旗森の観てきた!クチコミ一覧

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燐光のイルカたち

燐光のイルカたち

劇団青年座

ザ・ポケット(東京都)

2022/09/23 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

はじめてみる関西の小劇場出身の作者の作品だ。日本の創作劇を上演することに積極的で実績もある青年座が、経験豊富な演出家・宮田慶子を立てての上演である。
ストーリーも劇の構造もユニークな新人の登場である。イキウメに似て時代設定も場所設定も架空、と言うより不詳と言う感じである。内戦下の架空の街の喫茶店を営む一家が舞台である。店は内戦のため、南北の境界に壁を立てた国の、その南の壁際で細々と営業を続けている。壁の上からは常に監視兵の眼があり、戦火の音も、スパイの疑いなどの捜査員が出入りするなどの緊迫感もある。
しかしながら、その壁にはそれほど難しくなく行き来できる抜け道もあり、農家を営む市民が戸外で働くこともできる。店には映画に深い愛情を持つ若者や記録映像を作る人たちも出入りしていて、そこがこの場所を現代の暗喩として性格づけている。
この場所で一家が遭遇するのは、一家離散であったり、官憲の強制捜査であったり、壁を越えてくる者への人間的な支援であったりするが、その描写はストーリーを紡ぐというより生活の断片を並べていくという感じで、そこもこの作者を特徴づけている。作品のリアリティは、境界線を挟んで関西弁と、標準語で話される言葉が違うとか、映画への情熱への共感とか、喫茶店で提供される食物とか生活上の細部で保障されており、南北の政治体制の主張や、戦争の原因、現在の戦況などは一切触れられていない。市民にとって戦争とはこういうものだという戦争に慣れ切った世界である。かつて衝撃的であった「寿歌」の世界がいまは架空の街角の喫茶店に転がっている。
ディストピアのドラマとして、中身は、イキウメや寿歌が透けて見えて、それほどのことはないが、関西弁の力とか、市民生活の細かいリアリテイがとりいれられており、フラッシュバックで短いいシーンを重ねる手法も最近では珍しい。
演出家としては青年座のリーダー格の宮田慶子はこういう作品はあまり手の内ではない(と言うより最も苦手ではないかと思う)だろうが、生活感のとか、家族関係の膨らませ方はさすがの出来で2時間飽きない。しかし、若い俳優たちはもっと頑張ってもらわなくては。関西弁のセリフも浮いているし、ベテランに交じると狭い劇場で人数も少なくないから無駄な動きも目立つ。*の一つは新参作家へのオマケ。


ガラスの動物園

ガラスの動物園

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2022/09/28 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

演劇は、演じる側も見る側も上演される国(場所)を逃れられないものだと思う。
フランスの代表的な劇団がアメリカの戯曲(それも80年も前の)を母国上演のまま日本でも演じるという。劇団招聘公演と言う興行だけでは絶対に引き合わない形で、したがって国立の劇場の税金公演である。
その疑問はあとで書くが、まず、芝居そのものについて。
「ガラスの動物園」は室内劇で、半円形の新国立のオープンな舞台では俳優たちもやりにくそうで、最初しばらくは、何か身振りも不自然に大きくて、違和感があったが、そこは次第に収まって、後半のローラ(ジュスティーヌ・パジュレ)とジム(シリル・ゲイユ)の場面などはなかなかいい。ジムが黒人俳優と言うのはアメリカなら今のご時世ならやりそうなことだが、この舞台ではまったく自然で、フランスらしい(最近のヨーロッパ映画でもよく見る)。追憶の劇ともいわれている過去にとらわれている人たちの物語でもあるわけだが、このジムは未来も既に過去に取り込まれているような風情であった。
映画で見る女優のイザベル・ユベール(アマンダ)は舞台でも実績のある人ということだが、その真価を見るには、やはり千人以下のプロセニアム舞台で見たかった。冒頭のトム(アントワーヌ・レナール)の語り手として観客に語り掛ける場面も、手品で、これだけの観客を掴もうというのは無理だ。
舞台は、刷毛で茶色の汚しを賭けたようなモルタル壁で囲まれた一室。半具象の難しいセットだ、バルコニーの場は舞台の前面で演じられる。4人だけの芝居で幕間なし、黒スクリーンを下ろしながらの場面転換で二時間。音楽も音響効果も控えめだが、あまり「アメリカ」を意識してはいない。日本で上演される「ガラスの動物園」は日本人好みの小市民家族人情劇でまとめて人気があるが、このフランスの劇団の公園とはタッチが違う。演出者(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)はアメリカに特有な小さな人間関係の中でも独立を求めるところに注目したと言っているが、そのこと一つでも、日本とフランスでは解釈が違い、日本ではおセンチ、フランスでは孤独を厭わない、ということになるのだろう。そういう他国の有名戯曲に対する違いは実際に公演を見て見ないと分らない。そいう機会は留学でもしないとなかなか得られないが、この公演は、そういう違いが分かって面白かった。
翻訳字幕は舞台中央の一文字の上の黒幕に出す。日英で出るのだが、丁寧なのはいいが、演者と距離があるので目が忙しい。同時イヤホーン音声も選択できるようにした方がよかったと思う、どうせ、舞台も第一原語でやっているわけではないのだから。
 舞台は、なるほど、という出来ではあったが、なぜ、フランスの国立劇団を招聘しておきながら、フランスの芝居をやらなかったのかは疑問が残る。フランスはアメリカよりも古い演劇の伝統もあり、古典も不条理劇も、さらに現代劇も皆フランスに名作がある。一度、「ゴドー」をフランスで見てみたいと思っている観客は多いと思う。欧米では歌舞伎のような継承はないから、時代によって演劇作品はどんどん変わる。今のパリの劇場はどんな風にやっていて、それをどう観客が見ているかは演劇ファンは関心がある。この「ガラスの動物園」はコロナでろくろくパリでもやっていないという。なんだか長年の政府間取り決めを誓文払いしたような印象である。
有名女優と、有名戯曲を出しておけば客は集まるだろう、それで言いわけは立つ、という下心が見え見えで、国立劇場の所業としては寂しい。事実、客は一階は埋まっていた。しかし、戦後最初にバローが来た時も、つい十数年前にムヌーシキンが太陽劇団を引き連れてやってきたときも、演目はいかにもフランスらしい一筋縄ではいかないもので、それを機会に学んだことも多い。だが、今は、海外の劇団の上演をというのなら、大きなカンパニーは無理でも、ちょっと気をつけていれば東京ではいくらでも見られる。(ミュージカルならほとんど日本ツアーをやる)今の時代の招聘公演の在り方は少し真面目に考えてほしい。
最期によかったのは高いパンフレットは売らないで、欧米の劇場のようにタダで観劇要覧のような小冊子を配ったことでここは国立劇場らしいおおらかさだった。


