monzansiの観てきた!クチコミ一覧

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『タガタリススムの、的、な。』

『タガタリススムの、的、な。』

舞台芸術集団 地下空港

ギャラリーSite(東京都)

2013/11/14 (木) ~ 2013/11/24 (日)公演終了

逃げ切れ。Facebookから、「カタリ」から供に
客席は360度取り囲む形で、中央の舞台も四方に黒い格子が覆う。(開け閉め可)こうした舞台構造は珍しいものではない。だが、スタイリッシュな雰囲気と緊張感のある場は、開場時間中さえ観客を呑み込む。


※バレてないネタバレへ

ネタバレBOX



「空白」を描く行為は「落語」でる。ハリウッド映画というか、洒落た小説家の思い浮かべるような「パーティ会場」「海岸建設予定地」などのシチュエーションは、噺家が 扇子と自らの手で「蕎麦」を用意できるかのごとく、私たちの「空白」を埋めてくれる。

今、この時代に生きる者にとってみれば、「帝国資本主義」は間違った政治用語だろう。ただ、大英帝国がインドを支配する際、貿易会社「東インド株式会社」へ委任統治させたように、過去の歴史上、存在したシステムなのだ。21世紀の「帝国資本主義」というテーマ性、スタイリッシュな身体表象や、現代的映像技法を交えた構成は、それ自体が「ゼネラル」である。スタイリッシュなそれも、見方を変えれば童謡を唱えるシーンかもしれない。

これは、「帝国資本主義」を現す固有名詞としてのコンピュータ企業•クルイドダイナミクス株式会社を、「ゼネラル」な舞台構成によって 「複雑化」した形態そのもの を彼らなりに提示した結果ではないか。「Facebook」がビジネスレベルまでSNSの公共化を進め、あらゆる層の人々が「語り」のツールを得た功は大きいと思う。では、人々の本音は「主婦の井戸端会議」か。「Facebook」か。本作は前者の立場だったはず。

指紋認証など、個人識別社会は目の前に訪れつつある。ラスト10分間の展開はその危険性を警告してくれた。もちろん、劇的な「種明かし」は 伝わりにくい「複雑さ」でもあった。主人公の彼女(外国人出稼ぎ労働者)が裏を知るキー•ガールだろう空気は読み解けたが、いずれにせよ「品」のある演劇だ。無印良品すら顔負けの。
僕の偉大なるアイザック・ニュートン

僕の偉大なるアイザック・ニュートン

feblaboプロデュース

駅前劇場(東京都)

2013/11/13 (水) ~ 2013/11/17 (日)公演終了

その答えは、5×5じゃない



アイザック•ニュートンは、科学者、記述家、哲学家、政治家、貨幣局長など、様々な 仕事を持っていたらしい。
木の枝から落ちた林檎を観察し、「万有引力」という物理学の法則を発見した。人類史に残る偉大な発見は、それを証明させるためのピサの斜塔という偉大な建造物も遺している。

ニューヨークのことを、別名「ビックアップル」と言う。米国人のみならず、EU、ロシア、アフリカ、中南米、中国、韓国、東南アジア、中東、インド、日本…などから飛んできた人々が住む。この都市を訪れたジャーナリストは必ず「英語が通じない!」と嘆く。「ビックアップル」のことばの由来ではないが、ニューヨークの多民族多人種ぶりは林檎=アップルを世界で最もじっくり観察した偉人•ニュートンの仕事数に等しい。

「知り合いの知り合いを6人(5人説もある)たどれば、世界中の人とつながる」ことが統計学的に判明している。本作は、コメディタッチと淡いタッチを織り交ぜ紡いだ、「つながりマフラー」だった。登場人物が「はっちゃけて」おり、たとえば無敵人間や電子少女を観ているだけでも、存分に楽しめる。だが、SFのジャンルに収めたくはない。「つながりマフラー」は大型工場で製造された どんな繊維より温かい。

旅する女性2人の別れから始まって、そして出会いが生まれた。関係性ー「近未来の日本」へ至る入り方が見事である。

ニュートン好きのサムと3歳年上の美幸の触れ合いが印象的。織り交ぜた糸の「淡い」部分なのだろう。今日もどこかで、人と人が、国と国が、ニュートンの発見した「万有引力」で互いに引き合っている。














音楽劇「赤毛のアン」

音楽劇「赤毛のアン」

DGC/NGO 国連クラシックライブ協会

東京国際フォーラム ホールC(東京都)

2013/11/02 (土) ~ 2013/11/03 (日)公演終了

大迫力の舞台!ー市民の力で、地球は変わるはず
歌で性別、年齢、国籍、人種の違いを越えられるように、世界中の人々が「助け合いの精神」で 一つになれるはず。そのような確信を与えるミュージカルだ。

「赤毛のアン」は1900年代初頭、カナダの孤児院に育った少女アンがマシュー家に引き取られ、学校や家庭、地域での出来事を通し、教育者アンへ至る成長を描いた作品である。時代性から読み解くと、第一次世界大戦中、もしくは その戦後であり、「女性参政権」等のデモクラシーが力を持つ時代。
主催の「NGO法人国連クラシックライブ協会」は、国際連合の下部組織である。3日の千秋楽休憩中、国連地球憲章の前文がスピーカー越しに伝えられた。
国連地球憲章は4章、16条の構成となっているが、3章、4章の私たちの暮らし全般に関わる条項をご紹介したい。1章、2章は地球環境の保全を訴える内容である。

「3章 社会と経済の公正
倫理的、社会的、環境的要請として、貧困の根絶に取り組もう。
あらゆるレベルでの経済活動やその制度は、公平かつ持続可能な形で人類の発展を促進するものとしよう。
男女間の平等と公平は、持続可能な開発にとって必須なものであることを確認し、教育、健康管理、経済的機会を誰もが享受できるようにしよう。
すべての人が自らの尊厳、健康、幸福を支えてくれる自然環境や社会環境をもつ権利を差別無く認め、特に先住民や少数民族の権利に配 慮しよう。
4章 民主主義、非暴力と平和
民主的な制度と手続きをあらゆるレベルにおいて強化し、統治における透明性と説明責任、意思決定へのすべての人の参加を確保し、裁判を利用できるようにしよう。
すべての人が享受できる公教育や生涯学習の中に、持続可能な開発に必要な知識、価値観、技術を取り入れよう。
すべての生き物を大切にし、思いやりを持って接しよう。
寛容、非暴力、平和の文化を促進しよう」

ネタバレBOX

90年代コソボ紛争で判明したのは、社会の情報水準やテクノロジーの進化が進んだ一方、それに反比例するように異なる集団へ対する虐殺が拡がっていく現実。94年のルワンダ大虐殺では、80万人のツチ族が死亡した。
旧ユーゴ地域の経済、生活、教育は準先進国レベル(当時)であった。以上の90年代発生した大量虐殺と比べれば日本は「平和な国」かもしれない。
しかし、内戦中の国家や開発途上国より社会システムが複雑化しているからこそ、「巧妙」である真実を忘れてはならない。
「すべての人が自らの尊厳、健康、幸福を支えてくれる自然環境や社会環境をもつ権利を差別無く認め」は、日本に問われている宣言文だ。


