」とか、まさに部分的なことばかり。だったら「涼風真世ショー」や寄席を観に行けよ、という話にしかならない。"演劇として"作品を観ようとする姿勢が皆無なのだ。
8,000円も払ったんだから、満足した気分に浸りたい気持ちは分からんでもないが、作り手はその料金に見合うだけの内容のものを提供しようなんて誠実さはカケラもないぜ? レストランで腐った料理が出されたら「シェフを呼べ!」ってことになるだろう。なぜ作り手に媚びなきゃならないのか、世間の演劇ファンの(本当にファンなのかどうか怪しいが)「誉めなきゃいけない症候群」もかなり重症だ。
河原雅彦にも『鈍獣』という傑作があるから、つい期待してしまうのだが、前作『時計じかけのオレンジ』のメリハリの無さを想起すべきだったか。目端の利いた観客なら、この脚本家と演出家とキャストではたいした作品にはならないと判断するだろう。それが集客の少なさに如実に表れている。
あえて旬でもない中年俳優を主役にして盛り立てようって企画意図は評価したいが、だったら作品の内容や宣伝戦略を根本から練り直す必要があるだろう。劇団☆新感線の『五右衛門ロック』のような冒険活劇のシリーズ化を狙ったような作りだったが、どうやら続編は難しそうである。
ネタバレBOX
『五右衛門ロック』『薔薇とサムライ』と二作続けてアウトロー・ヒーロー石川五右衛門を演じた古田新太は、「今さらこんな古臭い設定の話が受け入れられるのか、と思っていたら、案外、お客さんが喜んでくれたので、やる気が出た」と発言している。
その通り、時代はいつでも救いのヒーローを求めている。中年ヒーローが活躍するドラマや映画もひっきりなしに作られている。元気のない時代のだからこそ、オジサンが"もう一度"再起する冒険活劇を、という発想は間違ってはいないのだ。
設定が定番過ぎるのも、そのこと自体は問題ではない。と言うより、基本的なアイデアはルーティーンである方がいいのだ。アイデアの組み合わせと展開次第でドラマを盛り上げることがいくらでも可能になる。
『飛び加藤』はアンデルセンの『人魚姫』をモチーフにしたと謳っているが、それは楓(佐津川愛美)視点で見た場合で、加藤段蔵(筧利夫)視点なら、「お姫さまのための自己犠牲」と来れば、これはもう『シラノ・ド・ベルジュラック』であり『ゼンダ城の虜』であり『ルパン三世カリオストロの城』である。真実の恋に気付いた楓が段蔵を看取るシーンなどは『シラノ』そのまんまで、そのあまりに工夫のない堂々としたパクリっぷりは、かえって清々しく感じるほどだ。伊賀忍者・服部与三郎(三上市朗)の追う者と追われる者の関係は、これまた『逃亡者』『カムイ外伝』他枚挙に暇がないし、段蔵に裏切られ、醜い老婆と化し、復讐の念に駆られる桔梗(涼風真世)は、これはもう『四谷怪談』のお岩さんだ。
おかげで筧利夫は一人でシラノとカムイと民谷伊右衛門の役を兼任する羽目になったが、これは詰め込みすぎというもので、おかげで段蔵のキャラが複雑になりすぎて、鬱陶しさが前面に出過ぎて、物語自体を沈鬱なものにしている。筧利夫の演技がまた、つかこうへいの悪影響が残った一本調子の絶叫型だから、段蔵のキャラを全く表現できていない。つか演技はつか戯曲のつか演出でしか成立しないことを、演出の河原雅彦は理解していない。だから筧の臭い小芝居に駄目出しが出来ない。
シラノを演じるには、騎士道精神が必要になる。その本質は男のストイシズムだ。つか演出はそれを真っ向から否定するところから出発している。つまり筧利夫をキャスティングしたこと自体が失敗なのである。
ドラマに殆ど絡まない無駄なキャストが三上市朗の与三郎で、抜け忍となった段蔵を追いつつもその立場に同情し、陰日向に支える。だったらこの男は段蔵亡き後、楓を見守る役割を担わせるために生き残らないと意味がない。ところが中盤で唐突に段蔵に決闘を挑み、命を落とす。わざと斬られたと言うがなぜ? 最後の決闘は普通、ラストで、城から脱出した後でやるものだ。なぜこんなタイミングの間違いをやらかしたかと言うと、ラストでシラノをやりたかったから、そこに対決を入れられなくなったのだ。脚本の蒔田もバカだが、改訂しなかった河原がやっぱりもっと大バカ。
称賛の声が多い桔梗役の涼風真世だが、あれはヅカ演技が浮いているだけである。呪いによって老婆となった怨みを段蔵に抱いている設定だが、妖術で美女にも変身できるようになったのなら、かえって得したんじゃないかと思うが、一度抱いた憎しみはそう簡単には消えないってことだろうから、それはよしとしよう。
理解不能なのは、楓まで坊主憎けりゃ袈裟まで憎しで、その声を奪ったことだ。綺麗な声と優しい心の持ち主はみんな憎いって、そこまで逝っちゃったら誰も桔梗に同情しない。段蔵の自業自得を描くのなら、桔梗を嫌われるキャラにしてはいけないのだ。
これも自分勝手な嫉妬心を持つお伽噺の魔女と、男に翻弄される哀れなお岩という相反するキャラをこきまぜたために生じた失敗だ。
桔梗は死んだと見せかけて、ちゃっかり生き残るが、ならば楓にかけた呪いを解いたのはいつでなぜなのか、これも不明瞭だ。
物語の進行役として、手妻師の鈴川春之助(藤山新太郎)と江戸町奉行・大野久信(俵木藤汰)を配したのも頂けない。要するに舞台で藤山新太郎の芸を見せたいだけだ。だったら語り手なんて役ではなく、段蔵の手妻の師匠とか、物語にちゃんと絡む役で出演させた方がよい。この二人が出てくるたびに、話の流れが中断されて、テンポが狂いまくっていた。
しかし、一番どうしようもなかったのは、クライマックス、段蔵と楓の脱出行だ。
敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥り、段蔵は「取り寄せの箱」を示して、楓に中に入れと言う。「中に入って100数えたら、城の外に出ているって寸法だ」。
しかし楓は段蔵の手妻が全てインチキだととうに知っている。段蔵が単に楓を守り死地に血路を見出だすために、箱の中に入れようとしているのだと気付いている。なのにあっさり箱の中に入るのだ。ちったあ逡巡しろよ、と言いたい。
段蔵は楓の入った箱を背負って敵と戦うが、もちろん本当に楓を中に入れていてはアクションができるはずがない。佐津川愛美は舞台裏にすり抜けているが、おかげで筧利夫が空の箱を背負っているのは丸わかりなのだ。これまでの段蔵の手妻が全てインチキだった以上、ここは観客に「本当に楓を中に入れてる!」 と錯覚させなければ感動は生まれない。せめて箱が空とは分からない程度の重しを入れられなかったものだろうか。
「素敵に騙してよね!」とは、楓が段蔵に言った台詞だ。正しくその通り。下手な手妻では、「何でも誉め屋」の客は騙せても、普通の一般客は騙せないのである。
立川志らく 独演会
福岡音楽文化協会
イムズホール(福岡県)
2012/07/13 (金) ~ 2012/07/13 (金)公演終了
満足度★★★
酒と泪と男と女
『談志・志らくの架空対談 談志降臨?!』(講談社)を上梓したばかり、これで著作は何冊になるかってくらい、志らくの文筆活動は落語家随一だ。今回はもちろん談志の死去に伴って出版されたものだが、他の弟子たちの「追悼本」が、概ね師の回顧録になっているのに対して、"才人"志らくは一風変わっている。師匠の生前、実はそんなに腹を割った会話をしたことがなかったという志らく、師匠ならあのことについてこうも言うか、ああも言うかと、勝手に想像して一冊をでっち上げたのだ。
「死人に口なし」で自分に都合のいいことを書き放題なわけだから、師匠への冒涜、不遜な行為だと捉える人もいるだろう。しかしそれこそが志らくの眼目なのである。
不世出の落語家である立川談志を超えられる存在などあるはずがない。あるとすれば、それは"談志の幽霊"にでも出てきてもらうしかし方がない。志らくは談志を地獄の釜から召喚したのだ。これは「憑依」である。それができるくらいに自分は「談志を知っている」という自負の表れでもある。
志らくは高座で談志の形態模写を披露した。似ていた。単に声や仕草が似ていたということではない。いかにも談志が言いそうなことを志らくは言った。客席で一瞬息を呑んだ観客が大勢いたことを私は確認した。これほどのそっくりぶりを見せてくれた例を他に挙げよと言われれば、私はタモリの寺山修司のモノマネくらいしか思い浮かばない。
これほどの至芸を観られたのだから、充分満足で、あとの落語は付け足しのようなものであった。
と書くと志らく師匠に失礼だが、落語がそこまでの出来ではなかったのは本当だから仕方がない。
ネタバレBOX
【演目】
前座『転宅』(立川らく次)
『親子酒』(立川志らく)
仲入り
『子別れ』(立川志らく)
『転宅』
大雨で電車が遅延し、10分ほど遅刻、後半しか聴けなかったが、泥棒が義太夫の師匠にまんまと煙に巻かれる噺で、普通に演じて普通に笑えるもの。らく次は特にそつなく演っていた。
『親子酒』
マクラは殆ど談志のエピソード。
大雨で遅刻者が私の他にもいて、客席がチラホラ空いている。「東京では満席なのに空席があると、ヤフオクに出されてるんです」と言って談志の話に移る。「ヤフオク? なんだそりゃ、ダフ屋じゃねえか!」
ある時、チケットに八万円の値が付いたことを知った談志、高座に上がるなり、客席に向かって怒鳴って言った。
「この中に八万円出して来てるやつがいる! 落語なんてものぁな、八万も出して聴くもンじゃねェンだ。タダでもいいんだ。頭に来たから、今日は八万出したやつが損したって悔しがるような酷い噺をやる!」と言って、本当に酷い噺をしたそうな。
「他のお客さんこそ、いい迷惑で」とは正にその通り。しかし、そんな風に客としょっちゅう喧嘩していたのが談志の持ち味だったと、志らくはしみじみと語る。
他には、師匠が病室で弟子たちに遺した最後の言葉が「オ○ンコ」だったとか(志らくは遅れて来たので一人だけ別の言葉を貰えて嬉しかったとか。「ドアを閉めろ」だそうだが)、談志話だけでおよそ30分。マクラの長い落語家も少なくないが、これは格別だった。
お互いに禁酒の誓いを立てた父親と息子が、結局は二人とも呑んだくれてしまう噺。
親父が何だかんだと女房を丸め込んで酒を注がせるのをいかに自然に見せるか。これはかなり難しく、たいていの落語家は不自然さを誤魔化すために、女房の反応を描写しなくなる。志らくも同様。親父と息子の演じ分けもあまり巧くない。
『子別れ』
人情噺の大ネタで、これもかなり難しい。笑わせるのがではなく、泣かせるのが、である。談志は昔はこの噺をバカにしていたそうだが、どういう心境の変化か、晩年はよく演じるようになったそうである。
若いころはバカにしていた、というのはポーズだろう。「落語は人間の業を描くもの」、と生前語っていた談志である。熊五郎の放蕩と改心に「業」を見出ださないはずはない。談志をして、若き日には演じることを躊躇わせた難しさ、それが『子別れ』にはある。
熊五郎は勝手な男だ。吉原で散々遊んで帰って来て、女房に馴染みの遊女とのやり取りの一部始終を自慢げに語るような男である。女房もついに愛想を尽かして、息子の亀坊を連れて出ていってしまう。これ幸いと、遊女を身請けして新しい女房にするが、これが酷い女で、所帯を持った途端に我儘放題、挙げ句に男を作って逃げてしまった。すっかり懲りた熊五郎、真面目に働くようになって2年の月日が経つ。ひょんなことから前の女房と亀坊に再会したが……。
放蕩時代の熊五郎、これはまあ何とかならないでもない。女房をないがしろにする身勝手さ、その癖、女房が我慢してくれると思い込む甘えた根性、大なり小なり、男にはそういう部分がある。
難しいのは「改心」する描写だ。『芝浜』もそうだが、男の改心を説得力をもって演じることのできる落語家は滅多にいない。なぜなら、本心から改心する男など、現実には存在しないからだ。
『子別れ』も『芝浜』も、後半はファンタジーなのである。ファンタジーに現実感を持たせるためには、どれだけの技量が必要となるか。再会したがそこに「業」を感じさせ、客の泪を誘うにはどれだけ研鑽を積めばよいか。
志らくはまだ「型」をなぞるのが精一杯である。客は誰一人泣いてはいなかった。
志らくに『子別れ』は、そして恐らくは『芝浜』も、「早すぎた」ということなのだろう。
【福岡公演間近!9月末は鳥の演劇祭!】アルルカン(再び)天狗に出会う
ディディエ・ガラス×NPO劇研
ぽんプラザホール(福岡県)
2012/07/14 (土) ~ 2012/07/15 (日)公演終了
満足度★★★★
ガラスの仮面
「仮面劇」とは人間の多重性を象徴化した演劇である。
観客は仮面がその人物のペルソナの一つに過ぎず、その後ろには「真実の顔」があることを知っている。しかし、劇を観ている間は、その仮面こそが「真実の顔」であると「見立て」て、全く別の顔が隠れているとは、あえて考えないようにしている。
だから「仮面劇」において「面を外す」ことは本来は絶対の禁忌である。いったん、その仮面を被れば、俳優はその人物になりきらなければならない。天女の面を被れば天女に、魔物の面を被れば魔物にならねばならない理屈だ。その時、仮面のペルソナが人間の肉体に憑依する、それが「演技」の本質だ。
その「憑依」経験が度重なった時、俳優の心に奇妙な心理が働く。「自分がこの面の人物を演じているのか、それともこの面が自分を演じさせているのか」という思いだ。
故マルセル・マルソーは、代表作『仮面』において、そんな俳優の逡巡を具象化してみせた。゛仮面が顔から離れなくなった男゛の物語である。日本の「肉付き面」の伝承を想起させるが、根底にある思想は共通している。男は面の「魔」に魅入られたのだ。
これはマルソーによる「演劇論」であったと言ってよい。優れた舞台は、それ自体が一つの俳優論なり演劇論になる。
ディディエ・ガラスは当然、マルソーを意識していただろうし、日本の能にも通暁しているので、「肉付き面」の逸話も知っていただろう。自らの「仮面劇」を創作するに当たって、マルソーとは全く逆のアプローチを行った。
その結果、浮かび上がったことは、「人間は誰でもない」という冷徹な真実である。仮面の下にあるものが「見えない」のであれば、どうしてそれが存在していると断定しえるだろうか。存在していると同時に存在していない、「シュレジンガーの猫」のようなものとしてガラスは人間を捉える。
これもまた演劇が表現しようとしているものは何かというガラスによる「演劇論」であり、その問い掛けに答えなければならないのは我々観客なのだ。自分が本物か、それとも足下の「影」の方が本物なのか。ポーの『ウィリアム・ウィルソン』のごとき難問に答える術は、我々にはないのかもしれない。
ネタバレBOX
アルルカンの仮面は黒い。
それは彼がアダムとイブを惑わした張本人の末裔であることを示している。
「お前たちは俺のことを道化だと思っているだろう? そうじゃない! 俺はアルルカンだ!」
箒を使ったマイムで、ひとしきりクラウンを演じた後で、黒仮面のガラスはたどたどしい日本語でそう叫ぶ。
確かにその通りだ。黒い仮面は道化には全く相応しくない。アルルカンがどんなに滑稽な仕草を見せても、客席からたいした笑いが起きなかったのは、仮面が象徴している「闇」が笑いを疎外していたからだ。
初めはなぜこんな「不似合い」な仮面を着けているのかと訝しく思ったがそうではなかった。アルルカンはアイデンティティー・クライシスを起こしていたのである。
本来のアルルカン=アルレッキーノ=ハーレクィンは「魔」である。人の心の安寧を乱し、物語を混沌へと導くトリックスターである。演劇の歴史の中で、いつの間にか身に纏った闇の意味を忘れた自分に苛立ち、「本当の自分」を取り戻そうとする、それがガラスが造形したアルルカンなのだ。
アルルカンは黒い仮面を剥ぐ。しかしその下にはまだ「肉色の仮面」がある。アルルカンはまだ気付いてはいないかもしれない、しかし観客には一目瞭然だ。アルルカンは゛まだ本当の自分゛を取り戻してはいないのだ。
アルルカンはたくさんの面を被り、そしてそれを次々に剥いでいく。しかし「本当の顔」はどこにもない。次第に狂気に駆られていくアルルカン。そして彼は「もう一人の自分」に出会うのだ。やはり同じ「魔」である「天狗」に。
最初にこの芝居のタイトルを見たときに気になっていたのは、アルルカンがどのように天狗に会うのか、一人芝居でそれをどう表現するのかということだった。簡単なことである。そこには「一人」しかいないのだから、天狗はアルルカンのもう一つのペルソナであったのだ。面を被り「天狗」となったアルルカンは、歩みもまた能のごとく「地擦り」でゆるりゆるりと参る。「動」のアルルカンに対して「静」の天狗であるが、彼を中心に円陣を組むように配置された仮面の数々が(中にはヴェンデッタの面もある)、「真実」を物語っている。
「天狗」もまた憑依された「仮の顔」に過ぎないことを。「真の顔」などどこにもないことを。「彼」はアルルカンですらなく、何者でもないことを。
「彼」は観客に語りかける。フランス語で、イタリア語で、スペイン語で、中国語で。日本人である私たちには当然、通じない。「彼」は焦るがどうしようもない。
ようやく日本語で観客に問い掛ける。「今、何時ですか?」
時間を確認して、「彼」は呟く。「おしまいです」。
肉色の仮面も取り、「彼」はディディエ・ガラス本人に戻る。そして先ほどまでとはうってかわった穏やかな口調で、子供の頃の思い出話を母国語のフランス語で語り始める(バックに日本語字幕)。
それはガラス氏の父親が体験した不思議な話だった。ある日、山に登った父親は、霧の中を向こうからこちらに向かって歩いてくる男がいることに気がつく。
誰だろうと目を凝らした父親が見たその顔は。
自分そっくりの男だった。
ガラス氏が語ったのはそこまでである。そのあと、父親とその男がどさうなったか、何も言わないままガラス氏は退場してしまったので結末は分からない。しかし我々は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』で自分そっくりの男に出会った男がどうなったか知っている。ドッペルゲンガーに出会った人間がどうなるかという伝承を。
「演劇」に関わる人間がどれだけ自覚していることだろうか。数多くの仮面を被り続けることの危険さを、その恐怖を。そして我々一般人も果たして自覚しているのだろうか、自らのアイデンティティーなどは妄想に過ぎないことを。
ドッペルゲンガーは私たちの中にある。そして自分が何者でもないという絶望から立ち直ることは、人間には決して容易なことではない。しかし「自分が自分である」 ことに固着すればするほど、ドッペルゲンガーの絶望の陥穽は、その穴の入口を大きく開けて、我々を呑み込むのである。
スプラウト~小さな種のお話~
北九州芸術劇場
J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)
2012/07/21 (土) ~ 2012/07/21 (土)公演終了
満足度★★★
児童演劇のあり方について
ロシアのサラトフユースシアターによる児童劇。「スプラウト」とは「種」を意味するロシア語で、一粒の種を人と自然が協力して育てていく過程を象徴的に描いている。
この劇団が「国立」だという事実にまず羨望を覚えた。あちらの子供たちは定期的にハイレベルな芝居を観て育つんだろうなあ、チェーホフの、スタニスラフスキーの国だけはあるなあという羨ましさである。
もっとも、「子供のための演劇とは何か」という問題を考えた時に、どうしても「教育的効果」を優先して、「演劇としての面白さ」に欠ける面が生じていたことは否めない。具体的には「笑い」の要素の少なさだ。俳優たちの演技は洗練された上質のものではあったが、観客の子供たちの中から、ついに「笑い」が起きることはなかった。
子供向けの演劇に笑いを必ず盛り込まなければならないという決まりはないし、この劇団が笑いを全く否定しているわけでもないとも思う。しかし、「この芝居はもっと笑いの要素を付加した方が、テーマもより明確になるし面白くなる」ことは確かだ。