ドードーが落下する

ドードーが落下する

劇団た組

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/09/21 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久しぶりに加藤拓也の創作劇、それも自分に身近な青春喪失劇である。
「無用の人」ドラマは、今までにもチェホフを発端に(もっと昔からあるだろうが)数々見てきたが,これはまがうことなき現代劇。相変わらず、うまい。
現代の無用の人は芸人社会からおちこぼれて30歳代になってしがない食堂のバイトなどをやっている夏目(平原テツ)と、それを取り巻く男女。信也(藤原季節)は友達として事ごとに夏目の面倒を見るが、歳を経て、その距離は次第に遠くなっていく。二人を中心になんとなく集まっている同世代の若者グループの、いかにも今風の3年間の物語を、現在、三年前、一年前、直前と時間設定して辿っていく。自殺するとか、警察に捕まるとか、深刻なものから、男女関係、親子実家問題、友人関係、日々の生活問題と、この世代にありがちなエピソードに加え、知的障碍者への性犯罪とかエグイ現代社会タネも交えて物語は進むが、それらを解りやすいテーマにしがたって並べてはいない。最後が、突然のように終わることも含め、作者が当日ビラで述べているように一つの時代の人間関係記として描いているだけで、評価もしていなければ、感情を伴走させてもいない。それでも面白く見てしまうのだから、この作者、やはり並大抵の才能ではないと思う。
現実の社会にはこの若者程度の総合失調症の人たちは普通に生活している。内心、自分たちは世間には見えない方がいいんじゃないか、と思いながら生きているし、周囲もそこは塩梅してきた。しかしその亀裂は時に露呈することもあるわけで、丁度安部国葬の日にこの芝居を観たのも奇縁であった。いや、そこは病を持つ人たちだけでなく現代のどこにも誰にも遍在することだろうと、観客は解らないでもない。少し引いてみれば、誰もが個人の壺に入ることを推奨しているような社会への批判劇にもなっている。
今回は、そういう無用の世界に生きる人たちをマダカスカルの絶滅した飛ばない鳥ドードーになぞらえているが、そこは作劇的には少し性急だったかと思わないでもない。
この作者の才能はよくわかっている。しかし、こういう生モノを扱っていると思わぬけがをしてあたら才能を潰すこともある。この作・演出者に「ザ・ウエルキン」を持って行ったのはさすが、シスカンパニーの見識であった。「ザ・ウエルキン」ジェンダーを問う難しい側面を持っていたが、ほとんど完璧と言っていい演出だった。それは翻訳台本だったからのびのびやれたからだろう。野田秀樹もこの年代には、よく古典や小説原作の作品に取り組んでいた。日本古典をベースに野田の桜の下のような新作を期待したい。

血の婚礼

血の婚礼

ホリプロ

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2022/09/15 (木) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

スペインといえば「血の婚礼」を連想するほど、知られた戯曲で、今までも、ぶどうの会から始まって、何度も見た覚えがあるが、いずれもタイトルにあるように、結婚と殺人が同時に起きる荒々しい人間の根源的な生と死をエキゾチックな南欧の地方風景の中で描く舞台だった。今回は杉原邦生演出。よきにつけ、悪しきにつけ、今までに見たことのない「血の婚礼」だった。
杉原演出は、今までも、唐や太田省吾、さらには、グリークスや木ノ下歌舞伎と、さまざまな作品で見てきた。古典から現代劇まで、自らの戯曲解釈と、今見るという現代演劇の立場が考えてあって、成否はあるがどれも演出家の存在を明確にする舞台であった。今回はロルカ。
ロビーに出ていた演出者の弁によると、今回は作品に描かれた人物たちの「思い」の葛藤を中心に置いた由。
舞台は白い壁にあみだくじのように筋交いの柱が埋め込まれているスペインの農家の一室、この四角い部屋が斜めに置かれていて、四角い部屋の端が三角形に組まれている。そこに二つの出入り口。窓があって、そこから外の広場がうかがえる。
原作一、二幕がここで演じられる。壁に当てられる照明の色で若干の変化はあるが、ここで、結婚する男女の家族的背景が説明される。専ら立ったままの台詞による説明で、若い演者たちの台詞力もあって、舞台の熱量が上がっていかない。折角結婚式から花嫁と情夫の逃亡、と言う盛り上がるべき一幕の幕切れもさして華やかでもなければ、サスペンスがあるわけでもない。演出者のいう「思い」も生煮えである。
二幕は、荒涼とした原野。ここで神々の出現も演じられ、そのあとは、ほとんどコクーンの裸舞台をいっぱいに使った派手な振付の花婿と情夫の殺陣。
全体としていつもながら様式的な統一は、決まっているのだが、だからと言って、新しいロルカの発見があったわけでもない。不満はやはり、このドラマは、思いというならセリフや殺陣の動きでなく、人間の肉体のリアルな演技で表現しないと時代を超えられないのではないか、という疑問である。
その点では、今回の若い俳優たち、花婿の木村逹成 情夫の須賀健太 花嫁の早見あかり、いずれもあまりにも現代そのままで、結婚式も六本木の結婚パーティもどき(それは今までの杉原演出にもよくあったことだが)今回はそれが、ロルカの世界とうまく重なっていかない。ベテランの安蘭けいもスペインの母性には及ばない。
音楽は今まではギター音楽やフラメンコが定番だったが、なんだか中世宗教音楽のようで、それはそれでよかったが、舞台との兼ね合いで言うと、時々ドカンと大きな音を挟む音響効果と同じく舞台になじんでいたとは思えなかった。
今まで基本、リアリズム演劇でふり幅いっぱいにやってきた「血の婚礼」を新しいスタイルでやろうという壮図はいつもながらの杉原演出らしく、小劇場も商業劇場も高いレベルで演出できる若手演出家として今後も大いに期待するが、今回は行き届かなかった。
入りは平土間が八分、二三階は苦しい。

笑顔の砦

笑顔の砦

庭劇団ペニノ

吉祥寺シアター(東京都)

