ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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ショートストーリーズvol.7

ショートストーリーズvol.7

T1project

「劇」小劇場(東京都)

2015/09/16 (水) ~ 2015/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★

C,Dを拝見
 今回は、即興もそれなりに楽しんだ。前回は、始まってすぐに結末が見えてしまったからにゃ。Cについては多少批判的に書いているが、なかなか、頑張っているのは伝わる作品である。

ネタバレBOX

Cは、中年の作家と演出家が受け持った。「あなたを探して」というタイトルの作品である。演出家がディーテイルに拘り、自らの方式に固執して、己の描きたいもの全体を俯瞰する力が弱まってしまった。シナリオにも、いきなり状況を変える沸点が欲しい。指摘した2つの点を、表現する者の原点である発狂との境の深みから発して欲しい。このレベルに立てば、総て予定調和的な発想は意味をなさない。そしてそれが我々の現実に生きている現代である。
Dは、シナリオのある4作品中、自分が最も気に入った作品である。主催の友澤氏の作・演出作品で、今作だけなら、花○5つ星。
婚活落ちこぼれの集まりの中でも、箸にも棒にも掛からないと誰もが認める最低の“生き物”である余計者が、その井戸の底のような生の廃墟から世界を眺める目線、そこから延べられる意見を通して見えてくるのは、個の受け持ち得る認識主体としての限界とその総体を意識せざるを得ぬ程に追い込まれた主体の、死と発狂を賭けた実存のコペルニクス的転回を通して普遍の側に身を投げる賭けだ。当に表現のダイナミズムが描かれているのである。どういうことか? と問うのか? では1つだけヒントを与えておこう。個別性が同時に普遍性のレベルをも獲得、作品内に双方を内蔵している、そういうことだ。この説明で分からぬ者は恐らく一生分かるまい。
ショートストーリーズvol.7

ショートストーリーズvol.7

T1project

「劇」小劇場(東京都)

2015/09/16 (水) ~ 2015/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★

ABを拝見

 今回T1projectの行う公演は、シナリオのある中編4編とゆるい設定だけであとは役者任せの殆ど即興の短編2本を、2公演に分け、各公演は中編2編プラス即興1編をワンクールとして上演する形を取っている。尺は休憩を含めて約2時間半。シナリオのある4作品のうち、2本を主催でもある友澤氏が執筆、演出もしている。他の2編は作・演出が異なるがAは、作家・演出共に20代前半の若手、Cは作・演出共、中年と、世代的にも面白い作りである。舞台美術の細部は兎も角、基本は同じなので自ずと語られる物語の設定は限られてくるが、決して多様性まで失うレベルではない。無論、手腕はプロのものである。(追記後送)

俺、HEROらしいよ。

俺、HEROらしいよ。

演劇ユニットちょもらんま

pit北/区域(東京都)

2015/09/18 (金) ~ 2015/09/20 (日)公演終了

満足度★★★

ばかばかしくておもろい
 営業部トップで引き抜かれ同期初の幹部、だがコンプライアンス室室長となった俺は、ちょっと最近おかしいと同課のNo.2である彼女からも指摘されている。

ネタバレBOX

事情はあるのだが、明かすのは恥ずかしい、遠く離れた銀河との対戦で俺はヒーローに選ばれたらしいのだけれど、そのコスチュームに着替えて変身しなければ、敵と戦う為のパワーも得られないのに、そのキーとなるのが、この部屋の資料室に入る為のカードキーなのだ。何でこんなものが? などという合理的な質問が許されるはずもなかろう。何せ、俺はサラリーマンなのだから。
 こんな調子で進行するヒーローもの。大の大人で結構しっかりした演技のできる役者陣が、こんな子供っぽい、馬鹿げた話を演じている所が面白い。どうせならもっとハチャメチャに演じても良いとは思うが。
ホテル・ミラクル2

ホテル・ミラクル2

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2015/09/18 (金) ~ 2015/09/23 (水)公演終了

満足度★★★★

作家1人1作品のオムニバス。
 舞台はラブホテルの1室であるから、当然、恋の話。案外オーソドックスで組み合わせは総て男女であった。セクシュアル・マイノリティーを描いても良いと思うが、微妙な問題故手を付けなかったのかも知れない。が、欧米であれば、4本のうちの1本位はそういう作品があったのではないかとは思う。

ネタバレBOX


 上演された4本はいずれも面白く拝見したし、蓼食う虫も好き好きとは、よく言ったものだと改めて感心もしたり、誰しも経験してきたであろう恋というものの、個別性、多様性と同時に、普遍性も矢張りあるものだとの再発見もあり、粋な作品群であることに感心もした。ちょっと距離を置いた所から見る恋愛というのが恐らく最も面白いのだとの感想も持った。恋をし成功した気がする場合は、常に当事者が主人公になることが通常であるから、そこに距離が生じてはいけない。無論、2人が共有する世間からの距離は別である。2人の間に距離が生じてはならないにも関わらず、現代では、様々な距離要因が存在してしまう。砂と棒で、出てきた科白に「サラリーマンて意外と変態が多いんです」という風俗嬢の言葉がある。大学生のホテトルというのか、要するに客に呼ばれてホテルへ出向き相手をするのである。その彼女のこの科白は、さもありなん、と溜飲を下げた。今、この植民地の下司共は総て、心に化粧を施し恰も己が正常であるかのように振る舞い、周囲もその欺瞞に同調している。何故なら、周囲の人間どもも同じだからである。だが、彼ら(彼女ら)の魂はもっと深い所で狂っているのだ。既に己自身では修復できないまでに狂った魂は、為政者の抜かすまま、正常を演じているに過ぎない。何という茶番だ! 糞ったれメ!!
おおきに龍馬

おおきに龍馬

劇団Spookies

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2015/09/16 (水) ~ 2015/09/20 (日)公演終了

満足度★★★★

鄧 麗君
 舞台上で演じられるのは、龍馬の周囲の人々の物語だ。いわば引き算の演出で、龍馬は登場しない。その代り、龍馬が纏めていた人々の分裂の危機や、葛藤を通して龍馬自体が走馬灯に映る影絵のように浮かび上がる、結構自分好みの演出である。それに、役者たちの頑張りも、土佐弁ベースも、シナリオの主張も賛成である。観ておきたい舞台だ。

