水の駅
青年団若手自主企画 堀企画
アトリエ春風舎(東京都)
2020/11/13 (金) ~ 2020/11/23 (月)公演終了
満足度★★★★
昨年末の堀企画第一作を思い出すと、「静寂」という明確な共通点があった。コロナ自粛期を避けて第一作、第二作と幸にも公演が実現し、私はささやかな幸福の時間をもらった。
演目はアングラ演劇の雄、状況劇場、黒テントと並び最も実験的・身体回帰;原始回帰的の路線を突き詰めた転形劇場の、中でも有名な無言劇。という知識だけで実際に上演を観る事ができたのは昨年のKUINO演出(割とオリジナルに忠実だったらしい)による森下スタジオの広々としたステージ。それで今回は記憶をなぞりながら「次は何?」と楽しみに観る事ができたが、何バージョンもの「ジムノペティ」を眠気覚ましに繋いだKUNIOの演出より、今回の堀企画の静謐の味わいがこの演目に相応しく思えた。
と言っても、50年前の舞台を知らず、ただただ想像を逞しくすれば、当時その渦中にあった「時代性」はアングラ演劇の全体的傾向を規定し、身体回帰の「目的」の中には純粋芸術以外の、例えばある種の抗い(社会への)のニュアンスが滲んでいた(あるいは観客がその期待を投影して劇を観、評価した)・・な風に想像してみると、KUNIO演出は(彼はオリジナルの舞台を映像で観たという)木造家屋に合うちゃぶ台を、硬質な現代建築に据え替えた「異化」によって、「時代性」をろ過して残った劇構造に太田省吾の遺産を見出そうとする試みであったとも。。
だが今回の演出では美が追及されている。ちゃぶ台自体の美しさに着目して現代の、アトリエ春風舎の風情ある床と狭さを生かし、地下ならではの静けさを生かし照明、音響を味方につけ一つの世界を作り上げていた。これは原典への別角度からの照射でより踏み込んでいると言えないか。
上演時間70分、抄訳であるのは前公演「トウキョウノート」と同であったが、出演人数はちょうど良く、場面を省略した代わりに一つ一つの場面(奥から人が現れては水場に立ち寄り、去って行く)を振付と言える程の考えられた完成度高い動きで作り込んでいる。青年団俳優でもある演出者の美的イメージの精緻さを思わされる。動きの速度、照明変化の速度、音響の音量、場面繋ぎのアイデア等、統一感があり、じっくり流れる時間の中を彼らは生きている。
しかしこの演劇は何なのか?・・人の営みはシンプルである。と、言葉にすればそういう事であるかも知れぬが、その実在を舞台上にかたどるのは難しく、地味だが中々できない仕事(と素人には思えた)。まあ、好みである。
「静謐」は演出の志向なのか、演目に即してたまたまそうなのか、、ぜひ次の仕事も観たい。
Rights, Light ライツ ライト
劇団フライングステージ
OFF OFFシアター(東京都)
2020/11/02 (月) ~ 2020/11/08 (日)公演終了
満足度★★★★
フライングステージ3回目の観劇。2年前観た作品と相似形に見えたが、これが関根信一流の作劇なのだろう。「問題」の提示がズバリ冒頭間もなくにあり、当人(主人公)にとっての障害が人との対話、出会いによって一つずつ解消して行く。これがご都合主義に見えないのは主人公の「痛み」の源がラスボスのように本丸に控え、これを打倒しなければ身が立たないと、観客が感じるように構成されているからだろう。シンプルでスリムな建造物で「問題」(性的マイノリティの現状)のありかを示すほとんど教科書と言って良い作品は、関根氏の本音、真剣味が滲む(笑いを交え口当たりが良いのはゲイバーママの接客の手法だろうか・・完全な「想像」だがストレートに真面目な話が「聞ける」のは語り口の勝利と言うしかない)。
ただ・・主人公が「新たな出会い」の中でパートナーを見つけ、最後にそれが開陳される(前回観たのと同じ)展開は、まあ「おまけ」と言ってしまえばそれまでだが、フリーターっぽい元彼からエスタブリッシュな新彼へ、という経済的・地位的なステップアップになっている点で「出来すぎ」の感が出る。果たしてこれは、パートナー活(婚活ならぬ)にとって相手の地位・収入は重要という感覚(同性パートナーの女性的な側にとっての?)が実はリアルに描かれていたりするのか・・等と想像したり。
確かにフライングステージはその腹の括り方がドラマの機動力であり、笑いをクッションに道理を通す。素人の観客(私)は毎度しっかり説得される。
JACROW#29「闇の将軍」シリーズ第3弾
JACROW
サンモールスタジオ(東京都)
2020/10/22 (木) ~ 2020/11/08 (日)公演終了
満足度★★★★★
JACROW、以前どこかで観た気がしていたが、中村氏演出舞台を見たのみで自作舞台は初めてであった。
劇団固有の世界というのはやはりある。演劇の成立の仕方というのは様々で、現実世界の一角で、現実世界に帰属する生身の体が架空の世界を「作る」仕事、この要は俳優の仕事となるが、この芝居では田中角栄という実在人物(わが子ども時代「ま~しょの~」の物真似で超有名人であった)の存在のさせ方が独自であった。他にも娘真紀子、山東昭子、中曽根、大平、福田、小沢、金丸と1970年代後半~80年代半ばの政界人オールスターが(パロディでなく)史実を演じるべく、しかし形態模写もまじえて登場する。その模写が興醒めとならず激動の政界ドラマを加速させる。一見物真似的にみえる表現がリアリズムな演技と不思議に共存するのだ。
