ロロvol.6 『常夏』 公演情報 ロロ「ロロvol.6 『常夏』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    泡と荒野と
     演劇は、はかない。一生懸命つくっても、後にはなにも残らない。

     アニメやマンガ、小説、音楽、ドラマにCM、アイドルなどなど。物語ることを要求されるこれらのメディアの数々を、ひとまず大雑把に「フィクション」と呼ぶとして。ちかごろのそれは、寿命がものすごく短い。はかない。

     ロロは、これらのフィクションを、ひたむきに、演劇の中に閉じ込めようとしているみたい。どうしてそんなことをするのだろう。なぜ容れ物が演劇なのだろう。ロロを見たのは今度がはじめて。僕は、その表現方法のバランスの悪さに辟易しながら、一点突破の偏った熱量におどろきあきれながら、同時に、無駄にも見える、彼らの、フィクションに対する冷めた視線と必死さに打ちのめされた。

    ネタバレBOX

     浴槽。それ以外にはなにもない異様なセットに、浴衣姿の女の子がひとり。「私は、風呂から生まれたフロ美。生まれて5秒で、恋に落ちた」と言う彼女の、「私の生まれるところ」から、舞台は、はじまる。

     何もないところに事件を見つけつづける探偵、「アリエル」を想いつづけるザリガニ、世界の破壊が使命の(肩が段ボール製のミサイルランチャーであることに悩む)怪人、それから、恋したりされたりには欠かせない女子たち。潔いくらいに現実を感じさせない、フィクションそのままなキャラたちの、「設定」と「恋」を出発点にした、無数の小さな場面が連なる。

     ひとつの場面は、次の場面がすぐそばで始まっても終わらない。前の場面の役者が、最後の動作を続けながら、残る。いくつもの動画が何重にも重なるPCディスプレイのように、パンツを脱がせ続けたり、パンツを脱がされ続けたり、なにかを探しつづけたり、客席に向かってピッチングし続けたり。残った役者は、同じ動きを繰り返しながら、ループし続ける動画のように舞台の一部に残り続ける。

     数えきれないくらいの場面は、最後まで、つながったり、ひとつの物語になったりしない。ばらばらの断片のまま。いつまでも終わらずに続きそう。と、突然(ほとんど唐突に)! 広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』が流れ出したと思ったら、それまでずっと片隅で舞台を傍観していた浴衣のフロ美が、舞台上に残った「場面」を掃除するザリガニに飛びついて「スキ!」と叫ぶ。たたみかけるように舞台の三方を囲むカーテンが落ちて、むき出しの、劇場の裏側があらわになって、物語を動かしていた電源のブレーカーが落ちるみたいに終了。

     つまりは、この舞台。ホントに「生まれて5秒で恋に落ちた」フロ美の、「生まれてから恋に落ちるまでの5秒間」なのだった。それ以上でもそれ以下でもない言葉のまんま。意味付けやら解釈やらを凛としてはねのけて、ただ「言葉そのもの」として、激しい熱量で、舞台の上に「もの」化されてしまった「MajiでKoiする5秒前」なのだった。

     すごい! と思った。なんでわざわざ!? とも思った。とにかく、打たれた。だってまさか「MajiでKoiする5秒前」というフレーズだけを取り出して、言葉のままに、2時間かけて演劇化する、そんな発想、思いもよらなかったから。

     90年代の終わり(広末の歌は97年)から2011年現在までのフィクションたちは、もはやかつてのように「時代」や「物語」を背負っていない。うたかたの世に現れては消えていく、無数の泡のような存在たちだ。そのほとんどは、人々の記憶のうえには残らずに、人類のアーカイブ然とふるまうインターネット空間にのみ、ひっそりと、情報として、いつまでも残り続ける、それだけのもの。

     ロロの『常夏』は、そんなフィクションのはかなさを冷めた目で見つめながら、ものすごいエネルギーを消費して、わざわざはかない「演劇」という容れ物にぎゅっと濃縮した舞台。そして必死に「ただそれだけ」の舞台であろうとしているかのよう。それはつまり、それ以上のものとして、誰かの語るイデオローグライクな物語に回収されることを拒む、そんな若い潔癖さを持ち続けていることでもあるだろう。フィクションを舞台のうえでそのものとして見せる手法は強引だし、演出も雑。物語、意味付け、解釈。観客の楽しみをいくつも奪っているわけだから、もうちょっと丁寧に、表現手法で楽しませてほしいと、僕は思ってしまうけど、それでもロロは、溢れる若さを武器にして、今のまま、荒野をひたすら行くようなストイックさを持ち続けるのか。それとも……。

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    2011/11/20 10:35

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