イエ・ドロ立体落語
イエロー・ドロップス
らくごカフェ(東京都)
2010/07/04 (日) ~ 2010/07/04 (日)公演終了
満足度★★★★
新・RAKUGO入門
正直に言ってしまうと落語ってちょっと古臭いな。っていうネガティヴイメージがあったのですが、イエ・ドロの立体落語は今の時代にフィットするようにリメイクがほどこされていたので野暮ったさがなく、ヴィジュアル的なおもしろさと軽快なテンポで話がサクサク展開していくのでとても楽しめました。
原典をご存じの方はアナザーラインとして。
私のようにテレビや動画でしか落語を見たことがなかったりする方には落語の入門編として観るのにピッタリです!
ネタバレBOX
●番町皿屋敷(作:岡本綺堂)
亡き母の取りきめた許婚がいると知りつつも、殿様である青山播磨と交際している播磨の腰元お菊はある日、播磨の本心を確かめるために青山家の家宝である10枚の皿のうち一枚を故意に割ってしまう。そのことがバレタお菊が井戸の中に身投げをし、以来、井戸の前を通ると「いちまーい、にーまい、さんまーい・・・」と皿を数える声が聞こえてくる・・・
という奇妙な現象が起きている、お菊の死後からはじまる。舞台はお菊の死んだ井戸。ここには、井戸を勝手に仕切る男がおり、そこへ井戸から聞こえてくる奇妙な声を聞こうと井戸にやってくる若者らがやってくる。
男はお菊の声が聞きたければ金を払え、死にたくなければ耳栓を買えと言う。金を払うことにはしぶしぶ了解した若者だったが、耳栓まで買いたくなかった若者らはお菊が皿を10枚数えた時にポックリ死んでしまう。
耳栓を買う金をケチったからだ、と呆れる男と、自分にも分け前をクレとねだるお菊。
幽霊と金にセコイ男がグルだったという視点が面白い。
強いと言えば、この男に播磨を呼び出しさせて、懲らしめてやるところも見てみたかったかな。
●品川心中
住み替える金がなく自殺を決めた花魁のお染は、貸本屋の金蔵を道連れにして心中を決める。お互いの首を剃刀で切りあって自殺しようとするのだが、金蔵が嫌がるので品川湾から飛び込み自殺することに。
モタモタする金蔵を突き落とし自分も死のうという時に、金が出来たとの知らせが入り、お染は死ぬのが馬鹿らしくなって金蔵を置いてサッサと引き返す。
オフィシャルな品川心中はこの後、金蔵の親分と弟が出て来てお染を復讐することになるが、イエ・ドロの品川心中では、浅瀬の品川湾で死ななかった金蔵がこの次の演目『幽霊の辻』で自ら幽霊になりすまし、お染を騙す。
●幽霊の辻
堀越村への道程を茶店の婆(この物語のなかでは爺)に聞くお染は、通過する場所に纏わる怪談話を聞かされる。
この演目はYoutubeにUpされている桂枝雀のヴァージョンと語り口調がほぼ同じだったとおもう。
池の前を通りかかると「遊びましょ」と間引きされた子や死んで生まれた子どもらから声をかけられ池にひきづりこまれる、『水子池』の怪談話に変化はないものの、二番目の追いはぎの犯人扱いされて村人らに首を斬られた侍の怨念か、地蔵の前を通りかかると地蔵の首が頭に吹っ飛んでくるという『獄門地蔵』は大幅なリメイクがほどこされていた。
それは、この原っぱで昔戦があって、50人もの戦士が死んで、村の人たちが供養するために地蔵をピラミッド式に並べた。
夜になると首のない将軍らが鎧が擦り合わさる音をガシガシたてて、通りがかる人の背後からついてくるらしい。彼らは首から上がないので何もしない。しかし、通行する際、そこにいる人を全力で踏みつぶす・・・というもの。
この話はシュールでかなりおもしろかった。しかも、「ということを、ちょっとお知らせしておきます。」のキメゼリフも入り、爺のしたり顔も相まって、とてもよかった。
この後の展開もオフィシャルとは異なるものだった。
あの世の入口としてセッティングされた『番町皿屋敷』の『井戸』に幽霊のフリをした金蔵が現れて、死んだはずの金蔵の姿をみたお染が腰を抜かして物語は終わる。
●粗忽長屋
浅草寺に詣に来た八が、通りでみかけた身もと不明の死体を、友人の熊八だと確信し、熊八を連れて現場にやってきて・・・。
原典では、八と熊八は同じ長屋に住んでいるという設定になっているが、イエ・ドロでは子どもの頃から兄弟同然に親しくしている仲だという風に改変されているため、説得力があった。
ふたりのすぐ横に転がっている身もと不明の死体を熊八だと信じて疑わない八と、八の言うことに疑問を持ちながらも信じてしまう熊八。両極端な自意識を持つふたりのかけあいが面白い。
これまでの疾走感とは打って変わって、じんわりと見せた人間ドラマだった。
「死体を抱きしめているのは確かにオレだが、抱いているオレは一体だれなのだろう?」というオフィシャルの〆ゼリフを「自分は一体誰なのだろう?」という言葉に書き変えていたのも興味深い。
最終的に番町皿屋敷、品川心中、幽霊の辻の3演目をくまなくリミックスする構成は斬新だった。普段からこういうスタイルで作演しているのだろうか。
温故知新というか、古典を踏襲しつつ、座布団に正座のスタイルから立ち上がり、3Dで創作するのはとてもいい試みだとおもう。
白塗りで着物でお江戸でコミカルというと私などはどうしても志村けんのバカ殿様なんかを連想してしまう。
そういえば白塗り男性が時折口をンっとすぼめる仕草は、志村けんのそれと非常によく似ていたようにおもう。
挿入音楽も、三味線ではなく、映画『黒猫と白猫』のサントラや洋楽を使用していて和洋折衷な感があって個人的にはとても好み。
たとえば少し日本舞踊的な動きや早乙女太一ばりの流し目を入れたり、お決まりの曲で踊る、などの定番が入るともっと面白くなりそうな予感。
芥
護送撃団方式
d-倉庫(東京都)
2010/07/01 (木) ~ 2010/07/04 (日)公演終了
満足度★★
人間だってリサイクル。
気鋭の役者が集まり立ち上げた団体の旗揚げ公演。公演毎に作・演出を招くスタイルだそうで今回はダムダム弾団の藤森俊介さん。藤森さんは人間の負の部分と砕けたギャグが持ち味の作家さん。
あらすじ書きからひょっとして人間がゴミに例えられるとか、人間がゴミになるとか、そういう方向になるのかしら。なんて浅読みをしていたのだけれども、あながち間違いでもなかったようで、端的に言って利用価値のある人間とない人間が壁で隔てられている話だった。
ネタバレBOX
浄御原の南に位置する島『浦倭』には犯罪者や難民などいわゆる『はみだし者』が多く収容されている。辺り一面は高い壁で覆われており、外に出ることは許されない。
彼らは主に、浄御原から運搬されたゴミ処理作業を行っていたが新システムを開発した浄御原は突如としてゴミを排出しなくなり、彼らのやるべき事はなくなった。
そんな折、ある男が浦倭に乱入したと、浄御原の管理局から一報が入る。
どこからともなく風のように現れたその男は『悪太』といい、シリアルキラーのような狂気と凶器を併せ持ち、この世の終わりのような顔をして叫んだりがなりたてる。彼はどうして血相を変えてここに乗り込んで来たのか。なぜそんなに怒り狂い何を目的としているのか、何となく分からない・・・。
そんなことがこの芝居の中にはいくつかあった。
例えば葛という男。この男は悪太の兄であり、葛は「ゴミをなくすのがオレの仕事だ」というのだが、新システムの開発でなくなったハズのゴミを、なぜゴミ自身が生み出さなければならないのか、その理由やあらましがわからない。悪太が不幸を運んできたとか!?悪太も悪太で兄を追ってせっかく(?)浦倭に乗り込んできたのだから、本音を合うなり喧嘩するなりガチンコ対決すればいいものを、浦倭に住む善良な市民らにいきなり襲いかかったりするものだから、一体どんな気持ちを抱けばいいのかよくわからなくなってしまった・・・。
悪太のように『使えない人間』をゴミとして処分するのが葛の本来の目的なのはわかる。わかるのだけれども、仮にも兄弟なのだし、そうすることへの戸惑いや葛藤や苦悩はないものかな、とおもった。浦倭に住む人々の、ゴミ人間らしい言動もなく、私には彼らは仲間や兄弟を大切にするちょっとドジな気のよい人たちにしか見えなかった。
後半、兄が「世界を浄化するために」作った人間兵器で世界を破滅させようとするのは何だかなぁ・・・。
悪太も兄も正義がないという視点は面白いけど「ゴミはゴミらしく生きろ。」って台詞も何だかなぁ・・・だった。
とはいえ、鎖で繋がれたチープでサイヴァーチックな人間兵器のアイボは映画『鉄男』みたいでそそられた。笑
浄御原を東京都、浦倭を夢の島に隠喩して、使える人間と使えない人間に『分別』し、後者を『ゴミ』だと揶揄することは、人をモノ扱し平気で切り捨てる現代社会を風刺するメッセージとして伝わってきた。
ただ、物語にスピード感がなかったことが、殺陣の迫力を圧迫してしまったような印象を持ってしまったことも事実。
上演時間と1シーンごとの時間をもう少しタイトにしたら変わるのではないかな。それから、ダンスの分量はもっと多く取り入れてもいいかな、と。動きにキレがあって恰好よかったので。
男女
MacGuffins
RAFT(東京都)
2010/07/03 (土) ~ 2010/07/04 (日)公演終了
満足度★★★
男ってこんなもんさ。
男性からみた女性像の本音が話の主体になっていたために、男の子にこんな風に見られていたんだ、という驚きがあり、男の子って何を考えているの?女の子のこと、どう思っているんだろう?なんて素朴な謎がちょっぴり解けたような気がしたし、元気ハツラツにはっちゃけている役者さんたちはとても微笑ましかった。これであと、団体のカラーが出てきたら尚更良いですね。
ネタバレBOX
「18歳ロケット」
視聴覚室で告白をするとカップルになれるとの噂を聞きつけて、大好き中野さんに告白を決めた宮本は坪井に冷やかされる。そこへやってきた土田は坪井とケンカになるが、土田は坪井に告白しふたりは部屋を後にする。驚きを隠せない宮本。だが、噂はどうやら本当らしい。間を置かずに今度は真淵が、更にお目当ての中野さんも部屋に来て、宮本と真淵はどちらが先に中野さんに告白をするか揉める。じゃんけんで順番がきまったところで今度は島貫という男がやってきた。何喰わぬ顔をして井伏鱒二全集1を読みはじめる島貫に告白の邪魔になると島貫を追い払おうとする宮本と真淵。部活動で視聴覚室を使っていると応戦する島貫。そして今、井伏鱒二が好きだと島貫に告白した中野が、『たま虫を見る』が掲載されている井伏鱒二全集2を借りるため、島貫の後について部屋を出ていく…。
視聴覚室に入ってくる人々の認知度のズレ(勘ちがい)から生まれる予期せぬ笑いをテーマに『漁夫の利』を実例化したような話。
同時刻にふたりの男子から呼び出されてた中野さんが彼らを目の前にして、
「あら、おふたりさんお揃いで。」とかしらばっくれて弄んでもよかったような気はした。
「エレクトリカルパレード」
ディズニーランドに遊びに来たのに入場制限で入れなくて、泣く泣くお隣の葛西臨界公園にやってきた若いカップルが「前もってチケットを買っておけば、こんなことにはならなかった」とお互いを責め合っている。
どちらとも一歩も引かない構えが続くなか、黒いマントを翻し怪しげな男が現れる。彼はディズニーランドの地下室で冷凍保存されたウォルト・ディズニーだと名乗る。無論、ふたりははなから信じていないのだが、地下室に繋がる鍵を開ける門番を探しあてれば、特別にディズニーランドに入れると言われたので女の方は自称ウォルト・ディズニーな男の話を信じているフリをして、写真で見せれられた門番をさがしはじめる。すると、彼女の子どもを名乗る女が目の前に現れ、女と浮気をしたと名乗る男も現れる。男女の喧嘩が激しく火花を散らす中、門番の『ウォーリー』が鍵を持ってやってくる。しかしふたりにはウォーリーの姿は見えない。夢を見ることを忘れてしまったからだろうか。ふたりは彼女の浮気が原因で離別する。
既存のキャラクターをパロディー化して、『さがす』ことに副次的な意味合い噛ませているのは面白かったのだけど、ひとりづつ舞台にやってきて、何かをやらかすことが一話目からパターン化されてしまっているように思えたためか、女と浮気をしたらしい男が現れても意外性をあまり感じられなかった。また、その後で別れる話が出た時もお互いを責めることしか出来ないふたりなら、仕方がないかなぁ…と。
