おくすり、ひとつ
法政大学Ⅰ部演劇研究会
YouTube Liveにて上演致します(東京都)
2020/07/17 (金) ~ 2020/07/20 (月)公演終了
満足度★★★★
これも観ていたのを失念していた。
恐らく録画ではない動画配信(ライブ)と思われるが、リモートを活用した作り。人物は画像に映り込むという登場の仕方である。つまり空間としてのステージはない。
現世とあの世の挟間のような場があって、そこに住まう人と訪れる人がいる、という舞台設定なので、劇場スペースがむしろ不要で「映像向き」。いや映像配信ありきで作った話かも知れない。
もっともテキストは演劇寄り、と見えてしまうのはライブならではのひずみ、間、未完成感が勝っているからか(映像として仕上げるならもっと編集のしようがある)。
場面の大半は「先生」と呼ばれる存在(AIだったか)の前で、訪問者がそこに来るに至った経緯を語る、告白および回想。
前半に登場する男女(一応相思相愛らしいカップル)の、煮え切らない、踏み込まない会話が続く時間は耳がつらかったが、場面が変わると徐々にドラマ世界が開けて見えてきた。
近未来。「消えてなくなくなりたい」、と心に思っただけで存在が消失する怪現象(病)が散発する。最近のニュースでその病に効く特効薬が開発されたと報じられるが、「生きたいと本人が願わなければ薬の効き目はない・・」といった解説がある。次元の狭間には「先生」(声は女性)が居るが、そこに主人公である青年がやって来る。やって来る、と言っても目が醒めたらこの場所に居た、が正しい表現。この青年はここに暫くとどまる事ができる珍しいケースだと言われる。普通は「消えた」直後にこの場所に来て、「先生」に経緯を話した後、服薬を勧められ、生き直そうと思わなければすぐに消えて(死んで)しまう。
かくして物語の舞台設定は整ったが、青年が観察する「死にゆく者」のケースは1組の男女のみで、もう一つのエピソード(女2人)は実は種明かし的サブストーリーとなり、さらにもう一つのタイムリープ的な仕掛けがオチに据えられている。
最初に登場して儚く死んで行く男、その後を追う(「消えたい」と思ってしまう)女のもどかしい関係性は、優しさが持つ「嘘」を巡る自家撞着。男が「消えたい」と思うきっかけは、「好き」だったはずの相手が「気遣う存在」になった、要は好きでなくなったからに違いなく、「終わり」なのは恋愛なのであって人生ではないと、認めないのは利己的になれないからで、人間の真実から目を背け、綺麗ごとで飾って人生を終えたいなら勝手に終えるがいい・・等とイライラしながら会話を聞く事になるが、利己的に生きるよすが=己自身が希薄であるのだとしたら、とふと思う。若者の根源的自信を喪失させる社会の深刻さはこういう場面に表れてもいるのだろうか・・と。(自信満々に見えるのは一部の○○な連中だけ。)
二つ目のエピソードはアイドルを目指す女子とその旧友で臨床心理士を目指す女子の関係。アイドル女子は上京して所属した事務所で壁にぶつかる。ただしその壁は「自分」という存在の核が無い、というもので、それは対人関係の中で気づかされるという順序を取り、抜け道を失う・・。これはわが事として見てもよく分かった。旧友の存在が救いにならなかったのもむべなるかな。「己の核」は社会的認知によって形成されるもので、早くは家庭で、あるいは家族があやふやでも地域で、学校で、友人関係で、最終的には職場で、作られる契機がある、と考えられてきたが、今はそのどれもが「核」たる保証を与える資格を返上し、現実世界での孤立を掬うのは「大きな物語」としての国家だけ、というのも現代的風景だ。専らSNS、ネットといったバーチャルで記号的な繋がりに比重が移っている現状もありそうだが、これに依拠したがために起きたと見える秋葉原事件が思い出される。
アンチフィクション
DULL-COLORED POP
シアター風姿花伝(東京都)
2020/07/16 (木) ~ 2020/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★
今ダルカラが劇場公演を。。と出掛けたら一人芝居だった。しかも谷氏自身による。上演は60分。存外濃いコンテンツに満足。ゆったりした客席にも慣れてきた(興行側は大変だろうが)。
配信もあると聞いたが、映像向きと思われる「パッケージ」として完成度のあるもの、起承転結が明快な演劇らしい演劇ならともかく、「アンチフィクション」の題名から想像されるチャレンジングなのは狭雑物無しで見る(劇場で見る)選択肢以外思い付かなかった。
病床の別役実氏が名取事務所(ペーター・ゲスナー演出)に書き下ろした「背骨パキパキ」を思い出す。結局出て来たのは戯曲というよりエッセーのコラージュのようなもので、作者の呟きのような文から夢想された場面で構成された舞台は不思議な趣きがあった。今回のアンチフィクションも作者の呟きがベースであるが、「全て本当にあった事、本当に起こる事」との前置きの真偽が揺らぐフィクション性高い後半のコンテンツまで、コロナ禍下の劇作家の生態という内容は、それが真実でも虚構でも、単純に面白かった。最初に「真実」を謳う事は必要だったろうが、俳優の体は舞台の時間のそれであり、演劇のそれであった。
