『うれしい悲鳴』/『太陽とサヨナラ』(終演しました! ご来場ありがとうございました!) 公演情報 アマヤドリ「『うれしい悲鳴』/『太陽とサヨナラ』(終演しました! ご来場ありがとうございました!)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 「空気を読む日本人論」と かけがえのないヒューマニズム
    近未来•日本は どのような姿かを考える時、私たちの延長線上に案外答えはあるものだ。
    戦後、GHQ(連合国総司令部)の指令が下り、歌舞伎などで『忠臣蔵』上演が できなくなった。私は年二回、NPO法人•日本伝統芸能振興会主催の『こども若草 歌舞伎
    』を観劇する。
    その理事の方が おっしゃるには、「GHQが 歌舞伎の上演を禁止したのは“仇討ち”精神 で もう一度、戦争をさせないため」らしい。

    占領当局も、新聞、ラジオ、雑誌、町内会などを通じ、日本の国民性を変革するプロパガンダ態勢を敷いたのは事実だろう。
    では、情報統制の結果として“仇討ち”精神はなくなったかといえば、そんな ことはない。

    視聴率40パーセント越えのテレビドラマ『半沢直樹』の名台詞「やられたらやり返す。倍返しだ!」は“仇討ち”精神である。『忠臣蔵』は赤穂浪士の物語だが、普段は儒教というか、序列を守る日本人でも、時として それを超越した「義」を掲げる。実に眩しい。

    前置きが 長くなった。
    本作のテーマは「空気に流される日本人」だったと私は思う。そして このテーマを読み解けば、現代に生きる私たち自身へつながっている。
    つまり、今日の延長線上こそが『うれしい悲鳴』なのである。




































    ネタバレBOX

    私は、政治劇というより、一つのヒューマニズムの結晶体を見ることができたと思う。
    斉木ミミ(藤松祥子)対 マキノ久太郎(西村 壮悟)の「キスして、殺して…キスして、殺して…」の男女としての愛情、世の中の身分(立場)を凝縮した関係性…。この台詞はラストシーンである。

    近年では、故ミロシェヴィッチのみならず、旧セルビア将校以下、コソボ紛争大量殺戮の実行犯も国際人道裁判の対象となっている。すなわち、国際社会全体の流れとして、「現場責任」を問う声は大勢を占めるのだ。
    第二次世界大戦敗戦後、東南アジア諸国で旧日本兵の処刑が行われた。国際社会の枠組みでも、極東国際軍事裁判が開廷し、大量の将校や下級兵に厳罰が下された。(将校、兵士はB級、C級犯〈 注 A級は平和に対する罪〉)

    「現場責任」を第一義とする現代、軍事以外でも、例えば公務員や 公共性の高い職種の人間であれば、それは「現場責任」=「人道責任」を間逃れないのである。

    「人道責任」に則り、『うれしい悲鳴』の「泳ぐ魚」なる準実行組織を考えると、どのようなことが言えるのだろうか。
    それは、たとえ上司の命令で あっても、仕事であっても、「責任」は生じる事実である。

    「泳ぐ魚」隊員•マキノ久太郎のエレベータ事故の回想シーンで、「拒否できないのが命令。一度も命令されずに人生を過ごす人も多いと思う」という台詞を聞いた。拒否できた“指令”を従った自分自身の行為は、何者でもなく自分自身の汚点である。

    演劇史の中で語り尽くされるだろうシーンも、みつけた。斉木ミミと友人•亜梨沙(鈴木アメリ)の喧嘩別れのシーンである。
    一人の少女の「寂しさ」に、本当に、感動した。「友達で いたいけど、これから中学校で亜梨沙は彼氏とかつくり、私とは違った世界を歩んでいく。病弱な私とは違う世界を…」という「寂しさ」の心情が伝わったのだ。
    涙に包まれた時間は希少だ。これも、「本音と建前」の日本人を描いたシーンだったと捉えることも可能だろうが、私は その立場は取らない。「弱さ」「儚さ」「寂しさ」「物悲しさ」「言ってることと思ってることが違う」人間の心は 民族に関係ない。
    このシーンは演劇史において語り尽くされるだろう。


    身体は明日への衝動である。
    劇場中に響きわたる振動を、小さなエネルギーに替えて。
    政治劇の先はヒューマニズムの晴天だった。
    奥深い、晴れやかな、人間の鼓動を感じる名舞台…。
    その 風は今、現代に暮らす私たちに吹いている。

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    2013/10/28 23:45

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