満足度★★★
泡と荒野と
演劇は、はかない。一生懸命つくっても、後にはなにも残らない。
アニメやマンガ、小説、音楽、ドラマにCM、アイドルなどなど。物語ることを要求されるこれらのメディアの数々を、ひとまず大雑把に「フィクション」と呼ぶとして。ちかごろのそれは、寿命がものすごく短い。はかない。
ロロは、これらのフィクションを、ひたむきに、演劇の中に閉じ込めようとしているみたい。どうしてそんなことをするのだろう。なぜ容れ物が演劇なのだろう。ロロを見たのは今度がはじめて。僕は、その表現方法のバランスの悪さに辟易しながら、一点突破の偏った熱量におどろきあきれながら、同時に、無駄にも見える、彼らの、フィクションに対する冷めた視線と必死さに打ちのめされた。
ネタバレBOX
浴槽。それ以外にはなにもない異様なセットに、浴衣姿の女の子がひとり。「私は、風呂から生まれたフロ美。生まれて5秒で、恋に落ちた」と言う彼女の、「私の生まれるところ」から、舞台は、はじまる。
何もないところに事件を見つけつづける探偵、「アリエル」を想いつづけるザリガニ、世界の破壊が使命の(肩が段ボール製のミサイルランチャーであることに悩む)怪人、それから、恋したりされたりには欠かせない女子たち。潔いくらいに現実を感じさせない、フィクションそのままなキャラたちの、「設定」と「恋」を出発点にした、無数の小さな場面が連なる。
ひとつの場面は、次の場面がすぐそばで始まっても終わらない。前の場面の役者が、最後の動作を続けながら、残る。いくつもの動画が何重にも重なるPCディスプレイのように、パンツを脱がせ続けたり、パンツを脱がされ続けたり、なにかを探しつづけたり、客席に向かってピッチングし続けたり。残った役者は、同じ動きを繰り返しながら、ループし続ける動画のように舞台の一部に残り続ける。
数えきれないくらいの場面は、最後まで、つながったり、ひとつの物語になったりしない。ばらばらの断片のまま。いつまでも終わらずに続きそう。と、突然(ほとんど唐突に)! 広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』が流れ出したと思ったら、それまでずっと片隅で舞台を傍観していた浴衣のフロ美が、舞台上に残った「場面」を掃除するザリガニに飛びついて「スキ!」と叫ぶ。たたみかけるように舞台の三方を囲むカーテンが落ちて、むき出しの、劇場の裏側があらわになって、物語を動かしていた電源のブレーカーが落ちるみたいに終了。
つまりは、この舞台。ホントに「生まれて5秒で恋に落ちた」フロ美の、「生まれてから恋に落ちるまでの5秒間」なのだった。それ以上でもそれ以下でもない言葉のまんま。意味付けやら解釈やらを凛としてはねのけて、ただ「言葉そのもの」として、激しい熱量で、舞台の上に「もの」化されてしまった「MajiでKoiする5秒前」なのだった。
すごい! と思った。なんでわざわざ!? とも思った。とにかく、打たれた。だってまさか「MajiでKoiする5秒前」というフレーズだけを取り出して、言葉のままに、2時間かけて演劇化する、そんな発想、思いもよらなかったから。
90年代の終わり(広末の歌は97年)から2011年現在までのフィクションたちは、もはやかつてのように「時代」や「物語」を背負っていない。うたかたの世に現れては消えていく、無数の泡のような存在たちだ。そのほとんどは、人々の記憶のうえには残らずに、人類のアーカイブ然とふるまうインターネット空間にのみ、ひっそりと、情報として、いつまでも残り続ける、それだけのもの。
ロロの『常夏』は、そんなフィクションのはかなさを冷めた目で見つめながら、ものすごいエネルギーを消費して、わざわざはかない「演劇」という容れ物にぎゅっと濃縮した舞台。そして必死に「ただそれだけ」の舞台であろうとしているかのよう。それはつまり、それ以上のものとして、誰かの語るイデオローグライクな物語に回収されることを拒む、そんな若い潔癖さを持ち続けていることでもあるだろう。フィクションを舞台のうえでそのものとして見せる手法は強引だし、演出も雑。物語、意味付け、解釈。観客の楽しみをいくつも奪っているわけだから、もうちょっと丁寧に、表現手法で楽しませてほしいと、僕は思ってしまうけど、それでもロロは、溢れる若さを武器にして、今のまま、荒野をひたすら行くようなストイックさを持ち続けるのか。それとも……。
満足度★★★★
「現代」が消えていく
ものすごい熱量に、圧倒される舞台。僕は、痛々しさに、逃げ出したくなったが、同時に、目をそらすことができなかった。こちらをどんどん揺さぶる熱さに、正直辟易したけれど、強く突き刺さって、離れない。見終わってからも、この舞台につきまとわれているような気がしている。逃げ続けているように、感じている。
ネタバレBOX
舞踏家、笠井叡と、息子の端丈のダンス公演。ホールをぐるりと椅子が囲む平舞台。若い女性4人の、しっかりと振りつけられた群舞の中心で、笠井親子が即興の動きをみせる。
女性たちの流麗なダンスと、ぎくしゃくした即興の動きの対比が、際立つ。そして、即興は次第に行き詰まりを見せていく。同じ動きが目立ち始め、動きに生じた迷いが変な間をつくったり、ほころびが目立つようになる。決まった動きをなぞる群舞が、反対に生き生きと美しく映っていくのに対して、即興の痛々しさは、ひたすら生々しく映る。
なにより痛々しいのは、67歳の老体で激しく踊る、笠井叡だ。彼は、舞台の始めから終わりまで、激しく動き回りながら、客席をまわり、そして、観客のひとりひとりに、ぎりぎりまで顔を近づけて、大声で喋りまくる。「人間が、ケータイのマネをするようになっちまった! ケータイなんて、虚舟の中に隠しておけ!」「日本なんて国は、もう、どこにもなくなっちまった! 日本があるのは、ただ、この、劇場の中だけだ!」
舞台の熱量が増すほど、客席が凍り付いていくよう。「光よりも速い物質が発見された! ということは、ものごとの因果が逆さまになる可能性が出て来たのだ! つまり、いまや、観客がいるからダンサーが踊るのではない。観客が、踊るのだ!」容易には理解できない自説を、客席をまわり、ひとりひとり、無理矢理目を合わせながら説き始めたときには、もしや本当に踊らされるのか!? と、客席全体を戦慄が走った(さすがに踊らされることはなかったが)。
対比が、どんどん際立っていく。生き生きした群舞と行き詰まる即興。同じ即興でも、舞台の中央で無言のまま踊る笠井端丈と、客席をまわりながら、個性的な自論をまくしたて続ける笠井叡。群舞から即興。無言の息子と、必死に自説を叫び続ける父親。二重三重に、現代から遠ざかっていく。隔たっていく。
重なるように、舞台上の物語の上でも、時間は遠ざかっていく。物語は、現代の渋谷から始まって、戦後、戦中の日本を通過し、人間の誕生する以前、はるか古代へ向って時を遡行していく。ほとんど舞台の主人公である笠井叡は、生々しく、痛々しさをさらけ出しながら、物語上でも、現代から遠ざかっていくのである。
僕は、岡田利規の『クーラー』を思い出す。若い男女の会話。男は、政治のトーク番組の中の、他人の話を一切聞かずに自説をひたすら喋りつづける「やつら」の、信じられないような「粘り」をすごいと思うという話を、ひたすら続ける。女は、相づちを打ちながらも、部屋のクーラーが寒いことにしか感心がない。一方的に自説を叫ぶ笠井叡。こちらの話を決して聞いてくれそうにない彼の「粘り」をすごいと思いつつ、世代のギャップを理由に逃げ出そうとする僕は、一方で、他人の話を、聞いているつもりで、実は聞く気がない、無言で、無関心に、踊る、ケータイのマネをしている人間なのかもしれない。
満足度★★★
目の前に、ない
