旗森の観てきた!クチコミ一覧

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Ten Commandments

Ten Commandments

ミナモザ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/03/21 (水) ~ 2018/03/31 (土)公演終了

満足度★★★★

何も横文字でタイトルにすることはないようにも思えるある科学者の「十戒」を素材にしている。その科学者はアインシュタインと共に原爆(原子力の利用開発)の開発推進をしたレオ・シラードと言うユダヤ人で、その動機はナチスドイツに原爆の先行を許さないため、と言う事で、実験成功後はナチスの崩壊もあって日本への原爆投下には反対した。野に下った後は、ミステリやSFも書いたと言うが、寡聞にして知らなかった。
しかし、ここでは奇人風につたえられるジラード本人の活動よりも、彼が書いたという「十戒」の中に、現在の原子力と向き合う(大きく言えば)人類の課題があると、劇作家は読んだのであろう。舞台は白でまとめられた一室、占部房子の劇作家が、原発事故以後言葉を失って夫と生活している。夫との言葉のない生活や、つきあいのある技術系学生たち、アインシュタインなどの先人に向かって書く手紙、などがコラージュされていて、「十戒」が検証される。もともとの「十戒」が、矛盾に満ちていて、そこが現在の巨大社会に向かう人間の現在と交差している。原子力に限らず、人間が発明発見をしておきながら制御できなくなっているものが多くなっている今、このテーマは興味深い。かつてのように人間が制御にあたって使える単純な大衆的な倫理(乱暴に例を挙げればキリスト教のような)を失っている中で、劇作家は言葉を失ってしまうのである。この状況に向かうにはどうすればいいのか。もちろんそういう課題に簡単に答えが見つかるはずもない。

ネタバレBOX

人間の倫理は言葉で表現されるのだから、まずは発語回復と言う事で、ドラマは終わるのだが、その回復の先は見えてこない。占部房子は小劇場では欠かせないなかなかいい女優で、ここでもこの作品の柱の役割を勤めている。一緒に見た知人は演出演技を含めて、間の取り方がよかったと評していた。
非常にアップツーデートなテーマに挑んでいる社会派ドラマでこういう試みは評価できる。まもなく、新国立でこちらは著名な「1984」が演じられる由で、人間の未来社会への展望がここでも検証されることになるだろう。
ブラインド・タッチ

ブラインド・タッチ

オフィスミヤモト

ザ・スズナリ(東京都)

2018/03/19 (月) ~ 2018/04/01 (日)公演終了

満足度★★★★

昔の坂手には、素材とテーマの間に距離を置き、そこに倫理論理で割り切れない人間性を潜ませ、そこから現代社会を告発するという形で成功した作品があった。2002年に新劇団に書いて岸田今日子・塩見三省が演じた旧作の再演は男闘呼組の高橋和也と文学座の都築に二人芝居。最近の燐光群の作品にない演劇的な面白さがある。
反政府の大衆運動を抑圧しようとする権力の犠牲になって十六年もの刑務所生活を強いられた男が、獄中結婚をした六歳年上の女(妻)のもとに釈放されて帰ってくる。アパートの一室が舞台で、出獄の日、日常を回復しようとする日、沖縄の支援者への旅を試みた日、新聞配達をする日の4場。男が元バンドでピアノをひいていたという設定をうまく使って効果を上げている。
権力がこのような理不尽を行うのは珍しいことではなく、時に、身も蓋もない権力の暴力に出ることはあり、今もまさに森友問題で籠池夫妻を長期拘留している。民主主義社会の人権の視点から言えば許されない、と言ってしまえば簡単な正邪の政治劇で成立するが、それではただのプロバカンダ劇でシュプレヒコールの景気づけにしかならない。かつての新劇にはそういう作品は数多くあって辟易したものだが、この作品はそこからは危うくのがれている。素材となった実話が背景にあるらしく、時に正義感を押し売りされる最近の燐光群の芝居とは一味違う。ほとんど冤罪と言ってもいい男も、実際にいたらさぞウザそうな年上の女も、リアリティがあり、いつもは燐光群節で語られるセリフも肉体化されている。高橋和也好演。都築は難しい役どころで、正義感だけでなく、嫌味なところもやらなければならないのだがその出し入れがうまい。ピアノともよく取り組んでいる。
見ているうちにかつての円の舞台を見ていることを思い出したが、時代性が欠かせない素材で、芝居を生かしていくのはとても難しいことだ痛感した。しかし、しかし、坂手にはこれだけの芝居を組める力量がある。ここの所多くなった素材直結の社会派正義芝居ではなくて、こういう人間の息遣いのする演劇を見たいのである。芝居の中でも言っているではないか、「再出発することは人生で必要だ」と。

あるサラリーマンの死

あるサラリーマンの死

タテヨコ企画

Galeri KATAK・KATAK(東京都)

