満足度★★★★
いつもながら映像は素晴らしい。
前回の作品があまりにもガッカリだったが、今回は良かった。
特に映像が今回良かった。
長いスパンで時代を行き来するのも見ごたえがあった。
満足度★★★★
いいおはなしでした。
翻訳劇を観ている感覚でした。
作品は、女性二人の人生が長いスパンで描かれ
現在、過去、未来と時間が行き来し
それぞれの確信にせまって行きます。
オープニングとか、毎回、映像のアイデアには感心です。
満足度★★★★★
好き!
出張先で観劇。
壮大なドラマが目の前で繰り広げられ、ワクワクドキドキしながら見守っていたらあっという間に2時間半が経っていた!
秘密ってどれも切ない。
時間軸があちこちに飛ぶから、先のことを知っていたりするのがなんとも面白かった。
視覚的にも大いに楽しめたし、見ごたえありましたー!
満足度★★★★
みごとな骨格を持った、充実の舞台
長い舞台だがその長さを感じさせない、みごとな骨格を持った充実した舞台だ。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲を、俳優たちのみごとな演技が密度高く表現していた。
詳細は、演劇感想サイト「福岡演劇の今」 http://f-e-now.ciao.jp/ に書いています。
満足度★★★★
世界樹の木の下で
木と話をする家族の物語である。
伝説、寓話の時代から、ドラマの中心に「無生物」が配置される物語は決して少なくない。たいていの場合、それは物語のテーマを象徴している。『白雪姫』の「鏡」は人間の欲望そのものの象徴ではなかったか。そして「木」とは、「生命」の象徴であり、全てを内包した「世界」そのものでもある。北欧神話では世界の中心には宇宙樹があり、聖書においてエデンにあったのは知恵と生命の二つの樹木であった。
ベイカー家の人々は、等しく、庭園の中心にある楡の木に執着する。その理由は、劇中、明確には語られない。語られないからこそ、それが不動の存在であり、「世界の中心」であることが明示されているとも言える。ベイカー家の興亡を「百年」見続けていたのもこの木だし、その「秘密」を抱き続けてきたのもこの木だった。しかし木は決してベイカー家の守護者であったわけではない。人間たちの生の営みも見てきたのと同時に、木はその死も、看過し続けてきた。過去も、現在も、未来も知り尽くしていながら、木は、人間たちに関与しようともせず、神のごとく沈黙し続けている。
我々観客はまさしく「木」と同じ視点で、ベイカー家の人々の動向を見せられて行く。早い段階で、彼らの「結末」は観客に提示され、時間が過去と現在を行ったり来たりするうちに、我々はそもそもの「秘密」の始まる「発端」へと誘導されていく。そして我々は気付かされるのである。
我々こそが「神」であることに。人類はなぜ「神」という概念を創造したのか。それは我々がまさしく「神」と同一の存在であったからなのだ。我々は、あの震災に対しても、今なお続く国家間の戦争や、人間の経験してきた全ての悲劇に対して、ひたすら「神」であり続けてきたのだ。
即ち「神」とは、世界の運命に対して、あの木のごとく「傍観者」であることしか出来ない我々の「無力」を象徴している存在なのである。ベイカー家の「悲劇」に責任を負っているのは、実は「我々」なのである。
満足度★★★★
百年の沈黙
ある一族と、その歴史を見つめ続ける楡の木の物語。
人は皆、誰にも言えない、あるいは言わずにいられない秘密(罪)を抱えて生きる。その秘密は自分の欲ゆえのものだが、欲や秘密や罪の重さに潰れそうな時、人びとは楡の木に心中の闇を見る。
子をひたすら甘やかして満足した有名な木もあるが、むかし、一族の子をオオカミから救ったという伝説の残るこの木は、しかし何も与えない。ただ、愚かな人間たちを見つめ続ける。人々は、誰にも言えない秘密を木に明かし、木に隠す。まるで告解のようである。主役二人の女は、ある秘密を抱えて死ぬが、それを明かすかどうかは、実は木に委ねて(丸投げ)いる。誰も、本当の意味で秘密(罪)を自分一人で抱えては死ねないのだろう。
主役二人の安定感は抜群。また「我が闇」で戦慄した映像演出も、今回は更に時を行き来する過程で、また木の神性表現するのに、それぞれ効果的に使われている。
静かにひっそりと一族に寄り添う闇に、畏れ慄く作品である。いつまでも余韻の残る作品である。
ただ、娘に冷たい父や、女好きの弁護士など、背景の見えないキャラクタもいて、手放しに「良かった」とも言えない。