クリスマス・キャロル 公演情報 劇団昴「クリスマス・キャロル」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    同じ劇場(座高円寺2)で観た「ラインの監視」が初の昴であった。「クリスマス・キャロル」は座高円寺のラインナップに上ったので注目した。隣のオバさんペアの会話によれば「この劇団はこれずっとやってる」恒例の演目らしく、ネットによると前回の2017年まではほぼ毎年あうるすぽっとで上演、本拠地三百人劇場閉館の2006年頃からのデータでは菊池准台本・演出、やがて同台本を河田園子演出、エスクルージ役はほぼ金子由之とあり、近年の6回は12/24・25劇場ホワイエでの無料公演となっている。だが4年空けて復活した今回は、海外の脚色版を河田が演出した有料公演である。劇場も変わり、スクルージ役は宮本充、新版クリスマスキャロルであった。
    過去データを調べた理由は、「長くやっている」舞台にしては・・?というちょっとした違和感。当初から音楽は上田亨となっているがシンセ音の伴奏が今風。演劇アンサンブルの往年のレパ「銀河鉄道の夜」のような磨かれて黒光りした感がなく、後出しじゃんけんのようだが「新版」だと知って合点が行った。
    この原作には昔からピンと来ない所があって、今回は芝居を観て改めてその事に思い当たった。一人のリアルな存在が変化して行く過程というより、グラフィックソフトで合成した顔のように色んな「困った人」の要素を詰め込んだスクルージという存在と、対比させる形で理想的な人間のあり方を提示した作品、という風に解釈すればスクルージの言動の矛盾も気にならないのだが、芝居となるとそれを追ってしまう。「困った」要素を脱して理想に近いスクルージとなったラストの場面は爽快で、これは私流に言えば自己矛盾なスクルージを辿る時間を脱して、自我同一性を獲得した事による気持ちの良さと、「良い人間になった」喜ばしいラストとが混同され(という言い方が意地悪ければ、重ねられ)、劇的高揚とともにラストを迎える事が出来ている。
    つらつら振り返ってそのように納得されたものである。

    ネタバレBOX

    スクルージという人物の「問題性」は、人間が等しく陥りがちなネガティブ思考やニヒリズム、偏執や失意の状態など諸々相矛盾するあれこれであって、これらを彼は担わされている。
    スクルージとは私たちである、その象徴的存在としてある、という解釈が最もそぐわしいが、そのように整理されるためには小説を書き起こしたような台本では解決しないだろう、と言って、原作のそれぞれ魅力のあるエピソードを使わないのではクリスマスキャロルにならない。厄介な原作だが、観る側が小説の趣旨を汲んで味わえば良いだけの話かも知れない。が、話を続ける。
    一方「スクルージ以外の人々」はどういう存在か。つましく生きる善良で希望を捨てない信仰篤い人々、となっている。だが彼らが等しく貧しさの中に幸福を感じる生活ができているのは、実はスクルージという悪い見本があるためで、その対照として輝いて見えているというのは物語の構図としてだけでなく、現実にもあり得る事ではないか(だとすればスクルージは最大の貢献者だが、まあ極論はおいておくとして・・)。
    彼らはスクルージ(つまり困った人)の「隣人」として描かれている、というのが妥当に思う。部下とその家族、甥の家族、町の人々、またわざわざ彼の前に登場して過去・現在・未来を見せて回る聖霊たちは、スクルージ一人を慮っている。この一対全員という対比が連想させるのはやはり聖書の99匹の羊と一匹の羊の譬えだ。神は迷える一匹の羊を他の九十九匹より大切にされる、という話。
    物語の方は、彼が改心した後の顛末を喜々として描く。彼はお金に「固執する」ことを改め「ほどこす」ことを選び、挨拶さえ交わさなかった彼が挨拶を返す事で人を驚かせ、友情を育むことを選ぶ。ただし物語が記す振る舞いはお金持ちにしかやれない行為である。彼はコツコツお金を貯めた期間があったからこそ「お金に頓着しない」態度が可能となり、美徳を示せたのである。(これを読んだ人は仲良き事は良き事、という教訓を学ぶだろうが、そのためには財産を持つのが最も良い、という教訓も学ぶ事ができる。)
    だからこの話は、キリスト教精神を説くお金持ち向けのお話、譬え話だと位置付ければすんなりと飲み込める。天国に持って行けないものを積むのではなく、徳を積めよ、との結語へ導くための遠大な譬え話である。