別離に至るまでの男女の気持ちの変化のようなものが描かれていれば異なる印象を抱いたかもしれない。
「love song 探して」
働いたら負けだ、とは思わないけど働くのが勝ちとも思えない、生きてる実感を持てない二十代半ばの澤木がある日、バイトでもはじめようかと情報誌でみつけた会社に電話をする。電話を切ると、部屋から出て、電車に乗って街へ出る澤木の動向と、その他のキャストの動向が舞台の後方部に設置されたプロジェクターに投射され、この映像が終わると澤木が先ほど電話をした会社の面接の場面に切り替わる。映像のなかでストーリーを動かし、その続きを舞台ではじめるというのは非常に斬新だった。
ドラクエに出てくる”くさったしたい”みたいだと自らを体言したことが買われた澤木はあっさり採用が決まる。この会社は実在しない女性になりすましたスタッフらが、女性と出会いたい男性ユーザーにメールを送信させることによって売上をつくっている悪質な出会い系サイトを運営しているが、ここで働く若者たちに人を騙しているという罪の意識は全くなく、彼らの創作したキャラクターとやりとりをしているユーザーをおちょくったりしている。そこへ、サイトの高額利用者ジャスティスが登場し事態は一変する。
借金を作ってまでサイトを利用していた彼は架空の住所を記載しているこの会社を調べあげ、これまで入金してきた分を取り返しに来たのだった。
「金を持ってこい」とまくし立てるジャスティスに「近くの金庫から取ってくる。」
と部屋からひとり出て行き、彼が部屋に戻ってこないことを悟った残りのスタッフらがあの手この手をつかって何とかこの部屋から脱出しようとするのはおもしろかった。
まぁ、二人目と三人目はビルの地下に金庫があるとバレバレの嘘をついてどさくさに紛れてノリで出て行った感はあるけど、四人目のメールレディが、「借金を作ってまでして架空の女性に惚れこむ一途なジャスティスさんはカッコイイ」といい、ジャスティスさんとなら寝れるとまで言い放つあのくだりは秀逸だった。ジャスティスを混乱させる狙いがあったのだろうか。これをきっかけに彼女は無事、外へ出られた。
残るは”くさったしたいくん”ただひとり。
社会人への一歩(就職)につまづいてしまった自分に比べて、普通に毎日働いて、普通に子どもがいて、普通にローンで家を買って・・・そんなことを普通にしているジャスティスをベタ褒めした上であなたにも家族がいるのだし、僕もせっかく決まった仕事を失うことになるからこのことは誰にも言わないからもう止めましょう。と諭す。ここでの駆け引きはなかなか見応えがあった。
最後にジャスティスが彼を刺殺してしまうだろうことは途中で何となく想像はついたがものの、いざそうなってみると非常に後味が悪かった。
「10 Years Later」
「18歳ロケット」から十年後、風俗嬢になっていた中野さんに”中身のないたまねぎ”を差し出す男子のしぐさが印象的だったけれど、残りの男子たちは一体何をしているの?という謎が残った。
全体的に、良くも悪くも舞台空間の使い方が平面的で、テレビをみている感覚に近かった。それが団体の特色だとしたら、テンポやリズム感に何かしら工夫は必要ではないか、と。
あと、まくしたてるような喋り方をしている登場人物ばかりだったのは気になってしまった。もう少し違ったタイプのキャラクターも見てみたかったかな。
浦島氏の教訓 公演終了 ご来場御礼
殿様ランチ
サンモールスタジオ(東京都)
2010/06/23 (水) ~ 2010/07/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
不意打ちの連続。
劇的な展開になりそうになると振り出しに戻り『こういうことは普通にありそう』な話を1からはじめることがミッションであるかように、素朴な場面描写がちまちまと繰り返される。
ストーリーの面白さで舞台を牽引していくというよりも、どちらかといえば役者の所作や何気ないひとことにスポットライトがあたっている感じ。
派手さはないけれど、地に足のついた面白さ。映像と音楽のセンスも抜群。
からくり仕掛けの舞台装置にもきっと心ときめくハズ。
近頃人生に疲れているひとたちに是非おススメしたい舞台。思わず二ヤリすること必至です。
ネタバレBOX
風呂なしオンボロアパートの一室から殺人事件の犯人が立ち寄るかもしれない元恋人宅を張り込みをしている刑事たち、所轄の警部、クリーニング店店員らのエピソードを中心に描いていく話。
物語にひとつの筋を通すというよりも、ひとつの場所でいくつもの場面を紡いでいくスタイルで、舞台中央にある押し入れの扉が『どこでもドア』になっていて、扉を出入りすることで場面が変化したりする。
扉の向こう側の背景が、押し入れになったり玄関になったりする舞台装置のカラクリがのび太の押し入れに住んでいるドラえもんみたいでワクワクした。
機材やらテーブルやらを持ちこんで張り込みの準備を整えてからというものの、職務を全うし、地蔵のように椅子に座り夜通し張り込みつづける真面目な刑事がいる一方で、夏合宿に来たようなノリなのか張り込みを放棄して寝るフリーダムな若造の刑事がいたり。のっけから水道が止められていてトイレが使えない!って大騒ぎする刑事がいたりするのが面白い。
駅のホームで体格の良い男数名にボコボコに殴られていたクリーニング店店長を、勤務時間外だったという理由で助けなかった十勝刑事は上司の沢木刑事から、例え勤務時間外であったとしても、困っているひとがいたら助けることが常識だし、そんなことは言わなくてもわかるだろうと御託を並べ、勤務中だったら助けたか?と問う。すると十勝は「モチベーション次第では。」と答える。世代間の違いだろうか。脂の乗った上司から『常識』の差異について怒られる部下というシチュエーション、あるあるとおもった。
また、十勝のスルーした一件が、いじめられている亀=クリーニング店店長、浦島太郎=十勝に置き代えた『もしも浦島太郎が亀を助けなかったら』ヴァージョンの再現だったのかな、とおもうと役者の所作がこれまでとは違った風にみえてきて、より楽しめた。
一方、店を閉めて実家へ帰ることになったクリーニング店店長に次の仕事を探すように言われたアルバイト店員の朝倉が、『姫と出会っていなければ浦島太郎はあんな思いをしなくてすんだ。』と主張していた店長に、自分の気持ちを竜宮城の姫になぞらえて『浦島と過ごした時間を忘れてほしくなくて、玉手箱を渡した姫の気持ちがとてもよくわかる』と店長に告白し、店長の田舎連れて行ってほしいと頼むシーンは、とってもチャーミングだった。浦島太郎がこんなに胸がキュンな話だとは想像もしていなかったので、驚いた。
この後、クリーニング店店長のせいで上司から怒られたと被害妄想に陥った十勝がふたりのもとへやってくるラストでは、悲劇にもつれ込む予感がするのが興味深い。朝倉が姫、店長が亀だとすると浦島太郎(運命)には逆らえない、ということなのだろうか。
部下に麻雀の駒なんか買い与えたりして一見イイ人そうに見える鍋島刑事が、「世の中のすべてのことはじゃんけんで決まるものだ」と主張して、事件を自分の手柄にしようとするわるいひとで。
こういう上司に騙されないようにしよう。というのが個人的には一番のいい教訓になった。笑
恋十夜
鮭スペアレ
遊空間がざびぃ(東京都)
2010/06/17 (木) ~ 2010/06/20 (日)公演終了
満足度★★★
うつつをぬかした初夏の夜。
何かを強くおもう気持ちを『恋』になぞらえて描かれる10編。
夢とも現ともつかない摩訶不思議な世界に飲まれました。
音楽劇とあって浪曲、ロック、民謡、ワルツなどバリエーションが豊富で、生演奏も迫力満点でした。
また伝統芸能を取り入れつつアレンジしている一面があり、文化的な観点から作品作りをされていることが伺えます。
団体の演劇に対する姿勢や、中込さんの言葉の感度、物語の紡ぎ方が抒情的で素敵です。今後は海外での公演を視野に入れて活動して頂きたいですね。
ネタバレBOX
ぐるりと取り囲む360度、楕円形の客席の内側が舞台。
第一夜「一夜限り」
夢のなかで出会った男と会話をする女の妄想を、
決して会うことのできなくなった、ロミオとジュリエットのように悲劇的になぞらえたり、四ツ谷怪談のお岩さんのように、毒殺され幽霊となった女とその夫にあてはめてたりしながら小気味よく小唄風の音楽に乗せて台詞を言う。話者(唄うひと)はふたりの後方におり、当の男女は、発話せず音楽に合わせてゆっくり動く。お能のスタイルをアレンジしているようなその動きを時折ぴたりと停止してポーズを取るのが何だかシュールで滑稽だった。
第二夜「四つ葉のクローバー」
原っぱで遊んでいたあの子はいっつも四つ葉のクローバーを見つけられたのに私は全然見つけられなかったあの頃の追憶(夢)。
私、お友だちの心のなか&私の心のなか、お友だちと2役を4人に振り分けるアイデアが斬新で私が手を振ると、対角線上の下手側に位置するお友だちが手を振ったり、上手側にいる私が考えるポーズをとると、平行線上にいる擬人化された私の『心のなか』もポーズを取って、更にその心のなかをナレーションで被せる3重構造がかなり面白い。
第三夜「初夜の愉しみ」
新婚夫妻の初夜。ふたりの胸は高鳴る。入浴中の妻への、夫は妄想に事欠かない。その内容は、キュートなショーツが宙を舞い、風船を乳房に見立てた女性が夫の周りをふるふる踊る。というお粗末なもの。これらふたつをまざまざと見せつけられて場内がドッと笑いに包まれたところでお風呂から上がった新妻の、巨乳とイチャついている夢でも見ていたんでしょ?とトドメの一言。
夫は頭があがらない。・・・という夢を夢見ている男の話。ミュージカル調のポップなビートに乗せて紡がれていく台詞が最後、妙な哀愁を醸し出していた。
第四夜「腹の中」
妊娠した女性のお腹のなかには赤子という希望(夢)がある。
生まれてくるその子への、短いモノローグ。
第五夜「飛ぶ」
空を飛ぶひとは、想像するひと。そしてそれを見守るひと。ふたりとも大空をスイスイ泳ぎながらリズミカルにラップ調のことばあそびを繰り返す。
「くれよんをくれよん!」には笑った。
まだまだ夢が描きたりないよ、ってことだったのかな。
第六夜「二階から粉薬」
浪曲、ワルツ、ロックへと華々しく転調し、音楽に合わせて役者が踊る。
歌詞はよく聞きとれませんでした。
第七夜「出番待ち」
誰かの夢のなかに登場することを望んでいる夢のなかの住人だが、誰も彼らを必要としておらず、いつまでも”出番を待っている”という状態。待っていては何もはじまらないことに気がついた彼らは、思い切って誰かの夢のなかへ飛び込むが・・・。
第八話(序)終わりの始まり
そこは実体を失った夢のなか。真っ暗で音と呼吸しかない暗闇だった。ここで、客席の後方部を全面的に覆っていた暗幕が開き、なかから生演奏をした楽器隊があらわれる。不協和音がはじまって、アルトの声が響く。そして、このまま第九話(破)宴へもつれこむ。九話に入ると、演奏はより一層激しさを増し、地響きのような怒号にかわる。猫の悲鳴も聞こえてくる。そうした中でミレーの落ち穂拾いに出てくるような農婦らが、地に崩れ落ちる。そして第十夜「夢の果て」にて鈴木清順の映画、陽炎座の如く桜飛沫が舞い、華々しく終演。
オムニバスで10話を上演した団体を未だかつてみたことがなかったのでかなり驚きました。この公演に至るまで、気の遠くなるような準備や苦労が多々あったのではないでしょうか。
実は私の見た回は、第ニ夜の終盤でブレーカーが落ちてしまい、20分くらい物語が中断されてしまったのですが、最後までやり遂げたのは素晴らしいとおもいます。ただ、全体を通してみると、やや詰め込み過ぎてしまった印象を抱いてしまったのも事実です。
これは誰の、誰から見た物語だったのか。その視点を定めたり、所々で沈黙を演出すると、尚よかったかもしれません。
暗転が多かったのが、少し気になりましたね。暗転中にも音楽に合わせて踊る、手拍子を打つなど、なるべくシームレスに繋いでいくと、もっと物語にうねりが出たように思います。
あと、劇中歌がすごくよかった!