そもそもロシア文学は、そのユーモアによって世界の文学を牽引してきた事実がある。『イワンのばか』のトルストイ然り、チェーホフもゴーゴリも見ようによっては全作がコメディであるし、あの辛気臭いドストエフスキーの作品にすら『罪と罰』のマルメラードフのような喜劇的な人物が登場する。
40数年前、わが国の長編アニメ『長靴をはいた猫』(脚本:井上ひさし・山元護久/監督:矢吹公郎/作画・森やすじ/宮崎駿)に、゛その類い稀なるユーモアによって゛、「子供のための最優秀アニメーション賞」を授賞したのはモスクワ映画祭だった。
生命への賛歌を訴えることはもちろん悪いことではない。しかし、その「教条主義」が、つい子供の大好きなギャグやナンセンスを排除する結果になったとすれば、いささか残念なことである。
小劇場での公演だったが観客は40人くらいか、後部二列はガランと空いていた。「スプラウト」という原題通りのタイトルも作品の内容をストレートには伝えてはおらず、集客を疎外していたように思う。
ネタバレBOX
「児童文学に笑いは必要か」という問い掛けについては、何を今さら、と仰る向きもあるかも知れない。世界的な動向を見れば、文学、映画、演劇を問わず、児童向けの作品はユーモアとギャグに満ちあふれている。ギャグのないディズニーアニメーションなど、想像できるだろうか。
しかし、かつて一時期、おそらくは意図的なのであろう、わが国は、児童向けの作品から「笑い」の要素を極力排除しようとしていたのである。
マルクス主義は決して「笑い」を否定するものではなかったが、それに「かぶれた」人々は、実作の中で「反権力闘争」を描いていた。ロシアのギャグが何一つないアニメ『雪の女王』に魅せられた高畑勲、宮崎駿は『太陽の王子ホルスの大冒険』を作ったが、そのアニメーションとしての技術の優秀さを賞賛されながらも、そのあまりの笑いの要素の少なさに、評論家・荻昌宏に苦言を呈されることになった。興行収入は東映動画始まって以来の不入りとなった。
日本の児童文学者たちが、戦後一斉に共産党に入党したのは周知の事実である。その時期、山中恒は『赤毛のポチ』など、いかにも思想的な小説を書いていたが、やがてそんな小説は「子供の心に届かない」と気付き、『おれがあいつであいつがおれで』や『あばれはっちゃく』のような「児童読物」の世界に移行した。
児童文学に笑いを入れなければならないという法則はない。しかし笑いを無視すれば子供たちはそっぽを向く。子供に媚を売れと言いたいわけではない。大人の惑を子供に押し付けても、それは独り善がりに過ぎないということなのだ。
演劇の場合、笑いの要素は特に重要になる。大人の俳優は、子供にとっては「生身の巨人」なのだ。四、五歳くらいまでの子供を相手に芝居をしようと思うなら、自分がそこにいるだけで「恐怖の対象」になることを自覚しなければならない。
サラトフユースシアターの俳優たちが、子供たちの目線にまで下がって演技をしていることには好感が持てるし、種を育てる四大元素が(地水火風)が擬人化されながらも抽象的でそれと分かりにくいのも、「あれは何?」と子供が自ら考えることを促すための意図的な試みだろうと好意的に解釈することもできる。
しかしブレイクダンス風の踊りを取り入れたりするのは、「表現が目的に先行している」のではないか。また地水火風が擬人化されているのに、肝心の「花」が擬人化されないのはなぜなのか。
ひとつひとつの演技は優れているのに物足りなさを覚えないではいられない舞台だった。
観劇後は、子供たちと俳優たちとの交流会あり。好きなキャラクターの絵を子供たちに描かせていたが、そんなにキャラ立ちしていた人物もいなかったから、子供たちも苦労していたことだろう。
カミサマの恋
劇団民藝
ももちパレス(福岡県)
2012/07/24 (火) ~ 2012/07/31 (火)公演終了
満足度★★★★
“けっぱる”東北の神武たち
奈良岡朋子の津軽弁芝居を堪能できる舞台。
何のこっちゃと思われる方もあろうが、「方言芝居」で成功している例は決して多くはないのだ。コトバはもちろんイキモノであるのだが、地方の土俗と密接に絡んでいる方言は、たとえその地方出身の俳優の発声であっても、文化に対する深い理解がなければ、演技として昇華されたものにはならない。その巧拙は、喋りが自然であるかわざとらしい部分がないか、他地方の人間が観てもそれと気付くものなのだ。
奈良岡朋子は東北出身の俳優ではない。しかし父君(洋画家・奈良岡正夫)が津軽出身で、戦時中、弘前に疎開した経験がある。慣れぬ田舎暮らしに馴染むため、彼女は必死で弘前弁を習得した。それが今回の舞台に生かされている。
大滝秀治が舞台に立つことが困難になっている近年の劇団民藝は、奈良岡朋子一人で持っている印象がある。中堅どころに実力がないわけではないから、奈良岡朋子一人が突出していると言った方がよいだろうか。その結果、奈良岡朋子が袖に引っ込んだ時には、「舞台が持たない」状況も生まれてしまうこともしばしばであった。勢い、外部から奈良岡に拮抗しうる役者を招聘するしか手はなかったわけだが、彼女も既に82歳。後継が育たなければ、いずれ民藝は、屋台骨が倒壊する危険に晒される。
畑澤聖悟に戯曲を依頼したのは、作品の面からも「新しい血」を注ぐ必要があるとの判断ゆえだろう。青森を拠点とし、地方と伝統文化を見直しつつ、中央に打って出る畑澤氏の姿勢は、「演劇の温故知新」と呼ぶに相応しい。
今回の舞台で驚いたのは、「カミサマ」という超自然的な存在が、東北の日常に何の違和感もなく存在していることだった。誰も「カミサマなんてインチキだ」とは言わない。信仰と言うよりは習俗である。
「神降ろし」を行う道子(奈良岡朋子)は、「カミサマ」を媒介して相談者にアドバイスを与えるが、新興宗教のような金儲けに走るわけではない。その役割は町のカウンセラーであり、鋭い人間観察力がなければ、到底やりおおせるものではない。
津軽のその町に、「カミサマ」を中心とした小さなコミュニティが作られていることはその通りなのだが、これは閉鎖的なムラ社会とは根本的に性格を異にしている。「カミサマ」はその地の人々にとっては「故郷」の象徴である。日ごろは遠きにありて思うもの、つまりは非日常であるが、いったんそこに帰れば懐かしき我が家であり、心を休めることが出来る。そして、相談者は再び「日常」という名の「戦場」に戻っていく。
彼らに道子がかける「けっぱれ」という津軽弁。これを「頑張れ」と直訳しても、そのニュアンスは決して伝わらない。「頑張れ」はともすれば無責任な放言となり、相手にプレッシャーを与えるだけの暴言ともなる。しかし奈良岡朋子は、この言葉を相手の「魂」に向けて問い掛けている。相手が「けっぱれる」ことを信じている。そしてその判断は間違ってはいない。
だから観客もまた舞台から「力」をもらえる。劇場という非日常の空間から、「現実」へ立ち戻るための力をである。
津軽弁でなければ成立しない舞台、それがこの『カミサマの恋』なのだ。
ネタバレBOX
「カミサマ」遠藤道子の下へ相談にやってくる人々による群像劇。
小さな悩み相談事はいくつもあるが、大きなものは三つ、一つは工藤家の嫁姑問題、久米田家の離婚問題、そして道子自身の家族の問題である。
「カミサマ」が実在しないことは、物語の途中で観客には見当が付くようになっている。全ては道子による「演技」なのだ。神託のように見せかけてはいるが、道子は相談者たちの状況を詳しく聞き出し、人間関係を掴み、問題解決の糸口を探っている。そして最も適切なアドバイスを与える。それが“外れない”から、相談者たちは「カミサマの言うことに間違いがない」と納得する。たまにアドバイスに失敗することもあるが、その時は相談者は「自分が悪い」と言って、決して道子を責めようとはしない。道子はいつだって真摯だ。その誠実さが「カミサマ」を「カミサマ」たらしめている最大の根拠となっているのだ。
時には、道子はいかにも「カミサマ」風に大仰な「演技」もしてみせる。
工藤家の嫁姑の問題については、だらしない婿に「蛇が憑いている」と言って、嫁姑を慌てさせ、仲違いを中断させてしまう。そして婿には「二人の話をただ聞いてやりなさい」と、それだけで問題が解決することを示唆してみせる。
いくら東北とは言え、蛇憑きだの狐憑きだの狸憑きだのを信じる人間がこうもたくさんいるものなのだろうか、と疑問には思うが、非現実から現実へと回帰する道子=奈良岡朋子の真摯な演技が、最終的にはこのわざとらしい小芝居にも説得力を与えることになっている。
久米田家の問題はいささか厄介だ。
娘を死産した玲子(飯野遠)は、夫との仲を修復できず、テレビで紹介されていた道子の下に弟子入りを懇願する。既に弟子が一人いる道子はこれを拒むが、思い込みが激しいタイプの玲子は頑として帰ろうとはしない。
そこで道子は、ある条件を出して、彼女を家に住み込ませることになるが、ここから問題は道子自身の家族とも深く関わっていくことになる。
道子の養子・銀治郎(千葉茂則)は、病気で余命わずかの宣告を受けていた。死別した妻との再会を望む彼は、治療を受けないことを「カミサマ」に告白する。“本当はカミサマではない”道子は、その事実を知り狼狽する。そして、玲子に頼むのだ。「死んだ嫁の“生まれ変わり”を演じてくれ」と。
玲子のウソを信じた銀治郎は、妻に再会できたことを喜び、治療も受けるようになる。しかし玲子は、自身の思い込みの激しさゆえに、“本当に自分が銀治郎の妻の生まれ変わりである”と信じ込むようになる。さらには、玲子の夫が、玲子を連れ戻しに現れて、道子の計画は次第に崩壊していく。
道子は、所詮は人間である。「カミサマ」にはなれない。彼女の浅知恵が、かえって銀治郎の心を傷つけることにもなった。「カミサマの声を聴く」という行為が、全ての人の心を救えるわけではない、と熟知しているのは、道子自身なのだ。それでも道子は、「カミサマ」に頼ることでしか生きられない人々がいることもまた知っている。
彼女が弟子を取りたがらない理由はここにあるのだろう。この二律背反の矛盾の中で生きていくことは、いかに「けっぱる」道子とても、安らぐ間のない過酷なことなのだ。
最終的に、道子は「人間としての言葉」を銀治郎に投げかけて、彼の自暴自棄をたしなめる。「死ぬな」という「母」の言葉に、放蕩の限りを尽くしてきた銀治郎は、ようやく「家族」を意識して、死の淵から立ち直る。彼を救ったのはまさしく「人間」なのだが、ついさっきまで神託を無邪気に信じていた体の銀治郎が、簡単に「人間の側」に戻っていけたのは、彼もまた“自分をあえて騙していた”ことの証左である。
人間は、自分に都合のいいことだけを信じる。その心理が「カミサマ」に実効を与えていたのだ。それが巧く行ったケースが工藤家の場合で、虚は実となった。そうは問屋が卸さなかったのが道子たちの場合で、虚は結局は虚でしかなかった。
「信じること」が全て正しいわけではない。「信じたこと」に裏切られる場合もある。「こんな自分にでも、何かできることがあるなら」、それが道子が生きていた原動力であるが、それもまた「思い上がり」であることを、「現実」は彼女に冷徹に示してきたのである。
ラストの意外な展開は、苦悩の人生を送ってきた道子への「救い」であるが、作劇的には蛇足と見なす批評氏もいるだろう。
和解した道子と銀治郎だが、突然、銀治郎に、死んだ道子の夫が憑依する。道子を残して早世したことを侘び、息子を立派に育てた道子に感謝し、「けっぱって」生きてきた彼女を慰労する。
単純に考えれば、「カミサマ」なんていないのだから、これは銀治郎の演技だ。しかし二人だけの過去を知っているのだから、これだけは真実の「神降ろし」なのかもしれない。どちらとも取れるように、というのが畑澤聖悟の意図だろう。しかし演者の千葉茂則の演技が「どっちつかず」だったために、「どちらともとれない」中途半端な印象のラストになってしまった。
その演技のまずさを置いておくとしても、このタイミングで道子に「救い」を与えるというのは戯曲の時点で既に安易な方法であったように思う。奇跡はそう簡単に起こらない。仮に奇跡が起きたとしても、それは「人間の努力が起こしてこそ」価値があることなのではないか。
「奇跡」がなくとも、道子は充分に価値ある生き方をしてきたのだ。安手のドラマにありがちな結末を付けることは、かえって道子の人生をないがしろにすることになっているように見える。
畑澤聖悟の創作力がある一定のレベルに達していることは確認できたが、情熱が勝るあまり、まだまだ自作に抑制を利かせる域には達していない。奈良岡朋子に助けられていなければ、かなりつまらない印象で終わっていただろう。今後はもう「思い上がった」戯曲は書かないよう、願うばかりである。
イッセー尾形のこれからの生活2012 in 小倉
森田オフィス/イッセー尾形・ら(株)
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2012/07/28 (土) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
さようなら、そしていつかまた
「小倉には、三、四歳のころ住んでました」
アフタートークで、開口一番、イッセー尾形はそう語った。
父親が転勤族だったため、福岡を「故郷」と感じることはあまりない、と著書『正解ご無用』に書いている。
「子供の頃は、坂道を、電車を追いかけるのが好きでした。電車の『匂い』が好きで。そんな小倉に、こうして戻ってきて舞台に立っているのが何とも感慨深くて」
故郷とは思えなくても、「何か懐かしい空気」を感じているのだろうか。「休眠」前の舞台で、イッセー尾形は恐らく初めてではないかと思われる「博多のサラリーマン」を演じた。それが故郷への「恩返し」のつもりなのかどうか、それはよく分からない。「恩」とか「義理」とか「絆」とか、そんなものは「しがらみ」程度にしかイッセー氏は考えていないようにも見える。しかし、「受け手」である観客は、確かにあの傲岸不遜な「博多んもん」の活写に、逆説的な「愛」を感じるのである。
イッセー尾形の一人芝居に、最初に「感服」したのは、もう20年も前のことだ(「お笑いスター誕生」に出演していた頃にも観ていたはずだが記憶にない)。満員電車で姿勢を変えることができずに身体を歪めたまま固まってしまったサラリーマンのスケッチで、その身体表現に舌を巻いた。
日本において一世を風靡したスタンダップコメディアンと言えば、古くはトニー谷、そしてタモリの二人を挙げることが出来るが、小林信彦は『日本の喜劇人』の中で、この二人に共通する欠点として、「腰から下の弱さ」を挙げている。彼らに限らず、日本の「ピン芸人」と称する喜劇人たちは、概して自身の身体性に無頓着である。
イッセー尾形の身体のバランスのよさは、同時代の喜劇人たちと比べて突出していた。特に「腰から下」が強かった。演出家の森田雄三と知り合ったのが建設作業の現場だということだから、そこで鍛えられたものだろう。
もちろん、それだけでイッセー尾形の芸の真髄を語れるわけではない。これもまた稀有と言うべき彼の人間観察眼によって捉えられた、フツーだがちょっとヘンな人々の姿が、その身体を媒介として再現される時、「現代日本」の様相が象徴的に浮かび上がる。その点が、イッセー尾形の一人芝居を、他の一人芝居と隔絶した孤高なものにしてきたのだ。
イッセー尾形の一人芝居は、観客を大いに笑わせつつ、明確な批評性を持っている。休眠後、映像を通しての活動は続けていくとしても、舞台に復帰するかどうかは未定だ。あの300を超えるという一癖も二癖もあるキャラクターたちと会えなくなると言うのは何とも寂しい。ゆっくり休養していただきたいと思う反面、早期の舞台復帰を望むのはワガママに過ぎるだろうか。
九州では、あと8月3日から3日間、福岡天神のイムズホールで公演予定。小倉とはまたネタを変えるそうである。
ネタバレBOX
親戚の結婚式帰りの男。しかしこれから彼が行く先は別の親戚の葬式。つい飲み過ぎてしまったので、酔っぱらったまま喪主の夫人に挨拶する。新婚夫婦も付いて来ているが、喪主にどう挨拶していいか分からない。夫人も「こんな時に死んで・・・…」とひたすら頭を下げる。
映画『お日柄もよくご愁傷様』と共通したアイデアだが、わずか10分程度に凝縮されたスケッチは、観客の笑いを連続して引き出し、休む間を与えない。今回の公演は、どのスケッチも、ともかく「ギャグの多さ」によって支えられている点が特徴的だ。
多少の「ダレ場」があった方が、観客は一息つけるものだが、それは着替えの幕間で充分と判断したのか、今回は爆笑ギャグのつるべ打ち。
遺体を見ながら、男が新婚夫婦に向かって「こいつもこんなにニコニコお前たちを祝福して」とTPOがどんどんわやくちゃになっていくのには抱腹絶倒だが、ここには「とっさの時ほど人は頓珍漢なことをする」という演出家森田雄三の意地悪な人間観察眼がある。
休憩中のОL。バドミントンのラケットを持っているが、特に遊ぶ気配もなく、ウワサ話に興じる。
「目の前に見えるものについて語る」のは、森田雄三演出の特徴。OLから“少し離れて声が届かない距離”にいる同僚たちは、井戸端会議の格好のネタとなる。
この“距離“を利用したスケッチは数多いが、そのいずれもが傑作となるのは、我々もまた、“最も想像を働かせられる他人との距離”を有しているからに他ならない。今ここにいない人間の噂話や陰口は「罪悪感」を産むが、人間の心理とは不思議なもので、“もしかしたら本人に聞こえしまうかもしれない微妙な距離”にいる相手の話題は、その罪悪感が薄れる傾向にある。Twitterで、本人に見られるかも知れない悪口を気軽に書けてしまう人が多いのも、この心理の表れである。
あまりにも自然な演技なので、明確に語られることが少ないが、この「近くにいる人の噂話」シリーズは、余人にはそうそう真似のできない、イッセー尾形をイッセー尾形たらしめている最大の「武器」であり、最も先鋭化された「演劇」の表現形式の一つなのだ。
博多から東京の大手町にやってきたサラリーマン。
道に迷った同僚を待っているが、その間ずっと東京の悪口など。「東京モンは二枚舌たい」のギャグは、こちらでは大受けだったが、東京では「シーン」だったそうだ(笑)。
福岡出身ではあるが、イッセー尾形は博多弁は不得意だ。しかし「とっとーと」などのカリカチュアされた「わざとらしい博多弁」を駆使し、東京に対抗する無意識があえて行わせているものとして表現することによって、その違和感を払拭している。
同僚は小倉出身という設定で、道に迷っているのを「小倉の田舎もんが」と罵倒して、それが小倉で大受けしているのだから、自虐ギャグを楽しむ素養は、博多人、小倉人の方が東京人より持っているのではないのかと思わされた。
ポーカーをしている中年の女、負けが込んではいるが、相手たちへの口調は馴れ馴れしく横柄。実はあとで正体は保険屋であることが分かる。既に契約はすましているらしく、カモられていた相手を本当はカモっていたという意外な展開、しかも「次の犠牲者」も女は虎視眈々と狙っていた。
女の「武器」は「誘導尋問」である。しかもこれが高度なのは、女は決しておべんちゃら、追従などは言わないところだ。世辞には引っかからないぞと構える相手に、それと気付かせず、ポーカーに「負けてやっている」のである。
イッセー尾形は熱心な読書家であるが、ミステリーも数多く読んでいるのであろう。最初から犯人が割れていて、探偵が追い詰めていく過程を描く形式を「倒叙型」と呼ぶが、相手を契約に誘導するやり口は、倒叙ミステリーの探偵たち、『罪と罰』のポルフィーリィ判事や、刑事コロンボと同質のものである。
ミステリファンにとっても、イッセー尾形は胸を躍らせられる存在なのだ。
部長宅を訪問したサラリーマン、一転して「お世辞ばかり」のヘコヘコサラリーマンを演じるそのギャップが楽しい。もちろん落語の『牛ほめ』『子ほめ』同様、誉めなくてもいいものまで誉めるから、どんどん苦しくなる。「廊下がこんなに真っ直ぐで」って、家が広いと言いたいんだろうが、ちょっと表現を間違えると、何を誉めているのかわけが分からなくなる。
