ある女 公演情報 ハイバイ「ある女」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    それ行け、不倫、不倫、不倫
     戯曲を単独の文芸作品として読む場合と、戯曲はあくまで実際の舞台の叩き台として、実際の舞台を観て評価する場合と、それは自ずと変わってくる。
     しかし、小劇場のオリジナル公演に関しては、その判別が明確でないことが少なくない。キャストが当て書きで、「その劇団でしか成立しない」と思われる(他劇団での再演が難しい)状況が多々あるからだ。
     だから、先に戯曲を読んで、それから舞台を観ても、ああ、この役はやっぱりこの人が演じてたのね、と、たいてい予想は当たるものなのだが――。
     『ある女』については、その予想は思い切り裏切られた(以下、具体的にはネタバレを参照のこと)。
     これは、「戯曲のみ」を鑑賞する場合と、「舞台」を鑑賞する場合とでは、評価が正反対というほどに違ってくる。そしてそこには、近代以降、女性が苦悶してきたジェンダー(社会的性差)の問題が大きく横たわっている。ここでは当然、「舞台」の評価を中心にして語らざるを得ない。
     「不倫」という題材を通して、作・演出の岩井秀人は、「なぜ、女性は不幸になりやすいのか」を提示してみせた。恐ろしいのは、その理由が分かっても、女性は、不幸から完全に脱却することは不可能なのである。岩井秀人が描いて見せたのは、「ある女」がまさしく「貴女」であるという、普遍的な真実なのである。

    ネタバレBOX

     主人公の「ある女」、タカコを演じているのは岩井秀人である(東京公演では菅原永二とのWキャスト)。
     前説で、岩井秀人がカツラにスカートを履いて出てきた時から、観客はもう笑わされている。場内での飲食禁止、「食べてもいいんですけど、アメの袋も破る時音がしますから、どうせなら一気にびゃーっと」と、アナウンスをするその口調は、岩井秀人本人の口調で、普通の(でもちょっとキモい)男性のそれだ。
     そしてそのままタカコは物語の中に入っていくのだが、口調は特に変わらない。男のままだが、そこではたと気付くことがある。特に女言葉を使ってはいないが、台詞だけを取り上げるなら、それは女が喋っていると想定してもおかしくないということだ。
     女言葉が消失して、男言葉により近くなってはいても、その差はまだ完全に失われているわけではない。しかし、岩井秀人は、非常に緻密に言葉を選び、タカコの台詞を「男とも女とも取れる」ように構築している。

     さて、となると、この戯曲を実際に舞台化するとなれば、二つの方法を取り得ることは容易に想像が付くだろう。一つはタカコをそのまま女優に演じさせる方法で、もう一つが実際に岩井秀人が舞台化した「自らタカコを演じる」方法だ。
     この二者を比較することで、何が見えてくるか。もちろん前者は実際には舞台化されているわけではないから比較のしようがないようにも見えるが、必ずしもそうではない。この物語は「近代的自我を獲得した女性が社会的性差の中で不幸になっていく過程」を描いたものである。これは明治以降の近代文学、演劇、映画の中で再三再四創作されてきた、一つの潮流である。
     それこそ、有島武郎の『或る女』の早月葉子以来、彼女たちは男たちの間で翻弄され、身を滅ぼしていった。まるで彼女たちが「自我」を得たことが罪であるかのように。林芙美子『放浪記』や『浮雲』の頃には、女の不幸はまるで運命であるかのように諦観と共に描かれることも珍しくなくなった。もちろん、演劇における森本薫『女の一生』も同様である。彼女たちは概ね、病に倒れ、ある者は客死し、ある者は自殺する。近代女性文学を並べていけば、さながら「日本女性被虐残酷史」が編めそうな案配なのだ。
     フェミニズムの観点から言えば、現実における女性の社会的な進出を讃える一方で、文学や演劇は「女性の敗北」を延々と描いてきたと言えるだろう(心情的な勝利を得ている作品も少なくないが、その分析はひとまず置く)。

