韓国現代戯曲ドラマリーディングX
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2021/01/27 (水) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
「椅子は悪くない」(2002年/ソン・ウッキョン作/上野紀子訳/鄭義信演出)、「加害者研究 -付録:謝罪文作成ガイド」(2017年/ク・ジャヘ作/洪明花訳/西尾香織演出)の2演目を鑑賞。
「椅子」は早々と売切れだったが鄭演出だからだろうか。雑貨屋に置かれた木製の椅子を一目見て釘づけになった男の話で、売り物ではなかったこの椅子を手に入れようとする男と、雑貨屋の店主、売りたがらない店主の息子(椅子を作った)、男の財布を握る妻が登場人物。実は舞台は稽古場でこの芝居のオチを探してスクラップ&ビルトを繰り返すというのが劇の概要で、最後に相応しいラストを見出す。物の価値とは何か、についての考察が意外に深い。演出、役者もこなれてうまくまとまっていた。
「加害者・・」は戯曲を見ても中々に難解で(ヴィトゲンシュタインの哲学書のような?)、演出を西尾女史に依頼したのが分かる。加害性についての考察ながら過激な内容を含み現代的。だが、時系列で書かれない散文なテキストの「割り振り」に苦慮した模様。
その後アフタートーク、シンポジウムと進み、シンポジウムは日韓演劇交流を俯瞰しつつ両国の現状報告が興味深かった。
最も見たかった「激情万里」(1991年/キム・ミョンゴン作/石川樹里訳/南慎介演出)を逃したのは残念。1990年前後の韓国映画は金明坤と安聖基(アンソンギ)が両頭という感じで、「西便制」等忘れようもないが(氏が脚本も担当していた)、この頃から既に舞台の戯曲を幾つも書いて上演していた等全く知らなかった。
この事業は当初の約束通り日韓交互開催(日本作品→韓国/韓国作品→日本)10回で20年、来年の韓国開催で1クールを終えるとの事だが、今後も何らかの形で継続される事を願う。シンポジウムが興味深かったのでまた後日報告したい。
墓場なき死者
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2021/01/31 (日) ~ 2021/02/11 (木)公演終了
満足度★★★★★
珍しいサルトルのしかもあまり知られていない(自分も不知であった)戯曲と、俳優陣につられて観劇。今の日本のある種の暗闇に光を注ぐ作品をよく見つけた。ピッタリだ、と思った。
物理的な困難にとどまらず不穏な音を響かせてるコロナの浸食と政府の愚策・無策は、社会と人とを無音で傷つけてくる。為政者自身が傷を負う事から逃れ、民同士を傷つけ合わせている。
暗鬱な状況を明るいフィクションで慰撫する事も演劇には出来るだろう。が、人間の精神が蝕まれていくこの言いようのない暗鬱には、闇をさらに深掘りする事でしか慰されない部分があるとも感じる。
もっとも、読み取りに不備があった。フランス人同士の攻防とは気づかず、僻地で忠誠心の薄れた敗北目前のドイツ兵と見ていた(無言の見張り兵がレジスタンスの「説得の時間」部屋に残ったのも、仏語が解らないからかと..)。後に合点の行った箇所が多々あるが、仏人民兵とレジスタンスつまり同国人の闘争だと早く察知していたら、芝居の緊迫感は別物に感じたかも・・(哲学的問いの試験場として観た可能性も)とも想像する。
だがどちらにせよ人間が一秒一秒と刻む時間に随伴して離れることのない行動とその根拠を与えるための思考が、本質的には血を流す闘いそのものに等しいことをこの戯曲の台詞は思わせる。自己省察と自他の心理への鋭利な斬り込みが、人間の思想と行動ひいては存在の空疎さに肉薄して痛ましいが、何故かそこに自分は救いを見る。全てを失ったと気付いた瞬間にしか訪れない、ある何か(希望?)が、人間に残された真の救い・・といったような。。
ザ・空気 ver. 3
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
「ザ・空気」第一弾の風景が戻った。放送局内のある会議室、ロビー等に使い回される空間はアルミと白いボードの清潔感ある建築部材で簡素に設えられ、絵のキャンバスのように舞台上の芝居をクリアに縁どって見せる。その中で実力ある役者がドラマ世界を立ち上げる。
喜劇の語りで進む芝居。報道現場の通念を一応尊重しつつ軽くいなしつつの日常を象っていくタッチが喜劇調なだけに飲み込みやすく、言うまでもない永井氏の喜劇の作劇の巧さで事態の推移がはっきり見える。そして事態は討論番組出演者の発熱によるコロナ疑惑をもとに「降板かリモート参加か」の条件争い、そこからさらに進んで放送コードへの接近と目が離せない。面白いことこの上ないが、それ以上に「よう言うてくれたわい」と心で手を合わせる台詞。
思えば彼らは皆自分を代弁する者。英雄気取りをしたがり、保身に走りたがり、能天気にふるまって失敗し後始末も愚か、無能の自分に嫌気がさし、出世のチャンスには心踊るが心暗くもなり、魂を売った記憶は埋もれて「蓋をする」技だけは上達するが「本当」らしく生きてるつもりの日常は根から蝕まれている・・。
だが人は敗北するが終わりではないと、第一作でも(別の言葉で)語られたメッセージが残った。人間的に考え抜かなければ書けない戯曲である。
眠れない夜なんてない
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2021/01/15 (金) ~ 2021/02/01 (月)公演終了
満足度★★★★
たまたま時を昭和天皇崩御後に設定し直して改稿中、コロナとなり「自粛」というキーワードが重なったとの事。だが当初の設定のまま「これはあの頃書かれた戯曲」として上演するのも有りだった気がする。時代設定変更が徹底できてないのか、どことは指定できないがどこか部分的にそぐわなさがあった。(そのため時代設定そのものの意味があまり感じられない。)
1989年が日本での(まあ海外でもだが)エポックメイキングな年だったとしても、風景がピタッと来ないのは作家の「この時代を描きたい」という欲求・執念が足らないのでは、と思ったり。