プレイタイム
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2020/07/12 (日) ~ 2020/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
演目(岸田國士「恋愛恐怖症」)と出演者(森山未來/黒木華/北尾亘)を見て予約。演出(杉原邦生)は後で知った。映像配信でも期間中なら複数視聴可というもの。うっかり見逃す所だった。
映像としてよく出来ている。ざらつきのあるフィルム映画風の画面では画面の暗部が「映らない部分」と溶け合い、映り込む対象は細工無しのシアターコクーン内部。眠ったそれらが徐々に動き始め、音楽(音響)が重なり、役者の背中が現れ台詞の断片が語られ出す。演奏はオケピの生演奏、役者はやがてステージに現れ、台詞を合わせるが、その後黒木が着飾った衣裳で登場し直し、二人の若い男女の「結婚」にも言及しながらの駆け引き台詞が切なく展開する。
最初台詞と映像をコラージュしたものかと思わせつつ、しっかり芝居を見せる場面はあり、客席にも密を避けて後方に座った観客=エキストラも置かれる(従って恐らく一発本番で役者の噛みも若干あり)が、静かに風景を眺める映像トーンは最後まで変わらす。
劇場に息が吹き込まれる瞬間を映しとった味わい深い映像作品。
「野鴨」公演ワークインプログレス
社会福祉法人トット基金日本ろう者劇団
シアターX(東京都)
2020/07/19 (日) ~ 2020/07/19 (日)公演終了
満足度★★★★
ろう者劇団、デフパペットひとみ、カンパニーデラシネラ(小野寺修二)と来て、観ない選択肢は無いてなものだが、予想通り無言のマイム作品でも質の高い出し物であった。もっとも昨年のハツビロコウによる原作の胸を掴む舞台を観ていなければ、場面を理解する事はなかったと思う。断片から記憶の中のドラマが甦り、野鴨を味わったという個人的体験になったが、小野寺氏らしい秀逸なムーヴの構成はやはり快感。人間の右往左往を他所目に暢気に歩く鴨の造形が優れものであったが、デラシネラメンバー崎山氏と後で知り、さもありなむである。
出演9名の内ろう者の割合が少なくとも半数以上で、音楽に合わせての複雑なムーヴのアンサンブルが中々の完成度で披露されていた。
天神さまのほそみち
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2020/07/03 (金) ~ 2020/07/19 (日)公演終了
満足度★★★★
別役芝居に開眼(2014-15年)してより、別役グルメを様々堪能したが、今回(別役作品に関しては期待低めだった)燐光群の公演は予想を裏切って見応え十分であった。トークゲストの一人名取氏は(残念ながらトークは拝見できず)以前ある座談会で別役戯曲の舞台化の難しさを語っていたが、今回のをどう評しただろうか。よく上演され、私も過去4本程観ていた別役の最初期作品(燐光群の「象」もその一つ)が「メッセージ性」に着地させ得る(と同時に時代的制約も帯びる)のに対し、その余地がない中期以降の作品は役者、演出に自由を保証するが「面白い」舞台にするのは難しい。坂手氏が戯曲を我流解釈に組伏すのでなくそのまま料理し、成立させるとは失礼ながら予想しなかった。
「あなたの家の前をトラが通りましたか?」と謎の問いを問う背広男を演じたさとうこうじは、20年前の黒テント『メザスヒカリノ・・(略)』で「この人にしかできない」ふーちゃん役を演じた姿を彷彿させた。全く違うキャラだし作品だが、どちらも「異界に通じる超越性」が終盤に向かって際立つ。神憑り的存在を信じさせる俳優さとう氏の独特さが古い記憶を呼び起こした模様。
別役実は氏のトレードマークである舞台上の電柱を、水平思考に慣れた日本人観客に垂直思考を想像させるため、と説明したが、背広男はカオスである世界の創造主の使者又は預言者と見えなくもない。「不条理の真実」は絶対神の想定=人間の理解を超えて全てを支配する存在を予感させる。人間はそこに無秩序ならぬ秩序を直観し、不安や恐怖を覚えるが、己の中の何かが投影されたもののように感じ、因果関係を見出だす。(己を映す予感が恐怖を催すのか、恐怖から投影=因果を考えるのか・・私は前者と思うが如何。)不条理は超常現象とは違って道理を求める心が裏切られる実態だとすれば、一見バラバラな事象が不条理を証明するかのように構成される事によって人は不条理に遭遇したと確信する。(つづく)
パンデミック・パニック
Nakatsuru Boulevard Tokyo
APOCシアター(東京都)