そのおかしさを弥増しているのが、妙に冷静な部下の山田。男が何か失敗する度に何やら突っ込んでいるらしいが、男が激怒するとすぐに部長に窘められる。ちょうどこの立ち位置は、映画「社長」シリーズの森繁久彌社長と、三木のり平、小林桂樹3人の関係に比定できる。
部長は見え透いたお追従を連発する男に嫌気がさしてきたらしく、だんだん無理難題を男に押しつけて、手品をやるから宙に浮け、なんて命令するのだが、真に受けた男が懸命に浮こうとするのがおかしい。完全に森繁・のり平の関係の再現である。
「社長」シリーズのようなサラリーマン喜劇はとんと作られなくなってしまって、舞台でも三宅裕司が「伊東四朗一座」で軽演劇の復活を試みているが、イッセー尾形はずっと一人で、伝統を継承していたのである。
かなりボケが進行しているらしい爺さんが、夏休みで田舎に来ている孫たちに、薪割りなどを見せてやる。でもどちらかというと、孫が爺さんを思いやって、つきあってあげている感じの方が強い。別れの時間が来て、もう一度薪割りが見たいとせがむ孫。車が見えなくなるまではと薪割りを続ける爺さん。おかしいが、なぜか胸にジンときて涙がホロリと流れる一幕である。
「ミミズ踏んだら霧に巻かれっぞ」という「迷信」に爺さん自身が捕えられていくラストはシュールですらある。
ウクレレを持った歌手、なんと今年で100歳。豪華客船のディナーショーに呼ばれてステージに立っている模様だが、声もガラガラで、とても歌がこなせそうにない。
ところが、歌い始めた途端に、その声は観客を感嘆させる美声に変わる。歌詞もかなりいい加減で「アロエ、アロハオエ~♪」なんて調子だ。
イッセー尾形の公演の掉尾を飾るのは、必ず歌ネタだが、歌手は毎回、シャンソン歌手だったりクラシック歌手だったり吟遊詩人だったり千変万化。なのに歌い方は「今日はいつもと違って」と「イッセー尾形の歌」になる。
この歌が聴けるだけでも、毎回の公演に足繁く通う価値があるのだ。
最後の博多公演は都合で観られないので、誰かレポートをアップしてくれないものかと思うのだが、期待するだけ無理だろうな。
福岡の演劇ファンは、日ごろ、何を観ているのかと、嫌言の一つも言いたくなるというものである。
ハンドダウンキッチン
パルコ・プロデュース
福岡市民会館(福岡県)
2012/06/05 (火) ~ 2012/06/05 (火)公演終了
満足度★★★
我々は夢と同じものでできている
あるレストランの厨房を舞台にしているが、これはいわゆる「バックステージもの」の変形である。
華やかな舞台、スターやアイドルが煌めき、絢爛たるロマンやサスペンスが繰り広げられるその裏で、スタッフたちの地味な姿、現実の愛憎が描かれる様は、演劇が生み出す虚実皮膜の境を冷徹に表出する。「バックステージもの」が表現しようとするものは言わば「演劇とは何か」という本質論である。なぜ我々は、演劇という「虚構」を生み出さなければならなかったのか、という問題提起だとも言える。
もちろん、舞台上で展開されるストーリーは純粋なエンタテインメントであるが、この舞台の面白さを支えている本質が「我々は自らの作り出した虚構の中にしか生きられない」という認識論に基づいていることを指摘しておきたいのだ。
レストランのホールという表の世界は、実は裏のスタッフたちが創り出したウソの世界である。しかし物語はそれだけに留まらない。彼らが裏の世界で語る言葉もまた、その裏にまた別の「真実」を孕んでいる。即ちこれは、表と裏の二重構造の物語ではなく、表と裏とそのまた裏の、ウソを吐く人間の本質もまたウソに塗れているという、三重構造のドラマになっているのだ。
我々が虚構を求めるのは、あるいは虚構に救われようとするのは、真実があまりにも我々の「夢」を裏切っているという、現実の不条理に根ざしている。現実を認識することくらい、辛いことはないのだ。これは「人はなぜ騙されるのか」という心の問題とも密接に関わっているが、我々は悲惨な現実に打ちひしがれて、それでもなお生きていこうとするなら、虚構にすがらざるを得なくなるということなのだ。一見、現実のように見えるそれが、実は見え透いたウソだと見当が付いても、それを認めるのが辛い時、人は自己暗示を掛けてウソをホントウだと信じようとしてしまう。
我々の虚構への射幸性を「夢だっていいじゃない」という言葉で表すことがある。しかし作・演出の蓬莱竜太は、そんな「甘え」を許さない。演出としては極めてリアルで、幻想的なシーンが数カ所挟まれるくらいである。数日間の出来事を描いているので、場面転換も少ない。外連味には乏しいが、演劇の基本に忠実な極めて実直な演出だと言える。
だからこそ、ホールの「真実」が次々に暴かれていく展開には容赦がない。そこで観客もまた、冷徹な現実を突きつけられるのである。「あなたもまた、誰かの夢の中にいる虚構の存在ではないのか」と。夢から醒めた方がいいのか、醒めない方がいいのか。登場人物たちの行く末に答えがないように、我々にも具体的な答えは与えられない。虚構と現実のせめぎ合いの物語は、こうして我々に投げ渡されたのであった。
ネタバレBOX
蓬莱竜太の舞台は、所属する劇団モダンスイマーズのものは多分、観たことがない。記憶に残っているのは『世界の中心で、愛をさけぶ』や『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』など、映画も『ピアノの森』『ガチ☆ボーイ』と全て原作付きのものであった。脚色、演出だけでも、その作家の資質を図ることは不可能ではないが、恐らくは本人の意向ではなく「依頼」によって行った仕事で、しかもこうも「人情もの」ばかりでは、そういう方面の仕事しかしない人なのかと錯覚してしまいそうになる。完全オリジナルの本作で、蓬莱竜太が現代というキャンバスに何を描こうとしているのか、それが見えるのではないかという興味が一つ。
また、前川知大の舞台に連続して主演し、成長著しい仲村トオルへの関心、大病の後復帰した江守徹への応援の気持ちなど、それらが鑑賞の動機になった。
実際に鑑賞したあと、一番に感じたことは、作者が演劇に対して、そして現代社会に対していかに真摯に向き合っているかということであった。当たり前のことではあるのだが。
蓬莱竜太は、このドラマの発想をテレビショッピングのスタッフたちの会話から思い付いたという。商品を売るための口八丁、手練手管、どうでもいいものを高く売るそのやり口は、一歩間違えればそれは「詐欺」にもなりかねない。しかし、それはどの業界についても言えることなのではないかと。そう考えると世の中はどれだけのウソに溢れているのか、想像も付かないほどだと。そして作者の想像は更に発展する。なぜ人はこれほどまでに虚構を求めるのだろうかと。
舞台となるレストラン「山猫」にはモデルがある。
恐らくその一つは昨年(2011年)までスペイン・カタルーニャの片田舎にあった三つ星レストラン「エル・ブリ(エル・ブジ)」である。映画『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』でも紹介された実在のこのレストランは、フェラン・アザリアというカリスマ料理長の名前とともに有名になったこと、全ての料理が創作料理で、一度出したメニューは二度と出さないこと、その料理はデザインが奇抜で、ものによっては「料理に見えない」ほどであること、予約で客が入りきれないほどの人気絶頂(年間200万人!)のさなかに突然閉店したこと(舞台の方は閉店するかも、で終わるが)など、共通項が多い。
もう一つのモデルは、劇中でも触れられていた通り、宮澤賢治『注文の多い料理店』に登場する「山猫軒」である。料理する側が客に「注文」を付け、最後にはその客を食ってしまう化け猫の罠。劇中の「山猫」も、客を騙してとんでもない料理を食わせるところは“人を食っている”。
その通り、レストラン「山猫」は客を詐欺に掛けているのである。カリスマシェフと言われている七島誠(仲村トオル)は、学生の頃交通事故にあって右手が使えなくなり、料理人の道を諦めた。従って、彼が父・勇次郎(江守徹)の跡を継いで「山猫」のオーナーシェフになってやったのは、路上画家の海江田恵介(宮崎敏行)に前衛画のような料理の絵を描かせ、その絵に合わせた料理をでっち上げることだった。味付けなどデタラメだが、「ここでしか食べられない料理」が売りになって、「山猫」は店舗を広げるほどに繁盛することになった。
そこにやってきたのが、東京のレストランから都落ちしてきた関谷直也(柄本佑)である。修行のつもりが、誠の姉・梢(YOU)から「あなたがこの店のオーナーシェフになって」と依頼され、困惑するが、やがて店の秘密に気付くことになる。憤慨する直也だが、誠から「ここの客は美味い料理なんか望んでない。客はここでしか食べられない料理を食べ、この店で食べられたことに満足する。それのどこが悪い」。直也は反論できない。
「人は虚構の中でしか生きられない」という事実が、この台詞に凝縮されている。人がベストセラーを読みヒット映画に群がるのは、本や映画が面白そうだからではない。それがベストセラーでありヒットしているからである。有名大学を目指し、大企業に勤めたがるのは、学を修めるためでも社会貢献のためでもない。その大学や企業が有名だからである。一度、その「流れ」が出来てしまえば後はスタンピード現象を起こすだけだ。
誠は、直也に、床に落ちた野菜までもそのまま材料にして客に出させる。「隠し味が利いてたよ。美味そうに食ってたぞ」と誠は嘲笑し、直也の反発を抑える。悪辣だが、観客はなかなか誠に反感が抱けない。物語が進むにつれて、誠の主張に真実を見出さずにはいられなくなるからだ。仲村トオルが実に楽しげに誠を演じていることも、理は誠の方にあると観客に感じさせる要因になっている。
しかし、現実をウソで塗り固めようとする誠の行為は、「山猫」の取材にやってきたライターの前橋真紀(佐藤めぐみ)が、店の秘密を知ってしまったために瓦解し始める。諍いの中で、海江田はショックのためか、絵が描けなくなる。海江田の絵がなければ料理を作ることは出来ない。父・勇二郎は優しく「店をやめたっていいんだぞ」と言うのだが……。
誠は梢に指弾される。「あなたは寂しかっただけだ」と。そういう梢も、誠の暴走を止められなかったのは、誠の右腕の故障の原因を作った車の事故、誠を乗せた車を運転しいたのが、他ならぬ梢だったからだった。
「もう一度、初めから話しましょう」。梢の誠への問いかけで物語は終わる。印象的なのは、このラストシーンが、このリアルな舞台でほぼ唯一、幻想的な味わいを持っていることだ。見つめ合う二人を、直也を初めとして、その場にはいないはずのコックたちがいつのまにか現れて、彼らを見守る。さながら幽霊のように沈黙したまま。
最後に明かされた「真実」もまた、幻想の中の一シーンとなるこの幕切れが意味するものは何だろうか。果たして「山猫」は存続して行けるのか否か。解釈は多様だろうが、描かれざるこれからの物語がもしあるとすれば、それはやはり「虚構」と「現実」のせめぎ合う物語になるだろうということだ。我々は結局は虚構の上に更に虚構を重ねていくしかないという、「自分探し」とは全く無縁の「真実」を受け入れざるを得なくなるのである。
百年の秘密
ナイロン100℃
J:COM北九州芸術劇場 大ホール(福岡県)
2012/06/02 (土) ~ 2012/06/03 (日)公演終了
満足度★★★★
世界樹の木の下で
木と話をする家族の物語である。
伝説、寓話の時代から、ドラマの中心に「無生物」が配置される物語は決して少なくない。たいていの場合、それは物語のテーマを象徴している。『白雪姫』の「鏡」は人間の欲望そのものの象徴ではなかったか。そして「木」とは、「生命」の象徴であり、全てを内包した「世界」そのものでもある。北欧神話では世界の中心には宇宙樹があり、聖書においてエデンにあったのは知恵と生命の二つの樹木であった。
ベイカー家の人々は、等しく、庭園の中心にある楡の木に執着する。その理由は、劇中、明確には語られない。語られないからこそ、それが不動の存在であり、「世界の中心」であることが明示されているとも言える。ベイカー家の興亡を「百年」見続けていたのもこの木だし、その「秘密」を抱き続けてきたのもこの木だった。しかし木は決してベイカー家の守護者であったわけではない。人間たちの生の営みも見てきたのと同時に、木はその死も、看過し続けてきた。過去も、現在も、未来も知り尽くしていながら、木は、人間たちに関与しようともせず、神のごとく沈黙し続けている。
我々観客はまさしく「木」と同じ視点で、ベイカー家の人々の動向を見せられて行く。早い段階で、彼らの「結末」は観客に提示され、時間が過去と現在を行ったり来たりするうちに、我々はそもそもの「秘密」の始まる「発端」へと誘導されていく。そして我々は気付かされるのである。
我々こそが「神」であることに。人類はなぜ「神」という概念を創造したのか。それは我々がまさしく「神」と同一の存在であったからなのだ。我々は、あの震災に対しても、今なお続く国家間の戦争や、人間の経験してきた全ての悲劇に対して、ひたすら「神」であり続けてきたのだ。
即ち「神」とは、世界の運命に対して、あの木のごとく「傍観者」であることしか出来ない我々の「無力」を象徴している存在なのである。ベイカー家の「悲劇」に責任を負っているのは、実は「我々」なのである。
ネタバレBOX
ケラリーノ・サンドロビッチは、この戯曲を執筆するに当たって、影響を受けた作品として『背信』(ハロルド・ピンター)、『セールスマンの死』(アーサー・ミラー)、『夜への長い航路』(ユージーン・オニール)、『わが町』(ソーントン・ワイルダー)を挙げている。
ことに『わが町』との類似性を指摘する識者は多かろうと思われる。ある街の、数世代にわたる長い歴史を、主に二つの家族の物語に象徴させる手法は、演劇においてはワイルダーが最も鋭角的な構成で表現していた。それをケラ氏はそっくり踏襲している。
「街」を象徴するものはいろいろある。城下町ならそれは城であるし、学校だったり教会だったり鐘楼だったり塔だったり灯台だったり。「木」もまたその一つであるが、前者との決定的な違いは、「木」が「自然物」であり、人間の埒外にある存在である点だ。ケラ氏が、人の営みと歴史を描きつつも、そこにこのような「天」の視点を織り込んできたことには、物語を「人間だけのものにしてはならない」と判断した強い意志があるように思われる。
それはやはりあの震災を経て、ケラ氏が「人の力ではどうにもできない自然の力」を痛感したせいなのだろうか。
あの「楡の木」が無かったなら、ティルダ(犬山イヌコ)とコナ(峯村リエ)の二人の少女は、カレル(萩原聖人)の手紙をその根元に隠そうとは思わなかっただろう。木がなくても何らかの形で秘匿しただろうという解釈は、その可能性はあっても、この戯曲の訴える「真実」とは無関係である。
これは一種のプロファイリングであり、我々が何らかの行動を起こすのには、自分の意志のみならず、その行動を誘導する環境条件が揃っている時にのみ起きるという「真実」を示唆した物語なのである。
そこに「木」があったから、悲劇は起きた。人が「神」を創造したから、その神によって「人」は作られた。人の思いなど、運命という大木の前では木の葉のように吹き飛ばされていく。それでも我々は、「木」から、「神」から逃れることは出来ない。なぜならもうそこに「木」はそんざいしてしまったから。
この舞台はそういう物語なのだ。
運命は絡み合うと言うが、この物語の登場人物たちは、それぞれに数奇な運命を辿りながらも、何かの偶然が更なる偶然を呼んで、突拍子もない結末を迎えるというような展開にはならない。
全ての結末への予兆は、二人の少女が手紙を隠した瞬間から始められ、予め貼られた伏線は一切の破綻を起こさないままきちんと回収されて物語は収束される。物語を支配するのは「必然」以外にはないと主張しているかのように。
カレルはアンナ先生への恋に破れ、彼女によく似た面差しのコナと結婚する。もちろんアンナ先生への思いか消えたわげはないから、「悲劇の種」は温存されたままである。
ティルダもまた隣人の弁護士ブラックウッド(山西惇)と結婚し、二人の親友はそれぞれ別の道を歩いていくことになる。しかし、ブラックウッドがコナと“過ち”を起こしたことから、二人の人生は次第に狂いを生じさせていく。
「必然」とは即ち、全ての「秘密」はいつか白日の下に晒されるという「悲劇」のことなのだ。
ティルダの息子フリッツ(近藤フク)とコナの娘のポニー(田島ゆみか)は恋仲になる。もちろん、二人が兄妹である可能性を捨てきれないブラックウッドは、二人の結婚に強硬に反対する。その不自然な態度が、ティルダたちに疑念を抱かせないはずはない。コナから真実を打ち明けられたティルダは、絶望のあまり失踪する。
カレルと、彼と再会したアンナ先生は、少女時代のコナとティルダの裏切りを知り、アンナ先生とともに心中(事故死?)する。
ティルダの兄のエース(大倉孝二)は、バスケット選手としての将来を嘱望されていたが、父・ウィリアム(廣川三憲)が、母・パオラ(松永玲子)を裏切って不倫していることを知ってから次第に荒んでいき、傷害事件を起こし獄中死する。
この兄のエピソードは、「家族の悲劇」を描くために必要だとしても、ややとってつけた印象があって巧くないが、全体的に伏線として張られた「悲劇の種」は、全て好転することなく、お決まりの結末をもたらすのである。さながら「運命の糸」からは逃れられないと我々に向かって主張するように。
彼らを見つめる「木」の影は、場面が転換するごとに舞台に広がり、闇となり、地獄へ誘うかのように人々を飲み込んでいく(この映像処理は、ケラ氏の『わが闇』でも見られたが、あの作品もまたワイルダー『わが町』にインスパイアされた「家族の物語」であった)。
運命は変えられない。ある原因は、それに相当する結末を必然的に用意する。木の陰はその「逃れられない運命」としての象徴だ。
そこで思い至るのは、ケラ氏がこの戯曲の時間軸を錯綜させた理由はなんだったのかということだ。物語のラストは、少女二人が、木の下にカレルの手紙を埋める瞬間で締められる。彼女たちはそれが悲劇の始まりになるとは夢にも思っていない。むしろ、アンナ先生に騙されたカレルを救った気になっている。ティルダは言う。「カレルにかけられた催眠術を解いてあげなくちゃ」と。夢を見ているのは、彼女たちの方なのに。
「真実」を知る「神」である私たち観客は、そこに胸を締め付けられるほどの切なさを覚える。彼女たちは何も知らない。何も知らないから夢を見ていられる。彼女たちは愚かで哀れだが、同時にこうも感じられる。夢を見ていられた12歳のあの頃が、彼女たちが人生で一番美しく輝いていられた、「幸せの瞬間」であり、「黄金の時間」であったのだと。
これは、通常の時系列に沿った物語展開では、あまりにも「悲惨」を強調することにしかならないと判断したケラ氏が、観客に与えてくれた、これも一つのハッピーエンドなのではないだろうか。生から死へと向かう儚い人間の物語の中で、そしてどんな悲劇的な人生であったとしても、人にはほんの少しくらいは、「幸せな時」があったのだ。それがたとえ少女時代の一瞬であろうとも、微笑みに満ちた瞬間というのは確実にあったのだ。それ故に人は生きられるのだと、ケラ氏はそう謂わんとしているのではないだろうか。
「始まりの時」が結末になる物語は、たとえば夢野久作『瓶詰の地獄』があり、桜庭一樹『私の男』がある。そのラストシーンは、実はファーストシーンであり、いずれも「幸せ」に包まれているのである。
キャスティングは、犬山、峯村の両女優が、12歳から78歳まで、さらにはひ孫まで演じて、その実力のほどを見せつけてくれる。その分、他のキャストが「弱く」見えてしまうのが難ではあるが、最近、旧作の仕立て直し公演などでお茶を濁していた感のあったナイロン100℃の舞台の中では、人間の「業」を冷徹に描いて、久方ぶりに見応えのある舞台となった。
