tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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タージマハルの衛兵

タージマハルの衛兵

東京演劇アンサンブル

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2021/09/08 (水) ~ 2021/09/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

優れた作品のライブに立ち会う悦びが序盤から血流になって体を巡った。戯曲の良さとこれを料理した演劇アンサンブルの攻めた演出に深く納得(時々演出イスに座る三木元太の『クラカチット』の鮮やかさもまだ記憶に新しい)。
二人芝居のダブルキャスト組合せ4通り(黒子的役割は該当でない方が顔の装飾をして行う)、いずれも2011~2013入団の中堅男優。他の組も観たい(無理だが)。

タージマハル建設は歴史上存在した点だが、人の寄り付かない場所での二人の衛兵が職務の合間の暇つぶしに交わされる会話の中に飛行機やロケット、タイムマシンといった現代のアイテムに相当する代物が(空想上の発明品として)登場し、それだけで現代性を帯びる。世界一美しい宮殿タージマハルを作った者二万人の処遇について、王から下されたのは「二度と同じものを作らせない」理由で職人らの両手を切り落とす命令であった。・・

ネタバレBOX

劇団内的には登場人物2名、ダブルでも4名のみの演目が秋の目玉公演に。風当りが強かったのでは、と勝手に想像するが、本公演の「常連」でない男優の名前が並ぶ本企画は外野の目には嬉しく、はっきり言って当たりではないか。
一点、あの小さな劇場で席を市松に固定するのはどうだろうか..。カップル親子連れは連席、他との間に一席あける、で良いのでは。
チーチコフ

チーチコフ

劇団俳小

萬劇場(東京都)

2021/08/27 (金) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

結局観たのは千秋楽だったようで(分ってろという話だが)、少し硬く見えたのはそのせいか。最前列で表情が「見えすぎた」のか、それとも時々役者と目が合ってしまう事があったが(目立つ外見ではないと思うが)調子を狂わせたとか、または良い評判に答えようと肩に力が入ったか・・など、一方では面白おかしく展開する芝居に乗っかりながら、何故か頭では芝居の条件やら客演は誰かといった事を考えていた。寝落ちしそうになるのは我が体の問題で例に違わずであったが、どこか覚めてしまうのを超えられない所が正直あった。
恐らくこの舞台の作られ方・形式が「今の自分」の欲するのと少うし違った。焦点は音楽に向かう。
音楽は頑として変らぬ存在感を持つ(楽曲を変える訳には行かないから当然なのではあるが)。俳優、及び芝居本体と、音楽の配分、関わり、兼ね合いといった事だと思うが、観ながらの感じ方では音楽が前に出、作曲家がイメージを塗り込め過ぎであった。そのように感じてしまう具体的な断片は、コーラスガールの歌いの崩し過ぎな所であったり、上田享氏のピアノのサス(残響)の入れ方等音の存在アピールの強さであったりで、芝居に対する音楽の位置づけがどう決定されるのか、演出と音楽家の力関係は・・等も頭を巡った一つであった。
が、音楽は芝居を補完しており、それが狙いだった事に疑いはない。好みで言えば冒頭歌われるタンゴ調は素晴らしく、頻回挿入される「チーチコフ!」は頻回使用には耐えなかった。
対峙する芝居本体の方である。物語の発端である「死んだ農奴を買う」理由、チーチコフの目論見と勝算がきちんとは飲み込めないまま物語が走り出してしまった。音楽の時間と、芝居の時間、それぞれが理想的に共存したかったが音楽に引っ張られて進む時間の中でドラマは多面的な顔を出す余地がなかった、とは繰り言になるが、キャバレーチックな音楽は明快な物語にそぐわしく、不明さを残す所では些か邪魔になった。
ゴーゴリと言うと「鼻」「外套」など身近で小さなアイテムが大きな騒動を引き起こす様を通して、問題の個人より社会を笑う引きの視線がある(と言っても両作とも芝居でしか見てないが)。チーチコフという存在もそのようであるが、彼は何を欲したのか。

<会場変更/追加公演有>山中さんと犬と中山くん

<会場変更/追加公演有>山中さんと犬と中山くん

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/09/02 (木) ~ 2021/09/07 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