2020/07/04 (土) ~ 2020/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
ライブ配信だが久々にガッツリ2時間の濃い芝居を観た。
中津留氏らしい本と演技(役者への演出)。本は新型コロナを題材に、小さな商社とそこで働く人々が登場する話であったが、重要な問題を掴まえドラマ化する筆力にやはり感心。ただ、幾つかある笑わせどころで、さすがに観客不在はきついが、それでも書いてしまうのは作者の願望なのに違いない。(画面のこちらで視聴者は反応した事だろうが、通常なら必ず起こっただろう「ざわ」という笑いが欠けている・・私はスタッフが笑っても良いと思う・・しかし作者はそういう場面を書かずにおれないのだろう。)
上演は劇場を使い、配信はリアルタイム、従って役者全員が全ステージ通常公演のように出演する。映像は複数のカメラで場面の風景・役者を追う。その分、正面から見てわかる立ち位置などは判りにくくなるが、カメラの寄り方やスイッチのタイミング等は日によって異なるとか(今回はカメラというスタッフワークが加わった訳だ)。
12日夜の千秋楽を観たが、翌日から一週間アーカイブ配信(上演順に各ステージを1日ずつ)を行うとの事。
第14回 シアターΧ 国際舞台芸術祭2020
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2020/06/13 (土) ~ 2020/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
X主催「国際芸術祭」鑑賞2回目。3演目の内訳はダンス・ダンス・演劇。
先陣は女性2人組、天然素材感ある薄褐色のドレスで舞う。チベットのティンシャ他の鈴を使い、水音や優しげな音楽が流れる中、自然讃美の特命で地上に遣わされた者の如く。一人は力量十分で曲線を描き、一人は音や補助的に立ち回る役割分担であったが、「二者の差をもっと明瞭に出してよかったのでは・・」との客席からの意見に首肯した。やや予定調和な作り。
二つめの踊りは女性ソロ。勅使川原氏を思わせる素早く鋭い動きと、生じた波動が部位を伝って連続し展開する視覚的快さがあり、想定される何らかの「身体言語」が、何を語ろうとするのか?という関心へ引き込まれる。舞踊は抽象次元の遊びだが、何らかの一貫性を保ちつつドラマ性を演出するという意味では演劇に似ている。今回のは前半保たれていた強く太い幹が、後半やや細まり、勿体なく感じた。前半で自分の中に膨らんだ「当て」が外れただけに過ぎないのだが。
演劇は企画のテーマである「蟲愛づる姫」を主人公とし、彼女の前に生物進化の各段階をユーモラスに擬人化して登場させ、生物多様性を教える教材のような出し物。バクテリア、ミドリムシ、ボルボックス、海綿、クラゲ・・等々。明治座シニアクラス出身者で作ったグループで、高齢者劇団の趣きだが、キャラの立つ役者揃い。憾みは(恐らく)稽古量の少なさ、内容も相まって余興を見るノリで見てしまった。本来なら相当の時間をかけて作られる演劇という芸術が、今置かれている状況を思う所であった。
『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊
KAAT神奈川芸術劇場
KAATyoutubeチャンネル(神奈川県)
2020/06/27 (土) ~ 2020/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
生エンゲキではないが、意外に味わいある「作品」に遭遇できた。
今夏の目玉の一つになるはずであった公演だが、作演出・岡田氏からの申し出で実現した"何らかのクリエイト"。夏に未練を残して現れたこの「上演の幽霊」という作品は風変わりで、不思議にある完成形を成していた。
感触はラジオドラマに近い。映像は、画面の端に暮れなずむ街路がガラス越しに見える小さなカフェ風の空間で、真ん中のテーブルの上にスマホが置かれている。時おり通行人の影が通過するので「ライブ」が目指されていると分かる。
カメラは固定。場面の変り目(人物の登退場)には沈黙が訪れ、人影が現れてスマホが出はけされる。そこでよく見ると、画面には人物が映っており、演者がスマホ画面の中に「存在」しているのだと気付いた。もちろん表情は見えず、殆ど独白(手記の朗読風)であるので動きもあまり無い。したがって視覚情報から「物語」の手掛かりをもらう努力は不要と知れ、耳での鑑賞を意識した演出だろう、ゆったりした台詞の間合い、声のトーンで、深夜ラジオの声に身を委ねるあの感覚に誘われる。最近コロナの巣籠り効果でラジオ聴取率は上がり、ラジオ番組動画がyoutubeにも上がるようになって、好きな番組も出来た。映像メディアが「目」をくらます術を使うのと違い、聴覚メディアは「耳」をくすぐる。耳が聞き分けるのは「そこの本当があるか」であり、「実は・・」と内緒話を始める媒体としてラジオは(不特定多数を対象にしながら)最適なメディアであるのも、「聴覚だけ」が関係してそうだ。そんな事を感じていた頃合、その特性をとらえた「作品」にラジオ的に没入した。