親しみやすくて、どこか懐かしくて、ユーモラスがあって・・・。
サントラが売っていたら、買っていたと思います。
私的解剖実験-5
手塚夏子
こまばアゴラ劇場(東京都)
2010/06/25 (金) ~ 2010/06/28 (月)公演終了
満足度★★★★
テン年代の解体新書。
当シリーズの参加は今回が初めてだったので、これまでにどのような試みが行われていたものか、詳しくは存じ上げませんが、今回観た限りでは、普段何気なく動かしている身体という『器』や片時も離すことなく寄り添っている『自意識』をこれまでとは異なった使い方に注目(この公演では携わることを『ねつ造』と呼ぶ)することで新しい『関係性』を模索していたようにおもいます。
前半は内臓、骨格、筋肉、自意識を確認、分離、フィックスアップさせながら『動かす』こと、呼吸器官をコントロールする訓練が主体で後半は、自己と他者との感覚・認識のズレから伝染する行動パターンや、身体言語と口語の分解をウォーミングアップをデフォルメしたような一場面を通して、人間同士が『携わる』ことへの可能性を探っているようでした。
実験シリーズと名を打っているだけあって、まだまだ発展途上である段階であることは否めませんが、前半部分の意識を集中させて身体のある一部分を動かすという場面は、リハビリなんかに応用できそうかも。なんて思っていたら、手塚さん自身、障害者の方を対象としたワークショップを行われているそうで、なるほど、とおもいました。この実験は、ダンスの新たな可能性の場を生み出すばかりでなく、人のために用いられています。それは大変価値のある試みではないでしょうか。
不滅
鵺的(ぬえてき)
「劇」小劇場(東京都)
2010/06/23 (水) ~ 2010/06/27 (日)公演終了
満足度★★★★
正義と悪は紙一重。
たとえ取り返しのつかない事態に陥ったとしても、やられたらやり返すことは許容の範囲内だと言えるのか。正義とは何か。正しい態度とは。
理性が揺らぎ、本性が顔を出し、いつしかダークサイドに吸い込まれていく人間たちのエゴイズムに同調している自分がいた。
人の死を期待する観客へこの作品は口当たりのよい言葉でまぶさずに純度の高い悪意でスマートに応えてくれる。
果たしてそれはいいこと(正義)なのか。観劇後、そんなことすら何だかどうでもよくなった。
ネタバレBOX
17年前、17歳の少年によって引き起こされたバスハイジャック事件によって妻を失った中西は、犯人の元青年・向井とボランティア活動で知り合った恋人・美紀につき纏い、時には頭を殴る、髪の毛を引っ張るなどの酷い暴力行為を行っている。
もう止めてください。と、弱々しく懇願する美紀の言葉は中西の悪意に火を点けて、一層激しい怒声が辺りに響く。
向井は抗うことなくなすがまま押し黙り、空の目をしてじっとどこかを見つめている。
場所は向井と恋人が滞在する東京から離れたどこかのホテル。そのテラス席での一幕が舞台。
どんなに願っても妻はもう、戻っては来ないというやりきれない思い。
その思いとは対照的に、更生期間中に知りあった恋人の美紀と仲良くやっているだろう向井の存在が中西を、絶対的な憎悪や怒りに駆り立てる。
果たして。彼らに苦しみを与え、裁き続けることは妻へのせめてもの償いであると言えるのだろうか。あるいは彼らを不幸のどん底に突き落とす。その熱意が中西を生かしているのだろうか。
そんな3人のやりとりをあらかじめテーブルの下に仕掛けておいた小型の盗聴機で確認する里見はこのホテルに休暇で滞在している。興信所に勤める職業柄、人の秘密を集めるのを趣味としているが、3人の会話をレコーダーで再生した里見は驚きと興奮を隠せない。
また一方で同じホテルに滞在している父と高校生の娘、京の距離感は埋まらず、ギクシャクした関係が続いていた。京はパチンコをしている最中に熱中症で死なせた彼女の双子の方割れとそれが原因で妻から逃げられた父親を心底恨んでいて、父親の話を聞く耳は持っておらず、反抗的な態度で、携帯電話ばかりいじっている。挙げ句、避妊をすれば自分は生まれて来ずにすんだ、とまで言い放つ。彼女にとって父親は、自分から母親と自分の姉妹を奪った悪者としか認識できないのだろうか。
やがて京の怒りの矛先は、自分より弱い者に向けられて、猫を殺す行為へと発展する。
『生きている意味が分からない』彼女は猫に『死』を与える実験を施すことで、自分の存在を『確認』し、生きてる感覚を取り戻す。
そしてこの病的な試みは、「罪の意識は持っていない」という向井の『本性』と出会うことで安堵感を獲得し、また、怒りによって殺すことは『間違ってはいないんだ』というサイコロジーを生む。
そして、かつて向井を『神』のように崇めていた里見と出会い彼が『殺人をプロデュース』することで彼女は『殺人鬼』へと華麗なる変貌を遂げる。
警察や政治家らにも彼女の犯罪に加担している者がおり、証拠を隠滅するのは容易いことで、犯行現場にトレードマークなんぞ残すサーヴィスなんかも行っていることが、京と向井が失踪した後に一年間続いていたということを、向井の恋人と京の父親に説明する里見は最後、ふたりに襲われて死ぬ。「こんな死に方ダメーー!」とダイイングメッセージを残して。
終盤の「一年後」の場面は、今までのダークな作風が一転して、コミカルになったので正直、アレレ?とおもった。里見が京の犯行の『功績』をファイリングしたものをふたりに説明する場面なんか、めちゃくちゃポップだったし。京が父の顔をみたいっていうので里見が写メ取ろうとするところとか。悪趣味だけど、あぁいうヤツいそうっていう妙なリアル感があった。最後の場面はあれはウケを狙ってたのかしら。下の方にギャグだった、と書いている方がおられたけれど、確かに私にもそう見えた。実際ちょっと笑っちゃったし。加害者と被害者の立場が逆転してどいつもこいつも悪人になるっていうオチは、好き。
台詞の行間にどんよりとした沈黙があって、それが何だかちょっと黒澤清の映画っぽくていいな、とおもった。ただ、空間の使い方がちょっとぼんやりし過ぎている印象があって、勿体ないな、と感じることはあった。
個人的には、下手側の観客席に設置されているお立ち台(?)的なあの場所or上手側の2階席へ通じる階段を用いて『覗く』視点があったら舞台の印象が変わったような・・・。
あと小鳥の鳴く声とか、平和を象徴する環境音がもう少し欲しかったかも。
だけど、そんなことも気にならなくなるくらい、高木さんの描く世界にはすごく惹かれる。
おふとんのなか
演劇企画集団LondonPANDA
王子小劇場(東京都)
2010/06/17 (木) ~ 2010/06/20 (日)公演終了
満足度★★★★
ライフラインは一本のケーブル。
若者たちの実生活とオンラインでの振舞いを対比させながら、人との関わり方や、社会との繋がり方を見つめる作品。
二次元キャラクターがトレースされた三次元の身体でネット用語(絵文字、記号含む)を発話したり、立方体と展開図を交互に動かす舞台装置の仕掛けなど頭に浮かんだアイディアを具象化するセンスが突き抜けていた。
まぁ若干、力技で押し切った感は残るけれども、それが団体の持ち味なんだろうか。
今後の活動に注目していきたい。
ネタバレBOX
32歳、実家暮らし、ニートの主人公ゆーとがハマっている複数人と協力してコマを進めるタイプのRPG型ネットゲーム。そのプレイヤー仲間とのオンライン上の交流が武士、メイド、執事、王様、勇者など様々なコスプレ衣装に身を纏い、二次元のキャラクターに扮した役者によってアナログ的に再現される。ネット用語も、たとえばwは「ワラ」、(^∀^)ノシは「ノシ」と発音し更に片手を上げるなどのジェスチャーを交えて表現したり、チャットから落ちる=舞台から出て行く時のしぐさなども凝っていて、楽しめた。
このままずっとこの調子なのかな?と思っていたら、舞台の真ん中にでーんと構えている大きな立方体が3方向(上手、下手、前方)に開いて、驚いた。
そのなかにゆーとの日常があったのだ。ひきこもる=箱のなかに閉じ込める、その発想に戦慄を覚えた。
彼の日常からネットゲームを除くと何も残らない。会話は、自室の前に食事を運んでもらう母親とだけ。面と向かって話すことはない。自室の扉を誰かが開けることを拒むという態度は、社会と繋がることを拒絶する宣言でもある。その描写は非常にリアリティがあった。
物語はこの後、自他共に認めるネトゲ廃人のゆーとを心配したプレイヤー仲間らがオンラインを飛び越えて、ゆーとの家に遊びにやってくる。ネトゲー上ではメイドキャラに扮していたひとが実はちょっとイカツイ30代の男性だったり、武士に扮していたひとは実はカワイイ女子大生だったりする見てくれ的な驚きがあったり、オフラインになると、元気?から会話が進まなかったり・・・。
そんな中でも、王様キャラに扮していたサラリーマンと女性大生がイイ関係になってやることやっちゃう・・・。笑
ゆーとを元気づけるために遊びに来たんじゃなかったの!?と軽く突っ込みたくなった。人って、こんなもんなんだろうか・・・。
もんもんとしていたところへ、衝撃的なニュースが母からゆーとの耳に伝えられる。父親の会社が倒産してしまったのだ。母は続けて、今より仕事をたくさんするので生活はしていけるけども、今の家に住んでいることができなくなってしまったことや、ゆーとに渡す小遣いが今より減ってしまうことを詫びる。
この時彼は、劇中はじめて母親と向き合い、労わりの言葉をかける。「母さんは、大丈夫なの?」たった短いこの一言は、今までの彼の振る舞いからすれば考えられない台詞である。母はその言葉に息子の成長を想ったのか、これから辛い思いをさせることに心底申し訳ない気持ちになっていたのか、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
この一件がきっかけとなり、ゆーとはネットゲームと決別する。働くことを決め、バイト先も見つかった。先日家に遊びに来てくれたプレイヤー仲間の高島平(メイドキャラに扮していた男性)にその喜びを、お寿司をおごって還元する、という。
