実演鑑賞
満足度★★★★
報道番組を「選べる」と感じることは稀だ。高給せしめてジャーナリスト名乗ってる事の贖罪のように「やってる感」出してそれっぽいコメントをするキャスターやコメンテーターたち。言い回しの語彙力の差はあっても、語る範囲は決まっており、それゆえ結果的に横並びになる。誰もが注目する新型コロナ関連の情報さえ、踏み込んではならない領域があり(何者かを守っており)、公益は二の次になっている。スクープ!という代物が記者の「ジャーナリスト魂」と取材活動の動機を担保している模様だが、いつも思うのは「速さ」を競った所で何だという話。質で勝負しろと思う。特に政局の新展開などいずれ知られる事だし政治家は自らを顕示したがる生き物なのだから、、。挙動を追う価値を感じないような政治家でも、首相や幹事長クラスならコンペで勝負できる、つまりルールは健在。運動会の徒競走で優勝して無邪気に喜ぶ小学生、スポーツと同じゲームに見える。真に価値のある情報をゲームに持ち込むと、出来レースの平和共存に不穏な影がよぎるのだろう。ジャーナリズムとは元来不穏な事実に触れるものだと思っていたが、「業界の平和」の方がそれに優先するらしい。
そんな体たらくのマスコミの病根が奈辺にあるかを明快に描いた劇。言いたい事をほぼ言ってもらった気分で、頬をぶたれる衝撃はなかったが、溜飲を下げた。平和共存の反対語は、戦々恐々。先進国ではあり得ない「許認可権」がテレビ放送に関しては所轄官庁に与えられ、政権批判を行なうと許認可に関わる。もしマスコミ業界に平和共存が道義的に可能だとすれば、政権との距離を互いに取り合い、政権が懐柔できないよう結託する事、では。。等と繰り言を言っても「仕方ない」のは変わらないからで、変われば「仕方なくなる」のも一方で事実だ。日本の現実はそれに程遠く、政治の介入に完璧に負けているが、「負けている」という自覚もないのだろう。一億総なんとか。戦前はまたやって来る。