かたりたがりのみせたがり
Love FM
西鉄ホール(福岡県)
2012/04/13 (金) ~ 2012/04/14 (土)公演終了
満足度★★★
春爛漫!山田広野の活弁天国
前座としては最悪と言ってよいほどにつまらない(←本気で扱き下ろしてます)、月光亭の落語モドキのせいで、果たしてこれから先の“濃い”1時間半を乗り切れるだろうかと不安に感じたが、三つ揃いにハンチングの、いつもの「活弁」スタイルの山田氏が登場すると、沈滞していた会場の雰囲気もさっと明るくなる。あとはいつもの下品で脱力系のとことん下らない(←こちらは誉め言葉です)、自主短編映画の数々、これに山田氏が、だみ声だけれども明るい作り声で、ナレーションを付ける。
正直なことを言えば、たいして笑えないネタ、作品も結構ある。しかし、山田広野の場合、笑えない、面白くないというのが、決して貶し言葉にはならない。素人が作ったとしか思えない(と言うか監督も素人なら出演している役者も実際に殆ど素人なのだが)チープさ、適当さと言うよりはいい加減さ、これが観客の脳髄をクラクラさせるドラッグ的作用を施すのだ。観ようによっては、山田広野は現代における最も先鋭的なアングラパフォーマーであるかもしれない。
しかし、毎回思うことだが、映画の楽しさを、山田氏のMCが台無しにしてしまっている、とまでは言わないが、いささか足を引っ張っている嫌いがないわけではない。映画はバカだが、山田氏はバカではない。基本的に理知の人なので、映画を作るまでの「解説」が映画の「計算されたバカ」を暴露してしまうのだ。「みせたがり」が本質で「かたりたがり」の方は不得意だということなのかもしれないが、「活弁」を名乗る以上は、多少は合間の語りにももう少し熟達してほしいと思うのである。
ネタバレBOX
前座の月光亭、四人の女性が代わる代わるに、あるいは台詞を重ねて、輪唱するような合唱するような調子で『饅頭こわい』を演じるが、初心者の落語家が陥りやすい落とし穴に、しっかりハマってしまっている。
落語は「芸」であって「演技」ではないということが理解できていない。どの演者もテンポはいいが、それは役者が勝手に思いこんでいるテンポであって、「観客のためのテンポ」ではない。観客との間に「阿吽の呼吸」を作らないまま演じているので、客からは彼女たちが自分たちを置いてきぼりにして、「ひとり」で喋っているようにしか聞こえない。落語の前座で、下手な人、座布団を引かれて中ほどまでで引っ込んじゃった人を寄席で何人も観てきたが、これは開始後3分で引っ込まなきゃならないくらい、最低の前座である。一応、噺は定番の「お茶が怖い(=お茶がほしい)」で終わるが、そのあとに「お客さんの拍手が怖い(=拍手を頂戴)」と付け加えるとは下手くその癖に、思い上がるのも甚だしい。それが客をバカにした態度だと謂うことに気付かんのか。
客席でも全く笑いが起きなかったが、本人たちは「巧く演じているつもり」らしいのが失笑ものである。余計なお世話ではあるが、このように落語を根本的に勘違いしているようでは、到底、これから先の芽はないから、さっさと亭号は捨てて本名に戻り、普通に俳優をやってた方がまだマシなんじゃなかろうか。
今見たものはなかったことにして(そうアタマを切り換えなければその場にいられない)「本編」の山田広野の登場を待つ。
今回の会場、例年のイスを並べただけの観客席ではなく、テーブルが設えられていて、後方には簡易バーがあり、枝豆やお菓子などの軽食、ジュースやカクテルなどの飲食が可能になっている。嬉しい試みだが、映画を観ている最中に枝豆をぽりぽり食うわけにもいかないので、合間に慌てて口の中に頬張る羽目になる。別に必要なサービスでもないのではないかな。
記憶だけで書いているので、抜けるネタもあると思うが、最初の映画は、山田氏の人気シリーズ、『実験人形ダミー・オズマー』の新作。もちろん元ネタは小池一夫・叶精作の漫画『実験人形ダミー・オスカー』なのだが、もうお客さんを常連と踏んでいるのか、山田氏、一切の解説をしない。
嫉妬深くて優柔不断な彼とソックリの別人に、うっかり付いていってしまったヒロイン。しかしその別人さんはヒロインの初恋の相手だった。自分の彼女が、自分によく似た男と仲良さそうに喫茶店に入るのを見て、怒りに狂った彼氏は、そっくりさんをぶん殴る。しかしそれはダミー・オズマーが二人の仲を結ぶために用意したダッチワイ……もとい、実験人形だった! という落ち。
今どきのダッ○○○○は、人と見間違うほど精巧なものも多いが、ダミー・オズマーが使っているのは風船式の旧型。それがなぜかリアルな人間に、しかも老若男女なんにでもなれるのがいい加減。オズマー役のホリケンさんは、他の映画にも一応出演している役者さんらしいのだが、濃い顔なのに殆ど見かけたことがない。山田氏の話によると「背中だけ写っていた」パターンが多いそうだ。
山田氏が上海だったかどこかで貰ってきた漢方薬のチラシ。頭痛や胃痛など、様々な病気に効くことが、イラスト入りで説明されている。その絵を適当に組み合わせて、勝手にドラマをでっち上げる。結果、二人のOLの間で不倫に悩むハゲ(カツラ)の上司が、結局二人ともに振られてしまうが、それは二人がレズだったから、というむちゃくちゃなストーリーに。
全てのイラストを使わなければいけないから、上司がハゲでくしゃみをしたらカツラが飛ぶという、無理やりな展開をするところが面白い。
これもシリーズ、人呼んで「版権無視シリーズ」。
昔々、「少年チ○○○○○」に掲載されていた、あのドギツイ絵柄の、昔は二人で一人の名前だったマンガ家さんのオカルトマンガが下敷き。つか、そのイラストをまんま使っているから、著作権侵害は承知の上。ダミー・オズマーみたいにパロディにすればいいものを、わざと訴えるなら訴えてみろな挑発的なことをやらかすのが山田氏の悪趣味なところ(←だからこれも誉めてるんですってば)。
主人公のマ太郎くんは、その恨みがましいご面相のせいで女の子に全くモテない。ところがなぜか今回は、両手に花で、美女を二人もはべらせている。けれども二人の女から口を吐いて出た言葉は、「臓器売らない?」逃げるマ太郎を助けた第三の女、しかしこの女も「もう日本にはいられないでしょ、波止場で船が待ってるから!」。
女たちに騙されたと知ったマ太郎くん、得意の「恨み念法」で、金の亡者の女たちを、みんなお札に換えてしまったのでした。
毎回、「女がらみ」なのが、原典の中学生からオトナになったマ太郎くんのルサンチマンの強さ、業の深さを感じさせて、笑えるけれども切なくなります。
今回、白眉だったのは、友人に頼まれて作ったという、結婚披露宴での「二人の出逢いビデオ」。
普通は、二人のアルバムなどを元にして作るものだろうが、山田氏は完全再現ドラマとして、役者を使ってドラマを作る。けれどもその内容が全てでっち上げ。「二人は店のマスターと客だった」ということだけ聞いて、あとはお嫁さんを勝手に「男の尻フェチ女」にし、恋のライバルに別の尻フェチ女と尻フェチ男(笑)を配して、3人バトルを繰り広げる。最終勝利は、お婿さんの犬が決めたといういい加減な落ち。
実際に、披露宴で流したところ、尻フェチ女にされたお嫁さんのご家族はかなり立腹されたそうだが、瓢箪から駒、あとで山田氏が聞いたところによると、このお嫁さん、本当に尻フェチだったそうだ。関係者がこの映画を見た時の反応を想像しながら見ると楽しい一本。
ほかにも、居酒屋の臨時店員になった女たちが借金取りを始末していく話とか、少女雑誌のモデルになったヒロインがポルノを撮らされてしまう話とかもあったが、長い(と言っても10分程度)作品になると、脱力し続けるのにも疲れてしまう(苦笑)。
殆どの作品がワン・アイデア、くだらない一発ギャグみたいなものだから、それを面白く見せるためには、あまり長く撮らない方がよかろうと思う。
山田映画はアイデアとそのチープさがうまくハマると面白い。しかし単にチープなだけに終わる作品も少なくない。先述した通り、MCが説明的すぎると作品自体がつまらなく見えてくるし(妙に自作を卑下して語るのである)、MCの時くらい、だみ声の作り声でなく、普通に喋ればいいのにとも思う。今回は、後方のバーのところに何度も「飲みに行きたいがガマンする。みなさんは飲んでていいんですよ」と繰り返していたのが客席の空気を読めておらず、鬱陶しかった。
自主映画と言えば、知る人ぞ知る存在であろうが、『聖ジェルノン』シリーズや『浅瀬でランデブー』などの驚異的な“天然”作品で、観客を茫然とさせ続けている伊勢田勝行監督がいる。
完全なド素人で、ドラマ作りも画面作りも糞もない駄作しか作れないのに、なぜか観客の爆笑を呼んでいるあの破天荒さと情熱、まだまだ理に勝ちすぎている山田氏に必要なものはあの伊勢田監督の天然さなのではないのかとも思う。
もっと天然になって、それで客が来るかどうかは分からないが(苦笑)。
シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ
音楽座ミュージカル
ももちパレス(福岡県)
2012/04/09 (月) ~ 2012/04/15 (日)公演終了
満足度★★
SF? いや、トンデモSFだ!
原作に忠実だとしても、脚本は乱雑だと言う他はない。
せっかくの設定が、後半で台無しにされる、伏線がうまく利かない、その繰り返し。基本、SFなのだが、ストーリーの大半は、これ別にSFにしなきゃならないお話じゃないよなあ、と首を傾げるものばかり。
ところがそれでつまらないかと言うと、そうでもない。予測が付かない展開に笑いを堪えながら食い入るように観て、要所要所ではホロリとさせられる場面もあったのだから、演劇というのは単純に出来不出来だけでモノが言えるものではないとつくづく思う。ただ、作り手の意図と、受け手の面白がり方にかなり乖離が生じているのも事実だろう。演出効果とは何なのかをもう少し考えてほしい舞台だった。
ミュージカルとしては、音楽が曲想の似通ったものばかりで一本調子、メリハリに欠ける面が多々ある。ダンスは公演を重ねているだけあって、観られはするが、ブロードウェイミュージカルほどの粋には到達していない。その点でもお勧めはしかねるはずなのだが、自己陶酔型の独り善がりなものになってはいないので、不快感はない。
役者では、やはり不幸な境遇から立ち直っていくヒロインの佳代を演じた髙野菜々が、関西弁を駆使し、時にはぶっきらぼうに、時には愛らしく、その魅力を一番に発揮していた。
美術セットの工夫も含めて、見所は満載なのである。だからこれで脚本がもっとマトモだったらねえ(苦笑)。
ネタバレBOX
冒頭、UFO(宇宙船)の事故がナレーションで語られる。
後にこれがラス星人の地球探査船であることが判明するのだが、これが物語にどう関連していくのか、最初の伏線の張り方としては悪くはない。
物語は、最初の緊迫した展開がなかったかのように、音楽家を夢見る普通の青年・三浦悠介(小林啓也)の遊園地での初デートの様子を描く。スリの折口佳代(髙野菜々)が悠介のサイフをスったことがきっかけで、彼のデートはおじゃんになるが、悠介には何となく佳代のことが、佳代は悠介のことが気に掛かる存在になる。
この時の遊園地の「迷路」のセットが素晴らしい。人力で方柱が自由自在に動く仕掛けだが、それが組み合わさって時には道になり壁になり、悠介と佳代の行く手を閉ざし、姿を隠し、二人の心が彷徨う様子を象徴的に表現している。これはクライマックスでも効果的に繰り返された。
二人は、悠介のバイト先、喫茶「ケンタウルス」で再会する。スリを辞めることを心に誓った佳代は、悠介と出会った頃の蓮っ葉な印象が少しずつ薄れて、乱暴な関西弁も段々優しげになっていく。悠介の作曲家への道も開けて、二人の仲も接近、順風満帆か、といったところで、お決まりの「逆境」が訪れるのだが、これがどうも定石を外しまくって、どんどんおかしくなっていくのだ。
実は佳代は、13歳の時に、ヤクザの義父の虐待に遭って、死んでいた。しかし、たまたまその時、宇宙船の事故で死んだラス星人の女性・オリー(野口綾乃)の「生命素」を保管するための「入れ物」として、蘇生させられていたのだ。
いったん、帰星していたラス星人たちは、8年後に再び地球にやってくる。オリーの生命素を取り戻しに。しかしそれは、佳代の死を意味することでもあった(この「8年」は、ラス星が地球から4.3光年離れたアルファ・ケンタウリであることを示唆している)。
こういう事態になれば、物語は当然、限られた佳代の命をどうするか、あるいは悠介がラス星人から佳代をいかにして守るか、そういうドラマが始まるのだろうと誰もが予想するところである。ところが話は全く意外な展開を見ることになる。
ラス星人たちは、二人の間柄を知って同情し、オリーを取り戻すことを待つことにするのだ。「私たちの寿命は君らの百倍長い。君たちが死んだ後、生命素は取り戻すよ」。
逆境が実は逆境でも何でもなく、悠介も佳代も何の努力もせずに助かっちゃったという、これはドラマじゃないよ、アンチ・ドラマだ、いったい何のために「生命素」なんてアイデアを持ち込んだのだ、と思っていたら、今度は、別の逆境が二人を見舞うことになる。
佳代の義父・小野源兵衛(石山輝夫)が現れて、佳代に、スリの過去を悠介にバラされたくなかったら自分の元へ戻ってこいと告げる。佳代の処女を奪ったのも実はこの源兵衛だったというドロドロの人間関係の果てに、佳代は思わず源兵衛を刺殺、なぜかそこに現れたラス星人のゼス(広田勇二)も巻き添えを食らって絶命。何しに出てきたラス星人。優しいけれど全くの役立たずである。
下敷きになってるのは、『レ・ミゼラブル』やオー・ヘンリー『よみがえった改心』なんだが、元ネタの急展開のさせ方が普通じゃない。たいてい、主人公の過去の罪は許されるものだが、佳代はしっかり罪を背負って刑務所行きになってしまうのである。作り手としては、ドラマを盛り上げたいのだろうが、こうも予想の斜め上を行かれると、驚くよりも悲しむよりも、笑ってしまうのを如何ともし難い。しかも、急展開はさらに続くのだ。
獄中結婚をすることにした佳代の元に、突然、悠介の訃報が届く。なんと悠介は飛行機事故で死んでしまったのだ。嘆く佳代。しかし、ここでは都合よく、ラス星人が現れて、悠介を助けていた。
もうね、ツッコミどころが満載なんだけど、そんなにささっと動けるんなら、事故が起きないように宇宙人力でなんとかできなかったのか、これまでの役立たずぶりは何だったのかとか、知り合いだけ助けて他の乗客は見殺しかよとか、文句をつけるだけ詮ない気になってくる。しかもラス星人。ここでまた大チョンボをやらかすのだ。
悠介をうっかりラス星に光速の宇宙船で連れ帰っちゃったために、ウラシマ効果(相対性理論で、光速に近づけば近づくほど宇宙船の中の時間の進み方が遅くなる現象)で、船内では一週間しか経っていないのに、地球上では8年の歳月が流れていたのだ。悠介と佳代との年齢差が8歳、佳代の方が年上になってしまったのだ。
うっかりしたラス星人は、とんでもない提案をする。「じゃあ、今度は佳代をラス星に連れて行くから、そうしたら年齢差は元通りになる」。
確かに計算上はそうなんだが、それでいいのか、本当に? でもこの申し出を悠介は受け入れ、「8年待つ」ことにするのだ!
私も、男と女の機微なんてものには疎いのだが、相手が老けたら自分も老けたいとか、そういう心理になるものなんだろうか。もしそうだとしても、ラス星人から提案されてそれに従うのではなく、悠介が自分から言い出した方が納得できる展開になりそうだけれども。
で、これが落ちではなくて、先がまだあるのだ。
悠介と佳代の二人はめでたく結婚、子供も生まれて平穏な家庭を築く。しかし、その子どもが成長した頃に、二人揃って交通事故で死んでしまう。もうどんな急展開にも驚かないが、息子は、空を見上げて妻に向かって言うのだ。「親父もお袋も、あの空のどこかで生きてるような気がするんだ」。
そして、ラス星では、今まで「保管」されていたオリーとゼスの遺体が甦り、二人の恋人は手に手を取って、やはり星空を見上げると。
いや、オリーの生命素は佳代の中にあって、それが戻ったんだとしても、ゼスの生命素はどこに保管してたの? 悠介の中だとしか考えようがないが、とすると、悠介は本当はあの飛行機事故で死んでたわけ? でも、ゼスが死んだのと悠介が事故に遭った時って、タイムラグが何ヶ月もあるんじゃないの? その間、裁判もあって、佳代は服役してるんだから。
それに、ここで蘇生したのはあくまでオリーとゼスであって、佳代と悠介が生まれ変わったわけじゃないんだが。
タイムラグに多少は眼をつぶるとしても、わざわざゼスの生命素を保管するために悠介を選んだんだから、これはあの飛行機事故を起こしたのはラス星人たちなんじゃないかという疑問すら浮かんでくる。ともかくこの落ちはデタラメすぎるのだ。
数々のトンデモ展開、楽しめはした。ドラマ作りの素人が、天然だからこそ作れる物語なんだろうなあ。
かと言って、「なかなかこんなトンデモ作品はないよ!」とオススメするのも、制作者の意図に反することだろう。制作者は観客を感動させたいのに、それがひっくり返っちゃって爆笑されてしまう点では、これは明らかな失敗作である。
公演を重ねる度に尾鰭羽鰭が付いて、こんなトンデモ作品になってしまったものかとも推測する。盛り上げようと思って、無理やりドラマを作っても、かえっておかしなことになる、特にSFのセンスがない人間がSFのアイデアを中途半端に持ち込むと、大失敗しちゃうよという一つの例として観るのが妥当なところだろう。
イッセー尾形のこれからの生活2012 in 茅野/in 春の博多
森田オフィス/イッセー尾形・ら(株)
イムズホール(福岡県)
2012/03/31 (土) ~ 2012/04/01 (日)公演終了
満足度★★★★
震災から、一年を経た後に
前回の小倉公演から、何となく“違和感”のようなものを覚えていた。
相変わらず、イッセー尾形は面白い。面白いが、どこか「おとなしく」感じてしまうのである。
イッセー尾形の一人芝居で演じられるのは、滑稽でどこか歪つなところはあっても、基本的には「フツーの人々」である。一つのスケッチ(イッセー氏ほかスタッフは「ネタ」と呼ぶ)は、一般的なコントのように、破壊的な終わり方をするのではなく、なだらかにフェードアウトする場合も少なくない。還暦を迎えられて、あまり攻撃的だったり、毒舌的だったりするキャラクターを演じるのを控えるようになったのかとも思ったが、それとも感触が違う。
思い返すに、これまでの公演との違いが生じたのは、イッセーさんが相手をする人々に、穏やかで優しい人が増えてきたからではないのか、という点に思い至った。もちろんこの「相手」というのは、観客の眼には見えない、イッセーさんの「隣」や「向かい」にいる人々のことである。
東日本大震災は、イッセー尾形と森田オフィスの人々にも大きな心の転換を促したのではないかと思う。多くの劇団や劇場が公演を中止していく中で、森田オフィスは殆どの公演を予定通りに敢行していった(実際には劇場側から安全面での不安を指摘されて断念したものもありはしたが)。
作品の中に震災や、あるいはそれを想起させる出来事を盛り込まなくても、イッセー尾形と森田オフィスは、この一年、「演劇ができることは何か」を追求してきた。それが前回、そして今回の福岡公演での、イッセーさんが演じるちょっとだけ世の中からはみ出してしまった人物を取り巻く人々の「優しさ」に繋がったのではないだろうかと推測しているのである。
ネタバレBOX
前回まで、シリーズとして続いていた「天草五郎」は、今回は演じられず。
絵師の天草五郎が、長崎奉行から踏み絵を依頼されたことから始まって、地底国から地獄への道行まで、一大スペクタクルを展開していたSFシリーズだったが、前回、「いつ終わっても再開しても構わないような」と仰っていた通り、いったんの小休止に入ったのかも知れない。