工藤千夏と言えば自分は渡辺源四郎商店の在京座員(店員?)という認識であったが、青年団演出部での実績(若手企画~後に青年団リンクうさぎ庵)が先であった。枠にとらわれない独自の動線を行く工藤女史が今回花組芝居役者らと組んだいきさつ、ないし狙いは知らず。前説によれば「コロナ下での模索」の紆余曲折の結果、現在の形となったという事でワークインプログレス的な出し物かと構えたが、中身は三部構成の「工藤テキスト」の上演(リーディング風)と、その合間の素の時間。平場との地続きの感触が趣向のようであった。
のっけから言いたくて仕方ない一言を言ってしまうと、(後で役者名を照合した)3名の花組芝居の役者の立ち姿が好きでない。主宰加納幸和氏の俳優姿は何度か拝んだがこれは別格として、3名の醸す空気と何を重ねたかと言えば、私は派生ユニットのあやめ十八番でしか「それ的なノリ」を知らないが、江戸を舞台の「時代物」(花組芝居の領分らしい)に漂うある匂いが役者の演技の質を高みから遠ざけている、その部分。
型の演技に対するリアリズムの演技の面の深まらなさは、やってる芝居の性質から来るもののように思え、今改めてあの「時代物」に自分が最も感じていたもの・・芝居の中身は忘れたが断片的な風景とその中で自分の中を巡った感覚を思い出し、再考することになった。
・・と大袈裟に入ってしまったが、今回の「素」と「上演」の垣根の低さは、果たして彼らの得意技であったか、という疑問が湧く。必死こいてたのかも知れないが、演劇では素の挿入も演劇的な作為でなければならない、という前提を敷けば、狙うべき焦点がしっかと据えられての「素」のふるまいではなく、アドリブ性の「演出」でなく、アドリブそのもの。そこで役者という存在の正体、根っこが問われる。どういう芝居をやっていて、どういう精神で取り組んでいて、だからどういう生活者としての矜持を持っているか、つまり「素」の役者自身という土台から「素」というものは発するのであって「素」という状態が代替可能なものとしてある訳ではない。・・・随分当たり前な事を書いて役者諸氏を馬鹿にした物言いになっているが、私が「好きでない」のはある種の役者というあり方なのかも知れぬ。
ファンには失礼だが「時代物」の多くが「大きな物語」としての「江戸」というブランド、そして歴史(事実)という重みに大なり小なり「おんぶにだっこ」している。パロディが成立するのはパロる対象のデカさ故、だからこそそれに拮抗する現代性、独自性、骨太なメッセージを見出そうと創意工夫する、という事な訳だろう。芯のある芝居はそこに生きる一人ひとりが生き生きと、リアルに、魅力的に存在する。その根っこに人間性への希求がある。さて・・。(言葉を飲み込む私。)

ネタバレBOX

余談だが後でパンフを見返して「西川浩幸」の名を見て少々驚いた(観劇前から判ってろという話だが..)。
芝居を見始めた20年以上前、まだ当時は劇場中継もテレビでやっていて、キャラメルボックスの芝居なんかも放映され、劇団の両頭上川隆也と西川氏のやたら元気に走り回り女の子にワ―キャー言われる役どころ、芝居は女子が好きそうな甘っちょろい(失礼)フィクションで「あ~世の中にはこんな起こり得ない奇跡で慰撫されたい観客がいるものか」と冷めた目で見つつも大真面目に叫び走る俳優諸氏の姿が印象に残った。
以来全く目にしていなかったので、実物にも気づかず、朴訥としたむしろ不器用な役、というより本人キャラに徹し、脳内で両者を照合するが今も結びつかない。ただある一瞬、持てる爪(能ゆえに隠している)がさっとよぎり、目に光が宿ったその瞬間この人は本来主役やれる人なのでは・・と一瞬予感しただけが両者の接点。
それにしても歳月は経った・・。

デンギョ-!(再演)

デンギョ-!(再演)

小松台東

ザ・スズナリ(東京都)

2021/09/01 (水) ~ 2021/09/07 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「山笑う」(初演=僕たちが好きだった川村紗也)と、もう一つ同じ頃観た「小松台東を発見!」と喜んだ舞台があったのだが思い出せず随分と探し、電気工事屋の職人が集まる控室が舞台だった気がするし正面奥にプレハブ用サッシの引き戸もあったと記憶するので「デンギョー!」だったか・・?とまで真剣に考えたが、結局「想いはブーン」であった。(記憶の中の印象とは程遠い「ほのぼの」という口コミが付されていた事でハナから除外してしまった。)
改めて「初観劇」の感想。近作に比べて筆に若さを感じるが、間と説明しなさの攻め具合は変わらず、最後まで判らなかった小暮と松本の夫婦役や終盤やっと判った下請職人(新婚という別の職人の相手が小暮だと勘違い)、後出しジャンケンな展開を松本の力技で正当化する部分など、自分の「読み取れなさ」故に見えたようにも思える穴が気になりながらも、左脳の理解度とは裏腹に終演時我に返って足を掬われた気がした。「よくぞ表現した」と言うしかない幾つもの断片の気づきもそうだが、数日経って振り返ると、いつか自分の中に巣食っていた「接触を遠ざける」感覚を、敢えて破る「抱擁」にあったのでは、とも思う。初日であった。

Le Fils 息子

Le Fils 息子

東京芸術劇場

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2021/08/30 (月) ~ 2021/09/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2019年の「父」が評判であった同作者による新作、タイトルもずばり「息子」は「母」に始まる三部作の三作目だとか。「ある息子」でなく「いわゆる息子」への眼差しのある、特殊と言えば特殊だが変哲のないと言えばよくある思春期の子と親の物語。フランス人演出舞台は初。演出は淡々とシーンを折り重ねて行く。人物らが渦中にある感情を観客は「演技を介した」記号として受け取る。だが感情移入を排してもそこに「ある」ドラマが、否ドラマのドラマたる所以が、やがて姿を現わす。
舞台を思い出しながらなぜかふと過ぎったのが映画「花様年華」(内容は全く違うが)。幾度も繰り返されるアンニュイなワルツと、どこか覗き見るような(思いきり寄っていようが変わらぬ)カメラの「眼差し」は、この舞台で言えば・・・簡素な装置(十分に「家庭」である事を教えるパーツはある)の無機質な転換の形式が、「実験台」に置かれた人間たちとそれを眺める観客との関係をやんわりと作り、音楽はどこかで聞いたクラシック曲が各場面に当てられ、微かな感情移入を助けるが逆に「いかにも」なニュアンスも湛えて微妙~な線を行く。(場面に寄り添いながらも、一定の距離をとっている感じ。)
お話についてはまた後日。