    こうした突っ込みをかわしてなお成立するクリスマスキャロルであったか否かが、私にとってはやはり大事だ。
    特にスクルージが「変わる」きっかけが、実はよく判らない。変わった結果=人々と情を交わし合う姿は美しく描かれているが、では彼はそれまで何が原因でどういう状態にはまっていたのか、が曖昧なので、何をきっかけに彼が変ったのかはよく分からないのである。
    舞台の方では、第一の精霊が彼の幼少期、青春期の甘酸っぱい思い出や「失敗」の体験が点描されるが、「それゆえこうなった」自分を彼が自覚しているなら、動揺しないはずだ。それが、この第一の段階で「もうやめてくれ」と泣きが入り、黙秘を続けた犯人が刑事の前で折れるように「正解を知っていたが拒否していたのを飲み込ませた」という感じになっている。では彼は何故「折れた」のか、そこも判らない。スクルージという人間の軌跡を厳密な意味で追う事ができない作品にやはりとどまっている。
    ただし、この新版の戯曲のちょっとした脚色だと思われたのは、第一の精霊の前でいとも簡単に崩れるスクルージだが、第二の精霊(現在)は彼が現在接点を持つ従業員の家族、また甥の友人仲間の場面に同席し、彼らのスクルージについての会話を聞くが、彼は既に人間への関心をまるで子供のように取り戻しており、彼らとの交流をしたい衝動を抑えられない(が、彼らにはスクルージは見えないので交流はできない)、という描き方。そして第三の精霊(未来)が恐ろし気な姿で現れた時、スクルージは既に予感して彼に「私に未来を見せようというのだな。」と言う。弔う者もいない孤独な死者が横たわっており、義理でそれを運び込んだ者らが「こうはなりたくないな」等と捨て台詞を吐く。既に人間性を取り戻したスクルージに対し、ダメ押しで見せなくても良い場面を作っている、というのが(原作においても)きつい所だが、やはり過去、現在、未来という展開に作者はこだわったのだろう。でもって作者はスクルージに「あの男は私なのか?」と聖霊に訊ねさせている。「あれが本当の未来なのか、それとも私が変らなければああなるという警告なのか」とまで。未来が決定されているなら、それはそれで受け入れるしかないものだが、作者はスクルージを「変わる余地があるなら変わるが、余地がないなら変わる努力はしない」心の持主だと描きたいのか、あるいは警告というものが人間にもたらす効果を描きたいのか・・ここはどうにかしたい場面の一つである。そもそも「現在」の場面で効果や目的にかかわらず人と関わる悦びを発見(再発見)したスクルージが居るのに、その下の次元に後退させる必然性がない。
    もっとぐじぐじと文句を垂れるなら、「過去」の彼の選択は彼を孤独の道へ導いたことを示しているが、彼はその事の後悔をどこか抱えていて、それを忘れるため、否それを正当化するために金に固執する道を邁進し続けていた、と理解できる。だがそれは端から分かっていた事で、確信犯なわけで、過去の場面を見せられただけで動揺するかな~と思う。そして「現在」において彼はすっかり変わったスクルージを演じるが、金のある無しに関わらず、人との交流を楽しむか楽しまないかは選択の問題、または性格の問題で、彼は何が変ったのでそうなったのか、というのが判らない(先も述べたが)。
    ストーリーとは別に、以前も「文句」として書いてしまった上田亨氏の音楽。氏が担当と知らずに舞台を見始めて、やはりあのシンセのような音と、エコーの使い方が耳についてしまう。感動的な楽曲もあるが、良い曲とそうでない(好みでない)曲とがある。私が優れていると感じる劇伴作曲家との違いは、音楽が前に出過ぎている事だ。音楽の色に場面を染めてしまい、場面を主導する位置に立ってしまうため、好みが違うと興醒めしてしまうのだと思う。

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    2021/12/12 09:00

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