DVDとして一本に纏められたらしいが、4月1日時点のロビー販売では、既に完売していた。人気のスケッチであるから仕方がないのだが、森田オフィスはあまりソフトの再販はしないので、この傑作シリーズを再見することはもう叶わないかも知れない。
スケッチは全部で8本。全てのネタは紹介しきれないので、特に印象に残ったものをいくつか。
作業服にマスクを付けた男が、機械の点検をしている。
工場はかなり広く、相当、騒音がしているらしい。男はほぼ何も喋らず、周囲の仲間、同僚たちと、ジェスチャーで合図をし合っている。けれども時々、マルの合図を出しても相手にうまく伝わらず、思わずマスクを取って大声で叫んでしまう。でもやはり頓珍漢な対応をされたらしく、「もういい」と点検に戻る。
ここまでは、イッセー尾形のマイムの巧さを堪能させてくれる展開だが、話は急に変化を見せる。どうやらこの男、結婚間近らしい。すれ違う仲間たちが、みな一様に男を冷やかしていくようになる。最初はよく聞こえずに、耳を欹てる男であったが、やがて冷やかしばかりだと気付いて、「もういい」。
年寄りの渡し守が、若い民俗学者らしい客を舟に乗せている。
学者は渡し守に向かって、この近くの伝説について問い掛けているらしい。渡し守は「伝説? 無えよ」と冷たくあしらうが、「昔話ならあるけどな」と言って、河童の話を始める。学者は喜び勇んでいるようだが、渡し守の話は「昔、このへんに河童がおった。話はそれだけだ」と、なんとも尻切れトンボ。
そのあとも次から次へと昔話をしてくれるのだが、全て中身がない。拍子抜けして、しょぼくれている学者の(恐らくは若者の)姿が見えてくるようだ。
イッセー尾形の一人芝居の非凡さ、他の一人芝居の追随を許さない孤高さは、この「見えない相手」が、観客の眼に鮮明に見えてくる点にある。
ライブのラストは、ほぼ必ず歌物になるのだが、今回は「パリの酒場でいつもはシャンソンを歌っているのだけれど、今日は日本人観光客の貸し切りなので、全て日本語の歌を歌う」という設定。
どうしてパリに観光に来ているのに、日本人をわざわざ日本人歌手の店に案内するのか、旅行代理店は何を考えているのか、と疑問に思うが、案外「里心」を刺激させることが目的としてあるのかもしれない。
この時も、聴衆たちの笑い、驚愕に当惑、そういった姿が見えてくる。見えるだけではなくて、私たち自身も、その「見えない観客」と融合していく。いつしか私たちは、イッセー尾形の世界に取り込まれて、あたかも今、自分が登場人物の一人となって、本当にパリにいるかのように錯覚させられていくのだ。
「福岡のお客さんを相手にする時には、特に緊張します。何というか、今、自分がこの舞台にちゃんといるんだと、強く意識してなきゃならないような。何を言ってるんだかよく分からないかもしれませんが、本当なんですよ」。
イッセーさんの、公演終了後のコメントである。福岡の一般客たちの演劇鑑賞スキルは極めて高い。そういう客がこぞって観に行くのは、イッセー尾形の一人芝居ような、文句の付けようのない舞台なのであって、地元小劇場の自己陶酔型のつまらない芝居ではないのである。
ピーター・ブルックの魔笛
彩の国さいたま芸術劇場
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2012/03/31 (土) ~ 2012/04/01 (日)公演終了
満足度★★★★
ぱぱぱぱぱぱぱぱ、ぱぱげーの
誤解を招くことを承知の上で、あえて書くなら、ピーター・ブルックには、アマデウス・モーツァルトが全く分かっていない。
しかし、モーツァルトが皆目分からないと知っているのは、他ならぬブルック自身なのである。彼の非凡は、まさしく「無知の知」によって支えられている。
ブルックが『魔笛』の演出に当たって、確信していたのは、「理解不能でも、面白いものは面白いのだ」というこの一点にあって、だからこそ、オリジナルの『魔笛』を自由に解体し、他作品からの引用も行い、再構築することが出来たのだ。
言い換えるなら、オリジナルの持つ「強さ」を信頼しているからこそ、ちょっとやそっとの改作で、モーツァルトの面白さが損なわれるはずがないという「敬意」の表れである。
そのおかげで、今回の『魔笛』は実に軽妙である。軽妙であるがゆえに、かえって観客はそこに何かの「意味」を深読みしたがるものだろうが、そういう客をこそ、ブルックは「退廃観客」と呼んで嫌悪していた。難しく考えることはない。パパゲーノとパパゲーナが「ぱぱぱぱ」と愛の交歓をし合っているのを聞いて、そこに何かコリクツをひねくり出そうとしたところで無駄だろう。われわれはそこで大笑いしておればよいのである。
ネタバレBOX
ブルックにはモーツァルトが分からないと書いたが、もちろん、現代人で、モーツァルトが分かる人間なんているはずがない。
モーツァルトの遺作である『魔笛』について、昔からマコトシヤカに語られ続けている都市伝説として、「モーツァルトは『魔笛』でフリーメイソンの秘密の儀式をバラしたために暗殺された」というものがある。フリーメイソンがカルト的な集団だと認識されるようになったのはモーツァルトの死後なので、もちろんそれはただの伝説に過ぎないが、後世、そのように喧伝されるようになったのは、当時のオペラの殆どが、「実在人物をモデルにしたパロディ」だったことに起因している。
当時の観客たちには、夜の女王が誰であるか、ザラストロが誰なのかは一目瞭然であったろう。だから大いに受けたのだ。モデルにされた当人たちは苦虫をつぶしていたことだろうが。
時が経ち、国も違えば、モーツァルトが仕掛けたそんな最初の「仕掛け」は全く分からなくなる。モーツァルトの意図が正確にはどうであったか、現代人には分からないと書いたのはその意味でだ。
では、その物語は死んでしまうのかというと、そうはならない。その時代のみの特殊性を放棄した後、作品が再生される時には、新たな価値が付与されるのが常だ。よく引用される例としては、風刺文学の『ガリバー旅行記』が、現在ではファンタジーとして受容されていることが挙げられる。
『魔笛』もまた、現在ではファンタジーの一つとして再演され続けているが、オリジナルのままの上演は、オペラとしての性格上、どうしても現代のスピード感覚に付いていけない面は残っている。元ネタの意味が分かるならともかく、オリジナル3時間の舞台は、オペラファンであっても、現代人にはいささかキツい。
ブルックは、結果的に物語を1時間半に短縮した。
フリーメイソンを彷彿とさせる儀式的な部分はまず殆ど省いている。しかし、主要人物までは、いくら元ネタが分からなくなっているからと言って、省いてしまえるものではない。
しかし、ブルックは、脇キャラを除いて、主要人物たちに改変を施す意志はなかった。タミーノはタミーノとして、パミーナはパミーナとして、男と女を入れ変えたりとか、全員を男にするとかあるいは女にするとか、モーツァルトから離れるとか、一般的に「大胆」と言われるような改変は一切行ってはいない。
どんなに「解体」し「再構成」しても、『魔笛』は『魔笛』のままだったのである。
パロディの本質を知っている人間には、その理由がなぜなのか、お分かりだろう。パロディは、たとえオリジナルを知らなくとも、“なぜか面白い”ものなのだ。それは、優れたパロディには、オリジナルに対する徹底的な観察が行われていることが常だからである。当時の「文化」に対する、辛辣な批評が行われているからである。そしてその「批評性」は、それだけで独自の価値を生み出す。優れた批評文が、たとえその対象である作品を知らなくとも、面白く読めるのと同じだ。
また、「古びたパロディ」は、その元ネタが分からないために、逆にシュールな面白さすら生まれてくる場合もある。実はブルックが「眼を付けた」のは。まさしくこの点にあった。
またまた識者の神経を逆なでするようなことをあえて口にするが、『魔笛』のオリジナルを観て聞いて、その筋に納得している人間が本当にいるのだろうか。「分かった気になっている」人間が、意外と少なくないのではないか。
そもそもザラストロと夜の女王が憎しみ会う必要があったのかとか、試練とか儀式とか意味あるのかとか、パパゲーノ、お前は何のためにいるとか、突っ込みだしたらキリがない。
それを何とかリクツを付けて現代人はむりやり解釈しようとするが、本来それはあまり意味のあることではない。物語上の数々の齟齬は、元ネタとなった昔話に、「現実のモデル」を当てはめたために生じたものが殆どだからだ。
先日、いわき総合高校の舞台で、『ファイナルファンタジー』の設定にむりやり実際の原発事故のキャラクターたちを当てはめていたが、まあ、あんな感じだ(あの舞台も、百年経って上演されたら意味不明な喜劇になることだろう)。
ブルックの「再構築」は、そういった「よく分かんないが何か意味がありそうだ」という部分を「拡大」させていった点にある。
即ち、ブルックが目指したものは、徹底的な「ナンセンス」なのだ。だから観客はいったんは混乱させられるが、そのうちに「何だかへんてこだが妙に可笑しい」気分にさせられるのである。
中には「退廃観客」で、「分かんないものを脳内で補完する」手合いもいるだろうが、まあ勝手にしなさい、といったところであろう。
もう物語は出だしから分からない。
蛇に襲われたタミーノを、パパゲーノが「自分が助けた」と嘘をつくのだが、オリジナルでは彼の嘘を見破るのは夜の女王の侍女たちだ。ところが、その蛇と侍女たちを、ブルック版では黒人俳優が一人で演じているのだから、やられて床に倒れた蛇がいきなり立ち上がって、パパゲーノを嘘つき呼ばわりするのだ。
この黒人俳優(もう一人いて、計二人)は、主要キャラクター以外の役を殆ど全て演じることになる。夜の女王とザラストロとの和解も、タミーノとパミーナの試練と恋の成就も、パパゲーノとパパゲーナの邂逅も、全ては黒人たちの「計らい」による。時には黒子的な行動すら取る彼らは、果たして物語を混乱させるためにいるのか収束させるためにいるのか、どちらとも判別がつかない。しかし、先述した通り、オリジナル自体、キャラクターたちの行動原理には不可解なものが多いのだ。
オリジナルでは明確ではなかった物語を転がしていくトリックスターの働きを、この黒人俳優二人が担うことで、混乱は無理やり終焉を迎えることになる(役名も「俳優」だ!)。さながら、シャラントン精神病院患者たちの混乱を収束させたマルキ・ド・サドのように。
今回のブルック演出の最大の特徴が、舞台美術とその活用にあることは論を俟たない。林立する竹のスティックのみ、オペラにありがちな豪奢なセットは全く用いられていないが、これを「シンプル」とだけ言ったのでは説明にならない。このシンプルさは舞台空間を平行横移動にのみ限定する目的でなされたものだ。
舞台はそもそも、奥行きも含めて横の空間にのみ広がりを持っていた。現代の演出家、舞台美術家は、懸命になってそれを縦の方向に変化させようとしてきた。舞台上に山を作り、階段を作り、地下室を作り、窓から外に飛び出し、時には俳優は観客席の上空を飛びさえした。
そんなことまでしなければ、演劇は、観客の想像を喚起することが出来ないのか、というのがブルックの謂いだ(もっともブルックがこれまで「縦の演出」を全く試みたことがなかったわけではない)。
竹は全て、「天」を指している。時にはそれは黒人俳優たちによって横向きにされたりなぎ倒されたりするが、基本的には縦の向きのまま、森や門や壁を表現する。そしてそれは全て「横移動」によって行われる。その間をキャストが行ったり来たりするだけで、「演劇」は成立するのだ。
そうして出来上がったのは、小味の効いた、ナンセンスな「軽演劇」である。そしてそれは、オリジナルの『魔笛』が持っていた楽しさを、再現したものになっているはずである。
どうしても、この舞台を「小難しく」解釈したい人に。
たまに日本語の台詞で、パパゲーノのが「オカアサン!」と叫んだり、舞台から降りて、お客さんをナンパしようとしていたが、ああいうベタなギャグって、「大衆演劇」の定番でしょ?
今回のブルック演出は、日本で言えば「浅草軽演劇」である。森繁久彌なのである。全編、その精神で貫かれてるところが楽しさの所以なのである。
ある女
ハイバイ
西鉄ホール(福岡県)
2012/03/24 (土) ~ 2012/03/25 (日)公演終了
満足度★★★★
それ行け、不倫、不倫、不倫
戯曲を単独の文芸作品として読む場合と、戯曲はあくまで実際の舞台の叩き台として、実際の舞台を観て評価する場合と、それは自ずと変わってくる。
しかし、小劇場のオリジナル公演に関しては、その判別が明確でないことが少なくない。キャストが当て書きで、「その劇団でしか成立しない」と思われる(他劇団での再演が難しい)状況が多々あるからだ。
だから、先に戯曲を読んで、それから舞台を観ても、ああ、この役はやっぱりこの人が演じてたのね、と、たいてい予想は当たるものなのだが――。
『ある女』については、その予想は思い切り裏切られた(以下、具体的にはネタバレを参照のこと)。
これは、「戯曲のみ」を鑑賞する場合と、「舞台」を鑑賞する場合とでは、評価が正反対というほどに違ってくる。そしてそこには、近代以降、女性が苦悶してきたジェンダー(社会的性差)の問題が大きく横たわっている。ここでは当然、「舞台」の評価を中心にして語らざるを得ない。
「不倫」という題材を通して、作・演出の岩井秀人は、「なぜ、女性は不幸になりやすいのか」を提示してみせた。恐ろしいのは、その理由が分かっても、女性は、不幸から完全に脱却することは不可能なのである。岩井秀人が描いて見せたのは、「ある女」がまさしく「貴女」であるという、普遍的な真実なのである。
ネタバレBOX
主人公の「ある女」、タカコを演じているのは岩井秀人である(東京公演では菅原永二とのWキャスト)。
前説で、岩井秀人がカツラにスカートを履いて出てきた時から、観客はもう笑わされている。場内での飲食禁止、「食べてもいいんですけど、アメの袋も破る時音がしますから、どうせなら一気にびゃーっと」と、アナウンスをするその口調は、岩井秀人本人の口調で、普通の(でもちょっとキモい)男性のそれだ。
そしてそのままタカコは物語の中に入っていくのだが、口調は特に変わらない。男のままだが、そこではたと気付くことがある。特に女言葉を使ってはいないが、台詞だけを取り上げるなら、それは女が喋っていると想定してもおかしくないということだ。
女言葉が消失して、男言葉により近くなってはいても、その差はまだ完全に失われているわけではない。しかし、岩井秀人は、非常に緻密に言葉を選び、タカコの台詞を「男とも女とも取れる」ように構築している。
さて、となると、この戯曲を実際に舞台化するとなれば、二つの方法を取り得ることは容易に想像が付くだろう。一つはタカコをそのまま女優に演じさせる方法で、もう一つが実際に岩井秀人が舞台化した「自らタカコを演じる」方法だ。
この二者を比較することで、何が見えてくるか。もちろん前者は実際には舞台化されているわけではないから比較のしようがないようにも見えるが、必ずしもそうではない。この物語は「近代的自我を獲得した女性が社会的性差の中で不幸になっていく過程」を描いたものである。これは明治以降の近代文学、演劇、映画の中で再三再四創作されてきた、一つの潮流である。
それこそ、有島武郎の『或る女』の早月葉子以来、彼女たちは男たちの間で翻弄され、身を滅ぼしていった。まるで彼女たちが「自我」を得たことが罪であるかのように。林芙美子『放浪記』や『浮雲』の頃には、女の不幸はまるで運命であるかのように諦観と共に描かれることも珍しくなくなった。もちろん、演劇における森本薫『女の一生』も同様である。彼女たちは概ね、病に倒れ、ある者は客死し、ある者は自殺する。近代女性文学を並べていけば、さながら「日本女性被虐残酷史」が編めそうな案配なのだ。
フェミニズムの観点から言えば、現実における女性の社会的な進出を讃える一方で、文学や演劇は「女性の敗北」を延々と描いてきたと言えるだろう(心情的な勝利を得ている作品も少なくないが、その分析はひとまず置く)。
たとえば、この『ある女』のタカコを、『嫌われ松子の一生』の中谷美紀が演じてみたら、と想定してみたらどうだろうか。あるいは『恋の罪』の神楽坂恵であったらと。
岩井秀人のタカコは、始終笑われっぱなしであった。しかし、中谷美紀や神楽坂恵なら、おそらく笑われることはない。むしろ、その薄幸さに、涙を誘われるであろう。実際に、『松子』や『恋の罪』は、彼女たちの薄幸に同情を寄せる批評が大半を占めた。これまでの「女が不幸になる物語」には、男女ともに、読者や観客は袖を濡らしてきたのだ。題材が不倫で、女が愚かで、自業自得であったとしても、女性は常に「涙を誘う存在」であった。
しかし、女を男が演じるだけで、状況は一変するのである。タカコが男から男へと渡り歩くのも、不倫の末に、デートクラブで売春するようになるのも、まあ自業自得だよな、としか思われない。実際に、観客は「笑っていた」のだから。だが、最後にタカコの「死」が暗示されるに及んで、観客は何となく「居心地の悪さ」を感じることになるのである。
「笑い」、特に「嘲笑」の要素によって成立するそれは、差別意識と不可分であり、笑われる対象が絶対的な「他者」であることが条件である。いや、他者と言うよりも、自分と同レベルの「人間」であってはならないのだ。一段も二段も低い、「人間以下」であるから、人は愚者を笑い飛ばせる。マイノリティを差別できる。
だが、人間に共通して訪れる「死」が暗示されることで、たとえ男が演じていようとも、タカコもまた「人間」であり、「女」であったことを、観客は思い知らされることになる。この異化作用こそが、今回の舞台の最も演劇的な効果であった。
戯曲上のタカコは、実際は男でもなければブスでもない。多少、トウは立ってきているようだが、まだ28歳の、不倫相手の森(小河原康二)から「美しいなあ」と呼ばれる美人である。もっとも森は何にでも「美しいなあ」と口にする男だが、デートクラブのセクリ小林(平原テツ)は最初からタカコに眼を付けるし、森の部下の吉本(坂口辰平)も「やっぱりタカコさん、いいですね」と言う。定食屋の娘・花子(上田遥)は、タカコが父・等々力(猪股俊明)に近づくことを警戒している。まあ、破滅するまで、平田くん(坂口辰平)やら大久保くん(吉田亮)やらと付き合っていたのだから、少なくとも男そっくりのドブスであるはずはないのだ。
そしてタカコは嫌な女である。森の部下の村田(永井若葉)が、実は森を誘って振られたことを知り、森にこう言う。「わたしと村田って、そんなに、なんか違うかねえ?」 見た目が違うに決まっている。自分が美人であると意識していなければ、これは言えない台詞だ。
この「勝利意識」こそが、歴史上、女を不幸にしてきた正体なのだ。見た目の「美」だけではない。知性や、情愛や、キャリアや、女が自立するために必要だとされてきた諸々の要素が、全て、反作用的に女性を貶めろための要素になっていたことを、岩井秀人はみずからタカコを演じることで証明してみせたのだ。
女が女を演じれば、流す「涙」に紛れて観客は気付かないだろう。「同情」はそこで完結し、差別と戦う意識を女から奪う。殆どの「女の不幸」を描く作品は、実は女性のレジスタンスを懐柔するために作られていた。この「男系社会」の中で、男が女に求めるものは「従順」であり、もっとはっきり言えば「隷属」であり、それを受け入れることを女性たち自身に、無意識的に納得させてきたのが、これまでの「女性文学」だったのだ。
舞台上のタカコを観ればよい。
あの醜い女は貴女である。あの愚かな女は貴女である。
たとえ貴女が若くて美しく、知的で男を手玉に取る技術を身につけていたとしても、それは「表面的なこと」にすぎないのだ。最終的な勝利は、常に「男」が手にする。
貴女はまず、自分の美しさも若さも知性も武器にはならないことを自覚しなければならない。まだ男と「戦った」経験がないのなら、戦わなければならない。既に「戦っている」人は、もっと戦わなければならない。