本国を離れたマレーシアの日本人向け別荘では、天皇云々の話題がどの程度「身につまされる」ものだろうか。「本土事情などどこ吹く風」が標準である方が、戦後日本人的であるし、「どこ吹く風」であるならもっとそちらに振り切って帰属国への無責任ぶりを暴走させた方が日本人(論)的ではなかろうか・・と思う所も。。
先進国と発展途上国という当時の国同士の関係が「ソウル市民」に重なるようにも思うが、平田氏がありきたりを嫌うのか、成金根性を具現したような人物はいなかった。
だが代わりにナイーブでむしろ今の日本人の(慎ましさというより卑下した)物腰に傾いている感があったのは「今の日本人」が演じているからか、それとも私が今の気分を投影したものか。
そんな具合で、平田氏の宣言通り「伝えたいもの」は何も感じなかったが、「表現したいもの」は理解でき(人物の人物らしさ、滑稽さ、引いては人間の滑稽さ)、楽しめた。
アフタートークでは平田氏が質問に答えて「歌を入れるのは(それが無いと)終われないから」「そろそろかな、という感じで入れる」という身もふたもない回答。
へえ・・・「終われない」と感じる感覚はあるんだ、と言質を取った気分。
「劇的」なんぞ要らぬとうそぶく平田氏もまんざら冷酷な心の持ち主でもなく、実は最後くらいは幾許かでも「劇的」にしたいと願う好々爺であったのだなあ(はっきり皮肉を言ってるがまあご愛敬)。
いや、「歌で劇的を演出したい訳ではなく、台詞を止める機能を活用しているだけ」と天界にあると言う演劇法廷できっと平田氏は弁解してみせるだろうがもう逃さんぞ(まあご愛敬)。
少女都市からの呼び声
劇団唐組
駅前劇場(東京都)
2021/01/20 (水) ~ 2021/01/24 (日)公演終了
満足度★★★★
公演を知ったのは公演中日の事であったが、唐組初?の劇場公演(駅前)にして僅か5日間という「らしくない」公演はやはり見ておきたく、千秋楽当日キャンセル待ちで滑り込んだ。
「少女都市」は20年以上前の新宿梁山泊公演と、数年前唐ゼミ又は梁山泊で観ていたが、今回はコロナ対応で圧縮したのか「あれ?こんな短かったっけ?」休憩無し1時間半弱で終わった。
「普通に見れた」芝居であったが、恐らく多くの観客の期待する解放感(屋台崩しがその頂点)「町に接している」緊張感が無い中での上演という「チャレンジ」は、コロナ禍下のイレギュラーなのか今後への一歩なのか・・(当然私は前者であって欲しいが)。
評としては、劇場向け芝居の「細やかさ」が、野外の醍醐味(雑駁さ)を埋め合わせたかは微妙である(観劇料をやや安に設定した所に劇団の自意識がしのばれる)。が、劇団の健在を確認できたのは嬉しい。
他には、出演数も少なめ。コロス的俳優4,5名は見たところ新顔であった。
今回は特徴ある風貌の大鶴美仁音が主役を務めた。天然ぽさが武器だが細やかな陰影を持つ表現者への脱皮のこれが一歩となるだろうか。
風の祝祭
アートグループ青涯
アートスペース溝の口(神奈川県)
2020/12/12 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
満足度★★★★
(書き直した)
前回の青涯旗揚げ公演に書いた投稿をみると、探り探り予断を交えて文字数が膨らんでるが舞台の方は至ってシンプル、むしろ淡泊。今回についても同じ印象の範疇で、以下は「青涯」評改訂という趣。
能の動き、面の装着、独白・・前回と同じ美術・脇谷紘氏の世界観。劇はこの美術の世界観を軸に据え、どう肉付けし、構築するかであるな、と、自分の目は見ようとしている。
前回の評では「演劇=言葉」の領域に踏み込もうというベクトルが見えた、と書いたが、発声(とくに一方の出演者の声が終始そうなのだが)への印象だったらしい。
能の世界観への憧憬のようなものが自分にはあり、そこからはみ出すものを「挑戦」と理解したが、そのはみ出すもの=違和感の主は、やはり発声にあるように今回も感じた訳である。
ただし発する言葉は創作されたものであり、能のドラマ性とは質感も違う訳なのだけれど、あるいはそのテキストに対しても、その「声」はちょっと選択ミスではないかと感じたかも知れない。
能も面をつけて台詞を言うが、能の台詞の声は「歌」に等しく、ストレートプレイや詩劇の発語にあるリアルな感情表現はその声にはない。「演劇=言葉」に寄っている、という印象は、「面を付けているにも関わらず」の印象なのだが、もっと言うとリアルな俳優の身体を「演じられる者(役)」のために供する通常の演劇と、面を付ける、あるいは人形を使う劇との違いは、(そのものではないという意味で)フィクションを形作る演劇においては、後者がより「偽物」を表明している事で、逆説的に、観る者の油断を縫うようにして「役」の心という劇薬を観客に飲ませ得る形式となる、という点にあるように思う。つまり面を付けるという通過儀礼によって、そこには世界の見た目ではない本質を暴露する資格を得た者として立ち上がる。その者の発する「声」はリアルな人間の声ではなく異形(奇妙、不思議とでも)の声でなくてはならないのではないか、と考える。
(人形劇で言えば、手操りのひとみ座はアニメ声が活用され、アニメ的世界=フィクション=現実ではあり得ない世界が立ち上がる。そこで「人間のドラマ」が展開する。)
SPAC(元クナウカ)の演者・話者分離の手法は、表現の原点、本質と思える所があり、伝統回帰というより、伝統芸能の中にたまたまそれがあった。「憑依」の表現形態は、話者が演者を操るという関係性において雄弁さを持つ。
能書きが長くなったが、いずれにしても阿彌の上演をちゃんと見ていない自分には、青涯の二人が阿彌を「継承」しようというのか、「新たな展開」を試みようとするものか、判別できないのはもどかしい。
能は死者を弔う劇なので「現在」という時間はほぼ止まっている。その時間が「現在」において進み始めることなく時間的「静」の世界を維持する。だがある種の「声」はそこから時間が動き出そうとする気配を作る。いわば肉感的になってしまう。
要は語られるテキストが、強い発声を演者に要求し、劇的時間を舞台上に作ろうとさせるのだろう。テキストの全てを覚えていないが、時間経過とともに物語が進む要素と、世界を俯瞰して描写する要素とが混在したもののようであった。
