Final Fantasy for XI.III.MMXI 公演情報 福島県立いわき総合高等学校「Final Fantasy for XI.III.MMXI」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    テーマ主義の弊害
     フクシマの高校の生徒たちによる、震災と原発を題材とした(明確に反原発をメッセージとした)演劇である。その事実を無視してこの舞台を鑑賞することは難しい。「あの事故を、実際にあの場所にいた生徒たちはどう感じたのか」。作り手の生徒たちが観客に伝えたいこともそれであろうし、我々の関心がその点に集中してしまうことも意識の流れとしては自然なことだからだ。
     しかし、そのために、「演劇として」この舞台を鑑賞する視点が客席から見失われてしまうことは、演劇部である彼らにとっては不幸なことなのではないだろうか。
     この舞台の欠点は、これが「テーマ主義」によって構成されているために、まずメッセージ性ばかりが強調されて、演技や演出についての分析を「口にしにくい」状況が生じていること(普通の芝居になら言える「へたくそ」という文句すら言いにくい。フクシマの学生が一生懸命作っているのにケチを付けるとは何事だ、というファンダメンタルでヒステリックな反発すら予想されるからだ)、そして、実際に被災地の当事者によって作られた物語であるにも関わらず、“被災地外の人間であっても作れる作品”になってしまっていることだ。
     恐らくは、その事実に気付いている観客も少なくはないと思われる。しかし、彼らにそのことを伝える大人はいない。誰も彼らを甘やかすつもりはないだろうが、結果的にはそうなる。彼らを評価するのは、こういうテーマがむき出しになった物語ではなく、もっと日常的な題材の演劇であったり、テーマを押し出さない純粋なエンタテインメント作品の方が適切なのではないだろうか。

    ネタバレBOX

     「テーマ主義」の作品が誰にでも書ける、というのは別に私が言いだした話ではない。菊池寛の一連の作品に対して行われた、文芸評論家たちによる批判である。伝えたい主題が決まっているから、その表現手段、キャラクター設定や物語の展開も自然と決まってくる。誰が書いても同じ、と揶揄されるのはそのせいだ。菊池寛の戯曲『父帰る』が映画『男はつらいよ』シリーズにさしたる工夫もなく流用されている点でもそれは明らかだろう。
     だから、書き手側にしてみれば作るのに苦労しない方法ではあるのだ。高校生ら演劇初心者に“教える側”としては、テーマ主義を一概に否定されても困るだろう。

     しかし、その「苦労しない」ことが、この舞台では「安易さ」に繋がっている部分も、決して少なくはない。
     特に「震災と原発」という、決して短絡的には結論づけられない重要な問題について、明確に「反原発」という一点にテーマを集約して描かせることが、果たして妥当であったかどうか、疑問である。エチュードを中心にして、生徒自身にアイデアを出させる方法は決して悪くはない。そこには「自然な感情」が表現として昇華されるための萌芽があるからだ。
     だが、多くの生徒がアイデアを持ち寄っているにも関わらず、物語が一つのテーマに「一貫しすぎている」のは、なぜなのだろう。果たしてこの物語は本当に生徒たち自身の心から生まれてきたものなのだろうか。そこに教師による「過度の誘導」がなかったかどうか、それはいわき総合高校の演劇部が、「高校演劇は高校生自身の手で」という目標を掲げる姿勢を堅持しているのであれば、きちんと問われなければならないことであろう。