なんだろう、人のからだ。その、動きの標本を、みるかんじ。
ネタバレBOX
なにもない、素舞台。ただひとつ、舞台と、客席の間に、大きな金属(?)のフレームが、無機質に設置してあって、舞台の中央部分は、客席からは、テレビをみるみたいに、フレーム越しにみるかたちになる。
スキンヘッドの男性ひとりと、小柄な女性がふたり。ゆったりとした、部屋着のような格好で、あらわれる。そして、それぞれ、舞台を、ただ、ひたすら、ゆっくり、ゆっくり、歩いて、歩いて、時折伸びたり、縮んだりしつつ、歩いて、歩いて、舞台の外れに、座る。歩いたり、座ったり、そのタイミングは、三人それぞれ、ばらばら。ひとりが立って、二人がそれぞれ座ることも、三人とも、歩くことも、ある。ばらばらに見えて、ときおり、関係が生じるかに見えることも。ひとりが立ち止まって、振り返ったり、その先に、もうひとりがいたりする。でも、そこから、物語が生じたりは、しない。気づけば、また、それぞれに、歩いて、歩いて、歩いて、座る。これが、終わりまで、およそ一時間、つづく。
音楽と呼べるような音楽は、無い。が、無音、というわけでもない。ゆっくりと、水滴の落ちるような音が、断続的に、続く。道路に通じる扉を開け放しているのか、録音したものか、車やオートバイの通り過ぎる、街のノイズも、頻繁に聞こえてくる。照明は、細かく調節されるが、暗い。終盤は、ほのかな青白さが舞台をつつんで、夜中に、起きだしてしまった部屋のようだ。
消え入りそうに幽かで、静かな舞台。物語のない能、のよう。体験としては、忍耐の必要な、つらいものだ。エンターテインメント性は、かけらもない。そして、そのぶん、僕の、なんというか、もののみかたは、揺さぶられる。これはなんだ、と思い続けているうちに、色々な、精神的な、体験を、感じだす。勝手に。
たとえば。ある場面では、男性が、歩いて、歩いて、歩いた末に、舞台の手前、客席側、フレームの外側に、舞台の方を向いて、座る。テレビを見るような格好になる。どこまでが舞台で、どこからが、そうでないのか。ゆらめく。そういえば、舞台が、あまりに動きのない場面のとき。客席の方が、よほど賑やかであることに気づく。観客は、僕も含め、こっくりしたり、もぞもぞしたり、必死に観ている。客席が、舞台のように感じる、そんな一瞬にはっとしたりする。
たとえば、動きが、ゆっくりにすぎて、ときおり、演者が、前に進んでいるのか、後ろ向きに歩いているのか、わからなくなったり。はっと気づくと、心がどこかに逝きかけてしまい、前後がつながらなくなったり。それでいて、舞台の終了の際には、あっという間に終わってしまったように感じて、終わりということが信じられないような感じがしたり。僕の中の時間が、思い切り引き延ばされたり、部分的に消されたり、小さく圧縮されたりする。
眠気と、戦っていた、ただそれだけのことかもしれない。舞台を基点に、頭の、心の、内側へと、ゆっくりと沈んでいく。目の前の舞台ではなく、演者たちは、こちらの頭の中にいる、そんな気になる、静かな、動き。ダンスなのか、なんなのか。僕にはなにもわからないけど、観なければ、思ったり、感じたりすることのなかったものを、思い、感じた。きっと家にいたら、なにも思うことはなかっただろう。
満足度★★★★
Y字路
なんとなく『深海魚』と呼ばれている方。ヤバい! 面白い! 演劇なのか、ダンスなのか。どっちにも通じるY字路みたいなところで、どっちにも進まないでふらふらするパフォーマンス(?)の面白さの源は、なんともいえないもどかしい距離感にある! ……と思うんですけど。どうでしょう(観方のひとつの提案です)。
ネタバレBOX
人間は、動物なので、雰囲気に応じてカラダのモードを変える。たとえば「ドスの効いた声」を聴いたカラダは「不穏モード」に変換されるはず。こういうモードチェンジは、実はとっても細かく条件づけされていて、僕らは「こんなことで!」と思うようなことで、「こんなモードが!」というような思いもよらないモードに勝手に切り替わってしまった自分に気づくことがあったりする。
冒頭、宮崎晋太朗と米田沙織が素舞台に登場。ちょっとしたやりとり(お互い、言葉の間に「あ、」とか「え、」とかが入るような、微妙な距離感)の後、背筋の運動(ふたりひと組で、お互いを背負うやつ)をスタート。ここでこちらは、「ん」? なにやら客席のカラダのモードがぐにゃぐにゃっと迷うのだ。……と、「テュテュテューン……」と『ラブストーリーは突然に』の冒頭のフレーズが流れて客席爆笑。すかさず「好きだー!」と宮崎。僕はもう、ここで、やられた。
なにが起こってるのか、考えてみよう。微妙な距離感の男女が、カラダを密着させて、背筋の運動をする。それだけで、観ているこちらは、なにやら「男と女の意識のめばえ」みたいなものが目の前で展開されることに備えるモードのカラダのスイッチに手がかるのではなかろうか。面白いのは、ここで、ぐっとタメが入る(宮崎がゆっくりと、背負ってる米田の手を握る)こと。こちらはスイッチ押そうとするのに、ぐっとたまってつんのめる。その間にこちらは「カラダが次のモードを探ってる」状態にとどまらざるを得ない。「次に行くの? 行かないの?」と迷う。普段意識に登らない、自分のカラダが対応すべき状況を「迷っている(探ってる?)」モードを、しらずに意識させられる。
「テュテュテューン……」
このワンフレーズ。すごい。問答無用でラブモードにスイッチオン。客席の笑いには、安堵の色も見えただろう。
振り返ればこの舞台、こういう、カラダのモードチェンジの隙間、とでも言うような時間を繰り返し、それもしつこくつくりだす。冒頭のラブストーリーモードもすぐに疑わしくなって、新たなモードをこちらは探り出すことになる、というように、場面の空気を小刻みにズラしていくことで、観ている側の、カラダのモードの決定機構にどんどん揺さぶりをかけるのだ。
揺さぶられつづけるカラダと意識は、舞台と観客との距離感を意識させるだけでなく、観ている自分の、つまんないスイッチ(ウルトラクイズの音楽とか)で勝手に切り替わろうとするカラダと、そんなカラダのふがいなさをもどかしく感じる意識の間の距離まで認識させはじめる。意識とカラダ、自分の中のふたつの他人が浮かび上がる。
人間が、自分のカラダのモードを目の前の場面に応じて変えるということは、見方を変えれば、その場面をカラダが把握しようとすることへの欲望、といえるかも。どんどんずれて把握を拒むあり方自体は現代芸術として当然かもしれないけど、その拒み方は、とってもユニーク。舞台と客席。意識とカラダ。色んなものが、関係しそうで関係しない。ギリギリの距離を残して、お互いを見つめ続ける。
満足度★★★★
「楽しみ」をみたくない
なんだろう。難しいけど、観客へ、自分も当事者だよ、みたいな、他人事としてじゃない感覚を呼び覚ます、もしかすると演劇が演劇である意味かもしれないようなちからが、信じられているのかな、と思った。
ネタバレBOX
舞台のうえに、リアルなセットはない。象徴的な、窓のいくつも開いたおおきな壁があるばかり。これが、迫ってきたり、遠のいたりするたびに、僕は、客席にいるのに、世界がこちらを押しつぶそうと迫ってきたり、まわりの音すら聞こえないほど自分と世界と、間の溝が深くなったり、そういう感覚に激しく揺さぶられた。これは、僕も巻き込む物語だと感じて、冷静ではいられなくなりそうだった。みたくない、と思うところが多かった。
物語は、とある町のアートフェスティバルをめぐるいざこざ。ゼッタイに本心を語ることのない、それが当たり前の世界に生きてきた官僚たちと、そういう社会を無意識に避けてきた芸術家とのちょっとした行き違いが、いつしかお互いの存在理由を賭けてぶつかりあう泥沼の争いに。大きな悲劇につながっていくまでが、一気呵成に描かれる。