     たとえば、この『ある女』のタカコを、『嫌われ松子の一生』の中谷美紀が演じてみたら、と想定してみたらどうだろうか。あるいは『恋の罪』の神楽坂恵であったらと。
     岩井秀人のタカコは、始終笑われっぱなしであった。しかし、中谷美紀や神楽坂恵なら、おそらく笑われることはない。むしろ、その薄幸さに、涙を誘われるであろう。実際に、『松子』や『恋の罪』は、彼女たちの薄幸に同情を寄せる批評が大半を占めた。これまでの「女が不幸になる物語」には、男女ともに、読者や観客は袖を濡らしてきたのだ。題材が不倫で、女が愚かで、自業自得であったとしても、女性は常に「涙を誘う存在」であった。

     しかし、女を男が演じるだけで、状況は一変するのである。タカコが男から男へと渡り歩くのも、不倫の末に、デートクラブで売春するようになるのも、まあ自業自得だよな、としか思われない。実際に、観客は「笑っていた」のだから。だが、最後にタカコの「死」が暗示されるに及んで、観客は何となく「居心地の悪さ」を感じることになるのである。
     「笑い」、特に「嘲笑」の要素によって成立するそれは、差別意識と不可分であり、笑われる対象が絶対的な「他者」であることが条件である。いや、他者と言うよりも、自分と同レベルの「人間」であってはならないのだ。一段も二段も低い、「人間以下」であるから、人は愚者を笑い飛ばせる。マイノリティを差別できる。
     だが、人間に共通して訪れる「死」が暗示されることで、たとえ男が演じていようとも、タカコもまた「人間」であり、「女」であったことを、観客は思い知らされることになる。この異化作用こそが、今回の舞台の最も演劇的な効果であった。

     戯曲上のタカコは、実際は男でもなければブスでもない。多少、トウは立ってきているようだが、まだ28歳の、不倫相手の森(小河原康二)から「美しいなあ」と呼ばれる美人である。もっとも森は何にでも「美しいなあ」と口にする男だが、デートクラブのセクリ小林(平原テツ)は最初からタカコに眼を付けるし、森の部下の吉本(坂口辰平)も「やっぱりタカコさん、いいですね」と言う。定食屋の娘・花子(上田遥)は、タカコが父・等々力(猪股俊明)に近づくことを警戒している。まあ、破滅するまで、平田くん(坂口辰平)やら大久保くん(吉田亮)やらと付き合っていたのだから、少なくとも男そっくりのドブスであるはずはないのだ。
     そしてタカコは嫌な女である。森の部下の村田(永井若葉)が、実は森を誘って振られたことを知り、森にこう言う。「わたしと村田って、そんなに、なんか違うかねえ?」 見た目が違うに決まっている。自分が美人であると意識していなければ、これは言えない台詞だ。
     この「勝利意識」こそが、歴史上、女を不幸にしてきた正体なのだ。見た目の「美」だけではない。知性や、情愛や、キャリアや、女が自立するために必要だとされてきた諸々の要素が、全て、反作用的に女性を貶めろための要素になっていたことを、岩井秀人はみずからタカコを演じることで証明してみせたのだ。
     女が女を演じれば、流す「涙」に紛れて観客は気付かないだろう。「同情」はそこで完結し、差別と戦う意識を女から奪う。殆どの「女の不幸」を描く作品は、実は女性のレジスタンスを懐柔するために作られていた。この「男系社会」の中で、男が女に求めるものは「従順」であり、もっとはっきり言えば「隷属」であり、それを受け入れることを女性たち自身に、無意識的に納得させてきたのが、これまでの「女性文学」だったのだ。

     舞台上のタカコを観ればよい。
     あの醜い女は貴女である。あの愚かな女は貴女である。
     たとえ貴女が若くて美しく、知的で男を手玉に取る技術を身につけていたとしても、それは「表面的なこと」にすぎないのだ。最終的な勝利は、常に「男」が手にする。
     貴女はまず、自分の美しさも若さも知性も武器にはならないことを自覚しなければならない。まだ男と「戦った」経験がないのなら、戦わなければならない。既に「戦っている」人は、もっと戦わなければならない。
     では、何を武器に? そこまでは岩井秀人は語らない。しかしヒントはある。タカコは結局、どこにも居場所がなかった。自分の生きていくための空間を持ち得なかった。それが「男」であると錯覚していた。
     女の幸福は、「男のいない場所」にあるのである。

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    2012/04/03 21:56

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