ディナーショーと、未亡人の対話
大西洋に浮かぶ巨大な船体の中で進む、砂の欠片のような人間ドラマ。
身体が揺れていないのは確かなのに、心は劇場という大海原で揺れ続ける。
「大西洋レストラン」専属シャンソン歌手を聴ける、ライブステージ。
合間は、舞台のストーリーか、それとも このライブステージなのか。
私達は、それを仕分けすることが
できない。
まるで、専門の研修を受けた人がヒヨコの性別を間違えたまま箱に積める現象である。
未亡人の 心の内と、数千億円をかけ建設中した船体で 独りきりの客人との対話は、ずっと耳を澄ませていたかった。
アメリカへと旅する航海の途中、その巨体は 海水を掻き分けることだろう。
客席9人ほどのボートに生えた手が同じ速度で掻き分ければ、当然のことながら小人は揺れに揺れる。小さな食堂の テーブルにワインを用意していれば、プランクトンの餌と化す。
その小人に対し、「大西洋レストラン」が体内で営業中である巨人は ビクともしない。
多少、揺れたとしても、ワインを 程よくかき混ぜる役割しかない。
未亡人と独りきりの客人は、静かな揺れ で、対話を繰り広げる。
このような対話をして雑音など聴こえようものか。
他は、レストランの客席がからっぽだ。いや、店長が指示をしなかったため、テーブルさえ置いていない。
ところが、テーブルに客人は座っている。存在は、雑音は、未亡人と 独りきりの客人の対話においては邪魔である。
オレンジ、パープル。
照明は、船体を彩り、ライブステージが 劇場を揺らす。
ここへ来てしまったからには、アメリカの港まで「大西洋レストラン」に泊まる必要がある。
私たちは、窓から掻き分けた後の大海原を眺める時間は ない。
未来からの、老婆と少年 の対話に再現される断片しか スクリーンに灯らないからである。
ライブステージの激しい歌の前で、それを見つめない 大半の客人。彼らは アメリカでの仕事を話し合い、家族で大陸を語り合っている。そう、思う。
未亡人は、ライブステージを見つめ続けていた。
この大海原に浮かぶ「大西洋レストラン」で起こる分かれ目を、今日の老婆に映し出したい。