2018/03/07 (水) ~ 2018/03/18 (日)公演終了

満足度★★★★

ご近所のスペースでの上演。下駄ばき気分で出かけた。こういう形で小劇場を見るのは珍しい経験だった。狭いスペースの既設の場所をうまく使って奥行きのある舞台を作った美術がうまい。客席三十。1時間45分。この条件の中で、一つの家族の昭和から平成に至る約50年を過去現在をフラッシュバック的に描きながら描くのだからかなり大変で、そこはうまく筋を通している。作演出の横田修ももうかなり長くなってその辺の技術はできている、俳優たちを良く稽古が出来ていて、不便なスペースでこちらも大健闘である。目の前で行われるわけだから、演劇はナマの力、が生きていやでも見てしまう。そこまではご苦労様でいいのだが、芝居の中身は物足りない。群馬の田舎から出てきた青年がいよいよ定年になるという話、と言えば浮かぶようなエピソードが多く、兄弟の葛藤、夫婦の行き違い親族の不協和など、ホームドラマだからこの条件では多くを注文することは酷だが、よくある話によりかかりすぎている。俳優では、主演の西山隆一は張り切りすぎて一本調子が惜しいが筋を通して。あとは舘智子、青木シシャモ、藤谷ミキ、坂口修一、矢内文章は手の内の芝居だろう、安心して見ていられる。ご近所芝居としては観客には楽しい芝居にはなっているのだが、さて、演劇の成果となると、ホームドラマとして新しい視点があるわけでもなく、新しい人間像が出るわけでもなく、社会的なユニークな主張が強いわけでもない。また、まとまりはいいこの芝居をもう少し大きなスペースでやるとしてもせいぜい100までだろう。やってみるという試演の成果もなさそうだ。ここで今しか見られないとすると随分贅沢な経験をしたことになる。

何しても不謹慎

何しても不謹慎

箱庭円舞曲

駅前劇場(東京都)

2018/03/08 (木) ~ 2018/03/13 (火)公演終了

満足度★★★

東北の小さな村に伝わるお祭りの実施を検討する実行委員会の月々の会議を一年間にわたって見せる。既に形骸化している祭りをやめるにしても続けるにしても、責任を押し付けられる形になった委員会の右往左往であるが、いかにも現在の日本の各地で起きていそうな話の進行で、それが大きな政治への皮肉になっている面はあるとはいえ、話題も人間像も常識的な展開で、その結果もまた平凡である。それがリアルであればあるほど、芝居としては見どころがない。この作者、どこかでいい本を見た記憶があって、自分の劇団と言うこの小劇場を始めてみたが、最近の小劇場の習いでほとんど自前の劇団員はいなくてプロデュース公演とさして変りがない。劇団の色もはっきりしない。目立つ俳優もいない。正直、退屈した。観客席の中央を割って中央に置いた舞台の会議場を両方から見る趣向。1時間40分。

罠

俳優座劇場

俳優座劇場(東京都)

2018/03/09 (金) ~ 2018/03/17 (土)公演終了

満足度★★★★

ミステリ劇ベストテンをやれば必ず上位に入る名作。よく上演されるが、今回は俳優座が主導したと見える新劇団からの俳優の合同公演で文学座の松本裕子の演出。よく出来た本なので大丈夫と踏んでか、タレントを軸にした公演もよくやるが殆ど面白くない。数あって勘定足りず、になる。今回は新訳で、元戯曲に忠実らしく、ウエルメイドプレイはかくあるべし、と言う典型的な出来で久しぶりにこの本の良さが出た。俳優陣もよく本を飲み込んでそういう点ではいいのだが、新劇も層が薄くなって、年齢に合わせて配役が出来ない。石母田も加藤忍もいい役者でこの公演も十分役割を果たしているが、年齢は小劇場ではごまかせない。ここはやはり、若い無軌道な感じが残る役者の出番だ。上原も乾電池とは勝手が違う。そこへ行くと老年の方は層が厚い。石住は貫録十分、鵜沢・清水も新劇の良さを出している。ことに石住はよくこの舞台を支え切った。かつてこの劇場を沸かせた三島雅夫の芝居を思い出した。

埋没

埋没

TRASHMASTERS

座・高円寺1(東京都)

2018/03/01 (木) ~ 2018/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

日本新劇伝統・お得意の近代化による農村崩壊劇である。トラッシュマスターも新しい視点と言う意気込みで、公と私、メディアの浅薄さなどのテーマを取り入れているが、農村封建社会をうーんと納得させるようにも、これからはこうだよ、という風にも切れなかった。日本の農村問題はどこにも遍在していて、人間関係も問題も根深い。私はいささか四国の農村をしっているが、ここは関東者には理解できない奥の深さである。多分作者はそれを知っていて、この解りやすさにとどめたのだろう。素材も劇的対立もいつもの鋭さがない。役者もなつかしや、山本亘が客演しているが、これはトラッシュマスターズの俳優たちとは、質が違い過ぎて(良し悪しを言っているのではない)効果を挙げなかった。

岸 リトラル

岸 リトラル

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2018/02/20 (火) ~ 2018/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

