実演鑑賞
満足度★★★★★
今回は初めに「老婆の休日」、次に「茶漬けえんま」、トリは以下の三作から、観客の拍手によって選ばれた作品。⓵「幽霊蕎麦」②「猫」③「幽霊の辻」今回は⓵が最も多くの拍手が在った為、選ばれた。
ネタバレBOX
以下、開題と参ろう。「老婆の休日」
連れ合いを失くして長く、健康な老婆の愉しみは、病院の待合に来て、常連の年寄り仲間とよしなしごとを話すこと。あれやこれやの話の合間に悪戯心を起こして話し相手をからかったりするのも楽しみな茶目っ気のあるおばあちゃまであるが、曾孫が居て、何時頃迄生きるのか? と質問されたりもする。無論、勘ぐって年寄り仲間にこの話をするのであるが、曾孫は瑞々しくて可愛いことに変わりはない。今日の愉しみは若先生に診て貰えることだ。米寿にもなると、若い男性が体に触れてくれることなど、こんな時を除けば無いのだから、等々の可愛い艶話も仕込んであると同時に、認知症問題をさりげなく仕込んであったり、老いのメカニズムに活性酸素が関わっていることなどの実際の医学的知識等も溶け込ませた脚本は、流石に落語作家のものである。無論、思いもかけない視点からの笑いもあるが、それは前回この時はホントに障りがあってやって来た時の話で、良くこんな発想ができるよな! と感心する話であったが、これは実際に聴いて、観て楽しんでほしい。何より基本は健康だから、病院へ来ている、というスタンスの面白さである。タイトルが「ローマの休日」のもじりであるなんてことを言うのはダサいがトウシロウらしくダサいオチとしておく。
「茶漬けえんま」
板前留五郎が気付くと、何やら紳士的で洒落た着こなしの初老の男性がしきりと茶漬けを啜っている。訳も分からず、何処に居るのかも分からず「此処は何処か?」訊ねると六道の辻だとの答え、してみると自分は死んだらしい、で茶漬けの主に誰かを尋ねると閻魔だとの答え、王と書かれた被り物も付けず、服装もキチンとしてソフィスティケイトされた洋装にびっくりして訳を尋ねると、昔はそんな服装をし閻魔帳を見ながら地獄行き、極楽行きなどの裁定を下していたが、今では死者の自己申告制になっており、裁定で間違いでもしようものなら訴えられて大変なことになってしまうし、司法試験は難しいから、今は裁定は、係の者に任せて自分は判を押して居ればいいのだとの答え、こんな話をしているうちに友人のキリストや仏陀の話も出て、留五郎は何れにせよ閻魔の友達という扱いになってしまった。キリストは、酔うとあばらの傷を見せながら暴れるという。そして現在の天国と地獄の様子を詳しく聞かせてくれた。さて、閻魔庁へ出向くことになった両人、留五郎は閻魔の友人ということで他の多くの物故者たちが長い間並んで審判を待っているのに、着いたら直ぐに審判して貰い、天国へ召喚となった。この際、医者や弁護士、権力者と異なり板前は罪を猶予される割合が非情に高いこともあり、それなりに犯罪得点の高い罪もあったのだが、天国行き、ということになった。天国へ着いた直後、覚束ない足取りで道を辿っていると中国の聖人の足を踏んでしまった。聖人は痛がったもののその過ちの咎は問わず、天国では住人の間に自他の区別は無く、私はあなた、あなたは私という究極の思い遣りの関わりがあるのだと説く。然し留五郎には量子の重ね合わせの論理のようにケッタイな仁徳の極致を実践するこのような思想は理解できない。聖人は、理解させようと彼の頭をこづく。それでも理解しないので蹴りを入れる。尚理解しないので金属バットで殴ろうとした。ホウホウの体で逃れた留五郎の前に何やら手を上下に動かしている人が居る。服装と動作から見て底釣りをしていると見える人物に何をしているか問えば、釣りをしているとの答え。無論芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の1シーンだ。こんな調子で天国の話は進んでゆくが、留五郎は天国の穴から地獄の血の池へ落下してしまった。仏陀は彼が閻魔の友人であることも聞き及んでいたから救おうとするが、中々叶わず、キリストに助けを乞う。やってきたキリスト共々助けに向かうが。そこは落語、極めて破天荒なオチが付いている。元ネタは1977年桂枝雀の新作落語発表会で発表された作品が原型となった作品だという。哲学的であると同時に現代物理学の最先端を行くようなハナシである。