では、何を武器に? そこまでは岩井秀人は語らない。しかしヒントはある。タカコは結局、どこにも居場所がなかった。自分の生きていくための空間を持ち得なかった。それが「男」であると錯覚していた。
女の幸福は、「男のいない場所」にあるのである。
季節のない街
Co.山田うん
J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)
2012/03/24 (土) ~ 2012/03/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
狂おしくも切なく
そもそもダンスの公演を言葉にすることは普通の演劇に比べてもはるかに困難なことだが、山田うんのそのオリジナリティを、到達点の高さを、いかに表現すればよいか、考えるだに、これはもうお手上げと言わざるを得なくなる。
山田うんのダンスは、これまでのどのダンスとも違う。過去の様々なダンスの影響を受けてはいるのだろうが、それをいったん解体し、一つの題材を表現するのに最も適切な振り付けを瞬時に選択し、組み合わせていった、そんな印象を受ける。
緊張と解放が演劇のカタルシスを生むものならば、それが山田うんのダンスの中には凝縮されているし、常に断続的に異化作用が施され続けて一つの流れを作り出している、そんな気もしてくるのである。
と、何とかその本質を掴まえようとしても、言葉は抽象化するばかりだ。「すばらしかった」とありきたりな一言で済ませてしまった方がよっぽどマシな気すらしてくる。
しかし、これだけは明言できる。ダンサーたちが演じていたのは、たとえ言葉は一言も発せずとも、紛れもなく山本周五郎の原作『季節のない街』に登場するあの懐かしい人々なのだと。
ネタバレBOX
映画監督・黒澤明は、生涯に三本の山本周五郎原作による映画を残している(『椿三十郎(原作『日日平安』)』『赤ひげ(原作『赤ひげ診療譚』)』『どですかでん(原作『季節のない街』)』)。
山本周五郎が原作を提供するに当たって、黒澤明に語った言葉が「私の小説は映画にはならない。およしなさい」だった。
周五郎文学は、ヒューマニズムで括られて語られることが多いが、子細に読んでいけば、そんな単純な見方ではすまないことが知れてくる。『季節のない街』の登場人物たちも、電車ばかの六ちゃんは痴呆症だし、京太は実の姪のかつ子を妊娠させてしまうし、乞食の父親は息子を死なせるし、平さんは心を壊したままだ。悲惨なエピソードも決して少なくない。よろずまとめ役のたんばさんの話ですら、「それで終わりにしていいのか」という疑念を読者に残している。
ウィリアム・フォークナーの影響もあると指摘されている周五郎文学は、基本的に“渇いて”いるのだ。そしてそれは周五郎のリアリスティックな筆致によって生み出されているもので、確かに映像化する時に往々にして雲散霧消してしまう。『どですかでん』には“余韻”がなかった。
黒澤明をもってしても、映像化は困難だった原作を、山田うんはいかに舞台化したか。
ダンス・パフォーマンスであるから、もちろん台詞は殆どない。小説の台詞は一行たりとも使用していない。舞台に登場する十数人の演者たちは、よくこのようなポーズを人間が取れるものだと驚くばかりに身をくねらせ、屈伸するかと思えば反り返り、飛び上がったり床をのたうち廻ったり、一人孤独に佇むかと思えば他者とねちっこいほどに絡み合っている。
それはまるで、自らの関節と筋肉を酷使すればするほど、何かから解放されると信じているような、奇妙だが切実なダンスだ。
一人一人の動きを観ていると、そこに自然と「ドラマ」が浮かび上がっていることが感じられる。
恐らくは誰かからいじめられている可哀想な子どもがいる。その子を優しく包んであげている“仲間”がいる。一人の女を取り合っている男たちがいる。女は男達を翻弄して喜んでいるようにも見えるし、逆に戸惑っているようにも見える。「ああ、ああ」と声にならぬ声を上げる“狂人”もいる。ギターを持って、フォークソングを奏でる若者もいる。鍋ややかんをちんちん叩いている連中は乞食だろうか。彼らの衣装はどれも簡素なもので、どんな人物であるかはいかようにも想像が可能だ。
彼らの中には、『季節のない街』に登場する人物らしき人間は誰もいない。「どですかでん」の六ちゃんも、夫婦交換のカップルも、顔面神経痛の島さんも、子だくさんの父ちゃんも、それらしい人物は見かけない。しかしそこは原作通りの「奇妙な街」であり、そこにいるのは「奇妙な人々」である。肇くんとみ光子さんも、倹約家の塩山一家も、きっとどこかにいるのだろう。
この「どこかに」、「あなたに(私に)似た人」がいると感じさせることができていることが「演劇」なのだ。
そして舞台には、踊り狂う彼らを静かに見続けている「普通の人々」もいる。彼らはその街の「通りすがり」で、ただそこをチラ見しながら移動するか、一休みするかだ。しかし彼らが我々観客の“もう一つの目”となることで、観客は街の人々の、無数の喜びと哀しみをより切実に想像することが出来るようになっているのだ。
そして、ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」。
フルオーケストラで演奏されるその曲が、街の人々の「魂」を歌い上げる。この歌を彼らのために歌っているのは「我々」だ。彼らの中に偉そうな上流の人々は誰もいない。どこかの小さな街の片隅で、世の中の動きとも政治とも大事件とも無関係に、歴史の流れから取り残され、細々と暮らしている庶民たちの姿であり、「我々」なのだ。
それは原作がそもそも持っている力であるが、山田うんが、「原作から離れることで」、原作に肉薄することが出来た、稀有の手法によるものである。
アフタートークで、山田さんの演出が、「粘菌」にたとえられていたのが面白かった。粘菌には頭脳がないが、迷路における最短距離をなぜか選択できてしまう(マンガファンは『もやしもん』参照のこと)。
山田うんの頭の中にも、常人には分からない「粘菌ルート」があって、それがこのようなオリジナルのダンスを生み出していくのだろう。彼女の舞台に接することが出来た幸運もまた、観客の直観によるものであるとすれば、我々にも「粘菌ルート」があると思っても構わないだろうか。
走れメロス
福岡市文化芸術振興財団
パピオビールーム・大練習室(福岡県)
2012/03/22 (木) ~ 2012/03/27 (火)公演終了
満足度★
演劇に対して不誠実すぎる舞台
期待値が低ければ、実際の舞台は概ね「そこまで悪くないじゃん」となるものだが、それを大幅に下回るとなっては、これはもう価値観の相違とか視点の違いとか、そういう問題ではない。これを演劇として認める人間には、演劇に携わる資格もなければ語る資格もないのである。Twitterやらブログやらでこの作品を褒めちぎっている感想をいくつも見たが、どれも作り手の関係者による情実に基づいた贔屓の引き倒し(つまりは実質サクラ)で、木も見なければ森も見ていないどうしようもないクズ批評ばかりであった。
いくら書くのは自由だって言っても、一般人には誉めてる連中がみんなサクラだなんて知らない人の方が多いのである。だから「これって詐欺じゃん?」と追求された場合、弁明の余地は生まれまい。せめて文章のアタマに「知人が出てるんで(作ってるんで)星一つアップ」とか、正直に書いてくれないものかね。そうすりゃ読む方は星三つくらい減らして作品評価できるから。
実際、「情実」でも絡んでいるのでなければ、こんな頭でっかちな舞台を誉められるはずがない。原作を脚色した戯曲自体はそこそこの出来だとしても、俳優は二流、演出に至ってはド三流だ。曲がりなりにも演劇にある程度の期間、携わってきたのなら、「これは違う」とか直観ででも感じられてくるものではないかと思うのだが、原作に対しても戯曲に対しても、俳優と演出はろくな読解を施さずにただ舞台に上げてみせただけのようである。観ている方としては、うなだれて「誰か止めようって言わなかったのかよ」と溜息を吐くしかない。
“Fukuoka in Asia 舞台芸術創造発信プロジェクト” 第1弾ということは、第2弾も予定しているということだろうが、そもそも福岡限定で、世界に発信できるほどの演劇の土壌がどれだけできているというのだろうか。種を撒かずに水だけ撒いたって何も生まれないだろうによ。
ネタバレBOX
建築家・野田恒雄による舞台美術は、創造性に富んでいて、確かに目を惹く。
立方体の底に、階段式の山や池を配置し、観客席はそれを四方から見下ろす形で設置されている。底までの高さは3~4メートルはあるだろうか、照らす照明もうすぼんやりとしていて、何だか“あなぐら”の底で蠢く虫たちを覗き込んでいるような印象だ。
これが芥川龍之介『蜘蛛の糸』の舞台だと言われたら、即座に納得しただろう。そこに寝そべっている6人の男達が、地獄に墜ちた罪人たちのように見えるからだ。
しかし、これは太宰治『走れメロス』の物語であるはずだ。実際の運動としての「走る」行為を行うには、あまりにも舞台の拘束性が強すぎる。だがその不自然さにこそ何らかの演出意図があるのではないかと、初めはこの斬新な舞台設定に期待を寄せたのだ。
だから、観客に“まるで闘技場の奴隷たちを見下すような不快感”を与えていることにも、なんらかの演出家の計算があるのかもしれないと、“好意的に”解釈しようとしたのだ。
ところが、そういった「期待」はいとも簡単に裏切られることになる。
劇の内容は、別段、このような舞台装置を必要としなければならないものではなく、通常の舞台でも成立するものであった。
いや、むしろメロスの勇気や友情を礼賛、人と人との「絆」を訴えようとする意図があるのなら、このような観客の視線を下方に誘導する演出は逆効果であろう。
ということは、演出家の意図がどうであれ、この「あなぐら」は、まさしく「他人を見下す」目的で構築されたものとしか判断のしようがなくなってしまうのだ。
いったい、演出家と舞台美術家との間に、どれほどの意志の疎通が出来ていたのだろう。結果的に、このデザインを採用した演出家・山田恵理香は、他人を見下すことに躊躇しない人間であると言わざるを得なくなる。そしてこの舞台を賞賛できる観客もまた、他者を蔑む快感に身を委ねることに何の抵抗感も持たない、唾棄すべき差別者たちだということになってしまう。
もちろん、彼らに「悪気はない」のだろうから、単に愚かなだけなのであろう。最も「好意的」に解釈するとして。
6人の男達のうち、1人は若者である。
「生まれてすみません」と呟き、時折どこかから幻の女の声――それは『人間失格』の大庭葉藏を慈しむ女たちの声のようにも聞こえる――に癒されているような、その彼は、「トシマオウジ」と名乗る。
豊島皇子か年増王子か――その名が太宰治の本名「津島修治」をもじったものであることは容易に気がつく。そして、彼を取り巻く残る5人の男達は「老人」であり、自らを「かつて俳優であった者たち」であると言う。
老人たちはオウジに「物語」を求める。自分たちが演じるに相応しい物語を、オウジから教わり、演じてみせると主張する。
そして、オウジが彼らに与えた物語が『走れメロス』。
「俳優たち」は、メロスの物語を口々に語る。時系列はややでたらめに、時には一度語った物語が繰り返され、語り手も演じ手もめまぐるしく変わり、それでも最後には、メロスが「走りきった」ことが語られ、物語は終わる。
オウジは一方の山に登り、ほっと息を吐いて、老人たちに語りかける。
「楽しかった。今度は誰がメロスを演る?」
“老人ではなくなった“俳優たちは、口々に言う。「メロスはお前じゃないか」「メロスはあなただ」「きみだ」「私だ」……。
オウジは気がつく。自分が「生きたい」と願っていたことを。メロスのようになりたいと思っていたことを。そして、彼は走り出す。生きるために。
物語の大筋はこういった感じだ。
永山智行の戯曲の基本アイデアは、往々にして破滅型の作家としてしか捉えられない太宰治が、『走れメロス』を執筆した理由は何なのか、彼にも「光」を求める時期があり、それが未来指向型の作品となって表れたのが『メロス』なのではないか、という解釈に基づいているのだと思われる。
『メロス』解釈としては定番のものであって、それほど目新しいものではないが、シラクサの町の一青年の物語を、現代日本の観客たちに訴求力をもって観てもらう脚色としては、まあ有効だと言えるだろう。
しかし、舞台への興味は、出鼻でいきなり挫かれる。
AKB48『ヘビーローテーション』が大音響で流されて、6人の男達が踊り狂うのだが、どういう演出意図があったのか、全く意味不明である。
祝祭としてのギリシャ史劇を現代のイベントになぞらえたものか、などと、これまた好意的に解釈してやることもできなくはないが、そもそもAKBも『ヘビーローテーション』も知らない観客の目には(案外多いよ)、「なんかアイドルの女の子たちっぽい歌に乗せて、変な男の人たちが変なダンスを踊ってる」としか映らないだろう。
プロの芝居と比較するのは酷だが、ちょうど同時期に公演された山田うん『季節のない街』で使用されているベートーベンの第九交響曲、あれはたとえその曲名も作曲者も知らなくても、その「曲想」が舞台のイメージとの相乗効果を生む「計算」があって、だから演劇として成立しているのだ。
「何の曲を流すか」あるいは「この舞台に何かの楽曲が必要か」なんて考えることは基本中の基本で、シロウトだってちょっと考えれば「これはこの芝居には合わないな」と見当が付きそうなものだが、そんなアタマなど、この演出家にはないのだろう。
そして、老人たちによって『走れメロス』が演じられることになるのだが、まず、役柄を振り分けるのではなく、太宰治の『走れメロス』をそのまま読む「朗読劇」の手法に拠っていることにまた落胆させられた。
学校の授業でも教科書を朗読させられることは普通だし、リーディング公演なんてものもあるから、朗読は簡単なもののように錯覚している人もいるかもしれないが、朗読劇には、大きく三つの問題点があるのである。
第一は、文学作品は音読を目的として書かれているものではないということ。もちろん言葉にはその言葉の持つ韻律があるから、声に出して読んでも読みやすくはある。しかしその韻律は本来、「黙読」を前提としているものなので、聞く方にしてみれば「まどろっこしい」のだ。
第二の問題点は、朗読劇は、台詞ばかりでなく「地の文」まで読まなくてはならないので、通常の演劇以上に演出家や演者に読解力が要求されることである。『メロス』の語り手は、登場人物たちの心をどう表現しようとしているのか、ただ淡々と描こうとしているのか、何かの思いを込めているのか、そこでも多様な解釈が可能になる。
そして第二の問題と関連した、一番大きな問題点は、その「解釈」をした上でなお、観客に自分たちの解釈を押しつけるのではなく、更なる想像を喚起させる「演出」を行わなければならない、ということである。
この舞台の最大の失敗は、この第三の問題点にある。
永山戯曲は、まず、その「多様な解釈」を可能にするために、原作を解体し、その語り手の演者たちが次々に移り変わっていく方法で成立させようとした。6人の人間が6通りの読み方をすれば、当然、6通りの解釈が生まれるはずである。
最後まで誇りに満ちたメロスやセリヌンティウスが生まれるかもしれないし、もう少し気弱な人物として表現されるかもしれない。実は結構悪辣に聞こえるメロスであっても構わないのだ。それがラストで「メロスはお前だ」「きみだ」「私だ」という“多重の解釈”に繋がってくる。観客もまた「自分はメロスかもしれない」という思いに共感できるようになる。
この「読み手が次々と移り変わっていく」「時系列が前後する」発想は、永山智行オリジナルではなく、前者は朗読劇では普通に行われる手法であるし、後者は最近の演劇界では「流行り」ですらある。目新しくないだけではなく、そうまでして太宰治の本文に拘る必要がどこにあるのだろうかという疑問まで抱いてしまうのだ。
これも、山田うんが山本周五郎の原作を一行たりとも使わずに『季節のない街』を見事に舞台化して見せたのとは好対照であるが、一応、ここまでは『走れメロス』を何とかして舞台化できないかと悪戦苦闘した跡は見受けられるので、嫌悪感までは覚えない。
ダメだったのはやはり「演出」で、山田恵理香は、この俳優たちにワンパターンの老人演技を強いたのだ。まあ身体は役者たちが若いから老人になることは難しかったらしく、早々に放棄していたが、台詞はラスト近くまで、フガフガと、「イメージとしての老人の喋り方」に統一されていた。
役者の個性を殺し、しかも現実の老人の喋り方とも違う、悪い意味での「マンガ演技」で、どうして観客の想像力を喚起できると考えたものか、いや、そんなものは考えもしなかったのだろう。
「次は誰がメロスをやる?」――この戯曲の持つ面白さを、演出が全て台無しにしてしまっているのだ。「演劇の才能とは何か」なんてことはそう簡単に結論が出せることではないのだが、ここまで貧困な読解力しか持たず、「表現」とは逆のベクトルを持つ演出しかできないのであれば、山田恵理香には才能の一片たりともないと断定して構わない。
男6人だけの舞台、という拘りも、私には理解不能であった。
これは男女混合の方が確実に面白くなる戯曲である。若い女のようなメロスがいたっていいし、老婆のメロスがいてもいい。高慢なメロスがいたって、慈愛に満ちたメロスがいたっていいのだ。
それが、観客にとってのメロスが、父であり兄であり弟であり息子であり、母であり姉であり妹であり娘であり、多様な解釈を促し、それが観客の共感を呼んで、舞台空間に「絆」を生むことに繋がるのだから。
だから、この舞台を誉める人は、観る前から演出家なり俳優たちなりとの間に、「絆」を作っちゃってる人たちだけなのだね。そんな感想をいくらダラダラと並べられたって、一般人には無関係で無価値なのだ。
「子どももおばさんも笑ってた」とか書いていた人がいるが、少なくとも私が観た回では、子どもが笑っていたのは俳優たちが服を脱いで裸になっていたあたりだけで、表層的な部分に過ぎない。あまり退屈なシーンが続くと、人はたいして面白くもないシーンでも、ちょっとした引っかかりに笑って、何とか精神のバランスを保とうとするもので、あれはそういった類のものだろう。それに、子どもは大人ほどに馬鹿ではないので、「面白かったか?」と聞かれたら「面白かったよ」と“答えてあげる”ものである。
子どもが笑っただけで「これでいいのだ」と思えるような幼稚で底の浅いメンタリティで、果たして「演技」を構築できるものか、これもちょっと考えれば分かりそうなものなのだが。
一番大笑いした『走れメロス』評は、「『君に会えて ドンドン近づくその距離に MAX ハイテンション』という歌詞に走るメロスが想起される」というものだった。いや、『ヘビーローテーション』ってフツーのラブソングでしょ? この歌詞から、真っ先にメロスを想起できる人間って、百万人に一人もいないと思うが。前田敦子や大島優子や高橋みなみや、ともかく制服を着たジョシコーセーとメロスとが彼の目には重なって見えるのか? それともメロスとセリヌンティウスとの間にBL的な何かを想起したのかな。腐男子かお前は。
もしも山田恵理香が本当にそんな“ギャグとしての”意図で演出をしていたのなら、メロスとセリヌンティウスが抱き合うシーンで『ヘビーローテーション』を流したんじゃないか。その方が観客は大爆笑しただろう。
さらにAKB48のことを「浮薄」なんて書いてるけれども、言葉の意味を知ってるのかな? で、メロスも浮薄だと言いたいのか?
馬鹿が馬鹿を無理に誉めようとするから、こういう支離滅裂な文章を書くハメになる。しかもこいつは「初心者に長い文章はウザイ」とか書いてるが、初心者は別に馬鹿じゃないぞ? それに初心者向けマークがあるからって、CoRichは初心者だけに開かれてるわけじゃあるまい。それともCoRichに登録している人間は自分以外はみんな初心者だとでも言いたいのか?