2022/09/10 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

独特の劇空間を見せてくれるぺニノの公演。期待を裏切らない本年屈指の舞台だった。
今回はリアルな僻地の漁村のアパートの二部屋が舞台で、その日暮らしの漁民たちと、認知症の親を抱えた父子家庭が登場する。幕開き、漁から上がってくる小さな漁船の、船長(緒方晋)と弟子二人(野村真人・井上和也)。漁師らしい大声の遠慮のないやり取りで、現代のその日暮らしのありようも見えてくる。しばらく見ない間にこういう現実的な生活描写、会話の台詞がすごくうまくなっている。以前アパートの一室でミニマリズムでやっていたころは頭で考えた世界だったが、ここではリアルに日本の肉体労働者の生活を掴んでいる。開幕の時は空室だった隣り部屋に認知症の老母(百元夏江。埼玉芸劇の老人劇団の俳優で、日本舞踊のお師匠さんだった由、よく見つけてきたものだ。これだけでもびっくり)を抱えた地方公務員の父子家庭が転居してくる(この設定もうまい)。この親子も典型的な設定なのだが、実直に見えて何もできない父親(たなべ勝也)や、世間をすでに投げているような娘(坂井初音)が、それでも老親を中に家族からは逃げられないところなどうまいものだ。五年前に、岸田戯曲賞を受賞したのも肯ける。
漁師となる若者〈FOペレイラを宏一郎〉預かることになる、とか、接点のない二つのグループが初対面の挨拶で悩むとか、日常的な些細な事柄の中で、寒い冬の日々の三日ほどの時間が過ぎていくのだが、このどーしよーもない出口のない生活は確かにこの国のどこにでも形を変えて存在する。そこで生きて行くにははもう、テレビで見るマカロニウエスタンや文庫本の「老人と海」の助けなんかは役立たず、只、食って笑って生きていくしかない。「寂しい」と言う言葉の実感に老いの見え始めた船長が戸惑うところなど絶品。言葉では表現できないところが芝居になっている。キャストは関西の小劇場を中心に組まれているらしく、知っている俳優は一人もいなかったが、実にリアルである。とても地ではできない役ばかりだから、よほど稽古がうまくいったのだろう。あるいはキャスティングがうまいのか。これだけでも評価できる。
舞台は細かいアパートの飾りや、あまりなじみのない俳優たちの熱演でドラマチック空間になっている。この作者は宗教的な絶対的存在に関心があるらしいが、この貧しい部屋にこそ神宿る、と言う感じなのである。フランスでの公演を終えて、最終公演の由。若い観客も多く九分の入り。
蛇足だが、席ビラを作るなら、ぜひ配役表を配ってほしいものだ。折角俳優の名前をお馴染にしようとしても五十音順の俳優の一覧だけではとっかかりがない。配役を調べるだけでもずいぶん時間を要した。



毛皮のヴィーナス

毛皮のヴィーナス

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2022/08/20 (土) ~ 2022/09/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

マゾヒズムの語源にもなったマゾッホの「毛皮のヴィーナス」を今、脚色上演をしようと女優オーディションをしている劇作家・演出者(溝畑淳平)のアトリエに、時間に遅れて、行儀の悪い女優(高岡早紀)が飛び込んできて、オーディションを受けさせろ、と強要する。
ここから1時間45分、現代の女優と劇作家が、19世紀末のマゾッホの描いた男女関係をどう理解して実践していくか、と言う二人芝居がスリリングに展開する。
アメリカの劇作家・デヴィッド・アイヴスの戯曲で、ほぼ、そのままポランスキーが映画にして既に公開されている。この日本版は、戯曲や映画が持っていた原作(マゾッホ)へのヨーロッパ・コンプレックスから離れて、マゾッホの小説、アイヴスの戯曲、それを立ち上げようとする女優と演出者のナマの男女、という複雑な三重構造の中に現代に生きる人間を描き出そうとする。よく出来ている。
冒頭、雷雨のなか、ぬれねずみで下品さ丸出しでやってくる女優が、衣装を用意してきたと言って、脱ぐ。下着はまるでサドマゾバーのウエイトレスのような黒のタイツの衣装。その上に十九世紀のフリルのついて純白の衣装を着て見せる(衣装・西原理恵)。これで、演出家も一本取られるわけだが、このあたりで、観客も降参する。
二転三転する展開は次第に、いつ、女は男へ鞭を振るうのだろうというクライマックスへの期待へと変わっていくが、そこは見てのお楽しみだろう。
高岡早紀は今までの見た舞台ではあまり印象に残ったことがなかったが、これは熱演。相手役の溝畑淳平も、いったん出たら出ずっぱりの長丁場を見事にこなす。さらにこの舞台は二階を組んだ装置(長田佳代子)、劇伴奏でなく音楽として芝居に噛んでいく音楽の国広和樹、さりげない照明(佐藤慶)のフォローなど、この劇場(トラム)がそのまま、現代の「毛皮のヴィーナス」になっている。演出は文学座の新星・五戸真理恵。新人ではないが、ここまでキャスト・スタフを(多分)おだてまくって芝居をまとめきれるところなかなかのタマで観客は今後に大いに期待する。客席完売だが立見席がある。昨日はそこも満杯で壁際の本当の立ち見客もかなりいた。しかし立ち見で観てもご損はない(オトナに限る)と思う本年屈指の舞台だった。

加担者

加担者

オフィスコットーネ

駅前劇場(東京都)

2022/08/26 (金) ~ 2022/09/05 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

五十年も前に書かれたスイスのデュレンマットの日本初演が、まるで時局問題劇のように見えるのも演劇の面白いところだ。
世を捨てたかに見える化学者(小須田康人)がたまたま暗黒街の大ボス(外山誠二)と知り合いになり、化学の知識を生かして地下五階のラボで死体を溶解する仕事をはじめ、自らの生活を回復する。もちろん悪いヤツらは次々と警察(山本亨)や政治家にも手を伸ばして、化学者の知識を食い物にする。やがてそれは破局するが、ボスと科学者の間に女(月船さらら)も絡んで、大衆活劇的筋立てである。出演者たちがみな大衆演劇にも通じる分かりやすさに振り切って演じるので、テーマは明確である。それぞれのキャラクターも筋立ても通俗だが個性的で、駅前劇場としては長尺の2時間20分を飽きさせない。
母国ではデュレンマット作品としては不評で再演もしていないというのも肯けるが、そういうところがかえって、極東の国でリアリティを持つのも芝居ならでは。
今の日本の政治の裏筋をめぐる混乱も実のところはこんなものか、と連想させる面白さもあって久しぶりの直球時局劇になった。企画賞である。

伯爵のおるすばん

伯爵のおるすばん

Mrs.fictions

吉祥寺シアター(東京都)