かわいいサルマ

かわいいサルマ

人形劇団ひとみ座

横浜市教育会館ホール《エコーレ》(神奈川県)

2021/08/18 (水) ~ 2021/08/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

人形劇の「不思議」にもっと魅せられたく、子供向けらしいこの演目にも出かけてみた。劇団アフリカとの共演とあるが、アフリカの童話のバックに3名がジェンベやアフリカ木琴等を生伴奏し、時折ステージにも出てパフォーマンスを行なう(観客参加の振付タイムもあり)。フィーチャリング劇団アフリカの趣きであった。
10日寝かせた正直な感想は、人形自身から滲み出る蠱惑的な雰囲気とテンポ感が、伴奏音楽に座を譲り、いささか勝手が違った。あくまで私の好みに即せばの話だが、「共存」は十分できたと思うがそれにはパフォーマンスの方を少し控えて頂かねばならないだろう(演出的に恐らく)。
前半大きく膨らんだ期待が、後半しぼんだ理由を考え中。

ネタバレBOX

お話はかわいらしく、ある緊張を持って進んで行く。冒頭、広場でいろんな遊びを遊ぶ子供たち、サルマもいる。ご飯に呼びに来る近所のお爺さんとの和やかなやり取り。サルマは目の悪い婆さんと暮らす家に戻って来た。婆さんはサルマの声に喜び、キスをしておくれと言う。ところが婆さんの方は木の置物を孫と間違えて抱き付いたり、今度は花の鉢植えを孫と勘違いしてチャーミングである。
お婆さんは早速サルマに町へお使いを頼む。スイカ、鶏、ジュース、等。サルマを知るらしい市場のお店の人たちはお金を受け取って品物を渡す・・大丈夫、大丈夫。
先ほど「緊張をもって」と書いたのは、生活の営みが人の繋がりの中で成り立つ様は、それが損なわれる因子をその背後に忍ばせているからである。
お使いの帰路、のどかに見えた町は暮れなずみ、建物や路地の影に紛れるようにして、サルマの道行を追う者がある。正体は犬、なのであるが抱えた物を持ってやると親切そうに接近し、徐々に図々しく、サルマが「お出かけ用」に身にまとったスカート、ベスト、ターバン、イヤリング等も全て自分の物にして去る。彼は満足したわけではなく、サルマをこよなく愛する婆さんもわが物にしようとサルマの家へ向かったのだった。
ここで、何でも欲しがる犬で連想するのは「千と千尋」のカオナシなのであるが、赤ずきんの狼もサルマの犬も、「与えられなかった者の病理としての欲・孤独」というモチーフが頭をよぎる。
もっとも童話としてのこのお話は犬が実際に婆さんの家に辿り着き、「おやサルマいつからそんなに鼻が濡れているんだい」「どうして毛がふさふさなんだい」といった赤ずきん風の「見せ場」となるのだが、この「犬も意外とチャーミング」の線を行くなら、この後、村の「神様」に頼んだ村人たちが犬を「コテンパン!」に懲らしめるという挙に出るのがどうもやりすぎに感じられる。何よりも、懲らしめのシーンが長い。水戸黄門なら仰山いる悪人共を成敗するには時間が掛かるだろうが、このお話の犬はさほど強そうでもなく、ただただ「厳しい制裁」の時間が続く。とっくの昔に「反省」してそうなのに。
ところで私が途中までこの舞台に見ていたドラマは、こうだ。犬はコミュニティの紐帯や信頼を破壊する存在の象徴。サルマの訴えを聞いた村人たちが「闘い」に立ち上がるシーンは、劇団アフリカの地を鳴らすような太鼓の伴奏に鼓舞され、熱くたぎって来るものがある。
道理を違えた悪なる存在、それは例えば昔、自らの持ち込んだ法を一方的に押し付け利権を構築し現地人を従属させた西欧人であり、未だに南北問題を再生産して改まる事のない現代世界の構造である。そうした存在に、徒手空拳で立ち向かう悲壮かつ楽観的な決意を、微かにではあるが、シーンの背後に見る思いがしたのだった。
が、犬は熱湯をかけられ、ぶたれ、とことんいじめ抜かれてボロボロにされる。物語的には「痛快」という事になっているのだが、しかし犬はただ人間の言葉を聞き分け悪知恵の働く「人ならぬ者」として存在し、処理されるだけに終わるので、どうもスッキリしないのである。
子どもたちがどう受け止めたか、心の声を聞きたいところであるが、私は勧善懲悪の「良い側」=「強い側」図式を教え込むだけの教材になってはしないか、と懸念がよぎる。まあ教育問題はさておいて、「感動」の観点から見て私は「子どもを舐めるでない」という思いが起こる。
それは音楽を活用した演出の問題でもある。音楽を活用する場合、明快なドラマの場面の意味を「増幅」するのに適しているのが音楽だと思う(稀に物凄く微細なニュアンスを表現する阿部海太郎や、殆ど環境音ほどに芝居に同化して気づかせない国広和毅といった音楽家を除いて)。
「犬」を何のメタファーとしてイメージさせるか、という所に一考が欲しかった。音楽の活用法も変わったのではないか。
4

4

ティーファクトリー

あうるすぽっと(東京都)