記憶に残る竹下元首相の「あ~せ~こ~せ~と言ってたら創生会ができた」等と超つまんね~コメント(自分で作っておきながら自分に責任はないかのような表現と周囲のにやけ笑いに子供ながらに白けた記憶が)、またその後経世会で「御大田中角栄と離反」なんて報道も朧げに覚えている塩梅なので、耳馴染みのある人物のドラマを楽しく見た面はある。が、それでけではないと思う。
自分の言葉を語らず都合の悪い質問にふて腐れ、ふてぶてしく会見を打ち切り、又制限し、小煩い記者をターゲットにし出禁へと誘導したり(これしきで動揺する記者クラブの方が亜然であるが...)、のらりくらり逃げを打つしか能無しの菅首相(さすが安倍の政治私物化をサポートした手腕、というか単に貧層な哲学を発揮)を見て嘆息ばかりつくこの頃だから、余計に田中角栄という人物が対照的に存在感を持つ。人の心を動かす言葉を探り、人を説得し続ける政治家像に、政治の「あるべき」原点をみる思いがするんである。
ドラマの葛藤は、「田中派(党内多数派=決定権を握る)からは絶対に首相を出さない」とするこの頑固親父(角栄)が中曽根康弘(風見鶏と竹下派に言われた)を推して二期目の首相に就任した事態に至って、若手(60前後)竹下登を押す金丸・小沢を筆頭とする分派がついに創生会~経世会の既成事実化によって派閥乗っ取りを仕掛ける部分である。
(会は表向き政策勉強会であるが派閥政治の常套で「次の主流派に乗り遅れるな」という平議員の心理に働きかける。小池都知事がぶち上げたあの「希望の党」に民進党議員がうかうかと参集したのを想起せよ・・その後小池はハシゴを外した完全な「罠」。政策論争での選挙戦を「させなかった」のが小池現都知事である事を忘る勿れ。)
その角栄は数年来彼を疑獄に陥れたロッキードの案件では刑事被告人となっている。人気はあるが首相にはなれない。でもって、長い裁判の結果、有罪判決を下される。この事も要素となり政界での力を失う動きとなっていく。
史実を辿ったドラマだが、角栄の人物形象が優れている。(上に述べたが)通常省略される「物真似」をしながらの演技は、しかしこの人物像の場合抜かせなかったかも知れない。演説の調子、田中派の側近議員らを労う言葉、気遣い等一々気が利いており、「愛らしい」親父像であるが、特に演説は、高度成長期のスタンダードであるインフラ整備、地元企業への利益誘導が「地元の利益=全体の利益」である時代、たとえ方便であっても魅力的である。そこには貧しさへの共感と思いやり、不平等の是正という公共理念が流れているからだ。
何よりこの人物は、この数年極まった「説明しない」「理念、目標のない単なる政権維持のための政治」「不都合を排除する(公文書さえ廃棄、改竄する)」など日本のレベルの低さの無惨な露呈を痛ましく思う心に、一つのオルタナティブを示し、力強く溜飲を下げる。現実(史実)に連なるこの舞台はその数十年先である現在に連なり、劇場の中に完結して終わらず人物らの思いがチリチリと火が燻るように鳴っているようである。
ヴィヨン
アン・ラト(unrato)
シアター風姿花伝(東京都)
2020/10/28 (水) ~ 2020/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★
配信での視聴ができるとなるとつい手が出る。unrato=大河内直子演出と認識していたが今回は文学座新鋭稲葉賀恵。台本を持って喋る朗読劇だがかなり演出が入り、立ち位置、動き、台詞の割り振り、音楽、照明と結構作り込まれていた。
「ヴィヨンの妻」は映画を観たので太宰の分身らしき放蕩文士と妻の話であったのを思い出したが、紅一点の霧矢大夢+3男優の好演でコラージュ風の構成が一つの世界観に織り上げられている。終盤唐突に挿入される「藪の中」(映画『羅生門』の原作)の一場面も違和感なく効果的であった。
The last night recipe
iaku
座・高円寺1(東京都)
2020/10/28 (水) ~ 2020/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★
この日高円寺駅に総武線しか停まらぬとは知らず、走ったが冒頭3分見逃した。帰宅後台本で確認。演出は分からないが恐らく、この作家(+演出)は気の利いた会話としてこの始まりの夫婦の会話を提示したろうと推理。そうなると私の目が追ったこの芝居の相貌が変わって来るような来ないような。。私の観劇後の感想は、「足を滑らすとどちらかへ滑落する切り立った尾根を行く」劇をよく書いたな...というもの。
突如、彼女(ヨリ)は死ぬ。それを告げられた母、母からそれ聴いた父の戸惑い。暗転し、ドラマは時を遡る。暗転を挟んで時系列的には順不同の場面が淡々と連なり、徐々に出来事の展開順序が分ってくる。そして謎の幾つかが黒い斑点のように点在する一枚の絵となって行く。そしてその黒の部分に何が隠れているかによって全貌が変わって見えてくる。最後にそれは「見える」のか・・そこが微妙である。冒頭3分を見返したのはそのためだ。この芝居をミステリーとして観たのである。
この物語のミステリーたるポイントは、急死したヨリの死因で、もっと狭めれば年下の夫である男が殺したのではないか、という疑念だ。そうではないという判断材料も積み上がるかに見えるが、男は最後に嘘をつく。彼女が死んだ夜、3月3日の彼女の(夕飯紹介の)ブログには彼が死ぬほど嫌いな(だが彼には最も縁の深い)ラーメンを食べた、とアップされた(3月3日がそれを食した日付なのか単にアップした日付で・・というあたりが不明(ここが不明である事は話をややこしくするので作者は単に注意がここに及ばなかっただけ、との推測もできるのだが)。
