tottoryの観てきた!クチコミ一覧

521-540件 / 1817件中
転校生

転校生

青年団若手自主企画vo.89 山中企画

アトリエ春風舎(東京都)

2022/02/18 (金) ~ 2022/02/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

かねて話題の「転校生」を初観劇。もっとも女生徒の人数が圧縮され、男優3名程が女生徒役に加勢している。
学校の教室は「静かな演劇」とすこぶる親和的だと改めて実感。男優の起用は後で邪魔にならないかと序盤に懸念が過ぎったが、うまくロールをこなし、戯曲の良さがほんのり滲んで来た(平田作品にある独特の匂い(少し苦手)がこの舞台には何故か感じられなかった)。

ネタバレBOX

今回の出演者数をみると初演版だろうか、2007年SPACでの飴屋法水演出版では21人。その後本広克行氏がやったのも同じだから21人バージョンがその時出来たのだろうか。飴屋氏の実質舞台製作の復帰作になったこの上演の成功は考えてみれば「ブルーシート」での独自な劇作りの下地となったのかも知らん。
冒険者たち~JOURNEY TO THE WEST~【大和公演、厚木公演中止】

冒険者たち~JOURNEY TO THE WEST~【大和公演、厚木公演中止】

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2022/02/08 (火) ~ 2022/02/16 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ちょうど一と月前に観る予定の芝居(ロッキーホラーショー)がコロナ陽性者のため中止に。。同じKAATでやる「冒険者たち」のチケットをふと見て「まさか痛恨のダブり?」と焦り、あ、一方が中止でラッキー、と安堵したが、こっちは一か月後の上演であった(1/15×→2/15)。
そんな事で待ち焦がれた公演であったが、感想は微妙。神奈川県下の公共劇場を巡演するという恐らく一度もやっていないKAAT新芸術監督長塚氏ならではの企画で、お話はガンバの、でなく「西遊記」のそれ。ポイントは神奈川との縁が作らせた舞台である点で、達者な役者の八面六臂で愉快な芝居ではあったが・・。

ネタバレBOX

西遊記の一行が何故か「現代の神奈川」に流れ着いた設定で綴られる県下の各所を巡るロードムービーならぬ旅芝居で、奇想天外この上なしであるが・・本音の感想は巡演が終ってからゆっくり書いてみよう。

・・・と公演終了を待ったがだいぶ忘れてしまった。神奈川県の殆ど任意に選んだ「名所」「名物」にスポットを当て、エピソードを語る「旅」の芝居で、要は「神奈川」に寄り添った中身であり公演であるのだが、なぜ神奈川か、なぜ県単位か、引いてはなぜ「そこ」なのかの説明はない。「こんなのに説明なんて要るか?」と言われればそれまでだが・・。地域には歴史の影が生活に何等かの影響を与え、特有の「問題」を抱えるもので、地域を描くとは本来そういったものだが、その奥行がないとどうなるか。「現在」という一瞬を切り取った断面の、その中のたまたま選ばれたポイントを、写メで撮っただけの描写になる。旅客の「人生」に深く影響を及ぼす要素として「地域」が機能する訳でもなく、ただこんにちは、さようなら、後に何も残らない浮薄な観光旅行をなぞっただけの話。実も蓋も無い言い方だが、要はそういうものである。これはちょうど、日本で五輪が開催になる、やった!というのと同じで、西遊記の一行が神奈川に立ち寄ったってよ。やったぁ。そんな感じ。
子どもはこれ、喜ぶのかな~、大人が自分の中に見出す「子ども性」ではあるかも知れない。が、私にはこれ、「幼稚」にしか見えない。子どもってのは、幼稚性から脱却しようとしてる存在なんじゃないの?
まあそんなむず痒い感覚にしばしば見舞われる舞台であった。外から目線で神奈川県民を「慰撫」してる感じも覚えた。ただ、ピンポイントなスポットに少なからぬ所縁を持つ人にとっては嬉しいものなのかも。
中島鉄砲火薬店

中島鉄砲火薬店

文化庁・日本劇団協議会

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2022/01/20 (木) ~ 2022/01/27 (木)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

劇団協の育成事業公演で新国立劇場とは恐らく初めてだが、価格帯が高めなのはそのため?
(公益事業に公共劇場が貸すのに何故高くなる・・日本の「公共」は今や有名無実、高速代、電車賃は高くなって当然な先進国などあるだろうか?笑うしかない。)
それはともかく。
以前より目にしていた作演出、御笠ノ忠次改め。プロフィールを見ると思いの外若い御仁。演目は自身の10年近く前に上演した時代物で新撰組の残党の一人がひっそりと一庶民の人生を送る浜松の家とその庭に、因縁ある他の残党共や謎の人物らが出入りする。開花前後の動乱の中での斬った張ったのノリと、平和な日常の空気とが交錯する所が「笑」を織り込める設定となっているが、笑のための押し出す演技は得意でも、引いた部分でリアルが醸されないので(脚本のせいか演出かは判らないが)所詮荒唐無稽な部類だろうと見てしまう。後はポイントでの笑いで持たせ、終局で見えてくるストーリーに比重がかかって来るが、主人公の「生」に対する無頓着にも見えるこだわりに、一本筋が通って見えてくるのは見事。脚本の力と思われた。が、不要な要素も多く、対コスト(値段はともかく時間)的にはさほど得る所がなく思えたのは映像鑑賞ゆえかも知れない。

女歌舞伎 さんせう太夫~母恋い地獄めぐり~

女歌舞伎 さんせう太夫~母恋い地獄めぐり~

Project Nyx

ザ・スズナリ(東京都)

