ピーター・ブルックの魔笛 公演情報 彩の国さいたま芸術劇場「ピーター・ブルックの魔笛」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ぱぱぱぱぱぱぱぱ、ぱぱげーの
     誤解を招くことを承知の上で、あえて書くなら、ピーター・ブルックには、アマデウス・モーツァルトが全く分かっていない。
     しかし、モーツァルトが皆目分からないと知っているのは、他ならぬブルック自身なのである。彼の非凡は、まさしく「無知の知」によって支えられている。
     ブルックが『魔笛』の演出に当たって、確信していたのは、「理解不能でも、面白いものは面白いのだ」というこの一点にあって、だからこそ、オリジナルの『魔笛』を自由に解体し、他作品からの引用も行い、再構築することが出来たのだ。
     言い換えるなら、オリジナルの持つ「強さ」を信頼しているからこそ、ちょっとやそっとの改作で、モーツァルトの面白さが損なわれるはずがないという「敬意」の表れである。
     そのおかげで、今回の『魔笛』は実に軽妙である。軽妙であるがゆえに、かえって観客はそこに何かの「意味」を深読みしたがるものだろうが、そういう客をこそ、ブルックは「退廃観客」と呼んで嫌悪していた。難しく考えることはない。パパゲーノとパパゲーナが「ぱぱぱぱ」と愛の交歓をし合っているのを聞いて、そこに何かコリクツをひねくり出そうとしたところで無駄だろう。われわれはそこで大笑いしておればよいのである。

    ネタバレBOX

     ブルックにはモーツァルトが分からないと書いたが、もちろん、現代人で、モーツァルトが分かる人間なんているはずがない。
     モーツァルトの遺作である『魔笛』について、昔からマコトシヤカに語られ続けている都市伝説として、「モーツァルトは『魔笛』でフリーメイソンの秘密の儀式をバラしたために暗殺された」というものがある。フリーメイソンがカルト的な集団だと認識されるようになったのはモーツァルトの死後なので、もちろんそれはただの伝説に過ぎないが、後世、そのように喧伝されるようになったのは、当時のオペラの殆どが、「実在人物をモデルにしたパロディ」だったことに起因している。
     当時の観客たちには、夜の女王が誰であるか、ザラストロが誰なのかは一目瞭然であったろう。だから大いに受けたのだ。モデルにされた当人たちは苦虫をつぶしていたことだろうが。

     時が経ち、国も違えば、モーツァルトが仕掛けたそんな最初の「仕掛け」は全く分からなくなる。モーツァルトの意図が正確にはどうであったか、現代人には分からないと書いたのはその意味でだ。
     では、その物語は死んでしまうのかというと、そうはならない。その時代のみの特殊性を放棄した後、作品が再生される時には、新たな価値が付与されるのが常だ。よく引用される例としては、風刺文学の『ガリバー旅行記』が、現在ではファンタジーとして受容されていることが挙げられる。
     『魔笛』もまた、現在ではファンタジーの一つとして再演され続けているが、オリジナルのままの上演は、オペラとしての性格上、どうしても現代のスピード感覚に付いていけない面は残っている。元ネタの意味が分かるならともかく、オリジナル3時間の舞台は、オペラファンであっても、現代人にはいささかキツい。

     ブルックは、結果的に物語を1時間半に短縮した。
     フリーメイソンを彷彿とさせる儀式的な部分はまず殆ど省いている。しかし、主要人物までは、いくら元ネタが分からなくなっているからと言って、省いてしまえるものではない。
     しかし、ブルックは、脇キャラを除いて、主要人物たちに改変を施す意志はなかった。タミーノはタミーノとして、パミーナはパミーナとして、男と女を入れ変えたりとか、全員を男にするとかあるいは女にするとか、モーツァルトから離れるとか、一般的に「大胆」と言われるような改変は一切行ってはいない。
     どんなに「解体」し「再構成」しても、『魔笛』は『魔笛』のままだったのである。

     パロディの本質を知っている人間には、その理由がなぜなのか、お分かりだろう。パロディは、たとえオリジナルを知らなくとも、“なぜか面白い”ものなのだ。それは、優れたパロディには、オリジナルに対する徹底的な観察が行われていることが常だからである。当時の「文化」に対する、辛辣な批評が行われているからである。そしてその「批評性」は、それだけで独自の価値を生み出す。優れた批評文が、たとえその対象である作品を知らなくとも、面白く読めるのと同じだ。
     また、「古びたパロディ」は、その元ネタが分からないために、逆にシュールな面白さすら生まれてくる場合もある。実はブルックが「眼を付けた」のは。まさしくこの点にあった。

