公演情報
「ガラスの動物園」の観てきた!クチコミ一覧
実演鑑賞
満足度★★★★★
フランスのオデオン劇場による「ガラスの動物園」(演出=イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)を観た(10月1日[土]夜公演)。本来であれば2年前に来日予定だったものが新型コロナウイルスの流行により2度流れ、3度目にしてようやく上演の運びとなった。チケットカウンターのキャンセル待ちの列と満場の客席が、上演を切望する熱気を伝えてくれた。
実演鑑賞
満足度★★★★
戯曲に目を通して臨む、と決めていたが、自宅にあった文庫本が散逸。図書館各所も全貸出中、最後は新刊書店大手に二か所寄ったが置かれておらず、この公演のせい? 等と妙な推測をしてしまった。
代わりにネットに出ている「あらすじ」を読んだり、以前この作品の戯曲の性質について書かれた文章を思い出しても、いまいちどんな作品なのかピンと来ず、演劇界で著名すぎるこの作品が、とりあえず演劇史的には「現代の精神状況を表現した」(ゆえに同時代性を感じた多く人から支持を得たと思しい)ことが推察されるのみであった。
結果的にはこの演目の舞台を初めて目にして、合点した事は多々あった。
米国を中心とする「西側」諸国の爛熟、全世界的にも科学技術文化メディア等が急勾配で発展した。「戦後」という時代はやはり不可逆な、特殊なものだと言える。その起点で蠢動のような変化があり、国を問わず、芸術家はその変化を察知して作品を成した。「ガラス・・」が描く欠損家族、それを捨てた息子の罪(父がそうであった、とあるのでこれは原罪に近い)。この風景は、戦前ではなくやはり戦後という時代に発見された風景である気がする。何がそう思わせるのかはうまく言えないが(外面的な状況よりも内面に焦点化しているからでは、と取り敢えず考えてみる)、母も姉も、病的であるからこそ、美しく、いじましく、懐かしく、切ない・・。この感覚は、「回想」が可能ならしめるものである、と思う。
この作品の演劇史的な貢献は、回想という手法で(演劇に限らずだが)ドラマ構築の一つの定型を示したこと、ではないか。
回想する主体であるトムが、観客に語りかけるナレーターで、物語を描写する。横内謙介の秀作「ホテル・カリフォルニア」をわざわざ挙げるまでもなく、ストーリーテリングの主要なフォーマットであるが、「ガラス・・」がその原点と言えるのはその完成度ゆえ、なのかも。(今思い出したが戦前の作であるワイルダーの「わが町」もナレーションで回顧する語り口で、「発見」と言うのは大袈裟に違いないが、ただ語られる内容という点では、やはり大きな違いがありそうである。)
この作品で語られているもの(トムが敢えて語ろうとしたもの)は、そもそも何なのか。
刑罰に問われない「内面の罪」は、甘味さを伴う事があるがそれは回想という中においてである。己の加害性にシクシク胸が痛もうとも、(隣国の民族の「恨」のように)ある意味で生きる「原点」となり、いきいきと生きる「実感の源」になる。己を厳粛な思いに立ち返らせるもの、それが己がふと犯した罪の記憶であり、それは真の意味での「生きる価値」をそのままの形で自分に保証する。即ち「悔い改めて進む」道・・キリスト教の影がそこに落とされていると仮説する。
だが、身を貫いた「生きる」実感に応えて、その後の人生を生き直すケースは稀で、多くがそれまでの習い性、怠惰に流れるのが常。だがその事は埃に塗れた自分の中に再び輝きを見出そうとする時に、再び現われ、「怠惰であった己」の罪が、逆説的だが己を照らし、再び「別の道」が示される・・。
もっとも、今回上演された「ガラス・・」は、(戯曲の原形を推測しながら観劇したところでは)原作にあったノスタルジーの色彩を殺ぎ、ドライな後味にした、と見えた。イザベル・ユペール演じる母は「病気」の要素よりも、逞しさ(ラストに見せた落胆は、その喚き散らす様子が「絶望を断ち切る生命力」に見える)があり、トムの姉は原作ではいじいじと傷つきやすい引っ込み思案な所、現代の引き籠りのように救済回路を見出していて、それなりに自宅での生活を送れている・・。ガラス細工の動物への執着はさほど病的に見えない。ジムへの恋に破れた後、彼女は自分の世界で生き続けるのではないか。
この演出は、何となくの印象ではあるが、この作品の「感動」の形である所のノスタルジーを補強する典型的な(同情を誘う)弱者像を避け、境界を跨いで存在する「個性」が一つ屋根の下で同居する様、を示したかったのかも。これもうまく言えてないが、いじましい家族たちは、過去という墓に葬られず、今も生きているという臨場感を示したかったのかな・・という。
想像が飛躍し過ぎかも知れないが。
実演鑑賞
満足度★★★★★
冒頭、トムが「これは追憶の劇。ハーフトーンの芝居」と語る。それに忠実に従うように、視覚的に陰影に富んだ演出だった。舞台奥の出入り口の吹き抜けからの間接照明、ローラとジムが語り合う場面ではろうそく1本しか光源がないかのような隠し照明など、照明プランが素晴らしい。それが芝居の内容に集中する上で極めて効果的だった。
横長の箱のような室内の壁は、黄土色のけばだったスエード生地のようで、よく見ると、たくさんの顔が浮かび上がっていた(無数の顔の意味は不明だが)。箱の前面の壁を上げ下げして「暗転」することで時間の経過を示す。照明が変化するくらいで、セット転換はほとんどないのに、しっかり目隠しをおろすあたり、場面ごとの照明の変化をさらに効果的にしていた。
