monzansiの観てきた!クチコミ一覧

341-360件 / 419件中
カルメン、オレじゃダメなのか…

カルメン、オレじゃダメなのか…

シンクロナイズ・プロデュース

調布市せんがわ劇場(東京都)

2013/08/07 (水) ~ 2013/08/11 (日)公演終了

魅惑的な「カルメン」は、二股大根である


「カルメン」の艶かしい女っぷりを取り囲むのは、イワシのような男達だった。

シンクロナイズプロデュースによるコメディ構成で、「カルメン」は再び 新しい 男達を魅惑し、そして 劇場を破壊する。

ラスト、あのような展開を見せ付けられた、劇場を出る観客の顔は二股大根のように分かれていた。

つまり、「コメディ」と、題材の持つ一種の「悲劇性」は、合体できぬ一本なのだ。

めいとーでん~鬼切之編~

めいとーでん~鬼切之編~

COTA-rs

シアターサンモール(東京都)

2013/08/07 (水) ~ 2013/08/11 (日)公演終了

演じる“吹き替え”


「時代劇」は、砂漠が時間の経過につれ沈んでいくように衰退するものだと思っていた。
しかし、今、「クール•ジャパン」という地響きに合わせ、その古い砂漠は ひょっこり地上へ顔を出す。
例えば、映画『銀魂』がそうだし、映画『るろうに剣心』も同様の現象である。
時代考証、衣装、歴史には向き合わぬ作品ばかりかもしれない。
しかし、クール•ジャンルと手をたずさせた結果、「時代劇」は今や若い世代の手にあるものだ。



鎌倉時代、同じ源氏に仕えながら、兄弟で主人を別とする「刀」がいた。
舞台上で語る、黒いマントに身を包んだ彼らは、ストーリーテラーよろしく、戦乱の物語を 約5分に凝視した。

次の場面、そこにいたのはマントに身を包んだ人々ではない。
クール•ジャパンですねとしかいいようがない独自の袴姿を着た、一人の侍であった。

その侍は、観客席へ「本格的な時代劇が始まると思いましたか?」と投げ掛ける。

そうだ。クール•ジャパンを握り絞める若者に、「本格的な時代劇」は 要らない。古い新聞紙はグジャグジャにし、路上へ捨ててしまう。


この舞台は、現代の上野国立博物館特別展で刀たちが“再会”する場面から始まる。


主人刀を支える若丸の、6歳程度の童子の話し方、カラスの「そうだねえ〜」という高く響く、話し方。
クール•ジャパンの基では、当然ながら武士の口調も聴こえるものの、キャラクター性に重点を置いた話し方が多かった。
ただ幼年の口調なだけではない。

「あっ、これは もう、声優だ」

私が受け取ったのは、アニメーションに直結した舞台造り であって、つまり役者は生アフレコをしたのだ。



ヘアーカラーが赤茶だったり、紫の混色だったり、それはアニメーションの人物画に他ならない。


物語の展開 を超えた、キャラクター自身の魅力はクール•ジャパンのなせる技である。



他方、私が観劇した回について、客席の入りは50%を下回った。
殺陣、ダンス 等々、視覚エンターテイメントの要素を 袴の中に持つべきだったのか。(不十分)
いずれにしても、流行のクール•ジャパンだけ取り入れた舞台であれば、回転ドアのように若い女性が次から次へ来るわけでもなさそうだ。





しゃぼん玉の欠片を集めて※無事公演終了致しました!ありがとうございました!

しゃぼん玉の欠片を集めて※無事公演終了致しました!ありがとうございました!

TOKYOハンバーグ

ワーサルシアター(東京都)

2013/08/08 (木) ~ 2013/08/13 (火)公演終了

その シャンボン玉は、どこへ向かうのか?
日本で今、大きな社会問題と なっているのが高齢者の単身世帯である。
今作は、多摩川河川沿い築50年以上の家に独り住む当事者の老女を、街のクリーニング屋を通して 見守る舞台だった。


“シャンボン玉”なるものは、膨らませ、空中へ飛ばす時点まで を笑顔で過ごす、無責任な遊び だろう。そうしてコンクリートの地面へ落下し破れた頃には 、次のシャンボン玉を製造するのだから。

だが、たとえ無責任の遊びであっとしても、公園で幼女が続々とシャンボン玉を飛ばす姿は 昭和の原風景かもしれない。


経営困難な街のクリーニング屋へ、一ヶ月に一回、一週間に一回のペースで「窓や浴室をキレイに」を注文する老女がいた。
もっとも、彼らクリーニング屋は 透明でしかない窓ガラスを磨くだけではなく、老女の 買い物や散歩を手伝う。
作業員からは、「私たちはヘルパーではない」という声も聞かれる。

その関係の中で、老女の子供、孫など親類家族も 加わる。


だが、私が感じたのは、冒頭の高齢者単身世帯問題ではない。
個人経営で、多摩川の家々をキレイにしてきたクリーニング屋の家族経営力だ。
老女の住宅のシーンは、舞台の前方にてビニールシートを広げ、洗浄する作業員の姿が いつも ある。

バッグの音響さえ掛けられぬなか、作業道具を使って、窓ガラスをキレイにする姿を 誰も見逃すことはなかった。

この、何の変哲もない作業内容は、観客を飽きさせてしまう一面も 当然ながら 存在する。


そして、それは今作が「シャンボン玉×老女」の紹介をしておきながら、家族経営の応援歌であることを控え目に表す。


世の中、高齢者単身世帯を狙った違法なクリーニング業者、リフォーム業者等 いることは間違いない。
一方、そうではない事業者が多数おり、高齢者の側からも「コミュニケーション」を求めてるケースは多い。

