ガラスの動物園 公演情報 新国立劇場「ガラスの動物園」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    演劇は、演じる側も見る側も上演される国(場所)を逃れられないものだと思う。
    フランスの代表的な劇団がアメリカの戯曲(それも80年も前の)を母国上演のまま日本でも演じるという。劇団招聘公演と言う興行だけでは絶対に引き合わない形で、したがって国立の劇場の税金公演である。
    その疑問はあとで書くが、まず、芝居そのものについて。
    「ガラスの動物園」は室内劇で、半円形の新国立のオープンな舞台では俳優たちもやりにくそうで、最初しばらくは、何か身振りも不自然に大きくて、違和感があったが、そこは次第に収まって、後半のローラ(ジュスティーヌ・パジュレ)とジム(シリル・ゲイユ)の場面などはなかなかいい。ジムが黒人俳優と言うのはアメリカなら今のご時世ならやりそうなことだが、この舞台ではまったく自然で、フランスらしい(最近のヨーロッパ映画でもよく見る)。追憶の劇ともいわれている過去にとらわれている人たちの物語でもあるわけだが、このジムは未来も既に過去に取り込まれているような風情であった。
    映画で見る女優のイザベル・ユベール(アマンダ)は舞台でも実績のある人ということだが、その真価を見るには、やはり千人以下のプロセニアム舞台で見たかった。冒頭のトム(アントワーヌ・レナール)の語り手として観客に語り掛ける場面も、手品で、これだけの観客を掴もうというのは無理だ。
    舞台は、刷毛で茶色の汚しを賭けたようなモルタル壁で囲まれた一室。半具象の難しいセットだ、バルコニーの場は舞台の前面で演じられる。4人だけの芝居で幕間なし、黒スクリーンを下ろしながらの場面転換で二時間。音楽も音響効果も控えめだが、あまり「アメリカ」を意識してはいない。日本で上演される「ガラスの動物園」は日本人好みの小市民家族人情劇でまとめて人気があるが、このフランスの劇団の公園とはタッチが違う。演出者(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)はアメリカに特有な小さな人間関係の中でも独立を求めるところに注目したと言っているが、そのこと一つでも、日本とフランスでは解釈が違い、日本ではおセンチ、フランスでは孤独を厭わない、ということになるのだろう。そういう他国の有名戯曲に対する違いは実際に公演を見て見ないと分らない。そいう機会は留学でもしないとなかなか得られないが、この公演は、そういう違いが分かって面白かった。
    翻訳字幕は舞台中央の一文字の上の黒幕に出す。日英で出るのだが、丁寧なのはいいが、演者と距離があるので目が忙しい。同時イヤホーン音声も選択できるようにした方がよかったと思う、どうせ、舞台も第一原語でやっているわけではないのだから。
     舞台は、なるほど、という出来ではあったが、なぜ、フランスの国立劇団を招聘しておきながら、フランスの芝居をやらなかったのかは疑問が残る。フランスはアメリカよりも古い演劇の伝統もあり、古典も不条理劇も、さらに現代劇も皆フランスに名作がある。一度、「ゴドー」をフランスで見てみたいと思っている観客は多いと思う。欧米では歌舞伎のような継承はないから、時代によって演劇作品はどんどん変わる。今のパリの劇場はどんな風にやっていて、それをどう観客が見ているかは演劇ファンは関心がある。この「ガラスの動物園」はコロナでろくろくパリでもやっていないという。なんだか長年の政府間取り決めを誓文払いしたような印象である。
    有名女優と、有名戯曲を出しておけば客は集まるだろう、それで言いわけは立つ、という下心が見え見えで、国立劇場の所業としては寂しい。事実、客は一階は埋まっていた。しかし、戦後最初にバローが来た時も、つい十数年前にムヌーシキンが太陽劇団を引き連れてやってきたときも、演目はいかにもフランスらしい一筋縄ではいかないもので、それを機会に学んだことも多い。だが、今は、海外の劇団の上演をというのなら、大きなカンパニーは無理でも、ちょっと気をつけていれば東京ではいくらでも見られる。(ミュージカルならほとんど日本ツアーをやる)今の時代の招聘公演の在り方は少し真面目に考えてほしい。
    最期によかったのは高いパンフレットは売らないで、欧米の劇場のようにタダで観劇要覧のような小冊子を配ったことでここは国立劇場らしいおおらかさだった。


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    2022/09/29 11:25

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