独白が続き、「能だ」と思う。宣伝に「能」と謳っていたっけ? 『挫波』・・建設中の新国立競技場に、一度はそのデザインが採用になった今は故人であるザハの影がしばしば過る。霊の予感。と、彼の前に不審な人物(競技場の生霊?)が現われ、ザハの霊が憑依した体験でもあるかのようにその物語を語る。能のワキに当たる主人公の目も、いつしか問題の人物を見、彼を置き去りにして五輪の喧噪に沸く社会を、見る。
長い独白自体、岡田氏らしいテキストでもある。二話目の「敦賀」は廃炉が決まった高速増殖炉もんじゅが擬人化されていた。
上演後のリモートトークに拠れば、稽古もリモートで行い、独白シーンが多いテキストでも個別稽古でなく役者は揃ってやり取りをした。上演は録画された映像を使って行う。スマホに映ったように見えた映像はスマホ型の板面にプロジェクターで映したものだという。ただし録画+録音はやはり上演の時間通り、演者たちは相手役が喋っている間も自分の姿を存在させ続ける、という「上演」と同じ条件で為されたものだという。リモートのタイムラグが障害になるような丁々発止の台詞交換は無いのでテンポ感の問題は生じない、にしても、画面上フィギュア人形がテーブル上に踊る程度のサイズであれ、同時に登場している者同士のやり取りは、為されている。その意味でこれは「演劇」と呼べそうだ(同時進行で相手に即応して存在しあう関係がそこにあるので)。ただその苦労話として、モニターとしてのスマホの画面は小さいため相手の姿は殆ど見えず、聞こえる台詞をリアクションの手掛かりにするしかなかった、というようなこと。
聴覚をくすぐられたもの・・言葉と言葉の間の十分な間に聞こえて来る波の音、ギターをメインの風景描写的な音(楽)、そしてエネルギー量的には圧倒的だった七尾旅人の歌も、「作品」と調和していた。
五輪開催を前提に企画されていた作品だが、五輪中止の状況では「五輪」鎮魂歌とも解せる。場違い感は全くなかった。
2021年の東京五輪中止を「考えられない」多くの都民により小池都知事続投が決められたが、もし舞台の上演が来年実現したとして、さて五輪の方は果たして・・。
第14回 シアターΧ 国際舞台芸術祭2020
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2020/06/13 (土) ~ 2020/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
県境を超えざる期間(3か月)を経て、劇場訪問解禁一発目。
一昨年は「かぐや姫/アインシュタイン」とかいうテーマを掲げて開催されていた「国際」芸術祭、ジャンルを超えた出し物を見本市のように並べた催しに興味を持ったが今回初めて、プログラムの一つを拝見できた。(今回は海外からの出演無し)
今回のテーマ「蟲愛づる姫」の含意は「毛虫も一つの命」との生命観のようだが、特に気にせず何が飛び出すか楽しみに、前知識なしに鑑賞した。
まずピアノ演奏。若手であったが「エリーゼのために」を導入に、ベートーヴェン「熱情」をしっかり弾けるだけの実力。
次に『白痴』のムイシュキン公爵の独白(菅沢晃)、ガウンをまとい女言葉で喋る(その所以は知らず)。
最後の舞踊は二人の若いダンサーが作る独特な世界。題名のdodoとは孤島に棲む今は絶滅した「飛べない鳥」。
終演後4名の演者をステージに呼んでの意見交換会、これが中々面白かった。音楽・演劇・舞踊というジャンルを横断するとその差異と同時に「時間の芸術」としての共通点もみえる。
ある男性がピアノの演奏に対し「強弱」の塩梅に不満を漏らしていた(急激に音量が上がった箇所に付いて行けなかった)。だが私はこの演奏者のこの場での構え方に即興性を感じ、用意された「完成形」でなく、瞬間に即応した音を出そうと臨む姿勢を見た、と思った。実際CDでしか聴かない曲がリアルに立ち上がった感触は「ライブ」のそれだったが、演奏技術あればこそ(少し格下だと楽譜に食らいつく必死の演奏、それでも否その方が喝采をもらえたかも)。
人は芸術に対し「完成形」への欲求を持ち、それは演劇に限らず、文学や映画も同様だが、自分は最近プロセスの面白さを「終幕になっても忘れない」事が大事、という気がしている。
ピアノ演奏は多分計算されていない「終り方」だったと思う。落語にも同じ後味がある(オチでスッキリする演目もたまにあるが)。「終わりよければ」の法則は揺るぎないものがあるが、スッキリして後を引かない収め方が、またそれを求める欲求が果たして今の時代妥当なのか・・。
また長いレビュー書きが始まった。できれば10行以内に収めたいが、、無理か。
未開の議場-オンライン版-
未開の議場-オンライン版-
YouTubeLive(東京都)
2020/04/17 (金) ~ 2020/04/19 (日)公演終了
満足度★★★★★