最後、ひとりの若い男が登場する。男はスエット姿で、ゆーとがかつていた部屋と酷似した場所にいる。日常は荒廃しており、パソコンの前にかじりついている。彼はゆーとのプレイヤー仲間で、ゆーとがネットゲームを退会する際に自身が使用していたキャラクターを買い取った男だ。ゆーとがキャラクターのデータを消去して、トンズラしたことに気がついた男は、あたり構わず叫びちらして部屋を出る。
この後男がどこに向かったのかは容易に想像がつくところだが、ゆーととこの男に共通することは、衝撃的なアクシデントがふたりを外に追いやったことであり、外に出たい、という積極的な意志では決してなかったことだろう。
ネットとはいえ、画面の向こうに誰かがいる。という安心感が彼らの何かを繋ぎとめているように思えてならなかった。
そ ら
奥沢スロープ
ギャラリーLE DECO(東京都)
2010/06/15 (火) ~ 2010/06/20 (日)公演終了
満足度★★★★
私をめぐる冒険。
心に深い傷を負ったひとたちが集う精神病棟でのお話。
時折繰り広げられるオフビートな笑いが悩める者たちの心のなかに蔓延るシリアスなざわめきから一歩遠ざかるようで夢(楽観的な希望にも似た)があり、それが奇妙にファンタスティックな空間演出や音響とマッチして、不思議な世界観を醸し出していた、とおもう。
本当の私を回復するために施される医学的な処置(=救い)がいつしか非科学的な祈りへと転化する視点も興味深い。
ネタバレBOX
ル・デコに標準装備されているイントレをL字型に組みかえた客席。柱の向こう側にもイントレが組まれ役者の待機スペースと下手側に、ちょっとした階段。その手前がベッド。
院内では携帯電話の電源を切るようにアナウンスがあり、間を置かずにここが何号室の病室で、ここには窓。窓から見える中庭では朝と昼にラジオ体操をしていることが伝えられると背後からラジオ体操が流れだし、パジャマ姿の男がつかつかとやってきて、徐にラジオ体操をはじめる。パジャマ男は中庭でラジオ体操している人たちを「あいつも、あいつもみんなロボットだっ!そう思わないか?」と話しかけるが、アナウンサーは素知らぬ顔をして去っていく。すると今度は、下手側のベッドの上で眠っていた女の子むくりと起きて、女の子の病室無断侵入したパジャマ男を非難しつつ、ふたりのぎこちない身の丈話しがはじまる。開演前の諸注意からここまでほぼ暗転を挟まずに進行したために、フラットな気持ちでゆるやかに非現実世界へ入っていけた。
さて、この世にも怪しげな(?)このパジャマ男、名前は宮越と言い、病院にやってくるまで某有名テーマパーク(背中に貼りついた黒く塗りつぶされたねずみのワッペンがアノ場所を想起させる)の入場ゲートで一日数万人の人々に笑顔で呼びかけていたらしい。一生懸命働き過ぎた彼は、いつしか自身がロボットになったような感覚に陥って、心まで壊れてしまった。
ベッドに寝ていた女の子の名前は綾。医大生だが、休学中。片親で、母は進学塾を経営している。経済的にも何不自由のない生活を送っているが自傷行為をする癖があり、自分にはすべてが足りていないと言う。『私のなかのホントウの私になりたい』とも。彼女は、自殺未遂をしてしまい、3日前にこの病院へ来た。入院は今回が二度目。
一通りお互いの事情を話し終えたところへ大庭聡子がやってくる。聡子は綾が前回入院していた時に、知りあった病院友だち。おっとりしていて人の話をよく聞くが、彼女は人から言われた言葉を理解することはできるが、感情をくみ取ることが出来ない。スキゾイドのような精神疾患がある。
この三人に共通していることは、はやくここを出たいという意志が希薄で、社会復帰することに希望を見出せていないことだっただろうとおもう。
物語は中盤以降、綾の担当医である小坂が自発的に行っているセラピーにはじめて参加する綾、聡子、宮越らと娘の見舞いにやってきた綾の母親に、小坂のセラピーの常連である天才ゴルフプレイヤーの相馬が参加する場面が中心となる。
このセラピーでは相手の目を見て、相手の話をよく聞き、否定せずに受け入れることが大事だと教えられる。綾の母は娘の将来を心配していることや毎晩病死した夫が好きだった歌をうたうことを、天才ゴルフプレーヤーの相馬は女の子と話す度にすぐにその子を好きになって関係を結んでしまうことを、聡子は人の気持ちが理解できないことを、宮越は、がむしゃらに仕事をしているうちに仕事を続ける意味を見失い、自身がロボットになってしまったような感覚に陥ってしまったことを、それぞれ告白する。
みんなの前で話したことで気持ちが落ち着くと、問題が解決した、とみなされて『悩みという砂漠のなかで、希望という水が見つかった』喜びをみんなで輪になり、マイムマイムを踊って分かち合い、心情を吐露しても尚、悩み続けるのであれば、ただひたすら祈り続けるよう指導される。祈れば答えに辿りつける。というのが、小坂先生の持論で、もしこれらの意味がわからなければ、小坂先生の推奨する本を読めば、そこに全部書いてある、という。
綾を除く残りのメンバーは、気の抜けたマイムマイムの間抜けな音楽に合わせて概ね楽しそうに踊っている。それは、問題が完全に解決したから、という訳ではなくておそらくは、セラピーの輪を乱さぬことがベストであることが、それぞれ共通した認識として潜在しているからだろう。
綾はそのセラピーの輪のなかに入らずに(あるいは入れずに)、孤立していた。母親が輪のなかにいることも起因しているだろうが、彼女の孤立は、きっともっと根が深い。物語は後半、綾の心情にフォーカスし、内省的な問いかけが繰り返される。その心象風景が説明書きにある、『本当の私を探して』の部分。
私はここにいるけれども、ここにいないような気がする。感覚だとか、私とは一体何者なのか?だとか、どうして私はここにいて、ここにいない私がホントウの私なのか。とかそういう漠然とした、ナゾナゾは誰でも考えたりするものだけど、そこからどんどんナーヴァスになって、自分はダメだとか、生きてる価値がないとかネガティヴな方面へ爆走していって、アイデンティティがぐらぐら揺れるダメダメな精神状態をさ迷う姿を嫌というほど見せつけられる。
そして、自分の力ではもうどうすることもできない限界が訪れた時に都合よく、白装束のステレオタイプな神が彼女のもとにあらわれる。この神は、ベッドの隣の本棚に置かれていたマンガ、『聖☆おにいさん』を読んだ彼女がゴーストバスターズにおけるマシュマロマン的な(願ったコトが形になって表れる)方法で呼び寄せたイメージ映像なのだな、とおもうととっても楽しかった。しかも、彼女が好きなタイプのイケメンで関西弁を喋る天使まで飛び出して。神と天使のやりとりが、オフビート感があってすごくよかった。(彼女があまりにもシリアスすぎるだけに、バランスも取れていたし。)
彼女がなりたい人物を探すべく、セラピーに参加していたメンバーらをひきずり出して、選択し、神の手(笑)によって『器』(中身)を入れ替えるのだけども、
セラピー参加者のなかにはwant to beな人物は勿論いなくて、結局セラピーメンバーの『器』が荒らされて、中身がちぐはぐになってしまっただけ。崇高な(?)変身願望の末路がこんな風になってしまうなんて、結構笑えた。
この後彼女は『私のなかのホントウの自分』を知るために、もう1ランク深い、彼女のなかの精神世界をさ迷う。そこは真っ暗で、心臓の鼓動が聞こえてくるだけで、誰もいないし、何もない。ただ、永遠の沈黙と闇と同化することだけはできる、からっぽの世界。彼女は彼女の闇のなかからもがき苦しみながら自力で這いあがる。
すると朝が訪れる。彼女は手に睡眠薬を持っていた。眠りのなか、生死をさ迷っていたのかもしれない。ゆっくりと目を覚ました彼女のもとへ、セラピーに参加していたメンバーらがねじに巻かれた人形のようにくるくる回りながら彼女の周りを徘徊し、名前、生年月日、属する組織など、各々の『情報』を機械的に繰り返す。やっぱり彼女は死んだのか?よくわからないまま、物語は終わった。
終盤の、精神世界をさ迷い、己の苦しみを吐露するところは、この作品のなかで最も秀逸な場面だった。
彼女がこれまで抱えていた感情が血しぶきのように溢れだし、狂ったように消えろ!と叫ぶ様には胸が痛くなった。
ラストの機械仕掛けのセラピーメンバーがくるくる回るパートは、個人的には蛇足に感じた。
彼女が目を覚ますところで終わる方がセンセーショナルだったのではないだろうか。
あの場面は、何となくサラ・ケインの4.48サイコシスを彷彿とさせているように思えた。
うつ病、リストカット、統合性失調症、境界線人格障害、スキゾイド、性依存症、ワーカーホリックなど精神疾患を抱える難しい役どころを、小さな仕草や微妙な表情の変化でみせる役者の、誇張されすぎない演技に惹き込まれた。
ただ一点、気になったのは聡子の「私、普通じゃないですよね?」という言葉。それは言わなくてもいいのでは、と思ってしまった。透明な窓を介在させることで、狂気と正とを隔てる演出は素晴らしかった。
よせあつめフェスタ
プロジェクトあまうめ
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2010/06/13 (日) ~ 2010/06/13 (日)公演終了
満足度★★★★
美味しくて楽しくてお腹いっぱい!な公演。
場所における偶発性のつぶやきに、スケジュールの空いてしまった劇場を『穴埋める』救世主的なつぶやき、延いては緩い助け合いの精神からはじまった企画公演が、演劇の常識を覆してしまったかもしれない、ビッグな結果に。
最初ついったーでこの企画を知った時には半信半疑だったのだけども、公演に至るまでのドキュメントをついったーでみる度に、ドキドキワクワクさせられた。
面白そう!という素朴な好奇心から携わったひとたちによる公演だったためか、やらされている感が全くなかったことが観ていて非常に心地よかったし、人のチカラってすごいなぁと素直におもった。
本編はとても2週間で準備したとは思えぬほどの完成度の高さ。役者の演技も素晴らしく、スタッフワークもみんなに楽しんでもらう配慮がナチュラルにこなされており、何だか胸が熱くなった。
