飛び加藤 ~幻惑使いの不惑の忍者~ 公演情報 東宝「飛び加藤 ~幻惑使いの不惑の忍者~」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度

    飛べないアヒル
     カーテンコールで出演者の誰かが「こういう純粋なエンタテインメントな作品は最近少なくて」という発言をしていた。エンタテインメントも随分安っぽくなったものである。
     脚本は陳腐で矛盾だらけ、役者の演技は質がバラバラで噛み合っておらず、手妻や和琴もドラマに有機的に関わっているとは言い難い。部分部分としては見るべきものもあるが、総合的には雑、としか言いようがないのである。結局、これらの欠点を見過ごした演出の河原雅彦が無能なのである。
     ところがネットの感想を散策してみると、これが案外、評判がよい。どういうこっちゃ、とよく読んでみると、「涼風さんがよかった」とか「手妻が素敵だった」とか、まさに部分的なことばかり。だったら「涼風真世ショー」や寄席を観に行けよ、という話にしかならない。"演劇として"作品を観ようとする姿勢が皆無なのだ。
     8,000円も払ったんだから、満足した気分に浸りたい気持ちは分からんでもないが、作り手はその料金に見合うだけの内容のものを提供しようなんて誠実さはカケラもないぜ? レストランで腐った料理が出されたら「シェフを呼べ!」ってことになるだろう。なぜ作り手に媚びなきゃならないのか、世間の演劇ファンの(本当にファンなのかどうか怪しいが)「誉めなきゃいけない症候群」もかなり重症だ。
     河原雅彦にも『鈍獣』という傑作があるから、つい期待してしまうのだが、前作『時計じかけのオレンジ』のメリハリの無さを想起すべきだったか。目端の利いた観客なら、この脚本家と演出家とキャストではたいした作品にはならないと判断するだろう。それが集客の少なさに如実に表れている。
     あえて旬でもない中年俳優を主役にして盛り立てようって企画意図は評価したいが、だったら作品の内容や宣伝戦略を根本から練り直す必要があるだろう。劇団☆新感線の『五右衛門ロック』のような冒険活劇のシリーズ化を狙ったような作りだったが、どうやら続編は難しそうである。

    ネタバレBOX

     『五右衛門ロック』『薔薇とサムライ』と二作続けてアウトロー・ヒーロー石川五右衛門を演じた古田新太は、「今さらこんな古臭い設定の話が受け入れられるのか、と思っていたら、案外、お客さんが喜んでくれたので、やる気が出た」と発言している。
     その通り、時代はいつでも救いのヒーローを求めている。中年ヒーローが活躍するドラマや映画もひっきりなしに作られている。元気のない時代のだからこそ、オジサンが"もう一度"再起する冒険活劇を、という発想は間違ってはいないのだ。
     設定が定番過ぎるのも、そのこと自体は問題ではない。と言うより、基本的なアイデアはルーティーンである方がいいのだ。アイデアの組み合わせと展開次第でドラマを盛り上げることがいくらでも可能になる。

     『飛び加藤』はアンデルセンの『人魚姫』をモチーフにしたと謳っているが、それは楓(佐津川愛美)視点で見た場合で、加藤段蔵(筧利夫)視点なら、「お姫さまのための自己犠牲」と来れば、これはもう『シラノ・ド・ベルジュラック』であり『ゼンダ城の虜』であり『ルパン三世カリオストロの城』である。真実の恋に気付いた楓が段蔵を看取るシーンなどは『シラノ』そのまんまで、そのあまりに工夫のない堂々としたパクリっぷりは、かえって清々しく感じるほどだ。伊賀忍者・服部与三郎(三上市朗)の追う者と追われる者の関係は、これまた『逃亡者』『カムイ外伝』他枚挙に暇がないし、段蔵に裏切られ、醜い老婆と化し、復讐の念に駆られる桔梗(涼風真世)は、これはもう『四谷怪談』のお岩さんだ。
     おかげで筧利夫は一人でシラノとカムイと民谷伊右衛門の役を兼任する羽目になったが、これは詰め込みすぎというもので、おかげで段蔵のキャラが複雑になりすぎて、鬱陶しさが前面に出過ぎて、物語自体を沈鬱なものにしている。筧利夫の演技がまた、つかこうへいの悪影響が残った一本調子の絶叫型だから、段蔵のキャラを全く表現できていない。つか演技はつか戯曲のつか演出でしか成立しないことを、演出の河原雅彦は理解していない。だから筧の臭い小芝居に駄目出しが出来ない。
     シラノを演じるには、騎士道精神が必要になる。その本質は男のストイシズムだ。つか演出はそれを真っ向から否定するところから出発している。つまり筧利夫をキャスティングしたこと自体が失敗なのである。