     またまた識者の神経を逆なでするようなことをあえて口にするが、『魔笛』のオリジナルを観て聞いて、その筋に納得している人間が本当にいるのだろうか。「分かった気になっている」人間が、意外と少なくないのではないか。
     そもそもザラストロと夜の女王が憎しみ会う必要があったのかとか、試練とか儀式とか意味あるのかとか、パパゲーノ、お前は何のためにいるとか、突っ込みだしたらキリがない。
     それを何とかリクツを付けて現代人はむりやり解釈しようとするが、本来それはあまり意味のあることではない。物語上の数々の齟齬は、元ネタとなった昔話に、「現実のモデル」を当てはめたために生じたものが殆どだからだ。
     先日、いわき総合高校の舞台で、『ファイナルファンタジー』の設定にむりやり実際の原発事故のキャラクターたちを当てはめていたが、まあ、あんな感じだ(あの舞台も、百年経って上演されたら意味不明な喜劇になることだろう)。

     ブルックの「再構築」は、そういった「よく分かんないが何か意味がありそうだ」という部分を「拡大」させていった点にある。
     即ち、ブルックが目指したものは、徹底的な「ナンセンス」なのだ。だから観客はいったんは混乱させられるが、そのうちに「何だかへんてこだが妙に可笑しい」気分にさせられるのである。
     中には「退廃観客」で、「分かんないものを脳内で補完する」手合いもいるだろうが、まあ勝手にしなさい、といったところであろう。

     もう物語は出だしから分からない。
     蛇に襲われたタミーノを、パパゲーノが「自分が助けた」と嘘をつくのだが、オリジナルでは彼の嘘を見破るのは夜の女王の侍女たちだ。ところが、その蛇と侍女たちを、ブルック版では黒人俳優が一人で演じているのだから、やられて床に倒れた蛇がいきなり立ち上がって、パパゲーノを嘘つき呼ばわりするのだ。
     この黒人俳優(もう一人いて、計二人)は、主要キャラクター以外の役を殆ど全て演じることになる。夜の女王とザラストロとの和解も、タミーノとパミーナの試練と恋の成就も、パパゲーノとパパゲーナの邂逅も、全ては黒人たちの「計らい」による。時には黒子的な行動すら取る彼らは、果たして物語を混乱させるためにいるのか収束させるためにいるのか、どちらとも判別がつかない。しかし、先述した通り、オリジナル自体、キャラクターたちの行動原理には不可解なものが多いのだ。
     オリジナルでは明確ではなかった物語を転がしていくトリックスターの働きを、この黒人俳優二人が担うことで、混乱は無理やり終焉を迎えることになる(役名も「俳優」だ!)。さながら、シャラントン精神病院患者たちの混乱を収束させたマルキ・ド・サドのように。

     今回のブルック演出の最大の特徴が、舞台美術とその活用にあることは論を俟たない。林立する竹のスティックのみ、オペラにありがちな豪奢なセットは全く用いられていないが、これを「シンプル」とだけ言ったのでは説明にならない。このシンプルさは舞台空間を平行横移動にのみ限定する目的でなされたものだ。
     舞台はそもそも、奥行きも含めて横の空間にのみ広がりを持っていた。現代の演出家、舞台美術家は、懸命になってそれを縦の方向に変化させようとしてきた。舞台上に山を作り、階段を作り、地下室を作り、窓から外に飛び出し、時には俳優は観客席の上空を飛びさえした。
     そんなことまでしなければ、演劇は、観客の想像を喚起することが出来ないのか、というのがブルックの謂いだ(もっともブルックがこれまで「縦の演出」を全く試みたことがなかったわけではない)。
     竹は全て、「天」を指している。時にはそれは黒人俳優たちによって横向きにされたりなぎ倒されたりするが、基本的には縦の向きのまま、森や門や壁を表現する。そしてそれは全て「横移動」によって行われる。その間をキャストが行ったり来たりするだけで、「演劇」は成立するのだ。

     そうして出来上がったのは、小味の効いた、ナンセンスな「軽演劇」である。そしてそれは、オリジナルの『魔笛』が持っていた楽しさを、再現したものになっているはずである。

     どうしても、この舞台を「小難しく」解釈したい人に。
     たまに日本語の台詞で、パパゲーノのが「オカアサン!」と叫んだり、舞台から降りて、お客さんをナンパしようとしていたが、ああいうベタなギャグって、「大衆演劇」の定番でしょ?
     今回のブルック演出は、日本で言えば「浅草軽演劇」である。森繁久彌なのである。全編、その精神で貫かれてるところが楽しさの所以なのである。

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    2012/04/04 01:14

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