新聞、テレビ、雑誌は世の中の点をルーペで拡大して、それを広める役割がある。
逆に、無数の面は そもそも拡大しない。

こうした、「メディア•ギャップ」で「私たちは、一定の方向へ誘導させれているのではないか」という不安を改めて感じた。

作業員が、上記の「メディア•ギャップ」に陥る老女孫=女子高生に責め立てられ、社長へ「注文を断わったほうが いいのではないですか?」と訴える場面は、非常に 物事を重層的な観点から捉えた場面だった。


訴えた作業員が是か、社長が是か という是々非々を超えた、答えのない舞台が そこには あった。

ネタバレBOX




日本で今、大きな社会問題と なっているのが高齢者の単身世帯である。
今作は、多摩川河川沿い築50年以上の家に独り住む当事者の老女を、街のクリーニング屋を通して 見守る舞台だった。


“シャンボン玉”なるものは、膨らませ、空中へ飛ばす時点まで を笑顔で過ごす、無責任な遊び だろう。そうしてコンクリートの地面へ落下し破れた頃には 、次のシャンボン玉を製造するのだから。

だが、たとえ無責任の遊びであったとしても、公園で幼女が続々とシャンボン玉を飛ばす姿は 昭和の原風景かもしれない。


経営困難な街のクリーニング屋へ、一ヶ月に一回、一週間に一回のペースで「窓や浴室をキレイに」を注文する老女がいた。
もっとも、彼らクリーニング屋は 透明でしかない窓ガラスを磨くだけではなく、老女の 買い物や散歩を手伝う。
作業員からは、「私たちはヘルパーではない」という声も聞かれる。

その関係の中で、老女の子供、孫など親類家族も 加わる。


だが、私が感じたのは、冒頭の高齢者単身世帯問題ではない。
個人経営で、多摩川の家々をキレイにしてきたクリーニング屋の家族経営力だ。
老女の住宅のシーンは、舞台の前方にてビニールシートを広げ、洗浄する作業員の姿が いつも ある。

バッグの音響さえ掛けられぬなか、作業道具を使って、窓ガラスをキレイにする姿を 誰も見逃すことはなかった。

この、何の変哲もない作業内容は、観客を飽きさせてしまう一面も 当然ながら 存在する。


そして、それは今作が「シャンボン玉×老女」の紹介をしておきながら、家族経営の応援歌であることを控え目に表す。


世の中、高齢者単身世帯を狙った違法なクリーニング業者、リフォーム業者等 いることは間違いない。
一方、そうではない事業者が多数おり、高齢者の側からも「コミュニケーション」を求めてるケースは多い。

新聞、テレビ、雑誌は世の中の点をルーペで拡大して、それを広める役割がある。
逆に、無数の面は そもそも拡大しない。

こうした、「メディア•ギャップ」で「私たちは、一定の方向へ誘導させれているのではないか」という不安を改めて感じた。

作業員が、上記の「メディア•ギャップ」に陥る老女孫=女子高生に責め立てられ、社長へ「注文を断わったほうが いいのではないですか?」と訴える場面は、非常に 物事を重層的な観点から捉えた場面だった。


訴えた作業員が是か、社長が是か という是々非々を超えた、答えのない舞台が そこには あった。


こうしたらよかった内容は、台風暴雨のなか消えた老女がいて、次のシーンでは老人ホームだった(そのことはラスト判明)点である。
切替が解りにくいのと、あの作業員は老女を気付いてほしかった。その展開こそ 適切であり、私たちが期待する展開だったのだ。


親類家族の人物設定は、登場シーンの少なさが原因でよく出しきれてなかった。
孫兄は 本当に勉強目的で老女の自宅へ通ったのか、子供同士の考えの違いも 前半、後半で変わったか分からず、疑問を抱かざるを得ない。

シャンボン玉を たくさん吹かせるシーンは、ぜひ欲しかった。
題名からして必要だったはずだ。
セットに描いただけでは物足りない。

色々 あげさせて頂いた結果、やはり上演時間を長くした方がいいのではないか。

もっと、遠くへ飛んだシャンボン玉が観たい。














『もしイタ』2013ツアー

『もしイタ』2013ツアー

青森中央高校演劇部

国立オリンピック記念青少年総合センター・カルチャー棟・小ホール(東京都)

2013/08/05 (月) ~ 2013/08/05 (月)公演終了

増幅するメッセージ力 3.11発

セットすら、照明すら、効果音すら、音響すら なかった。

何故か。


東日本大震災の被災地、つまり小学校で、避難所で、瓦礫が見守るなかすぐさま上演できる演劇を志向するからである。


青森中央高校演劇部員たちの、「被災者の方々に観てもらいたい」という たった一つの想いを形作ったのが、『もしイタ』なのだ。

先に示した「なかった」の例として、照明を挙げたと思う。
広い舞台のなかで、「ここだけを観てほしい」スポットライトの技術も今作はお蔵入りだ。
だから、背景を形作る役者一人ひとりに、観客のスポットライトは自由自在で降り注ぐ。

それは、仲間から遅れた一羽のカラスであり、紙パックのストローを吸う生徒であり、ホテルの壁掛け時計の針である。
甲子園大会青森県予選を巡る、地元の野球部員と岩手県より やってきた高校生の交わりこそ、私たちに訴え掛ける真骨頂だろう。

ただ、その展開の後ろ、あるいは真横で役者によって形作られる 背景が立体感を与え、観客にとっても重層構造だった事実を無視してはならない。


甲子園を目指す球児•マネージャー•イタコの姿が眩しかった。


高校野球をスローモーションで描く あの身体は躍動感そのものではないか。ボールなど必要なかった。


3.11から 年月が経って なお、『もしイタ』のメッセージ力は増幅し続ける。





物語の女たち 司馬遼太郎「燃えよ剣」 ~土方歳三に愛された女、お雪~

物語の女たち 司馬遼太郎「燃えよ剣」 ~土方歳三に愛された女、お雪~

りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館

三越劇場(東京都)