ゲネ版を視ていれば親族知己にも紹介できたのにナ..と後悔が掠めた秀作。ONLINE版、と聴いて「動画サイトで芝居を観る」発想しかなかった。近々予定の町のイベントのための会議、というのがこの作品の中身であるが、設定を新型コロナの自粛ムードの現在(気分的には3月上旬あたりか)に置き換え、スカイプか何かで画面に顔を出して会議をする。この模様を視聴者がそのまま共有するというスタイルだ。視聴フリーのカンパ制というのもこの状況ならでは。
5年前の初演でも良く書かれた脚本という印象だったが、オンライン形式でも十分引き込む力があった(デバイスの条件で大分変わるだろうけれど)。少なくとも舞台を映像で見るのと違い、言わばリアルな現場を0ミリの距離で目撃するに等しく、ライヴ配信だから役者と同じ「場」で同じ時間を共有する「演劇」の条件にも合致している。
この「観劇」体験は100%再現可能につき、この時期、ライヴではなくなってしまうが再「上映」をカンパ制で行って下さるなら多くの人に(演劇に疎い人にも)勧めたい。
『4.48 PSYCHOSIS』(4時48分精神崩壊)
一般社団法人PAIR/PARADISE AIR
SPACE EDGE(東京都)
2020/03/20 (金) ~ 2020/03/23 (月)公演終了
配信映像を見た感想になるが...。
オペラの名の通り、台詞(と言っても殆ど作者の独白と言ってよい)全てに旋律が付き、ミザンスはバンド風にセンター・滝本直子、歌い手の男女(小野友輔、中西星羅)を左右に配して3ヴォーカル、後ろの壇上にドラムセット風演奏エリア(鈴木光介)。予定では異種競演のクインテットであったが、コロナ「対応」で葉名樺(ムーブ)の出演が無く、カルテットに。
鈴木氏の音楽が多彩な場面を作る。<時々自動>仕込みの意表を突く展開のあるビート、コード、メロディ、またオペラだけに言葉の抑揚をとらえた旋律。殴り書きに近いテキストが自らの「肉体」として欲するのは、調べであり色であるのかも。オペラは音楽の範疇と言えるが、この場合「作曲:鈴木光介」とすべきであり、題は「4.48PSYCHOSIS組曲」になるか。どこかでまたやってほしい。いや当然やるでしょう。
ジプシー 〜千の輪の切り株の上の物語〜
ことのはbox
シアター風姿花伝(東京都)
2020/04/01 (水) ~ 2020/04/07 (火)公演終了
満足度★★★★
結構な出演人数の割に共通役無しで2チーム。「大事に作る」印象のことのはboxにしては・・制作上の事情か、とすれば稽古回数の圧縮が中身にしわ寄せを・・等と実は勘繰りながら観ていた。が、戯曲の本線がやがて浮上し、堂々たるメッセージ性が倒れた大木を起こすようにもたげ、元来飲み込みづらい超自然的要素をすっかり観客に飲み込ませて終幕した。
バブル時代を思わせる台詞に、若手中心の俳優は時代気分のシフトが出来ない様子、これが序盤のギクシャク感の事情と想像するが、戯曲を古いと感じさせなかった点において上演は成功と言えるかも知れない。貨幣や住居、所有に捉われない生き方・・・思い起こせば当時こういった視点がバブルに踊る自らへのアンチとして)巷間あった(『パパラギ』なんてのもあった)。
しかし今この時代にこの戯曲の言葉を据えると、バブル期からさらに転落した文明そのものの惨めな帰結を、深く深く思わされる。
このご時世に・・は決まり文句になりつつあるが、本舞台、この時世によくこの作品を蘇らせた。そしてよく中止にしなかった。
ゴドーを待ちながら【4/8(水)ー11(土)公演中止】
KARAS
KARAS APPARATUS(東京都)
2020/04/03 (金) ~ 2020/04/11 (土)公演終了
満足度★★★★
「ゴドー」をどう踊るのか・・興味津々で荻窪へ。公演はほぼゼロに等しいこの週末に上演をやっている事については、トークで言及があった。「特に状況に抗っている訳ではない。私たちの表現活動をやっているだけ」。そのKARAS公演も火曜以降は中止となり、6(月)夜を残すのみ。
2015年12月のシアターXでの初演は佐藤利穂子とのデュオで、今回も2人の名前があったが、日々更新されていく「update」、2ステージ目は勅使川原氏のソロとなっていた(1ステージ目は不明)。
上演時間1時間、とあったが終演後時計を見ると1時間半弱、トークが乗って10分程だったか。ダンスは二部構成で前半が長く、音声で流れる「ゴドー」の台詞に合わせて、ぼろをまとった勅使川原が動く。マイムっぽい動きもあるが、台詞を喋る人物を「演じる」ので、確実に演劇的な「演技」が入っている。舞踊では見ない表情が覗く。
何とも味わいがあるのが一人の男の声で吹き込まれた「ゴドー」のエストラゴンとウラジミールのやりとり。聴いてると勅使川原氏の声にも聞こえるが(トークでそうだと判明)、小慣れた噺家風の口調で互いを食い気味に、力みゼロでやってる。猪俣敏郎あたりが聞かせてくれそうなテキトー感横溢な喋りがイイんである。台詞は戯曲通りでないらしいが、ゴゴとディディの会話として聴ける、というか「本日の二人の会話」はこんなかも・・と氏が「再現」したような会話である。
