春風亭小朝 独演会 2012 公演情報 シアターネットプロジェクト「春風亭小朝 独演会 2012」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    若様が行く、いつまでも
     小朝師匠、毎度、「巧いなあ」と思ってはいるのだ。
     『中村仲蔵』で、定九郎を見事に演じきった仲蔵が、師匠の伝九郎を前にして涙を流し、頭を垂れて礼を言う時の仕草など、本物の仲蔵もこうであったかと思えるほどに真に迫って見える。
     でもこれは噺家の「芸」と言うよりは役者の「演技力」だよな、と思ってしまうのだ。だから「演技」が臭くなると、途端に馬脚を現してしまう。「芸」は一つの様式であり「型」であるから、ちょっとやそっとのことでは揺るがない。声と間と所作と、一度確立されたなら、何度聞いても笑える。
     けれども、演技が臭いまま固まってしまうと、一度目は笑えても、二度目はもう持たないのだ。飽きると言うか、鬱陶しくなる。小朝が「巧いまま上達せずにここに至った」原因は、そのあたりにあるのではなかろうか。
     誉めてるんだか貶してるんだかよく分からない文章になってしまったが、実際、未だに小朝師匠は「下町の若様」のままなのである。
     それでも独演会があると聞けばついつい足を運んでしまうのは、『三匹が斬る!』でファンになっちゃったからなんだよね。多分、来年も観に行くんだろうなあ。

    ネタバレBOX

    『牛ほめ』春風亭ぴっかり
     去年の11月に「春風亭ぽっぽ」から「ぴっかり」に名前が変わって、二ツ目昇進。でも出囃子は『鳩ぽっぽ』のまま(笑)。
     「ぽっぽ」時代に『悋気の独楽』を聞いたことがあるが、その時はかなりつっかえつっかえで、たどたどしかった。それが今回は格段に進歩、すっきりして流暢な語り口になっている。マクラで、「お客さんから『名前覚えたよ! ぽっかりちゃん!』、どうやら混ざっちゃったようで」と、ここからお客さんをすんなり掴んでいる。
     本編は特に大きな改作は無し。親父から、伯父の佐兵衛の家普請と飼い牛を誉めてくるように言付かった与太郎が、言い間違えまくる噺。「天角地眼~」のあたりは現代人には通じにくいので端折る噺家も少なくないが、これもキッチリ演った。ただ、言い間違いを親父のところと伯父さんのところで二度繰り返したのはちょっとくどかった。あれはぴっかりちゃん、間違えちゃったのか、だめ押しした方が面白いと考えたのか。
     口跡はよくなっているが、声質が可愛らしいのがかえって損をしている面もある。与太郎は馬鹿というよりコドモだし、親父さんたちはもう一つ大人の貫禄がない。語りに淀みがないと言っても、実はまだちょっと“焦り”が目に付く。
     でも“伸びしろ“はあるようなので、真を打てるようになってほしい。女に噺家は無理だとは昔からの言い習わしだけれども、そんなことはないと思っている。なんたってぴっかりちゃんは可愛いのだ(実はトシを聞くとビックリするけどね)。


    『宗論』春風亭小朝
     一応、古典落語ではあるが、大正期に改作されたものだとか。
     元は浄土真宗の親父と、日蓮宗の息子との宗教論争だったものが、息子の宗教がキリスト教に変えられたのだそうな。
     キリスト教にかぶれた息子が、旧弊な親父を何とか折伏しようとするのだが、喋れば喋るほど、キリスト教が胡散臭く聞こえてきてしまう。
     小ネタの集積で笑わせる噺だが、得てして一つ一つのネタの出来に差が生じてしまうものだ。
     「マリア様ハァ、処女にしテ、イエス・キリストをお産みになりマシタ」「処女で妊娠!? 馬鹿言うな。それじゃあ白百合女学院は妊婦だらけだ」「オーウ、それは間違いデース。白百合ニ、処女ハ、スクナーイ」
     このあたりは予測が付いても面白いが、「この中ニィ、私を裏切る者がいマース。テーブルの上ノ、飲み物ヲ見れば分かりマース。これハァ、葡萄酒だァ、これハァ、水だァ、これハァ、“湯”ダァ」。
     と、ダジャレで落とすのはいただけない。それでも客席には結構な笑いが起きていたのだが、「よくお分かりにならない? ではもう一度」と、二度も繰り返したのは、予めの段取り通り演ったのだろう。ここは充分受けてたのだから、一度だけでだめ押しをする必要はなかった。ちゃんと客席を観てないのがバレバレである。
     サゲが「汝、右の頬を殴られたラ、左の頬を差し出セ。眼には、眼ヲ、歯には、歯ヲ!」と言って親父さんを殴ろうとするのだが、いささか乱暴で、気持ちがスッキリしない。
     息子の口調をことさら大仰に、「外国人訛り」にして演じさせたことも、かえって息子のキャラクターからリアリティを奪い、笑わせることに失敗しているように思える。この噺はもっと面白くできるはずだ。