空間的「静」の観点では、「声を張って聴かせる」瞬間は全パフォーマンス中の数パーセントで良いと個人的には思う。
先を聞きたいと思わせるテキストを如何に書くか、という単純にそういう問題なのかも知れない。言葉そのものに語らせる質のパフォーマンスを目指すのが、このユニットの方向性であるとすれば、もしそうなのだとすれば、様々なテキストを渉猟し、言葉の紡ぎ手たちの胸を借りて舞台世界を主体的に構築するという事もあって良いのではないか。
(二人が目指そうとするものと全く真逆で興醒めを催させるかも知れぬが、素朴な感想だ。)
いずれにしても様々な試みを期待したい。・・という事でこたびの2×2公演を体験しての感想を少し。
小さなスペース故、感染症対策として考えられた2名という観客数であるのか、どうかは判らない。「観る」という行為に伴う覚悟が求められる、というのはある。たとえば感染防止を考慮しても椅子3脚は置いても文句は言われないのではないかと思う。そうした場合3対2で上演側が一人でも少なければ(普通そうであるように)観客優位である。だがスタッフもおらず二人だけのパフォーマンスを二人で観ると、これは何が出るか判らないお化け屋敷に入ると同じで客側が弱い。客一人だけの回では又どぎまぎ感ひとしおだろう。
そして照明は演者が持つライトのみ、これが消えると暗い。そして演者との距離、衣擦れの音も聞こえ、暗転中の移動、準備の音なども全て含めて、刺激的な時間であったことは確かであり、2名以下の人間のために演じられる1時間弱のパフォーマンスは厳粛に進められる。このあり方に、何等かの思想が込められているのかは判らないが、過去味わった狭小空間での演劇の中でも、演者と観客が殆ど交錯気味に接近しているものはなく、奇妙な感触だが初めて故にうまく捉えられない。
演劇を観る行為そのものの中に、今蔓延する「非接触」を是とする(接触を悪とする)空気に背反する要素がある。それが濃いものと薄いもの、あるいは「空気への恭順さ」をアピールする場所に迷いこんで息苦しさの方を味わう事も少なくないが、多くの演劇に関わる人たちがその演劇人本来の「目指し方」を貫く姿には、暑いまなざしを向けたくなる。青涯にも敬意を表する。
正義の人びと
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
カミュ作の知らなかった戯曲を味わう。帝政ロシア時代の革命主義者らの話だが、ある独特さを感じた。戯曲は成立していたが、自然行き着くと思っていた方へは流れない。そう感じた自分はどういう「現代」に生きているのか、を思わず考えた。
舞台としては俳優座の「新劇」演技を目の当たりにする(多々引っ掛かりがある)。土岐研一のダイナミックな装置が劇的感興を高めるも、まだ俳優はそこに生き切れてない感じ。戯曲紹介としては十分であるし勘所は押さえていたと言えるのだろうと思う。
戯曲についてはもう少し温めて後日。
東京原子核クラブ
アイオーン / ぴあ / オフィス・マキノ
本多劇場(東京都)
2021/01/10 (日) ~ 2021/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
配信で視聴。以前マキノノゾミ作品を知りたく古書店にあった戯曲(ハヤカワ演劇文庫)から想像した舞台風景とは随分違った。喜劇調(俳優の力量が左右する)で成立する作品との印象をもった。プロデュース公演だが座組は良く、既知だった平体まひろが奮闘、この役どころのピュアさがドラマを締めていた。(後でみると著名俳優陣が結構出演。)
歴史人物を取り上げた劇の一つであるが、物理学とは閃きの学問であること(芸術に通じる)、それを手にするのはごく限られた人間であること、国策、殊に戦争と無縁でないこと、しかし科学の進歩は人間の営為であること・・庶民が住まう下宿の人間模様の中に「物理学」という題材を置いた構図が良い。大学野球に情熱を燃やす若者、体制にまつろわぬ演劇人、ピアノ弾き等々のエピソードが群像劇に仕立てており、その風景の中に忍び入る戦争の描写も過不足なくである。
ただ「科学」というテーマが、恐らく原爆を視界に入れた形で語られる劇としては、語り尽くせない感は残る。朝永振一郎(をモデルにした主人公)には原子核の世界が実世界で実証された原爆投下に「興奮を覚えた」との台詞を作者は(同僚にも)言わせている。だが、現実の悲劇とは裏腹な告白が、「科学の罪悪」を意識しつつ為されたとしても、バランスがとり切れない。重い告白になるべき所、これは役者にとっては難しかった。
ベクター
ハツビロコウ
シアター711(東京都)
2021/01/20 (水) ~ 2021/01/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ハツビロコウ、鐘下作品の回。戦時、囚人(戦犯被告)らが特赦と引き換えに詳細知らされず課されたレイテ島での任務とは・・。ステージ全面ビニールシートで数%熱度が減衰するも、ハツビロコウの舞台であった。未知な伝染病への恐怖、即ち人間の原初的な反射作用を見せつけられる。その意味でタイムリーな作品。恐怖は飼いならす必要がある。
「空 踵の下の」
KARAS
KARAS APPARATUS(東京都)
2021/01/14 (木) ~ 2021/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
日程が半減した影響だろうが、客席はほぼ埋まっていたのに驚いた。「緊急事態」がなんぼじゃと天邪鬼に出向いた自分はガランとしたアパラタス(会場)を確信していたのだった。
佐藤利穂子のソロであったが、照明を勅使川原氏がライブでオペしているように見える瞬間が何度かあり、update dance初日の「探り」の雰囲気を微かに感じた所である。で、原作の無いダンスの創作を二人が何をよすがに、あるいは起点に据えてスタートしたかは判らないし、ある種の時代の空気であったり、まあそのあたりだろうな、と推量しながら鑑賞したが、見えて来るのは佐藤利穂子の身体(舞踊機械としての)の機能・性能・癖、動きの法則性であったりする。身体言語の体系を見ようとする目になる。身体言語を使った表現する「対象」を見ようとはするが、結局は身体言語の文法を見つけようとしている自分がいる。あるいは「美」を見出そうとしていたかも知れぬ。だが見えてくるのは固有の身体のありよう、という事だったか。
