新美南吉の日記 1931-1935 公演情報 オクムラ宅「新美南吉の日記 1931-1935」の観てきた!クチコミとコメント

  • 「縁側演劇」、始まる!
    新美南吉氏の名を存じ上げなかった私だが、童話『手袋を買いに』の著者だと聞き、合点がいった。
    彼の生きた1931年〜1935年までを日記、詩に基づいて構成した作品らしい。
    なるほど、絵本のファンタジー性溢れる舞台ではなく、一人の病弱青年•新美 南吉の横顔が伺える舞台であったのは「日記」のためか。

    世田谷の【土間の家】で営まれた公演は、通常の劇場公演とは違った色彩を放つ。
    普段は茶会なども執り行う和室。
    一歩入ると、プラスチック製の屋根が覆い被さるなか、日本古来の【土間】が拡がっていた。
    観客は座布団に座るのもよし、後方の椅子に座るのもよし。


    私は、【土間の家】の外から漏れる、自動車の騒音や歩行者の声がプラスに働いた、と考えている。芝居が劇場の内で消化されるのではなく、公共の【雑音】が入ることによってのみ、非現実空間(芝居)と現実空間(道路)の差を把握できるからである。
    九州公演の場合、現地のスタッフが このような【雑音】を拒絶しているらしいが、私は劇場空間の新しい可能性を考える上において導入してほしいとすら思う。

    カルフォルニア洲の住宅を 思い浮かべてほしい。


    住宅の周りは一面、芝であり、境の窓ガラスが防犯対策を担う。
    それに対し、日本は どうか。
    庭があれば、住宅と庭の境に【縁側】と呼ばれる物体が備え付けられているはずだ。
    つまり、今回の公演は (密閉空間としての)劇場と(公共の場としての)道路をまたぐ【縁側演劇】なのである。
    この新しい可能性を拒絶してはならない。

    ネタバレBOX

    本編は 新美南吉という若者を4人の役者が演じ、語る構成。後半にかけ男優2人と女優2人の役割分担は明確になる。その他の登場人物も出てくる一方で、新美南吉氏との深い会話があるわけではない。(彼の愛したM子との手紙は濃密だった)
    「半分以上は日記や詩」の 挨拶文どおり、彼の心象を まっすぐ提示し、暖かく観客へ伝えることがコンセプトだったのだろう。
    それは まるで、劇場にいる観客と道路の歩行者を行き来する感覚である。


    「幸せ になるという嘘を付いて、あなたを不幸にします」(M子)


    私は戦前レジームを肯定する立場ではない。しかし、明らかに、現代以上の「大人の恋」が育まれていたように思う。
    『冬のソナタ』が高視聴率を得た理由の「恋を拒む社会」…。身分だとか、地位だとか、財産だとか、らしさ だとか が 物をいう戦前の育まれた恋は 血と汗かもしれない。

    1930年代の時代臭…。
    政府や新聞記事ではなく、そこに生きた新美南吉 青年、または少女の臭い であった。


    貧困層の子供へ嫌悪感を持ったという新美南吉氏のエピソードを、「自分だって 同じ境遇だったじゃない」と肯定する姿は暖かい…。

    次回アンケートに書いた宮沢賢治を上演してくれるのか。また、別の知られざる詩人を題材にするのか。

    いずれにせよ、次回は もっと関係性をわかり易く お願いしたい…。

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    2013/10/27 00:29

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