トラベリング・オン・ザ・シャーレ 公演情報 カムヰヤッセン「トラベリング・オン・ザ・シャーレ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    せめてあとひと呼吸
     申し訳ないけれど、僕にとって、この舞台の観劇は苦痛そのものでした。物語に破綻もないし、箸にも棒にもかからないというのではないけれど、もう少し、工夫が欲しかった。

    ネタバレBOX

     これは、歌人の穂村弘があげている例だけど、たとえば、「門」が「ガシャンと閉まる」場合と、「ダシャンと閉まる」場合。リアルに響くのは後者である。「ガシャン」はあたりまえすぎて通り過ぎてしまう。直結している「門が閉まる」と「ガシャン」の間でひと呼吸して「ダシャン」。それが短歌である。

     短歌に限らず、なにかを表現するときには、このひと呼吸がキモだと思う。そこに工夫と個性がある。風景だったら気にならないけど、逃げ出すことのできない閉鎖空間で、「ガシャン」ばかりを延々見せられ続けるのは苦しい。設定された性格だけを全身で表現する演出と役者。物語を後ろに追いやって、全面にせり出してしまった「感動させよう」という思い。僕には、この舞台のやろうとしていることや、こめようとしているメッセージばかりが、うるさいほどに伝わったが、「どうやって」伝えようとするのかを工夫した形跡はみられなかった。

     舞台は、不治のウイルスに冒された人々の暮らす研究施設。絶望している患者たちと、患者をモノ扱いする看護士、研究材料扱いする医者とが、日々憎しみをむき出しにして、罵詈雑言をぶつけあう。僕は、舞台の多くを占める、「ビョーキ」「くさってる」という、バリエーションに乏しい不毛な言葉の暴力をぶつけ合うシーンに辟易した。役者たちは、ただむき出しの暴力性だけを、そのまま叫んでいるようにしかみえず、それを延々と見せられるこちらは、苦痛で、劇場を逃げ出したかった。

     たしかに、今、僕たちは、自分のなかの「思い」をそのまま、むき出しのまま表に出してしまう傾向があるかもしれない(この文章にも、その傾向は出てしまっているかもしれない。ごめんなさい)。それでも「演劇」にする以上、もう少し工夫する必要があるのではないかと思う。「思い」は、「演劇」を媒介に、その先に昇華するはずのものではないか。

     技術的にも、モンタージュの多用で主要人物たちの心の変化が唐突にみえてしまったり、先が読めてしまっている展開をじっくりと追いかける冗長さにあふれていたり、未熟な点があるけれど、それよりもなによりも。まずは、「演劇」にする必要がある「思い」かどうか。せめてあとひと呼吸、欲しかった。

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    2009/09/06 17:19

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