数年前、この劇場で高い評価を得たレバノンの作家の自分探しのドラマ。中東の舞台だから、日本とはずいぶん違って戸惑う挿話も多いがそれを越えて人類に普遍的に共通する親子関係や死との直面、を織り交ぜて青年の自己のアイデンテティのドラマにしている。自分探しの旅をする亀田が既に死んでいる父・岡本を背負って旅をするという設定もこの場所だから受け入れられる。
上村聡史の演出は一つの瀬とだけで3時間半を持つのだから随分気合が入って長丁場だけに肩がこるが、この話だから仕方がない。それより俳優陣がぼろを出さずについて行ったことを評価すべきだろう。中嶋朋子の歌もなかなかいい。これは中東の音楽らしきものと弦楽合奏を硬軟取り混ぜた作曲がツボに入ってよかったせいもある。
だが、この小屋で3時間半は辛い。固いベンチシートで6800円。長さを考え、見やすい劇場であることを考えれば高くはないだろうが、この椅子では少し客のことも考えてほしいと愚痴がでる。

勧進帳

勧進帳

木ノ下歌舞伎

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/03/01 (木) ~ 2018/03/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

あいかわらず、つかみがよく、山伏にやつして義経一行が安宅関に至る経緯が面白く説明されて、勧進帳の富樫と弁慶一行の虚虚実実の駆け引きが現代青年版で展開する。ほぼ古典の素材を使いきっている。木下歌舞伎の面白さもよく出ていて、列挙になるが、構成では、四天王と、番卒を二役やることにしたこと。これでこの劇の構造が明らかになった。義経打擲以降は少しテンポがおちるのが残念。さいごの宴会などはもうすこし短くてもいいのではないか。この公演は1時間二十分古典はここ百年、どの公演でも1時間5-7分でやっているが、それは長唄の尺によるものではなくやはりドラマの長さと考えた方がいいのではないか。木下の力があれば、十分この尺に収めることもできたと思う。いつも音楽の使い方は抜群にうまいがこの公演でもラップ調の曲を中盤でうま
く使っていた。特筆は俳優で、弁慶をやった外人俳優のリー5世は関東にいないタイプの外国人で場をさらっていた。また、富樫は柄としては苦しいのに、よく演じている、ただずまいがいいところもこの俳優のいいところだ。KAATの大稽古場。350席が満席の初日だった。次はコクーンの切られ与三だ。これは絶対に成功してほしい。串田と木下。世代を超えて現代劇の現在考えられる最高のコンビだ。期待している。

真実

真実

文学座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2018/02/24 (土) ~ 2018/03/05 (月)公演終了

満足度★★★★


情報が本当か、嘘か、ものごとを知ることによって人生は大きく左右される。だが、芝居のネタとしては、シェイクスピア、歌舞伎の昔から、いやいやギリシャの昔から「知らなかった!」ことが軸になっている作品は多い。おなじみのネタなのだ。
世界各地で上演されているフランスの若い人気作家セザールの「真実」は、嘘が転がって真実に行きつく喜劇だ。日本初演。
真実の素材は、フランス演劇お好みの男女の不倫。お互いが長年知り合っている二組の夫婦の不倫は、もちろん他に知られたくない事実だから、露見しそうになれば嘘を吐く。嘘の内容もさることながら、嘘を吐く相手や、その時の擦れ違いが次々に新たな事態を招く。その過程では真実も現れ、嘘も真実も、隠さなければならないという条件と相まって、収拾がつかなくなる。そのすれ違いを若い作家は超絶技巧でコメディに仕上げている。さすが不倫の本場だけあって、事態への対処の仕方もオトナでもあり、笑っているうちに「真実だけの夫婦なんて世界中探してもない」と納得する。
フランスで大人気、ウエストエンドでも大当たりと言うから、日本ではさしずめ三谷幸喜と言ったところだろう。ともに、笑劇を笑いだけに終わらせず、ちょっと人生の苦味を含ませるところも似ている。(タイトルの大げさなところも)。
文学座の85周年記念公演で二組のキャストが組まれている。
ボルドー組は渡辺徹が巻き込まれの主人公。文学座らしい品のいい舞台つくりだが、このホン、最近の風潮でもっと広いキャスティングをしたらクリエくらいまでならいけるのではないか。二人の女優にはない物ねだりだが、オンナの肉感が欲しいのである。

ブロードウェイと銃弾

ブロードウェイと銃弾

東宝/ワタナベエンターテインメント

日生劇場(東京都)

2018/02/07 (水) ~ 2018/02/28 (水)公演終了

満足度★★★★

今月の新作のミュージカル二本が1920年代もの。その一本の「マタハリ」はフォーラムでやりながら、ここでは上演すら無視されている。見てみるとなるほど無視されるのも当然の舞台だったが、もう一本の「ブロードウエイと銃弾」はよく出来ていて楽しい。
華やかな表舞台と、銃弾が支配するギャングの裏社会が、表裏一体だった一九二〇代のブロードウエイ。地方出身の純朴な演劇青年(浦井健次)が脚本家を目指してこの町にやってくる。映画からスピンアウトの「ブロードウエイと銃弾」は、ここで初めて脚本採用となった青年この街の風習に振り回される喜劇だ。
まずは興業の金主のギャングからはお気に入りのトンデモ女優(平野綾・快演)を作中に入れることを要求され、ベテランの主演女優(前田美波里)からも次々に注文が出される。進退窮まった脚本家に、なんと、若い女優についてきたギャングのボディガード(城田優) が作劇上のアイディアを出してくれる。純情青年の劇作家と殺人も平気なギャングが二人三脚で舞台をヒットに導こうと頭をひねる。この意外な設定が旨い。ミュージカルなのだが、音楽はオリジナル作曲ではなく二十年代の曲の編曲である。これも効果を上げて一幕の終盤、タップに歌を織り交ぜてローカル試演の成功で盛り上がる。ブロードウエイのオリジナル振り付けを使っているそうで、きれいでシャレた装置の舞台に躍動感がある。
俳優陣も脇役までそれぞれの個性が際立ってバランスがいい。
だが、こんなあやふやな座組みの芝居がうまくいくわけはない。二幕はその崩壊が描かれるが、そのなかでは,芝居つくりの機微にも触れるところがあって面白い。
映画が原作だが、再演が待たれる異色のになった。