出て来るはずの佐藤利穂子が出ないので、もしやポッツォかラッキー、又は少年で登場か・・と待ったが、その期待はかなわずであった。
新雪之丞変化
Project Nyx
ザ・スズナリ(東京都)
2020/03/19 (木) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★
Pro-Nyxを昨年末に続いて観劇。今回は完全femaleで男役を月代かつら被ってでもやる。異形なはずだが普通に観れてしまった。上京した役者・雪之丞が実は素性を隠して亡き父母の仇を討ちに?と危険が匂えば序盤からもう目が離せない。非情そのものの敵(現奉行)、その娘に一目惚れされ・・。裏事情をかぎ取る鼻持つもう一人のやさぐれ女、そこまでの眼力はないが執念を燃やし続ける岡っ引、敵の娘を雪之丞に引き合わせた商人、またその商敵の何某と、役者に事欠かず。
情念を煽るBGMはBUCK-TICKだそう(イカ天世代には懐かしいバンド名..)。
金守珍得意の箱を使った美術では、歌舞伎並みの場面転換(具象を使った省略無しの)がスピーディに行われる。転換中は黒幕が引かれ、その前で芝居や踊りが出し物的に演じられる形だ。ちょうど中入りな時間では、客をいじったりと肩の力の抜けた佐藤梟の喋りがあり、雪之丞の一座が上演する劇中劇のこれも一つとして「やります」、と始めた一人芝居が物凄い。「女のどうしようもなさ」とでも名付けられよう挿話(出典「宇田川心中」)が、この「新雪之丞変化」の劇中人物(女)たちのみならず、これを演じる者(女優)たちの存在を包摂し、主役の女形(=男)の女性性(実際女)といった倒錯をも大づかみに包んでしまう。総員が目一杯演じるエネルギーに打たれる舞台であった。
Q学【3/28-29公演中止】
田上パル
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/03/19 (木) ~ 2020/03/31 (火)公演終了
満足度★★★★
2019年度最後の観劇。アゴラ劇場はそこそこの客入りだった。
一昨年のアトリエ春風舎でドタドタと跳ね回っていた初演に比べ、劇場も役者も変ってしっかりとした舞台であったが、初演の記憶を掘り起こしてみると、粗削り、生々しさ、声やアクションの大きさ(劇場キャパに比して)等の印象の合間に現代の蛹たちの生息地の痛々しさを(こちらが勝手に)読み取っていた気がする。
・・「死んだ魚の目」で学校生活を送る「自分を緩く居させてくれそうな」演劇を選んだ女生徒たち。時系列的にも物語的にもそこが起点である。そんな彼女らを鼓舞し鍛え上げる役割を担い、ある日を境に疎遠になった「軍曹」と呼ばれた女生徒の現在のシビアな状況にも、想像を巡らす余白があった気がする。
今回は、死んだ目を卒業して各々十代を謳歌するJKらの「現在」が完成されており、過去は経緯の説明にとどまる。ただ、何歩も先を行く半ば大人の「軍曹」の現在には畏敬というより不快感(たまに顔を合わせると愉しげな彼女らに冷や水を浴びせる)、もっと進んで無関心の域であった所、彼女の退学とその理由(スナックで酒を飲んでいた所を校長に見つかった)とその噂への反証を耳にし、語り手=主役の「皆が帰った後に彼女は遅れてやって来る」「入院中の母親を見舞った後で」との証言もあって、JKらはその持てる瞬発力でもって能動的な関与の姿勢を示す。
軍曹へのコミットとは具体的には、演劇の授業だから当然ではあるが、彼女をキャストに加えた劇を作る事である。
折しも先日、非常勤担任から「試験をやる。題材は走れメロスにしよう(たまたま話題に出た)。俺その話知らないから俺に教えて~」と言い残して去られ、成績と引き換えと言われれば腰を上げざるを得ず各人が異色の「走れメロス」研究発表を行ったばかり。そこへ公開授業(成果発表会)の話を非常勤が安請け合いで持ち込み、例の発表をまたやるというのでゲロっていたが、公開授業は時間がずれ込むので軍曹が間に合う公算大と踏み、じゃあ、と前のめりとなった彼女らの中で、自分らがやられっぱなしだった軍曹のスパルタへの「仕返し」というアイデアが悪戯心を刺激したらしく、我らが学内事情を様々ぶち込んだ全く新しいメロスを演じる。「観客を驚かせ、一泡吹かせてやろう」に加えて、遅れてやってくる一人を芝居に巻き込んで翻弄してやろうというのである。
さて発表の日、いつもの時間に軍曹は来ず、仕方なく劇は始まり、王様(=校長)の横暴で虐げられるセリヌンティウス(退学させられる軍曹)の物語を、途中からの流れを何度もリフレインしながら到着を待つ。と、ついに現れた彼女を皆は逃さず、取り囲んでスパルタの象徴であるハリセンでもって彼女への「仕返し」を行なうのであった・・。