私自身、思い入れが深いので、少女アンの 明るさ一辺倒の人物描写は疑問だったが、気づけば子役の演技に夢中に なっていた。孤児院出身であっても、「赤毛」であっても、女の子であっても、ひたむきに毎日を生きれば 「豊かさ」を手にできることを 教えてくれる。「eがつくのよ🎶annの後に♩そっちの方が上品だと思うの」というミュージカル挿入部の歌詞が、誇りある人間をシンボリックに現す歌詞として印象的だった。

市民参加型でしか、この圧倒するミュージカルは育たなかった。
どの子も、どの少年少女も、どの若者も、どの高齢者も、みな一人のエンターテイナーだろう。
幕開けと序幕のミュージカル•ショーは、これが現実とは思えぬほどの光景であり、ラスベガス滞在中のビジネスマンさえ絶賛するはず。
「NGO法人国連クラシックライブ協会」らしさが第二幕以降に発揮された。つまり、パーティ会場という形式を取り、バレエやバイオリンの音楽会を開いてしまう構成である。
マイナス点は「赤毛のアン」の物語から外れ、一幕の余韻を奪い去るところか…。一幕の少女アンに比べると、二幕は 断片的エピソードばかりだった。3時間のミュージカルなのにもかかわらず、二幕以降、物語に入り込める余地がないとは。
これは残念過ぎる。ただ、プロダンサーがステージを飛び交うバレエの可憐さに魅了されたので、パーティ会場を取り壊すべきとも断定できない。

世界中の人々が違いを認め、非暴力と尊厳を守り、連帯をもつことが人類唯一の発展の道である。
今こそ、「全人類的価値」の実現を図るとき。
刈り取った恥部をマンホールに詰める=殺人事件

刈り取った恥部をマンホールに詰める=殺人事件

Theatre MERCURY

駒場小空間(東京大学多目的ホール)(東京都)

2013/11/08 (金) ~ 2013/11/10 (日)公演終了

迎合主義という名のディフォルメ化
タイトルに惹かれた。
たぶん、この劇団だから観にきた人も、私と同じくタイトルに惹かれて観にきた人も、「下ネタ」を思い浮かべたはず。しかし、「刈り取った恥部」のタイトルだからこそ、それを裏切る舞台だろうな、とは事前に把握していた。

ネタバレBOX

現代社会を 生きる日本人にとっての「恥部」は、紛れもなく、第二次世界大戦の敗戦国、日本だろう。この「恥ずかしさ」は 勝手な考えでは ない。
国際社会の礎である国連憲章においても、「旧敵国条項」(107条)が削除されない事実。日本が 条項削除を求めたところで同盟国•アメリカも拒絶するだけだ。
国連の公式言語は何語か…。英語(イギリス、アメリカ)、フランス語、ロシア語、中国語の4言語である。連合国の主要メンバーだということが お分かりになると思う。
「そもそも国際連合は英語で記すと、The United Nationsだ。これは第二次世界大戦中の連合国という意味だ。戦後、日本の外務官僚は、国際連合があたかも公平公正な機関であると見せかけようとして、連合国と異なる意訳をあえてした〜略」(SAPIO 2013年3月30日号)

国益第一の立場からすれば、日本人自身の議論で「対米戦中の政治指導者は国を滅ぼした責任を負う」という答えを導くべきたが、残念ながら国際社会の中の総意として「恥部」である。これは、賛同するか、否定するか、の二者択一ではなく、私たちには どうしようもできない現実だ。

本作は「恥部」を 盗み出す、すなわち「恥部泥棒」なる集団が出現する。この「恥部泥棒」なるものが、歴史認識や領土紛争で対立し、反権力のタブロイド紙が 争いを盛り立てている中国•韓国に 他ならない。
「恥部」は欲望そのものらしい。戦中の軍事国家•日本を領土拡張に置き換えたとすれば、まさしく今の中国政府、韓国政府は泥棒だろう。
こう例えたら私は違和感があるのだが、作演出の京極周氏の見方に立って考えてみた。(あくまで私の推論である)

「正直な作品を つくろうとした結果
壮絶な自己嫌悪との闘いになりました。
そんなことは客席の皆様には関係ないかもしれませんが
僕はおそらく現代における平均的な人間と言ってもいいので
共感してくれる方も多いでしょう。
それを期待すると同時に、そのことに失望してる自分がいます」(挨拶文より)


「そのことに失望してる自分がいます」の末文が控えめな演説である。

実は本作ラスト、「恥部」を刈り取られた男女の住む施設の「所長」が、「だって、(恥部が)あるのに ないない 言うから取ってやった」という趣旨の台詞を吐いている。ズバリこの所長こそアメリカである。
喫茶店のテーブルに、まるでヤルタ会談の連合国首脳のごとく集まった「恥部泥棒」(中国、韓国)、「所長」(アメリカ)、「雑誌記者」(マスメディア)の三者。「所長」が「恥部泥棒」と結託し、裏で提供していた…。
中盤には「恥部泥棒」を 倒すため、刈り取られた男女が武装するシーンさえ あった。

こうした構図は、国際社会を深読みすれば理解できるものではない。しかし、改めて日本を取り巻く現実を見回そう。
国連憲章107条の「旧敵国条項」は残り、国連予算の拠出金を全加盟国中、二番目に負担している日本が非常任理事国すら何度も落選した現実を。米中が戦後秩序を捨ててまで戦争するのか。核戦争が勃発してまで アメリカは日米安保条約を 守るのか。

繰り返しになるが、本作は「恥部」の単語こそ連発されたものの「下ネタ」は ほぼ なかった。言い方も学術的だ。
だから作演出の京極周氏に対する「不謹慎だ!」も 言い過ぎの批判。むしろ象徴的な意味合いとして捉えるべきだと思う。


多くの観客は本作を「現代社会における若者像」を映像や、ロボットダンス交え描いた作品だと考えたのではないか。「恥部」も、草食系男子や肉食系女子の新しい形を描く装置だと…。

だが、それでは「失望してる自分がいます」の意味が不明である。
実態は、かなり踏み込んだ、今日のメディア、政府、大衆、若者への痛烈な迎合主義だろう。
場外乱闘!

場外乱闘!

lovepunk

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2013/11/06 (水) ~ 2013/11/10 (日)公演終了

この汗は、選手と団体の成長物語だ

「女子プロレス」へのオマージュを、汗と肉体と演劇で込めた2時間…。
主にリングの裏側を描き、女子レスラーの「私生活」だとか、団体内部の「闘争心」を 裸にする。
おそらく、リング外の「新宿女子プロレス」だけであれば、賞味期限間近の コンビニ弁当だった。最も 熱かったのはプロレス試合の「リング内」。ただし、演劇的な描写を重視したためか、一つひとつの技こそ忠実だった反面、スピード感が乏しい。
私は、女子プロレスを観戦するが、風を切る 肉体は なくてはならないパフォーマンスの一種だ。それを可能とするのは張り付けられたロープである。
舞台稽古のなか鍛えた、新宿女子レスリングのパフォーマンスを最大化することは、ロープを再現してこそ。観客も試合のシーンでテープを投げ、「場外乱闘」も観客席でやればいい。「タッグマッチ」もいい。
巻き込んだっていい。技の忠実さ は、レスラー達が掲げる、汗まみれの印籠である。


