イッセー尾形のこれからの生活2012 in 小倉 公演情報 森田オフィス/イッセー尾形・ら(株)「イッセー尾形のこれからの生活2012 in 小倉」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    さようなら、そしていつかまた
     「小倉には、三、四歳のころ住んでました」
     アフタートークで、開口一番、イッセー尾形はそう語った。
     父親が転勤族だったため、福岡を「故郷」と感じることはあまりない、と著書『正解ご無用』に書いている。
     「子供の頃は、坂道を、電車を追いかけるのが好きでした。電車の『匂い』が好きで。そんな小倉に、こうして戻ってきて舞台に立っているのが何とも感慨深くて」
     故郷とは思えなくても、「何か懐かしい空気」を感じているのだろうか。「休眠」前の舞台で、イッセー尾形は恐らく初めてではないかと思われる「博多のサラリーマン」を演じた。それが故郷への「恩返し」のつもりなのかどうか、それはよく分からない。「恩」とか「義理」とか「絆」とか、そんなものは「しがらみ」程度にしかイッセー氏は考えていないようにも見える。しかし、「受け手」である観客は、確かにあの傲岸不遜な「博多んもん」の活写に、逆説的な「愛」を感じるのである。

     イッセー尾形の一人芝居に、最初に「感服」したのは、もう20年も前のことだ(「お笑いスター誕生」に出演していた頃にも観ていたはずだが記憶にない)。満員電車で姿勢を変えることができずに身体を歪めたまま固まってしまったサラリーマンのスケッチで、その身体表現に舌を巻いた。
     日本において一世を風靡したスタンダップコメディアンと言えば、古くはトニー谷、そしてタモリの二人を挙げることが出来るが、小林信彦は『日本の喜劇人』の中で、この二人に共通する欠点として、「腰から下の弱さ」を挙げている。彼らに限らず、日本の「ピン芸人」と称する喜劇人たちは、概して自身の身体性に無頓着である。
     イッセー尾形の身体のバランスのよさは、同時代の喜劇人たちと比べて突出していた。特に「腰から下」が強かった。演出家の森田雄三と知り合ったのが建設作業の現場だということだから、そこで鍛えられたものだろう。
     もちろん、それだけでイッセー尾形の芸の真髄を語れるわけではない。これもまた稀有と言うべき彼の人間観察眼によって捉えられた、フツーだがちょっとヘンな人々の姿が、その身体を媒介として再現される時、「現代日本」の様相が象徴的に浮かび上がる。その点が、イッセー尾形の一人芝居を、他の一人芝居と隔絶した孤高なものにしてきたのだ。
     イッセー尾形の一人芝居は、観客を大いに笑わせつつ、明確な批評性を持っている。休眠後、映像を通しての活動は続けていくとしても、舞台に復帰するかどうかは未定だ。あの300を超えるという一癖も二癖もあるキャラクターたちと会えなくなると言うのは何とも寂しい。ゆっくり休養していただきたいと思う反面、早期の舞台復帰を望むのはワガママに過ぎるだろうか。

     九州では、あと8月3日から3日間、福岡天神のイムズホールで公演予定。小倉とはまたネタを変えるそうである。

    ネタバレBOX

     親戚の結婚式帰りの男。しかしこれから彼が行く先は別の親戚の葬式。つい飲み過ぎてしまったので、酔っぱらったまま喪主の夫人に挨拶する。新婚夫婦も付いて来ているが、喪主にどう挨拶していいか分からない。夫人も「こんな時に死んで・・・…」とひたすら頭を下げる。
     映画『お日柄もよくご愁傷様』と共通したアイデアだが、わずか10分程度に凝縮されたスケッチは、観客の笑いを連続して引き出し、休む間を与えない。今回の公演は、どのスケッチも、ともかく「ギャグの多さ」によって支えられている点が特徴的だ。
     多少の「ダレ場」があった方が、観客は一息つけるものだが、それは着替えの幕間で充分と判断したのか、今回は爆笑ギャグのつるべ打ち。
     遺体を見ながら、男が新婚夫婦に向かって「こいつもこんなにニコニコお前たちを祝福して」とTPOがどんどんわやくちゃになっていくのには抱腹絶倒だが、ここには「とっさの時ほど人は頓珍漢なことをする」という演出家森田雄三の意地悪な人間観察眼がある。

     休憩中のОL。バドミントンのラケットを持っているが、特に遊ぶ気配もなく、ウワサ話に興じる。
     「目の前に見えるものについて語る」のは、森田雄三演出の特徴。OLから“少し離れて声が届かない距離”にいる同僚たちは、井戸端会議の格好のネタとなる。
     この“距離“を利用したスケッチは数多いが、そのいずれもが傑作となるのは、我々もまた、“最も想像を働かせられる他人との距離”を有しているからに他ならない。今ここにいない人間の噂話や陰口は「罪悪感」を産むが、人間の心理とは不思議なもので、“もしかしたら本人に聞こえしまうかもしれない微妙な距離”にいる相手の話題は、その罪悪感が薄れる傾向にある。Twitterで、本人に見られるかも知れない悪口を気軽に書けてしまう人が多いのも、この心理の表れである。
     あまりにも自然な演技なので、明確に語られることが少ないが、この「近くにいる人の噂話」シリーズは、余人にはそうそう真似のできない、イッセー尾形をイッセー尾形たらしめている最大の「武器」であり、最も先鋭化された「演劇」の表現形式の一つなのだ。