「恩」に報いる形をとるが、どことなく、ギクシャクながらの友情の奥ゆかしい確認、だが所詮一方通行でしかない(彼女の実情は分からない)友情の押付け感もよぎりつつ、潮が引くように日常の時間に戻って行く。
演劇賛美の物語であり、演劇よかくあれかし、との願望が結実を見たという事で、演劇ファンには感動間違い無しの作品であるが、再演では「痛々しさ」と共に「演劇の効用」的なニュアンスもやや背景に引っ込んだかも。・・どっちが良いかは微妙な好みの範疇、JKたちが凛々しく眩しくあれば正解である。(だったらごちゃごちゃ言うなってか)
揺れる
東京演劇アンサンブル
d-倉庫(東京都)
2020/03/25 (水) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★
「芝居小屋」外公演の第2弾 at d倉庫。ここ10年程、公家氏演出によるドイツ語戯曲の新作が折々に打たれていたが、初めて拝見した。
噂に違わず?抽象度の高い舞台。スタッフワークそれぞれのレベルは高いが関連が読み取れなかった。判らなさは半端ない。が、この判らなさの割りには、不快感は小さく、混沌の中で蠢く我々自身をその中に見たような気がしなくもない。極部分的だが真情吐露に引き込まれる部分もあった。
野鴨
ハツビロコウ
シアター711(東京都)
2020/03/24 (火) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
本日千秋楽の舞台二つを、たまたま隣の劇場で時間をおかずに観劇。濃厚な時間に消耗気味だったが、両作とも睡眠時間ゼロであった(最近では珍しく)。
初の演目だったが、恐らく戯曲は刈り込んでおり(序盤で説明省略の跡に気づいたが、他は違和感全くなし)、今回も緊迫感に満ち満ちた、恐らく原作世界がしっかり具現されただろう舞台。人物が見え、関係から生まれる様相が見え、その結果に納得させられ、共に不安がり、安堵し、悲しみ、悔しがりしながら、傍観者であるもどかしさに歯ぎしりし、拳を握る130分であった。
安らかな眠りを、あなたに YASUKUNI
燐光群
劇場MOMO(東京都)
2020/03/20 (金) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★
中止の連絡が来ないかと気を揉んだが、上演を敢行する模様。まだ明るい内に家を出、がらんと客のまばらな電車を乗りついで中野駅に降り立つと、雨に光る夜の町。ザ・ポケット界隈では二つの劇場の灯りが消え、残る二つだけ慎ましく入口を照らしていた。
入口では非接触体温計で検温し受付を済ませ、開演10分前まで待機した後、階段を上って入場。一つおきに指定された席に案内され、上演中は空調が稼働している事と、次亜塩素酸何とかを混入した蒸気を噴霧している旨の説明があった。
今回の燐光群はタイ演劇人との合作で、「靖国」を題材としたニコン・セタンのテキストを作者と坂手洋二が演出。主要人物2名を含むタイの若手俳優が溌剌として日本語流暢、二言語&国籍をシェアする一方の日本人勢(燐光群+客演)とのアンサンブル良し。硬いテーマを扱っていながら、愛らしさのある舞台である。国際共同製作としては高水準の仕事と思う。
印象的な部分を一つ挙げると・・
タイのある地方、祖父のお墓を訪ねたタイ青年ワンチャイの前に、友人を探して彷徨う軍服姿の亡霊が現れる。青年はどうやら霊が見えるらしく、墓参りをしても姿を見せない祖父を探して呼ばったり、一人の女性(彼の元カノ)の亡霊を退けたりしている。唯史(ただし)と名乗るその若い兵士の亡霊は、固い約束を交わした彼の戦友・伸介を探しているという。約束とは他ならぬ「死んだら靖国で会おう」。ワンチャイ青年はあるカップルを道連れに、伸介がいるかも知れない泰緬鉄道の元工事現場まで汽車旅をする事になる。
さて色々あってついに友人の亡霊と出会った唯史は、友人の伸介が靖国に祀られたがっていない事を知り、二人の間に一悶着起きる。やがて殴り合いに発展して双方潰れた後、唯史は自分が命を失った戦争の記憶を甦らせながら、自分を奮い起たせるように天皇陛下万歳を叫ぶのである。
この唯史をタイ俳優が演じ、対する友人伸介を荻野貴継が演じたが、これ程真情溢れる「陛下万歳」を私は聞いた覚えがない。
伸介と別れた唯史は、列車が急停止した線路上の場所まで戻り、「友人と会えた」事を報告して皆に別れを告げる。そして現代では、カップルが去り、ワンチャイは彼に絶えず付いて来る元カノと、ここで別れる事になる。彼女を巡っての話も面白いが省略。
「靖国」問題という危ういテーマが、他国(タイは戦争当時中立だった事もあり侵略に拠る被害は殆どなかった)の俎上に乗る事でイノセントな眼差しを得ている事がテキスト上も、上演の上でも大きい。今カノとの関係が大事な時を迎えているらしい(度々携帯で連絡している)タイ青年が、元カノの亡霊の存在を引きずりながらも、熱意に負けて見も知らぬ日本人兵士と同道するという設定が、うまく成立している。タイでのそれなりにシビアな日常が信じられるのである。