カラスでは舞踊と、音楽(音)の両輪になる。装置はなく照明も複雑でないので最も雄弁に観客に手を伸ばしてくるのは身体(踊り)と音楽だ。今回冒頭と最後に味わいのあるピアノ曲を置き、その間に合唱曲がエンドレスに繰り返されるものだった。アフターの解説ではロシアの歌曲との事だが、グレゴリオのようにアカペラで聖歌の響きがある。これは昨年の『銀河鉄道の夜』(見そびれた舞台!)に用いられた曲であり、勅使川原氏はカンパネルラとジョバンニの「繋がり」の在り方をモチーフとしたかったと述べたが、音を気にする自分としては、同じ曲がループされるように巧く繋いだのは良いとして、これが一つの曲として聞かれる限界があり、今回はその時間を超えていた(私にとっては)。ループは地獄、又は狂気をイメージさせる。勅使川原氏がそれを狙った事は考えられず、だとすれば、そのように感覚する私のような客を想定しなかったというより佐藤女史の舞踊の着地を待ったという事なのだろう(タイミングでピアノ曲がフェードインし、合唱曲がフェードアウトする)。
私がループの狂気を感じ始めた後半は、私が踊り手の動きからストーリー性でなく広い意味でのリフレイン、停滞を感じたのかも知れない。このMで踊るのは中々大変ではないか。1時間弱、踊り続ける体力は想像外だが、瞬間瞬間0.1秒単位で推移する「現象」が持つエネルギーは、恐らく感じ取っている。これに言語を与える事に終演後の勅使川原氏のトークがなったかどうかは別として、今のこの状況(コロナそのものではなくコロナに不随するもの、と私は読み取った)に耐える日々の中で、光明を見出そうというエールは心にしみた。
『コントロールオフィサー』+『百メートル』二本立て公演
青年団
アトリエ春風舎(東京都)
2020/12/31 (木) ~ 2021/01/10 (日)公演終了
満足度★★★
これは平田オリザの戯曲・舞台である、と感じる所以は、青年団俳優の存在もそうだが、無音楽、説明台詞無し、間、などがある。決して「理に適った」間合いとも思わないのだが、平田戯曲の世界、文学で言う所の文体である。そう、要は説明台詞が回避されているので、短編ではどうしてもリアルを担保する「説明」は追っつかない。「コントロール・・」など突っ込みどころ満載である(突っ込ませるコントの要素も、あると言えばある)。新作「百メートル」ともに30分程度。
「コントロール・・」では、「こんな時期だし」「ああそうか」等とコロナを反映した台詞もあり、配役も半分入れ替わって10人から8人と幾分変化はあるが、見た印象は初演の時と殆ど変わらずである。
オリンピック選考を兼ねた水泳大会の直後にドーピング検査をやる。採尿のために水を飲みながら選手は横に並んで雑談するが、各選手の後ろには担当のスタッフが緑のジャケットに巨大な蝶ネクタイを締めて立ち(まるで漫才師)、「重要な任務」を担う厳粛さを演じている。「勝利」だけが全ての選手らが横に並ばされている状況、その他、諸々リアリティ的には奇妙であるが、コントロールオフィサーと称する緑のスタッフの無言の演技がそこはかとおかしい(時々「今笑ったでしょ」と突っ込まれ表情を固める島田桃依、注意事項を暗誦できず隣から手帳を借りる永井秀樹など)。
まあでも日常切り取り型でローペース、盛り上がり禁止、無音楽の30分では「演劇濃度」が薄いのは当然、も一つの演目「百メートル」に期待したが、脱力度は前に同じくであった。
前者のエッセンスは、中堅選手が気負わない若手に五輪出場権も恋人も持ち去られる「勝負の世界の無慈悲さ」、だとすれば、出場権のかかる陸上競技前の控室が舞台の後者は、「勝つために手段を択ばず」か。いずれもネガティブな切り取り方であり、スポーツが美化される五輪礼賛に水を差す演劇、ではある。
石橋けいのあたしに触らないで!
城山羊の会
小劇場B1(東京都)
2020/12/17 (木) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
年の瀬の予定から漏れ、配信で観た一つ(もう一つは印象「ケストナー」)。活動休止した城山羊の会が再開宣言せず<石橋けいの>などとあるので番外公演的なものかと思いきや、まるまる城山羊の世界であった。
配信は別撮り(無観客上演で撮影)との事で、生舞台とは別物になるかも、とは山内氏のコメント。元々映像の人というのも納得で、戯曲も映像要素があるのかもだが、明確に映像プランあっての撮影をやった模様で、とにかく世界に入りやすく見やすく痒い所に手が届く。エンドロールを見ると映像担当にムーチョ村松の名があった。
観たばかりの青年団公演で笑わせていた島田桃依が、オープニングどアップで語る。旦那が国家公務員の女性(石橋けい)と「お付き合いさせて頂いている」島田は、その後もしばしば語る。奇態なというか、身も蓋もない人間模様が、極点に達すると、正面を向いた島田の顔をカメラが捉え、語りで緩和する。が、破綻度=エロ度は増して行く。何気にやり過ごして来た「問題のタネ」をドラマは表面化しようとする。
映像版で照明を変えたのか、映像だからそう見えるのか、青く暗い明かりが妄想世界と現実との境界を溶かし、両者のブリッジが自然だ。(そう吐露する台詞もあるが)「現実味のない」コロナ以降の時間、それもセレブ層に元々棲息していた退廃が露出した「いい気味」な時間を味わった。
エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜
劇団印象-indian elephant-
駅前劇場(東京都)
2020/12/09 (水) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
駅前劇場には行けず配信を鑑賞。芸術作品には作り手の力だけでない「降りて来るもの」(’芸術の神とでも)の力を得て生み出されたと思えるものがあるが、本作は戯曲+配役にそれを感じさせる秀作であった。