ネタバレBOX

今作で、北辰一刀流の千葉道場でも名代を務めたことになっている泣き虫だった龍馬は、娘の佐那とも婚約関係にあったといわれる。他に妻、龍、姉で女傑というに相応しい乙女、そして、龍馬の師筋に当たる勝 海舟、海援隊の長岡 謙吉、石田 英吉、千屋 寅之助、白峰 駿馬(史実は男性だが、今作では女性)、高松 太郎、新宮 馬之助、沢村 惣之丞、
陸奥 陽之助、中島 作太郎ら、また三菱の創始者、岩崎 弥太郎、中濱 萬二郎というよりジョ萬二郎と言った方が分かり易いか。他に大切な役回りを演じる、夫を龍馬の夢の為に殺され、龍馬を殺そうと付け狙う妻、井上 咲、龍馬の従弟で海賊になった山本 琢磨、陰で海援隊の隊士たちを支える陸奥 初穂、写真に被写体の生き様、魂を映し込もうとする写真家、上野 むらとアシスタントの楢崎 君江、龍馬無き後、海援隊の危機に当たって参加を決意する井上 清次郎、そして、琢磨を助け、海援隊隊士たちを鍛える為に、敢えてダーティーな役目を引き受ける海賊たち。
 実際に日本人の5%以上の人間が、武器を操ることができた時代に、欧米列強の植民地にされない為には、武器のある戦いが必要であった側面はあるだろう。然し、今作で最も大切な点は、生きている人間一人一人が己の頭で考え、その考えをもとに行動し、その結果を己の責任として負うことと、武力・武器を用いず世の中を動かすことである。安部以下のぼんくら政治屋と頭の実に悪いことを自覚することもできぬ独りよがりのアホ官僚が考えもつかぬ方法で、我らは安保法制が成立した後も戦わねばならない。それは、表現する者としての戦いであり、そのような戦い方である。どうするか? 例えば、尖閣問題で問題化している中国籍の船に対して、大音響で鄧 麗君の歌を流す。彼女が日本人の作曲家や作詞家に作ってもらった歌も流す、その上で、そのことを中国語で説明する。当然、質疑応答にも備えて優秀な通訳も同席させておく。なぜ、鄧 麗君なのか? と問うのか? なぜ、彼女が、アジアのみならず、世界で最も支持された歌手だったか。その理由を知っているか? 文革で、中国の民衆は恋愛を語る言葉すら奪われていた。紅衛兵は有名だが、紅少兵が居たことは日本では殆ど知られていない。自分は何度か書いたことがあるが、目にしていない方も多かろうからもう一度書いておくと、紅少兵とは、ヒトラーユーゲントなどのように親をしもスパイだと時の政府に密告することも厭わないように教育で洗脳された子供たちである。実際、子供に密告されて多くの親がスパイ罪に該当する罪で処分された。日本では、少国民世代がこのような教育をされていた。まあ、歴史的なヒントはここまでにして本題に戻ろう。
 中国で文革後、恋を語る言葉さえ奪われていた中で、鄧 麗君の歌う歌の歌詞の中には、恋の微妙なニュアンスを伝える表現がふんだんに鏤められていた。人々は争って彼女の歌を求め、違法であった彼女の歌の歌詞を地下コピーして必死に聞いた。実際、見つかれば重罪に処せられたと聞く。死刑もあったかも知れない。何れにせよ、人々の彼女の歌に賭ける念はそれほど、深く強いものであった。それ故に、中国は彼女を恐れ暗殺したのだ。表現する者たる我々は軍事や力によらず、人々の念によって世界を変えるべきである。その為には、上に挙げたような方法を採るべきなのである。軍事と歌の力、即ち人の念の力のどちらが強いか、勝負である。
リハーサル☆ギャング

リハーサル☆ギャング

劇団 演劇らぼ・狼たちの教室

ウッディシアター中目黒(東京都)

2015/09/16 (水) ~ 2015/09/20 (日)公演終了

満足度★★★★

アットホーム
 芸術監督のうちやま きよつぐ氏が出演者に課しているのは、懸命に演じること、即ち作品と格闘することである。リーフレットを読んでいてとても温かい彼の人柄を感じる。同時に日本で表現する者を育てるシステムが頗る貧弱であることが齎す結果についても、表現する者の多くが身につまされる日々を送っていることを改めて思い起こす。
(追記後送)

ネタバレBOX

 今作はそんな日本の演劇状況をひとまず、日本に入っているスタニスラフスキー以降の世界演劇理論を学び、その理論を中核として自らの方法論としていった劇団、唐などのアングラ、つか、野田、オリザらの実践を総覧することで余り観劇経験のない観客にも現在に通じる日本の小劇場演劇を理解させ、笑いとペーソスを加味しつつ展開してゆく。基本は、芸術家肌の劇団“シルクのロケット”座長とトウシローのヤー公の表現に関してのバトルだから、コンセプトが骨太で普遍性を持ち、喜劇化するにもうってつけの素材とあって観劇前から、面白そうだとの期待が湧いた。
見果てぬ夢

見果てぬ夢

劇団FULL HOUSE

シアター風姿花伝(東京都)

2015/09/10 (木) ~ 2015/09/13 (日)公演終了

満足度★★★

Aチームを拝見
 舞台は病院の庭。いくつかのベンチとプランターが据えられ、患者、医師、看護師たちが出入りする。内容的には、TVドラマ風のちょっと泣けて、ほっこりできる作品といった印象を受けたのだが、

ネタバレBOX

 フライヤーなどでは、ハートフルコメディーとなっている点が気になった。作りがコメディーのそれとは、本質的に異なると感じたからだ。コメディーは、トラジェディーと同様、古くからの演劇様式である。それだけに古今東西、多くの作家がチャレンジしてきたジャンルであり、傑作と言われる作品も勿論残っている訳だが、作品化する時の難易度の高さは悲劇の数倍だろう。実際、これは、喜劇を作品化しようとした者なら誰しもが感じることではあるまいか? 
 まず、世界或いはシチュエイションと言い換えても良いが、に対する態度・距離感の問題がある。基本的には、常識や当たり前と思われている価値観を嘲る訳であるから、現実の人間関係と作品に描かれているそれとの適正な距離がどこにどのように描きこまれてゆくか、表現する順番はどのようであるのがベストか? 等々一概に結論を出せないような問題も処理してゆかねばならない。そのようなレベルに今作があるとは思われないのである。
 通常のストレートプレイとかホームドラマというコンセプトでなら、中々深い科白もあり納得できるのであるが、コメディーという括りで言われた途端、違うでしょ! と言いたくなってしまうのである。今作、メインになっているのが重度の癌患者で、おまけに妻は妊娠3か月の若夫婦だったり、ラブホテルを経営する親子の、糖尿病で社長の父と専務で娘の経営上の問題が絡んで来たり、夫を失って以来、精神に異常をきたしてしまった妻だったり、更には若い劇団員が盲腸で入院した所、腹膜炎を併発していて入院が長引き結果役を落としてしまったのだが、同じ劇団の先輩女優の彼女が、彼を慮って代役が決まったことを告げられなかったり、と内容的にかなりシリアスなものであり、シナリオもそういうスタンスで書かれているので、観客の心をまともに打つような科白が随所に入っている。そのためコメディーというコンセプトには入らないと考える。
 素直にストレートプレイというコンセプトで構わないのではないか。役者陣もかなり頑張っているのでコンセプトをキチンと纏め上げてゆけば、序盤、ちょっとゆるい感じも解消するのではないか、と考える。
残念なことだ。
DADDY WHO?

DADDY WHO?