このような突発的な祭りにまた今度、はないものかもしれないが、また観たい!気持ちが募る公演だった。
ネタバレBOX
前説と前前説がある公演ってはじめてみました。前前説では、なんちゃらの関村氏がうだうだ何かしゃべってましたが、「携帯電話の電源はお任せします」的なことを言っていたことしか記憶にありません。汗
前説では、オケタニ氏が以前ENBUゼミに通っていたころの裏話や、ウルトラマンや仮面ライダーの1シーンを映像でみながら、ツッコミを入れていくだけのシンプルなトークショーだったのですが、オケタニ氏のヒーロー愛がたっぷり感じられる内容で、これがめちゃくちゃ面白かったです。
さて本編は、短編6つ。物語に前後のつながりは特にありませんでした。
一話目。
今回の公演の発端である『ツイッター』を題材にしたお話で、ツイッターでつぶやきまくっている女子社員と社長の休憩時間の雑談。女子社員のつぶやきに興味津々な社長は「社長は社員を愛している」のでアカウントを教えるよう命じるものの、「社員は会社を愛している」とあっさり断られ、それでも何とか女子社員の気を惹こうと自身がツイッターでつぶやいているエロポエムを音読しようとしたりする。この時、応援団のようなスタイルで意気込もうとする社長が可笑しい。ラスト、「球団買った(なう)」とツイッターでつぶやく社長が、後の孫○義である、とのナレーションのオチに場内爆笑。まさに一話目にふさわしい内容でした。
二話目。
舞台は、とある男の子(仮にAくんとします)の部屋。
Aくんの家で遊んでいるオトモダチ(仮にBくんとします)は、『明日バイトがあるから』もう家に帰りたそうなのだけど、Aくんは、Bくんのライフスタイルを邪魔したいのか、一緒にまだ遊んでいたいのか、理由は何なのかよくわからないけど、とにかくあれこれ理由をつけて、時にはウソをついたりして何とかBくんを家から帰らせないようにしている、っていうただそれだけの話。
朝からバイトのBくんが、朝マックで働いてるってことにAくんは勝手にしてしまったり、マクドナルドの略し方がマクドナだったり、すき焼きしようと思いたったり、ペプシコーラを開ける時、ペプシ!って音がしないのはなんでなんだろーとかにわとりの鳴き声がアメリカと日本じゃ随分違うよねーとか、特に何がある、って訳でもない無駄話がだらだらと続いていくだけで、結局彼らの名前すらよくわからなくて、ヨモギダとかいう何やら陰謀を企てているらしいひとしか固有名詞は出て来ないんだけど、Aくんのホラ吹き話しをもっと聞きたいって思えるクセになりそうな絶妙な間とふたりの仏頂面と視線が孤高でよかった。六話みたなかで、私はこの話が一番好きだったかな。
三話目。
知りあって間もないお見合いパーティーが趣味のスピカ、この3人のなかで中心的存在の何故か自分のことをビッチって呼んで欲しいと懇願する女の子、2人の会話の聞き役に徹するおっとりなナオちゃん。ら3人がお互いの親睦を深めるために、どっかの貸し切り会議室でおしゃべりをする話。
お見合いと掛けて相撲と解きます。その心は・・・『見あう』的な、ビッチとスピカの相撲は見物。体当たりでぶつかりあったふたりが、最後、握手を交わし、満足気な顔をして退室し、最後にここの場所台が21万なので、ひとり7万円づつお願いしまーす!と言ったスピカに「えーシアターミラクルより高いじゃん!」の捨てゼリフに、脚本家のセンスを感じた。
四話目。
喫茶店を切り盛りするお兄ちゃんと、ニートな姉、学生(だったかな?)の妹の話。ニートな姉はカフェの店長になりたいのだが、どうしたらいいのかわからない。妹にはとにかく働け!と怒られ、取っ組み合いのケンカをするものの、途中で疲れて姉は寝そべってしまう。突然姉の運命を変える電話がなって、スーパー○ショーのレジ打ちに見事合格したとつたえる、ラストは爽快。
五話目。
体内グーグル(笑!)の検索をかけて唯一、ヒットしたトモダチひとりと別れた妻の兄とともに、ロックバンドを組んで、余命いくばくもない別れた妻を勇気づけようとする夫の話。
楽器を弾いたこともなければ歌ったこともない元夫が、音楽があれば何とかなりそう、という幻想を抱き、同じく音楽に全くド素人なふたりを、めちゃくちゃな論理を振りかざして巻き込んでいく様は圧巻。弱り果てて行く妻を横目に病院内の看護婦と安易な浮気に走ってしまった夫が、もうしゃべることもできない妻からくる不意打ちの電話口で、彼女が何を言っているのかわからなかったけれども、彼女を気遣うやさしい心がまだ彼に残っていることには救いがあるように思え、やっぱり最後は3人でバンドやろう!ってことで団結するのは、彼らの遅すぎた青春を観ているようで、痛々しいけれどもいいな、とおもった。この話しは六話の中で唯一、長編で観たい、と感じた作品であった。
六話目。
部屋のなかにいる男女。ふたりは向かい合っているものの、彼らの間には、透明な石があり、これ以上近づくことができない。この石を通して彼女を見ると彼女はふたつに分裂しているように見えるらしく、彼は彼女を「君たち」と呼ぶ。この導入部分はかなりいい。最初彼がこれぐらい、と両手で示した石の大きさが彼女が触れる大きさとずいぶん異なっており、同じ大きさを共有していないことがふたりの距離感に大きく作用しているのかとおもうと面白くおもえたのだが、見えない透明な石が、途中から赤い石に変わり、最後は石の大きさが彼と彼女がこれまで触れた大きさとはずいぶん違った適当な大きさに変わり、そのことに対する説明は、特になされておらず、赤い石というのも情熱の赤に見立てた、とか何とか思わせぶりな発言があるだけで、でも、最後にふたりが外に放り投げた石でふたりの共通の知人であるらしいスズキくんはつぶれて死んでしまったので、透明の石は重かったということになる。
のだけれども、この石の心理的な質量の注訳がなされていなかったことから、ただ何だかよくわからない話しに終始してしまったのが惜しい作品だった。
上司と部下、トモダチ、家族、知人、複雑な関係、恋人・・・。6話のなかで、関係性がひとつもダブっていなかったことも楽しめた要因だった。
余談だけど、6月のカレンダーの『13』にだけパンチで『穴』をあけたまぁるいチケットも凝っていて素敵だった。
ドラゴンテイル2
カブ)牛乳や
小劇場 楽園(東京都)
2010/06/10 (木) ~ 2010/06/13 (日)公演終了
満足度★★
消化不良気味・・・。
幼き頃の記憶から独自の死生観の糸をたぐりよせるような作品紹介の文章にわくわくしながら劇場に赴いたのだが、流石に脚本・演出・主役の3役をこなす離れ業は鮮度が命の演劇では物理的に厳しかったのだろうか。
三位一体とはならずにそれぞれが独立していたように見受けられた。
ネタバレBOX
下北沢の楽園は二面式の客席がセッティングされていることから、既に舞台が立体的に見える構造になっており、深緑を基調とした内装も落ち着いた雰囲気がある劇場。また、入口付近の舞台から対角線上に位置する踊り場のような場所は、もうひとつの舞台として機能しており、作品のアクセントになることが多い場所。これだけ洒落た構造になっている小劇場はなかなか珍しいのではないだろうか。楽園は、素舞台を生かしたままで舞台を構成しやすく大がかりな舞台装置をセッティングしなくとも『観れる』ハイクオリティな小劇場だとおもう。とはいえ、その劇場の資質に甘んじて、無でいいものか、といえばやはりイエスとは言い難い。そんなことをぼんやりおもった公演であった。
私が元々、舞台装置から世界観に入っていくタイプである、ということも起因しているのかもしれないが、この作品において舞台美術は皆無だった。それは全く問題ではないのだが、正直に言って、チケット価格に見合った美的空間は形成されていなかったとおもう。
素舞台で作品を作る場合には舞台美術がない分、演出面の工夫、小道具、役者の力量、効果音、照明などで補完する必要はあったのではではないだろうか。
あえて言うならば、この5つのなかで辛うじて標準値に達していたのは役者の力量のみであった。
役者の演技で最後まで観れた作品だった、といっても過言ではない。
意図的に、あえて舞台装置を使わずに役者の力量のみで構成した、のかもしれないが、役者の熱演を惹き立てる、効果音や照明、舞台装置が施されていないことは、私には、空間に対する無頓着のように思えてならなかった。
物語は、マンションから飛び降り自殺をした恋人の後追い自殺をしたニートの男が、生前の彼女の交友関係や死ぬ直前の記憶を巡って死んだ理由をつきとめる、ミステリー仕立て。
地獄は9層になっていて、地獄とは現世で普通に生活をしていることだ、という定義のもと毎日同刻に出社し、同刻に家に帰りつく、昨日と同じ今日をコピー&ペイストしたような毎日を送るサラリーマン、自分の才能を信じている役者のたまご、ネットの世界でしか生きられないネトゲ廃人、突然別れを切り出されたホステス、結婚していることが日常を繋ぎとめている主婦、家電量販店の店員らの日々の地獄を追っていくなかから、
昨日と今日を送るサラリーマンが彼女のお父さんで、家電量販店の店員らは彼女が勤めていた会社の同僚、ホステスは彼女の離婚したお母さん、ネトゲ廃人や主婦、役者のたまごらは同じマンション内の住人だった、というまぁそうだろうな、という感じの人間関係が浮かびあがってくる。
これらの人々がそれぞれモノローグする光景を、ニートの男と男のアタマのなかに閉じ込められた実体化された記憶とともに旅をする、けれども見ることしかできず、何かを変えることが出来ないもどかしさが大半。
だってふたりはめぐり会うことしか出来ない。地獄でめぐり逢えたとしても、彼女は彼に「大嫌いだった。」と心にもないことを最後に言うので、一向に地獄から抜け出せない。
物語は閉じられていて、ニートの男が彼女の幻影を追い求めるだけの、やりきれない話だった。
悪くない話しだったとおもう。
ただ、全体的にオレオレ志向すぎて客観性が少々欠落しているようにも思われた。そこが狙い目だったのならば、申し訳ないことこの上ない。
目が明く藍色
くロひげ
BAR if(神奈川県)