だがラーメンには曰くがあり、彼の祖父が原因不明の死を遂げた、という男の家族史の一つの証言がそこだけあって、その死に関わったと仮にすれば男かその父かしかおらず、疑惑は残る。そしてラーメン屋を続け、息子を仕込みや皿洗いの手元で使い、毎日ラーメンしか食わせていない、という父親の虐待疑惑がこの珍事のそもそもの始まりなのだが、「人は殺さない」と観客にも分かる父を消去法で除けば孫である男が浮かび上がる。
死んだ女はルポライターを目指す雑誌記事や雑文を書くライターだった。新ワクチンの治験レポートを書く依頼を受け、ワクチンを打ったその夜に突然死をする。ここから、彼女と懇意であった先輩ライターが薬害の線を追うことを決意するが、これを告げた相手、ヨリの元カレでコンサルティング会社の社長は薬害の可能性を否定する。私にはこれは彼が新薬を扱う会社が顧客である事からの利害から言っているとは見えず(この記者とはきちんと議論をする相手として描かれているので)、薬害追及がそう甘くない現実を告げていると見た。が、先輩記者はかつてヨリが訪れた郊外のラーメン屋を訪れ、取材を始める。
この店のマスターが店を手伝う息子に虐待を加えていると確信したヨリが、父のいない時間を狙って取材を続ける中、あるやり取りがきっかけで、何とヨリは男に結婚を申し出るのである。もう一つの謎があるとすれば、このヨリの決断、又は彼女の人格についてだろう。
私はヨリがある種の発達障害を想定して描かれていると感じたが、この「取材対象と住む方が早い」「早く本を出したい」と利己的な言葉を平然と相手に投げるヨリと、男との内的なコミュニケーション、そして男の内部で起きていた感情、考えに暗い影が落ちている、そんな風景を見るのである。
ヨリが取材対象に投げる質問、求める答えが返ってこない苛立ちを相手にぶつける取材のやり方・・彼女が尊敬する先輩記者(若いころカンボジアに滞在してルポを書き話題になった)を形だけ模倣する姿が、その先輩記者が彼女と同じくラーメン屋を訪れた時の取材姿勢と比べ、いかに稚拙だったかが痛恨に浮き彫りとなる。
そんな「痛い」彼女は(文章はうまいがルポとなると)ある種の人間性、普通の感情や感覚をもっているかが問われるのだが、彼女は到底その「普通」に辿り着く気配がない。。と見える。だが、終盤で現れる夫との会話の場面では、彼女が自分なりに壁にぶつかり、その結果考えた結論を夫に告げ、「ゆっくりやってこうと思うてる」、と言う。男の方は「折り入っての話」と聞いて自分が離婚を言い渡されるのでは、と恐れたがそうではなかったと安堵する。これが式も挙げずに行った結婚一周年の会話で、その1か月後に彼女は死ぬ。
ところで最後の夜のレシピが、実は「チラシずしでした。3月3日だったんで」と、男は先輩記者に告げる。作劇上は、先輩記者が男に対して抱いている何等かの疑いを晴らす意味を持ったが、芝居も大詰めの場面で、ブログを読む時に登場する「声」だけのヨリは3月3日、ラーメンを食べた。やっと彼が作ってくれた・・と綴られた文を読む。やはり、最後に食べたのはラーメンだった・・というのが殺人への疑惑を抱いていた観客にとってはその仄めかしになるのである。
それでも男は、この「何を考えとんのか父親の俺にもさっぱり分からん」と父(役の緒方晋)に言わしめる男が、彼女との生活を「よき日々」として思い出すように、独白する。「初めてブログを見たら、びっくりした。あったんや、と思った。」「何が?」 「確かにここには生活があったんやて。毎日365日、食べて、食べて、暮らしてたんや・・(みたいな台詞)」。
彼女は人を「利用」し、それを指摘されれば不機嫌になり、単純な技術的なアドバイスさえも、他人の忠告は聞かない、そういう人物である。だがそれでも「精一杯生きてる」と、見る眼差しを、彼女が死んだ今、男はもっている。だが「現在形」であった当時、男は別の感情にも支配されなかっただろうか。。
人にはさまざまな側面があり、様々に欠陥を持つ。だが人は人を欲し、利己的な理由であれ必要とし、否応でも繋がらざるを得ない。ヨリは元より限界を抱え、男はそのヨリに対する自分のあり方に限界を覚えた。そして今男は死せる「彼だけの彼女」と繋がり、50年後には誰も思い出さなくなる対象へ、特別な思いを寄せる一人である。その確信を彼は語っているようにも見える。ヨリ以上に男の人格もブラックボックス。いろんな想像を掻き立てる。
もう一つには、台詞では一言も触れられないお金の事。ブログの中身がますます貧相になる、とのブログ評価はあるが。男を自分が食わせて行くと約束し、周囲にも宣言した彼女の食生活は収入のために細り、その結果ワクチン治験にまで手を出す事になった・・。この事に考えが及びそうにもなるが、彼女の突拍子の無い言動は、この感傷を吹き飛ばす。
シャンドレ
小松台東
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/11/04 (水) ~ 2020/11/15 (日)公演終了
満足度★★★★