2013/05/27 (月) ~ 2013/05/28 (火)公演終了

人間 空気清浄機


「幕末の女」の吐息を、私は 長いこと聞き惚れていた。

十朱幸代は 芸能生活 50周年であり、大女優中の女優だと新聞、テレビ、雑誌などが揃って云う。

なるほど、彼女ほど立ち姿に優しさが あって、腰掛けた姿に威厳のある お方も珍しい。
三越劇場の空気が、着物姿の空気清浄機から円を描いたように 色味を帯びる。決して、着色したライトを当てたわけではない。そこは もう文庫本のカラフルな表紙の世界なのだ。

彼女の吐息を 聞き逃さまい奮闘するのは、私たち観客だけではなかった。
カラフルな表紙の横で、宮川彬良という 著名なピアニストが 朗読へ音楽を添える。

「宮川彬良の伴奏だけで十分だわ」

彼女にとっては 困り顔の 感想さえ 出てきそうな演奏内容だった。

ピアノの伴奏は、主役に添えるミントではあるまい。
小皿へ盛られた、シェフこだわりの一品だ。


司馬遼太郎作『燃えよ剣』を基に描かれる、「新撰組」 土方歳三、京都で未亡人暮し を続ける お雪 が時代に翻弄されながら抱き合う恋愛物語である。

私は原作を知らなかった。

三越劇場で語られた土方歳三は、多くの大河ドラマとは違う男であった。

しかし、「幕末を生きた男」の汗より、「幕末の女」の吐息こそ 三越劇場に溢れた空気だと思う。







飛龍伝

飛龍伝

COTA-rs

シアターサンモール(東京都)

2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了

もしも の「闘争」ー狭すぎる三者



「安保闘争とは何だったのか」、国民が抱き続ける疑問に“つか こうへい”という角棒を振りかざし、そして回答すべく演じ切った。


何より指摘しなければならないなはのは、1960年の安保闘争の裏に位置する青春色の人間関係と、二つの 重大なテーマを扱った点である。

チェルノブイリ、福島県で起きた、原子力発電所の溶融事故に他ならない。

1960年の国会周辺で全共闘の委員長として既存のレジームを変えるべく奮闘する椿 (正 かんば)美智子がおり、被災後のチェルノブイリの地を踏む物理研究者としての椿 美智子が いる。
当然、福島第一原発への決死隊を指揮する彼女もいた。


「安保闘争」の名物•ヘルメットと角棒をまとい、日本の明日を変えるべく戦かわんとする青春劇が最も順当な構成であった に違いない。
今作は、そうした昭和の一ページではなく、1980年代のチェルノブイリ原発事故、2011年の福島第一原発事故 等々に重ね合わせ、まるで現在に繋がっているかのような構成なのだ。


一言でいえば、今も続く「安保闘争」ー「椿 美智子」だろう。



旧「北区つかこうへい劇団」は解散後、有志メンバーが集まり、現在は「北区AKTステージ」として上演を繰り返す。
彼の看板は消滅してしまった。

が しかし、「安保闘争」の流れと同様で、「椿美智子」という “つかこうへい”は 今そこにいる演出家なのだ。

例えば、タップだとか、ダンスだとか、殺陣だとか、鋼鉄のテーマ性の中の 狂った登場人物は、“つかこうへい”だった。
上演したのは 旧「北区つかこうへい劇団」を後継する団体ではないが、今そこにいたのは紛れもなく“つかこうへい”であった。


翻弄される女がいるなかで、性に開放的だった1960年頃の時代を感じた。
終盤にかけ現れたのは、絶対的な三者である。
子供を産んだ母親•美智子と、運動へ身を捧げる美智子の交わりは圧倒的だった。
狭すぎる人間関係、一人が見せる様々な顔が私を引き込ませていた。













Weekly1【溺れる金魚】

Weekly1【溺れる金魚】

アヴァンセ プロデュース

「劇」小劇場(東京都)

2013/07/30 (火) ~ 2013/08/04 (日)公演終了

魑魅魍魎の住む金魚鉢



男児の「遠くへ行きたい」という声が押したのは、サスペンス狂想曲をセットしたままのCDラジカセだった。

坂上忍氏プロデュースの今作『溺れる金魚』であるが、映画を舞台化した作品らしい。
私は 映画館のスクリーンに映された方を知らないので、対比で あれこれ語ることなど 至難の技だ。

ただ、同じ下北沢の地図を広げれば、つか こうへい脚本の『蒲田行進曲』が舞台化され、評判を得たばかりである。

『溺れた金魚』にも『蒲田行進曲』にも 共通するのは、展開において「節」という区切り が存在し、終盤へ向けて 緊迫が高まる点だろう。

豊島区の遊園地で遊んでいた父親、母親、子供の、若い一家団欒。子供=男児が、突如として“誘拐”された「事件」を機に、その狂想曲は始まる。
CDラジカセのボタンを押したのは、やはり 男児の「遠くへ行きたい」であった。


人間を、単純な在り方として決して描かない演出を徹底していた。
あらゆる登場人物に複数の顔が見え隠れし、「演説」のような絶叫する姿さえ 一つに過ぎなかったのである。

これほど、「ぶつける」ことを否定し、混乱させるものと位置づけておきながら、しかし それに“賭ける”演出も ない 。


悲壮感漂う ラストには、思わす呑み込まれてしまった。


この読後感を 何と表現すれば いいのか。
漠然とした感情は、観客へ仕掛けられた狙い なのだろう。







刹那

刹那

劇26.25団

新宿眼科画廊(東京都)