天才劇団バカバッカ

テアトルBONBON(東京都)

2015/08/26 (水) ~ 2015/09/13 (日)公演終了

満足度★★★★

木村 バージョンを拝見
 通夜の席に集まった面々。喪服に身を包んでいるのは半分ほど、男女比も半々ほどだ。なぜ、こんなちぐはぐな恰好の連中が多いのかは、彼らが何の目的でここに集まったのか、殆どの者が知らないからである。無論互いに顔見知りでもない。何らかの手掛かりを得たいとは誰しも思う所。

ネタバレBOX

で、その質問には、いきなり集まった全員が兄弟だ、という情報が提供された。そして、集まった目的は、彼らの父が亡くなったからだと。ところで、喪主を務めるのぼる以外に亡くなった男の親族だという意識は微塵もない。理由が分かっている母親たちは緊急会合とのことで、此処にはまだ1人も到着していない。弁護士も来ていないのだ。仕方なく、皆は、父親がどんな人物で、どんな暮らしをしていたのか? それぞれの母との関係はどうだったのか? 遺産相続等に関してはどうなのか? 等々について話し始めるのだが、その結果分かってきたのは、かなり複雑だが、納得のゆく、父の優しく温かな母たちとの関係と彼が実はゲイであったこと。従って集まった兄弟たちの誰一人として血の繋がりはなかったこと。にも関わらず法的には兄弟であることなどであった。
 この作品の根底に流れるこの劇団の温かさは、番外公演である今作にもキチンと引き継がれている。
 だが、更なる劇団の発展には、芸術レベルに達した時に考えられなければならない問題の一つとして、表現する者の作り出す作品が、社会の危機や、人間性破壊の状況がこれでもか、と立ち上がってくることに対して如何なる効果を持ちうるのか? 無意味なのか? との自問も作家・演出家・役者それぞれのレベルで問い掛けられねばならぬことであろう。この劇団がヒトの温かさを描くことをその中心に据えている以上、ブラックバイト、派遣法改悪、マイナンバーという名の国民総背番号制、安保法制や秘密保護法という名の情報隠蔽法と共謀罪、更に積極的平和主義などという矛盾語法による戦争法の数々に面と向き合わなければならない時期に来ていることは明白だ。これらの底で殺されているのは、今の所、人ではない。(自殺という形の被害者はたくさん出ているのに、その原因を拵えた連中が、殺人犯としてなり、別の罪状なりで、明確にその罪を問われることは、数々の欺瞞とそれを結果的に許してしまっている選挙民の愚かさによって覆い隠されている。本来責任を負うべき者達が野放しにされていることで殺されているのは)何より人間の尊厳、自らの主体を主体として誇るべき根拠なのである。
刑務所で奪われるものとは何か? 即答できる者もかなりあるだろうが、念の為に記しておく。収監者の名前、即ち姓名である。囚人は姓名ではなく、番号で呼ばれるのだ。そのことが、人間の尊厳を破壊する。
あの日はライオンが咲いていた

あの日はライオンが咲いていた

PocketSheepS

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2015/09/10 (木) ~ 2015/09/13 (日)公演終了

満足度★★★★

プロジェクトEDEL
 今作のタイトルはエーデルワイスの学名Leontopodium alpinumから採られている。

ネタバレBOX

 物語は、EDELと名付けられたプロジェクト開発に纏わる治験と記憶の意味する所についてが話の中心になるが、科学技術の齎すもの(利便性や効率化)とその暗部(環境破壊や生命への脅威、武器・大量破壊兵器創出等)問題が、被治験者の精神状態との関係で浮き彫りにされ、キチンと問題化されている点で、再演されるだけの中身を具えた作品であるということが、良くわかる。
 因みに官僚の中でも優秀でないことで有名な、文科省の官僚共の短絡が話題を呼んでいるが、文系不要論を抜かす前に、うぬらの哲学的教養の無さを嘆くがよい。
 また、EDELの被治験者は、自分がどんな記憶を失ったのかを思い出すこともできないのだが、いざ、記憶を抜かれた後、何を失ったか深層心理レベルで不安に思ってプロジェクトチームに問い質しても答えてもらえない状態が描かれるが、この辺り秘密情報保護法に関する裁判にそっくりなところも怖いようである。
どん底

どん底

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2015/09/10 (木) ~ 2015/09/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

必見の舞台 花五つ星
 最早、古典となったゴーリキイの傑作だが、時代が逆回転している現在の社会状況に於いてここに描かれている世界は、我々の近未来の姿である。
 最近多く見掛ける観客に媚びをうるような安っぽい舞台ではない。作品に真正面から演出も役者も取り組んで格闘して舞台化している。そのことが、透けて見えるので、これぞ、舞台演劇という作品に仕上がっている。(追記2015.9.14多少重複する点あり)

ネタバレBOX

 「どん底」は、1901年から2年にかけて書かれ、最早古典となったゴーリキーの傑作だが、時代が逆回転している現在の社会状況に於いて、ここに描かれている世界は、我々の近未来の姿である。かつて芥川が「羅生門」を書いて近未来の日本を作品中に描いてしまったように、ゴーリキーの筆は、100年以上後に別の国・時代に生きる我々の、人間性を具体的に否定される姿、即ち貧しさに人間性を破壊される時代とそこで生きるに行きられぬような生を強いられる弱者・民を描いて雄弁である。
 このような雄弁は無論座して獲得できるものではない。原作は世界中で評価される名作であるが、今作の素晴らしさは、当にこれが芝居! という嬉しい驚きが体験できる点にある。こんなことが可能になったのは、シナリオの突きつけてくる深く鋭く重い問い掛けに対し、一人一人の役者は無論のこと、演出家、舞台美術家や照明、音響に至る迄総ての人々が、作品と格闘し真摯に足掻いているからである。答えなど簡単に出るものか! だが、関わった者総てが当事者として関われるような、問いの坩堝と言えるような舞台が現出したのである。この点は、演出を褒めるべきであろう。そして当事者の中には無論、観客も居る。
Unbreakable -アンブレイカブル- 第二章

Unbreakable -アンブレイカブル- 第二章

演劇レーベルBo″-tanz

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2015/09/10 (木) ~ 2015/09/14 (月)公演終了

満足度★★★★

本当の怖さ
 今回も人間には制御できないと天界が判断したネフィリムの脅威が、重奏低音のように作品の背後に鳴り響いている訳だが、無論、ネフィリムは、生命の持つ感覚では、感知できない。

ネタバレBOX


味も臭いも音も無いし、触ることはおろか、見ることさえできないのだから。そのくせ、それは、生命の種というより、その設計図そのものを破壊する。今回も、そのネフィリムが溶けた汚染水を貯めたタンクが、余震によって引き起こされる事態の為に壊れるのを如何に防ぐか? が中心命題である。
 然し、旧約聖書儀偽典、ギリシャ神話、物理学と地質学を動員し、元天使である堕天使、殺戮天使、堕天使と人間との間に生まれたハイブリッドなど、ヒト的な者の引き起こすドラマに話の中心がある為、物語の面白さというレベルに話の中心が移り、本当に作者が訴えたかったと思われる制御できない技術への恐怖が薄れてしまったように思う。シリーズ物として更に続いてゆく作品だと思うので、全体の流れの中でこのような視点から書かれているのかも知れないが。何れにせよ、今後とも、期待したい作品群である。
 
