満足度★★★★
ガラスの仮面
「仮面劇」とは人間の多重性を象徴化した演劇である。
観客は仮面がその人物のペルソナの一つに過ぎず、その後ろには「真実の顔」があることを知っている。しかし、劇を観ている間は、その仮面こそが「真実の顔」であると「見立て」て、全く別の顔が隠れているとは、あえて考えないようにしている。
だから「仮面劇」において「面を外す」ことは本来は絶対の禁忌である。いったん、その仮面を被れば、俳優はその人物になりきらなければならない。天女の面を被れば天女に、魔物の面を被れば魔物にならねばならない理屈だ。その時、仮面のペルソナが人間の肉体に憑依する、それが「演技」の本質だ。
その「憑依」経験が度重なった時、俳優の心に奇妙な心理が働く。「自分がこの面の人物を演じているのか、それともこの面が自分を演じさせているのか」という思いだ。
故マルセル・マルソーは、代表作『仮面』において、そんな俳優の逡巡を具象化してみせた。゛仮面が顔から離れなくなった男゛の物語である。日本の「肉付き面」の伝承を想起させるが、根底にある思想は共通している。男は面の「魔」に魅入られたのだ。
これはマルソーによる「演劇論」であったと言ってよい。優れた舞台は、それ自体が一つの俳優論なり演劇論になる。
ディディエ・ガラスは当然、マルソーを意識していただろうし、日本の能にも通暁しているので、「肉付き面」の逸話も知っていただろう。自らの「仮面劇」を創作するに当たって、マルソーとは全く逆のアプローチを行った。
その結果、浮かび上がったことは、「人間は誰でもない」という冷徹な真実である。仮面の下にあるものが「見えない」のであれば、どうしてそれが存在していると断定しえるだろうか。存在していると同時に存在していない、「シュレジンガーの猫」のようなものとしてガラスは人間を捉える。
これもまた演劇が表現しようとしているものは何かというガラスによる「演劇論」であり、その問い掛けに答えなければならないのは我々観客なのだ。自分が本物か、それとも足下の「影」の方が本物なのか。ポーの『ウィリアム・ウィルソン』のごとき難問に答える術は、我々にはないのかもしれない。