泥人魚 公演情報 Bunkamura「泥人魚」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    新宿梁山泊のテント芝居が実力派俳優の客演でコクーンに出現!の趣きである。金守珍演出第二弾の「唐版 風の又三郎」が空間的スペクタクルに酔わせる作品とすれば、本作は言語によるハンドリングの比重が大きい印象。唐十郎戯曲の本質とは言葉一つで風を起こす(実は観客に想像力を駆使させる)ものである、との勝手な仮説で言えば、テントという小宇宙だからこそ、言語によるスペクタクルが屋台崩しのファイナルでせめて空間的スペクタクルを具現して溜飲を下げることが可能。というのが(私が唐戯曲を多く味わった)梁山泊の芝居であり、いよいよ金守珍は唐戯曲をテントでない劇場・・装置の置き場に困らない広いステージと座って痛くない椅子のある劇場で、日和らず(唐ファンでは必ずしもない)観客の前にストレートに差し出したのだとも見える。
    作家・唐十郎としては晩年の戯曲になる今作は、まず台詞に負わせた「飛躍」の度合いが従来作以上に高く、また物語を動かすアイテムとなるキーワードとキーマンも従来作以上に多い。生々しい現実の断片と、詩的イメージに属する断片は、小賢しく擦り合わせをする事なくぶっきらぼうに並存する。

    本作が実際の社会イシューの暗喩であると判るのは、「諫早」という地名が出て来た時。芝居の前半で「湯たんぽ屋」に必要な材料であるブリキの板が景気よくエッサと運び込まれるが、店の中に一列、上手から順々に並べられる、という奇妙な場面の伏線が、そこで氷塊する。
    (あるいは初演当時、観客はあのブリキの板の列を見ただけで諫早のギロチン板を想起したかも知れぬ。)
    当地での農業と漁業の利益相反を、元の自然を大規模に改造する事によって片方に利するという無理筋な政策が、通ってしまうのを見て胸が痛くなった人は少なくないだろう、私もその一人だ。
    作品はこの一つの現実に対する唐氏なりの昇華、というより代償行動の賜物で、観客にとっては未解決な元ネタが現実に存在し、しかもドラマの背景にとどまらず中心に絡んでいるという点で、特殊な演目ではないかと思う。

    海へ帰って行くやすみは、船で育った来歴から人魚の化身と噂されるが、作者が地元諫早の「外」から持ち込んだアイテムである人魚は、外海から遮断された壁の中で滅んだに違いない生態系の象徴であり、この物語は「既に死んだ」存在への鎮魂歌となっている。ここで言う「死」は物理的な死にとどまらないだろう。あの光景を見て、何かが死んだと感覚させる源を、説明する事はできないが、唐十郎がラディカルを込めようとした作家魂は確信される。

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    2021/12/29 02:54

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