女優という女子レスラー…女子レスラーという女優…。

ネタバレBOX


「ヒカルの母」をめぐるエピソードは、「ヒール役」をリング外でも貫き通す女優魂だろう。あの展開は 事前に「そういうことだろうな…」とは観客の誰しも考えたが、分かった上で胸を熱くさせる。
振り子時計物語

振り子時計物語

劇団暴創族

笹塚ファクトリー(東京都)

2013/11/07 (木) ~ 2013/11/10 (日)公演終了

ワン•シチュエーションを操るイリュージョニスト
シチュエーション•コメディの新しい可能性を提示してくれた。

ネタバレBOX

2011年日本アカデミー賞を文字通り「総ナメ」したのが『八日目の蝉』(原作 角田光代 文春文庫)。「未成年者誘拐犯」の女性と、幼女を通し、「家族とは何なのか?」を模索する感動作だ。
本作も、『八日目の蝉』も、物語の中心は瀬戸内海の島。
なにせ、本作はタイムスリップが登場するSFでもあり、決して映画の舞台版リメイクとはいえない。だが、「家族とは何なのか?」という本質は 同じだった。もし、『八日目の蝉』の幼女が大人になって誘拐犯との別れの場面を忘れたとしたら…。(本作は実娘だが、法律的には誘拐らしい)その20年後をSF作家が書き記すような話である。


「勘違い」を基に、コメディや感動へ変える力。石油という一つの資源で あっても、その黒光りする液体から電力や、紙が作られる。「勘違い」を愛しく包み込める日本人は、今 どれだけいるだろうか。

この「笑い」と「涙」は本物だ。
1993年の時代を匂わす音楽などは流れたが、瀬戸内海の島にも「1993年」は あったはず。いや、…時代性を無視した熱血漢の漁師だったり、お見合いに奮闘する 女将の姿が まさしく、流行の最先端から離れた『夏の日の1993』だったのである。
『クリプトグラム』(cryptogram)

『クリプトグラム』(cryptogram)

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2013/11/06 (水) ~ 2013/11/24 (日)公演終了

少年ジョンの 深過ぎる人間洞察
アメリカの劇作家•デイヴィッド•マメットが綴った静かなる会話劇…。
テレビ、映画の谷原章介は紳士の代名詞だろう。彼が今回、挑むのはデルという謎の男性であり、彼が造り上げてきた代名詞には遠い存在だ。
一見すると「こども想い」の紳士なのは間違いないはずだが、デルは ある〈秘密〉を抱えていた。「デルの後ろめたさ」を何ともミステリアスに表現した姿は 新たな代名詞の印刷を思わせる…。


※ネタバレ





台詞カブリや、会話劇にしては重厚さに欠けた面も…。
ただし、ミュージカルではなく、会話劇へ子役を“メインキャスト”として出演させた舞台は特筆。最古の歌舞伎映像に映っているのは大柄の男性演じる弁慶と少年演じる牛若丸だ。
大切なのは、必要に迫られ子役を“サブキャスト”として出演させることではない。「出ずっぱり」であること。
本作『クリプトグラム』がテーマ上、または構成上、ほぼジョンの「出ずっぱり」であった事情は認めるとしても、これはレアアース並みの出来事だろう。
後に続けばいい。

ネタバレBOX

ブルーベリー•ヨーグルトのような色を貴重としたセットで、谷原章介のデルを上回るミステリアスだったのはジョン役(Wキャスト)坂口湧久。
「僕が ここにいることも、本当はないんじゃないの?」と、哲学を語る子供を演じるのは大変、難しい。本作『クリプトグラム』は子供を中心に綴られた会話劇だから、全てはジョン役を務める子役次第ともいえる。(見事だった!)
大人デルと子供ジョンの「対等の関係性」は、それ自体がミステリアスであって、空間そのものをジョンの内面世界へ誘う。この点は二幕のラストが映像技法を交え現していた。
【ご来場ありがとうございました!】退カヌコビヌカエリミヌヌ

【ご来場ありがとうございました!】退カヌコビヌカエリミヌヌ

ロ字ック

サンモールスタジオ(東京都)

2013/11/02 (土) ~ 2013/11/10 (日)公演終了

うさぎのマスコットが「裏側」を象徴していた



日本の集団心理を直接的表現で「えぐる」様は必見だ。

スーパーマーケットの事務室は、店員同士のみならず、男と女だとかにも向き合う空間である。オムニバス形式を取っていないようだが、一種の「短編集」であり、一つの物語としての完結性は低い。

それゆえ、「物足りなさ」を感じたことも事実だ。


集団心理を紐解けば、属性を設けた上での、そのグループ内における排除行為=やりたい放題に尽きる…



あるアメリカ政府高官は「日本の窓口 は 一体、どこなのか?」と分散型の権力構造を嘆いた。
戦前の権力構造も、内閣(首相)が あったり、議会(衆議院 貴族院)が あったり、枢密院(枢密院議長)が あったり、陸軍省(陸軍相)、海軍省(海軍相)が あったり …権力構造が分散型だった。これは合議制とは違う。
近代民主主義の基本である権力のチェックアンドバランスでもない。言うならば自民党内の派閥のような権力構造だ。

結局、陸軍が大臣を推薦しなければ内閣を組閣できないシステムが定着し、そのことが陸軍による政府支配を可能にしたわけだが、一方8月15日ポツダム宣言受諾を決めた御前会議では無条件降伏へ反対の声を上げていた。
霧のような権力構造だろう。


日本企業の特徴として挙げられるのは、「系列」である。業種をまたぐ低相互資本関係の企業グループを指す。
この日本企業の特徴を分析した論文「系列系企業は日本的経営を続けているか
-近年における独立系企業と系列系企業の比較- 早稲田大学商学部 広田真一ゼミ
大野道子・寺井政樹・藤重大武」から一部、紹介したい。

「中略〜導き出される結論としては、企業集団の形成は「安定性の確保」 のためにあるということである。企業をつぶさないために、業績水準を下げるという保険 金を支払って、事業リスクをカバーしているのである。
こうした企業集団に属する企業の行動は、銀行がいざというときに系列内企業を救済し たり、また、従業員を重視する経営に見られるように、安定性を重視し構成員を重視する 日本型の経営スタイルに基づいたものなのである」〔II.『企業集団の経済的意味と銀行の役割』 (1983 年中谷巌)の要旨〕より抜粋

一つの大黒柱(本社)が多数の(支社•分社)を支える中央集権ではない。韓国のSAMSUNG財閥にはみられない特徴である。
そして、重要なポイントは、こうした「持ちつ持たれつ」の企業風土が政治とも、すなわち戦前の霧のような権力構造とも近しい点だ。