永久に交わらないふたつの思想。全員が「善」であるのは芸術家の思想だとわかってる。でもそこに、互いの陣営の個々人が抱える個人的な思惑が少しずつ上乗せされて、はなしはねじれる。それらの言葉に板挟みになる人たちが描かれて、彼らのような、長いものにまかれなければならない「恥ずかしい」部分を持たない人間はいないかもしれないことが、はっきりと示唆される。
僕は、この演劇のいいところは、この板挟みになる民間のプロデューサーと、役所のおじさんが、じっくりじっくり描かれているところだと思うけど、同時に、この部分をきちんと観客が受け止めることは、相当に難しいとも思った。それは、ここで描かれていることが、僕たち観客が、基本的に「みたくない」ことだからだろうと思った。
「演劇を観にいく」ということは、やっぱり、楽しいことをみたいということだと思う。そのことは、単純ではない。たとえば、舞台に対して、いまここで僕がやってるみたいに、ああだこうだと口を挟むことも、「楽しみ」のひとつ。反省をこめて言えば、自分の「良識」を確かめる、ということだって、「楽しみ」になる。
この舞台は、そういう「楽しみ」の機会を与えながら、与えてくれない、という構造を持っているのではないか、と思う。つまり、普段の暮らしの中では色んなものごとを無意識にみないようにしている僕らが、突然ある一時、そのことについてあたかもずっと「良識」を持ち続けていたかのようにふるまうことができることを、描いているようにみえるのだ。
「まるで彫像。まるでそう……たまに眺めるのはいいけれど、引きずって歩くには重たくない?」
劇中のせりふだけれど、この戯曲そのもののことを言ってるみたい。それは、僕ら観客への、作者の投げたボールのようで、ボウリングのボールみたいに重たいそれを、僕らは受け止められるのか。観客の、観客としての力が(それは市民としての責任を引き受ける力でもあるだろう)、試されているような気がする。
満足度★★
ねじれを、あやしむ
きれいな舞台美術、役者さんの力量、そしてそつのない戯曲、演出。その向こうになにが見えたのか、じっくり振り返ってみる。
ネタバレBOX
父、母、知的障害のある兄、妹。とある温泉地での家族旅行。妹が「結婚するのやめる」と言い出すのをきっかけに、長い間、兄の障害のきっかけとなった高熱について、心にしまわれてきたひとりひとりの罪の意識、お互いを責める気持ちが、しだいしだいにぶちまけられる。
蓬莱竜太は、観客の気持ちとのやりとりがとっても上手。なにげない風景から始めて、家族の状況、みんなの心の葛藤を、幻想的なイメージを挿入しながら徐々に徐々に見せていく。こちらがどう思うか、次に何を知りたいのか、常に一歩先を読んで、タイミングよく提示してくれる。一方的に見せつける感じじゃなくて、交渉するみたいな緊張感。気持ち良いな、と思う。
じっくりと心の暗さを追求する物語だけど、「なんだって、みんな責任をとりたがるんだ。今日に限って。温泉地で」というせりふに笑いも生まれる。抑制の効いた演出、存在感のある役者さんたちの演技、積み木のおもちゃみたいな幻想的な舞台美術も相まって、バランスのとれた、感じのよい舞台にみえる。「闇があるから難しい、それでも家族は生活し続ける」というメッセージも、みんなに通じるものだ。
でも、なんだかこの舞台、どこかに僕はねじれを感じる。描いているものが、とってもとっても小さいものに思えてならない。「家族の闇」という、誰もが抱える永遠の大きなテーマを描いていながら、普遍的な世界につながらない。それはどこかに、そつなく計算された作為があるからなんじゃないかと、僕は感じる。
例えば「知的障害の兄」は、この家族の闇をあぶり出すために用意された「設定」みたいなんだけど、この「障害」という設定は、「闇」を大きなものに見せる、誰にも逆らえないものだ。それなのに、家族の個々のメンバーの抱える「闇」は、なんだか、「知的障害」を持つ家族特有のものではない、どの家族にも共通する「闇」のように描かれている。
ここから、僕らは、自分の家族にもある闇の部分を想いだすかもしれないけれど、厳密にみれば、僕らの持っている闇は、「知的障害を持つ家族」の闇と、同じレベルではないと思う。それを、「同じ」に見せてしまう。この舞台には、そんな危うさがある、と思う。
例えば、妹の抱える「闇」は、兄が雨の日に外に閉め出されるきっかけになる、「おもちゃをこわしたことを兄のせいにした」ことだったりするんだけど、こんなちっちゃな「闇」なら、僕にもある。でも、僕のちっちゃな「闇」は、「知的障害」に結びつかない。なのに、結論の部分は、僕らに共通するように感じさせる。つまりは、僕らの小さな「闇」を、大きなものに見せる作為を、僕は感じる。観客を、気持ちよく感じさせる作為を、僕は感じる。
満足度★★
無邪気さと無自覚と
20世紀アメリカの作家ソーントン・ワイルダーの戯曲には、人類の歴史を、とっても身近なちいさな社会(町とか、家庭とか)にまで圧縮して、重ねて描く作品がいくつもある。その代表作が “Our Town” (わが町)なので、「わが社」の歴史と人類史とを重ねて描く今作は、前作『わが星』と同じくワイルダーを下敷きにしている。
ワイルダーは本当に面白い。でも僕には、柴幸男作品にちょっと疑問があるのです。
ネタバレBOX
人類の誕生とともに創業された「わが社」のビルは、毎日1フロアずつ歴史を積み重ねていく。今日は、2010年、3月○×階。そんな「今、ここ」で、僕らは、いつもとなんにも変わらない、一日を働いてすごす「社員」という人類の生活を見せられる。
出会いもあれば、別れもある。結婚して、子供が生まれて、出世する人もいる。ほとんど人に顧みられない仕事を、延々つづける人がいる。なにもかもが嫌になって、働くのをやめる人がいる。そして、退社という名の「死」を迎える人もいる。柴幸男の演劇は、ワイルダーの劇作よろしく、小さな「わが社」という社会の中に、人間の営みや人類の歴史を圧縮する。
「すずと、小鳥と、それからわたし、/みんなちがって、みんないい。」口当たりよいリズムにあわせて、人の全てを肯定する。ちょっと、じーんときてしまう。
でも、ワイルダーのものと違って(金子みすゞとも違って)、この人類史には、戦争も、憎しみもない。苦しみがあんまりなさそうだ。どこか、そういう人類の負の側面を、「あえて描かない」ようなところがある。悪いことには、あえてそうしていることに、作者の自覚がないみたい。よしんば自覚があるにしろ(劇団名「ままごと」だし)、表面的には全く無邪気にうつるそれは、観客の目も、そういう部分から、無意識に目をそらさせる、危険な世界だ。今の世界を、「そのままでいいよ」と言って肯定してくれる、甘くて幼いユートピア。ノスタルジックな絵空事にしか見えなかった。
「わが社」のタイムカードの形のチケットを、レコーダーに通してから、僕らは舞台に案内される。舞台に入るとパンフレットを「社内報です」と社員姿のスタッフから受け取る。劇場を、今日は「わが社」とみなすルールは、観客席を舞台と接続させようという試みだろう。
でも、柴幸男のやり方は、観客の側に、舞台のルールに従わせるやり方。彼らの無邪気なままごと遊びに付き合わされる僕には、それは無自覚なだけ、よけいに傲慢と見える。そしてルールは、その外側を、内側から切り離してしまう。今回、舞台で演出家を演じた柴は、舞台上で、役者たちのかけあいを見て大笑いしていた。稽古場のような空気。よほど楽しいのだろう。観客の側を、つまりは、演劇の世界という小さい社会の外側を、みているようには思えなかった。そんな姿勢が、「今」を如実に表している、といえないことも、ないけれど。
満足度★★
無、コンプリート?