小松台東らしい痛い人間模様を摘出する解剖劇が、こまばアゴラという劇場で理想的に実現していた。今の時世、巷の泥臭い人間関係や醜悪さを見るよりキレイなものを見たい・笑いたいと、乾いた喉が水を欲するように「疲れ」に侵されている。ゆえに小松台東の芝居を観るという時間が実は不安でもあったが、杞憂であった。宮崎弁をフィルターに、笑いをまぶして酷薄な場面と台詞を浴びる時間は心地よかった。またアゴラ劇場という小サイズで色気の無い劇場は小松台東に「合う」のかも一抹の懸念があったがこれも杞憂、大胆な抽象美術が美的に、ドラマの色調的に、また機能的にも良い仕事をしていた。登場人物4名、芝居はほぼ2名時たま3名の場面で構成、どちらかと言えばじっくり進む会話の言葉一つ重ねるごとに独特な人間味が滲み出るのが、醍醐味。
農園ぱらだいす
劇団匂組
駅前劇場(東京都)
2020/10/14 (水) ~ 2020/10/18 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年知ったばかりの匂組の2作目は、配信で見た。
前作は大逆事件で処刑される事となる女性を扱ったドラマであったが、今回は現代劇。女性目線のより濃い出戻り女性の集うある関東圏の農村でのお話。「アマゾネス」と自らを喩える台詞があり、傷を持つ者同士の健気な連帯の世界観もみえるが、その彼女らも若いイケメンの芸大建築学者が「都市近郊家屋の研究」と称して物件巡りに訪れるや一様に目の色を変えるという(女性目線的には)「自虐」表現もあり。
台詞が危うく感じたのは台本の上りが遅かったのか、千秋楽に映像配信で固くなったか。確かに説明的なくだりの多い台本ではあったが、瑕疵を拭って余る清々しい劇であった。
人類史
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2020/10/23 (金) ~ 2020/11/03 (火)公演終了
満足度★★★★
KAATホールで観る3度目の芝居。SPAC「マハーバーラタ」、地点「光のない。」(いずれも2014年秋)の変則、異形のステージに比してオーソドックスな形で、しかも前方席のためホールの奥行を感じる事なく「大スタジオより少し広い」空間で芝居が進む感じ。ただしホールの規模を感じさせるのが、バトンに吊られた(美術:堀尾幸男による)巨大なオブジェが浮かぶ時。
広い紗幕に人類史の年代が映され、風変りな芝居は始まる。人類の歴史を谷賢一はこう捉えたのか、と思う。そこに「必然」があったが「未来」はどうか。希望はあるのか。そもそも希望とは何に対するそれであるのか・・。扱うテーマは壮大だが舞台は当然ながら「抄訳人類史」である。不思議な感覚を伴う舞台であったが咀嚼しきれていない。後半は人類のある分岐点がピックアップされその時代のドラマが展開する。舞台作りの端々に試みの跡があり、私としては「人類史」の本質に迫る試みとするならば再演を重ねバージョンを変えて行く事により命を得ていくのではないか、と感じる。
(詳細後日)
尺には尺を
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/10/27 (火) ~ 2020/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★
シャークスピアの初見の演目。こんな話があったのかと新鮮に楽しんだ。ある王国(中世なので州とか藩のイメージ)の領主、ヴィンセンシオ公爵がある画策をする。これが話の始まり。公爵は信頼する臣下エスカラス(配役表には老貴族とある)に曰く、自分は長旅に出るので領主代理としてアンジェロを任ずる、そなたにはその補佐を務めてほしい。その真意をチラと覗かせるには、わが国には冷厳な法が存在するが今やその法は眠ったも同然、私が罪を厳しく裁くことを怠ってきたためだ、と。これは観客向けの台詞で、アンジェロに何か課題を与えたわけではない。宮仕えの堅物アンジェロの資質を見込んで、公爵は人選をしたようである。公爵は神父に変装をして領土内をお忍びで視察することに。
ある案件が持ち上がり、アンジェロは裁きを加える。即ちある若いカップルが婚前交渉をし子を孕ませた。二人は愛し合っており、いずれは許しを乞うて結婚の約束。だが法を破ったとして男が処刑されることとなる。公爵時代は法は文言通りには執行されずいわば大岡裁判的にやっていた模様だが、アンジェロは成文法を根拠に領土に君臨するしか方法を知らない。さて処刑される事となった青年クローディオには今しも修道女となろうとする妹イザベラがおり、そこへクローディオの友ルーシオが話を伝え、高潔なあなたが説得すれば領主代理も心を動かすだろうとプッシュする。イザベラは交渉に臨むがアンジェロはイザベラに心動かされ、自分と肉体的に結ばれるなら、あなたの兄の肉の罪も赦免されよう、と交換条件を持ち出す。
これ以後、公爵扮する神父は、アンジェロの元恋人で相手の財産が亡くなった事で婚約を反故にした相手、マリアナが今もアンジェロを思い続けている事から一計を案じ、イザベラ、刑務所長に事を言い含めて、暗闇の中でアンジェロとマリアナを結ばせる。アンジェロは交渉成立しイザベラを物にしたと信じているが、クローディオを釈放した後恨みを買う事を恐れて早朝に処刑してしまう。とは表向きの事、刑務所でのやり取りで重罪人の一人が病死し、しかもクローディオに似ていた事で斬首刑をしたと見せかけた。だが領主代理アンジェラは、約束を反故にした事が却って不安の種となり、後悔に苦悶する。そこへ公爵の帰国が伝えられる。そして、裁判。イザベラが兄を処刑された事の不当を訴え出たのである。この裁判では公爵の立ち回りが見せ場を作り、自分が神父を演じていた事も最後には明かして収まるべき所に収まる。