果てまでの旅

果てまでの旅

玉田企画

アトリエ春風舎(東京都)

2015/09/05 (土) ~ 2015/09/14 (月)公演終了

満足度★★★★

くすぐったい可愛らしさ
 中学3年生の修学旅行を描いた作品。

ネタバレBOX

 卒業迄半年と迫った中学生は修学旅行に出掛けて来たが、描かれる場面は寺などを巡り宿へ帰ってからである。悪戯盛りの男子たちは昨夜から女子部屋へ行くことを話し合って盛り上がっているが、いざとなると矢張り羞恥心から気後れがしており、互いに牽制し合って中々話の本筋に辿り着かない。この辺りの思春期特有の照れと気後れが、間や微妙な会話のずれ・照れ隠しのしぐさで表現されていて、自分が同じ年齢だった頃を思い出させてくすぐったい。
 別の部屋に泊まっている同級生から、部屋の冷蔵庫が壊れているから使わせてくれ、と頼まれた飲み物が入っているのだが、酒である。無論、問題なのだが、脱線もまた修学旅行の楽しみの一つ。頼んだ彼らが冷えた頃を見計らって酒を取りに来たのだが、教師に見つからないように酒を持ち帰るバッグを忘れてきた、と言ってそこらにあるバッグに勝手に詰めて持ち帰ろうとする。それを一緒に来た仲間が止めるが、結局最終的には彼もそれを認め、持ち帰ることになった。この間、一悶着あって詫びのつもりか酒を持ち込んだ首謀者はコンドームを2つ部屋に置いてゆく。
 暗転後、人が入れ替わって女子部屋である。例によって噂話と恋話に花が咲いているが、4人のうち2人は同じ男の子が好きでライバルの為、悉く対立する。恋敵を仲裁することによって自らをアイデンティファイしようとする女子。もう一人は風邪をひいて熱っぽい為、布団にくるまっているが、3人の騒がしさに内心無論いらついている。風邪をひいているのでなければ当然自分も加わって恋話に加わっているだろうに、というレベル迄表現していないところが、中学生という設定のなせる技だろう。
 ヒントは挙げた。上演中故、あとは想像すべし。
よみ人シラズ

よみ人シラズ

ナイスコンプレックス

吉祥寺シアター(東京都)

2015/09/09 (水) ~ 2015/09/14 (月)公演終了

満足度★★★★

役者陣の頑張りに拍手
「君が代」が正式に国歌として制定されたのは、何と1999年、小渕 恵三内閣時代である。昨今では娘が、安部 晋三に対して自民党総裁選で挑もうとしたが、20人の推薦人を集められず画餅と帰した。無論、晋三サイドから横槍が入ったことは、メディアでも報じられたからご存じの向きもあろう。まあ、仮に立候補できた所で、恵三のやっためちゃくちゃな国民無視、アメリカべったりの方針を振り返れば、大した変化を望めまいが。安部より10%程度ましということは言えるかも知れない。彼女がおやじにけつをまくって共産党議員として立候補して当選しているならいざ知らず、親父と大差ないイデオロギーであれば、評価はこんな所だ。

ネタバレBOX


 何れにせよ、今回、ナイスコンプレックスが挑もうとした所を最大限、バイアスを掛けない「きみがよ」に観るならば、ことは、戦後ポツダム宣言受諾以前、以降を問わず最初の勅撰和歌集である「古今和歌集(905年)」に詠み人知らずとして収められた古歌を思い出すべきであるのは当然である。今作にも出てくるように、紀貫之は選者の一人である。
 それ以外の細目については舞台を観て頂くとして、これを近未来に受け取る明は、迷いの中にある。彼は聾唖者でもあるから、初めてこの歌に出会った時の同級生に対する関係が、互いのディスコミュニケーションを十全に理解しえなかったことから起きた誤解が誤解であると認識することも、またその原因が、健常者と聾唖者互いの脳の部位に於ける得意分野の差によることも理解できなかった。明と父にしてもそうである。明は、2015年生まれ、2021年に小学校に入学している。そして、少し遅いもののこの時点で実存に目覚めた。このことによって、明は、「きみがよ」の化体に遭遇するのだ。幼年期に於ける実存体験は決定的である。夢とも現ともつかぬ中に、絶望と孤立だけが屹立し、己を苛むからである。親? 関係ない。己を「見放した」存在であり、最初の他者に過ぎないではないか! 親を「親」とするのは、自立するには力不足であるからに過ぎない。その程度のことだ。
 何れにせよ、明は地獄を味わう。そして、地獄とは、愚衆がイメージするような針の山、血の池、裂刑、火炙りなどの肉体的苦痛などではない。そんなもの、既に死んだ者に何の効果があるものか! 馬鹿かお前ら。そうではない。何も起こらないこと、起こることは総て予め決まり切って、総てが予測できる為、退屈でしかないこと、そしてこのことが永遠に続き、そのことを正確無比に理解していること。これが地獄なのだ。
 今作をちょっと褒め過ぎた。ここまで今作が突っ込んでいる訳ではない。然し、明の感じていた孤独は、1115年以上にも亘る歴史的事象と呼応していることだけ指摘しておこう。
上演中故、これ以上のヒントは控える。

パイドパイパー と、千年のセピラ

パイドパイパー と、千年のセピラ

劇団ショウダウン

あうるすぽっと(東京都)

2015/09/04 (金) ~ 2015/09/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

千年のセピラ
 劇団ショウダウンの「」パイドパイパー、スピンオフ公演である今作は、看板女優、林 遊眠の独り芝居である。
 狼に育てられたという伝説を持つローマの創設者、ロムルスとその奸計によって苦杯を舐めさせられたサビニ人に纏わる実際に起こったとされる事件の伝承をもとにショウダウンのナツメクニオが脚本化した。

