生きてるものか【新作】 公演情報 五反田団「生きてるものか【新作】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    無、コンプリート?
     大味な、二番煎じ、だと思った。

    ネタバレBOX

     『生きてるものはいないのか』のラストシーン、死体がひな壇に並んでいるところからスタートして、一人ずつ、時間が逆まわしになっていく。つまり、人々が死んで行く最後の時間を、今度は死んだ時点から観ていくことになる。

     どったんばったん七転八倒しながら、今度は死体が、起き上がる。『生きてるものはいないのか』の町のすぐ近くで、全然ちがう人々のちょっとしたドラマが、逆まわしで再生されて行く。

     『生きてるものはいないのか』(めんどくさい! 以下『いないのか』)は、人々の抱えるいろんなドラマが、少しずつ見えてきて、大きな意味を持ちそうなギリギリのところで死んで、なんにもわからないまま意味が壊れる、そういうつくりだったけど、今回は逆。よくわからない状況から始まって、どうしてこうなったのかが、きちんと分かっていくつくり。不思議なことに、ヘンなことをやってるのに、逆に正統派な印象。

     ドミノ倒しの物語の出発点は、ひとりの女性の妊娠で、死から始まる『いないのか』が、『生きてるものか』で「生」の始まりで終わる。扇が開いてまた閉じる、ひとつの円環構造が出来上がる、ようにみえる。

     でも、疑問がたくさんある。時間が逆まわしになるだけで、結局、彼らは死ぬんだから、これって、『いないのか』の繰り返しなんじゃないか、と思う。女性の妊娠を基調にした生のテーマだって、『いないのか』に既にあった。むしろあちらの、最後までお腹の子を生かそうとして、死ぬ間際に「だめか、くそ」と悔しそうだった彼女のほうが印象に残っている。死んだ我が子に絶望して、自分から死のうとする母親も、『いないのか』に既に出てきていた。

     自分たちの死を、「運命」なのかどうか考えるシーンがでてくる。「運命」という、大きな言葉が頻出する。『いないのか』ではあれほど慎重だった、言葉や、生のありかたに対する態度が、こちらには少し欠けていると感じる。人々が死に慣れていく過程も、こちらではほとんど描かれない。

     でも、と考えてみる。『いないのか』が、人の抱える「意味」や「価値」を無化して、人間の生まれたままの、無の姿を提示する作品だったとするなら、この『いないのか』のセルフパロディーのような『生きてるものか』は、『いないのか』という作品そのものの意味や価値をなかったことにしようとするものなんじゃないか、という気がしてくる。

     賞とか、人気とか、そういうものの無化された、生まれたままの、前田司郎の無が目指されているような気がしてくる。底知れない怖さを、勝手に感じる。

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    2009/10/23 18:59

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