さて収まっていないのがイザベラと公爵、修道院に入りそこね独身女性として残ったイザベラ、そしてこちらも実は独り身であった公爵。
公爵は女性が演じ、女郎屋の召使、修道士も女性、女郎屋の女将が男性。ことに公爵は恰幅の良い?女優が頑張っていたが、大岡裁きの後、最後にイザベラへの求婚と読める台詞を最後に残して去るのだが、「大団円」は難しかったからか、演出はイザベラの思いの表出を封じ、フリーズした後ろ姿をスポット照明の中に一人残して暗転。観客に想像させる処理をしていた。
明快なキャラを持つ人物らが事柄に触れて行動し、その行動が他者に作用して行動の動機を与えていく連鎖の道筋がシェイクスピアの喜劇(今回はさほど「喜劇」仕立てでなかったが)。明快なキャラを与えられたアンジェロは、今言う所の「法の奴隷」。法が何のために定められたか、どう適用するのが相応しいかを考えずただ文言に従うことが自分の拠り所である(他に拠り所がない)人物が、奇しくも登場。だが彼にも法で割り切れない人間性がある事が露呈し(イザベラへの欲望)、それを梃に彼は自分の行き方を変える事を余儀なくされる。
音楽には現代のリズミカルな音楽が使われて違和感なく、美術は宮廷の屋内の柱(稼働式)が並びを変える場面転換で見た目も美しく、劇世界を支えていた。
掘って100年
さんらん
北千住BUoY(東京都)
2020/10/28 (水) ~ 2020/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
過去の自作上演と今回の題名から「軽めのちょっと気の利いたやつ」を予想していたがガッツリ2時間半弱の本格芝居。それは冒頭で物語導入の一文を喋る女優の「さあ今始まります!」の声に表れる(新宿梁山泊の開演宣言のテンションと言えば分かりやすいか)。
「楽屋」フェス参加に始まった(と記憶する)さんらんは主催が好むらしい安部公房作品を中心に、時に自作を上演、だがこのところ自作が続き、今回のパンフにも自分の書いたものを上演していくのが良いという気がしている、と述べており、全く賛同(全部見れてないので無責任な事は言えないが)。今回の作品で<さんらん>が地歩を築いたとは正直な感想だ。
ストーリーに踏み込むと大変なので割愛するが、俳優の適材適所、次第に見えてくる人物像、思い出すと愛おしい人物たちが今も瞼に・・。適材適所と言えばVUoYの地下空間が「掘る」テーマにふさわしい。この質感に、演出はさらに舞踊を当てて、芝居のスケールを広げた。冒頭と終盤に同じ群舞があり、途中にソロがある。謎かけのような冒頭の群舞(掘る動作の変奏に見える)が、後に踊られた時、涙が出た。夢破れても人は生きる。筋肉を使い、動き、日々の営みをするために・・。「夢」は破れたか否か、僅かな光を残して芝居が終わるのはご愛敬。人物達それぞれの人生の物語がこれほど雑味なく我が身に浸みてくるとは・・「うまい」の一言。
野外劇 NIPPON・CHA!CHA!CHA!
東京芸術祭
池袋西口公園野外劇場 グローバルリング シアター(東京都)
2020/10/18 (日) ~ 2020/10/25 (日)公演終了
満足度★★★★
池袋西口公園にて野外劇鑑賞。前やった「三文オペラ」の時より寒くなく、雨もちょうど降らない日にあたり条件よし。
如月小春作品を観たことが一度も無かった、と思う。そういえばラジオドラマ風なのを30年以上前、坂本龍一が共作者であった事から耳にしたことがあったが、「新しいもの」が次々と生まれつつある「現代」(80年代)から想像された近未来の一風景を描出していた。そこから「時代を先駆的に読みこみ提示する作家」というイメージだけあった。何しろ演劇界の著名人でもその実態がよく分からないのは、同時代的な影響力を持つ演劇人だったからで、時代を遡る作業をしなければ掴むことができないのだろう、と放置していた対象。
劇は大変面白かった。生楽器演奏の音楽もなかなか活気を与え、ジャジーなのがバックで流れる等は乙であった。
物語は零細靴屋の苦境を脱するアイデア、陸上選手にうちの靴を履いてもらい、活躍してもらう。そして事情あって身一つで上京し靴屋を訪れた青年を、最初邪険にしていたのを「町内マラソン大会優勝」の経歴を聞くや目の色変わり、雇い入れる。コーチを雇い、新聞記事を書いてもらい、当人は大会のたびに実力を上げ、「五輪」という文字が見えてくる。だがこの美談のような人情噺のような逸話には、オリンピックやスポーツの祝祭性を付加価値とした「金」が動いており、加えて二人の男(元自衛隊員と新聞記者)に慕われる靴屋の娘が、それと知って彼らの協力を取り付ける部分ではえげつなく(演出)「女」を利用する。ちなみに男二人の一方が元自衛隊員の右翼、他方がジャーナリスト魂を燃やす新聞記者(左翼)で犬猿の仲。自衛隊員は陸上に強いのでコーチに、記者は選手の活躍を記事にしてもらうため協力を乞われた次第。だが田舎出の謙虚にただ走る青年の成長に記者は入れ込むようになり、コーチは自らの使命を厳粛なもの(民族を背負う者を育てるという)と感じ始める。足を負傷した事を隠していた青年に気づいて病院に行かせようとするが青年の激しい拒絶に合い、次のオリンピック選考を兼ねた大会で「走りきる」意志を伝えられるのもコーチである(青年は自分の選手生命が「病院」に行く事で閉ざされると直感したらしいと、台詞はないが観客に伝わり、この展開が必然と感じさせるようになっている)。