児童文学者エーリッヒ・ケストナーの人物像と、物語上の位置づけが良い。やがてナチスが台頭するドイツの闇の時代を彼らの目線を通して描写して行く。開幕を担うのがケストナーの寄宿舎時代の友人ハンス・オットー。同じカフェにいて彼をケストナーと勘違いしたジャーナリスト志望の女子中学生ロッテが彼に熱烈にアピールするシーンから物語は始まる。ハンスは自分が俳優である事を語り、従って私は君が思っている人ではない、と説明する(演劇への愛、俳優業への夢と情熱、俳優と物書きと俳優の違い、でも広く見れば同じ世界に住む人間である事、などのニュアンスが凝縮された簡潔なやり取り)。落胆したロッテにハンスは「君にケストナーを紹介する」、これからクラスメイト3人で同窓会をやるのだという。ここに映画志望だが普通の会社勤めのもう一人の友人が登場、あけすけな彼はケストナーに憧れてるらしいロッテの前であいつが如何に女にだらしない男かを話す。怒り心頭のロッテの前に、そのケストナーが登場。「今見た踊りが凄かった」と話す。新聞に劇評も書く彼の守備範囲での話だが、その話につられたあけすけな友人は(マンネリな日々に刺激を求めてる風)見に行って来る!と去り、やがて「俺は恋に落ちた」と言って戻って来るのだが、その踊り子というのが後の女流映画監督リーフェンシュタール(名画でありナチスドイツに協力した映画と評される「国民の祭典」の監督)で、クラスメイト二人に恋の俄か指南を受けて挑むも撃沈、彼女は「ケストナー」に会いに来たのだった。そして町でパンを売る俳優志望の少年の登場。以上で人物はほぼ出そろい、歳月を重ねてその変化が描かれて行く。(後一名はケストナーの「エミール」や「飛ぶ教室」に挿画を提供したユダヤ人画家。)
個々の人生の変節は省くが、私にとっての特筆は、最終場でのやり取りだ。ドイツの敗勢が決定的になった1945年5月、国家の庇護下で映画を撮っていた映画人らがベルリンから遠く離れたドイツ領オーストリアでのロケを認めさせ避難して来る。そのホテルに後を追ってリーフェンシュタールが駆けつけるのだが、彼女が登用し映画界入りをしたなんちゃって映画監督(あけすけ男)にも、同じく映画界入りしナチス党員にもなった元パン屋にも冷たく対応される。そこにケストナーが現われ、彼女は彼に助けを乞う。他の著名人や文化人芸術家が亡命する中、ケストナーはドイツに残る事を選んだ人としても知られる。だがその中で彼は(表向き、と言っておく)ナチスに協力もした。リーフェンシュタールはその事をもって相手も自分も同罪だと言う。これに対し、ケストナーは自分が如何に相手と違うか、それを説明しようと言葉を絞り出す瞬間が、この作品の肝である。(時間切れにつき、後刻に)
老いは煙の森を駆ける
女の子には内緒
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/12/28 (月) ~ 2021/01/06 (水)公演終了
満足度★★★
さすらい姉妹も出没しない2020年末はこれが見納めになった。
ちょっとした勘違い、2年程前のあの秀作を書いた女子、と思っていたが今回初であった(どうりで全く様子が違った)。
柳生二千翔という書き手の名はよく目にしていたが、初観劇の印象は、大きく言えば近年の「独白」を主とする若手劇作家による戯曲の範疇(他の作品はどうか判らないが)。アゴラ界隈では綾門優希や、昨年岸田賞受賞した市原佐都子。この路線に道を敷いた地点(役者各々がてんでに発語する=ダイアローグではない)と親和性のあるイェリネク、最近見出された松原俊太郎は、言葉を殴り書きしたような戯曲で、舞台化には「演出」が要になる。
今作は、パンフのあらすじが復讐劇を匂わせていたのに対し、幕が開くと全編登場人物3人各々が順次登場して聴かせる長い独白であった(一役登場3場程だったか)。独白すなわちその時点での心情や思考の吐露であるから、ストーリーの進展スピードは静止に近い。とは言っても、各人「何か」を演じようとしており、「声の出演」が登場して「何か」が進んでいる感じはある。
物語・・太古から山に住む「獣」という謎の生き物が、「はじめて人を殺す」。人々は獣を恐れて山を下ったが、殺された者(リシリ)の親である漁師シラスは山を登る.。そして20年後、シラスは未だ獣を見つけられない・・以上がパンフに書かれた「あらすじ」だ。神話的世界が提示され、人間の時間的・物理的有限性と対照的な悠久の時間が、芝居のテンポで目指されているようではある。ただ「初めて人を殺した獣」が何かを暗喩していそうでそれが何かは掴めなかった。獣(高山玲子)とシラス(洪雄大)は交わる事なく、ナキアミ(渡邊まな実)がどう関係するかは不明。抽象性の高い詩文学的・哲学的なテキストは、テキストの中で辛うじて劇を締め括っていた。
問題は、テキストの世界と視覚化されたステージとの落差。特に女性二人の発声や動きが、作品の抽象性になじまず即物的に身体性を主張している。テキストと、発語する身体とのもっと適切な区別・整理の仕方があったのではないか。
半神
うつつのしかく
シアター風姿花伝(東京都)
2020/12/25 (金) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★
風姿花伝の舞台に黒(濃緑?)を基調とした物の配置を見て、バランスが良いなと思う。演出(主宰)は美大卒だったと思い出した。冒頭、期待感を高めるムーブがあり(照明も見事)、「半神」上演のためのオーディション風景から、物語に入って行く。30代~アラフォーが中心だろうか、身体性を要求する作品/演出にレスポンスできる役者達のようだ。
さて、「半神」の世界はやはり面白かった。体の一部が繋がった姉妹。知能は高いが醜い姉は、知能が低く美しい妹と違って可愛がられず、妹の世話を引き受けて日々を送っていたが、ある日医師から二人の内一人しか生き残れない時期を迎えたと告げられる。手術を受けるにあたり、父母は「どちらを生かすか」に悩んだ末・・。
生き残ったのは容姿と性格の愛らしかった妹、だが脳みその中は頭脳明晰だが容姿と性格が醜かった姉であり、姉が妹の身体を占領した格好。この後の展開は説明不能、ただ姉の人格的な変化があり、最後にある種の統合がもたらされ、一応のハッピーエンディングに到達する(喜ばしいそれだったか悲しげなそれだったか忘れた)。