2010/06/04 (金) ~ 2010/06/06 (日)公演終了
満足度★★★
きみのこえがききたいよ。
サカナクションの『目が明く藍色』からインスパイアーされたコンテンポラリーダンスを随所に散りばめながら、ある少女たちが大人になって目の当たりにした現実を、点描的に追想していく作品。
女の子のオトモダチ同士にしかわかり得ない、秘密めいたあそび。時にはケンカをしたりもするけれど、夕陽が沈むまで手を繋いで遊んだあの頃を思い出させてくれるような息づかいが心地よく、甘くて美味しいお菓子とほろ苦いカクテルも美味しくいただき、懐かしいお友だちとお喋りをしに来たような、ゆるりとした時間を過ごせました。
ネタバレBOX
サカナクションの『目が明く藍色』が収録されている、kikUUiki(汽空域)というアルバムタイトルは汽水域の造語で、空と海、とか善と悪とか、朝と夜とかそういう相対的なふたつがひかれ合い、混ざり合い、でも反発するような違和感を持つ言葉として用いられている。
また、この楽曲は『切なさ』『ジレンマ』『ぬくもり』の3つのパートに分類されている、と一般的には言われており、この公演では、それらをなぞらえるようにして2人の女の子が実演する。
冒頭は楽曲のイントロからはじまる。フライヤーのイラストに描かれている、両目を塞いだポーズ。ひとりの女の子はセーラー服で、もうひとりの女の子は淡いパステル色のカジュアルな服。ふたりのダンスは楽曲からインスピレーションを得て構成したというよりも、楽曲のPVに忠実なものであり、既視感が否めなかったが反面、演劇の方は、詩の世界からイマジネーションを膨らませたモノであり、こちらはなかなか見応えがあった。
舞台は7分の楽曲をこまめに中断させながら、演劇とダンスとを交互にみせていく。
第一パート『切ない』ふたりの演劇は、少女時代の女の子たちの儚さを連想させる。暗がりのなか、彼女たちは目をつむり”永遠のかくれんぼ”をしているらしい。夢のなかで交信しているのだろう。かくれんぼは、目が覚めたら、もうおしまい、だという。夢から覚めてしまわぬように、駆けまわったり、だるまさんがころんだをしたり、手遊びをしたり、糸電話でお話したりする。その所作がなんだかあどけなくて、私自身の子どもの頃の記憶がよみがえってくるようで、懐かしいような、それでいて新鮮な感覚だった。
第二パート『ジレンマ』は、大人じゃないけど子供でいたくもない、高校生くらいのお年頃の女の子たち。ひとりの女の子は、もうひとりの女の子を、首に鎖を繋いで監禁してしまった。そんな歪んだ友情をセンシティヴな青春として描き、はじめての恋心を盛り込みつつ、大人になることへの不安の色をにじませる。ミシェル・ゴンドリーの映画に出てきそうな浮遊感のある「行ってきます!」の時間の使い方がすき。このパートは私の一番のお気に入り。
第三パート『ぬくもり』は、母と娘のあれやこれ。
洗濯物をたたむ母と、そんな姿に苛立つ娘。田舎に住む彼女は自身のルーツを嫌い、東京へ行くから、と宣戦布告をするように言い散らす、娘の夢を受け入れる母とのやりとり。
この3つを通じて描かれるのは、あなたと私。というどうしたって相容れないふたり。はなればなれになってしまったふたりだから最後の「君の声を聞かせてよ」は、あまりにも切ない。
なんねんも会っていないあの子になんだか無性に会いたくなった。
第一回○○の人東京大会『かっこいい宇宙人のぼく』
○○の人大会
タイニイアリス(東京都)
2010/05/18 (火) ~ 2010/05/24 (月)公演終了
満足度★★
公開稽古の延長線上。
ひとつの確固たる物語を稽古をしていくなかで意図的に崩していき、ライヴ感に重点を置くように補正していったような、そんな印象を持ったのですが、あまりよくない意味で公開稽古を観ているような感覚に陥りました。
客席と舞台の間の温度差があったことは、否めません。
誰が何を言おうとまずは楽しんでやるのだぞ!と率先しているように見受けられる意気込みは個人的には嫌いではないのですが…。
A.T.フィールド的な見えない壁にすべてが妨げられてしまったのでしょうか。
こちら側にはエネルギーもメッセージも届いてこず、得体の知れぬ疲労感だけが残るのでした。
ネタバレBOX
小学生の頃お昼の校内放送で『奇人変人大集合』というまぁ、その名の通り、一風変わった芸の持ち主や存在自体が奇特な人々がランダムに紹介されるという番組があったのですが、この作品タイトルとフライヤーを拝見した限りでは、そういうちょっとおバカでファンキーなテイストの作品を想像していたんです。が、これが予想だにせず・・・でした。苦笑
物語は、遠い銀河系の彼方から東京の夢の島の名を持つゴミ処理場に流れ着いた『ねぎ』という名の宇宙人の女の子の脳内から国家機密組織の研究員が脳内から抽出した、意識下に眠る20年前の記憶をもとに、『ねぎ』の家族の持つ秘密に迫っていく、というSF仕立て。
個人的に、こういう近未来的な陰謀モノは大好物なのですが、何というか全体的にサービス精神が旺盛過ぎると言いますか、1シーン1シーンが無駄に長く、本筋とズレたパフォーマンス的な要素が挿入されることが多かったためか、演者側も観客側も集中力の糸が途切れてしまう瞬間が度々あったように思われました。
脈抱くもなく「80年代っぽさがありますよね!と言われたりする」的な自虐ネタなんて、舞台で言う必要があったのでしょうか?疑問です。
話は前半で『ねぎ』の家族の食卓風景や、ねぎが兄弟たちと遊んだ記憶を中心に描写して後半、『ねぎ』という女の子のお父さんは実は北朝鮮のスパイであって、20年前に起きたある殺人事件の謎に迫るため、北と対立する本国の機密組織が動き、『ねぎ』を監禁していた模様…という、プロパガンダ色の強い物語に突然路線変更が施され、いよいよついて行けなくなりました…。
そもそも『宇宙人』と聞いて、ヒューマロイドタイプの銀々ギラギラの、2本の触角がアタマの先から突き出ているベタな『宇宙人像』しか毛頭ない私の貧困な想像力がノレないすべての原因だったとおもわれますが、こんなにもシリアスな物語になるのでしたら、観る側にそれなりの覚悟を強いることになるのではないでしょうか。公演目的だけではなくて、あらすじの触り程度のものは是非、明記して頂きたかったです。
クセナキスキス
The end of company ジエン社
d-倉庫(東京都)
2010/06/03 (木) ~ 2010/06/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
上手くセカイを泳げないひとたちへ。
へぇーそうなんだーふーん。と一応納得してはみるものの、だから何?って疑問ものこる、うんざりするほどほんとうにつまらなくて誰のために世界は回っているのか。っていうことと同じくらい無意味な疑問や単語や呟きが、コミュニケーションの微妙な隙間を埋めるようにあっちこっちでひゅんひゅん飛び交う。飛び交いすぎてもう何言ってるか全然よくわかんない。
同じツール(言語)使ってるはずなのに、何か自分今、すごい喋ってるはずなのに、何でこんなに伝わらないの。何かを普通に伝えたかっただけなのに、全然普通につたわらない。
そんな、誰でも知ってるもどかしさ。とか言葉にすればするほど嘘に近づいていくような感覚とか、ていうかソレ言ったらもう何もかもおしまいじゃん。っていう関係性の究極とか、人がただそこに存在しているだけでどれだけ価値を見いだせるのか、ってことについて、悲しいくらいに切実過ぎる話だった。
生きにくさを全力で受け止めきれなくなっているひとなんかはもう絶対行った方がいい。
もうすぐ終わってしまうけど。駆けつけて行く価値は確実にある。
ネタバレBOX
決して越えられない国境のように大きく立ちはだかる川が客席と舞台の間には流れているようだ。あっち(舞台)は埼玉。こっち(客席)は東京。向こうもこっちも東海地震が起きて街は崩壊し、不自由な避難所生活をしている人たちもたくさんいる。そんな状況下にあるなかで、間もなく開業予定の日帰り老人ホームを舞台に、オープン準備に追われるスタッフや開業認可の審査をするために訪れた市の職員、そこをスタジオ代わりに使おうとするバンドメンバーに、ちょっとした訳ありな人などが入り乱れる。
上演してから何分も経たないうちに、老人ホームの建っている丘が土砂災害に見舞われて陸の孤島と化し、その丘がいつ崩れ落ちるともしれない、まさに人生崖っぷち、身に危険が迫っている状況からはじまる。通常こういった場合には、慌てふためきおろおろする者や、取り乱してパニック状態に陥る者、怯えて震え出したりする者がいたりするものだが、ここにはそういった者は誰ひとりおらず、苦虫を噛み殺したような表情で憮然としており、殺伐とした奇妙な倦怠感が渦巻いている。
一致団結して事態を乗り切ろうと率先する者はいたものの、自らの力量では無理だと悟りそそくさと放棄してしまった。震災が起きても自分に被害がなければそれでいい、と思っている者さえいる。その考えに口出しする者はいない。多くの者は閉鎖的で、会話という会話は長くは続かず、多くはひとりごとの延長線上のような呟きで、意志の疎通が根本的に上手くいかない。上手く伝えられないから、自己完結してしまう。
そんなことが何度も繰り返されるものだから、こちらが思わず求めたくなるようなハラハラするようなサスペンスフルな展開や臨場感、友情や愛情などの素敵なドラマとは孤立無援だった。
もしかしたらどんな話であったのか。というウエイトは、観客側へ委ねられていた、っていうことになるのかもしれない。それくらいこの作品は、何かを物語ることに対してよそよそしかったけれども、誰かを語る前に、まずは誰かの存在を認めようとしていた、ようにおもえた。だから、胸がつかえるような息苦しさでありながら、それは妙にしっくりくる質感だった。
停滞した時間の渦のなかで時折共鳴しているように聞こえてくるそれぞれの会話は、孤独を嘆く旋律のようで悲しかった。
「嘘でもいいから恥じらって…紅」公演無事終了しました。たくさんのお客様のご来場ありがとうございました。次回は、王子小劇場で、11月の4週目にやります!!
