満足度★★★
若様が行く、いつまでも
小朝師匠、毎度、「巧いなあ」と思ってはいるのだ。
『中村仲蔵』で、定九郎を見事に演じきった仲蔵が、師匠の伝九郎を前にして涙を流し、頭を垂れて礼を言う時の仕草など、本物の仲蔵もこうであったかと思えるほどに真に迫って見える。
でもこれは噺家の「芸」と言うよりは役者の「演技力」だよな、と思ってしまうのだ。だから「演技」が臭くなると、途端に馬脚を現してしまう。「芸」は一つの様式であり「型」であるから、ちょっとやそっとのことでは揺るがない。声と間と所作と、一度確立されたなら、何度聞いても笑える。
けれども、演技が臭いまま固まってしまうと、一度目は笑えても、二度目はもう持たないのだ。飽きると言うか、鬱陶しくなる。小朝が「巧いまま上達せずにここに至った」原因は、そのあたりにあるのではなかろうか。
誉めてるんだか貶してるんだかよく分からない文章になってしまったが、実際、未だに小朝師匠は「下町の若様」のままなのである。
それでも独演会があると聞けばついつい足を運んでしまうのは、『三匹が斬る!』でファンになっちゃったからなんだよね。多分、来年も観に行くんだろうなあ。