2022/02/06 (日) ~ 2022/02/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

このかん色々と観劇チャンスを逃し、久々の舞台鑑賞は下北沢でのこちらを選んだ。冒頭の津軽三味線を思わせる導入に萌えたのもつかの間、衣裳と言い発声と言い現代的(衣裳は和風にわざわざビジュアル系な要素をしこたま仕込んでいる)、演技も唐十郎芝居なら叫びの中に詩情が漂っても来ようがもう少し細やかな演技を見せて呉れぬものか、と少しばかり「選択」を後悔し始めたのであったが、よくは知らなかった話(通してみてああそんなだったと思い当った程度)が国を跨ぎ星霜を重ねる壮大な物語である事が予感された半ばあたりからぐいぐい物語の力に引き込まれて行った。
髙橋竹山の彷徨の物語を思い出す。英国ならオリバーツイスト、仏作品では巌窟王、長い苦節の時を経て日の光を見るという人生の時間感覚は、この時代には一層「物語」の中以外に見出しにくい事を感じ、拍手の手も強くなった。

いらないものだけ手に入る

いらないものだけ手に入る

兵庫県立ピッコロ劇団

ピッコロシアター (兵庫県)

2021/10/09 (土) ~ 2021/10/14 (木)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

ピッコロ劇団は「かさぶた式部考」か「常陸坊海尊」のどちらかを東京で観たのが唯一で、今回配信情報をたまたま目にした。土田英生による気になるタイトルの作品(演出も)という事で拝見した。ロミジュリのモチーフを借りつつ、地球外に作られたコロニーのとある喫茶店を舞台に「民族対立」の帰趨を描く。遠くに地球が見える。地球では35年戦争というのがあって(ナウシカの「火の七日間」みたいな?)、それ以前の歴史はかなりあやふやという設定で、その後生まれた民族の一つである「コチ」と「マナヒラ」が今地球では戦争中。コロニーにも二つの民族の末裔が居るが、民族主義の静かな高まりがある。
西暦○○年、といったワードは出て来ない。「今や本物のオレンジジュースは地球でも飲めないらしい」という会話、舞台奥に時折浮かび、コロニーからそこそこ近い事を教える地球の映像、天井の高い喫茶店の壁の上の方になぜか洋風のバルコニーがあって、地球上を焼き尽くした35年戦争以前(有史以前という響きに近い)、シェーク、スフィアーとか言う人の書いた「ロミとジュリの物語」という作品をモチーフに喫茶店が設計されているらしい等と説明する古代文学研究家、そのバルコニーに貼られた「カフェ内は中立の場所です」という注意書きなどのヒントにより、とある未来のこの場所の相貌が現われてくる。
地球ではコチとマナヒラが戦争状態にあっても、コロニーでは物理的な戦争の要因(利益を取り合う関係)はないが、劣勢の反動か、コロニーの「コチ系」の一部によるナショナリズムの高まりがある。喫茶店で開かれるコチ史の勉強会にも、その素養のあるメンバーにより不穏が持ち込まれ、無用な対立と憎悪にメンバーが巻き込まれそうになる。だが、不可逆な流れかに見えた過激化は、先導者が暴力容認の構えを見せたあたりでメンバーの離反に合い、やがて地球での戦争終結がダメ押しとなって過激分子は目標を完全に失う。
悪い流れを「止められた」ストーリーにはホッとする。しかし何気なく高まって何気なく終息した彼らの「風邪」は、私たちの国では肺炎にまでこじらせ、治る気配が見えない。
しかし終わってみれば、この芝居の物語を貫通するのは一つの恋愛の顛末であった事に気づく。成就しない恋愛の、一つの形であるが、示唆的。この芝居では男の「結果を得たら冷めてしまう」性質を、恋愛の終結の要因としているが、民族紛争に盛り上がる者たちの風景と無縁でなく見える。本人らの一途な思いは家同士の紛争を障害としながら成就へ向かって果敢に前進するも、行き違いと勘違いで両人命を落とすロミジュリ。障害が炎を燃やす恋のその障害がなくなったら、という段階まで描いた本作のラストはほんのりとは言えやはり悲しい。「ロミジュリ」への遠回しのオマージュとなっている。

ガラテアの審判

ガラテアの審判

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2022/01/20 (木) ~ 2022/01/26 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナのお陰にて(?)観劇のチャンスが。
幾分懸念は鮨詰めの客席だった所、実に余裕たっぷりの客席で贅沢に観劇。
feblaboらしい演目である。かつ、役柄を担うには若い俳優ら、というのもfeblaboであった。
偉そうな事を言えば(毎度の事だが)、若い彼らの溌剌さは目くらましでもあり、リアルを突き詰めると綻びが見え隠れするストーリーである所を若さが補っていた、と言えるか。
SFはその設定(極力矛盾が見えない事)が生命線になると考えているが、本作は叙述の形の取り方がうまい。時代はAI技術がシンギュラリティ(進歩の末に人間の知能を超える時点)を愈々迎えたらしい時代と設定、一見人間との差異が認められないAIロボット・ジャックが起こしたある過失事故を「裁く」法廷劇となっている。裁判を進めて行くためのロールである弁護士、検事、判事がそれぞれ、ジャックの存在に対するスタンスを異にするため初期より議論が始まっている。哲学論争に先行を許し、後から事実検証が観客の目に小出しに開陳される手法により、SFの弱点である設定の綻びは「新事実」と「論争」でうまくかわされていく。だがやはり、設定の如何によって受け止めが変わる。真面目に受け止めたい自分としては、もし架空の世界を楽しむ事が主眼であるならそのように割り切るための「リアルの程度」を、出来れば早い時点で示されたし、という感じであった。

