ハンドダウンキッチン 公演情報 パルコ・プロデュース「ハンドダウンキッチン」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    我々は夢と同じものでできている
     あるレストランの厨房を舞台にしているが、これはいわゆる「バックステージもの」の変形である。
     華やかな舞台、スターやアイドルが煌めき、絢爛たるロマンやサスペンスが繰り広げられるその裏で、スタッフたちの地味な姿、現実の愛憎が描かれる様は、演劇が生み出す虚実皮膜の境を冷徹に表出する。「バックステージもの」が表現しようとするものは言わば「演劇とは何か」という本質論である。なぜ我々は、演劇という「虚構」を生み出さなければならなかったのか、という問題提起だとも言える。
     もちろん、舞台上で展開されるストーリーは純粋なエンタテインメントであるが、この舞台の面白さを支えている本質が「我々は自らの作り出した虚構の中にしか生きられない」という認識論に基づいていることを指摘しておきたいのだ。
     レストランのホールという表の世界は、実は裏のスタッフたちが創り出したウソの世界である。しかし物語はそれだけに留まらない。彼らが裏の世界で語る言葉もまた、その裏にまた別の「真実」を孕んでいる。即ちこれは、表と裏の二重構造の物語ではなく、表と裏とそのまた裏の、ウソを吐く人間の本質もまたウソに塗れているという、三重構造のドラマになっているのだ。
     我々が虚構を求めるのは、あるいは虚構に救われようとするのは、真実があまりにも我々の「夢」を裏切っているという、現実の不条理に根ざしている。現実を認識することくらい、辛いことはないのだ。これは「人はなぜ騙されるのか」という心の問題とも密接に関わっているが、我々は悲惨な現実に打ちひしがれて、それでもなお生きていこうとするなら、虚構にすがらざるを得なくなるということなのだ。一見、現実のように見えるそれが、実は見え透いたウソだと見当が付いても、それを認めるのが辛い時、人は自己暗示を掛けてウソをホントウだと信じようとしてしまう。
     我々の虚構への射幸性を「夢だっていいじゃない」という言葉で表すことがある。しかし作・演出の蓬莱竜太は、そんな「甘え」を許さない。演出としては極めてリアルで、幻想的なシーンが数カ所挟まれるくらいである。数日間の出来事を描いているので、場面転換も少ない。外連味には乏しいが、演劇の基本に忠実な極めて実直な演出だと言える。
     だからこそ、ホールの「真実」が次々に暴かれていく展開には容赦がない。そこで観客もまた、冷徹な現実を突きつけられるのである。「あなたもまた、誰かの夢の中にいる虚構の存在ではないのか」と。夢から醒めた方がいいのか、醒めない方がいいのか。登場人物たちの行く末に答えがないように、我々にも具体的な答えは与えられない。虚構と現実のせめぎ合いの物語は、こうして我々に投げ渡されたのであった。

    ネタバレBOX

     蓬莱竜太の舞台は、所属する劇団モダンスイマーズのものは多分、観たことがない。記憶に残っているのは『世界の中心で、愛をさけぶ』や『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』など、映画も『ピアノの森』『ガチ☆ボーイ』と全て原作付きのものであった。脚色、演出だけでも、その作家の資質を図ることは不可能ではないが、恐らくは本人の意向ではなく「依頼」によって行った仕事で、しかもこうも「人情もの」ばかりでは、そういう方面の仕事しかしない人なのかと錯覚してしまいそうになる。完全オリジナルの本作で、蓬莱竜太が現代というキャンバスに何を描こうとしているのか、それが見えるのではないかという興味が一つ。
     また、前川知大の舞台に連続して主演し、成長著しい仲村トオルへの関心、大病の後復帰した江守徹への応援の気持ちなど、それらが鑑賞の動機になった。
     実際に鑑賞したあと、一番に感じたことは、作者が演劇に対して、そして現代社会に対していかに真摯に向き合っているかということであった。当たり前のことではあるのだが。

     蓬莱竜太は、このドラマの発想をテレビショッピングのスタッフたちの会話から思い付いたという。商品を売るための口八丁、手練手管、どうでもいいものを高く売るそのやり口は、一歩間違えればそれは「詐欺」にもなりかねない。しかし、それはどの業界についても言えることなのではないかと。そう考えると世の中はどれだけのウソに溢れているのか、想像も付かないほどだと。そして作者の想像は更に発展する。なぜ人はこれほどまでに虚構を求めるのだろうかと。

