その シャンボン玉は、どこへ向かうのか?
日本で今、大きな社会問題と なっているのが高齢者の単身世帯である。
今作は、多摩川河川沿い築50年以上の家に独り住む当事者の老女を、街のクリーニング屋を通して 見守る舞台だった。
“シャンボン玉”なるものは、膨らませ、空中へ飛ばす時点まで を笑顔で過ごす、無責任な遊び だろう。そうしてコンクリートの地面へ落下し破れた頃には 、次のシャンボン玉を製造するのだから。
だが、たとえ無責任の遊びであっとしても、公園で幼女が続々とシャンボン玉を飛ばす姿は 昭和の原風景かもしれない。
経営困難な街のクリーニング屋へ、一ヶ月に一回、一週間に一回のペースで「窓や浴室をキレイに」を注文する老女がいた。
もっとも、彼らクリーニング屋は 透明でしかない窓ガラスを磨くだけではなく、老女の 買い物や散歩を手伝う。
作業員からは、「私たちはヘルパーではない」という声も聞かれる。
その関係の中で、老女の子供、孫など親類家族も 加わる。
だが、私が感じたのは、冒頭の高齢者単身世帯問題ではない。
個人経営で、多摩川の家々をキレイにしてきたクリーニング屋の家族経営力だ。
老女の住宅のシーンは、舞台の前方にてビニールシートを広げ、洗浄する作業員の姿が いつも ある。
バッグの音響さえ掛けられぬなか、作業道具を使って、窓ガラスをキレイにする姿を 誰も見逃すことはなかった。
この、何の変哲もない作業内容は、観客を飽きさせてしまう一面も 当然ながら 存在する。
そして、それは今作が「シャンボン玉×老女」の紹介をしておきながら、家族経営の応援歌であることを控え目に表す。
世の中、高齢者単身世帯を狙った違法なクリーニング業者、リフォーム業者等 いることは間違いない。
一方、そうではない事業者が多数おり、高齢者の側からも「コミュニケーション」を求めてるケースは多い。
新聞、テレビ、雑誌は世の中の点をルーペで拡大して、それを広める役割がある。
逆に、無数の面は そもそも拡大しない。
こうした、「メディア•ギャップ」で「私たちは、一定の方向へ誘導させれているのではないか」という不安を改めて感じた。
作業員が、上記の「メディア•ギャップ」に陥る老女孫=女子高生に責め立てられ、社長へ「注文を断わったほうが いいのではないですか?」と訴える場面は、非常に 物事を重層的な観点から捉えた場面だった。
訴えた作業員が是か、社長が是か という是々非々を超えた、答えのない舞台が そこには あった。