その事により問題が相対化され、耳慣れた言葉が新鮮に響いて来る。国際的な仕事の見本と言える。
冬の時代【3/28-29公演中止】
アン・ラト(unrato)
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2020/03/20 (金) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
冒頭より演出的手腕がゴリゴリと迫って来る舞台である。紗幕裏の4本の枯木が照明に映え、冒頭、雪(芝居用と判る)が舞う。冬の時代のタイトルロールに等しい。次いで、「以下の文が舞台上に映し出される・・」という原作のト書きが、恐らく作者の手書き原稿だろう、白抜き印刷した映像で紗幕に流れて行く。ト書きを無視せず背景に使った巧い処理により、この戯曲が古典である事とそれを今再現しようとしている事が、さり気なく前置きされる。
中央の張り出し舞台の前面に二本の柱(頂上にもう一本渡され、コの字を伏せた形。首を括れる)。黒褐色の卓、本棚、椅子などの調度が古色蒼然。
若い俳優の起用は当初の方針であった由。若手二枚目が数名では役柄の腑分け(個体識別)に時間を要したが、俳優力に納得。演技・発語のテンションは鐘下舞台に通じ、青春群像の一つの解釈として受け止めた。
3幕舞台の幕間休憩が2度。初めて耳にした作品だが、熱い台詞劇も木下氏は書いたのだと新鮮。戯曲の構成は見事で一幕は赤旗事件、大逆事件の衝撃冷めやらぬ中の売文社(堺利彦社長)内で、赤旗事件で捕縛されたお陰で大逆事件を逃れた面々による喧々囂々唾を飛ばす議論の最後、革命歌が飛び出し、やがて大合唱、「革命」の志を刻み、同志を失った無念を歌に乗せて身を震わせる男たち、そして馬鹿な男たちにもこの時だけはほだされる女たち・・暗転。
木下順二の生きた時代なら自身が体験しただろう議論だけに「革命」が義たる事を大前提とした激論、分派化の必然の流れが見事に辿られ、目が離せない。初演された1964年はまだ政治の時代の渦中であった。
直近では匂組公演で観たこの題材の芝居は多々あるが、この作品は大杉栄や荒畑寒村より年輩で、実社会を知る堺利彦を軸に据える。彼が「事の現実性」を語るときの感覚は、現代の私たちの感覚に近く、共感できる(これが時代が違えば又違うだろう)。じっくり腰を据えねば革命など見えてこない、人間はそれほど単純でない・・。
現実的である事と、理想を持つ事とは共存でき得るはずであるところ、理屈・論理が勝つ若者には感覚的にしか認識できない「現実」を理解できず、非論理性を攻撃し分派して行く、という「運動」の典型的な軌跡がこの舞台にも。連合赤軍事件を見ないこの時代、作者は彼らの姿を青春群像として描き、演出もこの戯曲の狙いに寄り添いつつ完結させたと見えた。
これは戯曲の問題だが、エンディング部分が長く、時代性かな、と思う。もう一つは、ちょい役が4人ばかりある中で、「主義者」の一人、渾名キリストという若者が最後に凶報を届けに登場するのだが、これに二枚目系を当てたのが私としては失敗。ちょい出は(他の役はそうだったが)一発で印象に残る個性派を配するべき。あるいは熟練の演技派でないと・・もう1エピソード始まるかと期待してしまった。
それにしても客席の埋まり具合が非常に残念であった。料金高めの舞台ではあるが、、この時期とは言えかなりの目減り、演目のせいだろうか。。
だが私としては、今この演目をチョイスした大河内直子の懐を思う事である。
蝙蝠傘と南瓜【3月28日(土)~30日(月)公演中止】
劇団銅鑼
銅鑼アトリエ(東京都)
2020/03/19 (木) ~ 2020/03/30 (月)公演終了
満足度★★★★
銅鑼のアトリエ初訪問。消毒・マスク・もぎり省略等のコロナ対応を励行。表通り(幅狭バス通り)から程よく引っ込んだ建屋の劇場スペースは下北の小劇場規模。アットホーム感がある。舞台も近く、役者の顔が化粧の乗りが目に入る程の臨場感。
芝居の方は詩森ろば所縁のスタッフ(音楽:後藤浩明、音響:青木タクヘイ、美術:杉山至)を揃えての躍動的舞台。
とりわけ客演・林田麻里女史が私としては引きであり、飛び道具的ポテンシャルを持つ(と思っている)女史が、銅鑼舞台の中にどう居住まうのかが密かな関心。ドンピシャとは行かなかったが主役・島隆(りゅう)役を担って「ならでは」の芝居になった。対する夫・霞谷役の館野元彦が銅鑼の主役級を(恐らく)担って来ただろう貫禄。どこかで見た名と思えば先般の劇団協主催の喜劇『マジメが肝心』で神父役であった。
ステージをフル活用した回転舞台、歌、ムーブ、劇中劇構造を生かした場面つなぎのフレキシブルさとテンポが詩森「演出」の特徴だが受けが良いようである。二人の現代人以外は着物であるのも趣きを醸す。(幕末の上野戦争の直前、懇意の上司が二人を避難させる目的で自宅に招くのだが、その準備の時間に夫婦の会話をしながら正装の袴を履かせる隆の妻らしい慣れた手捌きが見事であった。)