裁判の進行というストーリーと並行してこのドラマには一つのテーマが据えられている。それが人間を人間たらしめているもの(定義)を超えた「新たな人間」(AI)を、人間の仲間として迎え入れざるを得ない時、我々はどうするか、という問いだ。
しかしこの問いが成立するには、幾つもの前提を敷く必要がある。果してこの戯曲が発しているかに見える問いは、真剣な問いなのか・・。少し厳しいなと正直思いながらの観劇であったわけである。

ただ、場面的には「劇的」要素が鋭く立っている箇所があり、うまくすれば深い哲学的問いに繋がる印象的な場面になったと思える。銃撃によって身体を失ったジャックが奇跡的に頭脳チップと小さな箱状の「体」の接続が成功した事で外界と会話ができるようになったその状態は視覚的なインパクトが強烈だ。着想に秀でた才があり、このテーマにこだわってくれるのなら精度を増した新作を期待したい。

ネタバレBOX

無粋と言われようが・・不足に感じた内容を書けばこういう事だ。
人間の自意識がどこから生まれたか、という問いも未知の領域だが、「生命」の定義である再生産力(自己模写力?)を有する身体=細胞体が、何十億年もの前にその始原を持つことは何かを示唆していそうだ。つまり生命維持と再生産のためのボディがその動きを多様化させていくに従って知能程度が複雑化・高度化して来たのが生命の歴史だ。生命体にとって「私」とは身体そのもの、という前提が私の中にある。そう考えるとジャックが人間の体を手に入れるには、死んだ人間の体を借りたのか(あるいはクローン?)、といった設定によって見方が変わってくるがまあそこは一応人間の肉体を持ったと理解しよう(そんな時代は来ないと思うし来たとしてもAIのシンギュラリティより遥か遠い未来だと思う)。
神経系統や感覚機能全てを備えた人間の身体に接続された頭脳チップが、どのように「自己」を形成するか、であるが、身体自身が絶えず運動し波動を脳に伝えている、恐らくそこから「自分自身」を認識し人間的な自己意識を持つのだろうと想像する。芝居の中でチップだけになったジャックが、箱に閉じ込められた人間のようだったのは少々がっかりであった。身体の死を経験した頭脳が、以前と同じ「人格」を持ち得るのか・・。「人間とは何か」を問うドラマであるが、AIを人格として尊重し、新たな時代の扉を開く、という感動的な結論が既にあっての物語では、「人間」を定義づけるものへの接近は難しかったというのが実感だ。
裁判の終局、検事は極刑(チップをバラバラにする)を求刑(ジャックは飼い主から虐待を受けていたが、主人が恨みを持つ隣家の子である少女を前にしてある衝動に動かされた、と自供している)。一方弁護人は、意思能力に疑いありとして無罪を主張(少女を殺した直前数日間、会話が途切れる症状が出、ハッキングによる外部コントロール状態があった可能性が疑われた)。そして判決日。判事が言い渡した判決は「被告人を15年間の懲役に処す」であった。つまり判事は被告を「人間並み」に遇したわけである。
ジャックが元々持っていた身体が老いる有機体だったのか、何百年も生きる代物だったかも説明されていないが、命が有限であるか否かも、「人間」を考える上では抜かせない。
ミネオラ・ツインズ【1月25日~28日公演中止】

ミネオラ・ツインズ【1月25日~28日公演中止】

シス・カンパニー

スパイラルホール(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

藤田俊太郎演出舞台を観るチャンスが「やっと来た」とチケット購入。最初のチャンスは一昨年春の「VIOLET」だったがコロナで流れ、次なる「NINE」は配信で鑑賞できたが相見えた実感には遠かった。今回は間近でミュージカルや大舞台でない小劇場演劇を藤田演出で観れるてのも興味をそそる所。
一言で印象を言えば、ワイルドな演出だった。ワイルディッシュな、というのではなく、作りそのものがザラっとした感触で、一見不親切でぶっきらぼうに見えるが、何らかの合理性には則っているような、という感じ。第一には戯曲の作りに依るのだろうが、見た目も大きい。両面客席に挟まれた演技スペースは台状で、俳優は両サイドの段を上がって登場するが、この台の表面が見た目に場末のダンスホールの床面みたく美しくなく、これは「狙いか?」、とも思うが「汚し」というには作為的な美がない(大舞台に慣れてると床表面の肌触りまで客席から見える事に注意が及ばないのかも?と思ったり)。また台の上部には、そう高くない天井に接する感じで両側から見える映写板が据えられ、場面のタイトル、年代等を表示するのだが(同じ文字の裏と表が二列並んで見えるので表裏が透けているらしい)、意図的なのかよく分からない場末感を「舞台上に」でなく「舞台そのものとして」作っているので変な感じを覚える。どこから持ってきたんだろう?海外経験のあるという藤田氏が見て来たイメージそのままを反映しているのかも・・?(こんな文字数使う程の事っちゃないが。。)
もしや少しだけ遅れて見始めた事で、会話の意味が耳になじまない間にそんな所に目が行ってしまったのかも。
ただ、ドラマを追う内に、戦後アメリカ史をある特異な角度で縦走するワイルドさに馴染んでくる。例えるのも変だが「イージーライダー」に登場する彼らを今思い出した(内容は全然違うが)。まあ舞台全体が放つ何か「異文化」的なものの正体を見ようとしたがいまいちうまく行かず。また考えてみる。