2022/08/24 (水) ~ 2022/08/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★


Mrs.fictionsはあまりなじみのない小劇団だが、春にアゴラでみた「花柄八景」は今年の小劇場ベストテンにはきっと入るに違いない良い出来で、今回の「伯爵のおるすばん」も、劇団の看板演目で3演目と言うので期待して見に行った。劇場もアゴラからは格(客席数)上げで吉祥寺シアターだ。
Mrs.fictionsという小洒落れたネーミングの劇団も、作・演出の中島康太もこの二作以外は知らないし、今までのほとんど活躍の跡を知らない。たとえば、春に初めて見たMotextraの須貝英は少し調べたら、経歴が分かったが、この作家は今の段階では、ネットを検索した程度では出身・経歴が全然わからない。中島を軸に俳優数人の劇団らしく、今までも、多くの出演者はエイベックスの劇団4ドル50セントから借りている。今回は、さらに数人の客演があって出演者が12名。小屋に合わせてスケールアップしている。2時間20分と長い。
作・演出中島康太は、本も舞台面も細かく丁寧で、今の若者劇団にありがちの乱暴なところや、品のないところがない。大人のタッチなのだ。二作に共通しているのは、各エピソードは格段に面白いのに、劇の骨組みが弱いことだ。ちょっと素人っぽい匂いもする。
今回のテーマは、「不老不死は果たして人間にとって幸せなのか?」
作風はファンタジー志向と言うか、見た2つの作品とも舞台設定は未来に飛ぶ。「伯爵のおるすばん」は5つの時代のエピソードからできていて、始まりは1722年、次第に現代に近くなり、時代を超えて、最後には地球滅亡の日に至る。その間、56億年の物語が不死の定めのある伯爵(前田雄雅)と共に語られる。
それぞれの時代のエピソードは仕込みがあって面白いが、「花柄」のような具体性を欠くので、変化に乏しくなる。花柄が、落語の師匠に軸を置いてブレないが、こちらのブルボン伯爵は国籍も明確ではなく一貫性も見えないし、女性である。観客にとって具体的につかみにくい。ファンタジーはキャラクターものでもあるので、この「伯爵」の設定が苦しい。時代が変わるにつれて、存在そのものが具体性を欠くようになって、伯爵役の前田雄雅も戸惑っているようにも見えた。ファンタジーをうまく使って現代劇を作ったのはイキウメだが、こちらも芯の構造がしっかりしていると面白いファンタジー世界になったのにと残念。だが、今の劇界を見渡してこういう作風の作者が少ないだけに貴重な存在だ。
吉祥寺シアターはアゴラよりは一回り大きい小屋だが、見た回は3分に2くらいの入り。しかし、もうこのクラスの劇場での上演は出来るレベルは達成している。しっかり足場を固めて、次は1公演・公演数15を目指して、ユニークな舞台を見せてほしい。期待している。それにしても、この作者、どこから出てきたのだろう?

ネタバレBOX

ヴァンフル―さんの4コマ漫画の連作、と言う批評はうまく言い当てていると思いました。
追憶のアリラン(8/18~8/26)、無畏(8/24~8/27)

追憶のアリラン(8/18~8/26)、無畏(8/24~8/27)

劇団チョコレートケーキ

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/08/18 (木) ~ 2022/08/27 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

自劇団の戦争を素材にした舞台6本をこの夏に一挙上演する企画の一本である。チョコレートケーキがこうした作品に取り組む意図は明確だ。残った子孫たちへ、と言うが、筆者のような先行する世代にとっても、良い企画だと思う。ことに中にすでに見た「帰還不能点」や「その頬、熱線に焼かれ」が入っていて、ことに前者は演劇的にもよく工夫されていて、単に、戦争を指導した者たちだけでなく、それを支えた社会も的確に描出していた。
「無畏」は昨年初演されたが、時期が悪く知った時にはすでに終演していて見逃した。A級戦犯となって処刑された南京大虐殺事件の陸軍司令官の松井岩根(林竜三)の戦争犯罪をテーマにしている。
戦争犯罪はどのように裁かれるべきかと言うテーマが難しい上に、事件そのものが複雑な事情の上に成り立っている。史実はかなり明確になってきているが、それにその時々の国際的な政治判断がついて回る。事件を客観できないところへ、松井の「誰かが責任と言うなら、私だろう」という結論を急ぐ判断があって、それが戦勝国による法廷で裁かれる、と言うところが悩ましい。いつもは、問題の中心から、距離を置く時間や場所をを発見するのがうまい古川健だが、今回はその余裕がなく、史実のデータををできるだけ詰め込もうとする。ほとんど弁明の余地のない上海派遣軍(原口雄太郎)と増援軍(今里眞)の司令官たちとその幕僚(近藤フク)たちが単純化されて敵役になってしまう。作者には、たとえ、部分的なドラマになったとしても、全体をイメージさせるだけの力量はあるはずなのに、今回はそこまで出来て居ない。
これは原爆乙女の米国による治療を描いた「その頬、熱線に焼かれ」の時も感じたことだが、現在まで尾を引いている現実を、観客が芝居の一幕として理解するには複雑すぎるのだ。しかし、そこが生で演じられる演劇のいいところで、今回の敗戦の八月公演は壮挙と言っていいだろう。
今のコロナ騒ぎの政府対応にも、この国の合理的なシステム作りが出来ない病弊は露呈しているのだから。(これでは芝居の「見てきた」にはならないが)

ひとつオノレのツルハシで

ひとつオノレのツルハシで

MyrtleArts

ザムザ阿佐谷(東京都)

2022/08/18 (木) ~ 2022/08/22 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

はじめてみる関西の劇団だが、成熟した大人の芝居になっている。
作者・くるみざわしんは関西を中心に既に幾つもの新人賞を取っていて、この芝居も、新人離れした完成度である。三十歳を超えてから演劇の現場に入ってきた精神科医と言う特異な経歴も作品に生かされている。
マートルアーツと言う劇団の公演となっているが、現実的にはプロデュース公演。東京の演劇人が起用されていて、その組み合わせ方も新鮮だ。3〇〇のベテランと新人、女優は新宿梁山泊、演出がジテキンの鈴木裕美。
登場人物は三人, 1時間半ほどの掌編だが、夏目漱石のもとを訪ねてきた農民上がりの田中正造信奉の青年、漱石の妻の三人による日本の近代の在り方に対する弾劾である.面白く出来ていて、無駄がない。タイトルになっているオノレのツルハシの使い方なんか、うまいものだ。作家として自立して牛込で講演した日。正造が死んだ日、それぞれの翌日に世間師の青年が訪ねてくる。
討論の内容や漱石、正造の人物像は、もう描きつくされているので、さして新しい発見はないが、芝居つくりがうまいのである。ことに近藤結有花演じる漱石の妻が生活の場から二人を逆襲する終盤が面白かった。川口龍の世間師は少し動きすぎだとも思うが、こういうリアリズムを外した人物造形は鈴木裕美のいいところで、狙いをよく呑み込んで、小さな舞台を飽きさせもしないし、引き締めてもいる。低音で使っている現実音の効果も選曲音楽もいい。
関西から、iakuとか、Kunioとか、芝居で勝負する人たちが東京に攻め上ってくる。正面からの戦いだから、東京勢も油断できない。これらはまともな戦いだからだ。観客も楽しみである。