さてこれから苦言に入る。この舞台、ある程度のクオリティを遂げていたと思うのだが、ある決定的な誤算(私に対しては)をしていた故にかなり渋い評価となってしまった。
問題は「内輪ウケ」を多用し過ぎであった事。求心力を確認するように、あるいは求心力が「ある」と既成事実化するため、一定の実力ある演出家の舞台、又は実力ある役者が使う場合に許される事はあるだろう。「ちょっとこれ笑っちゃうよな(俳優自身として)」と、素の笑いを挿入する技は、突発的な事態に機転を利かせた振舞いに「素」が混じるか、そう見えるように完璧に演じるか、多くの場合「その人自身」が人の耳目を集めるような人気役者がやる類だろう。何か勘違いしているのか、それとも演出の指示なのか(多分そうだろうと推測)、「素」の空気を挿入して観客を「味方にする」(事を強要する)技を結構やって来るんである。
この「技」?を初めて観たのは20年前、石橋蓮司と柄本明がやった「ゴドー」であったが、確か序盤あたり、相手の出方を見て間合いを図るのに「待ち」が生じるその瞬間に「あれ?来ないの?」的な疑問の目を相手に向け、相手はその意味を探り察知するかどうかする、そんな具合にして「素」の瞬間が生まれる。柄本明も石橋蓮司も銀幕かテレビの向こうの人であった自分には、殆ど何の感興もなかったが、会場はクスクスと笑っていた。彼らでさえその程度である(この間合いは舞台に「テキトー」を持ち込みたい志向の柄本氏が仕掛けたのだろうと今は推測)。今回の出演者は多少は認められた円熟役者なのだろうけれど、広く言えば「無名」と言って誤りでない役者達の舞台で多用され、ある一線を超えると、申し訳ないがもうこれは興ざめの嵐なのである。
野田秀樹もこういうの好きそうだ。NODAMAPでの技を、野田カンパニーのレギュラーであった若手女流演出はやろうとしてるな~と見ていたが、「作り方」は巧くてもドラマにとって必須ではない。「それ無し」で魅せる舞台を作れないから反則技を使うのか?恐らくそういう訳ではないだろうに勿体ない事である。
一箇所「おっ」と思ったのは、野田氏の引用だろうか、稽古風景を模した場面(「半神」を劇中劇に置く形にしている)で役者に「批評性が無いぞ!」とダメ出しが飛び、「批評性とは自分を見るもう一人の自分がいるという事」と説明されるシーンがある。
役者が「役」の人格と「素(自分)」の人格を行き来できる事は有批評性の証明である。これは「息苦しい」「わざとらしい」、従って「嘘っぽい」無防備な演劇に対するアンチという意味では、有効な面があると思う(新劇・アングラの2領域へのアンチで演劇界の路を開いた野田氏や平田オリザの小演劇の立ち位置をよく表す)。
だが「笑い」をもらうための多用はその意味を超えた過剰=不要であって「不要」は削いだ方が良いと思う。笑っていた客はコアな客か、「既成事実化」された空気を信じた、又は乗っかった客か、判らないが、どちらも「内輪」な現象であるのは(石橋と柄本も同様)変わりない。ドラマ上の笑いでない素の笑いは、本来禁じ手、ドーピングだ。ちょっとしつこいか。
リーディング公演『作者を探す六人の登場人物』
彩の国さいたま芸術劇場
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(埼玉県)
2020/12/25 (金) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
2004年黒テント公演で作者名と作品概要のみ知ってより(公演は観ていない)一度も機会を得ず、ようやく観れた。彩の国さいたま芸術劇場の稽古場公演には二度来てホールは初めて。緩やかな傾斜の中劇場(芸劇イーストを少し横に広げた位だろうか)。
ネクストシアターらしい若者の演劇であった(発声といい演技といい)。台本を持ちながらも皆活発に動き、若いだけに台詞も入るのだろう、台本を見る瞬間は殆どない。という事で中々臨場感のあるリーディング(と呼ぶのさえ違和感)を堪能した。
ある稽古場に「作者を探す者たち」が登場する。安部公房「友達」に似た不条理劇のテイスト(ある男の部屋に家族連れがやって来て為し崩しに占拠してしまう)。別役実「あの子はだあれ、だれでしょね」も見知らぬ一人の女が家族に入り込み一人ずつ殺して行く恐ろしげな話であったが、本作も「占領」はしないが不穏な空気がある。自らを「登場人物」と言って憚らない家族によって、「作りもの」である演劇製作が「本物」(登場人物そのもの)である彼らの存在が醸す説得力や話のリアリティに飲まれて行く。メタ・シアターの構造、演劇批評、この奇想天外な戯曲が1921年に書かれていたとは...。
演じ分けという点では、若手の演技の幅のせいか人物の関係が分かりにくい部分があったが、稽古の制約や戯曲のハードルを思えば健闘かも知れない。小川絵梨子演出とは今回限りだろうか(是非とも縁を大事に)。
オリエント急行殺人事件
エイベックス・エンタテインメント
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2020/12/08 (火) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
中学生に上って横溝やドイル等の文庫本を持ち歩いていた自分にアガサ・クリスティを教えた級友というのが喋りたがりで、「アクロイド」や「ABC」も面白いけどやっぱ「オリエント急行」が面白い、なんつっても○○が犯人だから、と言いやがった(しかも悪気は全くなさげに)。口より先に速攻物に当って抗議の意を伝えるも腹水盆に何とか。以来ストーリーを知らずに犯人だけ知っている忌わしい作品であったが(まあ特に遺恨はないが)、暗い年末に一つ娯楽を味わおうとコロナ以来初めてのコクーンへ出かけた。
以前チラシで見た俳優陣は割と豪華(知名度高し)ちょっと期待できる感じであったが、例によって観劇時には失念。もっともこの度は気楽な観劇時間、名前を当てる遊びに興じた。この芝居のアウトラインは凡そ知れている。豪華旅客列車オリエント急行車内で殺人事件が起き、たまたま乗り合わせた名探偵ポワロが事件解決に奔走する。容疑者となった一等車両の乗客の個体識別が出来ればあとは事件解決の際ポワロの解説が為されるはずである。
