季節のない街 公演情報 Co.山田うん「季節のない街」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    狂おしくも切なく
     そもそもダンスの公演を言葉にすることは普通の演劇に比べてもはるかに困難なことだが、山田うんのそのオリジナリティを、到達点の高さを、いかに表現すればよいか、考えるだに、これはもうお手上げと言わざるを得なくなる。
     山田うんのダンスは、これまでのどのダンスとも違う。過去の様々なダンスの影響を受けてはいるのだろうが、それをいったん解体し、一つの題材を表現するのに最も適切な振り付けを瞬時に選択し、組み合わせていった、そんな印象を受ける。
     緊張と解放が演劇のカタルシスを生むものならば、それが山田うんのダンスの中には凝縮されているし、常に断続的に異化作用が施され続けて一つの流れを作り出している、そんな気もしてくるのである。
     と、何とかその本質を掴まえようとしても、言葉は抽象化するばかりだ。「すばらしかった」とありきたりな一言で済ませてしまった方がよっぽどマシな気すらしてくる。

     しかし、これだけは明言できる。ダンサーたちが演じていたのは、たとえ言葉は一言も発せずとも、紛れもなく山本周五郎の原作『季節のない街』に登場するあの懐かしい人々なのだと。

    ネタバレBOX

     映画監督・黒澤明は、生涯に三本の山本周五郎原作による映画を残している(『椿三十郎(原作『日日平安』)』『赤ひげ(原作『赤ひげ診療譚』)』『どですかでん(原作『季節のない街』)』)。
     山本周五郎が原作を提供するに当たって、黒澤明に語った言葉が「私の小説は映画にはならない。およしなさい」だった。
     周五郎文学は、ヒューマニズムで括られて語られることが多いが、子細に読んでいけば、そんな単純な見方ではすまないことが知れてくる。『季節のない街』の登場人物たちも、電車ばかの六ちゃんは痴呆症だし、京太は実の姪のかつ子を妊娠させてしまうし、乞食の父親は息子を死なせるし、平さんは心を壊したままだ。悲惨なエピソードも決して少なくない。よろずまとめ役のたんばさんの話ですら、「それで終わりにしていいのか」という疑念を読者に残している。
     ウィリアム・フォークナーの影響もあると指摘されている周五郎文学は、基本的に“渇いて”いるのだ。そしてそれは周五郎のリアリスティックな筆致によって生み出されているもので、確かに映像化する時に往々にして雲散霧消してしまう。『どですかでん』には“余韻”がなかった。

     黒澤明をもってしても、映像化は困難だった原作を、山田うんはいかに舞台化したか。
     ダンス・パフォーマンスであるから、もちろん台詞は殆どない。小説の台詞は一行たりとも使用していない。舞台に登場する十数人の演者たちは、よくこのようなポーズを人間が取れるものだと驚くばかりに身をくねらせ、屈伸するかと思えば反り返り、飛び上がったり床をのたうち廻ったり、一人孤独に佇むかと思えば他者とねちっこいほどに絡み合っている。
     それはまるで、自らの関節と筋肉を酷使すればするほど、何かから解放されると信じているような、奇妙だが切実なダンスだ。

     一人一人の動きを観ていると、そこに自然と「ドラマ」が浮かび上がっていることが感じられる。
     恐らくは誰かからいじめられている可哀想な子どもがいる。その子を優しく包んであげている“仲間”がいる。一人の女を取り合っている男たちがいる。女は男達を翻弄して喜んでいるようにも見えるし、逆に戸惑っているようにも見える。「ああ、ああ」と声にならぬ声を上げる“狂人”もいる。ギターを持って、フォークソングを奏でる若者もいる。鍋ややかんをちんちん叩いている連中は乞食だろうか。彼らの衣装はどれも簡素なもので、どんな人物であるかはいかようにも想像が可能だ。
     彼らの中には、『季節のない街』に登場する人物らしき人間は誰もいない。「どですかでん」の六ちゃんも、夫婦交換のカップルも、顔面神経痛の島さんも、子だくさんの父ちゃんも、それらしい人物は見かけない。しかしそこは原作通りの「奇妙な街」であり、そこにいるのは「奇妙な人々」である。肇くんとみ光子さんも、倹約家の塩山一家も、きっとどこかにいるのだろう。
     この「どこかに」、「あなたに(私に)似た人」がいると感じさせることができていることが「演劇」なのだ。
     
     そして舞台には、踊り狂う彼らを静かに見続けている「普通の人々」もいる。彼らはその街の「通りすがり」で、ただそこをチラ見しながら移動するか、一休みするかだ。しかし彼らが我々観客の“もう一つの目”となることで、観客は街の人々の、無数の喜びと哀しみをより切実に想像することが出来るようになっているのだ。
     そして、ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」。
     フルオーケストラで演奏されるその曲が、街の人々の「魂」を歌い上げる。この歌を彼らのために歌っているのは「我々」だ。彼らの中に偉そうな上流の人々は誰もいない。どこかの小さな街の片隅で、世の中の動きとも政治とも大事件とも無関係に、歴史の流れから取り残され、細々と暮らしている庶民たちの姿であり、「我々」なのだ。
     それは原作がそもそも持っている力であるが、山田うんが、「原作から離れることで」、原作に肉薄することが出来た、稀有の手法によるものである。

     アフタートークで、山田さんの演出が、「粘菌」にたとえられていたのが面白かった。粘菌には頭脳がないが、迷路における最短距離をなぜか選択できてしまう(マンガファンは『もやしもん』参照のこと)。
     山田うんの頭の中にも、常人には分からない「粘菌ルート」があって、それがこのようなオリジナルのダンスを生み出していくのだろう。彼女の舞台に接することが出来た幸運もまた、観客の直観によるものであるとすれば、我々にも「粘菌ルート」があると思っても構わないだろうか。

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    2012/03/31 11:27

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