サルとピストル
小劇場 楽園(東京都)
2010/06/02 (水) ~ 2010/06/06 (日)公演終了
満足度★★★★
汚れなき欲望、禁断の世界、弾ける煩悩ピュアネス。(※18禁推奨)
そこで行われている事情に大した感情を抱かないまま脳みそごと垂れ流されていく体験をした。
理性を失い我を忘れてどっぷり浸かったという意味では、ある種のトランス状態にあったかもしれない。
抗えない人間の性を、時間軸を巧みに回転させながらモンタージュしていく構成には壮絶な美意識が張り巡らされており、その世界に引きずり込むパワーが尋常じゃない。
ただ観ているだけでトリップできる演劇である。一見の価値あり。
ネタバレBOX
かつては伝説のAV女優と呼ばれた涼子も花盛りを過ぎた今では
仕事の依頼を待ち焦がれるほど落ちぶれて
心に巣食う寂しさを妻子持ちの秋人との不倫関係によって紛らわしていた。
ある日、涼子のもとに久々にハメ撮りAVの仕事の依頼が舞い込んだ。
クライアントは盗撮に強いドラマ性を求めている監督で
涼子がイク振りをする演技をすると
相手の男にもっと恋する気持ちを表現するように指摘した。
何度も繰り返しダメ出しを受けても
『リアリティの欠ける演技』しかできない涼子はそのことに思い悩み、
また秋人との禁断の恋に溺れる。
そんな彼女のプライベート(素の顔)を、
あたかも涼子の引き受けた『AVドラマのなかの1シーン』のように
『盗撮』しているように見せかける撮影クルーの虚偽の視点がおもしろく、
だんだん時間が経過するごとに、時系列が乱れ出し、
カメラのレンズの先にあるものが、
涼子のプライベートなのか、AVの仕事の一部なのか、
やがてペッティングする相手の男もだんだん入り乱れてきて、
白昼夢に冒されている感じが、
ミケランジェロ・アントニオーニの欲望や砂丘を彷彿とさせる美的センスで
ちょっと感動してしまった。
終盤の涼子モノローグは、
安易な快楽で自分の気持ちをごまかしてきた自身を恥じ、吐き出して、
新しい自分に生まれ変わる、新たな一歩を踏み出したようにおもえ、
不思議な生命力に満ちていた。
そして権力を振りかざす監督に鬱屈した気持ちを抱き、
理不尽なおもいをするAD田中くんが最後は監督を尊敬するまでに至る、
魂の成長をコミカルタッチで描いたことにも恐れ入る。
AV監督とADの田中くんの掛け合い、間合いは絶妙だった。
冒頭のダンスも変態気質でとってもわくわくしたのでした。
SUPERNOVA
あなピグモ捕獲団
シアター711(東京都)
2010/06/03 (木) ~ 2010/06/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
ヘッドフォンからはじまる世界。
血眼になって世界中を探してみても、もうどこにもジブンの居場所は残されてはいないだろう。そんなあまりにも悲観的な孤独にも似た疎外感に呼応した(かもしれない)者たちの絶叫が聴こえてくる。手を伸ばせばすぐにでも届きそうな場所だったはずなのに燦然としない。幻聴だったのだろうか。あるいは私のなかの叫びだったか。
他者と自己の境界線が、インターネットの海のなかでかき消され、融和され、混在しながら存在する不特定多数のバーチャルリアル。
はたして本当の声はいったいどこから聞こえてきたのか・・・?
心に響くってどんな音?とか、誰かと分かり合えないかもしれない私について考えたことのあるひとや、SFが好きなひとたちに是非お勧めしたい作品です。
ネタバレBOX
球体を半分にぶった切ったようなつくりのアーチ状の木枠の骨組のなかを取り囲むように取り付けられた複数のヘッドフォンと機械。真ん中に電気椅子を彷彿とさせる回転式の椅子。頭上には文字が投射される仕組みになっておりキャスト紹介とプロローグの詩的な文章が小気味よく展開される。それはおおよそ、誰からも理解されなくともこの声が届けばいい、というような趣旨のものであったとおもう。
物語はどこかのネットカフェの個室からはじまり、時間差で入れ替わるその席を定点観測する視点を基本軸に、ネトゲー通信をしているような共通の仮想空間のなかで彼、彼女らが交信している様子を丁寧に追っていく。
その仮想空間とは”世界の果ての海辺”と呼ばれ、そこには、この世界にはどこにも居場所がなく、この世界からサッサと逃げ出したい者たちがこぞって集まってくるらしい。
KAZI という女の子もそのなかのひとり。世界の果ての海辺を目指しバスに乗ったはいいもののあいにく、お金を持ち合わせていないようだ。彼女は当然ながらこれ以上バスに乗れないことを知り、バスを降りる理由を探そうと試みる。しかし、バスを降りても、もう後には戻れないことを悟り、バスの運転手を致し方なく恐喝しやがて自分のアタマを拳銃で打ち抜いて死んでしまう。
この時バスのなかで起きた出来事というのは仮想空間における現実(バーチャルリアル)であって、肉体を伴う死ではない。だったらKAZIという女の子の意識が仮想空間にいる間、彼女の肉体はどこで何をしていたのか。という疑問が沸くが、この物語のなかでは誰かどこにいるか。ということはさほど問題ではないようだ。大事なのは、今、ここにいるということや、とにかくバスに乗り続けるということらしい。この観念は、どんな過酷にあっても生きつづけなければならない、という強制に似ており、バスの存在は、どんなに逃げようとしたってどこにも逃げられない人間のカルマを、『重力によって引き戻されること』として明示し、いくら走ってもどこにも行けず、どこにも辿りつけないと知りながら、それでも重力を燃料として思いっきりアクセルを踏んで光の速さで走る他ない人間の無力さを露呈する。と同時に走り続けることがどうしても困難ならば、宇宙にドタマから突っ込んで自爆するほかないと解説し、バスは世界の果ての海辺、そして宇宙とも繋がっていると教えてくれる。
そういえば、センセーショナルに本当に自殺しちゃった女の子がいた。
コバルトという女の子がそう。彼女は生きた世界と見えた世界はニセモノで、回転が止まると死ぬ、と言った。彼女の肉体は死んでいるけれど、彼女の痛切なメッセージはインターネットの海のなかで静かに呼吸を繰り返し、生きている。
彼女の生きたソレをネットカフェの一室でアクセスした若い青年は、特にこれといった感情を揺さぶられないまま、ただそこにある情報を眺めている。時折ドリンクバーでお気に入りのジュースをピックアップする紛れもないリアル。
「そこ代わって、私の席だから。」
その言葉を合図に、真ん中に置かれた回転式の椅子は時間差で座る者がめまぐるしく変わっていき、見上げる世界が次々と変容していく。
それは例えば、ある女の子が自分の望む音が聞こえる音を探してヘッドフォンをはずさないことや、違う女の子が彼女のなかにいる彼女の集合体のようなものである複数の、彼女はバラバラに壊れてしまったカミサマを神の右手には手袋を、悪魔の左手にはシャベルを持って”世界の果ての海辺”で再生させようとする光景。
そんな他愛もない描写のなかに、シャベルを持ったひとが死体を埋めたり、穴を掘り続けたりする過激な仮想現実がカスタマイズされ急速にアップデートされるとスーパーノヴァは爆発し、夢は現実のモノとなるのであった…。
この物語はすべて、完全な死に向かって発動し、くっつきたい者同士がくっつき、分裂を繰り返す様をスーパーノヴァになぞらえて、ネットカフェはこの世の終わり、行くあてのない登場人物たちはネカフェ難民として描かれていた。
世界と折り合いをつけることに諦めて悲痛な想いを抱えたひとたちの叫び声はノイズの爆音にかき消され、誰にも認められないまま何もない暗闇なかへブラックホールに吸い込まれるようにして跡形もなく消えてしまった。その儚く美しい様を通り越した奇妙な息苦しさが残る。
悪徳症法群
Logiz Game(劇団ギルガメっす♂改め)
荻窪メガバックスシアター(東京都)
2010/05/27 (木) ~ 2010/05/31 (月)公演終了
満足度★★★
パンキッシュに味付けされた精神性。
”死”が飛び交う場所で断片的にスケッチされていく作風だったためか、散漫というか雑然としており、ストーリーが事前に観たあらすじと大分異なっているように思え、話があってないようなものではないかと大きくクビをかしげたが団体の説明書きにある「何だかよくわからないが、笑える」というのが、シーンごとに異なる趣向が施された演出を楽しんで!っていうエクスキューズだったのかぁ!と、ふとした瞬間に気付いてからは、何なく楽しめた。全体的に、獣臭漂うアヴァンギャルドなテイストでありながら、ハイテンションなギャグに激熱な劇中劇、ダンスに歌まで盛りだくさんで、パフォーマンスとしては花マル。キャラクターの持ち味とシンクロする衣装もグッド。ただ、持ち味とはいえ、何だかよくわからなさすぎる脚本にはいささか疑問ではあった。
ネタバレBOX
黒を基調とした背景に、白い移動式の箱が3つ置かれている。
この抽象的でいてミニマルな雰囲気は隔離病棟という設定に非常にマッチしていたが、特に背景と床に手作り感があったこと、また、私の座った位置からは黒い舞台の所々に白いテープでバミってあるのがバッチリ見えてしまい、少々気が削がれた。舞台美術の精度をあげるのは物理的に困難な側面があるかもしれないが、もう少し工夫と配慮があれば尚よかった。
さて、物語の舞台になるのは深い森のなかにある隔離病棟。
そこには、母親に捨てられた孤独な子どもとひとりの精神異常者と、オカシナ医者が数人おり、新作を書くためにこの森へやってきたひとりの作家が、彼らの日常に触れるなかでこの病院で働く医者のひとりが随分昔に難産中の女性を殺した事件のことや、女性のお腹の中にいた赤ん坊がゾンビとして蘇り、病院をとりまく深い森のなかで成長し生きているという事実、そして、この病院は世の中に存在しない病院であることを知り、実は作家は既に死んでおり、深い森のなかへ足を踏み入れるところからはじまったこの物語のすべては作家が脳内でつくりあげた、パラノイアだったかもしれない。という筋だろうと私は受け取ったが、どうも曖昧だ。
この話のなかで、物語のなかの現実と対比する虚構を紐解いていく、アイテムは用意されていた。
たとえばそれは「記憶の箱をあけてしまった。」というような台詞や、舞台を抽象的に構成した白と黒。
これらは作家自身の過去と未来を象徴していたようにおもう。
劇中、精神異常者の男性は「紙を黒く塗りつぶしてしまった」というがそれはおそらく、作家自身の未来のことであり、母親に捨てられたこども=過去は白だったのではないかと推測されるが、そこから掘り下げて行くべき作家の過去の記憶や未来への不安などのパーソナルな事情が描かれていなかったため、何だかわからない物語になっていた印象だったものの、団体としては
「何だかよくわからないが笑えるハイテンションなブラックバラエティ」な作品を提供しているらしいので、とすると私はドツボにハマったということになるのだろうが、この後味の悪さは、何だかとても中途半端な感じがしてならない。
それでも、ゾンビが客席から登場したり、自由や平和や戦争、あるいは個という単語から、自由=自由の女神、平和=鳩=オリンピック=アテネ、戦争=ベトナム=死という風に連想されるシンボリックな事象を自由の女神の恰好をしたひとや鳩の着ぐるみなどの安直でチープな劇中劇で乱発する演出はナイスだったし、隔離病棟の幼児患者が医者に打たれて死に絶える、死=天国を描く場面でキョンキョンの学園天国を狂気じみた医者がいきなりマイクを持って登場し一曲歌ったりするあの激熱な感じは、どこか鹿殺しを彷彿とさせながらも、ただ真似をしているだけとも思えぬ独特の雰囲気を纏っており、こういう表現方法を好きなひとは自分も含め多くいるのではないかと感じた。
が、しかしだ。彼、彼女らは観客の理解を求めていないことをポリシーにしているのだろうか。やっぱりわからななかった。無論、気になる存在ではあるのだが・・・。
とりあえず、まずはガツンと殴ってギュッと抱きしめる、的な具体的なキャッチフレーズと団体のテーマ曲なんかから詰めていったらいいのではないだろうか。
あと、開演前の諸注意のアナウンスで、脱糞はご遠慮くださいとくるとは恐れ入った。しかも紅一点のあんなに端正な顔立ちをされていてしとやかな雰囲気を纏っている黒バラさんの口からそれが出るなんて。ある意味衝撃。笑
PARTYせよ
東京おいっす!
