魑魅魍魎の住む金魚鉢
男児の「遠くへ行きたい」という声が押したのは、サスペンス狂想曲をセットしたままのCDラジカセだった。
坂上忍氏プロデュースの今作『溺れる金魚』であるが、映画を舞台化した作品らしい。
私は 映画館のスクリーンに映された方を知らないので、対比で あれこれ語ることなど 至難の技だ。
ただ、同じ下北沢の地図を広げれば、つか こうへい脚本の『蒲田行進曲』が舞台化され、評判を得たばかりである。
『溺れた金魚』にも『蒲田行進曲』にも 共通するのは、展開において「節」という区切り が存在し、終盤へ向けて 緊迫が高まる点だろう。
豊島区の遊園地で遊んでいた父親、母親、子供の、若い一家団欒。子供=男児が、突如として“誘拐”された「事件」を機に、その狂想曲は始まる。
CDラジカセのボタンを押したのは、やはり 男児の「遠くへ行きたい」であった。
人間を、単純な在り方として決して描かない演出を徹底していた。
あらゆる登場人物に複数の顔が見え隠れし、「演説」のような絶叫する姿さえ 一つに過ぎなかったのである。
これほど、「ぶつける」ことを否定し、混乱させるものと位置づけておきながら、しかし それに“賭ける”演出も ない 。
悲壮感漂う ラストには、思わす呑み込まれてしまった。
この読後感を 何と表現すれば いいのか。
漠然とした感情は、観客へ仕掛けられた狙い なのだろう。