父母を亡くした姉弟、肉親の情と連帯、存亡をかけた靴屋の奮闘、従業員なりの悲喜こもごも、生き抜くための策術、何よりも強い恋(肉欲)の衝動、使命感と生きがい・・そうした「物語性」はカリカチュアされた演技と演出で(回想的に描かれている事もあり)描かれて行くが、70年代以降、とくにバブル時代には、高度成長期に存在した暑い(暑苦しい?)「物語」を醒めた目で突き放す眼差しが支配的であった事をよぎらせながら、劇を見守る。・・が、作者はこれを批評的に提示しようとしたのか共感的に見ているのかは、分からず。
ただ、本作品は如月戯曲を翻案した上演。劇の冒頭には女教師と女生徒が如月小春の戯曲をこれから演じる、という宣言に当たる会話があり、意味深である。作品を2020年の五輪に当て、祝祭の背後にあるドラマとして改めて提示する上演になったわけだが、夢落ち的なラスト(これは原作か脚色か不明)は、評価を観客に委ねるのに使われる手法。私としては、2020年の五輪に重ねるならもっと当てつけが明確にあって良かった(原作翻案の限界だったのかもしれぬが)。
終幕「もう一つ」と感じた要因は、終始活躍の音楽が、フィナーレで軽快な音楽を持ってきたこと。もっと情感のあるものが相応しかったと思う。劇中で十分相対化された「物語性」をさらに突き放す必要はなかった、という理由で。
音楽劇『山彦ものがたり』
劇団朋友
俳優座劇場(東京都)
2020/10/23 (金) ~ 2020/10/25 (日)公演終了
満足度★★★★
久々の朋友観劇は「ら・ら・ら」以来、二度目か。劇団を知ったのは古いが(観たかった公演も多々あったが)見れてない。今回はよきタイミングで観劇の運びに。
「トライアル公演」とは対コロナの意か、音楽劇の部分か(両方かも)。劇の方は日本昔ばなしをこれでもかとぶちこんだ音楽劇で、小品と予想したのが外れた。うさぎと亀の話に始まるがその亀が浦島太郎の亀として登場し、いやいやながら竜宮城に付き合った後、うさぎへの義理を果たそうと駆けっこに戻るといった、時間経過無視のごった煮風。うさぎも駆けっこの途中で狸に会い、かちかち山のいたずら兎を演じる。その他、花咲か爺、蟹むかし、天女の羽衣、旅人馬、桃太郎など。それぞれに脚色が加えられている。桃太郎は平和な国であった鬼ヶ島を侵略し、「私たちはあなた様にどんな無礼を働いたのか」と問われるというよく知られた芥川龍之介翻案の善悪逆転版。
問題は、音楽が途切れなく鳴っている作り。音楽は上田亨。冒頭とラストは「子供の心でなければ分からない」という歌詞が結語になるソロと合唱の合わさった曲で、これを聴くだけで壮大な物語を味わった気分でじんと来てしまうのだが、その後もそれなりに力の入った歌が話ごとに歌われる。話は単なるパロディ、音楽によって格好がついている、というのか、馴染みのある話の意表を突く翻案は面白いのだが、共通のメッセージで通底している訳でなく、そう分かってしまうと「意表を突く」パターン自体に変化を加える(繋がっていないと思っていたものが繋がった、とか。いやそれは昔話では無理)等がなければ観劇への集中は当然途切れる。最後は何やら教訓めいたものを掲げて昔話部分を閉じていたが、もう忘れたが賛同しかねるメッセージ。無理やりの感ありであった。ただラストソング(冒頭と同じ)はやはり素晴らしく、なぜこの感動を薄めてしまう「音楽鳴りっぱなし」の劇にしてしまったのか、と残念さは残った。
話を一つ削るだけで随分締まったと思う。が、それで締まらないから話が増えてしまったのだろう。
俳優は皆それなりに歌える役者で、特にアンサンブル部分での繊細な表現は(新劇系の劇団なのに?)なかなかのもの。
さすらいのジェニー
劇団唐組
下北沢・下北線路街 空き地(東京都)
2020/10/17 (土) ~ 2020/10/22 (木)公演終了
満足度★★★★
稲荷卓央+藤井由紀+福本雄樹、大鶴美仁音、全原徳和、久保井研。主要役以外も皆振り切った演技。ポール・ギャリコの同名小説があったな、と劇中の「本」を巡るくだりで思い出したようなあんばい。それにしても奇妙な人物共(あるいは猫)が作り出すシュールな場面のシュールさは筆舌に何とかで。狂気とも言おうか。
風が運び頬をかすめた言葉に人の姿を与え、そうして生まれた幻と戯れる女、彼女を慕い見つめる男・・藤井由紀演じるジェニーを挟んで接点を持つ稲荷(科学者チクロ)と福本(ピタ郎=ピーター)は交わらない。果たしてどちらが彼女と「現実」で交わっているのか・・(常識的には稲荷が現実なのだが)、というようなふわっとした感覚が全編途切れなく覆っているのが今作の特徴だろうか。
脇役の筆頭は、幻想の世界を確定する久保井演じる「人工舌を持つ男」(ベロンと垂らしては自分で巻き取る、を何度もやる)ベロ丸、全原演じる「意味のない事しかしない男」(だったか..?)金四郎、「現実」を仄めかす存在として大鶴演じる女、食品監視員3人組。心地よい物語空間が、端っこに空がのぞくテントの中でガチャガチャと繰り広げられる玩具箱のような観劇がまた体験できて嬉しい。
痴人の愛 ~IDIOTS~
metro
ザ・スズナリ(東京都)
2020/10/22 (木) ~ 2020/10/27 (火)公演終了
満足度★★★★
黒テントファンとしては片岡哲也氏の回を選んで悔いは無いが、この様式では若松力氏の風情が見やすかったかも知れない、とは思いつつ、時間遡及のプロットで書かれた作劇を興味深く鑑賞した。