大味な、二番煎じ、だと思った。
ネタバレBOX
『生きてるものはいないのか』のラストシーン、死体がひな壇に並んでいるところからスタートして、一人ずつ、時間が逆まわしになっていく。つまり、人々が死んで行く最後の時間を、今度は死んだ時点から観ていくことになる。
どったんばったん七転八倒しながら、今度は死体が、起き上がる。『生きてるものはいないのか』の町のすぐ近くで、全然ちがう人々のちょっとしたドラマが、逆まわしで再生されて行く。
『生きてるものはいないのか』(めんどくさい! 以下『いないのか』)は、人々の抱えるいろんなドラマが、少しずつ見えてきて、大きな意味を持ちそうなギリギリのところで死んで、なんにもわからないまま意味が壊れる、そういうつくりだったけど、今回は逆。よくわからない状況から始まって、どうしてこうなったのかが、きちんと分かっていくつくり。不思議なことに、ヘンなことをやってるのに、逆に正統派な印象。
ドミノ倒しの物語の出発点は、ひとりの女性の妊娠で、死から始まる『いないのか』が、『生きてるものか』で「生」の始まりで終わる。扇が開いてまた閉じる、ひとつの円環構造が出来上がる、ようにみえる。
でも、疑問がたくさんある。時間が逆まわしになるだけで、結局、彼らは死ぬんだから、これって、『いないのか』の繰り返しなんじゃないか、と思う。女性の妊娠を基調にした生のテーマだって、『いないのか』に既にあった。むしろあちらの、最後までお腹の子を生かそうとして、死ぬ間際に「だめか、くそ」と悔しそうだった彼女のほうが印象に残っている。死んだ我が子に絶望して、自分から死のうとする母親も、『いないのか』に既に出てきていた。
自分たちの死を、「運命」なのかどうか考えるシーンがでてくる。「運命」という、大きな言葉が頻出する。『いないのか』ではあれほど慎重だった、言葉や、生のありかたに対する態度が、こちらには少し欠けていると感じる。人々が死に慣れていく過程も、こちらではほとんど描かれない。
でも、と考えてみる。『いないのか』が、人の抱える「意味」や「価値」を無化して、人間の生まれたままの、無の姿を提示する作品だったとするなら、この『いないのか』のセルフパロディーのような『生きてるものか』は、『いないのか』という作品そのものの意味や価値をなかったことにしようとするものなんじゃないか、という気がしてくる。
賞とか、人気とか、そういうものの無化された、生まれたままの、前田司郎の無が目指されているような気がしてくる。底知れない怖さを、勝手に感じる。
満足度★★★★
ぽっかり空いた、無の世界
大味にみえて、とっても繊細なお芝居だと思った。
ネタバレBOX
ちょっとしたひな壇があるだけの舞台の上で、17人、次々と意味なく死んで行く話。
周りで人が死ぬ。最初はびっくりして、大声だして逃げたりしてたのが、段々慣れてくる。自分も助かりそうにないと分かると、誰と死ぬとか、何を言い残そうとか、なんとなく寄り集まって、みんなで日常に逃げ込むようすが、日本人の僕らそのままな感じ。
……と、ここまでは戯曲で読んでも同じ。でもここで、ト書きに一言「死ぬ」と書いてあるところに、どったんばったん七転八倒して必死の形相で死んでいく目の前の俳優さんが加わると、もう、なにも考えられなくなる。オーバーすぎる演技に、頭をごっつんごっつんする様子に、真っ赤になって血管浮き出た顔に。つられてけいれんしながら、こちらもただただ笑って笑って、お腹を抱えて笑っているうちに。ふと気づくと、なんだかわからない、なんにもない感じにとらわれて、ものすごく怖く、かなしくなった。
どんどん死んで、最後の5・6人くらいになると、こちらも慣れて、笑わなくなる。でも、なんだかわからない怖さのなか、生きることをあきらめていく人々の間で、看取る看取らないでちょっともめるシーンがでてくる。
「ちょっと、あれだけど、ちょっとわがままなんじゃないかな」
「は? だって、僕死にそうなんですよ」
「いやわかるけど、俺だってあれじゃん、いつ死ぬかわかんないじゃん、その時間をさ、ていうか、命を? 命っていっちゃうとちょっとあれ、あれかも知んないけど、そんな誇張してないと思うんだけど」
「命」っていっちゃうとちょっとあれなところが、この作品、とっても高貴だな、と思った。「命」とか「運命」とか「魂」とか、そういう大きな言葉を使うことに対する、とてもデリケートな感覚がある。大きな言葉を、表現する人は使いたがる。簡単に心が動いたような気にさせるからだ。でも、それを使わない。
「命」という言葉や、「死」というイメージの持っている、大きな意味とか理由とか、そういうものの価値が、慎重に疑われて、解体される。死体以外に何ものこらない最後のシーン。すべての価値をはぎとられて、ぽっかり空いた虚無の世界で、僕らはただ呆然とするしかない。
満足度★★
作る側の世界
なにやら、最近はやりの演劇の、コピペのような印象。残念ながら、楽しめなかった。
ネタバレBOX
「ハムレット」の劇中劇として、「夏の夜の夢」のボトムたちの芝居が上演されるのが、「冬物語」のレオンティーズのお城、という、シェイクスピアのザッピング。松岡和子訳のあとがきに忠実に、「メタシアター」という側面をクローズアップした舞台。
「演劇」というものを「演劇」自身が批評する、自己言及スタイルのために、シェイクスピア劇をみつめる観客が、舞台のはずれに二人。劇中人物のパック(死後のロミオ)と、大学生の男の子が、劇をみつめる。さらにそれを、舞台から一段降りた、上手のはずれにいる、演出家が、みつめる。観客は、それら全部を、みせられる。
ずっとゲームに夢中の大学生が、次第に演劇に引き込まれて、最後、ハムレットのラストシーンに介入して、ジェノサイドを止めようとする「感動的」な姿をみても、なにも感じることがなかったのは、観客席と、すぐ目の前にあるはずの舞台との間に、大きなへだたりがあったから。
演出家は、目に見えるかたちの才気をみせようと、必死になっている様子。群雄割拠の演劇の世は大変なんだろうなと、僕などは同情してしまうけど、それだけに、演劇の世界の外の、観客席が、みえていない、と思ったのだった。
シェイクスピアのメタシアターは、とても大きな発想で、全ての人は、王様も庶民も「役割」を演じているにすぎなくて、役を離れた後に残るものはなにもないよ、というものだと僕は思っているんだけど、今回の作品では、最後に、ハムレットの悲劇を止められなかった男の子が、劇団の門をたたく。あれ? と思う。現実の人間が、演劇の世界に入るという構図は、反対なのではないか。演劇の中にどっぷり浸かった、作る側の世界が、人間世界よりも大きくなってしまっているみたい。演劇の外の世界に暮らす僕などは、勝手にやんなさい、と思ってしまった。
シェイクスピアの劇は、演劇を使って、現実の世界を変えているみたいにみえるかもしれない。でも、実は、ハムレットもボトムたちも、リアもマクベスも。自分が、単なる役者を演じていたにすぎないことを知って、無を背負い、現実世界に出て行く。決して、演劇世界にとどまることは、しておらず、演劇世界と現実世界の区別がなくなる、だからこそ、外側にも響くのだと、僕は思う。
満足度★★
せめてあとひと呼吸
申し訳ないけれど、僕にとって、この舞台の観劇は苦痛そのものでした。物語に破綻もないし、箸にも棒にもかからないというのではないけれど、もう少し、工夫が欲しかった。
ネタバレBOX
