実演鑑賞
満足度★★★★
会場へ入るとロビーがどことなく簡素。「ご自由にお取り下さい」という無料リーフレットを探すと事務用長テーブルにB4紙2つ折りの当パンがまた質素(桟敷童子のみたく)。座席に近い入口から入ろうと裏手に回ると案内スタッフがおらず「コロナ対応で裏口は閉じたのか?」という状態(そうではなかった)。
芝居が始まると序盤に登場した草刈民代の台詞が時折覚束なく「おや?」と思う。そこでふと「今日はプレビューだから?」との考えが過ぎった。以前観たプロデュース公演のプレビューが(結果的に準備が十全でないというのでなく)わざわざ1ランク落とし、スタッフの客対応も素っ気なかったのを思い出した。今公演がそうだったわけではなく実際には「差」もないのかも知れないが、「引き算された分を足すとどうなる」等と脳内で考えを巡らした程に、特に前半は混迷し、乗れないものがあった。
幕間を挟んでから俄然巻き返して天晴であった芝居は確かにあったが何だったか・・さほど気落ちせず休憩時間を休み、迎えた後半は目が覚め、戯曲の「狙い」的な所がいくらか見えてきた。といっても変わり種な戯曲には違わぬ。ノゾエ氏演出舞台と言えば新国立の「ピーター&ザ・スターキャッチャー」(ラストで萎んだ感はあったが)が秀逸で腕は確かだと知れるが、書き手・演出家としての「傾向と対策」は未だ不明。それでも料理人・ノゾエ氏を引き当てた素材というのが何故か腑に落ちる作品。シュールさは前半の「死」の扱いと言いイヨネスコを連想させるが、要は叛逆、アナキズム、よりソフトに言えばはぐらかし、へそ曲がりな志向。
感じた難点は、配役。チラシの俳優陣を見て観劇を決めた客も多いだろうが、川上友里子を除く女優陣(瀬戸さおり、吉本菜穂子、草刈民代)のキャスティングは果たしてどうだったか・・。小柄で容姿端麗の瀬戸、声に特徴あり倒錯の域を表現できる吉本、すっくと立つ肢体こそ見たい草刈が、わざわざその長所を封印したような役柄である事により、元々異種な戯曲の「読み違え」「迷子」を誘引したようにも思う。
まあしかしそれより何より、事挙げすべきは戯曲という事になるのだろうが、今ひとつ物語を追えていない。終わってみれば事象じたいはシンプルではあるが事象を語る口調、含みは感受しきれない。
誤読の一つは、ステージを占める直方体の共有スペース(居間であり休憩室であり食堂のような)には左右の壁と正面の三方に三人の科学者を名乗る入院患者の居室のドアが付いているが、大きく立派なので居室には見えず(特に正面は廊下に通じるのだと終盤まで思っていた)、意図としては三名の科学者に集約される話である事が前半の段階では判りづらく、象徴的に扉をデーンと据えたのかも知れないが、では居室以外の場所へ通じる通路はと言えば壁が人一人通れる格子になっていて、どこからでも出入り出来る仕様になっている。三人以外の存在の性質を三人と区別するのにグッドなアイデアとも思うが、幻想ではなく実際に起きている事象であるので、例えば扉に名札でも貼っておけば「居室」だという事が最初に判る。芝居の見方=ルールは早々に告知するのが良く、適度な謎で引っ張り後で解く手法はここではそぐわなく思う。また、看護婦役、刑事の部下役、主役の一人メビウス(と名乗る患者)の息子ら役などを兼ねてコロス的なグループとした感じだが、メビウスの妻(川上)や刑事(坪倉)、あと確か看護婦長(草刈)が他を兼ねない配役である事の意味はあるか、なども。本作はこの「豪華な」出演陣に適した素材だったのかどうか。この発掘戯曲は無名でも剛腕な役者、ぶっ飛んだ役者を使って下剋上を挑むような素材ではないか。ただ、全体に漂うシュールな感じ(ノゾエ氏の色?)の中で、メビウスや三科学者が倫理と科学についての真っ当な議論を真顔でやってみせるなどシニカルで押せないものがある。水に浮いてしまう油の処理法は難しい。作者がミステリー作家であった事を考え合わせると、どんでん返しの後付けの政治論争で、政治論争の手段としてのミステリアスプレイではなさそうだ。とすると味付けの位置に当る論争は当時の世相の反映であり、もし今これをやるなら、「人類が踏み込んではいけない領域」とは生命科学だったりコロナ禍を引き起こした自然破壊だったりするのかも・・。(まあそれだとインパクトには欠くが)