     物語は、初め、二人の少女の会話から始まる。
     ヒロコとキリカ。陸上部だった二人。あの震災で引き裂かれてしまった二人。「あの時、待ち合わせ場所に私も行っていれば」。後悔を口にするヒロコ。目の前の椅子に座っているキリカは、もうこの世にはいないのだ。
     全編を通じて、最も演劇的だったのは、この冒頭シーンである。一方は生身の人間で、一方は幽霊。しかし心を失っているのは生きているヒロコの方であるようにも見える。「罪悪感」が彼女の心を押しつぶしてしまっている。
     二人の演技は極めて静かで、か細い声であるにも関わらず、いや、だからこそヒロコの胸を塞いでいる思いの重さが、客席にまで伝わってくるのだ。高校演劇にありがちな、ただ声を客席奥まで届ければいいといううるさいだけの過剰演技はここにはない。現代口語演劇の方法が、最も効果的な形で実行されている。
     キリカの姿は他の部員には見えない。ヒロコにしかキリカは見えない。それがヒロコの心が孤独に蝕まれている証拠だ。このシーンは、ラストの、再びヒロコの前に現れたキリカが、今度ははっきりと、別れを告げるシーンに呼応している。
     別れを告げられなかった友への思い。あるいは家族への、あるいは仲間への、もう伝えることが叶わなくなってしまった思い。被災地で、同じ思いをした人々がどれだけいたことだろう。この二人のシーンは、あの震災を経験した者にしか伝えられない「心」によって描かれている。

     ところが、これから先の本編が、一気に失速してしまうのだ。「心」ではなく「アタマ」で作った、出来の悪いギミックでできた玩具のような、チャチなシロモノに成り果ててしまう。
     旧校舎に「復活の呪文」が隠されていて、それを探し出せば、全てが元に戻る。その情報を信じて、ヒロコや良輔たちは倒壊の危険がある旧校舎に忍び込んでいく。
     そこで、菅直人やら枝野やら東電の社長やら、さらに保安員だの原子炉だのラスボスのなんたらエコノミーだの、「敵」が戯画化されて彼らの前に立ちはだかり、そいつらをヒロコたちは倒していくのだが、このあたりがサッパリ面白くない。
     アフタートークで「観る人によって受け取り方に温度差があるのは当然だし、押しつけがましくなることを避けた」「ただ怒りをそのままぶつけるのではなくて、笑い飛ばしてやろうと思った」という発言があった。
     その姿勢自体には共感するが、「押しつけがましくしたくない」という目的は、結果的には成功していない。押しつけがましさを回避した表現としては、せいぜい登場人物たちに「声高に反原発を訴えさせない」といった程度のことしか配慮されていない。全体的にはやはり「反原発」以外の見方はされていないのだから、多角的な視点がない点においては、やはり「押しつけがましく」なってしまっているのである。
     さらに彼らには「笑う相手を最初から戯画化していてはからかいにならない」というギャグの基本が分かっていない。だからゲーム部分がことごとく「絵空事」にしか見えなくなって、たいして笑えないものになっていることに気が付かないのである。
     いや、原子炉を寒いギャグで冷やすっての、馬鹿馬鹿しくて好きだけど、面白いかと言われたら、ちょっと困るでしょう。ゲンシーロくんの「受け方」の間がよくて、笑えはしたけど。

     揶揄する相手は、真面目に描かないとからかえないのである。ふざけて描くと、相手もこちらも同じキャラになってしまうので「馴れ合い」が生じるのだ。漫才の両方がボケになってしまうようなものだ。
     からかう相手が権威的であったり糞真面目であったりするがゆえに、かえっていざというときのオタオタぶりが滑稽に見えるのだ。サム・ペキンパー『戦争のはらわた』のラストの壮絶なギャグシーンを思い浮かべていただければ、権威とか真面目といったものがいかにくだらなくて、益体もない馬鹿馬鹿しいものであるか、それをどのようにからかえば表現として効果的なのか、ご理解いただけることだろう。
     銃に弾倉を装填するやり方すら知らなかったシュトランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)の姿は、原子炉の構造一つ理解していなかった東電幹部と見事に重なっている。