2021/08/18 (水) ~ 2021/08/24 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々のあうるすぽっと。最後は何時だったかと手帳を捲ってみたら1年半前、同じくTfactoryの「クリシェ」であった。その僅か2か月前「8人の女たち」をあうるで観ているが随分昔の事のように思え、「クリシェ」はつい最近な気がする。この記憶の錯覚はどこから・・?
無駄話はさておき。
証言を構成した舞台は一昨年の「ノート」もその範疇と言えそうだが手触りは全く違う。ある死刑囚の死刑を巡る立場の異なる4名がそれぞれ一しきり証言をするので「4」であるらしい。自身の証言かと思いきや、「うまく行かないので立場を入れ替えたい」とこぼす者があり、また最初から「証言」の時間が再生される。極刑判決を支持した裁判員の一人、刑務官の一人、死刑執行指示にサインを書いた法務大臣、そして死刑囚。ある種の思考実験の模様であるが、役者は5名。一名が脱落した事で、実験の進行役としてそれまであまり姿を見せなかった残りの一名が証言する役を買って出、最終クールの気配から収束へ向かう。
仮設ホリゾントのような白い可動式の壁面と床面には、証言者ごとに木漏れ日や抽象的な模様の映像だか照明が当たり、場所と時を特定しない異空間を作る。意味深な台詞とも相まって、果して証言者がその役どころを担わされた実験の参加者に過ぎないのか、設定に深く関与している(実は本人性が高い)人物なのか、峻別が危うくなって来る。
テーマは明確に死刑制度の是非という事になるが、証言で構成される物語が仮想でありながらリアルさを帯びる微妙なラインが川村氏の狙いである事は明白。ただし終盤は混沌として整理を付ける事なく観客は放り出されるが、実に感触の良い時間であった。この所必ずどこかで寝るのが観劇のスタンダードとなった自分だが、深い眠りに落ちた御仁が周りに散見される中、一度も寝落ちせず観た(台詞落ちは多々あったが)。役者が魅せる舞台でもあり。

ローマの休日と東京の仕事

ローマの休日と東京の仕事

リブレセン 劇団離風霊船

日本聖書神学校礼拝堂(東京都)

2021/08/24 (火) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

時間が出来たので急きょ予約を申込み、観劇した。離風霊船は数年前の『ゴジラ』が初で今回が二度目。前回の「楽屋」に並び企画性が目を引く事と、大橋・伊東両名の名も出ていない事からプロデュースに徹した公演?と、まあ特に気にもしなかったのだが先程HPを見ると演出・出演の松戸氏が離風霊船団員であった(そういえば前説も同氏)。
会場は神学校内の礼拝堂。特に違和感なく開幕を待つ。礼拝堂には演劇やパフォーマンスを行なう場所の性質を元来有している感じがある。この会場は外界とのディスタンス感もあり、内装は新しくシンプルで不要物がなく清潔感あり、出はけの工夫もなされ、暗転がない事を除けば十分に芝居がやれていた。
出入りに多用されるのが、礼拝堂ならではの長椅子を真ん中で分けて作った赤いバージンロード。
ドラマの方は穴だらけのコメディではあるが、歌あり俳優による生ピアノあり、うまい俳優が舞台を盛り立てていた。

ネタバレBOX

ドラマについて一つだけ注文を付けるなら、(今時いない)清純派で売る予定の箱入り娘(父の事務所に所属しマネージャーである母の指示に従って仕事をし窮屈な生活をしている)が、女優を夢見た原点である「ローマの休日」のヘプバーンの自由さとは正反対の自分自身に悩み、ローマの休日の「ロ」も口に出す事さえ封印する厳格な母という壁を乗りこえようとする前段から、いざ本人がたまたま出会った者たち(これがまた多い)にも助けられ家出(ローマへの旅)を果たす段になって母は元々娘を思い、彼女のローマ行きを見越し、応援している、という展開になる。どうも作者が最初の設定を書いてる途中で変えたのでは?と訝られる180度の転換で、この時このお話は「敵」を失い、容易に敵の見えない現代日本でぼんやりと自由を唱えて生きる等身大の現代人がそこに居たというだけの話になってしまった。
近い人間の悪、凡庸な人間の悪はコメディにはそぐわない?とも思えないのだが。。
「替え玉」の実態が全く想像できなかったが、そういう部分よりも何か私たちにとって卑近で大きな敵、ないし壁を越えて人生の新しい局面に立ったという、感動が薄かったのは少々淋しい。
愛が世界を救います(ただし屁が出ます)

愛が世界を救います(ただし屁が出ます)

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2021/08/09 (月) ~ 2021/08/31 (火)公演終了

映像鑑賞

本気モードのクドカンと<のん>の真剣お遊び舞台(そんな触込み?)に心惹かれていたところ配信を観られてラッキー。映像では編集の妙もあったか知らんがそれはそれ。
舞台は過去散見した宮藤官九郎のどの作品より濃く、パスタのソースをゼータクに麺に絡めて頬張る的観劇に五感が満足。(もっともオチのクドカンらしい気抜け、劇的高揚を演劇らしく作る松尾スズキとの違いは性格の違い?)
観ながらしばしば思い出したのは、その松尾スズキの「キレイ」。未来の日本、ディストピア、戦争、逞しく生きる者たち、強迫神経症な者たち、生物学的人間でない人間、ナンセンス、荒唐無稽な話・・と共通点が挙がるが、無茶苦茶加減は「キレイ」に及ばず。ただ、基本バンドによる限りなく演劇に近接したライブ、という変異種の強味は楽曲じたいの美味さ。歌、ギター、ドラム、サックス、キーボードと出演者がこなすステージは基本ライブに「演劇」なる濃厚ソースが掛かり、もはや演劇(でも元はライブ)という様態。美味なるシーンの羅列であった「キレイ」に並び、羅列礼賛論へと手招きする蠱惑的舞台ではあった。