夏の砂の上

夏の砂の上

玉田企画

北千住BUoY(東京都)

2022/01/13 (木) ~ 2022/01/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

主宰が自作以外を演出した舞台。パンフにはこの作品への玉田氏の思い入れが綴られており、十年程前に読んだとある。もしや?私が初めてのこまばアゴラ劇場で、初めて松田正隆作品に触れた舞台を見たのでは、と調べてみた。が、作者と劇場そして平田オリザ演出で検索してヒットするのは2003年「夏の砂の上」のみ。劇団を四つ程度しか知らなかった昔、でも平田オリザの名は知っていただろう。覚えているのは日本家屋の一部屋、畳を踏む音も聞こえそうな張り詰めた静けさの中で、心情が行き交う舞台に少なからず圧倒されたこと。淋し気な夫と、やがて別居中の妻が現われ徐々に「別の男」の影が見えて来る・・3人位の芝居だと記憶していたのだが、本作の出演者は8名。2003年上演には占部房子や内田淳子、金替康博、松井周の名前もある。その後芝居をうんと見るようになった頃、既視感のあった占部房子、松井周のこれが初見だった仄かな記憶は、上書きされたものだろうか・・。(人間の記憶はデータそのものは全て脳に保存され、取り出せないだけだと聞いた事がある。)
本題。端っこが省略された日本家屋の一室と廊下、向かいの部屋の障子戸、等が低い天井の劇場内にしっかり作られ、お膳立ては整っている。男が入って来る。まずまずだ。一人だけ名前を挙げれば用松亮、やはり笑える。・・一人でぼんやり暮らす男、別居中の妻が現われ、長く夫婦だった者同士らしい低いトーンの会話。その中で二人の関係性、近過去の事、うっすら浮かぶ妻と親密な人物の影、といった事が見えて来る。その後の一場の展開は次の通り。突然妹(男の)が十代の娘を連れて訪ねて来て、少しの間預かってくれと言う。博多で店を出すよう勧められたのでその準備で大変という説明にすかさず男は「男か」と見抜くが、今度は本当だと主張する妹と男の押し問答の末、「夫婦に頼み込んだ」つもりの妹は去って行く。妹を追って男が玄関に行った間、黙って座っていた妻が娘に話しかけ、一しきり談話。どころが娘がてっきり同居する人と認識した相手はおもむろに立ち上がり、「じゃ」と帰って行く。唖然と見送る娘。男が戻ってくると、残された二人の図。・・男は仕事の事(整理解雇か倒産か)や妻の事もあってくさっているがどこか諦めの風情があり、娘の方は母の男が変わるたびに引っ張りまわされる運命を半ばあきらめている風情、妙ちくりんなコンビが残り、暗転という文句の付けようのない出だしである。
その後男の元同僚らが久しく顔を合せた宴席からの帰り、男の先輩(用松)、後輩(妻と怪しい)らが騒々しくなだれ込んで来る。そこで娘と顔を合せる場面の妙。その席では後輩が男に難癖をつけ一悶着(男がしっかりしないから妻を不幸にしている、それが俺は許せない・・というポドテキストがむくむくと想像される..が今は推測の範囲)。先輩は明朝から仕事らしく眠くなっており、向かい部屋の布団で大いびき。
後日、今度は娘がバイト先の男を休憩時間に招き入れている。おずおずと上がり込む男が、達観した娘の不思議ちゃんに振り回されるつつも惹かれているらしい図。
また後日、先輩が急死し、お通夜に出ようとする場面、最後の人物が頭と腕、足に包帯を巻いた状態で登場。例の「怪しい仲」の男の妻である。男の妻と自分の夫の関係は疑いのない事実だと告げる。そこへ喪服を取りに元妻がやって来て、対面。ここに娘とバイト男が噛んでいる(ハローワークで夕方まで不在のはずが急遽の訃報で戻ってきた格好)、男がバイト男に「責任を取れるのか」と迫る場面に女の訪問があり、女の話を聴く場面に同席させられているが、妻の訪問で対決場面になりようやく放免される、という「男=バイト男」の図が挿入される事で、女の悲壮な告白が他人事のように見え笑える場面になる。さて妻と女の対面では女は精一杯、猛烈に食ってかかるが、どこか冷めている男。女は敗北感を噛みしめて帰って行く。
その後は収まる所に収まる場面の後、ここで終わっても良い場面、男と娘の心が説明のつかない何かで結ばれ、通い合っている図が残像となり暗転。だが芝居は娘が去る場面で閉じられる。妹の再訪問で一気に現実に引き戻される。店はうまく行かなかったが、また目標が出来たと言う。今度は海外である。二人が去った後、娘が戻ってきて、たぶんそこには行かないと思う、と言う。
一人男が思いにふける図で芝居は終わるが、最初の場面から「生活」そのものは変わらない男の中に、何が残るか、が核である。観客ともども、「どう終わるか」。もっとはっきりと、男の思いが見える芝居の作りもあり得るだろうが、私には見えてこなかったので色々と想像を逞しくした。それを語るのが感想の中心になるのが本当だろうが、それはしない事にする。

だからビリーは東京で

だからビリーは東京で

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/01/08 (土) ~ 2022/01/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久々のモダンスイマーズ、西條氏、古山氏、生越氏、蓬莱竜太戯曲。痛さを抉ってくれる。ミクロな、つまり個の(個同士の)痛さからマクロな即ちそれが生じる背景=時代、社会状況をうっすら見せて来る。
「モダン史上最も執筆に苦しんだ」との蓬莱氏の弁。明るいラストにしたい、という自らに課した「制約」に拠ったと読めるが、私の理解では痛さの中にこそ光がある。「痛さ」とは言い換えれば「本当の姿」。この劇にもモダン流が流れ、気づきの契機と真実を欲する人間の本性への肯定がある。リアルな「痛さ」は、「だからこそ」「にもかかわらず」の希望を擁している。だから好きである。