(片岡氏はリアルをベースに軽妙誇張のニュアンスを表現できる役者で、安定感があるが形を決める月船との微妙な質の違いが出たように思う。若松氏はリアルを削いでもニュアンスに統一性を持たせるので(前回の「少女仮面」での噛みのように)崩れると弱いが貫徹すれば相性は良さそうだ。)
同演目はmetroで10年前大物俳優と上演済みで、今回と演出は違うのかは不明。が、恐らく原作からの翻案は同じだろうと思う(この原作は様々に解釈したくなる古典と異なり上演の動機は自身のこだわりの読み込みがあると想像される)。原作は高校時代に読んだ記憶しかないが、男が如何に女性に弱いか、特に老いに片足突っ込んだ男が若い女性に対し宿命的に隷属する「定型」を叩きこまれた。男の本質の中に、奴隷にされてもその女性に繋がりたいという願望がある、という・・。これを年端も行かぬ青年が読んでしまって良かったのか?一抹の疑問があるが、ともかくそれはそれは付くも地獄離れるも地獄のマゾヒスティックな生の、これ以上ないサンプルであった。が、今回の舞台では冒頭その様相が描かれるものの、男の精神の荒廃を表す床に散らばった衣裳が少しずつ片付くにつれ過去の場面に遡る。その時々の関係性が、特に説明の無いのに会話や風情で示されるのが趣深く、「幸せだった過去」を眺めるように(バイアスのかかった?)二人の風景が再現されていくが、芝居が幕を閉じるのは過去の場面で、つまり「より苦しくない時期」で、である。現在の地獄は相対化され、「あるいは二人は・・」と、パペットによる老いた二人の寄り添う姿が半ばハッピーエンド風を演出する。ほろ苦さは残っても「甘い」気分で終幕を迎える事になった。
「過去を見るように現在を見る」という読み方は、鬱屈が常態となった日本では、現在を生き抜く術である事を示唆するものか。
私はだれでしょう
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2020/10/09 (金) ~ 2020/10/22 (木)公演終了
割引チケットで観劇。だが私事で終盤のクライマックス前(残り30分程)に退席。それでも「いい芝居を観た」という思いで・・ある意味満足感に浸って会場を後にした。であるので「最後まで観てない」事実も既に忘却、書き始めて思い出した。ネットで拾えるレビューを見ると終幕までにもう一捻りありそうだが(井上ひさしは大衆演劇も書ける文人に違いないが「よっ待ってました」的歓呼を取りに行かない印象)。
作曲宇野誠一郎(故人)、音楽監督後藤浩明とある。風琴工房末期の名作ミュージカル(小劇場版)の音楽が後藤氏で物語の流れに添って琴線に訴える曲を作る。今作では元歌が別にある歌が多く(台本に指定か不明)、宇野氏の編曲と思われるがアレンジとブリッジは現代的で、音楽に乗って物語を旅する芝居である。(聴けなかった終局で河北京子が唱う歌の原曲が「私はだれのものなの(日本語訳)」と言うマレーネ・デートリヒが歌ったらしいのだが見つからず。。)
相変わらず観劇後チェックする役者の方は、新国立研修所修了公演で、主役の下女をコミカルに演じた八幡みゆきが「歌える女優」であると発見し、今後楽しみ。「日の浦姫物語」でも主役同士で競演した浅海ひかると平埜生成が全く違う印象で輪郭くっきりな演技が心地よい。枝元萌をこまつ座で見るのも面白かった。
...「全部見てない」のでまァほぼ参考にならぬレビューだが。
氷の下
うずめ劇場
仙川フィックスホール(東京都)
2020/10/14 (水) ~ 2020/10/15 (木)公演終了
満足度★★★★
変則ロングラン公演「フェードル」の終盤を昨年2月に観て以来、久々に・・と言っても昨年はうずめ俳優自体久々のお目見えで、だから意外に早く・・対面した感覚だ。
またまた一癖ある変った「エンゲキ」を出没させてくれましたペーターゲスナーさんも懲りないですね、との感想。戯曲の狙いと、演出・演技のタイプが合ってたか、は考える所だが、20年来変わらぬうずめ俳優(男女四人)の3名(1役はWキャスト)がガッツリ登場し喋りまくる劇、という意味では「堪能」した。
以下思い出話。世の中にまだ劇団を二つ三つしか知らない頃、縁を感じて一度観たかったうずめ劇団をやっと観たのが「ねずみ狩り」at シアターX。戦後の熱い季節にドイツで上演された野外劇との事で、男女が最後には全裸で踊る姿(しかも照明をガンガンに当て)からの急転回は衝撃であったが、終始演じる若い男女カップルの内、男優が荒牧大道と藤沢友のダブルキャスト、「劇団を知りたい」と欲していた私はどの回を観ようかと随分迷い(芝居は席が埋まれば売止めになる事も思い及ばず)、どうにか入手して荒牧大道氏の回を観た。以来、藤沢氏の立ち姿は見られず、今回は運よく日があって観た。キレる頭脳を見るような秀逸な演技が見れた(あ~。ら抜き使っちまった)。
舞台はシンポジウムのようなテーブル配置に3名が着席したり立ったり中座したり、プレゼンの場のようでも自社の会議室のようでもある。各人が自説を展開したり自身を吐露したり、長いモノローグを吐く。社内らしき場で三人が言葉を飛ばし交わす場面はあるが、それもやがて混沌の沼に。。強烈に何かを皮肉っているようであり、切実に訴えているようでもあるが、翻訳時に設定を日本に置き換えた際、発話者の文化的帰属先がぼやけた感は否めない。その部分が勿体なく、秀逸な場面もピースの繋ぎ目が粗くごつごつした岩のようであった。戯曲の持つ批評性、日常の欺瞞を揺さぶる破壊力を受け止めたかったが。。