夜、ナク、鳥

夜、ナク、鳥

オフィスコットーネ

吉祥寺シアター(東京都)

2018/02/17 (土) ~ 2018/02/24 (土)公演終了

満足度★★★★

この事務所が取り組んでいる故・大竹野正典の遺作の東京上演プロジェクトの一本。2003年の作品だからさほど古くはない。今回は演出者・役者も気張って吉祥寺シアターの公演。大入り。
看護婦四人が共謀して、邪魔な男たちを殺していく実話がもとになっている由だが、今は医療や後妻業などが話題になるご時世になって、事件そのものに妙なリアリティがある。
当時は看護婦は純粋培養されていた時代で、世間知らずの娘たちが医術のモラルと、世間のモラルの隙間に落ち込んでいく話である。首領格の松永玲子をはじめ、安藤玉恵に至る四人の看護師がそれぞれ、どうしようもない男で苦労して、保険をかけて殺してしまおうと言う事になる経緯はいささか安易だが,男たちに一方ではそれぞれ愛すべきキャラも与えていたり、女たちの反応も一筋ではない。いわゆる社会劇・問題劇になりそうな素材をうまく男女の話、ことに女同士の友情の話に落とし込んでいるところがうまい。演出の瀬戸山美咲はもともとが本屋だからそこをよく拾って、ノーセットに近い舞台で、倫理・論理が先走りしがちな素材を世話物にしてさばいていく。殺し場など一つだけは丁寧にやるが、うまいものだ。俳優もよく一人ひとりを立てて見せ場を作っているので、話の筋が見えても飽きない。
関西が素材でもあり舞台も大阪にしているが、劇的にはあまり関西風でないところがよかったようにも思う。この話にに大阪的な価値観を混ぜるとほんと、ぐちゃぐちゃになってしまいそうな話でもある。1時間50分。

ネタバレBOX

パンフレットによれば、初演の時カーテンコールの手が来なかったと嘆いているが、それは作劇上のタイミングで、手が来るように出来ていないからだ。そこは今の演出が手を入れて手が来るように作ってもよかったと思う。今日の舞台でも半端に手が来た。内容的にはどっと手が来てもいい出来だったのに。
嗤うカナブン

嗤うカナブン

劇団東京乾電池

ザ・スズナリ(東京都)

2018/02/07 (水) ~ 2018/02/14 (水)公演終了

満足度★★★★

赤テントの唐組から俳優が、下北沢の人気劇団・東京乾電池から演出と俳優が、新宿暴れ者の第三エロチカから作者と、80年代に、元気のよかった、というより一目置かれて畏怖の念を持たれていた、その三劇団が手を組んで、スズナリで公演を打つ、昔では考えられないが、いまは時代の変遷を実感する座組みの公演である。どんなことになっているのか見てみようとなるスズナリなのである。
この三劇団は、30年を超える風雪を生き抜いて、追従を許さない独特の個性のある舞台を作ってきた実績もあり、今も公演が打てる(第三エロチカはTファクトリーと名を変えたが)が、こういう企画をやろうとするところに、唐が書けなくなった唐組と、結局岩松以後座付を持てなかった乾電池の現在の状況がある。脚本を頼まれた川村毅もどうまとめるかかなり苦慮したに違いない。もともと、わが道を行くという以外にさほど共通点のない両劇団が、看板俳優を出すと言う公演である。しかも、客から勝手に言わせてもらえば、ともに出来不出来の激しい劇団である。ここは役者のガラの面白さと、話は手慣れたメタシアターで喜劇・・・となったのではないだろうか、と客は勝手に想像する。
舞台は、なんと、パリの北沢、である。登場人物もちろんフランス人で名前もそれぞれ横文字だ。売れない男性コーラスの4人が銀行強盗を成功させる。歌っている間にカナブンが飛んできたのに触発された強盗だが、成功してみると仲間割れである。誰がどういう理由で裏切ったか、誰がカナブンか? と言うナンセンス・コメディだが、川村脚本はハードボイルドミステリのお決まりの科白をちりばめて、話を運んでいく。川村はもともと技巧もうまい作家だがこういう大衆劇のような芸もあったかと感心する。だが、唐組も、乾電池も、笑いの中身は解っていても、この洒落っ気を舞台で生かすには、普段の習練が足りなかった。演出の柄本明も舞台美術などは旨いものだが役者をまとめきれていない。
脚本は、ショーのような軽演劇としてはよく出来ていて、俳優が、例えば、バンドのところやダンスのところで愛嬌の一つも出せればお客は喜ぶのにそこが出来ていない。
いくつも注文は出てくる公演ではあるが、この二劇団がやる企画としては十分面白いし、こういう東京喜劇の路線はあまり成功していないのだから挑戦し甲斐がある。大阪に席捲されてきた喜劇と笑いの世界をひろげることにもなる。


三人姉妹はホントにモスクワに行きたがっているのか?