2013/07/27 (土) ~ 2013/07/31 (水)公演終了

『チョコレートケーキ』の再来か


地下へ辿り着くと、昭和が漂っていた。

正確には「LINE」や「Twitter」なる単語が聴こえるため、時代設定は リアルタイムなはずである。

Yシャツを着た男の寂しげな背中が、氷の混ざり合う「カランコロン」が、そしてビール瓶を片手にする女が、単語を出さずして『昭和』を語っている。

5年前、バスを運転中、衝突事故を起こした初老の男には、一人の娘がいた。男と娘、結婚を約束するサラリーマンの三者を、さゆり”なる魅惑的な女性は振り回す。
昭和 漂う中、「ドラマ」進む。

これほど、ギャラリー公演の構造を捉えた舞台も少ないのではないか。
解説を するまでもない。
それは、ストッポライトの当たらない端切れの箇所であっても、ギャラリー全体として「世界」を共有できる点にある。

例えば、舞台横にあたる客席へ大きなピアノを設置し、窓のカーテンまで 降ろす。
私たちは、誇張や、パフォーマンスのみを「共有」したいのではない。みな、ショーだからである。

「共有」するものは、路地裏を歩く白髪の老人かもしれない。
または、家庭内に染み付く、独自の臭いなのかもしれない。

ギャラリー公演の目線は、役者と対等である。まるで、喫茶店のカフェで別れ話を煮え繰り返すカップルの、隣のテーブルに座る感覚だろう。
彼氏の怒りさえ焙煎する そのコーヒーから湯気とブレンド豆の臭いが 放たれる。
今作は それが昭和の香りであり、つまり、私たちは 昭和を「共有」したのである。

「白熱電球」の力を、改めて感じた。

酒の席では、暖色系の白熱電球が灯る。部屋の中は、寒色の それが灯るのだ。

一つひとつのシーンが切り替わるごとに、糸は引かれて、今度はうす暗さ が灯る。

世の中から断然された父と娘を浮き彫りにしたのは、寒色系の白熱電球であった。その球は日常生活を“ライト アップ”しない。


近年、ギャラリー公演を機に知られることとなった劇団として、私は『劇団チョコレートケーキ』の存在を挙げたいと思う。
2012年、渋谷ギャラリー•ルデコで第二次世界大戦前のドイツを描いた『熱狂』『あの日の記憶』を発表し、骨太の社会派劇団の噂を吹かせた。

もしかすると、この劇団こそ、次の『チョコレートケーキ』ではないか。
社会派のラベルを貼ることはできない。
しかし、牛乳パックも困ってしまうほどの骨太である。

































青春ガチャン

青春ガチャン

ソラリネ。

上野ストアハウス(東京都)

2013/07/24 (水) ~ 2013/07/28 (日)公演終了

若手劇団へのオマージュ






若手劇団へ、オマージュを。


ワン•シチュエーションの舞台を多数造り上げてきた『ソラリネ』が、“青春”というワン•テーマの上に構成する舞台である。


現代の若者を象徴するようでいて、SNSは ほぼ登場しない。
「ファミレス」や「ロック」等々、現実生活の中で生じる苦悩を スクリーンに映し出した。


それは、心の中の あなた でしょうか?


彼ら へ当たるライトは、一人ひとり が分かり合えない孤島であることを示す。
2人の孤島の間に 珊瑚礁のカーテンを敷き、分かり合えたら、往来も自由だろう。

仲間とか、恋愛とか、孤島同士の海は、いつも海溝が 覗く。
CO2排出の影響だろうか、“青春”から発せられるガスは海面を上昇させ珊瑚礁を溶かす。

音響 等々、若手劇団の 青春恋愛作品では よく聴くジャンルであった。
「独白」とも受け取れる、心の中の あなた。
そして、「ファミレス」へ、「ロック」へ連なる孤島諸君。
ラストの展開は、珊瑚礁のカーテンの喪失に代わり、とても温かい結末だった。
猫であっても、言葉が通じなかったとしても、その海には珊瑚礁より長い猫じゃらしが 拡がっている。

気持ちの良い、引き込まれる感触だった。












『Santa Claus Con-Game』

『Santa Claus Con-Game』

劇団たいしゅう小説家

あうるすぽっと(東京都)

2013/07/20 (土) ~ 2013/07/28 (日)公演終了

dancing is サンタ world




上からの言い方に なってしまうかもしれない。

でも、この言い方でなければ、今作の真髄を表現する機会を失ってしまう。

これは、小学校の演劇発表会を、プロフェッショナルの役者、演出、美術で作り替えた、大人の ファンタジーである。


サンタクロースを慕う純粋少年と、彼が旅する“別の世界の住人”がともに冒険し、純粋さとは何か?大人とは何か?を探るファンタジー作品。


日本人は、『水戸黄門』に代表される勧善懲悪がハッキリした作品を 親しむ傾向は あるのだろう。
一方、米国映画の『アメイジング スパイダーマン』(2012 ソニーピクチャーズ)など鑑賞すると、ウィルスをばら撒くモンスター=博士の心的な流れを詳しく描写する。

つまり、「世の中をぶっ壊してやろう」と言う奴がいて、スパイダーマンが成敗する、そんな単純な構図では決して ない。

なぜ、このような前置きを 置いたかといえば、「劇団たいしゅう小説家」は、物事をハエの顔のように複合的に重ね合わせ、あえて難解な舞台を提供するからである。


脱獄したサンタクロース、スリの少女 等 仲間に迎えた少年。
“別の世界”の支配者、軍曹、オモチャ造りの老人、女王、魔界人、ファンタジーには欠かせね存在のオンパレードだ。
この冬山の風景を生かし、活劇風という名の山小屋を建設することも、判りやすい舞台を造り上げるためにおいては 当然の流れだったと思う。