【会場が変更になります8.7】A-hoj!2021

【会場が変更になります8.7】A-hoj!2021

プーク人形劇場

プーク人形劇場(東京都)

2021/08/10 (火) ~ 2021/08/14 (土)公演終了

映像鑑賞

全容が判らぬ内に閉会となったが、プークの劇団公演ではなく、プーク主催イベントであった。イベントの目玉だった海外の9団体による上演が来日叶わず映像配信、新宿のプーク劇場では国内18団体が各1回の演目披露という4日間のプログラムである。
現在、海外グループの作品を9月初旬までバラorセットで有料配信中。

国内演目については無料配信があったが自分は最終日に発見、この書き込みはその感想(7割方視聴した)。
人形劇の演目は半数以下で、ジャンルもバラエティに富んでいたが、全体にクオリティは高かった。マイム、演奏、大道芸・・見た事のない芸を贅沢に味わったが、自分的にはやはり「人形劇」である。
子ども向けというプークの出し物はローラー車を(機関車トーマスみたく)擬人化してその活躍ぶりを見せるお話。大人が見て楽しいものでなきゃならん(子どもも楽しむには)、という持論からするとつらい部分があったが、手作りな仕掛けの考案が注目どころ。
八王子車人形西川古柳座は伝統的演目をダイジェストで紹介。文楽人形サイズの人形を基本一人で動かし、しぐさの「型」が見事で伝統芸能の「習得」の年月に想像を馳せた。
かわせみ座は「観た」はずだが場面を「これ」と思い起こせない。「おっ、なかなか」と感じた記憶のみ。
糸あやつり人形劇団みのむしは時代劇「岩見重太郎・狒々退治の段」のダイジェストという事だったが、自分にはやはり糸操り人形のシュールさが来る。人形劇とは即ち「人間でないもの」に人格を仮託する営みで、観客は人間でない事が判っている。だから逆に「人に似せることの限界」の中に、その真髄があると改めて思った所である。

さて海外作品をこれから、つまみ食いで観てみたい。
・・と思ってたら終わっていた。。TT
カンフェティでの視聴期限が9/8までで、まさか販売期限が8/24とは・・配信はまだやってるのに・・見せて頂戴!!

化粧二題

化粧二題

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2021/08/17 (火) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

渡辺美佐子の持ちネタであった時期、退く何年か前に観ているが、幕間から小屋取り壊しへとドラマティックに展開する後半は後年に追加執筆されたもの、という事だった。「二題」に収められたのは旧作だろうか。後半はない。
一人芝居だが客いじりあり、エアの相手役とのやり取り、又は相手の台詞まで言うパターンありと自由。
久々に見た有森也実はまだ可憐さを残し、女座長は背伸びのキャラながら演じきっていた。内野聖陽は聞かせる声を自在に使い貫禄である。

追記 この日は初日だったのだな。十日後に気づいた。ネタバレにて注文を付けたが、楽日を観たい気がもたげてきた。

ネタバレBOX

男版「化粧」は、内野氏がこなしている分、戯曲の方の「無理」が見える気がしなくもない。
ベテラン座員がトンズラを決めたその日、折しも彼が幼少時に入った養護施設の元園長(と書いたが解説によると「先生」らしい)が訪ねてくる。母への恨みをバネに生きてきた男に、母に対する考えを変えろと外人の先生は言う。「瞼の土俵入り」(長谷川伸のパロディと思われるが詳細不詳)が当日の演目だったが、逃げた座員の代役を、自ら衣裳を着ながら若手に仕込むやり取りは見事。芝居の場面が描写され、役者が押えるべきポイントを代役の役者に伝え、本人は関取の主人公になっていくのは、女版で喋くりながら「化粧」が塗られて行くのと並ぶ見モノ。
ただし芝居は劇中劇の母とを重ね、男は涙を拭い払っていざ舞台へ出て行く終幕となるが、これがいささか強引な運びに見える。あるいは、内野氏に盛りを過ぎた大衆演劇の座長のくたびれ感がないのが憾みであるかも知れない。もっともパリッとやってもらわないとサザンシアターの客席の方は沸かないから難しい塩梅だ。
カメラ・ラブズ・ミー!【兵庫公演中止】

カメラ・ラブズ・ミー!【兵庫公演中止】

ムニ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/08/19 (木) ~ 2021/08/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

平田オリザ直系の現代口語演劇ユニットは多いので突出した印象を残しにくいが、ムニ又は宮﨑企画はどこかで観て「悪くなかった」との記憶だけある。
「須磨浦旅行譚」は殆ど事件らしい事件は起きないが(いや事件と言えば冒頭の「遭遇」がそれだと言えばそれで道程にさざ波を与えているが)、日常と旅の混じる小旅行独特な気分が伝わり、質素感が何とも言えず心地よい。女子二人に同道する事になった青年が不思議と馴染み、一期一会の切なさ(刹那さ)が旅気分を嵩増しする。若者だけに長い人生の旅に重なり、重さの中の僅かばかりの明るさが「戦前?」と思わせるばかりに慎ましい。無常感というのがむしろ近いか。
こちらが良かったので短編二編の方も観た。不可思議な「回る顔」はメタファーを読み取れず。後半の「昼間森を抜ける」は題名が謎だが、「須磨浦」以上に一期一会の含蓄あり、異性との儚(はかな)切ない一風景を切り取り、人生の長さの中に据えている。秀作。
地味に逞しい女子といじましい男子の小さな出会いは、数日後の「じゃ、また」で締め括られる短い電話で終わる。男は未練だが女はあっさり、が通り相場だが女性作家が敢えてこの残像をラストに据えた意図は何?と淡い期待をもって詮索する。男にとっては老いるごとに強烈になっていく思い出の一つ(と芝居でも明かされる)だが、女にとっては・・?
南風盛もえが「須磨浦」と共に出演、不思議系な女子を好演。