『ウエア』『ハワワ』

『ウエア』『ハワワ』

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

団体を知った時からどこかしら期待したくなる若手ユニットだったが、「当たり」に当った事がなく二の足を踏む。今回は作が池田亮であったので観劇した。
評価は、やはり微妙。
原作は散文であるらしく、要は「戯曲でない」原作の舞台化であったが、原作がもし明快な(説明可能な)ストーリーを持つのだとすれば、この演出は不親切(又は下手)。カオスな原作だとすると中途半端に原文に忠実であろうとしすぎでは(世界観の醸成に傾注するのが正しいのでは)・・つまりは演出の主体的な創造的姿勢があまり感じられなかった。
映像が多様された舞台で、個の代替不能性が溶解していく、みたいな原作の世界観に迫ろうとはしており、(これありきで評価するのは気が進まないが)映像がもたらすトリップ感は相当に貢献、作品としても「持った」感ありである。
ともかく井上ひさしの名句「難しい事をやさしく」、深く面白く、を目指して欲しい。

一方、無意味の毒に浸食されずどこまでも健気に突き進んでいく二人の役者にも、助けられていた印象。ユニットお得意のノンバーバル表現が手を変え品を変えて繰り出されて、そこは見て飽きない。もっとも彼らと同じ事を別の人間がやって面白くなるかと言うと・・?(「役」が曖昧では役者個人の持ち味に掛かって来るという意味。)
ただ台詞の「言い」に難あり、拠るべきリアルがなく宙に浮いている。このあたりも演出の「言葉」の処理の面での不得手さと映った。

ネタバレBOX

帰路、歩きスマホで珍しく映画情報を見ていたら「春原さんのうた」の主演がついさっき見た役者の一人荒木知佳。マスクを取ったら、うむ、そうだったかも(いやそうなんだが)。
観たばかりの「hana」「だからビリーは東京で」にも出演の小劇場俳優がキャストに並んでいる。ポレポレ東中野で現在上映中。来月まだやっていたら拝見したい。(海外の映画賞も獲った由。)
ギャンブラー

ギャンブラー

地点

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/01/12 (水) ~ 2022/01/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

昨秋延期公演を観た地点に早くもまみえたが、それでも新鮮である(これまで全く似通った作りを見た事がない)。また同公演でも日々変化するとも。今回初日を観たので、一つ千秋楽あたり、リピートしてみようかと考えた程。
空間現代との「コラボ」と言える公演でもあった。昨秋のはナマ出演叶わず録音となっていたが、以前観た「グッドバイ」と同様、音楽で始まり音楽で終わるほぼフル演奏の舞台。
ギター・ベース・ドラムの3名の演奏と俳優の発語とステージング(装置移動含む)、照明(ルーレットの作動に対応する頭上の巨大電光オブジェを含む)のワークが、一つの楽曲の「演奏」のようである。このステージに覚える高揚は音楽のそれに近い。
俳優の仕事の方は「賭博者」(ドストエフスキー作)のテキストのコラージュをルーレット台を囲んだカジノ客らが織り成し(登場人物は各人に一人ずつ割り振られている)、ギャンブルに埋没した主人公の実存が、現代の我々の生と重なり、あるいは隣り合わせだと知らさせる。「生きる意味」の晴れがましさ(幻想)と、飾り立てを許さない現実との落差が感覚される。明と暗背中合わせのカジノに象徴される人生の舞台が造形され、そこに自分の生を思わず投影した私であった。

hana-1970、コザが燃えた日-【1月21日~1月23日、2月10日~11日公演中止】

hana-1970、コザが燃えた日-【1月21日~1月23日、2月10日~11日公演中止】

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2022/01/09 (日) ~ 2022/01/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

値は張るが、この脚本・演出は必見だろうと心の声。足を運んで正解、声に感謝。
沖縄という題材、そして基本台詞のみのストレートプレイ(戯曲・演出上の趣向はあるがドラマを逸脱せず的確)と、正面勝負の演劇であるが、目新しさ、見やすさに傾きがちな演劇界にあって、安易な娯楽性にも逃げずに書き上げ、作られた演劇の持つ確かな力に打たれた。(もっとも、赤裸々な人間描写ゆえに「笑い」はあり、リアル劇ゆえの「ミステリー」要素は備わっているが。)

ネタバレBOX

キャストを今回も確認せず(忘れて)見始めたが登場時に判ったのは余貴美子のみ、中盤で松山ケンイチを認識。生舞台を見ていた唯一の金子岳憲は、終演後の「答え合わせ」でオッと気づいた。彼も他の役者も、「当時の沖縄にいた人々」という地味に難しい人物造形をそれぞれに担った。リアルへの役者の努力がドラマの深化に繋がる良質な脚本では、演じる役を通して役者が輝く。後で「答え合わせ」が楽しみになる。

美術は伊藤雅子、堅実で視覚的なまとまり(構図、美)を備えながら機能的。
Led Zeppelinのデビューアルバム一曲目が絶妙なアクセント、オープニングに歌が据えられる所からして、tuneがドラマの大きな要素になっている。そしてごく控えめだが「音楽」が鳴る。歴史(史実)を描く劇に相応しく、「リアル」に能う限り抵触させず、かつ場面の核を観客に届ける最小限にして最大の効果を探った「音」が入って来る。「答え合わせ」の結果は、国広和毅。納得。