そして、題材といい、セットといい、これ以上ないシチュエーションを裏切ったファンタジーは、既存の概念まで変えてしまった。


“別の世界”で製造された、空中を進むことができる乗り物。
当初は、「一時間弱で、到着する」はず だった、喫茶店のコーヒーを飲む間に完徹する冒険の道程である。

少年ら一堂が搭乗して見送った後、強い眼差しを向ける支配者の目は圧巻だったと言わざるを得ない。
他者に対して向けた視線ではなく、自分自身の内面性と、大きなコミュニティへ向けた視線だった。


星の王子さま は、言った。



「目に見えないものほど、大切」だと。



衣装を越え、照明を越えた、“観客に 考えさせる演出”が たしかに あった。







レーニン伯父さん

レーニン伯父さん

風煉ダンス

d-倉庫(東京都)

2013/07/25 (木) ~ 2013/07/31 (水)公演終了

ハプニング続出!重装備の中の軽快コメディ




世界に公開される、「偉大な人」


もし、ソックリさん が 仕事として横たわっていた、としたら…。

地方ロシアの邸宅をモチーフとし造られた、精巧なセットである。
衣装も、中央アジア寄りの民族衣装をおもわせる もの があり、史実に則っていた。
また、ロシア政治史上、最も「偉大な人」を題名で語っている。

その重装備に巻き起こる“コメディ”は、まったく軽快であったため、私は 新たな可能性を感じてしまった。


26日夜の回は、日暮里を破壊してしまいかねない、ハプニングの連続だった。オープニングから家政婦の女性が食卓へ持って行く「グラス」を割ってしまったし、役者が客席の間を通り抜ける際、観客も反対側から登るシーンさえ あった。

この二大事件だけではなく、他にも小さなハプニングは 生まれている。

しかし、「今日は 大変ね…」なる切り返し があったとおり、重装備を身に付けた軽快なコメディが見所なので、そうしたハプニングを笑いに転換することも可能である。

それは、まるでフライパン返しで具材を こぼした婦女が慌てふためく 可愛さ かもしれない。
強面のミシュラン•シェフに 同じ現象は起こり得るだろうか。

歌とダンスについては、控えめな演出だったと思う。重装備な舞台のなか、その鎧にピンクやオレンジのペンキを塗立て、エンターテイメント性を与える効果は あった。
ただ、この舞台の面白味は、歌やダンス以外の、「水と油」を交ぜた 斬新さ にこそ 存在する。
セットを ぶっ壊す急展開などは エンターテイメント性は必要だった かもしれないが、基本は演劇一本勝負で よかったのではないか。

極東の地、西の果て

極東の地、西の果て

TRASHMASTERS

本多劇場(東京都)

2013/07/25 (木) ~ 2013/07/28 (日)公演終了

“硬派な肌寒さに抱く、人間臭さ”




社会派の舞台に当てはまる声として、「今の時代だからこそ、意義がある」という評価の仕方が一般的だろう。
例えば、この国が徴兵制へ繋がるタイプの憲法改正に進みつつあり、それを容認してしまう日本人なるものをディフォルトする舞台。

しかし、『トラッシュマスターズ』は、今しか通用しない舞台は造らない。何度でも再演する。
極めて“普遍的なテーマ”を、社会へ、国へ、私たちへ投げかけるのである。

それは、肌寒く、不安な中の旅路かもしれない。そして、もがき続け、その先に 掘り出される、愛だとか、仲間だとか、きな臭い人間らしさが、 私たちの目の前に
きっと 現す。“きな臭さに賭けたい”、そう思えた時、下北沢の光景が、違って見える。




語る人には、力が備わる。

思想•コトバを持つ舞台には、力が備わる。


私たちは、劇場を漂う肌寒さの中で、日本の政治•社会システムの終焉と、そのオモテ裏に位置する人々の“些細な”行き違いを、確認した。
一定の速さで下ってゆく滑り台のようだった。
彼等は、太陽が登り、落ちていくリズムで、滑り台を下ってゆく。


その下降線を、私たち は 幼児を心配する母親のように、見守っていた。


TPPで変わる、日本の農業。

TPPで変わる、日本の暮らし。


歪曲し伝える、日本のマスメディア。


今、この国が直面する進路の、二歩先を まっすぐ描く。
賛否さえ越えた現実。


緊迫する身体だからこそ、その目は、コトバは、事実を語らなければならない。緊迫するシーンにおける、煽らない演出が、逆に事態を深刻にする。
私たち は もう、幼児だけ見守る母親ではない。この国の進路と、同時並行に歩む、一人ひとりが 力のない 演出家である。












森の奥の四人姉妹

森の奥の四人姉妹

多摩美術大学 映像演劇学科 FT 3年生Aコース

多摩美術大学 上野毛キャンパス 演劇スタジオ(東京都)

2013/07/21 (日) ~ 2013/07/23 (火)公演終了

観客との断絶から始まる、「うちの奥」

アジアン•ビューティの中で映し出される、魅惑的な姉妹と訪問者との交わりは、茂み のような静けさである。


環状線を響かせる騒々しい会話は繰り広げるが、そこはアジアン•ビューティ、日本の辺境の森だ。
バックに鳴る音楽も聴こえぬため、そこは森の邸宅であり、鹿が、昆虫が、生新の眼差しを持つ。


姉妹は、実は恐ろしい関係性なのかもしれない。
NHK『連続テレビ小説』など から、日本人は 姉妹という単語を肯定的なイメージで捉える。
だが、この舞台に繰り広げる「姉妹」は互いを 心のうち 罵倒し、知られてはならない邸宅の“二階”を守る ダーティな一蓮托生だ。