これは、歌人の穂村弘があげている例だけど、たとえば、「門」が「ガシャンと閉まる」場合と、「ダシャンと閉まる」場合。リアルに響くのは後者である。「ガシャン」はあたりまえすぎて通り過ぎてしまう。直結している「門が閉まる」と「ガシャン」の間でひと呼吸して「ダシャン」。それが短歌である。
短歌に限らず、なにかを表現するときには、このひと呼吸がキモだと思う。そこに工夫と個性がある。風景だったら気にならないけど、逃げ出すことのできない閉鎖空間で、「ガシャン」ばかりを延々見せられ続けるのは苦しい。設定された性格だけを全身で表現する演出と役者。物語を後ろに追いやって、全面にせり出してしまった「感動させよう」という思い。僕には、この舞台のやろうとしていることや、こめようとしているメッセージばかりが、うるさいほどに伝わったが、「どうやって」伝えようとするのかを工夫した形跡はみられなかった。
舞台は、不治のウイルスに冒された人々の暮らす研究施設。絶望している患者たちと、患者をモノ扱いする看護士、研究材料扱いする医者とが、日々憎しみをむき出しにして、罵詈雑言をぶつけあう。僕は、舞台の多くを占める、「ビョーキ」「くさってる」という、バリエーションに乏しい不毛な言葉の暴力をぶつけ合うシーンに辟易した。役者たちは、ただむき出しの暴力性だけを、そのまま叫んでいるようにしかみえず、それを延々と見せられるこちらは、苦痛で、劇場を逃げ出したかった。
たしかに、今、僕たちは、自分のなかの「思い」をそのまま、むき出しのまま表に出してしまう傾向があるかもしれない(この文章にも、その傾向は出てしまっているかもしれない。ごめんなさい)。それでも「演劇」にする以上、もう少し工夫する必要があるのではないかと思う。「思い」は、「演劇」を媒介に、その先に昇華するはずのものではないか。
技術的にも、モンタージュの多用で主要人物たちの心の変化が唐突にみえてしまったり、先が読めてしまっている展開をじっくりと追いかける冗長さにあふれていたり、未熟な点があるけれど、それよりもなによりも。まずは、「演劇」にする必要がある「思い」かどうか。せめてあとひと呼吸、欲しかった。
満足度★★★
ルールと、内向きの本音
芸能プロダクション所属の俳優さんたちによる、発表会的なお芝居は、関係者じゃない僕たちに、門戸を開いていたのかどうか。
ネタバレBOX
偶然テレパシーでつながった、縁もゆかりもない人たち。不器用な人間関係から、その裏にあるお互いを思う気持ちだけが取り出されて、不純物ゼロの純粋な「会話」として、役者たちによって演じられる。
なんだか変わったお芝居で、二つのルールが、舞台を支える。
一つ。前提として、物語は、俳優たち自身の「あり得たかもしれないもうひとつの人生」を出発点としている。「もしも、俳優をやってなかったら……」という話を始めた俳優が、いつの間にか、もうひとつの自分とすり替わるところから始まる。
二つ。がらーんとした、なんにもない舞台は、現実の空間じゃなくて、なんというか、コミュニケーションが行われる「場」みたいなものの見立て。チャットルームみたいに、役者が、ここに出てくると、その出て来た同士は「つながる」。テレパシーだったり、電話だったり、対面の会話だったり。実際の会話の、空間的な距離や、目を合わせない心理的な距離を無視して、この「場」でつながった同士は、膝つき合わせて、全力でコミュニケートする。
ナイーブすぎる物語は、あんまり印象に残らない。舞台の主役は、このルールだ。
この舞台、どうも、舞台上の世界だけで完結してるみたいな、とってもミクロな印象なのは、多分、「ルール」という考え方があるからじゃないかな、と思う。もともと、何かを制限するのが、ルール。自分で設定したルールを1ミリたりともはみ出さないこのお芝居では、ルールの外側が、想像できない。
観劇していて、想像力が外側に向かわないのは、僕にとってはいつもと逆で、ちょっとヘンな感じ。小さな舞台を大きな世界と重ねてみたり、自分や周りの人を重ねてみたり。普通(って言っても個人的にですが)、舞台は、その外側を想像させる。この舞台では、それがなかった。
じゃあ、代わりになにを想像したかというと、内側なのだった。役者さんたちが、楽しく稽古してる姿とか、作者が、そんな彼らに指示を与えて、楽しくワークショップしてるとことか、そんなことばっかり、目に浮かんじゃう。とっても楽しそう。でも、彼らの世界には、僕たち観客はいらないみたいに、僕には映った。
表面的な物語は、全然知らない赤の他人とつながる、その大切さみたいなものを訴える。でも、その「他人」というのは、あくまで「演劇を作る側」という、限られた世界の中の、特定の「他人」に限られていたみたい。いつもは舞台の裏方に徹するはずのルールが主役に躍り出る、それは、演じられているものよりも、作っている人たちが主役なんだという、そんな内向きの本音。外にいる、他人の僕にはつながらなかった。
満足度★★★★
どこまでも遠い、すぐ近く
色々すごいなぁ、と圧倒されてしまったお芝居。なんというか、舞台から客席に向かってすごいプレッシャーが迫ってくるかんじ。なにか、大きなことが問題になっているんだけど、舞台上では答えは出なくて、宿題として渡されちゃったような気もする。
ネタバレBOX
フランスで、30年前に書かれた戯曲を、平田オリザが舞台を日本に置き換えてリライトしたもの。日本人の俳優たちが、日本語で、日本の話をするのに、舞台そのものは、どこかシェイクスピアみたいなヨーロッパ風なつくり。平田オリザさんの日本化が、ヘンに上手にできすぎてるのだろうか、日本的な表面と西欧的な構造のギャップが、舞台を観づらくしていた気もする。
テーマは、企業買収。日本の便器メーカーが、フランス資本に買収されるまでの物語は、シェイクスピアの歴史劇ライク。絶対君主の社長が倒れて、二人の息子が争って。フランス企業の介入を、最終的には受け入れて。そういう様子が、形式どおり、わりとドライに、描かれる。「経済演劇」というより、これは伝統的な「歴史劇」を、現代に置き換えたものなんじゃないかなと思う。
この舞台は、日本側の元社員のひとりが、現実にあった買収劇を趣味で戯曲化したものの上演、という複雑な設定。なので、作者は、ちょくちょく劇中の役を離れて、作者の立場から観客に話しかけてくる。舞台を外側から眺める視点は、観客に、感情移入をさせない配慮だと思う。つまり、問題になっているのは、ひとりひとりのヒトではなくて、「買収」という経済の構造そのもの、ということだろう。シアタートラムの窮屈で広い舞台と、青年団俳優たちの、誰にでも、誰でもないものにもなれる「ニュートラルな身体」は、ヒトのカラダを使う具体的な演劇を、ものすごく抽象化する。俳優たちを置き去りにして物語は進む。これはすごいな、と思う。すぐそこにある舞台とカラダが、どこまでも遠く感じる。
そして「買収」も、スイッチが入ってからは、する側、される側、双方の人間たちを置き去りにして、どんどん進む。最終的に、日本側の社長とその弟は、いつの間にか、喜んで会社を離れる。買収する側のフランス人も、ひとりは日本の社長と一緒に会社を去っちゃう。残ったひとりも、そのへんで見つけた次の人材に会社を渡す、橋渡しにすぎないかんじ。誰もいなくなって、買収のすんだ会社だけが残る。全員死んで、不安だけが残る、シェイクスピアの悲劇みたいに。
怖いのは、これが、喜劇としてつくられてることかもしれない。作者は、最後に、この舞台の幕切れは、アリストファネスの喜劇をもとに、結婚で終わるようにした、と解説。舞台上の人々も、だれも死なないし、なんだか嬉しそうだし、一見すると喜ばしいのに、やっぱり、その底にあるのは、人間不在の不安にみえた。これは、あからさまな悲劇よりもずっと怖いと思った。