日本は1990年代以降、「中央集権」を否定し、地方行政へ分権化する方向を邁進した。しかし、私は、「地域主権」「地域分権」といったフレーズが絶対的正義だとは考えない。2013年1月公表の財務省主計局の試算によると、平成25年度地方財政収支見通しでは地方公務員の人件費総額は19.7兆円に のぼる。
消費税8%級の予算が地方公務員へ充てられている事実…。
彼らの多くは業界団体と蜜月なだけではなく、全日本自治団体労働組合(自治労)等の労組をとおし野党の政策にも決定力をもつ。
「地域分権」を拡げると、自治労などの地方公務員の権限も相対的に拡大してしまう。これが疑問を抱く一つの理由だ。
当然、国家公務員こそ日本低迷の当事者だが、「共済制度」などの一部特権的制度の擁護をかかげる地方公務員もメディアは叩く必要があるはず。しかし、メディアは霞ヶ関の官僚バッシングを辞めない姿勢は貫き、「教職員」や予算の支えがなければ成立しない「農家」「漁業者」「社会福祉士」「介護士」「医師」等は ここ10年間擁護し続けた。
少子高齢化が進む中、消費税増税は東京新聞(中日新聞)以外の大手5紙(讀賣、朝日、日経、毎日、産経)が賛同。少なくとも、賛同した大手5紙は平均年齢66.1歳の農業従事者=農政分野の縮小、社会保障関連費の大幅圧縮を同時に訴えるべきだ。反対の東京新聞(中日新聞)も「消費税増税なき少子高齢化社会」の財政政策を語らなくてはならない。
思えば、毎年の「社会保障費2000億円抑制」さえ、族議員や業界団体、メディアの総攻撃にあい、一時断念してしまった経緯がある。


「消費税増税」より「歳出削減」の方が選挙に禁句だ。だが、1000兆円の負債を抱えた日本で、消費税を上げれば財政健全化するか。少子高齢化に見合った予算措置を進めないと、それこそ増税論者のいう「ギリシャ化」ではないか。
何が「税と社会保障の一体改革」か。
低所得層(資産評価額を加味)を除き、高齢者の窓口負担は さらに引き上げるべきだし、介護保険料ー介護サービス(40代以降ターゲット)への国税投入は最小限でなければならない。
低所得層以外の高齢者については、「資産の現金化」「貯蓄の放出」(景気対策)を促す税制度を側面から形作るのだ。
選挙を前にすると、誰もいえない。「世代間公平」を進めるのが「税と社会保障の一体改革」だとしたら、これを言わない政治家は消費税増税のレトリックとして利用しているに過ぎないだろう。
10%程度=11兆円程度の段階的社会保障関連費圧縮政策の断行しか、「消費税増税なき少子高齢化社会」は到来しえない。

これも「地域主権」「地域分権」が絶対的正義とは思わない話と同じだ。「消費税増税」で財政健全化は果たせないし、「社会保障」を聖域化する流れは間違っている。
この国の あるべき姿は、責任を負う個人の存在である。本作のスーパーマーケットがそうだが、この国の社会は中央のハブ機関こそ確認できても、一国一城で全て現場に任せられている。「地域分権」を拡げれば汚職が蔓延してしまう。際限のない「地域分権」が首長を地域の支配者にし、業界団体を巻き込む汚職を生んだ例は諸外国に多い。
本作の集団心理で巧みであったのは、ここ である。
高校OB先輩がものを言う閉ざされた地域、一国一城の やりたい放題…。店長であっても、店員の風紀すら変えられない(夜勤部)、逆に反抗される霧のような権力構造…。
おそらく本社という名の「中央」が乗り出せば解決するのだろう。
しかし、この国は棲み分け というか、「ここからは あなたの城だから、私は構いません」に終始する。
それを巧みに、肌寒さのなかで描いたことを絶賛したい。

















































止むに止まれず!

止むに止まれず!

ソラリネ。

上野ストアハウス(東京都)

2013/10/30 (水) ~ 2013/11/04 (月)公演終了

ドリフ魂、復活!ー観客の心を揺らす
往年の「ドリフターズ」を彷彿させる…。
この劇団は シチュエーション•コメディを最大限に活かす、「誤解」請負人ではないか。

ネタバレBOX

長男•鈴原あきら (大坂のどか)が女に なって帰ってきた!?
先日、劇団ヨロタミの舞台『兄弟ノート』を観劇したが、その序盤でも 「長男が女になって帰ってきた!?」シーンが あった。反応の仕方が 似たり寄ったりだった点は何故か…。

日本の家族観というよりは、生粋「茶の間エンターテイメント」であったように思う。
シチュエーションに ひたむきであり、茶の間の小物セットは 当然のこと、役者も「ドラマ」としてのリアリズムを目指す姿勢が伺えた。
次女•鈴原瞳(服部あつえ)や住込み•中田竜次(天野哲也)などの足を掴む、突き飛ばす、等の仕草は画一期的だった。たとえば、「向こうに行かせたくないよ〜」という心情を表すコメディタッチのポーズだとしても、毎回 同じ「圧力」である必要はない。
あきら の婚約者•金子真一(木村慎一)が父親•鈴原正隆(剛たつひと)へ挨拶しに行こうとするシーン等は「他人」だからこそ笑えた。
ただ、もっと相手との関係性を踏まえた上、バリエーションを増やすべきだと思う。

正隆が瞳の二股疑惑ではなく、長女•鈴原はるか(藤島琴弥)と瞳の彼氏•藤田芳郎(馬庭良介)の交際疑惑に視線を向けた展開も 心の中で残念がった。二股疑惑の方が おもしろい。


まるで複雑な連立方程式を解くような舞台だ。そして、人間の「思いつき」等を巧妙に利用し、ドリフターズの「柔らかさ」を復活した。
超高層ビルディングは 大地震の際、ゴムのように揺れる。東日本大震災でも、東京の超高層ビルが 揺れる映像が流されたので、ご記憶の方も多いだろう。
なぜか。
鉄筋コンクリートがポキリと折れないよう、ビル自体 揺れることでエネルギーを放出させるのだ。


私は本作『止むに止まれず!』も、日本の家族観や複雑な関係性(=鋼)とドリフターズ(=柔)が両立した、超高層ビルディングだと思う。
そして、その場にいる観客の心をゴムのように揺らすのだ。
安心して、気ままに楽しめて、家族という一大テーマを考察できる。これは有意義だろう…。
♪ご来場ありがとうございました♪  トラブルショー

♪ご来場ありがとうございました♪  トラブルショー

ミュージカル座

光が丘IMAホール(東京都)

2013/10/31 (木) ~ 2013/11/04 (月)公演終了

すべての「裏側」に贈るミュージカル


すべての「裏方」に贈るミュージカル…
その「想い」は 劇場という電導線を流れ、明日の街が造られていくはず。

ネタバレBOX


第一幕でリハーサル•シーンが、第二幕で裏方のドタバタ劇が繰り広げられる。前者で圧倒的ミュージカルを熱演し、後者で演劇色を出す構成。

『トラブルショー』は三回目の公演らしい。
「劇中劇」を取り入れたため、「民衆蜂起」の砂ぼこり舞うパワーであったり、「女の執念」を官能的ベリーダンス等に よって表現する「TNE•ミュージカル」は本物だ。むしろ、劇中劇を取り入れてなお、話の断片のみで観客の心を掴んでみせるところは脱帽である。

「マッチ売りの少女」役を務める娘が高熱で降板。
その代わりに 急遽、出演しなければならなくなった母親の心象描写は傑作だ。本番中である。
戸惑い と母親としての責任が短時間に交錯する姿がユーモラスだった。

プロ野球も満塁場面が 一番アウトを取られやすい。しかし、ホームランさえ一本打てば どうだろう…。(これが難しいのだが)

「マッチ売り の少女」が箱を忘れ、「マッチ下さい少女」へ変わったシーンは、間違いなく満塁場面から打ち上がったホームランである。
うちゅうのひと

うちゅうのひと

アンティークス

OFF OFFシアター(東京都)