ネタバレBOX

 舞台装置は、無論、パイドパイパーと共有である。この舞台、中々優れた安定性のあるものになっている。その理由は、シンメトリーになっていることで安定感が増しているからである。更に、客席側天井近くに作られたオブジェの色彩や形態も円筒をアレンジしたような形の所々に時代の流れや戦闘によって破壊されたかのような切込み箇所があり、物語の内容に応じて観客の想像力を自在に羽ばたかせることに役だっている、と共に舞台奥中央の出捌け口は、砦の門とも、また、城の奥にひっそり設えられた部屋の扉ともなる効果的な設計。更にその周囲、上部に形作られた塀や踊り場は、丘にもなれば砦の壁や歩廊にも、更には丘へ続くアプローチともなるよう、くすんだ色彩が塗られているばかりか、歩廊の柱列には、様々な意匠が施され、自分はエルサレム旧市街の市壁を思い出した。因みにもともとヨーロッパやヨーロッパ諸国を相手に戦った国々、地域は、ギリシャ以来都市国家的な性格を持ち、地続きの大陸なので、各エリアで支配者が変われば、その支配地域も変わり、いつ何時他のエリアの侵攻を受けるか予断を許さなかったから、自分達の支配エリアの外域を塀で囲うのは当然のことであった。自分がかつて住んだ南仏モンペリエの旧市街には、今もかつて市を取り囲んでいた市壁の一部が残っていたし、道路の名前などにもその歴史が刻まれていた。日本でも江戸時代に一国一城令が出るまで軍事的に重要な地点には、多くの城が築かれていたことは、誰しも知る所である。まあ、日本と似ているというレベルで言えば、戦国時代の群雄割拠を思い描けばある程度重なるのではないか。だからこそ、諸地域、諸侯を従え、近代へ至る道筋をつけた絶対王政の時代、ヨーロッパでは、王権神授説のようなコンセプトが必要であったと言えるのではないか。無論、歴史は単純に前進することなどない。紆余曲折を経て取り敢えず進行してゆく。
決定的間違いを糺す機会を失ってなお、例えば現在、我が「国」で原発再生が画策されているように。而も、誰の目にも原発のやっていることは、地球温暖化そのものであることがはっきりしているにも関わらず、だ。横道に逸れるし今まで何度か書いてきているので既読の方々には申し訳ないが、大切なことなので再度書かせて頂く。既に読んだ方々は段落を飛ばして読んで頂いて構わない。
現在、日本の原発は100万キロワット級が通常だが、無論、このクラスの原発が作り出すエネルギーは、電力として供給されるそれの3倍。では、残りのエネルギーはどこへ行ってしまうのか? 水を温めているのである。日本の場合、原発は、過疎地の海辺に建設されることが多いので、この場合は海水を温めている。ではその量はどれくらいか? 1秒に70~80トンの水の水温を7度上げる。因みにこの水量は東京近郊を流れる川で言えば、荒川と多摩川2本の河川の一秒間に流れる水量を合わせた量にほぼ等しい。無論、温められた水に溶け込んでいたCO2 は蒸散する。コーラに熱を加えればどうなるか? 幼稚園児でも分かるだろう。以上の理由から原発を再稼働することによってCO2が減るというのは、無論嘘である。嘘でないというなら、それを原発推進側は証明せよ! たかが湯を沸かす為に、こんなに大量の死の灰を生じ、それらを無害化する技術もなければ、安全になるまで安心して埋める場所もなく、戦争になって通常ミサイルを原発に打ち込まれれば大惨事を引き起こすこと間違いない。こんな大きなリスクを背負うこと自体馬鹿げているのは、分かり切っていながら容認するのは、愚かな証拠である。
また、内部被曝は、顧慮する必要がないというなら、イラク、コソボ、日本では殆ど報道されることのないアフガニスタンのDUが用いられた地域で起きている奇形児出産異常多発や放射性に起因することの多い、癌、白血病、その他の発症例が内部被ばくに無関係であることを証明せよ。本来、WHOがこんなことはとっくにやっていなければならないにも関わらず、IAEAとの協定によってそれができないことを、全世界に知らしめよ。これらの症例が放射性核種の内部被ばくではないとするなら、その原因を明確にせよ。化学的なケースの場合も可能性としてあるのだから。そして、原因が分かった時点でDUの被害実態を予測できたアメリカには、人道的な罪を問い、内部被ばくが原因との結論か化学毒性が原因との結論が出たならば、総ての被害者に対して最低限、その遺伝子破壊に対しての保証金支払いを命ずるべきである。そのためにアメリカの経済が破綻したとしてもそれは無論アメリカの責任である。少なくともアメリカが開戦理由としたことに関して罪のない国家をその人民を奈落に突き落としたのだから。
更にISを敵視する連中は、このような組織が生まれた歴史的必然にアメリカ・イギリスが最も大きな責任を負っていることを指摘しない。このような欺瞞こそ、ISを生む土壌だということを意識していないかのようである。既に、そんな欺瞞は破綻しているのだが。さて、本論に戻ろう。
物語は、ネプチューンの祭日にローマの仕掛けた奸計で攫われた数多くの女性のうち、ローマの前線指揮官、ホスティリウスに嫁がされそうになる美少女タルペイアやその妹のような存在として彼女同様神殿巫女として軟禁されているパミーナを中心に、サビニ人の王、ティトウス、前線指揮官のメッティウス、旅の預言者サンジェルマン伯爵らによって紡がれてゆく。
人間ではなく鳥だがヘルメスという名を持つ鷹も重要な役割を果たす。無論、この名でギリシャ・ローマ神話との関連をも示すと共にヘルメスが葦笛を発明したこともパイドパイパーに関連していることを忘れてはなるまい。このようにして物語に広がりを与えていることも作家の上手さである。
さて、事件後10年の間に勇猛果敢で知られるサビニ人は、3度の戦いをローマ挑んだが、難攻不落の砦カピトリウムを突き崩すことができずに敗退していた。王が変わり、衰えた力を挽回、ローマと互して戦えるまでに復活したサビニ人は4度目のカピトリウム攻撃を開始する。
一方、女性の社会的地位は低く、男の政争の道具にされる、単に性の捌け口、子孫を残すための妊娠機械のように扱われる場合も多いのは、時代的背景であるから、止むおえない点ではあろう。
ところで今作はパイドパイパーのスピンオフ作品であるから、そろそろその繋がりについても明かしておこう。実は、パミーナは、夜の女王の娘である。従って、彼女は不死。特別な力も持っている。その彼女は、自分と同じ孤りの寂しさを知り、孤独と戦ったタルペイアの、囚われて今は「祖国」となっているローマを恋故に裏切り、最愛の敵王の政治的判断によって裏切りを罰された悲恋と、女性の恋の形である深く狭い悲恋の強さを憐み、彼女に乗り移って、時を超える眠りについていたのだが、更にヘルメスから与えられた笛によって様々なものを操る力も持つ。長い眠りから醒めた時、常若の国の王ダナーンに拾われ、聖骸を持ち矢張り不死の存在である神々の娘、ミリアムのボディー・ガードとしての職を与えられる。こんな訳で彼女はパイドパイパー第1号なのである。
ところで、今作でも、照明・音響が効果的に使われていて、改めてこの劇団のバランスの良さを感じさせた。

タヒノトシーケンスvol.1 透明な動物と夜通し歩き回る

タヒノトシーケンスvol.1 透明な動物と夜通し歩き回る

タヒノトシーケンス

新宿眼科画廊(東京都)

2015/09/04 (金) ~ 2015/09/09 (水)公演終了

満足度★★★★

ちょっと理屈っぽいが自分は好み
 何気ない日常の影に潜み、普通の人々は気付きもしない位相から、こちらを窺い捩じれをを構築して世界を転覆させる目には見えないものたち。そんな存在があるような錯覚を錯覚とまでは言えないようにもってゆく特異な文章構築術と、淡々とそれを演じる役者、肝心な場面を実に雄弁な演技で伝える役者で対比させた演出・縁起ともにレベルの高いものである。シナリオは、それらを準備した極めてロジカルな短編オムニバス。今回の半券を持ってゆくと、もう一作は割引料金で観ることができるとか。頭の体操にもなる面白い舞台である。