ヒッキー・カンクーントルネード

ヒッキー・カンクーントルネード

ハイバイ

すみだパークギャラリーささや(東京都)

2021/08/11 (水) ~ 2021/08/26 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ハイバイの芝居は戯曲の要諦を飲み込んだ作者以下ベテラン俳優の技量とアンサンブルに支えられていた・・その事を少し前に観た「投げられる石」、続いて今回も感じたのだが、ここまで書いて、このかんの試みは岩井氏による自らの戯曲の普遍性を問う挑戦なのではないか、と推測。
「投げられた石」も「トルネード」も、いやハイバイの芝居全て、笑いのポイントがあり、それと背中合わせに冷厳な事実の仄めかしがある。「痛い」話の「痛さ」が見えなければその反動のインパクトがなく、「痛さ」が深すぎると「笑い」が成立しづらくなる・・。絶妙な塩梅がハイバイの芝居には必要で、それを担える俳優をやはり選ぶのではないか、というのが(作者には不本意かも知れぬが)このかんの正直な感想だ。
もっともこれは「大変美味しく成立」した過去の舞台を基準にした評価であり、今作のラストはやはりこみあげてくるものがあったが。。
役者は映像、舞台で活躍する若手で見てくれも良く芝居も流暢だが、平原テツや永井若葉に近づこうにも及ばない一線がある、という感じがある。(劇団員である事の違い?人間の仮面を容赦なく剥ぎとって憚らない身体、含み、毒気・・)

ネタバレBOX

みちのくプロレスという存在がえらい。
母役を両チームとも男がやっているようだが、この変則技は目覚ましに必要だったのだろうか?・・と、自分が観なかった「トペ・コンヒーロ」の役者陣を見てみると、こちらの方が破壊力ありそう。「ある女」の主人公(岩井秀人)と同じく、身体が「女性」から掛け離れている所から入る効果を想像。
しかし「拝み渡り」って何。
“だいじょうぶじゃない”短編集

“だいじょうぶじゃない”短編集

果てとチーク

アトリエ第Q藝術(東京都)

2021/07/22 (木) ~ 2021/08/15 (日)公演終了

映像鑑賞

青年団若手企画「升味企画」で観た劇は、とあるサークル内の現代女子の生態に宗教的要素、超自然要素を投入した感触良い作であった。今回の短編も若者の生態を窺うそれぞれバリエーションに富む4作。超自然やSF要素やが入り、そちらに目を奪われるものの、全体に漂うのは現代日本の断面、といった感じである。
二つ目、三つ目は台詞の聞こえに難あり。それぞれの趣向と味があるがもう少し観客の方に寄り添っても良い。一つ目と四つ目は日常が舞台なので分かりやすく、考えさせるテーマに触れ問いを投げていた。

勅使川原三郎版「羅生門」

勅使川原三郎版「羅生門」

KARAS

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2021/08/06 (金) ~ 2021/08/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

笙奏者とのコラボが以前評判だったので此度は観に行った。今作はそれに加えて仏人ダンサーを招き、アンサンブルの女性ダンサーが5、6人加わって舞台上は熱を帯びる密度。
「羅生門」は芥川の原作の世界(黒澤映画のでなく)。人が飢え荒む戦の世の抜き差しならなさを基調に、多様な場面が息つく間なく展開。KARASのスタイリッシュの要素は照明、音(音楽)であるが、「青い目の男」を思わせるエッジの利いた音と照明の中で踊る勅使河原、対照的に悠久の時に流れる笙の音の中で踊る佐藤利穂子、意味深で混沌とした音の中で勅使河原と超絶に絡む仏人ダンサー。
笙奏者とのコラボ、という念頭で観に行った自分としては、笙の場面は3場面と少なく、また笙と全く相容れぬ(和の音でもない)音が観客の現代感覚にアピールするのと比してバランスが気になった。
だがラスト、掠れたような笙の小さな音に儚く舞う佐藤の舞いでフェードアウトとなる。ニュアンスを作り出す勅使河原氏の才能にはやはり感服する。
その上で・・「羅生門」という題にさほどまで忠実でなかったようにも。

一九一一年

一九一一年

劇団チョコレートケーキ

シアタートラム(東京都)

2021/07/10 (土) ~ 2021/07/18 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

昨秋配信限定の『無畏』から『帰還不能点』そして今作とコロナ以降の劇チョコは全て配信で鑑賞・・と書いた所で「待てよ..」と手帳を見たら、「帰還・・」は劇場で観ていた。
思うに記憶の中の「帰還」の風景が定点観測的で平板なのでそう勘違いしたらしい。芸劇の後部座席だった。不思議に「無畏」と「一九・・」の方は残像が濃いが、考えてみれば自分はやはり映像の世代で、俯瞰と抜きを組み合わせた「映像言語」の雄弁さが「生」より勝ってしまうのは自然なのである。ただし、「生」を見るレベルにまで集中力を高め、入り込むまでが映像鑑賞の場合ハードルである。今回の『一九一一年』も一度観た時は殆どの時間意識が飛んでおり、脳が覚醒した状態で集中できたのが配信期限間際の事だった。