三人姉妹はホントにモスクワに行きたがっているのか?

鈍牛倶楽部

駅前劇場(東京都)

2018/01/26 (金) ~ 2018/02/04 (日)公演終了

満足度★★★★

台詞よりも仕掛けの効果に頼る舞台が流行りだが、岩松了の舞台は台詞で見せる。ことにチェホフは岩松が学生の頃から取り組んだ作家で、自家薬篭中のもの。「三人姉妹」を河原で上演しようとしている小劇団のバックステージ模様と、芝居の「三人姉妹」を重ねて滑り出す最初の溶暗まではなかなかシャレてもいるし、随所に本歌取りがあって快調である。ワークショップのメンバーを集めたと言うキャストは、全くと言っていいほど実績が浮かばない俳優ばかり(出演表か配られたが、配役表が欲しい。誰が何をやっているかわからない)だが、よく稽古が行き届いていてそれぞれの役も過不足ない。メンバーの一人がマスコミに売れることで劇団内に波紋が広がっていく二場からは近くの住人なども出てきた話も広がっていく。この人物たちもさすが、鶴屋南北賞(だったっか?)受賞した岩松、キャラも台詞も面白い。三場には歌もあるがこれもなかなかいい感じだ。

ネタバレBOX

しかし面白ければ面白いほど、一場のような、一九世紀のロシアの「三人姉妹」と現在の演劇若手の重ね合わせは、うまくいかなくなる。だんだん最後の軍隊が出ていくところはどうするつもりかと心配になってくる。なんとか決闘のシーンで一人が生きていることにする新趣向で逃れようとするが、やはりうまく結末には持っていけていない。「三人姉妹」の幕切れ、三人姉妹がそれぞれ出発する軍隊を見送りながら人生の行方について独白する有名な感動シーンにはつなげられなかった。岩松の力量からすれば、時間をかければできただろうが、ま、今回はここまでと言う納めである。それでも、これでも十分面白い。もう少し手を入れて、設備と椅子のいい劇場でもう一度見たい舞台である。
近松心中物語

近松心中物語

シス・カンパニー

新国立劇場 中劇場(東京都)

2018/01/10 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★★


再演はこうでなくちゃぁ、と言う出来である。
数ある蜷川演出の中でも、とびぬけた大ヒット作品。それまでは洋物ばかりだった蜷川が初めて取り組んだ歌舞伎だね、しかも作者はほぼ忘れられていた戦前の女性劇作家・秋元松代。これを帝劇で平幹・太地喜和子の新劇俳優でやるという東宝演劇部の決断が生んだ傑作を、新感線のいのうえひでのりの演出で再演する。しかも、掛け声ばかりでほとんど成功作のない使い勝手の悪そうな新国立劇場の中ホールで一月半の長期公演。製作は独立の制作会社のシスカンパニー。まぁ、芝居見物衆にとってはその首尾いかに、と物見高さも一段と掻き立てられる挑発的大興業なのである。
既に興行も半ばを越えていて、勝敗の帰路は明らかで、昭和の名作が、平成の名作ともなって甦った。ほめ言葉も、多岐にわたっていて、目にしたものは殆ど同意である。改めて言葉を重ねることもないだろうが、この再演の一番の成果は、蜷川をなぞらなかったことである。蜷川の初演が、森進一の歌に象徴されるように、歌舞伎にある伝統日本のモダナイズとして成功したことを引きずらず、男女の愛の形として、ドラマを徹底させている。
端的に例を言えば、二組の男女の重要なシーンは、すべて、中央の突き出したステージで演じられる。セットが抽象的だと言う事もあるが、そういう説明にとらわれず、ダイアローグが交わされる。蜷川にあった情緒的な「シーン」でなく、男と女の情念の激突が表現される。秋元松代の科白にある力強さの新しい発見である。理知的でありながら強い情念がある。劇場中に雪をふりまかずとも観客を引っ張っていける。この劇場の舞台の奇妙な形が初めて生かされたとも見えた。
俳優は主役が、いずれも、小商売、色街でも二流、と言う役柄をよく心得ていてスター芝居にならなかった。庶民劇と言う状況の把握で、蜷川演出の持っていた情緒性を填補した。脇もいい。小池栄子、市川猿弥(★5つ)、立石涼子、色街の女たち。
音楽もあえて、立てなかったところもよかった。森進一に対抗するように音楽が作られていたらきっと白けただろう。
再演はこのように新しく作品を時代の環境に合わせて、再生させることにある。平成の観客に向けた見事な再演である。蛇足を二つ加えれば、一つ、公費でやっている新国立劇場は、戯曲の再発見と言いながら、古脚本を並べるだけだ。この再演には遠く及ばず、ケラの岸田戯曲ほどのこともできていないではないか。だらしない。二つ、この興業が一番いい席で9千円。私はものすごく得をしたと思った。見物衆にこういう幸福感を味わあせえくれるのが興行主の役割である。以上二点を含め今回はシスカンパニーの完勝だった。、