     博多から東京の大手町にやってきたサラリーマン。
     道に迷った同僚を待っているが、その間ずっと東京の悪口など。「東京モンは二枚舌たい」のギャグは、こちらでは大受けだったが、東京では「シーン」だったそうだ(笑)。
     福岡出身ではあるが、イッセー尾形は博多弁は不得意だ。しかし「とっとーと」などのカリカチュアされた「わざとらしい博多弁」を駆使し、東京に対抗する無意識があえて行わせているものとして表現することによって、その違和感を払拭している。
     同僚は小倉出身という設定で、道に迷っているのを「小倉の田舎もんが」と罵倒して、それが小倉で大受けしているのだから、自虐ギャグを楽しむ素養は、博多人、小倉人の方が東京人より持っているのではないのかと思わされた。

     ポーカーをしている中年の女、負けが込んではいるが、相手たちへの口調は馴れ馴れしく横柄。実はあとで正体は保険屋であることが分かる。既に契約はすましているらしく、カモられていた相手を本当はカモっていたという意外な展開、しかも「次の犠牲者」も女は虎視眈々と狙っていた。
     女の「武器」は「誘導尋問」である。しかもこれが高度なのは、女は決しておべんちゃら、追従などは言わないところだ。世辞には引っかからないぞと構える相手に、それと気付かせず、ポーカーに「負けてやっている」のである。
     イッセー尾形は熱心な読書家であるが、ミステリーも数多く読んでいるのであろう。最初から犯人が割れていて、探偵が追い詰めていく過程を描く形式を「倒叙型」と呼ぶが、相手を契約に誘導するやり口は、倒叙ミステリーの探偵たち、『罪と罰』のポルフィーリィ判事や、刑事コロンボと同質のものである。
     ミステリファンにとっても、イッセー尾形は胸を躍らせられる存在なのだ。

     部長宅を訪問したサラリーマン、一転して「お世辞ばかり」のヘコヘコサラリーマンを演じるそのギャップが楽しい。もちろん落語の『牛ほめ』『子ほめ』同様、誉めなくてもいいものまで誉めるから、どんどん苦しくなる。「廊下がこんなに真っ直ぐで」って、家が広いと言いたいんだろうが、ちょっと表現を間違えると、何を誉めているのかわけが分からなくなる。
     そのおかしさを弥増しているのが、妙に冷静な部下の山田。男が何か失敗する度に何やら突っ込んでいるらしいが、男が激怒するとすぐに部長に窘められる。ちょうどこの立ち位置は、映画「社長」シリーズの森繁久彌社長と、三木のり平、小林桂樹3人の関係に比定できる。
     部長は見え透いたお追従を連発する男に嫌気がさしてきたらしく、だんだん無理難題を男に押しつけて、手品をやるから宙に浮け、なんて命令するのだが、真に受けた男が懸命に浮こうとするのがおかしい。完全に森繁・のり平の関係の再現である。
     「社長」シリーズのようなサラリーマン喜劇はとんと作られなくなってしまって、舞台でも三宅裕司が「伊東四朗一座」で軽演劇の復活を試みているが、イッセー尾形はずっと一人で、伝統を継承していたのである。

     かなりボケが進行しているらしい爺さんが、夏休みで田舎に来ている孫たちに、薪割りなどを見せてやる。でもどちらかというと、孫が爺さんを思いやって、つきあってあげている感じの方が強い。別れの時間が来て、もう一度薪割りが見たいとせがむ孫。車が見えなくなるまではと薪割りを続ける爺さん。おかしいが、なぜか胸にジンときて涙がホロリと流れる一幕である。
     「ミミズ踏んだら霧に巻かれっぞ」という「迷信」に爺さん自身が捕えられていくラストはシュールですらある。

     ウクレレを持った歌手、なんと今年で100歳。豪華客船のディナーショーに呼ばれてステージに立っている模様だが、声もガラガラで、とても歌がこなせそうにない。
     ところが、歌い始めた途端に、その声は観客を感嘆させる美声に変わる。歌詞もかなりいい加減で「アロエ、アロハオエ~♪」なんて調子だ。
     イッセー尾形の公演の掉尾を飾るのは、必ず歌ネタだが、歌手は毎回、シャンソン歌手だったりクラシック歌手だったり吟遊詩人だったり千変万化。なのに歌い方は「今日はいつもと違って」と「イッセー尾形の歌」になる。
     この歌が聴けるだけでも、毎回の公演に足繁く通う価値があるのだ。

     最後の博多公演は都合で観られないので、誰かレポートをアップしてくれないものかと思うのだが、期待するだけ無理だろうな。
     福岡の演劇ファンは、日ごろ、何を観ているのかと、嫌言の一つも言いたくなるというものである。

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    2012/08/01 11:53

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