もうひとつ、怖かったのは、この舞台が、全体的に、とっても人工的だった、ということ。企業買収というメインプロットの脇に、日本神話の話や、ルワンダ虐殺の話やなんかが、並行して語られるんだけど、こういうのが、いかにも「下部構造!」という感じに、説明っぽく分かり易く置かれていて、なんだか、世界の全部を把握して、描こうとする、欲望が見え隠れしているみたいで、怖かった。
それが、最近の青年団の、なにか、観客たちに「世界」をみせて、必死で「教育」しようとする姿勢と重なって、僕は、なんだかとっても、不自由な違和感を覚えた。
満足度★★
狭さと重さと
なんだろう。バランスが、壊れていないかな、と思った。そして、無駄に疲れた……。チラシは良かった。すごく。
ネタバレBOX
戯曲が、結構すごい。批評的で、怜悧で、神様のような視線で書いている。そして、なによりもすごいのは、重いテーマをコメディとして描こうとしているのに、笑うところが一個も無いところ。坂手○二さんみたいに初めから笑わせる気がないんじゃなくて、重いテーマに飲み込まれた結果、「笑うところ」が逆に怖さになっちゃった、みたいな気がする。どうしても、こっちも難しいことを考えちゃう。批評っぽいんだもの。
演出の人は、きっとそれを感じたんだろう。必死にポップにして、「笑い」を入れて、上演されたときの重さを緩和したかったのかな、と思った。
自分がダメ人間であることを自覚して、他者との競争をあきらめる思想、「ハルメリ」。思想ではなくて「冗談」だよ、というエクスキューズのもとに世間を席巻するけれど、いつしか「非ハルメリ」人間を吊るし上げて排除しようとする運動に。みんな「本物のハルメリ」、ハルメリエリートを目指して競争が激化する。なんか、よく言われる、グローバリゼーションの核心としての「勝つことの中毒」みたいなものをみせる話。
「大衆」が、描かれているのだと思った。でも、批評的な視点が強くて、この「大衆」はどこか抽象的だと思った。登場人物たちが、具体的な人としてみえてこない、漠然とした描かれ方。劇作家が一応試みた戯画化も、もっと知りたい心の機微を削ぎ落として、人々をより抽象化させてしまった。
でも演劇は、上演されるとどうしても具体的になっちゃう。役者さんは、そこに在るカラダを持った人間なんだもの。しかもアトリエ春風舎はとっても狭くて、役者の舞台を歩く振動が直に伝わってくるくらい具体的な空間。たぶん戯曲は、こんな狭い空間を想定していない(上演そのものが意識されたかも、ちょっと疑問)。
一方で演出は、重さを薄めようとしてか、なぜかハンドマイクで叫びまくる編集長とか、テレビのアングル切り替えをドタドタ自分たちの動きで再現だとか、戯画化の厚塗りに必死。で、これを目の前でやられると、こちらは、とんでもなく恥ずかしいのだった。
必死さが、痛い。……。なんで、「必死さが、痛い」と書いて、背筋がぞっとするのだろう。「冗談ほど怖いものはない」とかなんとか、劇作家が書いているから? 彼女の視線は、やっぱり怖い。でも、上演するということには、また別な視点がいるんじゃないかな、と思うのです。
満足度★★★
めざせふじみの人?
なんだか、形式とか、自分の方向を模索している様子が伺えて、楽しかった。
ネタバレBOX
演出家は、自分の目指すものがはっきりと見えているわけではなくて、なんだか誰か、あこがれている人を目標にして、とりあえずそういう人を目指しているようす。冒頭の、ふじみの人みたいな「この三人姉妹は(中略)で、あーだこーだあるっていう話です」みたいな説明とか、だから、なんだか既視感がある感じ。
チラシでは、なんだか根本からリメイクする、みたいな大風呂敷を広げていたけれど、フタを開けてみれば、かなりそのままの「三人姉妹」(ロシア固有の文化とか、ラテン語やフランス語が出てくるところとか、めんどくさいところがバッサリ、かなり雑に切り取られていたけど)。せりふの言葉だけ、「現代口語」風(そのへんも、よくあるかんじで)。このチラシとの差に、なんだか迷いがみえて、うれしくなっちゃう。
一応、劇団のテーマは、「リアルなコミュニケーション」らしい。でも、あんまりリアルじゃない、と思った。そもそも、学生さんみたいな若い人たちが、中年男性とか、お爺さんとかやるわけで、だから、必然、絵に描いたみたいな「中年男性」とか「お爺ちゃん」とか、ステレオタイプ化がはかられていて、ロシア貴族の話が、なんだかあるあるライク。役者のうごきもどこかぎこちなく、おんなじ手振りなんかをくり返すかんじで、ちょっと抽象的な「リアル」。でも、そこが面白くて、客席と近い、狭い舞台で、若い役者さんたちが一生懸命な、どうしようもない実在する感じと、ぼやけた抽象的な感じが重なって、妙な現実感があるような。ラスト、突然リアルを捨てて、動物の耳をつけた役者さんたちが、「おとぎーばーなーしのよーうーな……」の歌に合わせてカラダを揺らす、ヘンテコなお祭り騒ぎの楽しさと相まって、どこかもやもやする、ヘンな舞台が楽しかった。
えらそうに書いてしまったけど、僕は『三人姉妹』を読んだことがなかった。チラシを見て、読まなくてもよさそうだと油断したんだけど、観終わって、とってもモヤモヤしてしまって、ついつい読んでしまった。モヤモヤは、やっぱり、アイサツの側から生まれたモヤモヤだった。それは、なんだか、作り手の感じているモヤモヤなのかな、と勝手に思った。
たくさん登場人物がでてくるので、どうしても、いろんな役者さんたちの寄せ集めみたいになって、アンドレイの人とかは、ひどかった。半分くらいの人は、ラスト、カラダを揺らすときに動きが悪く、ぶれぶれだらだらで、イライラした。練習もっと、してください。でも、ナターシャさんとか、オーリガとか、マーシャとか、男爵とか、印象に残る人もいて、惜しい。
次はシェイクスピア、とのことだけど、どうだろう。今回みたいにちょっと小器用にまとめる方向だったら、つまんなそうだな。でも、このまま迷って、ひょっとしたら。また、観に行くかもしれません。
満足度★★
エンクラ派の戯れ言です。
守りに徹した、挑戦していない舞台、僕にはそうみえた。
ネタバレBOX
いくつかの小さな物語が、同時並行的に入れ替わり立ち替わり演じられていくけれど、大きなテーマはみんなひとつ。「理想」が現実に負ける、不可能性のはなし。そして、それを、僕らはあらかじめ、知っている。だって、「犬と串」という劇団のテーマが、すでに「理想と現実のギャップ」となっているんだから。
そうなると、はじめに、人間と動物たちが楽しく過ごす、楽園のようなケーキ屋さんが出てきて、そこに、人類愛みたいなものを説く女主人が出てきた時点で、「ああ、このケーキ屋さんが崩壊するはなしかな」と予想できてしまう。
同時進行する、セックスの経験のない人間たちが、妖精化して雑誌をつくる編集部の話も、草食系男子のツヨシが、草食系の楽園をつくろうとするはなしも、みんな、崩壊という結末で結びつくのかな、とあたりがつけられてしまう。
舞台が全て、「理想と現実のギャップ」をみせる、そのために進行して行く。キャラクターも情景も、そのための歯車みたいだ。たとえば、ケーキ屋さんの女主人の親友の女の子が出てくるけど、彼女は、ただ、女主人のことばを信用して、破滅する、それだけのために出てくる。彼女がどんな人なのかとか、そういうことは全然出てこない。