多摩美は、いつだってそう。


舞台は通常、広い客席と狭い舞台が別け隔てられる。
ある意味、主役は観客なわけだから、改革派ロシア演劇でも 「役者と観客のコミュニケーション」が図られた。


多摩美は、いつだってそう。


あくまでも、役者がパフォーマンスをすることが重要課題であり、舞台のスペースが概して広く確保されている。所詮、観客というものは脇に置く存在でしかない。
「上演中の入退場、一切 不可」(別公演)についても、同様のことが言える。

今回の作品、上演前に「気付かれないよう、ご注意下さい」なるアナウンスが あった。
私たちは 改革派ロシア演劇に位置付けられた主役ではなく、ただただ観察する人間に過ぎないのだろう。

姉妹の住む邸宅を、ズラリと並ぶ鹿の燻製。
この、シャンデリアに備品として飾りたい代物を形作るのは役者だ。

様々なポーズが、その手脚を変えながら、邸宅を一周する。
動じぬ身体に、生新さを感じるのは私だけか。
彼らは動じぬことで動物、あるいは虫のパワーを放ち、動くことで 舞台の一つとなり得た。


観客とのコミュニケート断絶が多摩美らしさ だとすれば、姉妹の長女は断絶に始まった狂気である。

この「家(うち)の内」は、思うに姉へスポットライトを当て続けた面もあった。断絶から始まる狂気を、あまり当て過ぎない程度に描いたのが今作のテーマ性だろう。

展開を抑えた演出も、独自の世界観に繋がった。それを如実に現したのは、衣装を含めたアジアン•ビューティである。





























健康診断百物語

健康診断百物語

多摩美eien表現Ⅰ2013

多摩美術大学、上野毛キャンパス、演劇演習室(東京都)

2013/07/21 (日) ~ 2013/07/23 (火)公演終了

スタイリッシュに描く、“ノスタルジー”




ノスタルジーに溢れるのは、世代の問題ではなかった。


四角いホワイトボードと正三角形のホワイトボードが合体した、スタイリッシュな“演じる場”である。

演劇実習室なる目的の下、設計された部屋で公演が行われたため、奥部には鏡が いる。
背景は、スイカの模様の半分のように黒く、全体のバランスとしてスタイリッシュ極まりない。


題材は、「健康診断」。

学校教育で、大企業の健康組合で、組織•団体で、国の政策で、小さな幼児から杖を付く老人までを管轄に置く、社会セレモニーだ。


スタイリッシュなステンレスの節穴から覗けば、この「健康診断」さえも、ノスタルジーが漂うのだから 可笑しい。

大学の義務診断、国の政策論、『アメリカ横断 ウルトラクイズ』、小学校の放課後。
スタイリッシュな節穴は、「健康診断」という つまらぬイベントを、幅広い視点で見せてくれる。
あまりの幅広さに恵方巻きも 残念がってる だろう。

体操着を着用する女の子、
制服を着用した、女子。


「健康診断」が、時々の社会を記録し、当時の少年少女のノスタルジーとなる。絨毯の臭いを、製造する。


私たちは ともすると、「ノスタルジーは中高年の特権だ!」を考えちだ。
この作品を描いた女性は、大学の「健康診断」に遅刻してしまい、検査できなかったことへの失意で 今回のテーマを思い立ったらしい。
ちなみに、彼女は20代前半である。

ということは、ノスタルジーの臭いを製造する工場に年季など必要ない。
世代を超えて、人々にはノスタルジーが備わっている。
そうした当たり前のことを、スタイリッシュな舞台の上で お知らせしてくれたのが やはり可笑しい。



“キー•ワン”と呼ぶべき一匹のイヌは、幕開けより出ずっぱり だった。

ランドセルを背負う女の子に触れた一幕はあったが、結果、一言も話さぬまま、1時間ほど が経過する。

なぜ、あのような イヌを、「健康診断」に関係がないなかで 傍に置いたのか。
私は、いつか披露された「検便」の 御話へ関係付けたいと思う。
つまり、「健康診断」の日、どうしても用意できなかった少年はイヌを頼る。








番外公演 トラベリンマン

番外公演 トラベリンマン

立体再生ロロネッツ

明石スタジオ(東京都)

2013/07/18 (木) ~ 2013/07/21 (日)公演終了

番外ならアリ?“段ボール•ファンタスティック”


それは、まるで布切れから人形劇が演じられるかのごとく、段ボールから生まれた“ファンタスティック”だった。

古紙で造った頑丈な 段ボールが、普段 人々が使う状態のまま放置してある。荷物置き場にひしめく廃棄用の靴の気持ちと同じだろう。

その気持ちを変えるのは、役者しかいない。
その手に落ちれば、段ボールがパリの凱旋門、アメリカ南部州の長距離バス、アルゼンチンのタンゴを奏でる楽器、ローマの トレビの泉に変身する。
ただ単に、劇場のスペースを圧迫していた彼らが、海外を現す 風物詩と化す。
この変わりようは、都会の夜景が凄まじくライトアップし、地上が一変する“ファンタスティック”だ。



他方、役者を見渡すと、何やら猫の扮装をしている。
劇団四季『キャッツ』をモチーフにする姿顔であることは明らかだが、これも “ファンタスティック”の一言を感じ取ってしまう。

猫の化粧を額に描く必要はないし、皆会社員だけあってスーツ姿の役者さえもいた。

その訳は、サラリーマン•コメディだと無理が生じるため、劇団四季を 持ち出したというものだろう。
いや、むしろ、会社員達がシチュエーション設定を標榜して観客へ魅せる“海外”は、別の世界だったのではないか。
会社の会議室で繰り広げられる オムニバス•コメディを越えた、もっと別の世界を体現した 流れこそ、舞台の狙いだった。
だから、商店街のスーパーでコカコーラを買う主婦のように、劇団四季を持ち出したのだ。