世界は笑う【8月7日~8月11日昼まで公演中止】

世界は笑う【8月7日~8月11日昼まで公演中止】

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2022/08/07 (日) ~ 2022/08/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ナンセンス系喜劇に殉じた先人たちへの追悼を込めたケラのお盆興行である。
キャストに今の実力系人気者も加わって主な出演者だけで15名超え。前半一幕は新宿、後半二幕はドサ回った長野の温泉場、休憩20分を入れて3時間50分。終演は10時を20分ほど超えるコロナ禍では珍しい大作だが、ケラには少ない世態・人情噺でア・ラ30歳の女性を中心に広い客層を集めて満席だった。
昭和32年から34年の夏にかけて、新宿の3百人規模の大衆演劇の一座を舞台に繰り広げる劇団の集団劇だ。ちょうどこのころ社会に出たので、この時期のこともよく知っている。ケラはまだ生まれていないはず、と調べてみると、生まれるほぼ、五年前である。この作者、以前から素材はよく調べると感心していたが、今回も、この時代の軽演劇をめぐる空気をよく掴んでいる。当時、ムーラン閉鎖の後は、松竹の第一劇場も閉めて、このような小屋は新宿にはなかったが、図体だけはバカでかい新設のコマが開場してよくこういう大衆喜劇を組んでいた(ガラガラだった)。戦前の浅草の小屋で受けていた喜劇人(シミキンとか森川信とか)が流れてきて、丁度始まったテレビで受け始めた新しいタレントの間で、この手の劇団のドタバタ・ナンセンス系が消えていく終末期の雰囲気を、ケラは見てもいないのに的確に描いている。
もちろん演じるのは現代の役者だし、コクーンの舞台だから、あの時代の自堕落な町は再現しようもないが、それでも話が進むうちに時代の埃っぽい空気は伝わってくる。脇の人物の置き方もうまく、街に居ついたような傷痍軍人のアコーデオン弾きとか、楽屋に入り浸って商売をつぶすラーメン屋とか、貸本屋をやっている未帰還の出征兵士の若妻、とか、街によどんだ層も絶妙だが、テレビ局の部長と担当者とか、金を金庫に入れて持ち歩く女興行主とか、川端康成(本人)とか当時の混乱のなかで浮いていた層の設定もうまい。今まで形だけはよく出てきたような設定だが、ここは当時よりは小奇麗だが、本質は掴んでいて見事にメインのドラマに絡む。当時の最大の社会問題は売春禁止法の実施で赤線、青線の新宿は大きな変化を迫られたのだが、そのことはほんの一言触れられたくらいで、全く素通りしているところも、ケラのうまいところだ。舞台は関係ない!
KAATの「夜の女たち」も見て見たくなった。
肝心の芝居に戻ると、新宿の軽演劇で働いていた兄を頼りに田舎から出てきたポン中の弟が役者として受けるだけでなく本も書けて小さな世界で出世する、と言う兄弟物語がメインの筋立てになっていて、そこへ、周囲の人物を巧みに咬ませながら話は進む。
いつものナイロンのように背負い投げを食わせられることもなく、見終わると、ケラの先人への追悼の念も伝わってきて、夏の夜にふさわしいいい芝居見物になった。
余談。いよいよ東急文化村も建て直すらしいが新劇場の設計では、ぜひ、あまり直方形にこだわらずに舞台に向かって客席は台形に。始まる前に女性警察官みたいな場内案内が、席から体を乗り出さないでください!と大声で注意するのは芝居見物の感興を大いに削ぐ。長い芝居は首が痛い。もう一つ、席番号は見えるところへ。いまは小洒落たつもりて番号標記を席の瀬に折り曲げているが、そのために番号のところが客電では陰になって読めない。

あつい胸さわぎ

あつい胸さわぎ

iaku

ザ・スズナリ(東京都)

2022/08/04 (木) ~ 2022/08/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

三年前にアゴラで初演を見た。平成から令和へ、幕開きの傑作だった。
再演は、コロナのただなか、劇場もスズナリに変った。配役は主人公の女子大一年生の役が辻凪子から平山咲彩に。最も印象が変わったのは美術で、アゴラでは数枚の平台をいろいろな形で組み合わせ、柱を立て、そこに赤い糸が張ってあった。今回は中央の円形の台を置き、その上に二つの丸い机を相似形に置き、それを囲むように抽象的な縦線の入った壁が垂直に立っている。
セットが抽象化されたように本もずいぶんよく整理されていて、人間関係のドラマがテンポよく進む。大分短くなっているのではないか。今回は1時間50分。俳優の出入りも初演の不定形のセットと違って動きやすい。ちょっといいなと思っていた主人公が試作する課題の鮫(だったか?)の童話や、舞台になっている中小企業の繊維工場の生活感のあるシーンはかなりカットされている。その代わり後半になると、乳房をめぐる女性の生き方の論議などは補強されていてこの三年の間にもジェンダー問題はずいぶん深くなったと思う。
この本は、作者がコロナ騒ぎの時に暢気すぎると批判されるのではないかと危惧するように(確かに私は、これは京塚と波野で新派で見たかったとも思った)、初演では、京阪神の地方都市の夏の情景を地方色濃く描いていてホームドラマとしても青春ドラマとしても、それを包括した時代のドラマとしても卓越した作品だった。大阪の現代の「はんなり」も素晴らしかった。令和を代表する一作品であることは初演も再演も同じ、時代を代表する傑作である。
しかし、自分の好みで言えば、夏の縁台に続いているような母子家庭の母子の夏物語が人情噺の色濃く演じられた初演の方が好きだ。今回は大阪弁もせせこましい。初演のゆったりと演じられたサーカス見物のシーンなど忘れられない。橋爪未萌里は今回はなかなか良かった。瓜生は初演の時の笑い声の工夫など捨てなくてもよかったのに。全体に「軽さ」「世話物の人情(赤い糸)」が薄くなったのが私としては残念に思うが、それだけ、解りやすく、ドラマとしてはテーマの緊迫度が深まったともいえるので悩ましいところだ。

ネタバレBOX

地方から出てきたいい作者を時に東京の演劇界はつぶす。つぶすというのは言葉が悪いが東京の演劇界は興行と眼前で直結しているので、作者その対応にうんざりしてしまうということはあるだろう。。パルコも贔屓の引き倒しにならないように祈っている。
『The Pride』【7月23日(土)公演中止】

『The Pride』【7月23日(土)公演中止】

PLAY/GROUND Creation

赤坂RED/THEATER(東京都)