今も沖縄では・・・。今も福島では・・・そう意識する時間がどれほどあるかと自問、否自戒するばかりだが、南西諸島の自衛隊配備(ここ数年で加速している)が何の下地作りなのか、といった事を問うていく本土人の責任も「遠い」という感覚的な隔たりで希釈されている。私は明らかに「食い物にされる側」。その事への諦念は「沖縄を捨てる」に殆ど直結している。体を起こさねば、と思う。
九十九龍城

九十九龍城

ヨーロッパ企画

本多劇場(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々二度目のヨーロッパ企画。初の回がもう一つだったので「どうかな?」と恐る恐る。趣向が盛り沢山で楽しかったが、ドラマを見たい自分としては・・二の次な感じが拭えず、要するにかなり惜しいこの惜しいは「これは超えたい」という惜しさ。うまく言えないのでまた。

カミノヒダリテ

カミノヒダリテ

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

俳優座の翻訳劇上演は中々の当たり回が有るので候補に入る事も多いが今回は演出田中壮太郎、美術竹邊奈津子の名前が引きで観劇。

朝ぼらけ

朝ぼらけ

teamキーチェーン

吉祥寺シアター(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/10 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初見の劇団。贔屓劇団が増えれば勢い開拓の機会は減るが、口コミメディアお陰で冒険が出来る。モロ師岡以外知った名はゼロ、ただ美術担当が知った名で若干背中を押されて観劇。
根のいい人間に遭遇した時の如くで、最後にはあれこれの不足も許してしまう感じ。浸透圧でぐぐッと台詞の入ってきた瞬間が2か所、キーとなった役の貢献も好印象であった。

ネタバレBOX

知的障害を持つ人が中心的存在のお話で、自閉症の息子(翼)のために自宅の庭に八百屋を開業した家族(母、父、弟、姉とその夫)と、ご近所さん(野菜を仕入れに来る農家の青年、常連客、隣のキャバ嬢、同じく自閉症で強度の息子と母、離れて暮らすその姉、翼の幼馴染み等)、弟の同級生男女、担任らの日常生活圏に、ある日若い女子がバイトに応募して来る。障害に対する差別、対立と、理解の経過がエピソードを通して描き出される。
自閉症者の二人の形象が、行動の背景を認識させるレベルまでに迫っていて好感が持てる。自分の目には「それはしないかな..」と思える行動があったりもするが、支援学校を卒業して数年?まだ二十代青春盛りの翼青年の太い幹は見えた。芝居の性質上、リアルを求めてしまうが、障害と健常の境界を消して残る「翼」という人格を形象して示す事もあり得ただろうか。
前半一番厳しかったのは、出産したばかりの姉と翼の不和の原因になる一件が、これ程愛情に満ち障害理解のある家庭では起こり得ないプロセスで起きてしまう所で、翼は赤児が寒くないようにとタオルケットで顔まで覆ってしまうが、これだと「人」と認識した相手を正しく可愛がる行為ではなく、お人形遊びの道具と同等。ネグレクトと真逆な関わりをしただろう家族が彼に「リスクなく委ねる」領域がどこまでかを見誤る事は考えにくい。
例えばそういった事や、他の人物の行動線に細かな逸脱はそこここにあって、前半の疲れ具合は実は半端でなかったが、それ以上に知的障害、自閉症との接点でのあるあるが盛り込まれ、何より恋物語の成就によって示される「人って何」「生きるって何」へのドラマの回答は、予期せずして力強かった。
最後の最後の場面に文句を付ければ、総員集って翼の弟と友人の漫才コンビの立ち位置が、想定されている家屋の柱(及び壁)の後ろに当たるミザンスであった事。漫才は聞かせずサイレントになるのは淋しいが予測範囲、ただリアルの追求は放棄しないでほしいな、と。
『忠臣蔵・武士編』『忠臣蔵・OL編』

『忠臣蔵・武士編』『忠臣蔵・OL編』

青年団

アトリエ春風舎(東京都)

2022/01/04 (火) ~ 2022/01/18 (火)公演終了

実演鑑賞

OL編→武士編の順で観劇。OL編は確か過去2バージョン、家老役が確か天明女史、森内女史のを観た。コメントする程の事もないオヤジギャグ的作品だが、今回OL編を観た感触が良く、平田作の駄弁芝居の楽しみ方を習得したという事か?と省みるに、どうやら女性の家老の頼もしさを滲み出すところに照準化するテキストだと気付いた(天明、森内の時も家老が芝居を締めていた)。
前観た時は武士編に比べておちゃらけな印象だったのが、今回は炭火のような確かな温かさを感じ「意外といいじゃん」と再発見。(舞台成果の違いではなく、見方の変化かと思う。)
一方、武士編はいま一つ迫って来なかった(元々いまいちピンと来ない演目だが..)。OL編が思いの外良かったので期待値が上ったのだろう。
武士編は今回で3回目だったか。テキストはOL編と大枠同じ。役者が弾けてナンボの演目でもあり、それぞれ弾けてはいるのだが、白っと見てしまった自分がいた。
以前は男性が演じる手堅さが利点に思えたのに、何が違ったのか・・。女優の「性」に備わるマイノリティ性・被害者性、それを超えて前進する力強さ、といった属性(ステロタイプではあるが)が、テキストの隙間を埋め、テンションを支えていると感じた。
一方武士編の男バージョンで感じたのは役者の細さ、というと申し訳ないが、前に出演した島田曜蔵氏レベルの破壊力ある存在あって釣り合う(人物の色分けがくっきりする)戯曲なのかも。配役では一人、西風生子を入れて破壊力を注入しようとしたようだが、役者全体として「役柄を全うした」感に至らず、そうなるとこのパロディ上演の意味は厳しくなる。
OL編と違い、陣幕が張られ出で立ちも武士であるので、異質同士の境界線は少し異なるが、羽織袴を正当化する要素が希薄になってしまったせいか。所作、姿勢は武士に準ずる等が足りなかったか。
ほんの小さなボタンの掛け違い等でどつぼにハマる事もあるだろうし、そういう回であったのかも。