「劇」小劇場(東京都)
2010/05/25 (火) ~ 2010/06/01 (火)公演終了
満足度★★★
老若男女、どんと来い。
秘密な関係にあるお二人さんが複数組入り乱れるために、傷つけあったり、言い争ったり、苦しい言い訳をせざるを得ない修羅場を複数回お目に掛かれる、とっても貴重な体験が出来るお話です。
ドツボにハマって大爆笑!な類の笑いを求めて行くと肩透かしを喰らう恐れがありますが、二ヤリできる小ネタ満載の、間口が広く気軽に楽しめるユーモラスなコメディでした。
ネタバレBOX
真ん中にウッドデッキのテラス席、背後にガラスの引き戸と廊下、上手側が隣家の生け垣の、いづれも現実味のあるセットが全体的に立て込まれている、明るく開放的なバルコニー。ここからは、今夜開催される花火大会がベストポジションで見れるとあって、小瀬サン夫妻はふたりは共通の友人、新婚ホヤホヤの松月夫妻と夫の後輩・鈴木くん、妻が講師として務めているダンススクールの生徒のノゾミちゃん、腕によりを掛けた料理をふるまってくれる出張料理人の平川さんを自宅に招いた。
と、ここまで物語の登場人物を羅列したが、これらの人々が全員揃う場面は皆無で、のっけから楽しいだけではドラマは成立しない、とばかりに不穏な足音がどこからともなくやってくる。
どういう馴れ初めでそういう関係になったのかは分からないが、夫とノゾミちゃんは不倫をしている。妻は夫がノゾミちゃんと不倫をしているのは知ってはいるものの、無関心を装っている。というよりも、夫に期待するのを諦めたと言った方が近いかもしれない。あるいは、こんな夫と結婚なんかしてしまった自身を後悔していたのかも。この、どちらともつかない妻のアンニュイな表情。
そして、妻の秘密・・・。それは10年間不妊だった妻のお腹の中にいる3ヶ月の赤ん坊の父親が一度きりの関係を結んだ建築士との間に出来た子だったかもしれない、という疑惑。
妻は妊娠したことを告げるため、建築士を呼びつける。家の点検とウソをついて駆けこんでくる建築士との夫のぎこちない間。
「どっちなの?」と男の子か女の子かを聞く松月さんの奥さんの言葉に夫か自分かと聞いているのかと勘ちがいする建築士が何ともオカシイ。
また、テラスから廊下へ上がる階段として用いている真実の口、のネーミングをパロった石に小瀬さんの旦那さん、建築士ら正直者でない人間がいちいちつまづくのは、小さなリアクションではあるものの、関係を終わりにさせたい一心の小瀬さんが、ノゾミちゃんの幸せのためをおもって、と言いつつ、ノゾミちゃんの意志を出来るだけ排除して、後輩のスズキくんにあてがおうとする小瀬さんの旦那さんの魂胆に説得力を与えていた。
更に、イイひと止まりで終わりそうなスズキくんの存在や、小瀬夫妻の隣人・三宅夫妻のアメリカンナイズドな求愛行動が、小瀬さん夫妻のW不倫オンリーだけでは湿っぽくなりそうなところをカラッとした明るさでいい感じに吹き飛ばし、小瀬さんの隣家、三宅さん宅で葬儀が行われているという破天荒なシチュエーションは、物語のボリュームを格段UPさせていた。
特に、三宅氏とよりを戻すために葬儀に参列すると装って喪服でやってくるホステスと「しばらく喪に服さないといけないから」だなんてビジネスライクな口調で取引先と連絡を取りあっていることを装いながら、ごまかしてホステスとの関係を断ち切りたい三宅氏とのやりとり、挙げ句、ホステスへの手切れ金を、高額な調理器具の購入代だと確信犯的に勘違いし、金をせしめる出張料理人の平川さん、そして三宅さん宅の葬儀場で料理を振舞う平川さん、そこで沸く歓声…。
PARTYは葬儀場で起きている!という一連の流れ、絶妙でした。
惜しむらくは、三宅氏とホステス、小瀬さんとノゾミちゃんの関係性が女性に泣きつかれるのは男性で、後ろ髪を引かれるのは女性で終息してしまったのが、少々新鮮味に欠けていたこと。
平川さんが恋愛の伝道師と称して、自己啓発セミナー的なことをやりはじめて最後にお金を取られちゃうとか、三宅さんにノゾミちゃんが一目ぼれするなど、軌道を逸している行動に走るひとも、パラパラいてもよかった気はします。
やがてパーティーははじまって、みんながテラス席から打ち上げ花火を見上げている背後で、脇目も振らずに前方を見据え、これまでの物憂げな表情とは打って変わり、小瀬さんの奥さんが颯爽と家から去っていくラストは、夫を見捨てた身勝手な妻。と言ってしまえばそれまでですが、もう旦那さんと会うことはないのかな、とおもうと少し切なくもなりました。
空気ノ機械ノ尾ッポvol.15~キカイ~
空気ノ機械ノ尾ッポ
シアターブラッツ(東京都)
2010/05/27 (木) ~ 2010/05/30 (日)公演終了
満足度★★★
ほっこり不足。
踊るように、歌うように物語を紡いでいこうとする独特のリズムとテンポがあり、とてもワクワクしたのですが、途中から、いつやって来るともわからない列車に乗り遅れてしまったようなやるせない気持ちになり、現在地を失いました。それが地上から3センチくらいフワフワ浮いているような、適度に現実味のある浮遊感として受け取っていいものか、イマイチ確信が持てないのですが、フライヤーから想起される、月と太陽がとりとめのない話をしているような抽象や、陽だまりの庭でぼやんとしているようなほっこり感というか、充足感はあまり得られませんでした。
ひょっとしてこの時の私の頭のなかのなかが、執拗にねじくれていたことが原因だったのかもしれません。
ネタバレBOX
キーワードも関係性もすべて「ベンチ」から水面に波紋が広がるように形成していく。
背後から照らされた照明が、木陰を照射している。
ベンチは通常公園にあるものだ、という固定観念があるからだろう。
そのような場所で、サンバ調の軽快なBGMに合わせて俳優たちが、舞台上の捌け口だけでなく、開放された客席扉からも出入りし、自由に美しい対角線を描きながら行きかう。
行きかう人々は、化粧をしながら通り過ぎるひと、新聞を読み一瞬立ち止まるひと、子どものようなひと、音楽を聴いているひと、妊婦さんらしきひと、などさまざまだ。時折、風そのものであったり、サーチライトであったり、擬人化された何かが通りすぎることもある。
このシーンは場面転換をする際に時折登場するのだが、非常にスタイリッシュだ。しかしそれだけでなく、ノスタルジーや、ぬくもりが自然とこぼれ落ちる不思議な感覚があった。きっと、この作品に携わっているひとたちの関係性のよさ、なのかもしれない。
それが非常に良い空気感をまとっており、私はこの1シーンがずっと続いたらいいな、とおもうくらいとても好きになった。
けれど、音楽が鳴り止み、仕事の合間にぶらり公園に立ち寄ったような身なりのふたりの男性があらわれて、なんでもない会話がはじまってからというものの、これまでのふんわりした心地よさがするりと消えてなくなるような気持ちになった。
舞台が公園のベンチだとすると当然、公園に住んでいる浮浪者が出てくるものだと期待していたからなのだろうか。
抽象的な冒頭のシーンとはかけ離れた男性らの具体的なある意味リアルすぎる会話が異質すぎて、上手に連結していないようにおもえて、フリーズしてしまったのだ。
しかし、そうこうしている間にもふたりは何かについて会話をしており、人生に疲れたことがないから、ベンチには今まで座ったことがないという貧血気味の男のひとのつぶやきや、そんな男性にチョコレイトを強く勧める工場勤務のハツラツとした声の男のひとのやさしいおせっかいなど、何とか耳をダンボにして会話に集中するのだけれども、私は結局、会話の多くを掴み損ねてしまったとおもう。
ふたりのシームレスな会話のなかで、いつだったか擬人化されたベンチが登場し、ベンチの”フォーム”について尺の長さや用途、適切な場所をプレゼンする場面において、ソファーはベンチに対抗して己の座り心地の素晴らしさを強調し、ベンチVSソファーの熾烈な戦いが勃発した時、私がこの作品に求めているのはこちら側なのだなぁ、と痛切におもった。
だもんで、度々挿入されるあの、陽気なサンバ調のリズムに合わせたあの雑然と人々が行きかうシーンになると楽しくて仕方がなかった。
やはりあのシーンをみてしまうと、コンテンポラリーダンスのような独創的な動きとベンチを取り巻く環境をベンチ自身の視点からキャッチするやり方に絞るか例えば男性のひとりが疲れないからベンチに座ったことがないのは彼の前世がベンチだったからだ、と仮定したうえで今現在ベンチとして存在している女性と、かつてふたりはベンチ夫婦でもあった、などという突拍子もない方向性から切り開いていく方がこの作品には合っているように思えてならなかった。
「ヒッキー・カンクーントルネード」の旅 2010
ハイバイ
アトリエヘリコプター(東京都)
2010/05/16 (日) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★★
ボクと社会を隔てる視線
テレビのお笑い番組のような、割とアカルイ雰囲気の舞台で終始、無邪気な笑いに包まれた、そこそこ絶望的なお話で、喉元に引っかかった骨がいつまでたっても取れないような、気持ち悪さが残った。
これは多分、生きている限り付き纏う、社会というするどいアレ(視線)のせいだとおもう。
あるいは世間体という名の常識ってやつが、山椒魚のようにちぢこまっているのを退けて、イロイロと面倒くさいけど家から一歩、外に出なければいけないよ、と手招いているような。
そもそも社会って誰のためにあるのさ、とか思ったりもしたけど、いっぱい笑って真面目に生きようと思わせてくれたのだから、不思議。
ネタバレBOX
ヒッキーだけどプロレスラーになりたい夢を持っている青年の話。
感情をコントロールすることが極度に苦手で、純粋すぎる青年の症状が快方に向かったかどうかを、観る側にゆだねられるラストだった。
作品のなかで問題なのは、外にいるか家にいるか、出たか、出なかったか、ということよりも、青年を取り巻く人々のすべてが、皆、
”あなたのためをおもって言っていること”だと誰もが信じて疑わず、
ありがた迷惑かもしれない可能性に気づいていないことのように思われたのだけれども、作品に出てくるひとたちは何だかんだ、ちょっと鈍感で、不器用なんだろうなぁ。
何か、この作品に描かれている人らって、人間の理想像っていうのは大げさかも知れないけれども、みんな優しいひとたちだったから安心して観ていられた。
だから、笑っても差支えなかったんじゃないかなぁ、と。
言いたいことを言える、フレキシブルな人間関係ってそんなに悪くはないとおもう。
ただ、多少の遠慮と距離感は必要だけど。
ありそうでなさそうなアンバランスな感覚がどうも嫌いになれなかった。
ってちょっと楽観的過ぎたかな。笑