     ドラマに殆ど絡まない無駄なキャストが三上市朗の与三郎で、抜け忍となった段蔵を追いつつもその立場に同情し、陰日向に支える。だったらこの男は段蔵亡き後、楓を見守る役割を担わせるために生き残らないと意味がない。ところが中盤で唐突に段蔵に決闘を挑み、命を落とす。わざと斬られたと言うがなぜ? 最後の決闘は普通、ラストで、城から脱出した後でやるものだ。なぜこんなタイミングの間違いをやらかしたかと言うと、ラストでシラノをやりたかったから、そこに対決を入れられなくなったのだ。脚本の蒔田もバカだが、改訂しなかった河原がやっぱりもっと大バカ。

     称賛の声が多い桔梗役の涼風真世だが、あれはヅカ演技が浮いているだけである。呪いによって老婆となった怨みを段蔵に抱いている設定だが、妖術で美女にも変身できるようになったのなら、かえって得したんじゃないかと思うが、一度抱いた憎しみはそう簡単には消えないってことだろうから、それはよしとしよう。
     理解不能なのは、楓まで坊主憎けりゃ袈裟まで憎しで、その声を奪ったことだ。綺麗な声と優しい心の持ち主はみんな憎いって、そこまで逝っちゃったら誰も桔梗に同情しない。段蔵の自業自得を描くのなら、桔梗を嫌われるキャラにしてはいけないのだ。
     これも自分勝手な嫉妬心を持つお伽噺の魔女と、男に翻弄される哀れなお岩という相反するキャラをこきまぜたために生じた失敗だ。
     桔梗は死んだと見せかけて、ちゃっかり生き残るが、ならば楓にかけた呪いを解いたのはいつでなぜなのか、これも不明瞭だ。

     物語の進行役として、手妻師の鈴川春之助(藤山新太郎)と江戸町奉行・大野久信(俵木藤汰)を配したのも頂けない。要するに舞台で藤山新太郎の芸を見せたいだけだ。だったら語り手なんて役ではなく、段蔵の手妻の師匠とか、物語にちゃんと絡む役で出演させた方がよい。この二人が出てくるたびに、話の流れが中断されて、テンポが狂いまくっていた。

     しかし、一番どうしようもなかったのは、クライマックス、段蔵と楓の脱出行だ。
     敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥り、段蔵は「取り寄せの箱」を示して、楓に中に入れと言う。「中に入って100数えたら、城の外に出ているって寸法だ」。
     しかし楓は段蔵の手妻が全てインチキだととうに知っている。段蔵が単に楓を守り死地に血路を見出だすために、箱の中に入れようとしているのだと気付いている。なのにあっさり箱の中に入るのだ。ちったあ逡巡しろよ、と言いたい。
     段蔵は楓の入った箱を背負って敵と戦うが、もちろん本当に楓を中に入れていてはアクションができるはずがない。佐津川愛美は舞台裏にすり抜けているが、おかげで筧利夫が空の箱を背負っているのは丸わかりなのだ。これまでの段蔵の手妻が全てインチキだった以上、ここは観客に「本当に楓を中に入れてる!」 と錯覚させなければ感動は生まれない。せめて箱が空とは分からない程度の重しを入れられなかったものだろうか。

     「素敵に騙してよね!」とは、楓が段蔵に言った台詞だ。正しくその通り。下手な手妻では、「何でも誉め屋」の客は騙せても、普通の一般客は騙せないのである。

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    2012/08/07 00:11

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