余談はさておき・・日本近現代史の中心部に踏み込む硬質な歴史劇が三本続き、前の二作とも懐を掴まれる内容であったが、本作も見事な出来だった。歴史事実のスピンオフでなく事実の本質を抉り出す入射角に感服する。
本作の焦点は、明治末期「近代国家」を目指した日本司法の罪刑法定主義、法治国家の理念を大きく踏み越える「大逆罪」の立件・訴訟が為された事に対する、法律家の受け止めである。
法の正義の遂行を自任する法律家(本作では若い判事・田原)にとって、大逆事件は法が大きく捻じ曲げられた出来事であった。
「目的」のためには手段を選ばず。原則を違えてでも目的を遂行する。「原則」という所がミソである。戦前、旧憲法下では国家は何でもやれたわけではなく(法の構造の不備は戦後指摘された通りだが)、原則とすべき事は存在した。立憲制による文明立国を目指す大義あってこそ、それへの貢献とその結果としての立身出世は栄誉であり、競争を勝ち抜いた勝者である事の意味は個人でなく社会に還元されるものだ、というサイクルが成立していた(戦後においても暫くは)。
物語は田原判事を26名の被告の紅一点、菅野須賀子と対峙させる。一個の「自由」な人格と遭遇するのである。「他に現実を乗り越える術のない者らがたまさか見た夢物語」だ、と田原は彼らの社会主義、無政府主義の本質を看破して言う。1911年1月18日、24名に死刑が宣告され、「思想撲滅」の特命を帯びた「難しい裁判」を成功裏に終えた美酒を要人らがかわす中、田原は上のように言い、全員の「特赦」を求める。
謀議を為した4名(他の22名は検察のでっち上げによる冤罪)を含めて、彼らは「夢を見たに過ぎない」とその人間性を愛おしむ田原の眼差しは、当時そのような判事が存在したかどうかはともかく、共感を誘う。
物語は「当然のことを当然のこととして」描いた、かのように見えるが、はたと立ち止まれば、原則を違えることを国に許している己らが浮かび上がる。誤りを正させるべき責任を、多くの民が放棄しているのがこの国の現実だ。

ネタバレBOX

配信について言えば、我が家のPCディスプレイはやや大きめで鑑賞には耐えるが、日常空間での鑑賞の困難は「入り込む」必要がある事。「さあ観るぞ」と腹を決めて2時間、PCの前に座る。だが雑念が過ぎりそうになるとストップし、次の機会に回すなんて事も多々ある。こと劇チョコの芝居はぼんやり見ていても入って来ない。一度流して観たが7割がた意識が飛んでいた。「んんごめん。今は入れん。」と止め、何度かトライし、結局は休日遅い寝起きで意識の覚醒した時間に観ると、台詞の音が脳に鮮やかに意味変換され、ようやく「劇場で観るように」観ることができた。配信最終日、間に合った。
・・白状すれば配信映像を値段の高低に関わらず結構見損ねている。一度は観ようとするのだが「入り込む」までのハードル、コンディションを選んでいると日が経ってしまう、など。あと音量を調整しないと台詞を聞き逃すのでそっちの作業も集中していなければやれない。小さな音でも聞こえる音量にしていると、SEやMが入って爆音になったりする。
段差インザダーク

段差インザダーク

コメディアス

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/08/11 (水) ~ 2021/08/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

中々うまい線を行っていたと思うが、観客の心ない観劇態度で大いに邪魔をされた。しばしば話題になる「笑い男」が今日もいて、相手にしたくはないが、冒頭から「ちょっと先に笑いをぶっこむ」という本人だけは「してやったり」と快感だろう高笑いのせいで芝居の滑り出しを掴みそこねた。
が、それでも土台もしっかり作った芝居はすぐさま様相を現わし、和製インディジョーンズらが遺跡から重量級のお宝を台車で運び出そうとして突如現れた「段差」と格闘するお馬鹿芝居を追い始めた。
その後は男の笑いも気にならず芝居の道筋が辿られて行く。いい頃合いに新たな登場人物が加わって意外な展開をもたらす。冒頭から登場の三人の会話がほぼ「段差と台車」の試行錯誤だけに終始する所、新たな情報は新人物からしか持ち込まれない、という作りが潔いというか、馬鹿馬鹿しさに拍車をかけていた。
あと木乃伊の作りがうまい。包帯の裂け目(目の部分とか)を黒塗りしてあるのがちょいグロで笑う。
プチな笑いネタにももっと目を届かせたかった。

ネタバレBOX

愚痴の続き。
男が静かになったと思っていた後半、隙を見つけたかのようにボリューム満点の高笑いをぶっ込んで来た。
そこは笑いどころ、ではあったがその含意を読み取る時間には個人差がある。私はその笑いの直後「なぜ?ああそういう事か」と意味は分かったが、おかしみはかき消され「意味」しか届かない。作り手としてもその後の役者によるツッコミ台詞で観客が公然と笑える段取りであったと見る。つまり、速攻で、大声で笑うようなタイミングではない。
明らかに芝居を邪魔しており、作り手が提示する「作品」を多様に受け取る余地を狭める行為だが、日本人は大人しく聞き分けがよく寛容で、況んや劇場という場では尚更寛大でありたい。
だがそろそろ作り手と観客双方に損失を与える行為に対し、何等かの対応を考えた方が良いのでは。(本人は芝居を盛り立てている功労を自負しているに違いなく、そういう場面もゼロではない事は認めるが、差引きマイナスなのは明白。)
自分が狭量の部類である事を自覚するが、いつかこの人物の名前を掴み、予約の際にこの名前の予約がある公演は極力避け、開示を拒む制作担当にはこの人物が如何に他者の芝居の見方を「これ見よがしの笑い」によって狭め、それを喜びとしているかを説明し、できれば来場を丁重に断って頂くような対処を求めるつもりだ。
独り言(愚痴)にすぎぬが、宣言しておく。
雨花のけもの