2013/10/30 (水) ~ 2013/11/03 (日)公演終了

今日、ラムネ(プルーン味)が食べたくなった
スティーブン•スピルバーグ監督『E.T』(ユニバーサルピクチャーズ)への強いオマージュであることは間違いない。
学校で 一人ぼっち の少年とETが遭遇するのは夜間、自宅のガレージだった。スピルバーグ監督は20周年アニバーサリーに向け、「撮り直し」を行っている。
一つは「子ども達の世界に馴染まない」(スピルバーグ監督 )理由から男性が銃を構えるシーンをカット。もう一つは この遭遇のシーンである。(他にも撮り直しの箇所は存在するが、この二つが重要らしい)

ネタバレBOX

そこで、今井なつこ(柴田和美)とETにあたるさっちゃん(つのだときこ) の遭遇のシーンを考えてみたい。
設定は夜間の自宅リビングだろう。「ケケケ…」の笑い声を響かせる さっちゃん に対し、なつこ は 菓子をあげ、接触を試みる。戸惑いながらも短時間のうち「一緒に寝てもいいよ」と すぐ友達へ。
このシーンを観た時、私は『E.T』の旋律を思い出した。SFファンタジーというか、映画作品のオマージュを通じ、少女と“ET”の絆を描く…。おそらく観客は そのような展開を待ち構えた。
しかし、見事な心象表現で裏切られることになる。

「見えない」点は ずっと疑問だった。少なくとも、さっちゃん を隠すシーンは鉄則だと思ったからである。
隠すシーンがない…。それは すなわち、映画的手法で順を追って描く、またはシチュエーション舞台を放棄したことと等しい。
現れたのは内面世界の「女の一生」である。

「女の一生」の断片は、観客の人生と交わり、何色にも染まる。
今作『うちゅうじん』がミルクだとすれば、観客の人生がイチゴならイチゴミルクになるし、チョコレートならミルクチョコレートになる。
「示唆」を与える1時間50分。

優等生ではない、粗削りの感動も欲しかった。舞踏など挿入すれば、よりファンタジーに充満されたかもしれない。だが、一方で、静かなる余韻も かけがえのない特徴だろう。
この声が製作陣に届くとしたら、『E.T』のみならず、映画『ミスター•ノーバディ』の鑑賞もお勧めする。構成のモチーフが共通だ。
青春ガチャン

青春ガチャン

My little Shine

高田馬場ラビネスト(東京都)

2013/10/25 (金) ~ 2013/10/30 (水)公演終了

音響のチョイスが若者の「ガチャン」をあぶり出す




「伝わらない」若者が仲間になれば、きっと「伝わる」…。
音響が この“群像劇”を造り上げたのだ…。

『青春ガチャン』は「ソラリネ。」の公演も8月、上野ストアハウスで観劇した。一つの脚本だとしても、演出が違えば全く別の舞台と なるケースがある。結論から示すと、両作は各シーン、台詞、舞台セットに至るまで ほぼ同じだった。
それもそう、どちらの舞台も福地慎太郎氏が作演出だったのだ。




ファミリーレストランのドリンクバーの原価は一杯、1円にも満たないという話があった。そうだ。原価率の高いオレンジジュースや牛乳は別として、炭酸飲料などはタダのような商品だろう。
カネのない若者がドリンクバーを注文し、タダのような時間を過ごす象徴がファミリーレストランである。接客や料理の品質は求めない。

しかし、ファミリーレストランが日本に出現した1970年(7月7日「すかいらーく」一号店 府中市に出店)、解凍したハンバーグを食べたのは若者ではなく、圧倒的に中間層(それも上位)の家族だった。単語からいえば、こちらの方が理にかなっている。

世の中で「イノーベーション」(技術革新)が定着するまで、決まって山頂の雫から始まり、徐々に大地へ染み渡っていく構造システムがある。
有名な話としては、コンピュータは米軍施設のガレージ内で開発された。その後、軍事技術→ビジネス→一般大衆(一般ユーザー)へ拡がった。
私たちが着目しなければならないのは、イノーベーションは原発の汚染水のように拡散されず、一部の特権者から「段階的」に、一般大衆へと開放される事実である。ファミリーレストランの場合、最も早く接したのは上位中間層だったわけであり、山で考えると厚みは「中腹」かもしれないが、当時の日本社会の中の限られたグループだろう。

何だっていい。

1950年代、60年代に建設された住宅団地だって、当時の上位中間層が入居した。
以下、国土交通省 公表の資料

都市再生機構の役割について 平成24年6月1日

「機構の前身である日本住宅公団は、昭和30年に高度成長に伴う都市圏への急速な人口流入に対応 するため、中堅勤労者向けの共同住宅を大量供給することを役割として設立。※当初の公団住宅は原価家賃としていたが、家賃水準が高く「高嶺の花」と言われていた。 (当初供給された住宅(約40m²)家賃4,600円/月、国家公務員の初任給8,700円/月)」

ところが、70年代後半にマンション•ブームが起こると、代わって当時の上位中間層が押し寄せ、団地は日本住宅公団(現 UR 都市再生機構)の提供するカネのない住民が入る公営建造物になった。

イノーベーションを若者も享受できる段階は、大量生産大量消費=「システムの再生産化」段階である。あるいは、競争激化もその一つだろう。当然、権利の喪失等が 後押しする(=代表例_名作DVDの廉価販売)

これからの時代を進めていく時、山頂から岟(ふもと)へ雫を浸透させるのは難しくとも、中腹間の「普及スピード」は加速すべきだ。
私は、イノーベーションを雫の段階で、国家や独占企業、官僚組織などが利権化し、競争防止へ働くことこそ「普及スピード」を妨げる要因ではないか、と思う。

官僚組織の既得権者、政治屋の族議員と戦ってきたのが元通産官僚の古賀茂明氏である。
彼との対談本を出版した政治ジャーナリスト•田原総一郎氏は自身の考えを交え、次のような感想を述べた。


「既得権益だけはしっかりと守って、痛みを伴う努力を避けてきた。
改革をしないのだから、経済は成長しない。
経済成長がなければ稼げない。
稼げないのだから借金は返せない。
だから市場から「ノー」を突きつけられたのである。
いまの日本と同じである。
農協や医師会、電力業界といった既得権益者、さらに経産省や官僚組織など、
これら「日本の病根」というべきものが改革への歩みを阻んでいるのである。
このままでは、日本はギリシャと同じ轍を踏むことになる。
そうならないために、私たちは「古い日本」と決別しなくてはならない」(田原総一郎 公式ブログ 2011年11月22日 より抜粋)

既得権団体のための規制を全廃した上で、「普及スピード」を上げることが 若者にイノーベーションを享受させる最大の手段。
それは再生可能エネルギーにおいても 言える。税制度からみれば、いかに原子力発電が優遇され、結果として発電方法内での価格競争を捻じ曲げているか。1970年に日本初の商業用原子力発電所•福井県 美浜原発が稼働した当時であればイノーベーションの育成の下、補助金=税金を投入する施策も合意が得られただろう。だが、40年間以上も経過するなか、“民間企業”の事業へ多額の税金を投入する やり方は不健全だ。