ちなみに登場した瞬間判ったのが宍戸美和公、割とすぐが中村まこと、暫く経って椎名桔平、終盤でマルシア。声に聞き覚えあって割り出せなかったのが高橋恵子。他は名のみでさほど知らない俳優であったが、皆キャラが粒立っており、横一列に並んだ容疑者の動線が錯綜するミステリーを「しっかり見える」ものに仕上げていた。
河原雅彦演出、昨年打たれた公演を配役を変えて再演。同演出には一度何かで観て「暑苦しい」印象があったが、この舞台では探偵よろしく「冷静な頭」で機能的な場面進行を組み立てていた。
さてお話の「殺人」は、巷間出回るサスペンスの例に漏れず、事件の背景にドラマあり、である。この方面に明るくないが、「殺人」に見合う背景を崖の上で犯人に語らせるパターンは、犯罪を「娯楽」にする不謹慎のそしりを逃れる作り手の弁明術とも言える。ここで、「ミステリーかドラマか」の区別に考えが及ぶ。
社会が成熟し、寛容であれば、あるいは発信者に勇気があれば、ミステリーは貫かれるが、そうでない時、ゲーム性から離れて人間ドラマとなる。優れたドラマはミステリーの分野にある事だろうが、「オリエント」の場合着想がミステリーありきと判るので、そ背景はドラマ的でも後付けなのである。従って本来はドライに行かねばならない所、湿っぽくなった。原作がそうなのか演出かは判らないが、「殺人」を道義的に免罪する背景ドラマを共感たっぷりに描くのが原作ならこれが今に続くサスペンスドラマの原型かも。
舞台では探偵がドライさを貫こうとする。「犯罪は犯罪でしょ」と。しかし結局最後には彼を探偵に雇った主(列車を運営する会社の人間でポワロの友人)の要望を飲む形で不本意な答えを出す。
かくして事件の回想を終えたポワロは、これを特異な体験と総括し、「何が正義か」を観客に問うて立ち去る。
このテーマについては、最近よく引用する宮台氏の「法の奴隷」がすぐ浮かぶ。この作品が生まれたイギリスという国を想起したのは、劇中ポワロの「国の威信にかけて」(解決する、という感じ)の台詞だ。近代史上最も早く国家として民主主義を育んだ英国の住人の感覚では、法による統治は「民主制度」において正統に定められた「正義」を担保するものであり、「我々の制度」という意識が大前提としてあるのでないか。これが「国王の権威」や「国の威信」といった言葉で表現されていると理解できる。
だが日本の風土の中で同じ台詞が吐かれると、法が悪法である可能性を考慮せず「違反者」に対し目を剥く「キョロ目野郎」(これも宮台氏の造語)、すなわち「法の奴隷」の存在が浮かんで来る(芝居の舞台は日本ではないのでその躓きはないが)。
最後のポワロの台詞は冒頭のリフレインである。密告風土の深化を身近に感じる昨今、「法は絶対だと言えるのか?」との問いは益々普遍的である。
ただ、この作品にそのテーマが相応しいかは留保になる。
その前に、「悪役(被害者)」の形象はあれで良いのかも素朴に疑問。娯楽と思えば何ら問題ないと言えば無いのだけれど。
光射ス森
演劇集団円
シアターX(東京都)
2020/12/19 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
円も久々にして4度目くらい。実は内藤裕子作の舞台を見そびれて今回やっと初お目見え。題材と誠実に向き合い、テーマを見透した作劇は予想と随分違った。オーソドックスだが芯の通った人間ドラマであった。
林業を実際に営む家族を登場人物にした舞台としても特記すべきではないか。場所と時期が異なる二家族が同じ舞台装置で交互に登場、ある女性だけ両方に登場し、物語も繋がっている。二家族は家風はもちろん林業経営のスタンスや状況も異なり、2ケースを描く事で林業が抱える事情を立体化する事にも成功している。
幕開き、「奥居林業」の自宅兼事務所では未だ現役の祖父・正利、社長であるその息子・恒利(妻とは死別)が、居間で雑談している。話題は跡取りの孫息子・和利と、その少し年上で仕事熱心な女性従業員ユリさんについて(二人はお似合いではないか、いや孫息子より優秀だからダメだ、等)、また新任の女性従業員・河野はこの仕事が続くかどうか・・など。そこへお茶を運ぶ社長の娘(和利の妹)奥居智子は母代りに主婦を務め、正利や恒利のあしらいも板についている。
二家族を跨ぐ従業員・沢村由里子は「学ぶ」姿勢に悲壮感とも言える切実さがあり、何かの事情を匂わせるが、彼女の存在が和利には刺激になり良い影響をもたらしている、といった様子。やがて和利が新人河野と戻り、山の早い夜のとばりの中で皆一日の仕事を終えた安堵に包まれる。
暗転を挟むと、別の家族・沢村家になっている。ここでは一場で熱心な従業員だった由里子が、家業である林業の跡継ぎ候補(由里子の目論見)として婿入りを承諾した直樹と、結婚生活を送り、息子も居て将来は「木こりになりたい」と言っていると喜んでいる。同居人には妹江里子、母里子、そして父民雄がいる。江里子には、林業の組合に勤める恋人・祐二がおり、苗植えの手伝いをして父と顔を繋ごうとその朝やって来た。江里子の言いなり感満載だが、喜劇調の場面から次のこの沢村家の場面では一転、「家族の事情」のリアルな空気が漂う。
まず家業に入れ込んでいる婿の直樹が、今勤めている安定した職を辞め家業(林業)に専念したいと考えていた所、ついに先方に辞表を出したと妻由里子に語る。ところがその会話中、居間に入って来て言葉尻を聞いた父から「仕事がどうした」と問われ、なし崩しに話をする事になる。寡黙な父は一旦部屋を出て行くが、折しも、前場面で父に「伝え」そこねた祐二が「今日こそきちんと父に伝えて」と江里子に含められ(玄関外でどうやらそう言われたらしい)、部屋を出た父を追って行こうとするも「今はダメ!一番ダメ」と引き留められるくだりがある。
その前の奥居林業の場面では、由里子がなぜ家族を離れて奥居家に出入りしているのか、について「10年前家族が災害に遭った」との情報だけさらっと挿入されている。それを受けての先の沢村家の場面である。