    『ぼやき酒屋』春風亭小朝
     桂三枝作の新作落語だが、居酒屋に来た酔っ払いの客が、愚痴やら冗談やらを言いまくるという設定だけを借りて、中身は殆ど春風亭一門でよってたかってこしらえたもののようだ。三枝の落語はどれも「どうだ巧いだろう」という押しつけがましさが鼻につくので、小朝の方が格段に面白い。
     スイカを見ながら、客が「スイカってのは家族団欒で食うもんだ。去年はみんなで食べたわよねえ、そう、去年はまだ、そこにお爺ちゃんがいたのよね。今年は…・・・お婆ちゃん?」と、ここでお婆ちゃんのいる方に目を向ける仕草がまた巧い。急に高座が面積を広げて、そこに家族と、少し離れたところに、本当にお婆ちゃんが座ってスイカを食っている姿が見えるような気がしてくる。
     客が主人に「あんた、好きな芸能人とかいる?」と聞くと「恥ずかしながら、くーちゃんで」「誰?」「倖田來未」「ああ、中国の」「……お客さん、それ、江沢民」。ただのダジャレではあるが、これなど私は結構気に入っている。ただ、客席はそんなに受けてはいなかった。恐らく、倖田來未も江沢民も、よく知らない客が多いのだ。
     実際、時事ネタでも、受けがいいものと悪いものとの差が激しい。「最近、誰か噺家で死んだやつがいたよねえ……圓歌か」というのは全くと言っていいほど笑いが起きなかった(圓歌は死んでないよ。念のため)。年寄りでももう、あれだけ一世を風靡した「山のあなあな」の圓歌と言うか歌奴を知らないのだ。談志もそれ誰?って客も少なくないんじゃないか。
     反面、「世襲ってのはよくありませんね。政治家も噺家も」とか「奥さんの選び方には気をつけなきゃいけませんよ」という「楽屋落ち」と言うか「身内落ち」というか「元身内落ち」は大いに受けているのである。どうも客層の情報収集の範囲がよく分からない。
     サゲは「お客さんのご商売は?」「俺? 向こうで居酒屋ヤッてんだ」という、これは三枝の原作通りの落ちなのだが、やはり笑いは今ひとつ。それはそうだろう。ここでアッと意外な結末で驚かせようというのなら、ぼやく客に、店の主人はもっと困っていなければならない。そうでないと、その客自身も、散々悪態を吐く客に困らせられた経験があるのだという、落ちのウラが、客にピンと来なくなるのだ。
     この噺では、主人は聞き手一方で影が薄い。改作の余地はまだまだあるはずである。

    〈仲入り〉

    『水戸大神楽』柳貴家雪之介
     皿回し芸である。包丁三本で回したのはなかなか凄かったが、どうも先日「クーザ」を見た直後だと、そんなにびっくりできない。もちろん雪之介三の責任ではないのだが。


    『中村仲蔵』春風亭小朝
     トリは大ネタ。円生、彦六、両師匠も得意としていた、歌舞伎の中村仲蔵の史実に基づく逸話の落語化である。独演会でも、地方によっては軽いネタ二席くらいで終わらせることもあるようなので、一応、小朝師匠、福岡のお客さんを大事にしてくれてはいるようである。
     名題(歌舞伎における真打ち)になった仲蔵だったが、立作者の金井三笑の嫌がらせを受けて、次の『忠臣蔵』では端役の斧定九郎役しか振られなかった。ところが逆境を芸を磨くチャンスと気持ちを切り替えた仲蔵は、それまでにない黒羽二重の出で立ちに、悪逆かつ凄惨な定九郎を演じて、大向こうを唸らせる。師匠の中村伝九郎(勝十郎)に誉められて涙を流したところ、伝九郎から「おいおい、芝居はまだ初日だぜ。楽にはしない」と言われてサゲとなる。
     このサゲは噺家によって随分変わるようだが、小朝のサゲは、その前の愁嘆場が妻のおきしとのやりとり、それから伝九郎との一席と、時間を充分にとって聞かせてくれるので、最後にさらりと流すのが粋で気持ちがいい。

     仲蔵は若僧だから小朝の“身の丈”に合っていていいのだが、師匠の伝九郎になるともういけない。貫禄がないのが頗る惜しい。
     ここまで「流されて」きた以上は、小朝が今後、「進歩」なんてするのかどうか、たいして期待はできない。それでも何となく見捨てられないような、放置するとまた厄介な出来事に巻き込まれるんじゃないかというような、余計な心配をしてしまうのである。

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    2012/03/15 01:03

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