かように同じ作品を観ることの気づきはそれとして独特な楽しみがあり、自分は今回のような形態をレパートリー・シアターというカテゴリーに当て嵌めているが、欧州諸国での舞台芸術に対する人々のリスペクト、一定の社会的地位は、このレパ・シアターのありようと深く関連するように思っている。欧州(に限らないとも)モデルで想起されるのは「地域単位での文化の成熟」。東京一極集中の異常さを常に感じている自分としては、劇団の地方移転をやった青年団の今後を見守りたいが、不定期にせよ同じ演目を折節に上演して行くレパートリーシアターの試みも、支援会員制度と共に賛同する所。「地域に根付く演劇」という課題が社会の成熟と軌を一にしていると個人的には考えているので、一つの劇団や劇場、演目を「見続ける」観客のあり方の探求には密かに、大いに期待している。

ネタバレBOX

役について少し。
人物の「色合い」の区別は、キャラの強さだけでなく、人物の根幹を役者が汲み取り、体現するという「普通の演技」によって生まれるように思う。
今回は、各人が「弾ける」場面で「如何に弾けるか」に傾注し過ぎて、役の一貫性がどこか霧散してしまったのかも知れぬ(戯曲に文句を言え、とも言われそうだが)。

現代口語が無意識に目指している「日常」「普段使い」の表現が窮迫の場面で展開する様は、枝雀師匠の「笑い=緊張の緩和(もしくは緊張と緩和の同居)」理論の見本のようなものだ。意外な取り合わせが割とハマった、という展開も笑いの持続になる。
だが、劇中役者はどういう「日常」をそこにぶつけているのかが大事になって来るのではないか。現代口語演劇、と言った時の「現代」は既に一様ではない。武士各々の発言が「現代の日常」に帰着した時に「笑い」が想定されているのだが、その日常感覚が今この時には合わない、要らない、という感じを覚えた箇所があった。
勿論役者はその拘泥が「今」にあり得るように正当化し、真実らしくせねばならないのだろうが。。
家老は特異な存在で、昼行燈であったらしいから「緊張の緩和」を既に体現し、戯曲にも反映されていると思うが、今回の家老は序盤で「いっぱいいっぱい」の演技(笑いが取れる)を全力でやってしまい、ちょっとした逸脱には収まらず、家老の貫通行動が見えなくなった。見方はそれぞれだろうが。
赤目

赤目

明後日の方向

王子小劇場(東京都)

2021/12/29 (水) ~ 2021/12/31 (金)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

年も押し詰まったどさくさに「赤目」の字が目に入る。斎藤憐の作、とだけ記憶にあったが御大の王道的作品をちゃんと鑑賞した事は無かったが、幸い配信があり目にする事ができた。
紙芝居の絵描きだった三郎は、テレビの普及で衰退の一途を辿りつつあった紙芝居という手法で一つの作品を書き上げたいのだと言う。周囲には、紙芝居の時代が続くと信じ巡業に励む若手第一人者や、人形劇団を立ち上げて活動を模索する青年、「食えない」稼業を志して来た風変わりな新入りの少女、等が居り、彼らが「表現」に取り組む姿を通して当時の世相を語らしめる。が、やがてこの作中の「現代」から、冒頭紙芝居でそのさわりを見せた「磔茂左衛門のお話」の続きとなる三郎の作品「赤目」がいつしか本域で劇中劇である事も忘れさせて怒涛の如く展開する。殆ど妥協のない権力の描き方に私は「カムイ伝」を思い出したが、長い劇中劇が終わり、前半から時代が下った「現代」に場面が戻ると、今は伴侶(かつての新人少女)との生活を得ている三郎の苗字=黒田の黒と三から、「あ、白土三平だったか」と漸く思いいたった。
学生運動の事を言ってるらしい「たった数年前のあの出来事」という台詞が、観客に届かせる台詞として言わせているので、相当古い作品らしいと気付く。高度成長のさ中、冷戦構造の恩恵を被り、国家の罪責が不問に付される現実に、若者は自らのあり方を問われ、その多くが社会運動という形態に流れ、また表現する者は当然表現の意味を問われていたんだろう。世代が違うので想像するしかないが(もっとも変わり者の私はその「想像」の材料を学生時代殆ど義務のように漁った口であったが)、作者はこのことについて書かずにおれなかったのだな。
斎藤憐戯曲は10年以上前、あるアマチュア劇団が果敢に挑戦した舞台を見て、現代の社会派戯曲のスタンダードな筆致に思えたものだったが、今作で全く印象が変わった。

舞台成果としては、魅力ある役者の立ち姿もさりながら、3度目位になる久々の黒澤世莉氏の演出が堂に入った印象である。
とにかく劇中劇となる「赤目」には痺れた。

#31.5『パブリック・リレーションズ』

#31.5『パブリック・リレーションズ』

JACROW

雑遊(東京都)