電源三法を廃止しなければならない。原子力発電が「最も経済的な発電方法」か どうかは、上記の優遇税制度を廃止してからでないと判明できないだろう。


 「電力会社は販売電力量に応じ、1,000キロワットアワーにつき375円を、電源開発促進税として国に納付しています(電源開発促進税法6条)。国の平成21年度決算では約3,300億円の税収があり、ほとんどがエネルギー対策特別会計に組み込まれ、電源開発促進勘定や電源立地地域対策交付金として、発電所など関連施設の整備等のため及び周辺市町村に対する交付金等の財源にあてられています」(藤森税理士事務所)

再生可能エネルギーもイノーベーションの一種。だとしたら、大量生産大量消費=「システムの再生産化」を早める必要がある。
イギリス、ドイツはじめ、多数のEU圏内でも導入された発送電分離を日本に取り入れることで再生可能エネルギーを促進できる。企業の再生可能エネルギー分野への参入を増やし(規制改革)、「電力の自由化」を断行すれば電気料金も下がり、それは一般大衆の恩恵となる。
この流れは なんと当の電力業界自身が認めるものだ。


海外電力関連 解説情報

「英国に見る自由化のメリット
 英国の発送電分離と自由化の所期の目的は、「電気事業への政治的関与の排除」、そして「国有時代に蓄積された非効率性の排除」であり、この目的に照らせば成功したと言える。発電会社では5割、配電会社では7割の人員削減が実施された。また、効率の悪い古い発電所は新規参入の発電事業者(IPP)が建設した新鋭火力発電所に置き換わり、90年代には電気料金は大幅に低下した。
 電力民営化を含む各種国有企業の民営化や競争原理の導入は、英国全体に活力をもたらし、経済が長期低迷した「英国病」から抜け出す起爆剤にもなったのである」(電気事業連合会 HP)

合わせて、「普及スピード」を加速させるための補助金等は過渡的措置でなければならない。既得権化に陥らず進める。利権の温床にしない。平成25年度予算で再生可能エネルギー関連費は一千億円を超す。
商業用原子力発電の二の舞は困る。(エネルギー政策は当面、液化天然ガスLNGを中心に沿えるべきだ)


結局、国家資源をイノーベーション分野へ注ぐことを拡大し、一方で過渡施策を守り自由競争を確保して、既得権者は排さないと いけないのだ。

この恩恵は、若者にとってファミリーレストランのドリンクバーの非ではない。
豊かな自然環境と、郷土国家である。


『青春ガチャン』は 「伝わらない」ことで始まる誤解だとかを描く。
キャラクター設定もよい。
ファンタジーというより、場面ごとのキレを感じた。
心温まるのは確かだろう。














あたっくNo.1

あたっくNo.1

劇団EXILE

青山劇場(東京都)

2013/08/23 (金) ~ 2013/09/17 (火)公演終了

明日への蒸気を出し切れない青年達

真珠湾攻撃の機密任務にある、日本海軍潜水艇の内側をコメディ•タッチも交え描く。

第二次世界大戦前夜の艇内だけあり「お国のため」の雰囲気は漂う。
だが、対米戦を目の前にした悲壮感はなく、鋼鉄を歩くのは いつの時代も変わらない青年だった。

『あたっくNo.1』(同名小説が原作)のタイトルは不適切かもしれない。敵艦撃沈を そのように例えたなら。
私が舞台を観て述べることがあるとすれば、恋青年だとかを含め、「まっすぐ打ち向かう」心こそ『あたっくNo.1』の意味だったのではないか、という憶測である。

登場人物の見えざる心の扱いが巧み で、私たち は 艇内すべてを把握できない構成である。当然、海軍組織の暴力性を示すし、厳しい序列も同様だ。

古来より、文学者が「恋」を記す時、それは貴族階級のモチーフであることが多かった。宮廷という閉ざされた空間、貴族階級という限られた登場人物が、「恋のシンボリック化」にふさわしいからだ。今作『あたっくNo.1』でも、鉄拳制裁や序列の中にこそ見え隠れする恋、友情、家族観などのヒューマニズムが魅力的だった。
宮廷ではなく潜水艇である。
貴族階級ではなく海軍兵員である。
ところが、私達を魅力させる構造としては何ら変わらない。

ネタバレBOX


EXILEのキス…。この男同志のキスは女性のみならず、歴史スペクタルの頬をも赤くする行為であった。
『うれしい悲鳴』/『太陽とサヨナラ』(終演しました! ご来場ありがとうございました!)

『うれしい悲鳴』/『太陽とサヨナラ』(終演しました! ご来場ありがとうございました!)

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2013/10/23 (水) ~ 2013/11/03 (日)公演終了

「空気を読む日本人論」と かけがえのないヒューマニズム
近未来•日本は どのような姿かを考える時、私たちの延長線上に案外答えはあるものだ。
戦後、GHQ(連合国総司令部)の指令が下り、歌舞伎などで『忠臣蔵』上演が できなくなった。私は年二回、NPO法人•日本伝統芸能振興会主催の『こども若草 歌舞伎
』を観劇する。
その理事の方が おっしゃるには、「GHQが 歌舞伎の上演を禁止したのは“仇討ち”精神 で もう一度、戦争をさせないため」らしい。

占領当局も、新聞、ラジオ、雑誌、町内会などを通じ、日本の国民性を変革するプロパガンダ態勢を敷いたのは事実だろう。
では、情報統制の結果として“仇討ち”精神はなくなったかといえば、そんな ことはない。

視聴率40パーセント越えのテレビドラマ『半沢直樹』の名台詞「やられたらやり返す。倍返しだ!」は“仇討ち”精神である。『忠臣蔵』は赤穂浪士の物語だが、普段は儒教というか、序列を守る日本人でも、時として それを超越した「義」を掲げる。実に眩しい。

前置きが 長くなった。
本作のテーマは「空気に流される日本人」だったと私は思う。そして このテーマを読み解けば、現代に生きる私たち自身へつながっている。
つまり、今日の延長線上こそが『うれしい悲鳴』なのである。




































ネタバレBOX

私は、政治劇というより、一つのヒューマニズムの結晶体を見ることができたと思う。
斉木ミミ(藤松祥子)対 マキノ久太郎(西村 壮悟)の「キスして、殺して…キスして、殺して…」の男女としての愛情、世の中の身分(立場)を凝縮した関係性…。この台詞はラストシーンである。

近年では、故ミロシェヴィッチのみならず、旧セルビア将校以下、コソボ紛争大量殺戮の実行犯も国際人道裁判の対象となっている。すなわち、国際社会全体の流れとして、「現場責任」を問う声は大勢を占めるのだ。
第二次世界大戦敗戦後、東南アジア諸国で旧日本兵の処刑が行われた。国際社会の枠組みでも、極東国際軍事裁判が開廷し、大量の将校や下級兵に厳罰が下された。(将校、兵士はB級、C級犯〈 注 A級は平和に対する罪〉)

「現場責任」を第一義とする現代、軍事以外でも、例えば公務員や 公共性の高い職種の人間であれば、それは「現場責任」=「人道責任」を間逃れないのである。

「人道責任」に則り、『うれしい悲鳴』の「泳ぐ魚」なる準実行組織を考えると、どのようなことが言えるのだろうか。
それは、たとえ上司の命令で あっても、仕事であっても、「責任」は生じる事実である。