日ごろから他人を無意識のうちに馬鹿にしているから、長い文章を書くと、ボロを出すんだよな。もちろんこれからもどんどん長い文章を書いて、彼には底抜けの馬鹿をもっともっと晒してほしい。それが福岡のエンゲキ村の惨状が“いつまでも続く”ことを、彼ら自身の発言が証明することになるからである。
柳家喬太郎 独演会
福岡音楽文化協会
イムズホール(福岡県)
2012/03/18 (日) ~ 2012/03/18 (日)公演終了
満足度★★★★
円熟と破格と
落語狂で知られるコラムニストの堀井憲一郎は、『週刊文春』の長期連載「ずんずん調査」(昨年連載終了)の中で、柳家喬太郎を「2010年度 笑わせる落語家」の五位にランキングしている。
「聞かせる落語家」
1、立川談志 2、立川志の輔 3、立川談春 4、柳家さん喬 5、柳亭市馬
「笑わせる落語家」
1、柳家小三治 2、春風亭昇太 3、柳家権太楼 4、春風亭小朝 5、柳家喬太郎
個人のランキングではあるが、年間四百席以上の落語を鑑賞してきている堀井氏の識見は、その落語に関する書籍を読めば至極妥当なものだと納得できる。立川志らくや柳家花緑らを押さえての5位、ご本人は面映ゆく思われているか、俺様ならば当たり前と感じているか、それは分からないが、少なくとも喬太郎師匠が、中堅の落語家の中では、安心して聴ける中の一人だという事実は動かせまい。
口跡がはっきりしている落語家なら他にも何人もいるが、喬太郎師匠の場合、“ほどよい癖”があるのがいい。毒がかなり効いているのである。古典も新作もやるが、新作に古典の味わいがあるのがいい。人間観察が優れているが故だろう。そこには昭和の懐かしさと平成の新奇さが併存している。
ネタバレBOX
『子ほめ』(柳家喬太郎)
「独演会」と銘打ってはいても、たいていは前座に二ツ目の噺家さんを連れてくるのが常である。ところが、のっけから喬太郎師匠が高座に上がったので、観客は一瞬、キョトンとしてしまう。
師匠が開口一番、「前座でございます」。これでもう場内爆笑、お客さんの心を掴んでしまうのだから、巧いというか狡いというか。どういう意図なのか、今日は自分が先に上がってみようという気になったそうである。そうして始めたのが、まさしく「前座噺」の「子誉め」だから、人を食っている。
意地の悪さを露悪的になりすぎない程度にさらりと見せるのが巧い。場合によっては思いっきりはっちゃけることもある喬太郎師匠ではあるが、今回はきっちり演じようという姿勢のようである。従って、『子ほめ』には特に大きな改変は無し。子どもの年を数えるのも、昔の数え年を現代の満年齢に置き換えることなく演じている。言葉もすらすらと、一切、「噛み」がなかった。
『佐々木政談』(柳家喬之進)
「てっきり先に上がるものだと思っていたら……これ、前座潰しですか!?」で、喬之進さん、かえってお客さんの「同情を買う」作戦。と言うか、その手しか取りようがないよね(苦笑)。時代劇の話をマクラにして、「昔は偉いお奉行様が今してね、一番有名なのは大岡越前、本名、加藤剛。それから遠山の金さん、本名、松方弘樹。杉良太郎と答えた人は相当のご年配」と、これでようやく客席が暖まる。
本編は「一休さん」のような、子どもが奉行を凹ませる頓知もの。喬之進さんにも調子が出てきて、語りは立て板に水、トチリも少ない。
サゲも従来のものには特に明確な形での落ちを付けはしていないものを、子どもを近習に取り立てるという奉行の命令に、桶屋の父親が「しかしお前、桶屋はどうしたらいいんだ」と息子に聞くと、子どもは「よいよい、捨て置け(桶)」と奉行の言葉のマネをして落とす。これは歯切れのよい終わり方だった。
『白日の約束』(柳家喬太郎)
喬之進さんの後を受けて、再登場。
いきなり「あいつも分かってないねえ」と言うから、喬之進さんに何か落ち度があったのか、これからどんなキツイ説教が始まるのかと、観客が心配し始めたら、「遠山の金さんは中村梅之助ですよ」とこう来た。
一部で拍手も起きたが、全体的にはあまりウケてはおらず、ああ、観客の年齢層、決して高くはないんだな、と少し寂しくなった。
「白日」とは「ホワイトデー」のこと。喬太郎師匠の新作では代表作とされるものの一つである。自分が若い頃、いかにモテなかったかをネタにしてマクラに。これが滅法おもしろい。
バレンタインデーに、同世代の立川談春、柳家花緑と三人会を開いたところ、その二人にはファンが押し寄せて、「談春さーん!」「家禄さーん!」と声がかかるが、自分は無視される。腐っていると、女性ファンの一人が、「喬太郎さーん、喬太郎さん“も”」。
「だいたい、何ですか、あの“ゴディバ”ってのは。私らの世代には怪獣の名前にしか聞こえませんねえ。“ゴディバ対メカゴディバ”」。ここでいきなり野太い声に変わって吐き捨てるように言うから、もう抱腹絶倒である。
本編は、今日がホワイトデーだったことをすっかり忘れていた男が、「OLキラー」とあだ名される同僚にアドバイスを受け、彼女へのプレゼントを用意する。ところが当の彼女はホワイトデーなどという下らないイベントは好きではなかった。彼女が祝いたかったのは、今日が赤穂浪士四十七士の討ち入りの日だからなのだった。
サゲは、同僚から彼女へのプレゼントとして預かっていた「塩煎餅」が「赤穂の塩」で出来ていると知った男、「敵はやっぱり(OL)キラー(=吉良)だった」と天を仰ぐ地口落ち。
イマドキのタカビー(死語?)な女を演じる時の、上から目線の仕草が特に笑いを誘っていた。
『花筏』(柳家喬太郎)
相撲の噺なので、マクラは相撲ネタから。もっとも、師匠ご本人は相撲に全く興味がないとのこと。ついそのことを口にしたのはうっかりだろう、ちょっとお客さんが引いてしまった。すぐに柳亭市馬師匠の相撲好きの話題に移って、なんとか態勢を整える。市馬師匠、しょっちゅう大相撲を観戦しているので、テレビに映っているらしい。喬太郎師匠はそれを見てイタズラを仕掛ける。市馬師匠の携帯に電話を掛けるのだ。「画面で形態を取りだして慌ててる市馬師匠を見たら、掛けてるの、私ですから」。
本編は、江戸弁と関西弁とを使い分けなければならない、結構な技術が必要になる大ネタだが、多少、舌の回り損ねがあったのみで、噺は流れる水のよう。
病気療養中の関取・花筏に姿形がソックリだってんで、影武者にさせられた提灯屋の親父が、ただ座って飲み食いだけしていればいいだけのはずが、調子に乗ったせいで実際に相撲を一番、取らざるを得なくなった。死ぬ思いで取った相撲で、何と親父さん、運良く勝ってしまう。「さすが提灯屋、張るのが巧い」と順当な落ち。
「天神で寄席の会」主催の出演は七年ぶりだそうだが、他の落語会で、福岡にはしょっちゅう来られている。
次回は5月26日(土)に都久志会館にて。
コルチャック先生と子どもたち
劇団ひまわり 福岡アクターズスクール
キャナルシティ劇場(福岡県)
2012/03/11 (日) ~ 2012/03/11 (日)公演終了
満足度★★
虚実皮膜のなり損ね
ヤヌシュ・コルチャックの伝記物語として観た場合、史実に極めて忠実で、クライマックスを除けば、一つ一つのエピソードには殆ど嘘がない。それは即ち制作者たちの誠実さの表れである。ユダヤ人差別と戦い、子供たちと運命を共にしたコルチャックの気高い事跡を、その優しい心映えと教育の理念を、正しく後世に伝えようとする意図はもちろん賞賛に値する。
しかし、その誠実さが時として仇になることを、制作者たちは自覚すべきではなかったか。それは、偉人の伝記物語が陥りやすい陥穽である。特に差別や迫害、戦争を描く場合に起こしやすい失敗である。物語がすべて「偉い人の他人事」「過去の一事件で現在とは無関係」と観客に受け止められてしまいかねない、という「罠」だ。
早い話が、哀しみと感動をもって、コルチャックに感情移入した人々が、自らが時と場合においては「迫害する立場」に廻ることもあるかもしれないと想像するだろうか、ということだ。「被害者」に共感する者は、自分が「加害者」になる可能性を、無意識のうちに否定するのである。
その意味で、コルチャックの事跡を讃えるだけのこの舞台は、演劇としては稚拙と言わざるを得ないのである。
ネタバレBOX
昨年、『焼肉ドラゴン』を観た時にも感じたことだが、「被害者」は極めて人間性豊かに、それこそ長所も短所も、喜怒哀楽全ての感情含めて、「生きている」人物造形がなされているのに、なぜ「加害者」の方は、ステロタイプというかむしろ“書き割り”の、読本にでも出てくるような分かりやすい「悪人」として描かれるのだろうか、ということが疑問だった。
C・P・テイラー作の舞台『GOOD(善き人)』の主人公・ハールダーは、ごく普通の教師だったが、ナチスの高官に取り立てられ、やがて迫害者にさせられていく。「善人」であることは一切免罪符にならない、それこそが戦争のもたらす「恐怖」である。この戯曲は、ナチス党員が全て残虐非道の、絵に描いたような悪人であったはずはないことを示唆している。絶滅収容所に子供たちを送り込んだ党員の全てが、嬉々としてその作業に従事していたはずはないのだ。
そこを描かなければ、現在の我々と、過去の悲劇は決して直結しては来ない。『コルチャック先生と子どもたち』では、ナチスとコルチャックとの板挟みにあって自殺するユダヤ人評議会委員長チェルニアクフの自殺というエピソードによって、図らずも同胞を死に追いやらざるを得なかった苦悩が描かれている部分もあるが、その程度では「あれは未来の自分かもしれない」とまでは観客は思わない。結局、物語は、「昔々、ナチスに虐殺されたユダヤ人の子供たちのために、一緒に死んであげたコルチャックという偉い先生がいました」で終わってしまうのである。
1995年から再演に次ぐ再演を重ねているのに、なぜ演出はナチス兵たちに、ほんのわずかでも苦悩の表情を浮かばせる、程度のことすらやらなかったのだろうか。コルチャックの人物造詣が深く、その演技もまた誠実さと慈愛を充分に表現した過ぎらしいものであっただけに、「善と悪」の単純な二項対立で歴史が描かれることには危惧を感じるのである。
ナチスの将校たち、S・Sを、「人間」として描かなければ生きてこないのがクライマックスシーンだ。トレブリンカ収容所への移送当日(即ちそれは死を意味する)、S・Sたちに強制され、着の身着のまま連行されようとする子供たち。バイオリン好きの少年アブラーシャは、バイオリンを取り上げられて壊される。子供たちは怒り、S・Sに迫る。そして歌を歌う。静かにかつ哀しげに合唱しながら、S・Sを真っ直ぐに見据えて、一歩、また一歩と、迫っていくのだ。
おそらく、これは史実ではない。資料の多くが、子供たちは抵抗せず、静かに連行されていったとある。しかしこのフィクションこそがこの舞台における最も演劇的な部分であり、迫害されたユダヤ人たちの「魂の怒り」を表現した部分なのだ。
S・Sは気圧されて後ずさる。しかしそれだけだ。周囲の他のS・Sたちも全く動こうとはしない。コルチャックとステファ夫人が子供たちをなだめて、ようやくみなは冷静になる。このS・Sたちの「無反応」に何の意味があるのだろうかと首を傾げざるを得なかった。もちろん台本にはS・Sたちの「動き」は何も書かれていなかったであろう。私もここでS・Sたちが怒って子供たちを打擲するとは思わない。彼らに過剰な反応をさせることは、それこそ「悪」を型通りに描くことになってしまう。
しかし、ここでは「動かないことの意味」を役者が、あるいは演出が考えた上で演出したのだろうか、と疑問に思わざるを得ないのだ。子供たちの歌声を聞いて、S・Sたちの心に去来するものは何もなかったのだろうか。助けたいとまでは思わなくとも、自分たちがまさしく今、この子供たちを死地に追いやろうとしている事実に心動かされはしなかったろうか。本当に彼らはユダヤ人を劣等民族で撲滅すべきだと洗脳されていたのだろうか。
「全人類にとっての悲劇」という視点の喪失が、このS・Sたちの「無反応」を産んでしまったように思えてならないのである。
このクライマックスシーンにはもう一つの「伏線」があるのだが、これも演劇的効果を充分に挙げているとは言いがたいものだった。
バイオリンを壊されたアブラーシャ少年は、移送の二週間ちょっと前に、ある舞台の公演に主演している。コルチャックが企画した演劇会で、タイトルは『郵便局』。インドのタゴールの代表戯曲で、反体制的ということでナチスからは上演の禁止が通達されていたものだ。
この公演に、ステファ夫人は反対する。それは、これが、子どもが病気で死んでいく物語だからだ。「どうして子供たちに、死を連想させるお芝居を?」とステファ夫人はコルチャックを問い詰める。彼は答える。「子どもたちが少しでも安らかに死を受け入れられるためだ」と。確実に訪れる理不尽な死に対しても尊厳を失わないで欲しいというコルチャックの思い。それは確実にラストの合唱シーンの伏線になっている。
だとすれば、この『郵便局』の上演シーン、劇中劇のシーンは必要不可欠であるはずだ。アブラーシャが、病で死んでいく主人公の少年を演じることが、ラストでの彼の哀しみに直結する構成になってこそ、あのラストは「生きる」ものになったはずだ。
なぜ、その上演シーンがなかったかは憶測するしかない。著作権の問題は無関係である。タゴールの戯曲は全て版権が切れている。戯曲内に取り込むことに問題はない。単に上映時間の問題か、子供たちに二重の演技を強いる手間を省いたか、そんなところではないだろうか。
しかし我々観客は、単に「コルチャック先生の事跡」を説明して欲しいだけではないのである。それならば資料を読めばいいだけのことだ。我々は「演劇」が観たいのだ。資料だけでは読み取れない、そこに生きる人々の、声と体を、涙と笑いを、魂の叫びを観たいのだ。
全体的には、コルチャックの晩年のみに時間軸を絞って、エピソードを羅列したようなダイジェスト版にしなかったことは評価できる。
しかし、その割には構成が雑で人物も整理が行き届いておらず、散漫な印象を受けること(たとえば、途中に何度か登場する「狂人」などは物語に殆ど関わらないので、暗示的な意味以上のものを持たない)、舞台が殆ど「解説的」で、演劇的な魅力に乏しいこと、主役以外の大人の役者の力不足が目立つことなどは今回の公演での大きな欠点であった。
劇団ひまわりを代表する舞台であり、これまでの公演回数も下記の通り群を抜いている。本国ポーランドの演出を受けたこともあるのだが、それらの「経験」は、継承されていないのだろうか。以前の公演は未見なので、それは私には何とも判断が付かないことである。
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『コルチャック先生』
1995年 脚本/いずみ凛 演出/太刀川敬一 (東京/大阪)
1997年 脚本/いずみ凛 演出/太刀川敬一 (東京/大阪)
2001年 脚本/ヤツェク・ポピュエル 演出/アレクサンデル・ファビシャック (東京/神戸/新潟/名古屋)
出演/加藤剛 榛名由梨 日向薫 伊崎充則 他
『コルチャック先生と未来の子どもたち』
2005年 脚本/ヤツェク・ポピェル(訳/吉野好子) 演出監修/アレクサンデル・ファビシャック 演出/木嶋茂雄 (ポーランド/福岡/名古屋/大阪/熊本/札幌)
2008年 脚本/ヤツェク・ポピェル(訳/吉野好子) 演出監修/アレクサンデル・ファビシャック 演出/木嶋茂雄 (札幌/福岡/熊本/名古屋)
出演/中島透 太田みよ 他
『コルチャック先生と子どもたち』(創立60周年記念公演)
2011年 脚本/いずみ凜 演出/山下晃彦(東京・さいたま) 清水友陽(札幌) 玄海椿(福岡・熊本) 木嶋茂雄(大阪) 大嶽隆司(名古屋)
出演/青山伊津美 日向薫(東京・さいたま) 納谷真大 小林なるみ(札幌) 中島透 日向薫(福岡・熊本) 蟷螂襲 松村郁(大阪) 山本健史 菅由紀子(名古屋)
ゲキトーク
NPO法人FPAP
ぽんプラザホール(福岡県)
2012/03/10 (土) ~ 2012/03/10 (土)公演終了
満足度★★★
劇トークは激トークになったか
「ゲキ(劇&激)トーク」というタイトルの割には、そんなに白熱した討議にはならなかった。むしろ話にフッと間が生じるくらいで、お互いに遠慮があるのか、激論したって仕方がないと考えているのか、単純に仲がいいだけなのか、いずれにせよ、全体的には、事前に期待していたほどには、現代の演劇シーンを鋭くえぐる、というところにまでは至らなかった印象である。
演劇に対する思いの強さは伝わってくるのだが、そのための方法論、あるいは本質論、そういったものがなかなか具体的な形で議論されず、終始隔靴掻痒の感を覚えることになった。
しかし、お三方とも地方発信の演劇活動を推奨する主張は共通していて、その点は地方在住者としては嬉しい発言であった。その割には福岡(主に博多)の演劇の話題が殆ど出てくることがなく、ああ、やはり福岡の演劇はプロの演劇人の眼中にはないのだなと、寂しいが厳然たる事実を確認するに至った。では福岡には、何が足りないのか、何が足を引っ張っているのか、もしもお三方が今後も福岡の演劇シーンに関わっていただけるのであれば、ぜひ障碍を乗り越えて、舞台の活性化に尽力していただけたらと願うばかりである。
福岡の演劇人や劇団がどうあってほしいということではない。ただ面白い芝居が観たいというそれだけのことである。
ネタバレBOX
多田淳之介、柴幸男、中屋敷法仁の三人が、現代日本の演劇界の最前線を走っている人たちの一員であることに、異論を唱える人はそう多くはないと思う。彼らの舞台を観たことがない人でも、一度実際にその眼で確認してみればよい。既存の演劇からどのような形で更なる一歩を踏み出そうとしているかが見えてくるはずだ。
「ゲキトーク」はまず、各人の演劇活動の紹介から始まった。練習風景や実際の舞台のスチールを見せて、自己紹介する形である。
多田氏はワークショップの写真と、自身が芸術監督を務める富士見市民文化会館の“水上”での舞台『冬の盆』の様子。ワークショップ中と言っても、練習風景ではなく、合間に参加者たちが団欒している様子を撮影している。手前ではお爺さんを囲んで数人が楽しげに喋っており、後ろでは誰かが盆踊りの振り付けを練習している。「ワークショップでは、みんなこんなに仲良くなっちゃうんですね」と多田氏。演劇の第一歩は、アマチュア、プロに関わらず、そこから始まる、という謂いらしい。『冬の盆』の方は夜景。「写真には写ってませんが、前方にウォーターフロントがあって、そこでお客さんたちは好き勝手に座ったり寝そべったり、芝居が退屈だったら星を観たりしてるんです」とのこと。
柴氏は、先日北九州と東京で行われた『テトラポット』の練習風景と、昨年からツアー公演している『あゆみ』の舞台写真。練習中の柴氏、態度はかなり悪いらしい。写真ではイスの上に膝を抱えて座っているだけだったが、日ごろは寝そべったりしながら俳優たちの演技を観ているのだとか。柴氏はもちろん劇団「ままごと」の主宰だが、『あゆみ』の俳優たちは「準団員」のような地方在住の役者たちでツアーを行っているとのこと。「劇作家でありたいと思ってるんですが、演出家の仕事が多くなってますね」。
中屋敷氏の写真は、最初の一枚は「企画の意図が分からず間違えて持ってきたトルコでの劇団員たちのスナップ写真」。これではどんな活動をしているのかは分からない(笑)。もう一枚は東京デスロック公演『悩殺ハムレット』の舞台写真。中屋敷氏も含め、けばけばしい衣装の男女(殆ど女性キャスト)が舞台でふんぞり返っている。「リアルな芝居が多い中で、圧倒的に非現実なフィクションを目指してます」と言う。女性キャストばかりにしたのも「日本の演劇って、女性が差別されてるじゃないですか。シェークスピアをやるにしても男ばかりでやるとか。そして『原典は男ばかりで演じられたから』と訳の分からないリクツを言う。だったら全員女性でやっちゃえと」。
お三方とも20代、30代の若手劇作家・演出家であって、いずれも、既存の演劇に安住することをよしとしてはいない。しかしそこで「自分たちの演劇が受け入れられているのか」ということが問題になってくる。多田氏、柴氏は、観客動員のことはあまり気にしない(そもそも劇場の大きさと公演回数で動員数は自然に決まる)立場だが、中屋敷氏がどれだけの客に自分の芝居を観て貰えるかに拘った。
「作品及び劇団の評価」とも関わってくるのだが、たとえば柴氏は『わが星』で岸田國士戯曲賞を受賞したことが「貰った瞬間は嬉しいと言うよりは、演劇やってていいよって言われた感じで」と淡々とした感想なのだが、中屋敷氏はデビュー以来、ともかく「上の人」(先輩の劇作家たちや演劇評論家を指すのだろう)に一切無視されてきたこと、にもかかわらず、客席には現実に何千人とお客さんが詰めかけてきてくれること、この乖離は何なのか、ということが「しこり」になっていたようだ。
「いいものを作れば、お客さんは自然に集まってくると思う」と述べる柴氏に対して、中屋敷氏は、終始「演劇の客層が広がっていかない」ことに、危惧を述べていた。
小劇場の観客は、小劇場演劇しか観に来ない。大劇場で公演される舞台を観る人は、逆に小劇場演劇に関心を持たなかったりする。演劇のジャンルは幅広いから、多田氏は、舞台で演じられるものは「何でも演劇」で整理されていないと言うが、実際には、観客の「好み」は歴然としてある。しかもそれが必ずしも舞台の「内容」に関わる好みだとは言えない面があって、それが客層の広がりを阻害している原因の一つになっているのは事実だ。
中屋敷氏は言うのだ。「今のお客さんって、演劇が好きで観に来てるって感じじゃなくて、この演劇を、たとえばキャラメルボックスを観に来てる(評価できている)私ってなんてステキなの、って、そんなじゃないですか」。
聞きながら、諸刃の剣なことを言ってるなあと思ったのは、つまり「柿喰う客」の観客もまた、「この劇団を評価できてる俺って凄いよな」という思い上がった人間ばかりだと告白しているも同然だからだった。しかしそれは中屋敷氏も先刻ご承知のことなのであろう。
中屋敷「多田さんの台詞で、すごくかっこいいなって思ったのがあるんですよ。『いろんな芝居を観て、どうしても満足できる舞台に出遭わなかったら、最後に“東京デスロック”を観に来て下さい』っていう。最初に、じゃなくて、『演劇の最後の砦は俺が守る』ってのがすげえかっこよくて」
多田「俺、そんなこと言ったかな?(笑)」
多田氏はここで、私が一番気になった発言をしたのだが、それは「今の日本に演劇は必要だと思う」というものであった。
具体的になぜ必要なのか、その根拠をきちんと語ってくれなかったことは残念だったが、話の流れからするなら、やはりコミュニケーションが喪失していると感じられる現在、「演劇に出来ること」は「人間」の回復であり、そのためには、自己充足に陥っている観客の「質の向上」を図らなければならない、と、そういうことなのだろうと思う。
中屋敷「劇団☆新感線の『リチャード三世』を観た時に、ロビーのお客さんたちの声が聞こえたんですよ。『やっぱりシェークスピアはつまんないね』って。俺、その人たちに言ってやりたかった。この芝居をつまらないと思ったのは仕方がない。けれど、だからってシェークスピアを嫌いにならないでくれ。同じように、『柿喰う客』を観てつまらないと思ってもらっても構わない。でも、演劇を嫌いにはならないでくれって」
多田「でも、『メタルマクベス』を観たら、そのお客さんもそうは言わなかったと思うよ」
話題の全てをここで書ききれるわけもないし、中には司会が何を考えたのか、お三方の結婚観(聞きたい人がいるのかも知れないが個人的な場でやってくれよ)なんてのまで聞いていたから、後半はちょっと焦点が定まらない、散発的な印象の会話になってしまった嫌いがある。
劇団かユニットか、という話題も、お三方に質問する意味があったのかどうか。双方の効果的な面を取り入れて活動されていることは、観れば分かるからだ。
