観客との断絶から始まる、「うちの奥」
アジアン•ビューティの中で映し出される、魅惑的な姉妹と訪問者との交わりは、茂み のような静けさである。
環状線を響かせる騒々しい会話は繰り広げるが、そこはアジアン•ビューティ、日本の辺境の森だ。
バックに鳴る音楽も聴こえぬため、そこは森の邸宅であり、鹿が、昆虫が、生新の眼差しを持つ。
姉妹は、実は恐ろしい関係性なのかもしれない。
NHK『連続テレビ小説』など から、日本人は 姉妹という単語を肯定的なイメージで捉える。
だが、この舞台に繰り広げる「姉妹」は互いを 心のうち 罵倒し、知られてはならない邸宅の“二階”を守る ダーティな一蓮托生だ。
多摩美は、いつだってそう。
舞台は通常、広い客席と狭い舞台が別け隔てられる。
ある意味、主役は観客なわけだから、改革派ロシア演劇でも 「役者と観客のコミュニケーション」が図られた。
多摩美は、いつだってそう。
あくまでも、役者がパフォーマンスをすることが重要課題であり、舞台のスペースが概して広く確保されている。所詮、観客というものは脇に置く存在でしかない。
「上演中の入退場、一切 不可」(別公演)についても、同様のことが言える。
今回の作品、上演前に「気付かれないよう、ご注意下さい」なるアナウンスが あった。
私たちは 改革派ロシア演劇に位置付けられた主役ではなく、ただただ観察する人間に過ぎないのだろう。
姉妹の住む邸宅を、ズラリと並ぶ鹿の燻製。
この、シャンデリアに備品として飾りたい代物を形作るのは役者だ。
様々なポーズが、その手脚を変えながら、邸宅を一周する。
動じぬ身体に、生新さを感じるのは私だけか。
彼らは動じぬことで動物、あるいは虫のパワーを放ち、動くことで 舞台の一つとなり得た。
観客とのコミュニケート断絶が多摩美らしさ だとすれば、姉妹の長女は断絶に始まった狂気である。
この「家(うち)の内」は、思うに姉へスポットライトを当て続けた面もあった。断絶から始まる狂気を、あまり当て過ぎない程度に描いたのが今作のテーマ性だろう。
展開を抑えた演出も、独自の世界観に繋がった。それを如実に現したのは、衣装を含めたアジアン•ビューティである。