「泳ぐ魚」隊員•マキノ久太郎のエレベータ事故の回想シーンで、「拒否できないのが命令。一度も命令されずに人生を過ごす人も多いと思う」という台詞を聞いた。拒否できた“指令”を従った自分自身の行為は、何者でもなく自分自身の汚点である。

演劇史の中で語り尽くされるだろうシーンも、みつけた。斉木ミミと友人•亜梨沙(鈴木アメリ)の喧嘩別れのシーンである。
一人の少女の「寂しさ」に、本当に、感動した。「友達で いたいけど、これから中学校で亜梨沙は彼氏とかつくり、私とは違った世界を歩んでいく。病弱な私とは違う世界を…」という「寂しさ」の心情が伝わったのだ。
涙に包まれた時間は希少だ。これも、「本音と建前」の日本人を描いたシーンだったと捉えることも可能だろうが、私は その立場は取らない。「弱さ」「儚さ」「寂しさ」「物悲しさ」「言ってることと思ってることが違う」人間の心は 民族に関係ない。
このシーンは演劇史において語り尽くされるだろう。


身体は明日への衝動である。
劇場中に響きわたる振動を、小さなエネルギーに替えて。
政治劇の先はヒューマニズムの晴天だった。
奥深い、晴れやかな、人間の鼓動を感じる名舞台…。
その 風は今、現代に暮らす私たちに吹いている。
人狼 ザ・ライブプレイングシアター

人狼 ザ・ライブプレイングシアター

セブンスキャッスル

相鉄本多劇場(神奈川県)

2013/10/01 (火) ~ 2013/10/07 (月)公演終了

手に汗握る決定版!いずれ私も中毒に?
『人狼ゲーム』が世界中でブームになるのも伺えた。
現在、渋谷には同ゲームを取り扱うルームサービスが営業しており、番組化、舞台化、映画化など多くのジャンルへ進出している。


以下、インターネットサイト『ROCKET NEWS』の記事から基本ルールを紹介したい。

「人狼ゲームは、市民チーム(注釈 人間チーム)と人狼チームに分かれ、会話をしながら相手の正体を見抜いていく。プレイヤーは、配られたカードで自分の役割を確認するが、他の人がどんなカードを持っているかは知ることができない。だが、「人狼」のカードを引いた人たちだけは、自分の仲間を知ることができる。

人狼チームは、自分たちが狼であることを悟られないように、市民チームに潜り込む。市民チームになった人は、お互いに協力して誰が人狼なのかを推理し、多数決によって容疑者を処刑する」


本作も 、俳優が こうした基本ルールに従い、役のままゲームの参加者となる。
革新的だったのは、「三日目の朝」までに観客が人狼、霊媒師(人間)、預言者(人間)、狩人(人間)、狂人(人間)は どの役なのかを推理し、投票するシステムである。
初めて『人狼ゲーム』を知った観客は投票表紙を出すことすらできないが、これは中毒の可能性だ!
謎解き推理ゲーム が東京ドームで開催されるほど、参加型ゲームは多くの中毒者を生む。しかも、そのような謎解き推理ゲームとは違い、毎回 結末が変わるし、俳優も知らないリアリズムもある。
『人狼ゲーム中毒者』の至るところに現れる社会の到来は おもしろい…。

前述のとおり、俳優も実際、『人狼ゲーム』を行うため、台詞さえ存在しないのである。
だから、政治家同志の議論のように、発言がカブってしまう。「話させて!」という発言の機会を求める声は生々しい…。しかし、その 会話は 台詞ではないからこそ、緊迫感を与えるのだ。
毎回ごとのDVDを販売すれば 即売り切れだろう。

『人狼ゲーム』の流行は これからである。映画の公開後 しばらく 盛り上がる…。
一過性ではない 面白さは舞台を観て確証済みではあるが…。


















新美南吉の日記 1931-1935

新美南吉の日記 1931-1935

オクムラ宅

土間の家(東京都)

2013/10/25 (金) ~ 2013/11/03 (日)公演終了

「縁側演劇」、始まる!
新美南吉氏の名を存じ上げなかった私だが、童話『手袋を買いに』の著者だと聞き、合点がいった。
彼の生きた1931年〜1935年までを日記、詩に基づいて構成した作品らしい。
なるほど、絵本のファンタジー性溢れる舞台ではなく、一人の病弱青年•新美 南吉の横顔が伺える舞台であったのは「日記」のためか。

世田谷の【土間の家】で営まれた公演は、通常の劇場公演とは違った色彩を放つ。
普段は茶会なども執り行う和室。
一歩入ると、プラスチック製の屋根が覆い被さるなか、日本古来の【土間】が拡がっていた。
観客は座布団に座るのもよし、後方の椅子に座るのもよし。


私は、【土間の家】の外から漏れる、自動車の騒音や歩行者の声がプラスに働いた、と考えている。芝居が劇場の内で消化されるのではなく、公共の【雑音】が入ることによってのみ、非現実空間(芝居)と現実空間(道路)の差を把握できるからである。
九州公演の場合、現地のスタッフが このような【雑音】を拒絶しているらしいが、私は劇場空間の新しい可能性を考える上において導入してほしいとすら思う。

カルフォルニア洲の住宅を 思い浮かべてほしい。


住宅の周りは一面、芝であり、境の窓ガラスが防犯対策を担う。
それに対し、日本は どうか。
庭があれば、住宅と庭の境に【縁側】と呼ばれる物体が備え付けられているはずだ。
つまり、今回の公演は (密閉空間としての)劇場と(公共の場としての)道路をまたぐ【縁側演劇】なのである。
この新しい可能性を拒絶してはならない。

ネタバレBOX

本編は 新美南吉という若者を4人の役者が演じ、語る構成。後半にかけ男優2人と女優2人の役割分担は明確になる。その他の登場人物も出てくる一方で、新美南吉氏との深い会話があるわけではない。(彼の愛したM子との手紙は濃密だった)
「半分以上は日記や詩」の 挨拶文どおり、彼の心象を まっすぐ提示し、暖かく観客へ伝えることがコンセプトだったのだろう。
それは まるで、劇場にいる観客と道路の歩行者を行き来する感覚である。


「幸せ になるという嘘を付いて、あなたを不幸にします」(M子)


私は戦前レジームを肯定する立場ではない。しかし、明らかに、現代以上の「大人の恋」が育まれていたように思う。
『冬のソナタ』が高視聴率を得た理由の「恋を拒む社会」…。身分だとか、地位だとか、財産だとか、らしさ だとか が 物をいう戦前の育まれた恋は 血と汗かもしれない。

1930年代の時代臭…。
政府や新聞記事ではなく、そこに生きた新美南吉 青年、または少女の臭い であった。


貧困層の子供へ嫌悪感を持ったという新美南吉氏のエピソードを、「自分だって 同じ境遇だったじゃない」と肯定する姿は暖かい…。

次回アンケートに書いた宮沢賢治を上演してくれるのか。また、別の知られざる詩人を題材にするのか。

いずれにせよ、次回は もっと関係性をわかり易く お願いしたい…。
風雲天狗外伝~剣母布郎のほろほろ城 (つるぎほろろうのほろほろじょう)

風雲天狗外伝~剣母布郎のほろほろ城 (つるぎほろろうのほろほろじょう)

