立川志らく 独演会 公演情報 福岡音楽文化協会「立川志らく 独演会」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    酒と泪と男と女
     『談志・志らくの架空対談 談志降臨?!』(講談社)を上梓したばかり、これで著作は何冊になるかってくらい、志らくの文筆活動は落語家随一だ。今回はもちろん談志の死去に伴って出版されたものだが、他の弟子たちの「追悼本」が、概ね師の回顧録になっているのに対して、"才人"志らくは一風変わっている。師匠の生前、実はそんなに腹を割った会話をしたことがなかったという志らく、師匠ならあのことについてこうも言うか、ああも言うかと、勝手に想像して一冊をでっち上げたのだ。
     「死人に口なし」で自分に都合のいいことを書き放題なわけだから、師匠への冒涜、不遜な行為だと捉える人もいるだろう。しかしそれこそが志らくの眼目なのである。
     不世出の落語家である立川談志を超えられる存在などあるはずがない。あるとすれば、それは"談志の幽霊"にでも出てきてもらうしかし方がない。志らくは談志を地獄の釜から召喚したのだ。これは「憑依」である。それができるくらいに自分は「談志を知っている」という自負の表れでもある。
     志らくは高座で談志の形態模写を披露した。似ていた。単に声や仕草が似ていたということではない。いかにも談志が言いそうなことを志らくは言った。客席で一瞬息を呑んだ観客が大勢いたことを私は確認した。これほどのそっくりぶりを見せてくれた例を他に挙げよと言われれば、私はタモリの寺山修司のモノマネくらいしか思い浮かばない。
     これほどの至芸を観られたのだから、充分満足で、あとの落語は付け足しのようなものであった。
     と書くと志らく師匠に失礼だが、落語がそこまでの出来ではなかったのは本当だから仕方がない。

    ネタバレBOX

    【演目】
     前座『転宅』(立川らく次)
    『親子酒』(立川志らく)
     仲入り
    『子別れ』(立川志らく)

    『転宅』
     大雨で電車が遅延し、10分ほど遅刻、後半しか聴けなかったが、泥棒が義太夫の師匠にまんまと煙に巻かれる噺で、普通に演じて普通に笑えるもの。らく次は特にそつなく演っていた。

    『親子酒』
     マクラは殆ど談志のエピソード。
     大雨で遅刻者が私の他にもいて、客席がチラホラ空いている。「東京では満席なのに空席があると、ヤフオクに出されてるんです」と言って談志の話に移る。「ヤフオク? なんだそりゃ、ダフ屋じゃねえか!」
     ある時、チケットに八万円の値が付いたことを知った談志、高座に上がるなり、客席に向かって怒鳴って言った。
    「この中に八万円出して来てるやつがいる! 落語なんてものぁな、八万も出して聴くもンじゃねェンだ。タダでもいいんだ。頭に来たから、今日は八万出したやつが損したって悔しがるような酷い噺をやる!」と言って、本当に酷い噺をしたそうな。
     「他のお客さんこそ、いい迷惑で」とは正にその通り。しかし、そんな風に客としょっちゅう喧嘩していたのが談志の持ち味だったと、志らくはしみじみと語る。
     他には、師匠が病室で弟子たちに遺した最後の言葉が「オ○ンコ」だったとか(志らくは遅れて来たので一人だけ別の言葉を貰えて嬉しかったとか。「ドアを閉めろ」だそうだが)、談志話だけでおよそ30分。マクラの長い落語家も少なくないが、これは格別だった。

     お互いに禁酒の誓いを立てた父親と息子が、結局は二人とも呑んだくれてしまう噺。
     親父が何だかんだと女房を丸め込んで酒を注がせるのをいかに自然に見せるか。これはかなり難しく、たいていの落語家は不自然さを誤魔化すために、女房の反応を描写しなくなる。志らくも同様。親父と息子の演じ分けもあまり巧くない。

    『子別れ』
     人情噺の大ネタで、これもかなり難しい。笑わせるのがではなく、泣かせるのが、である。談志は昔はこの噺をバカにしていたそうだが、どういう心境の変化か、晩年はよく演じるようになったそうである。
     若いころはバカにしていた、というのはポーズだろう。「落語は人間の業を描くもの」、と生前語っていた談志である。熊五郎の放蕩と改心に「業」を見出ださないはずはない。談志をして、若き日には演じることを躊躇わせた難しさ、それが『子別れ』にはある。

     熊五郎は勝手な男だ。吉原で散々遊んで帰って来て、女房に馴染みの遊女とのやり取りの一部始終を自慢げに語るような男である。女房もついに愛想を尽かして、息子の亀坊を連れて出ていってしまう。これ幸いと、遊女を身請けして新しい女房にするが、これが酷い女で、所帯を持った途端に我儘放題、挙げ句に男を作って逃げてしまった。すっかり懲りた熊五郎、真面目に働くようになって2年の月日が経つ。ひょんなことから前の女房と亀坊に再会したが……。

     放蕩時代の熊五郎、これはまあ何とかならないでもない。女房をないがしろにする身勝手さ、その癖、女房が我慢してくれると思い込む甘えた根性、大なり小なり、男にはそういう部分がある。
     難しいのは「改心」する描写だ。『芝浜』もそうだが、男の改心を説得力をもって演じることのできる落語家は滅多にいない。なぜなら、本心から改心する男など、現実には存在しないからだ。
     『子別れ』も『芝浜』も、後半はファンタジーなのである。ファンタジーに現実感を持たせるためには、どれだけの技量が必要となるか。再会したがそこに「業」を感じさせ、客の泪を誘うにはどれだけ研鑽を積めばよいか。
     志らくはまだ「型」をなぞるのが精一杯である。客は誰一人泣いてはいなかった。
     志らくに『子別れ』は、そして恐らくは『芝浜』も、「早すぎた」ということなのだろう。

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    2012/08/05 22:03

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