     舞台となるレストラン「山猫」にはモデルがある。
     恐らくその一つは昨年(2011年)までスペイン・カタルーニャの片田舎にあった三つ星レストラン「エル・ブリ(エル・ブジ)」である。映画『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』でも紹介された実在のこのレストランは、フェラン・アザリアというカリスマ料理長の名前とともに有名になったこと、全ての料理が創作料理で、一度出したメニューは二度と出さないこと、その料理はデザインが奇抜で、ものによっては「料理に見えない」ほどであること、予約で客が入りきれないほどの人気絶頂(年間200万人!)のさなかに突然閉店したこと(舞台の方は閉店するかも、で終わるが)など、共通項が多い。
     もう一つのモデルは、劇中でも触れられていた通り、宮澤賢治『注文の多い料理店』に登場する「山猫軒」である。料理する側が客に「注文」を付け、最後にはその客を食ってしまう化け猫の罠。劇中の「山猫」も、客を騙してとんでもない料理を食わせるところは“人を食っている”。

     その通り、レストラン「山猫」は客を詐欺に掛けているのである。カリスマシェフと言われている七島誠(仲村トオル)は、学生の頃交通事故にあって右手が使えなくなり、料理人の道を諦めた。従って、彼が父・勇次郎(江守徹)の跡を継いで「山猫」のオーナーシェフになってやったのは、路上画家の海江田恵介(宮崎敏行)に前衛画のような料理の絵を描かせ、その絵に合わせた料理をでっち上げることだった。味付けなどデタラメだが、「ここでしか食べられない料理」が売りになって、「山猫」は店舗を広げるほどに繁盛することになった。
     そこにやってきたのが、東京のレストランから都落ちしてきた関谷直也(柄本佑)である。修行のつもりが、誠の姉・梢(YOU)から「あなたがこの店のオーナーシェフになって」と依頼され、困惑するが、やがて店の秘密に気付くことになる。憤慨する直也だが、誠から「ここの客は美味い料理なんか望んでない。客はここでしか食べられない料理を食べ、この店で食べられたことに満足する。それのどこが悪い」。直也は反論できない。

     「人は虚構の中でしか生きられない」という事実が、この台詞に凝縮されている。人がベストセラーを読みヒット映画に群がるのは、本や映画が面白そうだからではない。それがベストセラーでありヒットしているからである。有名大学を目指し、大企業に勤めたがるのは、学を修めるためでも社会貢献のためでもない。その大学や企業が有名だからである。一度、その「流れ」が出来てしまえば後はスタンピード現象を起こすだけだ。
     誠は、直也に、床に落ちた野菜までもそのまま材料にして客に出させる。「隠し味が利いてたよ。美味そうに食ってたぞ」と誠は嘲笑し、直也の反発を抑える。悪辣だが、観客はなかなか誠に反感が抱けない。物語が進むにつれて、誠の主張に真実を見出さずにはいられなくなるからだ。仲村トオルが実に楽しげに誠を演じていることも、理は誠の方にあると観客に感じさせる要因になっている。

     しかし、現実をウソで塗り固めようとする誠の行為は、「山猫」の取材にやってきたライターの前橋真紀(佐藤めぐみ)が、店の秘密を知ってしまったために瓦解し始める。諍いの中で、海江田はショックのためか、絵が描けなくなる。海江田の絵がなければ料理を作ることは出来ない。父・勇二郎は優しく「店をやめたっていいんだぞ」と言うのだが……。
     誠は梢に指弾される。「あなたは寂しかっただけだ」と。そういう梢も、誠の暴走を止められなかったのは、誠の右腕の故障の原因を作った車の事故、誠を乗せた車を運転しいたのが、他ならぬ梢だったからだった。
     「もう一度、初めから話しましょう」。梢の誠への問いかけで物語は終わる。印象的なのは、このラストシーンが、このリアルな舞台でほぼ唯一、幻想的な味わいを持っていることだ。見つめ合う二人を、直也を初めとして、その場にはいないはずのコックたちがいつのまにか現れて、彼らを見守る。さながら幽霊のように沈黙したまま。
     最後に明かされた「真実」もまた、幻想の中の一シーンとなるこの幕切れが意味するものは何だろうか。果たして「山猫」は存続して行けるのか否か。解釈は多様だろうが、描かれざるこれからの物語がもしあるとすれば、それはやはり「虚構」と「現実」のせめぎ合う物語になるだろうということだ。我々は結局は虚構の上に更に虚構を重ねていくしかないという、「自分探し」とは全く無縁の「真実」を受け入れざるを得なくなるのである。

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    2012/06/10 11:54

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