BQMAP

シアターサンモール(東京都)

2013/10/23 (水) ~ 2013/10/27 (日)公演終了

利休の愛したSF時代劇ー【視覚効果の幕開け】

プロジェクターを駆使した【映像と演劇】の組み合わせは新体感である。
スクリーンへ映す、セットの一部としての効果映像は現在、極めてポピュラーだろう。転換をせず、すぐさま【都会の喧騒】や【森林の安らぎ】のシチュエーション設定を可能とする。大劇場等が中心であることは予算削減とも関係があるのではないか。シチュエーション設定のみなら、「安っぽさ」も生じてしまう。
BQMAPの称賛すべき点は簡素なアニメーション動画と役者の身体パフォーマンスを一体化させた点にある。

ネタバレBOX


特定の位置で、特定の動きをしなければ、成立しえない。動画の方は1ミリも変わらず一緒だが、役者は いかに【寸分の狂いなく合わすことができるのか】という技術問題である。卓球等のスポーツ競技に共通する技術だろう。
旧式(赤と青)3Dグラスを掛け、飛び出す映像を見たことを私は紹介したくない。この種のタイプは鑑賞後、しばらく【残像】が遺るため、演技の邪魔になるのだ。
むしろ、3Dメガネの機能を捨て、パフォーマンスを特化した舞台に した方がよかった。

見応え のある殺陣はライスカレーへトッピングされる福神漬のような存在である。
妖怪 等、周りを固めるキャラクターも 魅力的だ。マイクを握り、妖怪達の【カラオケ大会】が始まったシーンは、当惑した観客も多かったはず。

時代劇の体裁をとりながらSFサスペンスを描く。
それは、プロジェクター•パフォーマンスの比ではない革新性である。
三人姉妹

三人姉妹

華のん企画

あうるすぽっと(東京都)

2013/10/24 (木) ~ 2013/10/27 (日)公演終了

旅団という、ひと時のウォッカと三姉妹
チェーコフの代表作『三人姉妹』だが、ロシア人の民族性を緻密に描いていたように思う。

ネタバレBOX

俳優は ほとんど1m80cmを超す長身である。ロシア人男性の平均身長かもしれない。
そこで足元を見ると、やや【シークレット•ブーツ】らしき黒革の靴を履いていた。
当然、プロポーションの よい俳優が粒揃いなのは 間違いない。
だが、靴の底を上げ、ロシア人男性(それもインテリゲッチャ)の風貌を形作った のは リアリズムである。

本の淵がアーチを描くようなセット。まるで20ページ飛ばしてめ
くり進める時間の経過だった。
後ろ姿を見せる ことが、そのページへ まだ記されていないことを告げる示唆である。

三姉妹こそ主役だろう。一方、旅団軍人の【哲学】めいた 雰囲気も特筆すべき。「二百年、三百年先の未来 は どうなっているのか…」を考察する 会話は、色褪せないメッセージとして突き刺さる。

なぜ、このような【哲学】を交わすのかといえば、それはウォッカと階級に他ならない。
登場人物は「県議会議員」や「中学教師」等の地位を喧伝する。そして、ウォッカ瓶を呑み(たぶん)、互いの不平を突く。これは、階級的地位をアピールしながらも、完全に肯定しえない(「県議会議員」など典型)二面性の【本音】を現す。
【哲学】の会話を聴けば、階級という仮面を被った上のウォッカという本音である。


軍笛鳴り響くなか、三姉妹が「別れ」を共同で語るラストの場面。
チェーコフ代表作『三姉妹』の名場面でもある。
終わり、終わらない、生活の静かな営み…。
一人ひとりの独白を組み合わせると壮大な【哲学】である。 むしろ 、三人の関係性で捉えた点が新たな魅力の舞台だったのだが。
【中国】浙江京劇団 京劇『オイディプス王』

【中国】浙江京劇団 京劇『オイディプス王』

BeSeTo演劇祭

新国立劇場 中劇場(東京都)

2013/10/23 (水) ~ 2013/10/23 (水)公演終了

歴史や身体観は普遍的なのだろう…


浙江京劇団のキレのある踊り、そして深い観察眼が 劇場全体を覆う…。
それは、中華文明 四千年とギリシア文明三千年の出逢い…。
歴史性に基づいた「身体観」はリアリズムの存在を忘れさせ、豊潤のエンターテイメントを現代に蘇らせる。

浙江京劇団の『オイディプス王』を読み解くと、悲劇でありながらもキレのある「京劇」の動き が柔らかな空間を造っていた。これは「京劇」と「ギリシア悲劇」の融合なくして拝見できない光景である。

演劇を外れ一言述べるとすれば、中華民族の衣装をまとう俳優達が「国王と飢えた民衆」の普遍的政治テーマを演じる姿は感慨深い…。民衆を想い、ひたむきに「苦悩するオイディプス王」の姿も、新権威主義という別の可能性を 片隅に覗かせた。
以上の点は どの時代、どの地域でも共通するテーマであり、“中華民族の衣装をまとう俳優達がギリシアの古典劇を演じても違和感を与えぬ”事実こそ、それを証明しているのである。

ギリシア文明における身体観を学ぶには彫刻を見るのが手っ取り早い。【躍動感溢れる肉体】は静止画ではなく、動画に近い。成人男性が鉛玉を投げる【今、その時】のポーズは典型だろう。
こうしたギリシア文明における身体観、浙江京劇団のキレのある踊りが、見事なまでの融合を果たしていたのだ。

民族が独自の伝統文化を遺すのは 当然 だが、グローバル化社会の中で 融合も拒絶してはならない。文明を進めなければならない。
浙江京劇団の舞台は 称賛すべき偉大な試みの一つ。
東洋と西洋の交わりは、 より広く、より長い大河の流れを提示してくれる。





























「2LDK」-2013-

「2LDK」-2013-

ネルケプランニング

俳優座劇場(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

〈女優〉〜〈女の子〉の狭間で
若手美人タレントが舞台上をリングに変え、演劇による女子プロレスを展開すれば、こんな壮絶さ が待っているのだろう。

「女優」としての譲れない意地は○と○の2つの卵へヒビを与える。真っ白な卵が割れる様は スーパー•スローカメラで撮影すべき「崩壊への軌跡」で あって、ある種、喜劇的なアプローチに基づいて演じる女優の悲劇だろう。

ネタバレBOX


「じぇじぇじぇ」と いった流行語の連発を捉えれば、2013年版のオリジナルを強調する以上に『あまちゃん』へ出演したい新人女優の心理、もしくは その現実を描きたかった演出の意図が ある。流行語を取り入れたいのなら、「今でしょ!」の方が舞台向きのはずだ。

携帯電話に鳴り響く「じぇじぇじぇ」と、その留守番電話が○の狙ってる男性の声であったシーンは、女優から女の子に至る揺れ幅を示す。


生クリームを髪にぶっかけたり、マヨネーズを ぶっかけたり、陶器とアルミ•パイプで 戦うシーンも、当然ながらセンセーショナルだ。これを「殺陣」に置き換えれば理解は進む。
しかし、そうではない。

心象面の「崩壊への軌跡」であり、観客すらストレス発散できる。

「女優は、どんな顔になっても、一晩寝れば元通り」


そうだ。みな女優という名の女子レスラーなのだ。

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