私の考えの 答え合わせは、ラスト、向こうの方から“教師”が実施してくれた。


コメディについて、観客に伝わったかと言えば、難しい。
アルゼンチンのシチュエーションも また、ダンスバーを運営するママのキャラクター性は爆笑だったものの、それ以外は 伝わらなかった。

「面白い」と思う。
“海外”のオムニバス•ストーリーが画一的で あったことに、全ての難点は存在した。
見慣れた観客の「裏切ってほしい」願いを受け止めるのは、段ボールではない。




波よせて、果てなき僕らの宝島(ネバーランド)

波よせて、果てなき僕らの宝島(ネバーランド)

天幕旅団

ザ・ポケット(東京都)

2013/07/17 (水) ~ 2013/07/21 (日)公演終了

世界的文学への『ダブル改編』


『宝島』は、どこに在るのか。

今、あった。

劇場という、大海に。



『宝島』ーといえば、私はアニメーションを思い起こす。毎週 欠かさず観ていたのだから間違いない。

現代的ダンスや、幻想世界を造り出す照明を用いる舞台において意外かもしれないが、かなり『宝島』を忠実に 追っていたと思う。

『宝島』と『ピーターパン』の融合は、独自の物語である。
切り替えを高頻度で行うと、観客は混乱する可能性が あった。また、いずれの作品も 長編ストーリーのため、中途半端になることも考えられる。

だが、私が観た限りにおいて、当然のことながら『改編』はされているものの、基本的ストーリーに則った構成だった。
「フック船長」と「ピーターパン」の評価が変わってしまう、そんな構成でもある。
「ピーターパン•シンドローム」なる言葉が社会に根付くなか、“大人こそピーターパン•シンドローム”の当人であり、近年、急速に陥ってしまっていることを示してくれた。
今作は、「ピーターパン」を善良な少年として描いてはいない。むしろ、ティンカーベルを奪われたために抱く感情を基盤とし、その後の「フック船長」との対決の結果も変わっている。


文楽研究の権威•ドナルド•キーン早稲田大学名誉博士の言葉を借りれば、「『改編』は、つまらなくする。『原本』の方が、ほとんどおもしろい」そうだ。

文楽と違い、今回舞台化されたのは青少年向け冒険小説の代表作ではある。かつて『改編』されたことは聴いたことがない。その通り上演する、映像化することが、古典へ対するオマージュだろう。

物語の結末を変えたどころか、二つの代表作を融合させ、現代的な演出方法まで取り入れた今作は 90%の「つまらない」か、10%の「おもしろい」部類かの問題ということになる。


客席を 真っ二つにした、船形の造りは モチーフとして適切だった。
中央の舞台が やや高い位置にあり、たとえば行き場がないことで関係性が生まれる『宝島』航海中のシーンで絶大な効果を発揮した。

一方、全体を見渡すと、ダイナミクスに乏しかった。
『宝島』の土埃の雰囲気、歩き疲れた感覚が伝わらない。
上陸後を割愛し過ぎたのは恐らく事実なのだろう。それは残念である。










大西洋レストラン

大西洋レストラン

PROMAX

博品館劇場(東京都)

2013/05/22 (水) ~ 2013/05/26 (日)公演終了

ディナーショーと、未亡人の対話



大西洋に浮かぶ巨大な船体の中で進む、砂の欠片のような人間ドラマ。
身体が揺れていないのは確かなのに、心は劇場という大海原で揺れ続ける。


「大西洋レストラン」専属シャンソン歌手を聴ける、ライブステージ。
合間は、舞台のストーリーか、それとも このライブステージなのか。
私達は、それを仕分けすることが
できない。
まるで、専門の研修を受けた人がヒヨコの性別を間違えたまま箱に積める現象である。

未亡人の 心の内と、数千億円をかけ建設中した船体で 独りきりの客人との対話は、ずっと耳を澄ませていたかった。
アメリカへと旅する航海の途中、その巨体は 海水を掻き分けることだろう。
客席9人ほどのボートに生えた手が同じ速度で掻き分ければ、当然のことながら小人は揺れに揺れる。小さな食堂の テーブルにワインを用意していれば、プランクトンの餌と化す。

その小人に対し、「大西洋レストラン」が体内で営業中である巨人は ビクともしない。
多少、揺れたとしても、ワインを 程よくかき混ぜる役割しかない。

未亡人と独りきりの客人は、静かな揺れ で、対話を繰り広げる。

このような対話をして雑音など聴こえようものか。
他は、レストランの客席がからっぽだ。いや、店長が指示をしなかったため、テーブルさえ置いていない。
ところが、テーブルに客人は座っている。存在は、雑音は、未亡人と 独りきりの客人の対話においては邪魔である。

オレンジ、パープル。


照明は、船体を彩り、ライブステージが 劇場を揺らす。
ここへ来てしまったからには、アメリカの港まで「大西洋レストラン」に泊まる必要がある。
私たちは、窓から掻き分けた後の大海原を眺める時間は ない。

未来からの、老婆と少年 の対話に再現される断片しか スクリーンに灯らないからである。

ライブステージの激しい歌の前で、それを見つめない 大半の客人。彼らは アメリカでの仕事を話し合い、家族で大陸を語り合っている。そう、思う。

未亡人は、ライブステージを見つめ続けていた。

この大海原に浮かぶ「大西洋レストラン」で起こる分かれ目を、今日の老婆に映し出したい。

はるうすねいしゃん

はるうすねいしゃん

明治大学演劇研究部

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2013/07/05 (金) ~ 2013/07/07 (日)公演終了

役者が築き上げる、“リアルな空気感”