父の黒歴史

父の黒歴史

ラッパ屋

紀伊國屋ホール(東京都)

2018/01/20 (土) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

大雪、と言ったら東北の人には笑われるだろうが、東京では珍しく夕方から雪になって、たちまち交通機関は機能不全。普段なら一時間もかからない劇場まで一時間半。帰りは不通のおそれとの広報が行き過ぎて、終演後のノロノロ電車はガラガラだった。
そんな中でもラッパ屋の客は律儀である。いつも通り、ほぼ9割の客足だが売れた席には遅れても客が来る。結局最後まであいていた席は記者席・関係者席だけだった。
客席を見るとその劇団の健全度が解る。この劇団はサラリーマン演劇とうたっているだけあって、最近はさすがに若者の率は減っているが、それでも、老若男女まんべんなく市民の芝居好きがやってくる。政治のおこぼれにあずかろうとする劇団や、タレント頼みで儲け優先の劇団は少しは学ぶと良い。
旗揚げの頃から老成して見えた座付の主宰・鈴木聡もそろそろ実年齢還暦を越えたのではないだろうか。喜劇の作家と言うのは、そろって気難しいものだが、鈴木は(実際はそうでもないのかもしれないが)いつも春風駘蕩の雰囲気で劇場の入り口にいる。客も律儀だが、劇団の方も律儀で、結構メディアやほかの公演でも売れて、脇役に欠かせない役者も多くなったが、劇団員の顔売れはほとんど変わらない。
「父の黒歴史」は劇団員にゲスト十人近くの大一座。中身は、例によっての鈴木節で、面白く笑っているうちにお開きになる。ここのところ、小劇場も市民生活を舞台にとるようになって、いくつかの劇団が小商売の家を舞台に芝居を作ったが、この芝居の荒唐無稽な百円ライター製造業一家ほどのリアリティがない。及んだのは「60‘エレジー」の蚊帳屋くらいだ。この芝居のほとんどむちゃくちゃの一家が成立しているのは、家の根底のモラルに戦後昭和の時代精神をみて、鈴木が時代批評をしているからだ。喜劇作家の基本がしっかりしている。
過激な若者劇団も、昔の主義主張を繰り返す老残劇団もいいが、どちらも現実性がない。東京市民はこの劇団を市民劇団として誇っていいとさえ思う。

リタイアメン

リタイアメン

燐光群

森下スタジオ(東京都)

2018/01/18 (木) ~ 2018/01/21 (日)公演終了

満足度★★★★

燐光群らしい社会問題劇ではあるが、今回はうまく的を撃てたとは言えない出来であった。
生涯年齢が上がって、生産現場を離れた人たちがどう生きるかは大きな社会問題であるが、日本のリタイアメンが、そろって南アジアへ行って現地を踏み台にして日本でやれなかった悪行を果たしているわけでもないだろう。劇中あげつらわれて居る悪行はいずれも週刊誌などでおなじみのもので、面白おかしくわかりやすいがそれでは週刊誌の域を出ない。もっと話題を絞り込んで時間も並列するのではなく長いスパンにしないと、老後人生の一部は切り取れない。アフタートークで坂手が話していた日本人向けに教育したマニラの老人ホームに誰も来なかった、などと言う話は、それだけを追っても、この舞台よりは内容があったと思う。
生産年齢以後の生き方は、それまでにほとんどの人は劇中人物よりももっと大きく深い人生体験をしているわけだから、複雑で多彩である。今回のまとめ方は作者が坂手ではなく若手だったこともあって力不足だったが、テーマとしてはこれからも取り組んでもらいたいところである。

ぼくの友達

ぼくの友達

シーエイティプロデュース

DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)