ガラス細工の動物たちも、普段は壁の中の小部屋にしまってある。時々、扉を開いて、キラキラをチラ見セする。ジムに見せる時だけ取り出し、舞台前面中央に置かれ、そこにきらきらと照明が当たる。今まで見た「ガラスの動物園」のなかでも、最も美しくはかない動物たちだった。
母アマンダ役のイヴォ・ヴァン・ホ-ヴェは母としての明るさしぶとさ、意外なたくましさがある。大竹しのぶのようだ。しかも極めて自然体。名優である。休憩なしの2時間とコンパクトにまとめていた。最後のトムの後悔の語りが刈り込まれていた気がする
実演鑑賞
シネマスコープ感のある舞台で、母親のアマンダに
相当焦点を当てているのが特徴的。
戯曲の字面にとらわれず、人物の内面を反映させた
俳優のフィジカルな動きと照明が生み出す光と影の使い方の秀逸さ
が印象的な舞台作品。
ただ、座席が千鳥配置になっておらず傾斜のほとんどない
前方中央寄りの席の方は、舞台床がやや低く舞台端での
座り芝居が多いため、字幕も含め観づらいシーンが
結構あるかもしれない。
実演鑑賞
満足度★★★★
演劇は、演じる側も見る側も上演される国(場所)を逃れられないものだと思う。
フランスの代表的な劇団がアメリカの戯曲(それも80年も前の)を母国上演のまま日本でも演じるという。劇団招聘公演と言う興行だけでは絶対に引き合わない形で、したがって国立の劇場の税金公演である。
その疑問はあとで書くが、まず、芝居そのものについて。
「ガラスの動物園」は室内劇で、半円形の新国立のオープンな舞台では俳優たちもやりにくそうで、最初しばらくは、何か身振りも不自然に大きくて、違和感があったが、そこは次第に収まって、後半のローラ(ジュスティーヌ・パジュレ)とジム(シリル・ゲイユ)の場面などはなかなかいい。ジムが黒人俳優と言うのはアメリカなら今のご時世ならやりそうなことだが、この舞台ではまったく自然で、フランスらしい(最近のヨーロッパ映画でもよく見る)。追憶の劇ともいわれている過去にとらわれている人たちの物語でもあるわけだが、このジムは未来も既に過去に取り込まれているような風情であった。
映画で見る女優のイザベル・ユベール(アマンダ)は舞台でも実績のある人ということだが、その真価を見るには、やはり千人以下のプロセニアム舞台で見たかった。冒頭のトム(アントワーヌ・レナール)の語り手として観客に語り掛ける場面も、手品で、これだけの観客を掴もうというのは無理だ。
舞台は、刷毛で茶色の汚しを賭けたようなモルタル壁で囲まれた一室。半具象の難しいセットだ、バルコニーの場は舞台の前面で演じられる。4人だけの芝居で幕間なし、黒スクリーンを下ろしながらの場面転換で二時間。音楽も音響効果も控えめだが、あまり「アメリカ」を意識してはいない。日本で上演される「ガラスの動物園」は日本人好みの小市民家族人情劇でまとめて人気があるが、このフランスの劇団の公園とはタッチが違う。演出者(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)はアメリカに特有な小さな人間関係の中でも独立を求めるところに注目したと言っているが、そのこと一つでも、日本とフランスでは解釈が違い、日本ではおセンチ、フランスでは孤独を厭わない、ということになるのだろう。そういう他国の有名戯曲に対する違いは実際に公演を見て見ないと分らない。そいう機会は留学でもしないとなかなか得られないが、この公演は、そういう違いが分かって面白かった。
翻訳字幕は舞台中央の一文字の上の黒幕に出す。日英で出るのだが、丁寧なのはいいが、演者と距離があるので目が忙しい。同時イヤホーン音声も選択できるようにした方がよかったと思う、どうせ、舞台も第一原語でやっているわけではないのだから。
舞台は、なるほど、という出来ではあったが、なぜ、フランスの国立劇団を招聘しておきながら、フランスの芝居をやらなかったのかは疑問が残る。フランスはアメリカよりも古い演劇の伝統もあり、古典も不条理劇も、さらに現代劇も皆フランスに名作がある。一度、「ゴドー」をフランスで見てみたいと思っている観客は多いと思う。欧米では歌舞伎のような継承はないから、時代によって演劇作品はどんどん変わる。今のパリの劇場はどんな風にやっていて、それをどう観客が見ているかは演劇ファンは関心がある。この「ガラスの動物園」はコロナでろくろくパリでもやっていないという。なんだか長年の政府間取り決めを誓文払いしたような印象である。
有名女優と、有名戯曲を出しておけば客は集まるだろう、それで言いわけは立つ、という下心が見え見えで、国立劇場の所業としては寂しい。事実、客は一階は埋まっていた。しかし、戦後最初にバローが来た時も、つい十数年前にムヌーシキンが太陽劇団を引き連れてやってきたときも、演目はいかにもフランスらしい一筋縄ではいかないもので、それを機会に学んだことも多い。だが、今は、海外の劇団の上演をというのなら、大きなカンパニーは無理でも、ちょっと気をつけていれば東京ではいくらでも見られる。(ミュージカルならほとんど日本ツアーをやる)今の時代の招聘公演の在り方は少し真面目に考えてほしい。
最期によかったのは高いパンフレットは売らないで、欧米の劇場のようにタダで観劇要覧のような小冊子を配ったことでここは国立劇場らしいおおらかさだった。