百年の秘密 公演情報 ナイロン100℃「百年の秘密」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    世界樹の木の下で
     木と話をする家族の物語である。
     伝説、寓話の時代から、ドラマの中心に「無生物」が配置される物語は決して少なくない。たいていの場合、それは物語のテーマを象徴している。『白雪姫』の「鏡」は人間の欲望そのものの象徴ではなかったか。そして「木」とは、「生命」の象徴であり、全てを内包した「世界」そのものでもある。北欧神話では世界の中心には宇宙樹があり、聖書においてエデンにあったのは知恵と生命の二つの樹木であった。
     ベイカー家の人々は、等しく、庭園の中心にある楡の木に執着する。その理由は、劇中、明確には語られない。語られないからこそ、それが不動の存在であり、「世界の中心」であることが明示されているとも言える。ベイカー家の興亡を「百年」見続けていたのもこの木だし、その「秘密」を抱き続けてきたのもこの木だった。しかし木は決してベイカー家の守護者であったわけではない。人間たちの生の営みも見てきたのと同時に、木はその死も、看過し続けてきた。過去も、現在も、未来も知り尽くしていながら、木は、人間たちに関与しようともせず、神のごとく沈黙し続けている。
     我々観客はまさしく「木」と同じ視点で、ベイカー家の人々の動向を見せられて行く。早い段階で、彼らの「結末」は観客に提示され、時間が過去と現在を行ったり来たりするうちに、我々はそもそもの「秘密」の始まる「発端」へと誘導されていく。そして我々は気付かされるのである。
     我々こそが「神」であることに。人類はなぜ「神」という概念を創造したのか。それは我々がまさしく「神」と同一の存在であったからなのだ。我々は、あの震災に対しても、今なお続く国家間の戦争や、人間の経験してきた全ての悲劇に対して、ひたすら「神」であり続けてきたのだ。
     即ち「神」とは、世界の運命に対して、あの木のごとく「傍観者」であることしか出来ない我々の「無力」を象徴している存在なのである。ベイカー家の「悲劇」に責任を負っているのは、実は「我々」なのである。

    ネタバレBOX

     ケラリーノ・サンドロビッチは、この戯曲を執筆するに当たって、影響を受けた作品として『背信』(ハロルド・ピンター)、『セールスマンの死』(アーサー・ミラー)、『夜への長い航路』(ユージーン・オニール)、『わが町』(ソーントン・ワイルダー)を挙げている。
     ことに『わが町』との類似性を指摘する識者は多かろうと思われる。ある街の、数世代にわたる長い歴史を、主に二つの家族の物語に象徴させる手法は、演劇においてはワイルダーが最も鋭角的な構成で表現していた。それをケラ氏はそっくり踏襲している。
     「街」を象徴するものはいろいろある。城下町ならそれは城であるし、学校だったり教会だったり鐘楼だったり塔だったり灯台だったり。「木」もまたその一つであるが、前者との決定的な違いは、「木」が「自然物」であり、人間の埒外にある存在である点だ。ケラ氏が、人の営みと歴史を描きつつも、そこにこのような「天」の視点を織り込んできたことには、物語を「人間だけのものにしてはならない」と判断した強い意志があるように思われる。
     それはやはりあの震災を経て、ケラ氏が「人の力ではどうにもできない自然の力」を痛感したせいなのだろうか。

     あの「楡の木」が無かったなら、ティルダ(犬山イヌコ)とコナ(峯村リエ)の二人の少女は、カレル(萩原聖人)の手紙をその根元に隠そうとは思わなかっただろう。木がなくても何らかの形で秘匿しただろうという解釈は、その可能性はあっても、この戯曲の訴える「真実」とは無関係である。
     これは一種のプロファイリングであり、我々が何らかの行動を起こすのには、自分の意志のみならず、その行動を誘導する環境条件が揃っている時にのみ起きるという「真実」を示唆した物語なのである。
     そこに「木」があったから、悲劇は起きた。人が「神」を創造したから、その神によって「人」は作られた。人の思いなど、運命という大木の前では木の葉のように吹き飛ばされていく。それでも我々は、「木」から、「神」から逃れることは出来ない。なぜならもうそこに「木」はそんざいしてしまったから。
     この舞台はそういう物語なのだ。