パイドパイパー と、千年のセピラ

パイドパイパー と、千年のセピラ

劇団ショウダウン

あうるすぽっと(東京都)

2015/09/04 (金) ~ 2015/09/06 (日)公演終了

満足度★★★★

更によくなろう
 ハッピー圏外とのコラボ企画であるが何分13世紀ハーメルンで起こった子供失踪事件が史実とあって様々な説が飛び交い、解釈も多様な為、何が真実で一体何が問題であったのか? についても様々な想像が可能である。

ネタバレBOX

面白いのは、この事件が起きたのが所謂キリスト教による科学精神の否定された時代であったこと、キリスト教原理主義が未だ隆盛を誇るアメリカで、知能の低いブッシュが大統領職にあって十字軍を持ち出したごとく、十字軍に少年義勇軍迄組織される時代でもあったことである。一方、イスラムはこの時代、世界最高の知を誇った。日本では余り知られていないが、renaissanceでは、イスラムを介してギリシャ・ローマの知がヨーロッパに再起したのである。ヨーロッパでは、中世の暗黒時代を通じて聖書に書かれていないこと、聖書と矛盾するような科学的知見は総て表向き抹殺されていた(この辺りアメリカのキリスト教原理主義との類似にも気を付けたい。因みにアホなマスコミが、イスラム原理主義と盛んに言い立てるのは、もともと、キリスト教原理主義をイスラムに仮託して作られた造語であり、日本以外にこんなバカなプロパガンダを用いるメディアを自分は知らない)から、ギリシャ・ローマの知の伝統は一旦、根絶やしにされていたのである。然しながら、ムハンマドが商人であったように、イスラム教徒の多くは商人として世界を股にかけ、行く先々の知をも吸収していた。無論、ヨーロッパのギリシャ・ローマの知もアラビア語に翻訳され、イスラム世界に根付いていたのである。幸か不幸か十字軍がユダヤ教、キリスト教、回教と同じ神を奉ずる一神教の聖地、エルサレムを目指したため、また、諸侯、王の中には、平和を望む勢力が支配する地域や時代があった為、アラビア語からラテン語に翻訳されたギリシャ・ローマの知が、再びローマンカソリックの中心地、ローマなどのイタリア諸都市から欧州全体に再度広まったのである。
ところで、ここに登場するパイドパイパーとは、夜の女王から特殊な力を授かり各地域の領主の汚れ仕事を担う役割を負わされた日陰者という位置づけだ。今流に言えば、或いは当時の感覚からすれば一種の魔術師とでも考えたら近いのではないか。(無論、中世ヨーロッパの暗黒時代の発想としてである)
主役を張る林 遊眠は、固有名詞としてのパイドパイパー役でハーメルンの旧領主であるエーフェルシュタイン家・ルードヴィヒ最後のトリックスターとして、聖骸を身に埋め込まれたとされる娘、ミリアムを守り続ける宿命を負う。ミリアムは神の子とされるが故に、宗教者、各地の領主などからその命や居場所を付け狙われる。彼女は拉致される危険をも常に負っている。何故ならば、彼女を自らの陣営に置けば、生きていても死んでいても自らの宗教的権威を高め、権力を増すこと請け合いだからである。そのため、エーフェルシュタイン家でも彼女は殆ど幽閉同前の生活を余儀なくされていた。無論、彼女は普通の子供のように表に出て遊びまわることを望んでいたのだが、それは許されぬことだった訳だ。然も、新たなハーメルンの領主、ヴェルフェン家のアルブレヒトは、主教と結託、旧領主を殺してしまう。今わの際にハイドパイパーを呼び出したルードヴィヒは、娘を永遠に守ることを命じて息絶える。だが、ミリアムは、新領主らの一党に攫われてしまった。それから20年以上の月日が流れた。パイドパイパーと共にミリアムを守った騎士、ヒースと彼の従者、マルヴォ3人でミリアム奪回のチャンスを伺う。その間にもミリアムはヨーロッパのあちこちを連れまわされた挙句、その身は鎖に繋がれて哀れな状態で幽閉されていた。然しパイドパイパーら3人も彼女の情報を集め、ヨーロッパ中を渡り歩いたが二十数年ぶりにミリアムがハーメルンに戻ることを掴み、イスラムの将を仲間に引き入れて彼女の奪還に成功した。然し、これだけでは、ミリアムもパイドパイパーも救われない。何故なら十字軍を組織するキリスト教会や、利害のある領主らは彼らを探し回り再び捉えようとしていたからである。而も、彼女たちは、不死で不死身であった。ヒースもミリアムの騎士となって以来、年を取らない。
 一方、このように特殊な存在である彼らにとって、何の為に生きているか? なぜミリアムを守って戦い続けるのか? 生きている意味は何か? 神とは何か? 神の子、ミリアムが実際、滅ぶと世界はどうなってしまうのか? 等々の問題は未解決であり、見付けたい答えでもあった。果たしてこの謎は解けるのか? 
 物語は、歴史教師が、教科書には載っていない真実の歴史を案内する謂わば狂言回しとして登場し、生徒やアメリカの諜報部の連中に何が起こったのかを説明するという形で進んでゆく。イスラム教徒と十字軍の戦いが続く中、ミリアムを巡る争奪戦も続いている。テンプル騎士団を中心とした十字軍側は、敗退を続け、終に最後の砦に立て籠もった。決戦の日、多くの血が流され、テンプル騎士団総大将の指揮で一旦は、攻勢に転じた騎士団であったが、傭兵を雇い、ミリアムを崇める信者を味方につけたパイドパイパーらが助っ人に駆けつけ形成は逆転、イスラム側が勝利した。その後、神と対峙し攻撃を仕掛けるパイドパイパーであったが、神は、人間の未来は死すべき人間に選ばせようとする。そして、ヒトは選んだ。神の忠告は無視し、誤っても迷いながら生き抜いてゆく道を。何度となく生まれ変わり、12歳で成長を止めていたミリアムと永遠の生を受けたパイドパイパー、騎士たちは、終に自分達を終わらせることを選択した。普通の子供として生まれ変わったミリアムは、明日、13歳の誕生日を迎える。母は、パイドパイパー、父はヒース。(このほかのエピソードも存在するが、これは他日に譲ろう)
 圧倒的な存在感を見せつけるパイドパイパー役、林 遊眠の表出する永遠の孤独と、その寂寞を鏡に映したかのようなミリアムの二人ボッチが、観客の魂を揺すぶる。実際、ヒトが神を必要とするのは、このような絶対孤独を通してなのであり、それ故にこそ、神を信ずる者を他者は否定できないのだ。
半夏の会 読む・話す・演じる

半夏の会 読む・話す・演じる

オフィス樹

南大塚ホール(東京都)