尻すぼみになりかけたディスカッションではあったが、やはり特筆しておきたいことは、お三方が「地方」に眼を向け続けているという事実である。
多田氏の劇団「東京デスロック」は、「東京」と冠していながら現在は埼玉を中心に、全国の地方都市を廻って、ワークショップと公演を行っている。柴氏の「ままごと」も、中屋敷氏の劇団「柿喰う客」も同様だ。
お三方、共通の認識は、東京には確かにたくさんの演劇がある。しかしそれは勝手に集まってきているものの集積で、じゃあ自分たちから地方に向けて何かを発信するとか、逆に地方のものを積極的に取り入れようとか、そういう動きがない。その意味で東京は逼塞している、というものだった。
多田氏は、地方の演劇祭で最高の二つに、鳥取の「鳥の演劇祭」と、北九州の「えだみつ演劇フェスティバル」を挙げる。
「えだみつアイアンシアターの市原幹也さんとお話ししていて、目から鱗が落ちたことがあるんです。彼は言うんですよ。『演劇を観て、それから演劇をしたいと思うようになるんじゃない。まずは学芸会でも何でも、演劇をすることから始める。それから演劇を観るようになるんです』って。なめほど、アイアンシアターのワークショップには、近所の子どもたちがともかく集まってくるんですね。それから、あそこで公演する芝居を観に行くようになるんです」
中屋敷氏が「学芸会、中学、高校演劇と、ずっとやってきた自分には納得できます」と熱い賛同を寄せる。
鳥の演劇祭はもちろんワークショップ、シンポジウムも盛んなら、海外作品の招聘、交流も盛んに行っている。地方密着、というのは、決して、その地域で完結するものではなく、そこから世界に発信するもの、逆に世界か関心を寄せる土壌を作るということなのだ。それが「コミュニケーション」の真の意味なのだろう。
柴氏だけが「地方で2ヶ月かけて舞台を作って、そのまま放り出して帰っちゃうことの繰り返しなんで申し訳ないです」とちょっと気弱なことを仰っていたのが可愛らしかった。
これらの一連の「地方」談義の中で、福岡(博多)の演劇シーンに触れられることは殆どなかった。以前、FPAPの主催で、福岡の若手演劇人を選抜して、ツアーを組んだようなことを司会から振られたが、お三方とも話題にすることなくスルー。
「俺の芝居をまず観ろ」の演劇人と「私がこの劇団を支えているの」の身内客・常連客とで構成された福岡演劇村の惨状は、お三方にもはっきりと見えていたようだ。
会場にはそこそこ福岡の演劇関係者も来場していたようだったが、お三方の話にいちいち感心したり頷いたりしているようでは、まあ、底は知れている。大筋においてはお三方の意見に賛同できることはあるとしても、そこから内面において何らかの化学反応を起こすように、お三方の「先を行く」発想が生まれなければ、その時点でその人が演劇をやることの意味は失われてしまうだろう。
失ってくれた方が、演劇が好きでもない癖に、好きなフリをしている人が減ってくれてありがたいんだけどね。
春風亭小朝 独演会 2012
シアターネットプロジェクト
エルガーラホール 大ホール(福岡県)
2012/03/10 (土) ~ 2012/03/10 (土)公演終了
満足度★★★
若様が行く、いつまでも
小朝師匠、毎度、「巧いなあ」と思ってはいるのだ。
『中村仲蔵』で、定九郎を見事に演じきった仲蔵が、師匠の伝九郎を前にして涙を流し、頭を垂れて礼を言う時の仕草など、本物の仲蔵もこうであったかと思えるほどに真に迫って見える。
でもこれは噺家の「芸」と言うよりは役者の「演技力」だよな、と思ってしまうのだ。だから「演技」が臭くなると、途端に馬脚を現してしまう。「芸」は一つの様式であり「型」であるから、ちょっとやそっとのことでは揺るがない。声と間と所作と、一度確立されたなら、何度聞いても笑える。
けれども、演技が臭いまま固まってしまうと、一度目は笑えても、二度目はもう持たないのだ。飽きると言うか、鬱陶しくなる。小朝が「巧いまま上達せずにここに至った」原因は、そのあたりにあるのではなかろうか。
誉めてるんだか貶してるんだかよく分からない文章になってしまったが、実際、未だに小朝師匠は「下町の若様」のままなのである。
それでも独演会があると聞けばついつい足を運んでしまうのは、『三匹が斬る!』でファンになっちゃったからなんだよね。多分、来年も観に行くんだろうなあ。
ネタバレBOX
『牛ほめ』春風亭ぴっかり
去年の11月に「春風亭ぽっぽ」から「ぴっかり」に名前が変わって、二ツ目昇進。でも出囃子は『鳩ぽっぽ』のまま(笑)。
「ぽっぽ」時代に『悋気の独楽』を聞いたことがあるが、その時はかなりつっかえつっかえで、たどたどしかった。それが今回は格段に進歩、すっきりして流暢な語り口になっている。マクラで、「お客さんから『名前覚えたよ! ぽっかりちゃん!』、どうやら混ざっちゃったようで」と、ここからお客さんをすんなり掴んでいる。
本編は特に大きな改作は無し。親父から、伯父の佐兵衛の家普請と飼い牛を誉めてくるように言付かった与太郎が、言い間違えまくる噺。「天角地眼~」のあたりは現代人には通じにくいので端折る噺家も少なくないが、これもキッチリ演った。ただ、言い間違いを親父のところと伯父さんのところで二度繰り返したのはちょっとくどかった。あれはぴっかりちゃん、間違えちゃったのか、だめ押しした方が面白いと考えたのか。
口跡はよくなっているが、声質が可愛らしいのがかえって損をしている面もある。与太郎は馬鹿というよりコドモだし、親父さんたちはもう一つ大人の貫禄がない。語りに淀みがないと言っても、実はまだちょっと“焦り”が目に付く。
でも“伸びしろ“はあるようなので、真を打てるようになってほしい。女に噺家は無理だとは昔からの言い習わしだけれども、そんなことはないと思っている。なんたってぴっかりちゃんは可愛いのだ(実はトシを聞くとビックリするけどね)。
『宗論』春風亭小朝
一応、古典落語ではあるが、大正期に改作されたものだとか。
元は浄土真宗の親父と、日蓮宗の息子との宗教論争だったものが、息子の宗教がキリスト教に変えられたのだそうな。
キリスト教にかぶれた息子が、旧弊な親父を何とか折伏しようとするのだが、喋れば喋るほど、キリスト教が胡散臭く聞こえてきてしまう。
小ネタの集積で笑わせる噺だが、得てして一つ一つのネタの出来に差が生じてしまうものだ。
「マリア様ハァ、処女にしテ、イエス・キリストをお産みになりマシタ」「処女で妊娠!? 馬鹿言うな。それじゃあ白百合女学院は妊婦だらけだ」「オーウ、それは間違いデース。白百合ニ、処女ハ、スクナーイ」
このあたりは予測が付いても面白いが、「この中ニィ、私を裏切る者がいマース。テーブルの上ノ、飲み物ヲ見れば分かりマース。これハァ、葡萄酒だァ、これハァ、水だァ、これハァ、“湯”ダァ」。
と、ダジャレで落とすのはいただけない。それでも客席には結構な笑いが起きていたのだが、「よくお分かりにならない? ではもう一度」と、二度も繰り返したのは、予めの段取り通り演ったのだろう。ここは充分受けてたのだから、一度だけでだめ押しをする必要はなかった。ちゃんと客席を観てないのがバレバレである。
サゲが「汝、右の頬を殴られたラ、左の頬を差し出セ。眼には、眼ヲ、歯には、歯ヲ!」と言って親父さんを殴ろうとするのだが、いささか乱暴で、気持ちがスッキリしない。
息子の口調をことさら大仰に、「外国人訛り」にして演じさせたことも、かえって息子のキャラクターからリアリティを奪い、笑わせることに失敗しているように思える。この噺はもっと面白くできるはずだ。
『ぼやき酒屋』春風亭小朝
桂三枝作の新作落語だが、居酒屋に来た酔っ払いの客が、愚痴やら冗談やらを言いまくるという設定だけを借りて、中身は殆ど春風亭一門でよってたかってこしらえたもののようだ。三枝の落語はどれも「どうだ巧いだろう」という押しつけがましさが鼻につくので、小朝の方が格段に面白い。
スイカを見ながら、客が「スイカってのは家族団欒で食うもんだ。去年はみんなで食べたわよねえ、そう、去年はまだ、そこにお爺ちゃんがいたのよね。今年は…・・・お婆ちゃん?」と、ここでお婆ちゃんのいる方に目を向ける仕草がまた巧い。急に高座が面積を広げて、そこに家族と、少し離れたところに、本当にお婆ちゃんが座ってスイカを食っている姿が見えるような気がしてくる。
客が主人に「あんた、好きな芸能人とかいる?」と聞くと「恥ずかしながら、くーちゃんで」「誰?」「倖田來未」「ああ、中国の」「……お客さん、それ、江沢民」。ただのダジャレではあるが、これなど私は結構気に入っている。ただ、客席はそんなに受けてはいなかった。恐らく、倖田來未も江沢民も、よく知らない客が多いのだ。
実際、時事ネタでも、受けがいいものと悪いものとの差が激しい。「最近、誰か噺家で死んだやつがいたよねえ……圓歌か」というのは全くと言っていいほど笑いが起きなかった(圓歌は死んでないよ。念のため)。年寄りでももう、あれだけ一世を風靡した「山のあなあな」の圓歌と言うか歌奴を知らないのだ。談志もそれ誰?って客も少なくないんじゃないか。
反面、「世襲ってのはよくありませんね。政治家も噺家も」とか「奥さんの選び方には気をつけなきゃいけませんよ」という「楽屋落ち」と言うか「身内落ち」というか「元身内落ち」は大いに受けているのである。どうも客層の情報収集の範囲がよく分からない。
サゲは「お客さんのご商売は?」「俺? 向こうで居酒屋ヤッてんだ」という、これは三枝の原作通りの落ちなのだが、やはり笑いは今ひとつ。それはそうだろう。ここでアッと意外な結末で驚かせようというのなら、ぼやく客に、店の主人はもっと困っていなければならない。そうでないと、その客自身も、散々悪態を吐く客に困らせられた経験があるのだという、落ちのウラが、客にピンと来なくなるのだ。
この噺では、主人は聞き手一方で影が薄い。改作の余地はまだまだあるはずである。
〈仲入り〉
『水戸大神楽』柳貴家雪之介
皿回し芸である。包丁三本で回したのはなかなか凄かったが、どうも先日「クーザ」を見た直後だと、そんなにびっくりできない。もちろん雪之介三の責任ではないのだが。
『中村仲蔵』春風亭小朝
トリは大ネタ。円生、彦六、両師匠も得意としていた、歌舞伎の中村仲蔵の史実に基づく逸話の落語化である。独演会でも、地方によっては軽いネタ二席くらいで終わらせることもあるようなので、一応、小朝師匠、福岡のお客さんを大事にしてくれてはいるようである。
名題(歌舞伎における真打ち)になった仲蔵だったが、立作者の金井三笑の嫌がらせを受けて、次の『忠臣蔵』では端役の斧定九郎役しか振られなかった。ところが逆境を芸を磨くチャンスと気持ちを切り替えた仲蔵は、それまでにない黒羽二重の出で立ちに、悪逆かつ凄惨な定九郎を演じて、大向こうを唸らせる。師匠の中村伝九郎(勝十郎)に誉められて涙を流したところ、伝九郎から「おいおい、芝居はまだ初日だぜ。楽にはしない」と言われてサゲとなる。
このサゲは噺家によって随分変わるようだが、小朝のサゲは、その前の愁嘆場が妻のおきしとのやりとり、それから伝九郎との一席と、時間を充分にとって聞かせてくれるので、最後にさらりと流すのが粋で気持ちがいい。
仲蔵は若僧だから小朝の“身の丈”に合っていていいのだが、師匠の伝九郎になるともういけない。貫禄がないのが頗る惜しい。
ここまで「流されて」きた以上は、小朝が今後、「進歩」なんてするのかどうか、たいして期待はできない。それでも何となく見捨てられないような、放置するとまた厄介な出来事に巻き込まれるんじゃないかというような、余計な心配をしてしまうのである。
Final Fantasy for XI.III.MMXI
福島県立いわき総合高等学校
福岡明治安田生命ホール(福岡県)
2012/03/03 (土) ~ 2012/03/03 (土)公演終了
満足度★★
テーマ主義の弊害
フクシマの高校の生徒たちによる、震災と原発を題材とした(明確に反原発をメッセージとした)演劇である。その事実を無視してこの舞台を鑑賞することは難しい。「あの事故を、実際にあの場所にいた生徒たちはどう感じたのか」。作り手の生徒たちが観客に伝えたいこともそれであろうし、我々の関心がその点に集中してしまうことも意識の流れとしては自然なことだからだ。
しかし、そのために、「演劇として」この舞台を鑑賞する視点が客席から見失われてしまうことは、演劇部である彼らにとっては不幸なことなのではないだろうか。
この舞台の欠点は、これが「テーマ主義」によって構成されているために、まずメッセージ性ばかりが強調されて、演技や演出についての分析を「口にしにくい」状況が生じていること(普通の芝居になら言える「へたくそ」という文句すら言いにくい。フクシマの学生が一生懸命作っているのにケチを付けるとは何事だ、というファンダメンタルでヒステリックな反発すら予想されるからだ)、そして、実際に被災地の当事者によって作られた物語であるにも関わらず、“被災地外の人間であっても作れる作品”になってしまっていることだ。
恐らくは、その事実に気付いている観客も少なくはないと思われる。しかし、彼らにそのことを伝える大人はいない。誰も彼らを甘やかすつもりはないだろうが、結果的にはそうなる。彼らを評価するのは、こういうテーマがむき出しになった物語ではなく、もっと日常的な題材の演劇であったり、テーマを押し出さない純粋なエンタテインメント作品の方が適切なのではないだろうか。
ネタバレBOX
「テーマ主義」の作品が誰にでも書ける、というのは別に私が言いだした話ではない。菊池寛の一連の作品に対して行われた、文芸評論家たちによる批判である。伝えたい主題が決まっているから、その表現手段、キャラクター設定や物語の展開も自然と決まってくる。誰が書いても同じ、と揶揄されるのはそのせいだ。菊池寛の戯曲『父帰る』が映画『男はつらいよ』シリーズにさしたる工夫もなく流用されている点でもそれは明らかだろう。
だから、書き手側にしてみれば作るのに苦労しない方法ではあるのだ。高校生ら演劇初心者に“教える側”としては、テーマ主義を一概に否定されても困るだろう。
しかし、その「苦労しない」ことが、この舞台では「安易さ」に繋がっている部分も、決して少なくはない。
特に「震災と原発」という、決して短絡的には結論づけられない重要な問題について、明確に「反原発」という一点にテーマを集約して描かせることが、果たして妥当であったかどうか、疑問である。エチュードを中心にして、生徒自身にアイデアを出させる方法は決して悪くはない。そこには「自然な感情」が表現として昇華されるための萌芽があるからだ。
だが、多くの生徒がアイデアを持ち寄っているにも関わらず、物語が一つのテーマに「一貫しすぎている」のは、なぜなのだろう。果たしてこの物語は本当に生徒たち自身の心から生まれてきたものなのだろうか。そこに教師による「過度の誘導」がなかったかどうか、それはいわき総合高校の演劇部が、「高校演劇は高校生自身の手で」という目標を掲げる姿勢を堅持しているのであれば、きちんと問われなければならないことであろう。
物語は、初め、二人の少女の会話から始まる。
ヒロコとキリカ。陸上部だった二人。あの震災で引き裂かれてしまった二人。「あの時、待ち合わせ場所に私も行っていれば」。後悔を口にするヒロコ。目の前の椅子に座っているキリカは、もうこの世にはいないのだ。
全編を通じて、最も演劇的だったのは、この冒頭シーンである。一方は生身の人間で、一方は幽霊。しかし心を失っているのは生きているヒロコの方であるようにも見える。「罪悪感」が彼女の心を押しつぶしてしまっている。
二人の演技は極めて静かで、か細い声であるにも関わらず、いや、だからこそヒロコの胸を塞いでいる思いの重さが、客席にまで伝わってくるのだ。高校演劇にありがちな、ただ声を客席奥まで届ければいいといううるさいだけの過剰演技はここにはない。現代口語演劇の方法が、最も効果的な形で実行されている。
キリカの姿は他の部員には見えない。ヒロコにしかキリカは見えない。それがヒロコの心が孤独に蝕まれている証拠だ。このシーンは、ラストの、再びヒロコの前に現れたキリカが、今度ははっきりと、別れを告げるシーンに呼応している。
別れを告げられなかった友への思い。あるいは家族への、あるいは仲間への、もう伝えることが叶わなくなってしまった思い。被災地で、同じ思いをした人々がどれだけいたことだろう。この二人のシーンは、あの震災を経験した者にしか伝えられない「心」によって描かれている。
ところが、これから先の本編が、一気に失速してしまうのだ。「心」ではなく「アタマ」で作った、出来の悪いギミックでできた玩具のような、チャチなシロモノに成り果ててしまう。
旧校舎に「復活の呪文」が隠されていて、それを探し出せば、全てが元に戻る。その情報を信じて、ヒロコや良輔たちは倒壊の危険がある旧校舎に忍び込んでいく。
そこで、菅直人やら枝野やら東電の社長やら、さらに保安員だの原子炉だのラスボスのなんたらエコノミーだの、「敵」が戯画化されて彼らの前に立ちはだかり、そいつらをヒロコたちは倒していくのだが、このあたりがサッパリ面白くない。
アフタートークで「観る人によって受け取り方に温度差があるのは当然だし、押しつけがましくなることを避けた」「ただ怒りをそのままぶつけるのではなくて、笑い飛ばしてやろうと思った」という発言があった。
その姿勢自体には共感するが、「押しつけがましくしたくない」という目的は、結果的には成功していない。押しつけがましさを回避した表現としては、せいぜい登場人物たちに「声高に反原発を訴えさせない」といった程度のことしか配慮されていない。全体的にはやはり「反原発」以外の見方はされていないのだから、多角的な視点がない点においては、やはり「押しつけがましく」なってしまっているのである。
さらに彼らには「笑う相手を最初から戯画化していてはからかいにならない」というギャグの基本が分かっていない。だからゲーム部分がことごとく「絵空事」にしか見えなくなって、たいして笑えないものになっていることに気が付かないのである。
いや、原子炉を寒いギャグで冷やすっての、馬鹿馬鹿しくて好きだけど、面白いかと言われたら、ちょっと困るでしょう。ゲンシーロくんの「受け方」の間がよくて、笑えはしたけど。
揶揄する相手は、真面目に描かないとからかえないのである。ふざけて描くと、相手もこちらも同じキャラになってしまうので「馴れ合い」が生じるのだ。漫才の両方がボケになってしまうようなものだ。
からかう相手が権威的であったり糞真面目であったりするがゆえに、かえっていざというときのオタオタぶりが滑稽に見えるのだ。サム・ペキンパー『戦争のはらわた』のラストの壮絶なギャグシーンを思い浮かべていただければ、権威とか真面目といったものがいかにくだらなくて、益体もない馬鹿馬鹿しいものであるか、それをどのようにからかえば表現として効果的なのか、ご理解いただけることだろう。
銃に弾倉を装填するやり方すら知らなかったシュトランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)の姿は、原子炉の構造一つ理解していなかった東電幹部と見事に重なっている。
コトが起きたあとで、彼らの無責任を追求するのは簡単である。
しかし、コトが起きる前、我々は信頼とまでは言わずとも、生暖かい眼で彼らを見ていたはずだ。
現地の人々にとっては、東電の人々はごく普通の近所のオジサンたちであったろうし、親しく声を掛け合った人々もいたはずである。
その「東電のおじさんたち」が、いきなり悪の権化として糾弾されることになる。「でんこちゃん」は国民を惑わすプロパガンダキャラクターとして排斥されることになる。いや、それをしてはいけないというのではない。彼らが故意か、好意的に解釈してやはり「想定外」だったのか、どちらにしろ事故の責任を回避できる立場にないことは厳然たる事実だからだ。
だとしても、東電と「共存」してきた現地の人々が、彼らを批判するためには、自分の身をも切る覚悟が必要になるのではないだろうか。ただ戯画化したキャラクターにしてからかうだけでは、それは「部外者の発想」と変わりがないのではないだろうか。
実際、この舞台の中盤の殆どは、被災地外の人間が書いたのではないかと疑われるほどに「他人事」になってしまっている。原発関係者が、「敵」として相対化されすぎている。「RPGゲーム」という形式を持ち込んでしまったために、それ以外の描き方ができなくなってしまったのだ。
たとえば、現地には、「東電社員の子供」だっているはずだ。彼らは、避難生活を送りながら、「お前の親父のせいでこんな目に遭ったんだぞ」などといじめられたりはしていないだろうか。
そういう子供は、この芝居の中には登場できない。テーマから外れ、テーマを揺るがしかねないキャラクターは「邪魔者」なのだ。しかしそういう子供を排除することが、被災地の「現実」、ひいては被災者の「実感」を伝えることになるだろうか。原発推進派の言い分にも説得力がないわけではない。それを受け止めた上でなお反論する構造がこの舞台にはない。一方的な攻撃であってもそれが説得力を持つのは、勧善懲悪のエンタテインメントだけだが、この題材は、一番、そうあってはならないものではないのだろうか。
単純なゲーム構造を持ち込んでしまったことが、この舞台を善か悪かの単純な二項対立による、極めて幼稚なものにしてしまっているのだ。
「家を流された人と、ほんの数メートルで助かった人と、それだけで被災の実感に温度差が生まれる」との発言もアフタートークで気になったものの一つだった。この舞台を観た時の違和感がまさしくその点にあって、「被災の程度が低い人たち」が作った芝居なんじゃないか、という印象が拭えなかったからだ。
震災も、原発事故も、喜劇にして構わないと思う。
しかし、この事故を引き起こしたのが特別な悪人でも金の亡者でもなく、たとえどこぞの国にヘイコラしてきた連中が裏で糸を引いていたとしても、彼らはごくフツーの人々であって、なのに彼らの思惑が複雑に絡み合った結果、総体としては国を狂った方向に押し流してしまっていること――その視点がなければ、いくら国や東電をからかって見せたところで、批評性は形骸化するばかりだ。そんなものに意味はあるまい。
観客は「別れの切なさ」に涙を流し、ああ、いいものを見たなあ、という感覚だけを持ち帰って、日常の中ですぐに震災のことも原発のことも忘れていってしまうだろう。
観客は、映画や演劇で感動した涙を、決して現実には反映させない。口では感動したとか考えさせられたと言っても、実際には何も考えていないに等しい。“そんな気になって満足しているだけ”である。そのことは、かつて伊丹万作が『映画と癩の問題』という小文の中で指摘し、作り手としてはそんな観客の反応に惑わされてはいけないと批判していることである。
「芸術の徒としての私は、芸術鑑賞および価値批判の埒内においては人間の涙というものをいっさい信用しない」と。
「高校生が作った芝居なんだから」という言い訳は、自分で自分の首を絞めることになる。それは「高校生にはたいしてものを考える力がない」と告白するに等しい。
アフタートークで、ともかくこの芝居は震災3ヶ月後の、情報が錯綜して、怒りの矛先をどこに向けたらいいか分からない状態で作った、今は冷静になっているので、もっと別の見方もできるようになったと思う、という発言があったが、そのことを肯定的に捉えたいと思う。
勢いだけで作った演劇であるから、決して賞賛できる作品には仕上がっていない。そのことは、いわき総合高校の生徒たち自身が自覚していることである。
ネットの批評子たちが、本作をろくに演劇としてどうかという分析もせず、安易に「頑張って作ったね」と誉めるのはいかがなものだろうか。もうその発言の「偽善性」に、いわきの生徒たちも気付いていると思うけれど。