     運命は絡み合うと言うが、この物語の登場人物たちは、それぞれに数奇な運命を辿りながらも、何かの偶然が更なる偶然を呼んで、突拍子もない結末を迎えるというような展開にはならない。
     全ての結末への予兆は、二人の少女が手紙を隠した瞬間から始められ、予め貼られた伏線は一切の破綻を起こさないままきちんと回収されて物語は収束される。物語を支配するのは「必然」以外にはないと主張しているかのように。
     カレルはアンナ先生への恋に破れ、彼女によく似た面差しのコナと結婚する。もちろんアンナ先生への思いか消えたわげはないから、「悲劇の種」は温存されたままである。
     ティルダもまた隣人の弁護士ブラックウッド(山西惇)と結婚し、二人の親友はそれぞれ別の道を歩いていくことになる。しかし、ブラックウッドがコナと“過ち”を起こしたことから、二人の人生は次第に狂いを生じさせていく。
     「必然」とは即ち、全ての「秘密」はいつか白日の下に晒されるという「悲劇」のことなのだ。
     ティルダの息子フリッツ(近藤フク)とコナの娘のポニー(田島ゆみか)は恋仲になる。もちろん、二人が兄妹である可能性を捨てきれないブラックウッドは、二人の結婚に強硬に反対する。その不自然な態度が、ティルダたちに疑念を抱かせないはずはない。コナから真実を打ち明けられたティルダは、絶望のあまり失踪する。

     カレルと、彼と再会したアンナ先生は、少女時代のコナとティルダの裏切りを知り、アンナ先生とともに心中(事故死?)する。
     ティルダの兄のエース(大倉孝二)は、バスケット選手としての将来を嘱望されていたが、父・ウィリアム(廣川三憲)が、母・パオラ(松永玲子)を裏切って不倫していることを知ってから次第に荒んでいき、傷害事件を起こし獄中死する。
     この兄のエピソードは、「家族の悲劇」を描くために必要だとしても、ややとってつけた印象があって巧くないが、全体的に伏線として張られた「悲劇の種」は、全て好転することなく、お決まりの結末をもたらすのである。さながら「運命の糸」からは逃れられないと我々に向かって主張するように。

     彼らを見つめる「木」の影は、場面が転換するごとに舞台に広がり、闇となり、地獄へ誘うかのように人々を飲み込んでいく(この映像処理は、ケラ氏の『わが闇』でも見られたが、あの作品もまたワイルダー『わが町』にインスパイアされた「家族の物語」であった)。
     運命は変えられない。ある原因は、それに相当する結末を必然的に用意する。木の陰はその「逃れられない運命」としての象徴だ。
     そこで思い至るのは、ケラ氏がこの戯曲の時間軸を錯綜させた理由はなんだったのかということだ。物語のラストは、少女二人が、木の下にカレルの手紙を埋める瞬間で締められる。彼女たちはそれが悲劇の始まりになるとは夢にも思っていない。むしろ、アンナ先生に騙されたカレルを救った気になっている。ティルダは言う。「カレルにかけられた催眠術を解いてあげなくちゃ」と。夢を見ているのは、彼女たちの方なのに。

     「真実」を知る「神」である私たち観客は、そこに胸を締め付けられるほどの切なさを覚える。彼女たちは何も知らない。何も知らないから夢を見ていられる。彼女たちは愚かで哀れだが、同時にこうも感じられる。夢を見ていられた12歳のあの頃が、彼女たちが人生で一番美しく輝いていられた、「幸せの瞬間」であり、「黄金の時間」であったのだと。
     これは、通常の時系列に沿った物語展開では、あまりにも「悲惨」を強調することにしかならないと判断したケラ氏が、観客に与えてくれた、これも一つのハッピーエンドなのではないだろうか。生から死へと向かう儚い人間の物語の中で、そしてどんな悲劇的な人生であったとしても、人にはほんの少しくらいは、「幸せな時」があったのだ。それがたとえ少女時代の一瞬であろうとも、微笑みに満ちた瞬間というのは確実にあったのだ。それ故に人は生きられるのだと、ケラ氏はそう謂わんとしているのではないだろうか。
     「始まりの時」が結末になる物語は、たとえば夢野久作『瓶詰の地獄』があり、桜庭一樹『私の男』がある。そのラストシーンは、実はファーストシーンであり、いずれも「幸せ」に包まれているのである。

     キャスティングは、犬山、峯村の両女優が、12歳から78歳まで、さらにはひ孫まで演じて、その実力のほどを見せつけてくれる。その分、他のキャストが「弱く」見えてしまうのが難ではあるが、最近、旧作の仕立て直し公演などでお茶を濁していた感のあったナイロン100℃の舞台の中では、人間の「業」を冷徹に描いて、久方ぶりに見応えのある舞台となった。

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    2012/06/03 15:51

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