2018/01/10 (水) ~ 2018/02/04 (日)公演終了

満足度★★★★

青山円形劇場が閉めて、ほぼ同じ大きさの劇場がその近くのビルの地下にできた。しかし、円形が劇場機能をよく考えて出来ていたのに比べると、こちらは、そもそも初めからここで演劇をやるつもりだったか疑いたくなるような劇場である。歩く以外方法のない入口の狭い急階段三階分を降りると、なかの天井の低さ、照明の釣りの悪さ、舞台の高さのハンパさである。まぁ、それはいい。小劇場は場所を問わず、頑張ってきたのだから。
アメリカの小芝居である。こういう作品群のなかに時代の人情・風俗をわきまえた小粋な作品に出会えることがあるので、「ロングラン」という釣り書きにつられてみにいった。
ジャニーズの人気者の初の演劇と言うので、客は女性ばかり。男は三〇〇近い客席で数えて六人。内三人は、女友だちに引っ張られてやってきた居心地の悪そうな男たちである。
しまった!と思ったが、もう遅い。こういう公演にも時に昨年のグローブの「蜘蛛女のキス」のような作品もあるから頑張って見る。
昼メロでは主役を張れる男優(辰巳雄大)が本格的ギャング映画で新展開を測ろうと、役研究のために本物のギャング(田中健)に会いに行く。何やら大物らしいギャングは情婦(香寿たつき)と住んでいて、この女が昼メロの男優のファンだった、などと言う出だしはなかなかうまい。以下は、いかにもいかにもの話がどんどん転がっていって、さすがアメリカの商業演劇の脚本はよくできている。ことに正体が知れないギャングを演じる田中健が予想以上の大健闘で面白い。こういう役はどこかで正体をわるものだが、つぎつぎに割っていっても先がある。ボケなのか、ホントは怖いのか、最後までわからない。その戯曲を演出も役者も心得て膨らませているところがいい。女優でただ一人の香寿たつきは折角おいしい役なのに、キュートにもなれず、コメディにもできず、惜しい機会を逸した。辰巳雄大は初演だから、まずは無難な出来であるが、演劇への適性はわからない。
しかし、かなりの大物と言うギャングの家のセットがあまりにも安普請風で、色使いが悪すぎる。音楽も小編成の劇伴で、効果音と変わらない。
ロングラン企画の第四弾と言うが、とてもロングランの気概があるとは見えず、まずはファンクラブの年次総会の余興と言った出来であった。

アスファルト・キス

アスファルト・キス

ワンツーワークス

あうるすぽっと(東京都)

2018/01/18 (木) ~ 2018/01/21 (日)公演終了

満足度★★★★

ブラジルの脚本だから、南米戯曲の多くがそうであるように思い込みが多い。そこを日本の時代に合わせ整理上演したという。
舞台面は、スピード感もあって、コンテンポラリーダンスのような象徴的な場面を挿入しながら,進む。或る雨の日、都市の交差点で交通事故で通行人が事故死する。その死の直前に、たまたま居合わせたこの劇の主人公が求めに応じて、その直前のキスをする。それをたまたま見ていた新聞記者が、男同士のキスを興味本位で記事にする。そこから・・・
という展開なのだが、なにぶんにもほぼ70年前の戯曲である。最近ロンドンで作者の没後記念で上演したと言う事だから(演出者も同じ)そこからとっての、この日本上演だろう。
発表当時と最も違うのはLGBTに対する市民感情の変化だろう。
多分、とこれは憶測でしかないが、原作はもっとゲイについて論及していたのではないか。
今回の上演ではそこはすっぽりと抜け落ちて(あるいは抜け落ちざるを得ない事情があって)いて、ドラマはその無責任な新聞記事によて巻き起こされる、現在で言えば、情報社会、ことにSNSの跋扈に対する告発劇のようなところでまとめている。
長年小劇場で苦労してきた古城十忍(共同演出)らしい配慮で、こうでもしなければ持たない、と感じた時代感覚はさすがであるが(パンフレットにそう書いてある)それならもっといい素材があったのではないかとも思う。同じ南米脚本の名作では「死と乙女」や「谷間の女たち」の世界は舞台を巧みに問題の焦点の外に設定して時代と場所を越えられる演劇にしている。この作品は主人公が遭遇する事件を、直、同じ時間で設定して進行していくので、そのたびに時代のずれを感じてしまう。象徴的シーンの挿入もそれを避けようとした工夫なのだろうが、ロンドンはよくても東京はどうだろう。
ロンドンはゲイの先進地で、差別とは言ってはならないが、区別を市民が受け入れてその上で市民生活が成り立っている。差別は深く隠れているのだ。そこがあってのこの演出者の工夫だと思う。
出演者は小劇場出身者で、大劇場の経験もある中堅で、長い台詞を早口でよくこなしているが、やはり吹き替え演劇のような翻訳台詞が抜けていない。むしろ、日本的な解釈でもっとゆっくりした台詞さばきでやった方が観客に届いたのではないかと思う。意外にセット・美術がよかった。

ネタバレBOX

ラストは元戯曲があるから仕方がないのだろうが、現代となってはもっと別の締め方もあっただろう。こういう風に終わるなら、もっとゲイに対する家族の反応が描かれていないとなんのことやら、となってしまう。
秘密の花園

秘密の花園

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/01/13 (土) ~ 2018/02/04 (日)公演終了