     コトが起きたあとで、彼らの無責任を追求するのは簡単である。
     しかし、コトが起きる前、我々は信頼とまでは言わずとも、生暖かい眼で彼らを見ていたはずだ。
     現地の人々にとっては、東電の人々はごく普通の近所のオジサンたちであったろうし、親しく声を掛け合った人々もいたはずである。
     その「東電のおじさんたち」が、いきなり悪の権化として糾弾されることになる。「でんこちゃん」は国民を惑わすプロパガンダキャラクターとして排斥されることになる。いや、それをしてはいけないというのではない。彼らが故意か、好意的に解釈してやはり「想定外」だったのか、どちらにしろ事故の責任を回避できる立場にないことは厳然たる事実だからだ。
     だとしても、東電と「共存」してきた現地の人々が、彼らを批判するためには、自分の身をも切る覚悟が必要になるのではないだろうか。ただ戯画化したキャラクターにしてからかうだけでは、それは「部外者の発想」と変わりがないのではないだろうか。
     実際、この舞台の中盤の殆どは、被災地外の人間が書いたのではないかと疑われるほどに「他人事」になってしまっている。原発関係者が、「敵」として相対化されすぎている。「RPGゲーム」という形式を持ち込んでしまったために、それ以外の描き方ができなくなってしまったのだ。

     たとえば、現地には、「東電社員の子供」だっているはずだ。彼らは、避難生活を送りながら、「お前の親父のせいでこんな目に遭ったんだぞ」などといじめられたりはしていないだろうか。
     そういう子供は、この芝居の中には登場できない。テーマから外れ、テーマを揺るがしかねないキャラクターは「邪魔者」なのだ。しかしそういう子供を排除することが、被災地の「現実」、ひいては被災者の「実感」を伝えることになるだろうか。原発推進派の言い分にも説得力がないわけではない。それを受け止めた上でなお反論する構造がこの舞台にはない。一方的な攻撃であってもそれが説得力を持つのは、勧善懲悪のエンタテインメントだけだが、この題材は、一番、そうあってはならないものではないのだろうか。
     単純なゲーム構造を持ち込んでしまったことが、この舞台を善か悪かの単純な二項対立による、極めて幼稚なものにしてしまっているのだ。
     「家を流された人と、ほんの数メートルで助かった人と、それだけで被災の実感に温度差が生まれる」との発言もアフタートークで気になったものの一つだった。この舞台を観た時の違和感がまさしくその点にあって、「被災の程度が低い人たち」が作った芝居なんじゃないか、という印象が拭えなかったからだ。

     震災も、原発事故も、喜劇にして構わないと思う。
     しかし、この事故を引き起こしたのが特別な悪人でも金の亡者でもなく、たとえどこぞの国にヘイコラしてきた連中が裏で糸を引いていたとしても、彼らはごくフツーの人々であって、なのに彼らの思惑が複雑に絡み合った結果、総体としては国を狂った方向に押し流してしまっていること――その視点がなければ、いくら国や東電をからかって見せたところで、批評性は形骸化するばかりだ。そんなものに意味はあるまい。
     観客は「別れの切なさ」に涙を流し、ああ、いいものを見たなあ、という感覚だけを持ち帰って、日常の中ですぐに震災のことも原発のことも忘れていってしまうだろう。
     観客は、映画や演劇で感動した涙を、決して現実には反映させない。口では感動したとか考えさせられたと言っても、実際には何も考えていないに等しい。“そんな気になって満足しているだけ”である。そのことは、かつて伊丹万作が『映画と癩の問題』という小文の中で指摘し、作り手としてはそんな観客の反応に惑わされてはいけないと批判していることである。
     「芸術の徒としての私は、芸術鑑賞および価値批判の埒内においては人間の涙というものをいっさい信用しない」と。
     
     「高校生が作った芝居なんだから」という言い訳は、自分で自分の首を絞めることになる。それは「高校生にはたいしてものを考える力がない」と告白するに等しい。
     アフタートークで、ともかくこの芝居は震災3ヶ月後の、情報が錯綜して、怒りの矛先をどこに向けたらいいか分からない状態で作った、今は冷静になっているので、もっと別の見方もできるようになったと思う、という発言があったが、そのことを肯定的に捉えたいと思う。
     勢いだけで作った演劇であるから、決して賞賛できる作品には仕上がっていない。そのことは、いわき総合高校の生徒たち自身が自覚していることである。
     ネットの批評子たちが、本作をろくに演劇としてどうかという分析もせず、安易に「頑張って作ったね」と誉めるのはいかがなものだろうか。もうその発言の「偽善性」に、いわきの生徒たちも気付いていると思うけれど。

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    2012/03/09 01:05

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