2015/08/05 (水) ~ 2015/08/05 (水)公演終了

満足度★★★★

危機意識
「鉄道開通(私のよこはま物語)より」「おとうさんの家、ぼくの家」「汽笛」「雨傘」「羅生門」「ハエ」の6篇を朗読形式で演ずる。

ネタバレBOX


 鉄道開通、汽笛、ハエは長崎 源之助という作家で初めて作品に接したが、よほど鉄道好きな作家なのであろう。3作品に共通しているのは、西洋的な知に対して日本のそれの遅れ。追いつき追い越せレベルで引っ張ってゆかれた大衆の反応であろうか。前者は、文明開化を象徴する新橋・横浜間丘蒸気開通当時の人力車夫らの反応を中心とし、後者は、原爆投下後の荒野を走る汽車に対する子供たちの反応を描いている。原爆開発だけに当時の日本の国家予算と同額程度の資金をつぎ込み、完成させたアメリカの経済力・知財収集能力と活用能力の根底を為す合理性とプラグマティズムに対し、幼稚なセンスしか持たなかった日本の哀れが悔しい。(ハエについてはラストを参照)
 おとうさんの家、ぼくの家は、F1人災の犠牲になった犬の親子の話だ。実際、犬だけではなく多くの牛、豚、鶏などの家畜、犬、猫などのペットが、息絶えた。親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ちが切ない。自分が犬を余り好きになれないのは、切なすぎるからなのだが、犬の、死を賭して義を守る姿勢が鮮やかに出た作品である。作家は、悠崎 仁。
雨傘は、川端 康成の作品だ。いかにも彼の作品らしく、繊細である。1本の傘だけで、よくまあ、これだけ繊細な世界を描く、と感心すると同時に、今時こんな男女は居ないな、と思わせる作品。
 羅生門は言うまでもあるまい。芥川である。支配階級末端の男が、実存に目覚めてゆく話だが、その決定的変化の鬼気迫る様子迄は伝わってこなかった。
 ハエは、わざとカタカナに開いたそうである。実際、一神教世界に於けるハエは、悪魔の中でも、サタンの副官、ベルゼブブという名で高い位につく。態々、演者がカタカナに開いたというのはそういうことを意識しているだろうし、ゴールディングの傑作「蠅の王」も意識しているかも知れない。
一方作家の長崎は、かなり西洋に対する日本を意識しているのだろう。長崎という名も本名かペンネームか調べなかったが、ペンネームであれば、かなりアイロニーが入っているかも知れぬ。これは、日本の軍隊の非合理性を端的におちょくった作品であるから、大西 巨人の「神聖喜劇」には、質量共に及ばぬにせよ、非常に面白くアイロニーに富んだ作品である。
 全体としては、長崎の作品が半分を占めることもあって日本の非合理性と心情主義に対する欧米の合理性の対比をベースに、ただ湯を沸かすだけの原発を更に推進させようとする政府・官僚共の愚かさと危険、戦争に向かうアホな安部政権の狂気の結果、川端作品のように良質の感性や、相互監視によって何とか保たれてきた人倫の箍が外れた世界へ、民が船出する真っ暗な近未来迄を描いたといえよう。ホントに日本で上に立つ奴ってのは、どうしてこうもアホなのか? 
BABELL

BABELL

BABELL

新宿眼科画廊(東京都)

2015/08/28 (金) ~ 2015/09/02 (水)公演終了

満足度★★★

インターホンを拝見
嫉妬はNya~

ネタバレBOX

 恵介と恵吾は父の名が偶々同じ恵だったのがきっかけで仲良くなる。思春期に達した頃には親友と呼べる間柄になった2人だったが、恵吾に19歳の大学生、幸子という彼女ができた。恵吾は、彼女との睦言を総て恵介に打ち明ける。無論、幸子は、そんな恵吾の話を恥ずかしい、と考えているのだが、恵吾は独善的で幸子のデリカシーが理解できない。一方、恵介は、物事に適度な距離を置いてみることができるタイプなので、何気ない会話でも幸子とフィーリングが合う。そんな2人を見る恵吾の目は嫉妬の為、曇り、あらぬ妄想に苦しめられるようになる。偶々、幸子の誕生日に、プレゼントのほかに彼女の良く口ずさんでいる「聖者の行進」をハモニカで演奏して驚かせようと計画していた恵吾は恵介にその旨打ち明け、ハモニカを吹いてみせた。そして、ハモニカを彼の家に忘れて帰っていった。その後、やはり偶々、幸子と3人で待ち合わせた折、遅れて到着した恵吾の耳には彼女の歌う「聖者の行進」に合わせてハモニカを吹く恵介の姿が映った。自分が、サプライズを演出するために計画していたことをおじゃんにされて、恵吾は落ち込み、遂に、包丁を持ち出す。そして自傷行為に及んでしまった。命は取り留めたものの、声帯を傷つけ声をなくしてしまった恵吾は、長い療養生活に入る。恵吾と幸子を不幸に落としてしまった、と感じた恵介は2人に会うことを避け通していたが、ある日、幸子の訪問を受ける。
 ぎちゃぐいちゃの嫉妬話など、誰も聞きたくない。まともな恋愛話でも、自分のことでない限りうざいだけだ。それが、普通の感覚だろう。それらの話題が他人の心を打つケースというのは、社会的な状況が恋を邪魔するとか、人々が経験する実際の恋愛問題に普遍的に関わり且つ蔑にできない親との関係など二人称ではなく、三人称の世界が関与して、恋愛を潰そうという力が働くときである。
 シナリオに決して力がないわけではないが、余り人気は出まい、と感じるのは、以上のような理由からである。その代りと言ってはなんだが、恵介の友人たちが、様々なフォローをしている点で、評価できる。特に一見、他人のデリカシーには一顧だにくれない、という設定のキャラである満が、逆に暖かく親切であるというのが良い。
 ただ、タイトルと内容が余り深く繋がっていないのは、矢張り、初めて書いた作品ということか。
笛を吹け吹け 双子のフロイライン

笛を吹け吹け 双子のフロイライン

演劇企画ハッピー圏外

TACCS1179(東京都)

2015/09/02 (水) ~ 2015/09/06 (日)公演終了

満足度★★★★

Aチームを拝見
 ハーメルンの笛吹きの噺は、誰でも知っているだろう。鼠がたくさん発生して街の人々が困った時、道化の服装をした笛吹きが表れて鼠を皆、川へ追い込み溺れさせて街を救った。ところが、街の人々はなんだかんだと理屈をこねて彼に謝礼を支払わなかった。そこで怒った笛吹きは街中の子供130人を笛の音で呼び寄せ、何処へともなく連れ去ってしまった、という話である。