三編の短編集は、ズバリ「かみ合わない」面白さの洞窟である。

一話目などの、腰を痛めた青年が自宅で見舞いにやってきた友に対し、

「ねえ、どこにいくのさ!」

「買い物に決まってるだろ‥!」


「おぶってくれるんじゃないの?」


この やり取りは、「かみ合わない」ことから生まれた 濃密な 会話劇だった。

二話目の「かみ合わない」に関していえば、それは時代錯誤を生かしたテーマの一言であるといってよい。
あの舞台を、明治大学の校舎で 行ったことに、私は 感慨を憶える。


三話目、ラーメン店の厨房が事件現場に なったラストは意外性満載だった。あのようなグロテスクな事件を変哲のない舞台へ溶かす力も、役者が醸し出させていたように思う。


彼らは、意図する表情だ。

ただ会話劇を繰り返すだけでなく、音楽を控えた あの場に、関係性で形作られた“場”が出現する。
スポットライトを当てなくとも、そこに光る場所は存在する。


こうした、役者が形作る関係性、舞台に出現する“場”を、また、観てみたいと思う。










行け!花岡星児

行け!花岡星児

 StageClimbers

劇場HOPE(東京都)

2013/07/10 (水) ~ 2013/07/14 (日)公演終了

一人ひとりが、斜めの目撃者に なる


スコアボードの質感が、アルミの冷たさを与えていた。



バレてないネタバレへ!



ネタバレBOX




「終わらない10分間」、それは どのような状況を指すのだろうか。

12回裏に何度も振り出して、野球場の外に向かってもなお、同じベンチに座っている。
この点から考えると、物理的な「終わらない10分間」だろう。

一方、球場の観客どころか、世界各国の報道官が声明を発表する事態は、ひとの内面に おいては 今までと同様に進行していることを明らかにした。


まず、野球のベンチ裏を設定した、そのシチュエーションは革新的であっといえる。
動かない分、狭い関係の会話劇が成立した。
「終わらない10分間」であるため、より “動かない中の動き”を観客は捉えようとする。
初めは花岡(息子)、次は監督(父親)、チームメイト、そして審判へと移るのかもしれない。

次々に、観客は ターゲットを重層的な視点から“動かない中の動き”を捉えようとするのである。

たしかに、「終わらない10分間」ではあっても、監督•選手らのパターンは変わるし、ストーリーも動く。
だが、12回裏、花岡(息子)が三振で試合にケリが付く等々、基本のパターンは変化無し なのだ。

決まったパターンを、ストーリーの展開に合わせて織り込ませていった技法は、やはり革新性がある。

「SF」からの、複雑なドラマは見応え充分だった。
ただ、チームメイトが、俳優に金をつぎ込んだ妻に激昂しないシーンは、違和感の塊である。
人間の性分を、全く分かっていない演出だ。

「加工バッド」を巡る、一種のサイドストーリーも そうだった。

試合中、花岡(息子)に勧めてきて、大学時代の不正使用を 周囲に囁いたチームメイトが、それにより球場中に周知されてしまった後、彼を慰めるの どういった神経なのか。

少なくとも、「勧めた」ことに関係させ、チームメイトを 掘り下げる べきだったのではないか。そこが触れられず、花岡親子の対立やチームメイトの夫婦関係修復の方向へ展開していった位置付けは 不自然そのものだ。


“消極性の一体感”などと表現するべきか、舞台と客席の融合である。
幻想の世界が少し、残ったのはリアリスティックな球場のベンチがほとんどを 占める。


今、ここでしか、見ることのできない、LIVEだ。
私たちは、球場にいる。

劇場を後にした時、不気味な気分になる人もいれば、充実した感覚を持つ人もいるだろう。

この作品は、一対一の 相撲の取り組みである。観客は何もしないが、役者も ツッパリをせず ちがう方向を向く。

お互い掴まぬのに、一対一とは。

動かないのに、相撲とは。


こんは取り組みが あり得るのは、何故だろう。









【公演終了しました!】うちの妹の学校には野球部がない!【有難うございました!】

【公演終了しました!】うちの妹の学校には野球部がない!【有難うございました!】

そびえたつ俺たち

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2013/07/12 (金) ~ 2013/07/14 (日)公演終了

舞台の力で、この国の「野球部」を変えよう



「そびえたつ俺たち」、この劇団は、重量感を持った火山灰のような集団である。

明らかなコメディを進めた一方、序盤の高校生がマージャンを囲うシーンは 台詞など用意されていたとは思えない雰囲気だった。
彼らの、親ー教師ラインに隠れながら満喫する世界を、これほど等身大に演出してみせた 舞台が あったか。
彼らの杯を取る手つき一つひとつ に、吸ってないはずのタバコの煙が立ち込めるのである。

劇場にスモッグを焚き、それを演出するのではなく、私たち観客 自身が 造り上げてしまう現象は、「落語」としかいいようがない。

体格の大きさ が野球児でないことは、誰の目にも分かってしまう事実だろう。この点だけで、「重量感」が 備わる。

しかし、「そびえたつ俺たち」は、キャスト=球児たち の気力でそれを乗り越え、コメディで 逆転ホームランに変換した。

体格的に不向きな球児たちが集結すると、メッセージ性の基盤でもあるイケメン球児の魅力が増す。


昨年2012年の とやま文化総体で高校演劇の1位を獲得(事実上)したのは、青森県の高校演劇部だった。
題材は、野球と、ゴースト部員を巡る、東日本大震災の舞台だった。コメディでもある。


「そびえたつ俺たち」のメンバーは、この舞台を知ってるのか。

「筋書きにないドラマを、筋書きに沿って描く」


その先にあるのは、甲子園ではない。コメディである。


ゴースト部員の登場が唐突だったことは否めないだろう。
オープニングを観ると繋がる場面は あったものの、もっと簡素かつ明瞭な構成にするべきだった。









このページのQRコードです。

拡大