この舞台は、テーマがはじめにある。そして、そのテーマのために、物語が用意される。そして、そこに必要な役割としてのキャラクターたちが、機械的に配置されていく。演出も、わりとオーソドックス(形式としての演劇を疑っていない感じ)。おそらく、それが、この劇団の基本的な姿勢なのだろうと思う。
テーマが伝わらないことへの不安も、感じる。とても慎重に、繰り返し、テーマが説明される。過剰だと、感じる。舞台中央のカシスの池も、冒頭に「カシスは血の色」といわれてしまうので、血のメタファーだと分かってしまう。たくさんのファンタジー的世界を、わざわざ「現実」ではさむのも、周到だけど、あざとさがみえてしまう。
結局舞台は、あらかじめ説明されているテーマ通りに、予定調和的に展開して行く。そうなると、部分部分を断片的に、コント集的に楽しむしかないのだけど、それも予定調和。結構はじけた舞台を演出しているけど、それも、はみださない程度。そこには、驚きや楽しさはない。いかに慎重に、はみ出さないようにするか、そこに注意が集中していて、それが、今を象徴しているようにも思った。
1時間半観ることが出来たのは、俳優たちのおかげ。そこはゲキケン、きちんと訓練がされていて、魂のないキャラクターが、役者の個性で、それなりに生き生きしてみえる。テンポも、スピードも、全部かれらのカラダがあればこそ(脚本は、もっさりしていると思ったので)。ぜひ、彼らを、別の作品で観たいと思う。
犬と串は、現在のゲキケン、唯ひとつのアンサンブルだ。たくさんの所属劇団をかかえるエンクラ(早稲田大学演劇倶楽部)とちがって、ここには、役者たちに選択肢がない。それが、さびしい。次も、彼らは、犬と串で、歯車をいきいきと演じるのだろうか。
満足度★★
エンターテインメントは危険なものである
上演時間は2時間半というアナウンスを聞いたときは、どうなることかと思ったけれど、フタを開けてみれば、結局、飽きることなく、寝ずに、観ることができた。
長いうえ、2時間半で40回以上という暗転の回数は異常。それでも、小出しにされる情報を追いかけているうち、あまり気にならなくなって、終演後には不思議な達成感すらあった。
でも、僕は、この舞台に高い評価を与えることはできない。それは、この舞台のあり方が、危険なものを含んでいると考えるからだけど、それでも、この舞台は、ある面ではなかなか面白くできていて、話は単純ではないのである。
ネタバレBOX
総勢19人にも及ぶキャラクターたちが、それぞれ、何重にも関係していて、観ているうちに、相関図がどんどん複雑に埋まって行く。逆に、この19人以外の存在は、ほとんど匂ってこない。非常にデフォルメされた、分かり易い世界観を持つキャラクターたちと相まって、作品世界に現実感は希薄。パズルのピースを埋めていくように人間がモノのように扱われ、冷たく展開していくゲームのような物語は、ある種の耽美を感じさせるもの。こういうものには、好き嫌いがはっきり出る。
僕は、こういう自己陶酔を感じさせるものは苦手。物語の出来もいいとは思えない。なのにしっかり観てしまった。それは、この作品が、今の世界の底にある物語にひびきあうように作られているからだろう。
情報格差という今を生きる僕らは、「情報を少しでも多く持っている方が有利」という、現実を支える物語の中で、他人が持っている情報を掴み損ねることをなにより怖れる。だから、「情報を得ることができた」ということ自体に満足を覚える。
この舞台は、僕ら観客に、情報格差をみせつける。たとえば、サプライズゲストの登場に、客席がざわめく。この人物は、メディアの上で有名な人。情報を持たない人は、焦る。たとえば、途中で、物語のうえでのつじつまを無視して、事件の真相に近づくヒントのようなせりふが何カ所か出てくる。情報を整理すれば、その時点で真相がわかる仕組み。
このような格差をみせられ、僕らは、舞台にちりばめられた情報を集めることに夢中になる。それはまるで、情報を受け取れるか否かを競う、ゲームをしているような感覚だ。こりっちの使い方を含めて、舞台をめぐる情報戦略に特化したこの公演は、舞台の上でも、情報戦略に特化した面をみせる。
このように、テレビから抜け出してきたような情報収集ゲームとしては、この舞台は非常に完成度が高いといえる。だが、演劇としての面白さはどうか。歌っておどるシーンも、濃厚なラブシーンに「(舞台)初日からなにやっとんじゃ」とつっこむような舞台ならではのギャグも、ことごとくすべっていた。あまりにも情報収集に特化しているために、僕らは、情報以外の部分に目をやるゆとりをなくしていた。情報以外の要素が、邪魔になってしまっていた。
このような、情報収集ゲームとしての舞台は、おそらく、周到なリサーチの結果導きだされたものなのだろう。ある意味、このようなものを望んだのは、僕らだともいえる。これが、僕らの望んだエンターテインメントのかたちなのかもしれない。
時代の流れの中で、人々が求めるものを、ただそのとおりに提供する。それはエンターテインメントのあり方として、戦時中、人々の求めに応じて大量に作られた、戦争賛美の物語につながってしまう可能性のある、大変に危険なあり方で、時代の物語をより強固なものにしてしまい、反論を圧殺する可能性を含む。作り手は、その責任に、自覚的であるべきだと思うのである。
満足度★★
揺れる舞台
空間ゼリーの「I do I want」は、今でも思い出に残る舞台。
大学サークルの部室という狭い世界で、傷つくことを怖れるゆえに、お互い、正面から向き合うことができない部員たちの、じめじめした人間関係が丁寧に描かれた舞台だった。主体性のない部員たちは、空気に流され、一人、また一人と友人たちを傷つけて行く。
そんな世界に嫌気がさした部員のひとりは、最後に、傷つくことを引き受けて、恋の告白を行い、ふられる。小さな希望を提示して、舞台は終わるが、その誰も居なくなった舞台に日の丸が浮かび上がる。サークルと恋愛というとても小さな社会を、「日本」というとても大きな社会と重ね合わせる手法が、深い印象を残した。
そんな空間ゼリーが、アイドルたちと組んで商業演劇に挑戦。それは、やっぱり、アイドルを全面に押し出すエンターテインメントなんだけど、それでも、どこかに空間ゼリー色が残っているみたいな、不思議に揺れる舞台になっていて、こちらも、揺れた。
ネタバレBOX
基本的には、今回も、大学の仲良しグループが中心の、狭い世界を描いた物語。そこに、悪の組織と戦う、正義のヒロインの物語が重なっていくのだけれど、その色合いは、かなり地味。悪の組織や正義のヒロインたちよりも、向き合うことを怖れることで傷つけ合う、狭い社会のやりとりのほうが、かなり丁寧に描かれる。
正義のヒロインたちは、次のような、組織のルールに縛られている。
「暴力を使わない」
「当事者の希望があるまで、勝手に介入しない」
だから、彼女たちは、主人公なのだけれど、基本的に大学生たちの生活をやきもきしながら見守るだけ。介入したくても介入できない。やっと介入できても、基本的には話し合いでの解決を目指すという、かなり行動に制限のあるヒロインたち。敵が暴力に訴えてきても防戦一方。第三者の暴力的な介入によって事件が解決するという、なんだかカタルシスのないヒロインものだった。
というわけで、この舞台。印象が、非常に薄い。観たことを忘れていたのを、チラシを整理していて思い出したほど。そしてそれは、主人公たちを縛るルールのためだと思ったのだけど、このルール。そう、ここには「日本」という国がみえるのである。前作に続いて、ここには、「サークルと恋愛というとても小さな社会を、『日本』というとても大きな社会と重ね合わせる手法」が、意識的にか無意識にか、残っているのだ。