2021/12/21 (火) ~ 2021/12/26 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

正月に配信映像を鑑賞。画面クリックですぐ本編に入り、無駄な場面なく見入って1時間半、番外公演らしいサイズでも中身十分の饅頭であった。
終幕の場面の続きがあっても良さそうだが、問題が出切った所で話を切り上げている。

「クィンテットPR」という企画会社を起業した5人の船出の日と、その7か月後の状況が描かれるが、出だしで社長が「大きな夢」を語り、威勢よく乾杯と来れば、前途多難を予感せずにいないが、場面変って七か月後、豈はからんや成功譚とは程遠い状況である。早くも内憂でガタついている。一方彼らの企画の売り込み先であるテレビ局(制作会社?)側の内部事情も描かれ、「業界」に横行しているだろう非公式な売込みやパワハラぎりぎりの駆け引きを十分想像させる場面のリアリティは、その八方塞がりに観客を鬱屈した気分に落とすが、索漠として映じていた風景に真実の水脈が見えて来る。
しがらみが支配する業界での新規参入は、「良い企画を売り込む」だけでは立ち行かない事が素人目にも想像できるが、その通りに会社の業績が思わしくないのは、社長の「勝算」の裏付けがなく(芝居では殆ど表面に出て来ない)、社員を叱咤するしか能がない(そういう場面しか切り取られていないので)事が原因でしょ? というあたりをチクリとやりたい芝居かな、と前半「勘違い」したが、実は違った。不良がたまに良い事をすると好感度抜群、みたいに、この芝居では人の熱意や善意が蹴散らされておかしくない(視聴率至上主義の)社会の中で、筋を通そうとする人間の意志が一抹の希望を担保するのだ、という話。

巨大資本に利するための制度的足場が整えられていく(またそういう話題が報道に乗らない)日本で、私は殆ど希望を見る事ができないが、この芝居のディレクターのように視聴率を慮りながらも社会に寄与する情報を選択的に流す、という筋を通す人間が(意志が)風向きを変える事もある、人間捨てたものではない、という作者の思いは受け取れた。

リーディング公演 「ローマ帝国の三島由紀夫」

リーディング公演 「ローマ帝国の三島由紀夫」

一般社団法人銀座舞台芸術祭

シアター風姿花伝(東京都)

2021/12/29 (水) ~ 2021/12/31 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今年の見納めに、目の覚める激烈な舞台に遭遇した。
リーディングの範疇に収まらない内容でもあるが、「リーディング」が上演形態に相応しい戯曲とも思われ、いずれにせよ元が取れた。
俳優陣を見て観劇。完売のところ当日券を買ったが後方の席はまだ幾つかあった。「東京crossing舞台芸術祭」とは初めて聞く企画。観客動員の不安から縁故にチケットを蒔いた分だろうか?等と余計な推測をする。
俳優陣は七味まゆみ、武谷公雄、SPACの貴島豪と実力派の曲者揃い。比較的著名な成河の名は後でパンフで「そうだった」と思い出したが、間近で見るのは初めて。
戯曲自体は中々晦渋であったが、題名は「ローマの一日」とでもした方が判りやすい(多層的なので題はシンプルな方が)。ただ、そこにいるのは皆日本人で、「三島由紀夫」は恐らく日本人のメタファだろう、「本人」への言及は僅かしかないが日本人論は語られる。「その部分を見よ」という作者の目印が「三島由紀夫」だったか。。
演出はカクシンハンの木村龍之介氏。滑らかとは言えない戯曲だが骨は太く噛むと歯が折れる。

vitalsigns

vitalsigns

パラドックス定数

サンモールスタジオ(東京都)

2021/12/17 (金) ~ 2021/12/28 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

たまに観るパラドックス定数、前回は風姿花伝の過去作連続上演の最後だったか(オーケストラのやつ)。今回はSFというので気になっていた。
冒頭から危うい体調だったが、闇と静けさに囲まれた深海での出来事が、徐々に不気味さを増す(映画「エイリアン」に似た感触)サスペンスを中盤まで堪能した。が、後半、二度程の寝落ちでぽっかり空いた穴を埋められず、最終場面を見ても「どう終わったか」が把握できなかった。
他の方の感想を見ると「前半が良かった」ようであるので、美味しい所は味わわせてもらったらしい。それはそれで良いか。

ネタバレBOX

出色であったのは、オープニング間もなく、舞台となる探査艇の内部から、他の探査艇と通信する際、その一連の会話の中でふと間が空き、声の変化が起きて微かな違和感を観客に伝える部分。早速のサスペンスの立ち上がりである。声の調子も喋り方も変わっているのに、本人は飽くまで「○○です」と答える。最初二人居た艇内に、暗転後五人いる。救出した3人の様子がどことなく奇妙だが、その理由を確かめる術がなく、対話して行くしかない。だがやる気なさげな回答に短気な隊長はすぐキレる。
人の出はけは中央床のハッチから行うのだが、程なく一人が物を取りに戻ると言って出て行き、一人が同行する。だが中々戻らない二人を探しに、こちら側の隊員が出て行くと、彼との通信の間に、また先と同じ奇妙な現象が起きる。戻って来た彼は一見、以前と変化は見られないのだが・・・「謎」は一つずつ、深まりつつ消されつつで解へと迫り、真相に向かって行くタッチを楽しんだ前半。後半は断片的なシーンの記憶で構成し直そうと観劇後は思っていたが、今既に残骸は脳ミソから消えている。いつか過去作の台本が売られていたら買ってみたいとも思う。。

このページのQRコードです。

拡大