居間に戻って来た父の寡黙ゆえに「判りづらい」感情が、表出する。まず婿の申し出を受け入れる表明があり、そして姉妹の幼い頃の父の思い出話から明かされた、詩などが色々書かれた父の手帳の事や、幼い頃よく絵本や詩を読んでもらったという話を受けて、祝いの酒に酔った父が宮沢賢治を朗誦する。由里子と婿、妹、父の四人の美しい場面だが、その少し前、父がただ自分の机の前の椅子に座り、茶碗に酒を注ぐしぐさの中に嬉しさが滲み出るシーンがあって、観客もこの父のいかつい顔から人間味がこぼれ出るのを見る。
山奥の生活の静けさの中に美しく映える小さな幸せの図だ(宮沢賢治の全文朗読は少々長かったが)。
林業行政の政策の問題点も語られ、皆伐と言って山のある斜面の樹木を全て伐るよう行政が指導する(それにしか補助金が出ない)が、山の土砂崩れ等の原因を作っているとも言われ、奥居家では計画的に木を伐り、苗を植える「森を育てる」林業を行っている。対して沢村家は皆伐の指導に従っていたが、10年前由里子は、土砂崩れで父と母、夫、息子、妹を失っていたのだった。
劇の終盤、妹の恋人だった祐二が由里子を探し当てて訪ねて来る。由里子は父が守った山を自分が支えるつもりで林業を学んでいたが、彼は山林の所有者が由里子になっている事を伝え、その処分についての判断を訊きに来たのだ。彼は補助金の書類作りばかりやっていた組合を考えあって辞し、山林を育てる事業に関わる仕事に今は就いているという。そして由里子に山を手放さず山を育てて欲しいと思いを伝える。
由里子は自分が山林の名義人になっていた事実を知らされた事で、ようやく自分が家族を失った事を生々しく実感する。山林は元来男が代々受け継いで行くもの。女である自分はそれに立ち会うだけの存在だったはずであるのに、自分の手元に権利書がある。由里子は災害後、初めて泣く。
作者は精力的な活動を行なう当事者に取材され、その志を反映した物語を書いたと思う。だが現実には林業の家族経営は立ち行かず、殺伐とした厳しい状況があるのではないか。
第一次産業までが国が守る必須項目から外され、大資本に売り渡されようとしている時、都市生活者の私はこれを批判しながら当事者の事を何も知らず、この芝居のリアリティについて何も言えない。
ただ「百年先のために木を植える」を比喩でなくやっている人がいる、という事実は、客観的には美談、しかし自分の事として想像すると、正直重く、苦く、飲み込みづらい。でもこの芝居は飲めた。ど素人には程よく分かりよく新鮮な舞台であった。芝居は娯楽に違いないが、単なる娯楽で通過すまじ。(真面目なアンケートのような感想になった。)
講談 マクベス夫人
てんらんかい
アトリエ春風舎(東京都)
2020/12/19 (土) ~ 2020/12/20 (日)公演終了
以前手書きっぽいチラシを見たのはこの講談披露の公演チラシだったらしい。初めて、講談師天明...もとい旭堂南明の口演を聴いた。
率直な感想だが、俳優天明瑠璃子の役者力が発露する風情とは「別物」を見るつもりでいたのが、ほぼ変わらずであった。
相変わらず不眠気味で臨んだ事もあって「講談」の口調が始まると速攻入眠した。台詞の「間」が空くと目が開いたが、終演挨拶前の間であった。今回の目玉は南明の姉弟子南春(英国人)のゲスト出演で、「マクベス夫人」二か国語上演のうち英訳版を演じる方。こちらは「熱演」真に迫り、比較的平易な英語に訳されているらしく時々単語を拾って場面を想像した。
「講談」への興味は談志の抜き読みを介して発するも眠らせたまま。高座を見て少し近づいた気でいる(3割も鑑賞できなかったが)。
客たち
流山児★事務所
新宿スターフィールド(東京都)
2020/12/16 (水) ~ 2020/12/23 (水)公演終了
満足度★★★★
流山児絡みでシライケイタ演出の韓国戯曲上演、という括りでは確かに「第三弾」となる。「代代孫孫」「満州戦線」(以上パク・グニョン作)に続く本作は実際にあった尊属殺事件を題材に書かれた戯曲(コ・ヨノク作)。解説を読むまでは、「殺人事件」にまつわる劇だとはっきりとは判らなかった。私の印象は、主人公である少年の閉塞、その原因かも知れない家族、そして作家的想像は家庭内殺人に及び、少年の心象風景から韓国社会の深層イメージが浮かび上がる・・みたいな。
芝居には恐らく死者である父母と、三人の「客」が登場する。寺十吾演じる主人公の少年がこの世ならざる存在と会話を交わす風景は、彼の内面世界、または彼の前に現われた幻と解釈するよう促している、それは判る。唯一彼が現実と交わるのは、中学校で引っ込み思案な彼が何故か告白してしまった行動力のあるKY女子(良い意味での)。彼女に対しては彼の好意がいかに本物であるかを大人ばりに的確に言語化し(ここは恐らく幻影でなく現実)、彼女との最上の場面が作られるだに、自分が抱える歪み(ここでは既に罪を犯した事によるものと思われる)を彼女に知られる訳に行かないと少年は強く思う。そして「向き合うべき問題」のある家に向かう。そこで、死んだ父母とよりよく対面し、問題を解決するために、彼は外で出会った三人の「客たち」を招き入れる、という筋になっているようだ。
洪明花(みょんふぁ)の翻訳は(役者としての戯曲理解はともかく)判りやすく言語化されていたと思う。が、舞台として客たち(ある名物ホームレス、猫、銅像)が果たしている戯曲上の役割、少年にとって何なのかは判りづらい。(招くに事欠いて・・という含みなのか。。)
回想に当たるリアルな場面が、最も現実離れした残酷な家庭内ネグレクトの描写になる。父母が何故そうするのか、、相互依存的な夫婦喧嘩の末にお互いが自分の不幸を確認しそれぞれ自分を慰撫するべく終息するという、何度も繰り返されたシーンの最後にはいつも「放置された子供」が残る。
母は息子を可愛がりもしたと証言し、「悪い事ばかりでなく良い事も思い出してよ」と訴えるが、作者は虐待の実態を「子供がどう感じたか」と「子供が理解できなかった親の事情」の相反する二面問題をどう整理し、劇の前提に据えたのか・・先日の「ミセス・クライン」ではないが、「程度問題」という言葉でうやむやになりがちなこの部分が本作ではどう扱われたかが明確には見えてこない。
とすれば、焦点は、少年の内面世界が少なくともどうあったか、タイトルが示唆するテーマに向かう訳である。だが名物ホームレス、猫、銅像それぞれが少年に何をもたらしたのかがよく判らないのである。
相当程度難解で象徴的表現に傾いた戯曲である事は押さえた上で、しかし何処か足りなさを覚えた観劇であった。