完全なエンターテインメントなら、ハリウッド式に、悪いヤツには暴力で対抗するのが本道。でも、空間ゼリーは、そうしなかった。ヒロインたちは、迷うのだ。それはなんだか、商業演劇なのに、商業演劇そのものを、見つめ直しているかのようで、エンターテインメントか、空間ゼリーの色か。物語を貫くベクトルが、迷って揺れているかのように、ふたてにわかれて、そのぶれが、結果的に、印象を弱めてしまったのだろう。
果たして、空間ゼリーは、この先、どこへ向かおうとしているのだろう。この『猫目倶楽部』は、続編がいくらでも作れそうなはなしなのだけど、その行き先は、まだふらふらと、定まらない。
満足度★★★
「べったり」or「突き放す」
とにかく、とんでもなくくだらない、下ネタオンパレードのコント集。どこまでアドリブなのかわからない、一回限りの瞬間にふくらむエネルギー。役者たちも大変だろうけど、観るのも大変。体力勝負。笑った。とにかく、疲れた。
ネタバレBOX
生徒8人、離島の分校でのオナニーをめぐるコント、本番だけ方言だらけになる地方のテレビ局コント、田舎の集落の労働者たちがM1を目指すコントなど、限定された地域を舞台にしたコントが目についた。
大人計画に全く明るくない僕でも、観ているうちに自然と入ってしまうくらい、俳優たちがキャラ立ちしているので、ファンならもっと楽しいだろうし、そうでなくても大丈夫。どんどん暴走する舞台に、三分の二を過ぎたあたりから、笑い疲れもあって、客席は、笑いよりも、大丈夫なのか、とはらはらしながら舞台を見守る。このギリギリのボーダーを疾走する感じが、置いて行かれる客席に妙な一体感を生み出す。不思議。
いつのまにか、全然知らない俳優たちが、好きになっていて、おどろく。でもそれは、こっそり好きでいたい感じのそれだ。劇場は、秘密のファン集会みたいな雰囲気になって、なんだかそれは、コントの舞台の、限定的な人間関係の空間と重なっていくようだった。だから、劇場を出るとき、ほっとしつつも、少し寂しい。あんなにくだらなかったコントたちが、なんだか、切なく映る。
最後のコントは、50を過ぎてもアイドルをやめられない男と、ファンをやめられないおばさんたちのコント。男は、医者に止めれられても、義理の息子に「気持ちわりー!」と殴られても、やめられない。おばさんたちは、彼が麻薬をやっていても、カツラだと知っても、やめられない。ホテルの部屋を借り切ったファンクラブイベントが終わって、みんな布団に入ったところで、「本日の公演はすべて終了いたしました」のアナウンス。そのまま、幕。カーテンコールもなし。最後まで置いてけぼりの客席は、それでも暖かい拍手を送る。
こんな夢オチみたいなコントで終わらせてしまうのが、すごい。それは、なんだか、べったりついていきたい、今のファンとの関係を、突き放すものでもあるからだ。ついていく安定をとるのか。不安定でも距離をとるのか。与えられる二択が、どちらも少し極端にすぎる気がするが、それは「関係」をめぐる問題そのものである。このギリギリのバランス感覚に、今をみつめるしたたかな目を、感じる。観客の態度が、試されていると思う。
満足度★★★★★
東京の、地域演劇を思う
最近観た、青森の劇団、弘前劇場の舞台「いつか見る青い空」が、頭から離れない。はっきりとしたスジのない、津軽の日常を淡々と描く、同時多発会話劇だ。洗練されているとは言いがたく、むしろ、泥臭いその舞台では、生身の役者の人生が、生き生きと、はっきりとした輪郭をもって迫ってきて、僕は、圧倒された。
青年団の、12年前の作品の再々演である今作は、目的なく世界をぶらぶらする、日本人旅行者たちのたまり場となっている、イスタンブールの安宿が舞台。総勢18人の旅行者たちの日常を、複雑な同時多発会話によって、淡々と描く作品。
これを観て、僕は、完璧な作品だ、と感じた。本当に面白かった。見方によっては重いテーマを、受け止め易いものにしている、全編にちりばめられたユーモアのセンス。複雑な会話を、とても分かり易く伝える、巧みな構成。しっかりと訓練されて、自らの役を、過不足無く演じる役者たち。どれをとっても、完璧で、洗練されつくしている。
そして、僕は、弘前劇場を、また思い出すのである。両者が、とても似ているのに、全く、正反対のものとして、映る。そしてそのとき、青年団の舞台が、とても、東京的なものとして、みえてくるのだった。すこし、そのことを、考えてみようと、思った。
ネタバレBOX
冒険王は、一見すると、とてもとりとめのない作品として映る。観終わった直後、僕は、そう感じて、ナマで観ることでしか体験できない、言葉の論理を越えた作品だ、と思っていた。
でも、じっくりと思い返してみると、意外にも、しっかりとした、物語としての流れを持っているようだった。どうも、それを僕は、流れとしてではなくて、エピソードの積み重ねとして覚えているみたいなのだった。つまり、この作品は、しっかりとした、重厚なテーマを扱っていながらも、それが、重厚なテーマとしてではなく、観客の目には、面白エピソードのあつまりとして映るように、とても周到に、計算されているようなのだ。まるで、作中の旅行者たちの合い言葉、「がんばらないように、がんばっている」みたい。
この舞台には、いろんな人が出てくる。みんな、それぞれ、物語的に、かなり重いテーマを背負っている。たとえば、こんな人たちだ。
・ 日本の社会に対して不安を抱え、正面から向かうことができない若者たち
・ 他者を、ゆるやかな家族のような、なれあいの関係でしかみることができない日本人
・ 自らはみだそうとするひとたちをみて、理解に苦しむ、あらかじめ疎外されたものとしての、在日韓国人
・ 社会からはみ出した人たちを、正視することができない人
・ 社会からはみ出した他者たちを、動物園の動物をみるみたいに、おもしろがって見物する人
こういうひとたちが、同時多発的に、登場する。そこに、それぞれの立場の、摩擦が生じて、ひとつひとつの面白エピソードをかたちづくっていく。
こんなふうに、たくさんのものを抱える、個性豊かな登場人物たちなのだけれど、どうしてか、存在感に、ゆらぎがある気がする。弘前劇場の舞台の、あの、役柄を越えて滲み出てくるような、匂いたつ、人間としての個性が、希薄である、という感じがするのだ。ひとりひとりの生活感だとか、行動のクセだとかは、とても細かく書き込まれているのに、それらは、役者から生まれているのではなくて、戯曲の必要に応じて、精密に、創りだされているような感じがする。
非常に、システマティック。自発的に生まれるのではない、必要に応じて書き込まれる個性。『2001年宇宙の旅』のラストに出てくる、真っ白な部屋みたいに、静かで、人工的。そして、だからこそ、強烈に、この舞台は、「東京」としての印象を、浮かび上がらせる。東京に住む、僕らの姿を、映し出す。
10年以上も前、弘前劇場が、東京公演を、定期的に行おうとしたとき、積極的に受け入れて、サポートしてくれたのは、平田オリザと、こまばアゴラ劇場だけだったという。平田オリザは、青森の「地域演劇」をつくりだそうとする弘前劇場の立場に、共感していたのだった。
青年団は、「日本」ではなく、「東京」を代表する、地域の、劇団で、こまばアゴラ劇場は、「東京」の、地域劇場。そう、考えてみることにした。