雨花のけもの

彩の国さいたま芸術劇場

彩の国さいたま芸術劇場 小ホール(埼玉県)

2021/08/05 (木) ~ 2021/08/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ほろびての名は目の端にあったが未見。さいたまネクスト・シアターは蜷川氏の死後、「第三世代」等3つばかり観たに過ぎぬ。何をもって「最終」かは、説明されない所を見ると大方行政の事情だろう。
今回の舞台は、俳優たちの力を存分に証明し、若い作家の可能性も確かに感じさせる公演となった。
岩松演出は作品の世界観を余すことなく具現する空間、豪奢な装置、調度、衣裳を配し、有終の美を飾るに相応しかった。力作である。

ネタバレBOX

「人間をペットにする」という文字だけ見ればセンセーショナルであり、劇中もこれを「違法」とする外部の目が一瞬登場するが、「あり得なくない」風景に見えた。
「飼われる」側は、その「庇護を要する」性質において「飼う」者の目には魅力を放ち(女性にそれを求める男もいる)、飼い主とペットとの関係は小説では珍しくない倒錯の一形態に見える。現代に散見される人間社会や関係の構造の縮図に見えて来るのが不思議であった。
人間の束縛とそれへの反抗といった明快な図式では語れない(パンフで徳永女史が書いた「グラデーション」が言い得ている)人間と人間社会の相貌は、物事を単純化して描写し解釈したがる昨今の日本社会では異端だが貴重だ。
単純化は排除を生む。
本作の「愛すべき」世界観を体現したネクストの俳優諸氏の今後の活躍に期待したい。
丘の上、ねむのき産婦人科

丘の上、ねむのき産婦人科

DULL-COLORED POP

ザ・スズナリ(東京都)

2021/08/11 (水) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

DULL-COLORらしからぬハートウォーミングな(他に想像のできぬ)タイトルが、一つの謎掛けである。
蓋を開ければ・・包摂を旨とする「ねむのき」のイメージそのまま。だが語られるのは「場」ではなく、医師も看護師も登場せず、場を訪れた夫婦(カップル)数組のエピソードが綴られていく。
「妊婦」という縛りが窮屈に感じない普遍性、「新たな命」といったありきたりな感動のパターンに収めない、不思議な手触りの舞台であった。
タイトルは「守り」でなく「攻め」。私なりの謎解きだ。

ネタバレBOX

男女入れ替えの回であった。当日の谷氏の説明を聞くまでこの趣向を知らず、当日は入れ替え版の初回と聴いて不安が過ぎった。全てカップルの話なので(周辺人物はほぼ女性で、男優が女装で登場という案配)、双方が逆をやるのだが、通常バージョンではこれが入れ替わるのだな、といった想像・想定をしながら見ていた。そう見てしまう時間が長い。という事は、違和感を解消・フォローしようと色んな想像をする余地があるという事。感情移入したり、ナチュラルな「現象」として芝居に見入る観劇にはなり得ない。
試みの限界について考える意味もあるだろうが、その中で不思議と納得させられる「現象」を見る時間もあった。男優がどうしようもなく男の身体と風貌を持ちながら、女を代弁する尊い使命を感じさせる瞬間である。女が男を代弁する事の方が難易度が高く見えたが、中には身体をニュートラルに、男を代弁して見えた場面もあった(もちろん男一般のイメージでなく特定の人物として)。
ジェンダーの考察より前に、役者の「演技」の考察へと導かれる。高校生がお婆さんを演じて成立する芝居もある。老優が少年を演じるという事も。性を違えた役を演じる事もそうであるし、動物を演じたり、逆に人形に人格を仮託するという表現は成立する。この謎は、深い。
新作能 『長崎の聖母』『ヤコブの井戸』

新作能 『長崎の聖母』『ヤコブの井戸』

銕仙会

座・高円寺1(東京都)

2021/08/04 (水) ~ 2021/08/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「新作能」とは「古典」に対する謂いで、多田富雄作『長崎の聖母』は2006年初演、ディートハルト・レオポルト作『ヤコブの井戸』は2017年初演。新鮮な体験となった。
シアターXのユニークなコラボ企画で最近目にしていた清水寛二氏が真正の能舞台で堂々とシテの貫禄を滲ませている。「亜流の人」と勝手に認識していたので意外であった。
個人的には昔よく見た能楽堂や屋外(薪能)の古典作とも異なり、演劇観賞者として見た現代能楽集や能のエッセンスを入れた舞台とも当然違う。能の形式にのっとった能楽師による「能」(複式夢幻能)にして、テキストは現代のものであり趣向が盛られている、という形は初めて観た。霊が登場し、舞を踊る。ワキがそれを眺め鎮魂の祈りを捧げる・・この形式が現代の文脈でも生き、「今」に迫る演劇の高揚がある。囃子方、謡い方が作る高揚にこれほど揺さぶられる体験も、初めてである。

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