満足度★★★★

言うまでもなく、唐十郎の代表作。本多劇場こけら落としの伝説の名舞台である。
柄本明、緑魔子 版を見ている者にとっては、見るのが怖いような公演である。
日暮里は坂の多い街、駅前には漆の木があって・・・・・と柄本の独白で始まる舞台の記憶はまだ体に残っている。あれからもう、35年も過ぎたのか。そういえば世代も完全に一回りはしている。
時代は変わった。ナマの演劇は時代とともに変わる。作品が古典として残っていくには、何がその芯になっていくのか、と言う事を痛切に考えさせられる舞台だった。
かつて本多で柄本明がやったアキヨシをその子の柄本佑がやる。幕開き、その最初の第一声からして違う。(そのことをあげつらっているのではない) 柄本明のモノローグには、大都会東京の片隅によどんでいるような下町から立ち上がってくるそこに生まれた人間の実在があり、アキヨシに引きずられて舞台に現れる人々にも、リアルな存在、イメージ上の人物などなど、見事に振られた多彩なキャラクターが、現実社会に太古の時代から残っている親子兄弟の人間関係や、天候や地形など人為の及ばぬ環境に操られて舞台の上の秘密の花園に咲き乱れる。めちゃくちゃに見えるようなプロットなのだが、観客の心をしっかりとつかんで離さない。
あれは1982年の東京が見た夢だったのだろうか。
柄本佑のモノローグには、明のような痛切な都会への憧憬もなければ、女性への思いもない。舞台全体も、本多が情念の渦巻く混沌の舞台だったにくらべ、形だけは似ているのにどこか客観的で透明な感じである。重ねて言うが、それをあげつらっているわけではない。それがナマモノの演劇の宿命で、今の「秘密の花園」はこうだ、ということでいいのだ。
それにしては…という感想になるのだが、今回の公演では、そこが思いきれていないのが残念だった。観客は唐十郎に導かれて、新しいいまの日暮里を見たいのである。
当時のものとしては珍しく公刊もされている初演の公演ビデオでも不完全ながらほぼ8割の舞台は残っているし、30年を超える以前の公演にしてはこれまためずらしく当時の多くの関係者が存命だ。今回はスタッフ全員その呪縛から逃れられなかったのではないか。若い演出者にとっては大きなプレッシャーだったのだろう。
思い切って新しい演出でやってもこの唐十郎の世界は壊れたりはしないと思う。戯曲のどこをどうと、いうことには数限りなくアイデァも浮かぶいいホンなのだ。それを舞台の上で実現していかなければ、またホンも生き残らないのだから。

ネタバレBOX

初演の時のことが楽屋オチで出てくるがこういうことは無用だろう。確かに初演の時の脇の人たちのメークも演技も度外れしていた。それは当時はこういうことはなかったから衝撃的だったので今はこの程度のメークや演技はどこででも見られる。
ハイサイせば

ハイサイせば

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/01/06 (土) ~ 2018/01/08 (月)公演終了

満足度★★★★

沖縄と青森の地方でやっている劇団の合同公演。作は青森の畑澤聖悟。およそ関係のなさそうな二つの地方の演劇人が合同でやる芝居だから、さぞ、ネタに困ったであろう。しかもほぼアマチュアであろうから長期の稽古も公演もできない。その悪条件をこなすのも畑沢聖悟はうまい。
あらすじに出ている「お話」は苦肉の策ともいえる素材だが、立派に両地方の要望にもこたえ、ともに満足の結果だろうと思う。両地方とは遠い東京のアゴラでも普段は客の薄い日曜夜の7時半が超満席。75分の小品ながら、佳作と言える面白さだ。地方劇団の演劇活動と言う事は十分意義があり、また、畑澤の実績は十二分に評価するとして、畑澤、これでいいのか?と言うのはいつも気になる。
これは、東京の観客からの感想なのだが、こんなに、芝居のツボを心得た劇作家は現在の都会在住の劇作家の中にも何人もいない。当然、東京からの注文もあって、昴に書いた「親の顔が見たい」は、非常に面白かった。この劇団としては珍しく再演もやったくらいだ。ほかにも、民芸や銅鑼、青年座など、観客組織にのった新劇団にはその注文仕切りのうまさを買われて書いているが、最初の昴のようなスマッシュヒットはない。新劇団の注文仕事は、内容を地方巡演まで考えて書かねばならず(今は予想外の頑迷な規制があり、これにひかかると無駄にエネルギーを消費するので、程よく書くことを求められるらしい)、劇団となれば、出したい役者もいるだろうからその注文もあるだろう。地方作家にとっては、それほど自由には書いていないと思う。一方、地元では実績があるから、これまたその要望に応えて、青函連絡船の話や、いたこの話も書かなければならない。畑澤は無論それに不服を言っているわけではないが、東京の観客としては、畑澤の、腰の据わった地方を舞台にした作品を見たいのである。贅沢を言えば、日本のチェホフのような。
いま日本を芝居にするなら、地方都市、農村はいい素材になる。畑澤ならではの芝居が書けると思っているからだ。年齢的にも今が最後の、とは言わないがいい時期だろう。
今は、独立の小劇場系のプロデュース公演も増えているから、この作家のいい戯曲を、公共劇場や劇団の注文でなく、座組みにも面白さの出せるプロデュース公演で見たい。誰か、トラムか、東芸地下あたりで、応分のキャストをそろえてやらないだろうか。例を挙げれば野木の「三億円事件」だってプロデュース公演は見違える出来だった。
正直に言えば、今夜のこの芝居だって、東京在住の青森、沖縄出身の既成の俳優でやれば、もっと面白くなっただろう。地方の俳優にそれを言うのは酷だが、東京の俳優なら受けて立てるだろう。作者の側にしても、もっとケイコが出来れば、終盤の唐突な謎解きめいた終わりにしないで、戦争に巻き込まれる庶民に心情や言葉と言うものの魔力などを織り交ぜながら、さらに深いテーマを籠められたのに、と残念だ。

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