君の庭
地点
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2020/10/01 (木) ~ 2020/10/11 (日)公演終了
満足度★★★★
KAAT公演「悪霊」が地点との遭遇であったが相変わらず面白い。各種取り揃えた古典を弄ぶ演出手法には好き嫌いもありそうであったが、このかんの「垢の付かない」新作(しかも日本語)3作目になる今作も新鮮味を失わない。理由は新鋭松原俊太郎の言葉の鋭さであるのは間違いないが、イェリネクに似た殴り書きのような独白のテキストと地点との相性も大きい。
天皇家が本人として登場する舞台に、一瞬「テーマは天皇制」?と構えたが、時計回りに回転する雛壇に座る天皇(皇帝?)以下の皇族四人(チラシ・パンフにキャスト5人とあるが当日の変更だろうか、説明なし。・・もっとも誰が台詞を吐こうがさして変わりなし)の、形が滑稽を醸すので、この「日本国の象徴」をどう弄りつつ国民を風刺するのかに速攻興味が移る。
断片的(チラ見せ的)で仄めかし臭を放つ言葉の波を心地よく味わった。
・・が、着地点を見定めるあたり=終盤に睡魔が襲い、芝居の結論を受け止める材料を逃してしまった。それでも言語化困難だが笑えるニュアンスの数々を浴びた感はあってそれで十分な気分になっている。
馬留徳三郎の一日
青年団
座・高円寺1(東京都)
2020/10/07 (水) ~ 2020/10/11 (日)公演終了
満足度★★★★★
これは秀逸、作家は青年団所属だが作品に触れるのは初めてだっただろうか。老人物に「在り処」というこれも中々秀逸な短編があるが、長野の過疎集落の一軒家を舞台に書かれた本作は、やがて見えてくる作家の着想に意表を突かれ、前のめりにさせられる。狙って書けるものだろうか・・神が味方したのではないか・・などと戯曲の出来に注意が向くが、ある部分でリアルを外した奇天烈な「演技」も効奏していそうな。
主客の逆転、小気味良く予測を外す展開、そしてじんわり滲み通る情感も悪くなく、もう一度観たくなる(観られないが)。
マッチ売りの少女
青年団若手自主企画vol.84 櫻内企画
アトリエ春風舎(東京都)
2020/09/26 (土) ~ 2020/10/04 (日)公演終了
満足度★★★★
3人で演じる別役実作「マッチ売り」、弟役が透明で声は録音か(台詞を別に処理していたか忘れた)。ほぼ戯曲の通りであったと思う。老夫婦の元を訪れる「女」は壁際に離れ、お茶をよばれる。立ち位置は実際の距離を表わさず、弟の存在は「実はいないのかも知れない」(共同幻想?)想定も可能であり、さらに外に寝かせてある二人の赤子の事も妄想か、と自由解釈できる作り。そうした処理は土台を失い抽象画の域に行きかねない所、実体を与えているのが俳優の声・佇まいで、この上演でも本戯曲は成立していた。
夫婦が茶を飲む折り畳み式テーブル(ハイキングとかで使いそうな)は最後は折りたたまれて「妻」役の男優が持ち去るが、そのタイミングは夫が「女」の過去の商売の客であった疑惑が語られるあたりなので、それへのリアクションと見えなくなく、夫はその場に残されるので、あるニュアンスが見えたり、戯曲解釈を遊んだ形跡があった。別役氏が紡ぐ「小市民」の老夫婦の言葉遣いも不意の来客(女)への対し方も、改めて味わい深く噛みしめた。
親の顔が見たい
Art-Loving
APOCシアター(東京都)
2020/09/16 (水) ~ 2020/09/22 (火)公演終了
満足度★★★★
日が経ってしまったが...。Art-Loving2度目の「親の顔」、こだわりの演目らしく、1度目とは上演条件、配役、劇場空間が違ってもこの戯曲を味わい楽しむ様が伝わって来た。俳優陣は実力派のようであるがステージ前面に透明幕を張り、演技エリアをかなり狭くとった事などにより、学校控室という空間でのリアル感と、声の届き具合に難点(あの幕を張るなら客席はもっと前にせり出して良いと思った)。厳しかったのは終幕近くで妻が夫に対する不満(親子関係の築き方)を堰を切ったように吐き出す場面、台詞が言葉として聞き取れず、同時進行では置いてけぼりでポカンとなった(後で確かあの場面の台詞は・・と思い出して補完し連続性を持たせたが時間差有り)。妻の「感情」は非常に重要だが、彼女が紡いで投げかけた「言葉」はそれ以上に重要だと思う。
さて私の注目点は一つ。即ち、上記の夫婦が閉じ括るラストの収め方。「言葉」が重要と書いたが、それは彼女の考え方、スタンスが奈辺にあるかが重要だという事でもある。
ミステリーの構造を持つ本作は、女子高生徒を自殺に追いやったらしい5人グループの親が集まった学校の控室で、「遺書」が何度も登場、そして出席者の中から「実は娘から・・」聞いて知っていたという事実も二度、後出しで出てくる。
大詰めで、リーダー格と言えそうな生徒の親である夫婦同士の言い争いの中で、妻は最後に「証拠になる携帯のデータを消去するように指示メールを娘に打たせた」と告白する。ここから暫くあって(その間夫はガックリ肩を落としている)ラスト、妻が夫に声をかけ、幾許かのやり取りがある。この「終わり方」は様々あって良いし(彼らをどんな人物として描こうとするかで)違って来るだろうが、私はこうありたいと願う形がある。まあそれだけの話で、そこが違っても芝居本体の面白さが減じる訳ではないが。。
(以降はネタバレにて、近々に改めて。)