2022/07/23 (土) ~ 2022/07/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

LGBTについては、日本でも大きく問題にされるようになったが、これはLGBT先進国のイギリスの戯曲だ。ちょっと複雑な劇構成になっていて、かの国で問題が立ち上がってきた当初の1958年と、エイズを超えて五十年後の2008年と、二つの時代に同じ名前の登場人物たちがGゲイを生きる問題に直面する。
丁度この五十年の中間のころ、しきりに英国と行き来していた十数年があったので、外側からではあるが、イギリスの日常生活の中で、ほとんどの人がお互いのLGBTを心得て生活している複雑な感情のもろもろも知らなくはない。
この劇は、そういうイギリス社会の上に書かれていて、外側の社会からは、それぞれが性的嗜好を持つわずか四人の登場人物ですら、その実態が推し量れない。翻訳上演の難しい戯曲である。
ドラマは二つの時代のゲイのカップルの出会いと別れ、出発を細やかに描いていて、テーマは理解できるが、ニュアンスまでは伝わらない(こちらの理解が及ばないのだ)。人物も、名前が同じだけで関連がないので把握しにくい。前半が1時間30分。後半が約50分。
初めて見たこのカンパニーは、この戯曲を現代的リアリズムで処理する。セリフは小声で早くささやくようだ。シーンは、性的な嗜好にとらわれる自己の精神との葛藤が中心になっているが、セリフが聞き取りにくい。この劇場は小劇場にしては珍しくタッパも高いが客席の傾斜もきつい。前方の席はいいとして(料金も高い)後方の席(と言っても十列ほどしかないのだが)までは、このセリフでは届かない。技術的にはマイクで拾ってでもセリフが分からないとかなりつらい。俳優も声を上方に逃がす工夫がいる。事情があってか、演出者が主演をやるように変更になっていて、演出者が客席から見ていないのかもしれないがここはやりすぎである。音楽も曲想はわるくないのだが、ミクシング・バランスがよくない。
帰りの地下鉄で向かいの席に若いゲイのカップルが座っていた。今はかなり解放されていてあっけらかんとしている。彼らが立つと、次は母親と男の子、次は二十歳から三十歳代のカップル。そうか、こうやって世界のどこでも人びとは人間同士つながりながら生きていくんだ。とある種の感慨が残る芝居であった。
戯曲は2008年に書かれれてすぐ、日本のtptが日本初演。その時の流れが今回の公園につながっている。tptは80年代後半から海外のあたらしい戯曲の発掘に意欲的で常打ちのベニサンピットが懐かしい。次回公演も期待している。

出鱈目

出鱈目

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2022/07/14 (木) ~ 2022/07/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

多くの市民が関心を持っている問題をドラマ化する社会劇は演劇の大きな役割の一つだ。個人的な若者心情を歌や踊りやミニマリズムで表現することが全盛だった小劇場演劇の中で、正面から社会的なテーマに取り組んで、演劇の空気を変えたトラッシュマスターズの功績は大きい。初期の「背水の孤島」〈2011〉の衝撃は大きかった。柱になった劇作家の中津留章仁も期待に応えて次々と社会問題を舞台に上げてきたが、それよりも、このヒットを追うように多くの若い作家が現実に根ざした素材で優れた舞台を書く先駆けとなったことを評価すべきだろう。
今回は現実に起きた表現の不自由展で露わになった言論・表現の自由と、公との対立を素材にしたディスカッション・ドラマである。現代社会の重要な問題で、その議論はここではとても言い尽くせないが、議論を深めることは必要だ。その意味では上演の意義のある公演だが、演劇である以上それだけではただのキャンペーンになってしまう。
演劇としていえば、久しぶりにイマの社会のツボにはまったテーマだった。ここのところ、テーマの選択や取り組みも、ドラマの展開もやや類型的になっていた中津留作品としては緊迫感のある討論劇になっている。2時間半飽きさせない。主人公が結構大きく揺れるのだが、そこが人間的にも同感されるように描かれているのがよかった。周囲の人物が便宜的になるのはやむをないが、人物や問題を少し削ってでも、周囲を分厚く描くことは必要だと思う。やはり、主人公の家庭や職場の人間設定などは安易だと思うし、それぞれの人物の行動もシーンもコクがない。部品の兵器転用や、ラストのデートのくだりなどはもっと工夫しなくては。絵画のタイトルで言葉遊びなどやっている場合ではないと思うのだが。
久しぶりに劇団の主要な男性俳優はほとんど出ていて、彼らはずいぶんベテランになって、(よく他の公演でも見るようになった)本の甘さを救っている。残念なのは、女優が育っていないことで、今回も大劇団の客演である。これからの社会劇に女性問題は欠かせないテーマなのだから、少し長期的な視野で女優発掘を心がけたらどうだろう。

ザ・ウェルキン【7月21日~24日公演中止】

ザ・ウェルキン【7月21日~24日公演中止】

シス・カンパニー

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2022/07/07 (木) ~ 2022/07/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

なかなか面白い現代劇である。
宣伝では「12人の怒れる男」のにならった推理劇と言っているが、それは看板にすぎない。
登場人物は確かに12名。対照的にここは女性のみ、しかも妊娠経験のある者ばかり。彼女たちが被疑者(大原櫻子・意外の大好演)が妊娠しているかどうかを審判する。その審判が行われるのは18世紀半ばのイングランド。当時最も合理的思考が支配的だった地域なのだろうが、彼女たちの審判の思考過程や生活環境は現代とはもちろんズレている。しかし、ここが非常に面白いのだが、その判断の中に、今も我々が生活規範として信奉していることも少なからずある。時代それぞれの論理と倫理の落差を感じながら、ドラマが進行するのが新鮮だ。テーマとしては直截に女性のジェンダー問題が取り上げられるが、その先には人間が子孫をつなぎ、文化をつなぐ営み(歴史)への視点がつながっている。
推理劇と言うが、被疑者がとらえられている罪は、今はもう存在せず、忘れられている罪状への決まり(法)だ。この辺の設定も非常にうまい。犯罪の方はどうでもいいのである。
罪を犯しても、妊娠している罪人は死刑だけは免れることができる、と言う法があった。被疑者は妊娠していると言って死刑を免れようとする。そこで、妊娠経験のある女性が集められて果たして彼女の主張が正しいかどうか判断するためこの審判が開かれることになったのだ。当時としては進歩的だった(実体験検証)である。
最近の裁判でもこんなこと、やってんじゃないの?と言う作者の冷めた目が次第に観客の客観的な視点にもなってくる。
舞台は二部構成で、短い世態スケッチのほかは、12名の審判する裁判所の白で統一された一室のみ。ここも「怒れる男」と同じだが、事の正邪ではなく、物事を判断する、のは時代を超えて何時もあったことだが、それは移ろう。しかも当事者は気づかない。ここは正邪も判断も安定している「怒れる男」とは大きく違う。被疑者をめぐる一つ一つの話題の選択が巧みで、現代の観客も引き込まれる。しかも、議論が、一方の主張に傾斜して感情的になることがない。劇としてはものすごくうまい。
ここは若い演出家・加藤拓也らしいところで、どこまでも冷静なのだ。現代の、時代が変われば、どうせ判断も変る、という判断中止の世情を映している。現代劇なのだ。
終幕の歌(富山えり子・歌も曲もいい)になって女性たちが唱和するシーンになっても、決して煽ることはない。「友達」でも見たが、舞台の上の集団をうまく動かして、普通ならそこで感情を盛り上げるところを時代の「風景」にしてしまう。新しいタッチが舞台の魅力になっている。舞台面のつくりもうまい、休憩に入る前、煙突にカラスが飛び込んで煤まみれになるところなども、戯曲指定かもしれないが、作りがよく出来ている。
女性を演じた12名の俳優にはそれぞれしどころがあって、みなその期待にこたえている。吉田羊は主演が務まる女優ということを実証した。久しぶりに見た長谷川稀世が無理なくカンパニーの中に溶け込んでいたのもさすが。この本を発掘してきたシスカンパニーもさすがである。タイトルの「ザ・ウエルキン」はイギリスの古語で天空・蒼穹の意味の由。変に甘い翻訳をしないで放りだしているところもいい。
見た回は九分の入り。







