海王星 公演情報 パルコ・プロデュース「海王星」の観てきた!クチコミとコメント

  • 映像鑑賞

    満足度★★★★

    この入場料ではまず劇場観劇は無しだが、配信があるというので、寺山修司作品を、我らが真鍋卓嗣(小劇場演劇の演出では第一線)がどう演出?という興味で拝見。(出演者で気になったと言えばなじみある内田慈、「彼女と言えばこう」というイメージを破り、健闘していた。)
    だが色々と物足りなさを語れば尽きない舞台であった。配信は「音」に難があり、できれば2回見ようと思っているが、今回は短い配信期間の中で都合2回、鑑賞できた。よって芝居の全容もほぼ把握できた。

    冒頭の歌から全体の歌に行く出だしの運びは寺山舞台の要素があって良かった(主要人物以外は皆、白と紅の白粉でアングラ感を出し、灯りが入ると人形のように静止し、ホテルの広間の上部のプラットホームが演奏エリアなのだが、指揮者が神然として人間界を音で翻弄する的な風情。)
    しかし・・寺山作品にしては「ひねり」が無い。戯曲としての出来は確かにありそう、ではあるが、それより気になったのは、主要人物の台詞の「言い」にひねりがない。ある感情を直線的に表現する。(白塗りのコロスは「いかがわしさ」を漂わす演技をやっていたが、コロスとして一体的に存在している感はなく、リアルな演技と見分けがつかない。)
    特に気になったのは、松雪泰子がスレた女が若い男にのめり込む大胆な演技に振り切れず、歌もあまりうまくなく(これが決定的か)、おっかなびっくり演じている。映像畑が長いせいかショットを撮らせる的な「見せる」演技にとどまり、内から滲み出るものが少ない。(この女優の限界を感じたのは映画「フラガール」のラストで、非常にもどかしく勿体なかった。)今回は主役と言える役、だのに。。

    寺山戯曲に臨むなら、役の二面性、多面性、要は二重人格?くらいに切り替える謎めきの度合いが欲しいが、全体にストレート演技である。にも拘わらず、テンポは緩い。たっぷり演技は「探る」演技との定理が当てはまるか。本来複雑な(つまりひねりのある)人間感情が、埋まらない感情表現で時間が緩いので、上演時間の長さの理由はこれか、と思う。
    コロスたちの一癖二癖あるキャラとの対比を、演出は中心人物(山田裕貴、松雪泰子、ユースケ・サンタマリア、伊原六花)に求めたのかも。
    ひねりと言えば、音楽にもひねりが少ない。個々の楽曲ではユニークな成功しているものもあり、才能のありかは認められるものの、芝居が語るものを受けて芝居が語れないものを埋め、繋ぐバトンとなる楽曲でなければ、音楽劇である意味はない。台詞の説明のための楽曲が散見され、何とか「台詞を喋った方が良い」というレベルは脱していたが「台詞を言うより断然いい」という場面を作った楽曲は限られていた。
    本舞台はミュージカルではないにしても「畑違い」である真鍋氏がてこずったのは音楽担当だったのでは、と勝手に推測。
    戯曲の作り(ト書きの指定も?)が根本的な問題であったかも知れないが、戯曲の立体化としての成功はもっと狙えたように感じる。ただし、もっと高いお金をとって客を呼ぶだけの「コンテンツ」にする使命がもう一つ加わったとすれば、その事自体が作品の質を薄めた理由だったかも。

    ネタバレBOX

    道ならぬ恋な訳ではないが(善意の第三者、的には)、挙式の後では道ならぬ、が付随する年の差の二人が逃避行を挙行する直前、ユースケサンタマリア演じる父は、自分の妻であり息子の恋人である魔子の毒殺を伊藤六花演じる(息子を慕う)若い女性に託す。父は船上でその目論見の成功を打ち上げ花火によって確認した後、自死するつもりでいる。だが毒入りの酒に口をつけてしまうのは息子の方。女性は早合点して花火を打ち上げに屋上へ行き、船の上に立つ男(父)は、暫く姿を見せた後いなくなる、という証言で父の自死が観客に知らされる。
    行き違いで死んでしまう悲劇は、「運命」が信じられていた古典のそれ。嘆く魔子は自分らが決断を恐れ先延ばしにした事の報いだ嘆き泣く。若い女性は息子の死に打ちのめされ、魔子という障害を消し去る事しか考えていなかった(事態を受け止められない)と言い募る。こうして幕が閉じられる。
    寺山であれば、この人間界の皮肉、悲喜劇を俯瞰で眺める視点を、芝居に持ち込むはずだと思う。役割としては音楽の指揮者に委ねられているのだが・・一音楽家には重い役回りではないか。(「キレイ」で伊藤ヨタローがやったのはその役目だったが芝居にこなれている彼だからこその仕事だろう。)

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    2021/12/29 03:58

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