【福岡公演間近!9月末は鳥の演劇祭!】アルルカン(再び)天狗に出会う 公演情報 ディディエ・ガラス×NPO劇研「【福岡公演間近!9月末は鳥の演劇祭!】アルルカン(再び)天狗に出会う」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ガラスの仮面
     「仮面劇」とは人間の多重性を象徴化した演劇である。
     観客は仮面がその人物のペルソナの一つに過ぎず、その後ろには「真実の顔」があることを知っている。しかし、劇を観ている間は、その仮面こそが「真実の顔」であると「見立て」て、全く別の顔が隠れているとは、あえて考えないようにしている。
     だから「仮面劇」において「面を外す」ことは本来は絶対の禁忌である。いったん、その仮面を被れば、俳優はその人物になりきらなければならない。天女の面を被れば天女に、魔物の面を被れば魔物にならねばならない理屈だ。その時、仮面のペルソナが人間の肉体に憑依する、それが「演技」の本質だ。
     その「憑依」経験が度重なった時、俳優の心に奇妙な心理が働く。「自分がこの面の人物を演じているのか、それともこの面が自分を演じさせているのか」という思いだ。
     故マルセル・マルソーは、代表作『仮面』において、そんな俳優の逡巡を具象化してみせた。゛仮面が顔から離れなくなった男゛の物語である。日本の「肉付き面」の伝承を想起させるが、根底にある思想は共通している。男は面の「魔」に魅入られたのだ。
     これはマルソーによる「演劇論」であったと言ってよい。優れた舞台は、それ自体が一つの俳優論なり演劇論になる。
     ディディエ・ガラスは当然、マルソーを意識していただろうし、日本の能にも通暁しているので、「肉付き面」の逸話も知っていただろう。自らの「仮面劇」を創作するに当たって、マルソーとは全く逆のアプローチを行った。
     その結果、浮かび上がったことは、「人間は誰でもない」という冷徹な真実である。仮面の下にあるものが「見えない」のであれば、どうしてそれが存在していると断定しえるだろうか。存在していると同時に存在していない、「シュレジンガーの猫」のようなものとしてガラスは人間を捉える。
     これもまた演劇が表現しようとしているものは何かというガラスによる「演劇論」であり、その問い掛けに答えなければならないのは我々観客なのだ。自分が本物か、それとも足下の「影」の方が本物なのか。ポーの『ウィリアム・ウィルソン』のごとき難問に答える術は、我々にはないのかもしれない。

    ネタバレBOX

     アルルカンの仮面は黒い。
     それは彼がアダムとイブを惑わした張本人の末裔であることを示している。
     「お前たちは俺のことを道化だと思っているだろう? そうじゃない! 俺はアルルカンだ!」
     箒を使ったマイムで、ひとしきりクラウンを演じた後で、黒仮面のガラスはたどたどしい日本語でそう叫ぶ。
     確かにその通りだ。黒い仮面は道化には全く相応しくない。アルルカンがどんなに滑稽な仕草を見せても、客席からたいした笑いが起きなかったのは、仮面が象徴している「闇」が笑いを疎外していたからだ。
     初めはなぜこんな「不似合い」な仮面を着けているのかと訝しく思ったがそうではなかった。アルルカンはアイデンティティー・クライシスを起こしていたのである。
     本来のアルルカン=アルレッキーノ=ハーレクィンは「魔」である。人の心の安寧を乱し、物語を混沌へと導くトリックスターである。演劇の歴史の中で、いつの間にか身に纏った闇の意味を忘れた自分に苛立ち、「本当の自分」を取り戻そうとする、それがガラスが造形したアルルカンなのだ。
     アルルカンは黒い仮面を剥ぐ。しかしその下にはまだ「肉色の仮面」がある。アルルカンはまだ気付いてはいないかもしれない、しかし観客には一目瞭然だ。アルルカンは゛まだ本当の自分゛を取り戻してはいないのだ。
     アルルカンはたくさんの面を被り、そしてそれを次々に剥いでいく。しかし「本当の顔」はどこにもない。次第に狂気に駆られていくアルルカン。そして彼は「もう一人の自分」に出会うのだ。やはり同じ「魔」である「天狗」に。
     最初にこの芝居のタイトルを見たときに気になっていたのは、アルルカンがどのように天狗に会うのか、一人芝居でそれをどう表現するのかということだった。簡単なことである。そこには「一人」しかいないのだから、天狗はアルルカンのもう一つのペルソナであったのだ。面を被り「天狗」となったアルルカンは、歩みもまた能のごとく「地擦り」でゆるりゆるりと参る。「動」のアルルカンに対して「静」の天狗であるが、彼を中心に円陣を組むように配置された仮面の数々が(中にはヴェンデッタの面もある)、「真実」を物語っている。
     「天狗」もまた憑依された「仮の顔」に過ぎないことを。「真の顔」などどこにもないことを。「彼」はアルルカンですらなく、何者でもないことを。

     「彼」は観客に語りかける。フランス語で、イタリア語で、スペイン語で、中国語で。日本人である私たちには当然、通じない。「彼」は焦るがどうしようもない。
     ようやく日本語で観客に問い掛ける。「今、何時ですか?」
    時間を確認して、「彼」は呟く。「おしまいです」。

     肉色の仮面も取り、「彼」はディディエ・ガラス本人に戻る。そして先ほどまでとはうってかわった穏やかな口調で、子供の頃の思い出話を母国語のフランス語で語り始める(バックに日本語字幕)。
     それはガラス氏の父親が体験した不思議な話だった。ある日、山に登った父親は、霧の中を向こうからこちらに向かって歩いてくる男がいることに気がつく。
     誰だろうと目を凝らした父親が見たその顔は。
     自分そっくりの男だった。

     ガラス氏が語ったのはそこまでである。そのあと、父親とその男がどさうなったか、何も言わないままガラス氏は退場してしまったので結末は分からない。しかし我々は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』で自分そっくりの男に出会った男がどうなったか知っている。ドッペルゲンガーに出会った人間がどうなるかという伝承を。
     「演劇」に関わる人間がどれだけ自覚していることだろうか。数多くの仮面を被り続けることの危険さを、その恐怖を。そして我々一般人も果たして自覚しているのだろうか、自らのアイデンティティーなどは妄想に過ぎないことを。
     ドッペルゲンガーは私たちの中にある。そして自分が何者でもないという絶望から立ち直ることは、人間には決して容易なことではない。しかし「自分が自分である」 ことに固着すればするほど、ドッペルゲンガーの絶望の陥穽は、その穴の入口を大きく開けて、我々を呑み込むのである。

    0

    2012/08/05 10:53

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大