紙屋町さくらホテル【7月17日~18日公演中止、山形公演中止】

紙屋町さくらホテル【7月17日~18日公演中止、山形公演中止】

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2022/07/03 (日) ~ 2022/07/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

現代史の裏面の事実(ファクト)をちりばめ、巧みな作劇術で一編の現代史エンタティメント劇に仕上げた井上ひさしの代表作だ。この舞台が時代設定した三月後に広島で起きた悲劇を思えば、そくそくと胸に迫る名作である。久しぶりにこまつ座の公演で見た
作劇については既に言い尽くされていると思うので今回の公演について。
初演〈1997年〉は、新国立劇場の中劇場のこけら落とし、芸術監督だった渡辺浩子の演出、森光子をはじめ、大滝秀治(民藝)、小野武彦(文学座・六月劇場)井川比佐志(俳優座)。三田和代(四季)当時、随分妙な座組だなぁと思った記憶があるが、日本演劇界(現代劇)を挙げてこの作品に取り組む、と言う意気込みだったのだ。昭和史の大きなハイライトである敗戦を素材にした二十世紀総決算である。
冒頭、終戦後に、長谷川海軍大将(たかお鷹)と陸軍針生大佐(千葉哲也)が一人の人間の歴史の中で果たせる責任について対立する。初演の時はまだ多くの戦争責任者も、軍隊経験者も存命だった。今は違う。筆者は終戦時小学三年生、とても彼らと同じ経験をしたとはいえないが、その現実は子供ながらに体験していて、作者の非戦論には本能的に傾く。今回の公演は、やはり、と言うか、初演の時の張りつめたような緊張感は失われていた。それが冒頭と幕切れにも表れている。それはその時代と共にしか生きられない演劇の宿命のようなものだが。
次に、この作品の果たした役割。現在の若い劇作家たちは歴史を素材にした作品をよく書く。時代劇、と言ってもいいかもしれない。戦争が遠くなった世代の古川健、野木萌葱、詩森ろば、みな、近過去をうまく書く。その原点はこの作品の成功にあったようにも思う。現実にあった事実の上にフィクションを構築することで「真実」を描けるという確信とでも言ったらいいだろうか。これは、ファクトを素材にした前の世代の木下順二、久保栄、三好十郎などと違うアプローチである。これはフィクションの裏表で、ある意味危険な面もあるのだが「演劇」と言う文化の最前線の大きな戦術変化でもあったと思う。
観客席は八分の入り。驚いたことに民藝の客層よりも年齢層は高い。平均80歳くらいか。これには井上ひさしも少しがっかりするのではないだろうか。野田やケラがすでに試みているように思い切って若い演出家と新しい俳優を起用する時期が来ているようにも思う。半端な座組ではとてもこの難局を乗り切れないだろう。
余談になるが、この芝居でも素材としている、官憲との演劇の関係で言えば、戦後も長く新劇に対する保守派の警戒感は強く、新国立劇場の建設・運営については政府(文部省)と演劇界で長年の対立もあった。国立の劇場のこけら落としには官・民の確執の一つの決算でもあった。これは日本の現代劇の大きな屈折点でもあるので、まだ関係者が存命の内に第三者的な観点から事実関係だけでも明らかにしておいた方がいいと思う。
これも一つの二十世紀裏面史である。((現在の新国立劇場の惨憺たる官製運営を見ているととても自主記録できる状態ではないので))

三好十郎の『殺意』

三好十郎の『殺意』

演劇企画集団THE・ガジラ

APOCシアター(東京都)

2022/07/01 (金) ~ 2022/07/09 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

もともとは三好十郎のモノローグドラマを、それぞれ出演者を振って構成しなおした舞台。戦争から戦後への激変する社会を、転向に続く転向で無節操に乗り切ってきたリーダーを、はじめは左翼演劇の演出者として心酔した女優が、戦後はストリップガール、娼婦に転落しながらも糾弾する。
30人も入れば満席の真っ暗な劇場のスペースに斜めに置いた黒い裸舞台を、鏡が囲っている。大音響の電車などの轟音のなか、俳優たちはほとんど下着だけのような衣装で四方から登場してまるで、体操の演技のように組み合う。戦前から戦中にかけて、右翼も左翼もその夢や野望が打ち破られ、その過程では欺瞞と裏切りしかなかったことが明らかになっていく。その失望はまた、糾弾する側にもブーメランのように返ってくる。当事者であった作者三好十郎の苦渋が舞台を黒々と覆う。
鐘下辰男の演劇塾の教え子たち(?)の公演で、動きが早く、怒鳴りあう台詞も多い2時間20分、休憩なしの舞台である。折りたたみいすで見る観客も大変だが、この小屋では、どう見ても採算が取れないだろう。それでも、と、こういう社会の闇の根源を探ってひつこく舞台にのせてきた鐘下辰男の執念は伝わってくる。暗い舞台に照明と音響でシーンを作っていく。歯切れはいい。
主演の女優(磯部莉菜子)は、セリフも動きものびしろがあるが、大柄な体躯で、人間本来の生命力、エネルギーがある。とにかくこの長い舞台をほとんど出ずっぱりで持ち切ったのは新人らしからぬ大きさである。歌舞伎なら「でっけー」というところだ。これで、この公演は「真相はかうだ」式の安い世界を超えられた。
だが、芝居として見るなら、これはやはり三好十郎が書いた通り、一人芝居の「ストリップショー」だろう。この俳優で、一人芝居はつらいと見た鐘下の判断は当たっているだろうが、この形式で複数化するなら、もっと、「フツーの」舞台配慮がないと、テーマが通俗化してしまう。鐘下がパンフで危惧している通りのA級市民解釈になってしまうのだ

小林秀雄先生来る

小林秀雄先生来る

ハルベリーオフィス

駅前劇場(東京都)