ネタバレBOX

 この事件はドイツのハーメルンで1284年6月26日、ヨハネとパウロの日にこの街で起こったとされている。而も、キリスト教の科学を否定する精神によって知的には暗黒時代であったこの頃、一般の人々に理解し難いことは悪魔や魔法のせいにされるか、良いことであれば神の恩寵と解されるのが通例であったから、笛吹きは実は魔法使いであった、と言われてきた。だが、ハッピー圏外の解釈は、あくまで合理的である。では、どう解釈しているのか? 1260年に起きたゼデミューンデの戦いを起点とする、という歴史的解釈なのだ。今作では、ローマで有能な書記官として活躍していた男が、その合理的精神を枢機卿から嫌われて所払いになり、助手と共にハーメルンで領主をしている伯爵から家譜作成を頼まれ赴任してくるという話になっている。因みにこの伯爵こそ、女子供迄戦ったといわれるゼデミューンデの戦いの勝者であり、現領主という訳であるが、前領主は、領民からも慕われた名君であった為に、戦力に於いて劣る領主の為に民衆が加勢したとも取れる逸話が作品中で語られる。だが、前領主は、戦いに敗れ、領地を没収された挙句亡くなっていた。
 だが、現領主は、民衆に人気のあった前領主の子が何処かに落ち延びて生きていることに恐怖を抱いており、いつの日か忘れ形見の子が、挙兵して自分を襲い滅ぼすのではないかと恐れていたのである。
 書記は、助手と共に、先ず、一時情報を集めることから始めた。彼が興味を持ったのは、2年前。即ち、子供たちの失踪事件が起こった2年前、実際に何があったのかである。それを確かめる為、彼と助手は、人々に訊いて回った。数々の証言が集まった。書記たちは、証言を更に集めてゆく。嘘の証言をすることに利害関係の無い下級兵士などの人々を含めて。また、旧領主の奥方が、町外れに生きていることを探り当てて、家系図などの資料も入手すると共に貴重な証言も得た。更に矢張り町外れに棲んでいるちょっと変わった音楽家からも、なぜ、笛吹きが鼠を退治することができたのかに関する科学的根拠を入手することができた。更に、戦に敗れた20年ほど前、旧領主の妃が5歳だった息子を預けた旅芸人一座の座長からの証言も得る等、多方面から様々な情報を集めることによってハーメルンの笛吹き男伝説の背景にあった史実を浮き上がらせてゆく。このシナリオの手際が見事である。
 作品の本質には関わりの無いことながら、池袋演劇祭参加作品で同一テーマを二つの劇団がそれぞれ全く違った舞台に仕立て上げるという面白い企画のうちの1本である。もう一つの劇団はショウダウン。26回池袋演劇祭大賞を獲得した劇団である。できれば、どちらも観たいものである。それに、捻りもある。ハッピー圏外はWキャストでの上演。ショウダウンは、スピンオフとして、林 遊眠の独り芝居もある。
 ところで、今作の演出に関して。道化衣装は元々、二面性をも表す表象である。折角、笛吹きは、デモーニッシュな姿にも極めて真っ当で紳士的にも見られる内容なのだから、彼に対するその時その時の人々の評価をデモーニッシュな評価の時には寒色の青を強く、また人間的な評価では赤系統の暖色系を強く当てるなどの工夫を強めた方が効果的だとは思う。
平成舞姫

平成舞姫

第27班

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2015/08/29 (土) ~ 2015/09/06 (日)公演終了

満足度★★★★

今後も楽しみ Bグループを拝見
 チームがA~D迄4つあり、それぞれ演目が異なる。各作品は短編or中編なので各チームとも1~2本ずつ上演するといいう形を取っている。自分はBグループを拝見したが、
Aは「スピーディー・ワンダー」(スティービー・ワンダーの間違いではにゃい。念のため)と「平成舞姫」(森鴎外と関係があるのかにゃいのか、にゃこは知らにゃい)。Bが「泣かないのY君」と「どこまでも行けるのさ~あの子の田園都市線編~」。Cが、「アイラビューアイラビュー、マイシスター・マイブラザー」(これ教会? ないあぶ~~~)、Dが、「しばらくは木の家」(三匹の子豚ちゃん?)である。オフザケは兎も角、リーフレットによれば、サスペンスコメディということだ。
 さらに面白いのは、初回観劇時に“第27班キャビネット公演スタンプカード”というのを貰えるのだが、初回に1個スタンプを押してくれて、2回目は、500円引き、3回目はさらに500円引きと500円ずつ値引きしてくれる。従って4回目は、500円で観劇できる寸法だ。Bを拝見した限り、実力ある劇団と観た。お得な観方ができるのもお勧めである。このカード自体も中々気に入った。

ネタバレBOX

 では、観劇内容を少し記しておこう。1本目、「泣かないの~」のYはゆとり世代のYだ。Y世代はゲーム脳の為何をやるか分からない、と認識されている存在で首輪必携である。因みに彼ら(たぶん彼女ら)は、ペットとして飼われている存在で、ほかに改良型Xが存在し、Y型より大人しく、八方美人方なので問題は起こしにくいとされているが、値段がべらぼうに高い。因みにY型は、保健所などの公的機関に所属する人々の間では、いきなり人を刺すなどの危険行動を起こす、と認識されている。おまけに、極端に傷つき易く、プライドばかり高いが、他者との経験値が低い為、イマジネーションに広がりが少なく、言葉は字義通りに取る為、言われたことしかできないのだが、言われたことも、自分が夢中になっていることがあると、全体の関係性や社会的に為すべきことの優先順位が付けられない為に、必要なことを必要に応じた順番でこなしてゆくという発想に欠ける。この辺りがゲーム脳とされる所以なのだ。
 だが、演劇的に見事なのは、これらゆとり世代の欠点を見事に対象化し、ドライなタッチでメスを当てキチンと切開したうえ、的確に提示して見せている点なのだ。喜劇を作るのは悲劇を作るより3倍程度は難しいと自分は考えているのだが、その難しさは、自己を対象化することの困難に掛かっている。他人の粗はよく見える。これは誰しも経験していることだろう。然し、自分の欠点を客観化して観ることは、容易でないことも経験的に知って居るハズである。先ず、この点がクリアできていることが凄い。まだ若いのに大したものである。喜劇の王道を歩き始めている。的確な距離を持っているからドライである。この点も喜劇には大切なことだ。観客は、泣いてもよい。例えばチャップリンの作品でも観客が泣く要素は多分にあるがチャップリン自身は作品の制作過程で、泣かなかったハズである。更に、自分或いは、自分達ゆとり世代をおちょくってなんちゃって感覚を持っている点だ。ペットにされていたり、直ぐ拗ねて泣いたり「男の子でしょ」と女の飼い主からたしなめられても泣き止むことができなかったりというペーソスも実に巧みに織り込んでいる。
「どこまでも行けるのさ~」は、男の子思春期の照れや、女子への憧れとチャレンジ精神を描いたちょ、っとドタバタ作品。鉄道マニアには、余計楽しい作品になっている。というのも、群馬県から神奈川県の中央林間迄、改札を出ないで行けるというから凄い。但し、時間は若干掛かる。このマニアックな旅程に恋が絡み、元彼、従妹同士の初恋、現在進行形の出会い系恋愛が絡んでくるのだ。
 

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