2022/07/01 (金) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

奇抜な本を旗揚げに選んだものだ。03年の初演で、オンシアター・系の乾電池系の壱組印が初演した原田宗典の本の再演。こういう本もなくはないが、虚実の混ぜ方が奇抜なのだ。
昭和の末期、イタコもいるという東北の漁村は全村上げて文学村で、住人は文学者の先人の名前を持っている。文学雑誌も出していてその壱〇〇号記念号に東京から有名な先生を呼んで講演会を開こうということになる。漁をしている漁船の上での青年たちの合意である。
招聘された文学者が東京でも有名で昭和を代表すると言われている批評家の小林秀雄先生(藤崎卓也)。偽者なのではないかと、青年たちも疑う中で、小林秀雄先生は、悠然と自己のスタイルを崩さず青年たちと酒を酌み交わし、フリッピン女性(稲村梓)の案内でいたこを訪れ、講演会に臨む。最後の「雑談」と題した講演が秀逸で、原文アレンジなのであろうが、合理・便宜主義より、知の鍛錬が必要、と言う論を諄々と説く。
青年たちも村人もよくはわからないながらも聞かされてしまう。それは劇場の観客も同じでタイトルから年配が多いのではないかと想像していたが、ほとんど若い観客たちも呑まれている。ここは、小林秀雄を演じた藤崎卓也のお手柄で、さばけた人柄と同時に当時の主知主義を引っ張った小林の格調をよく演じている。
芝居はここまで約弐時間。飽きずに見ているうちに、狐につままれたような感じで終わるのだが、ちゃんと謎解きもある。
グループの旗揚げ公演でよくぞ、こんな埋もれていたヘンな本を発掘したものだ。確かに本は、形もよくはできていないし、何を言いたいのかキモがつかめない。だが、そこはエッセーの面白さで、見ている間は十分に面白い。あとであれこれ考える面白さも残されている。
こういう一筋縄ではいかないカタチの悪い本はアングラから90年代まではよく小劇場で上演されていたように思う。竹内銃一郎(秘宝零番館)、生田萬(ブリキの自発団)大橋泰彦(離風霊船)。なんだか、彼らは、どこかで小林秀雄とも通底していたのかもしれない。
ただ、小林秀雄も没後四十年アの権威も今の観客はほとんど知らないだろうから、宙を撃ったようなところもある。こういう埋もれた本の発掘を新しいグループの柱にするのも面白いかもしれない。そういう時代の変遷も含めて面白い公演だった



室温~夜の音楽~

室温~夜の音楽~

関西テレビ放送

世田谷パブリックシアター(東京都)

2022/06/25 (土) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ケラ独特の恐怖と笑いとナンセンスの不条理劇だ。これほど、Absurdを「不条理」と訳した訳語の生硬さに辟易する作品はない。馬鹿々々しい話だし、出てくる人間も皆いい加減、事件もまさかの展開だが、どこか人間の真実を衝いているところがある。ぞっとして笑ってしまう。
21年前のケラの作品で鶴屋南北賞や読売演劇大賞を受賞した作品と言うがすっかり忘れていた。ケラ作品は東宝が旧作をクリエで新しい若い演出者で年一本上演していて、新しい発見のある面白い企画になっているが、これは関西のテレビ局の制作、演出者は河原雅彦。初演は「フローズンビーチ」の大ヒットの後、急上昇中だった三十歳半ばの作者の戯曲によるナイロンの俳優たちの舞台も想像できるが、今改めて、河原雅彦の演出でこの作品を見ると、ケラ・ナンセンス劇-の特質が出た戯曲の良さがよくわかる。ことにその戯曲展開の用意周到さ。リアルとの距離感も絶妙である。
今回はファンクバンドの在日ファンクが音楽を担当していて(金管3名、リズム3名、浜野謙太は大きな役で出演もしている)挿入された楽曲は五曲、河原雅彦上演台本によるナマ音楽劇になっている。これも戯曲に華を添える出来で新しいケラ作品の魅力になった。この手で再演してほしい作品は幾つもある。
俳優は、ケラーナイロンにはあまり縁がなかった人たちだが、地道にうまい。インチキな霊言で商売をしている中老の男(堀部圭亮)も、同居しているその娘で、姉を若者グループに虐殺されている妹(平野綾)、十年の刑期を終えて出所して線香を上げに来るその犯人の一人(古川雄輝)、何時も入り浸っている警官(臺蔵由幸)や。道が分からなくなってやってくるタクシー運転手(浜野謙太)が戯曲を忠実に追っていて、それでいて俳優個々の味も出していて面白い.縁のない俳優で演じられた無残な作品も見たことはあるからだれがやってもできるという本ではないが、俳優も演出もよくこの作品を一本の作品にまとめ上げている。
残念ながら世田パブで入りは1階が八分。「キネマと恋人」ではチケットがなかなか手に灯らなかったが、今回はサービス券やリピート券がほぼ三割引きで出ている。毒気満々だったケラの本領の分かるすぐれた公演ある。

ディグ・ディグ・フレイミング!

ディグ・ディグ・フレイミング!

範宙遊泳

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/06/25 (土) ~ 2022/07/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久しぶりに、いまの世間が丸ごと舞台に乗っているのを見た。旬の若い演劇人の舞台で、今年の岸田戯曲賞の作者も劇団範宙水泳(作者は座付きのようだ)もはじめて。
素材は、今を流行りのSNS。「MenBose─男坊主─」という男性グループインフルエンサー たちの言動の謝罪を巡る騒動を描いていく。舞台中央にスクリーンを模した通り抜けできるパネルが張ってあって、そこに、タイポグラフィーで様々な文字が出る。内容はほとんど読み取れないが大きくシーンが変わるたびにそのシーントップのクレジットは出る。シーンは全部で十数シーン。なにが世間を怒らせ謝罪しているのか深くは掴めない。ただ形だけ謝っているようにしか見えないが、内容が空疎なものにしか過ぎないことも、しかし、中には重大なことも含まれていそうなこともわかる。後半になると引きこもりの一人の少女(亀上空花)とその母(村岡希美)への誹謗中傷に絞られていく。その経緯は男坊主四人の踊りとも演技とも芸人芸とも決められない早い動きとセリフで語られるのだが、見ている間は面白く笑ってしまうのだが、すぐ忘れてしまう。こういうところが実に今風で、世間を衝いている。
舞台構成には、若者得意の音楽はもとより、マッピング、タイポグラフィーや九州のかぶりもの劇団の手法まで取り入れ、舞台面は極めて賑やかな早い進行で、上滑りしていること自体が狙いなのだが、稽古はよく行き届いていて95分、全く隙がない。客演の村岡希美が見事な抑えになっている。
今年のベストの一つに上げられる舞台だろう。
一つだけ異見を言えば、タイトル。「ディグ・デイグ・フレイミング」のディグは、そのままでもほとんどの人は理解できるだろう(作中でヒントもある)が、フレイミングには英二文字目、rもlもある。ともに名詞母語から動詞、副詞、形容詞などにも使われている。しかし日本人にはどちらも同じ「レ」だ。どちらを取っても、意味は分かるが、その内容はかなり違う。英語生活圏で生活したことがないし、使ったこともない言葉に確信が持てない。これは多くの日本人が同じだろう。その二重性も狙いだと言われれば、随分手が込んでますね、と言うしかないが、それが、「ロボットではありません」と言う副題にどうつながるかも、作者側のお答えは欲しいところだ。それが、ご覧になった方のご自由に、となってくるとこの現代の荒廃は堂々巡りで際限なくなってくるので、まさか作者はそうは思ってはいないだろう。

又。この五つ星おすすめは、ことに若い方に。同時代演劇を持つことの幸せを!

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