「幽霊蕎麦」
トリを飾ったのも新作落語であった。3カ月前に亡くなった夫は、妻が集まった香典で欲しかった着物を買ってしまい四十九日の法要をしてもらえなかった為、中有の後成仏できず戻って来てしまった。食いしん坊で浪費癖の凄まじい女房は、愚痴る夫に働いて法要の費用を稼げ、とサジェッション。仕方なく夜中に人気のない場所で蕎麦屋を始めた幽霊であったが。稼ぐ度に無駄遣いで法要を出して貰えぬ哀れな幽霊の哀歓漂う傑作。オチは観てのお楽しみだ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
会議の行われる部屋奥に大きなグリーンボード、上部に時計が付いている。会議開始は16時20分。会議終了は最終下校時刻の18時半である。表では蝉の声が喧しい。会議開始時には、ミンミン蝉の鳴き声に混じってヒグラシの声も聞こえる。登場するのはGB手前の実行委員会席に正面左手から文化部2名、議長、監査、文化部の席に直交する形で2年生のクラス代表者3名、その対面席は1年生のクラス代表3名、実行委の対面に3年生のクラス代表席が3つ。出捌けは議場入口1カ所のみ。
ネタバレBOX
人気の演目故、是迄様々なヴァージョンが上演されてきた。結果、通常の精緻な論理を組み立てての論戦では、新たなヴァージョンを創ることは最早不可能というレベルに達していた為、今回は、どのような形で楽しませてくれるのか? と考えていたのだが、こう来たか! 考えてみればこのような形でしかあり得まいと感じるようなハッチャケ感満載、久しぶりに腹の底から笑える形での上演になった。兎に角、笑える。愉しみたまえ!!
今までのヴァージョンを既にご覧になった方も多かろうから、内容についての細かな点は書かないが、お勧めである。今回も観客席には、ナイゲン参加者全員に配られた資料と同じ印刷物が当パンと共に入場時に席に置いてある。初めて観劇なさる方は、この資料を見ながら観劇すれば、参考になること請け合いである。
実演鑑賞
満足度★★★★
観客は入場手続きを終えるとスズナリの裏導線を懐中電灯を持って進む。(追記2022.8.21 03:52)
ネタバレBOX
途中にはお化け屋敷のような仕掛けが方々に在り中々楽しい。子供の頃を思い出だしながらそろりと参るが良かろう。子供に戻れればこちらから悪戯を仕掛けている所だろうが、時間は不可逆的故そうもゆかないのは残念である。随所にスタッフが立っていて頭をぶつけやすい注意すべき場所、足下の悪い場所などを注意してくれる。初めてスズナリの裏導線を歩いたが、役者さんはこんなに狭い通路を通って舞台に上がってくるのか! と思うとつくづく大変だな、と思う。
さて漸く板に辿り着くと、右手が観客席である。
板上はホリゾントに向かって左右に開く白いカーテンが四重に設えられている。無論各カーテンの前後には空間があり、カーテンの開け閉めを通して様々なシーンが演じられる。主たる舞台装置はこれらのカーテンであるが、場転に応じて適宜机と椅子、電話台と電話器等が置かれる。また、シーンによっては出捌けに客席側通路も用いられる。他、用いられないが家具が若干、舞台手前のカーテンの客席側の観劇の邪魔にならない場所に置かれている。
オープニングでは、タキシードに八の字髭、マジシャンのような出立の男が、遅れて入場した客(無論、出演者)を誰何する。通常の誰何はいつの間にか、大した理由も無く遅れて入場したことへの断罪となり、この劇場・スズナリの縁起と絡めて40年前に起こった惨劇に通じるようなお仕置きを与えるシーンに至り、今作の本筋へと通じる。40年前に起こった事件とは、204号室の住人であった、陰気な林という人物が、隣室203号室に地方から越してきた若い娘、森を惨殺するに至った陰惨な殺人事件のことである。そして今、林の迷える魂は、この劇場に舞い戻り、不可思議な現象を惹起していた。この霊気に引き寄せられたか、元205号室に住んだ界隈では知られた霊能力の持ち主・佐々木が、迷える霊に引導を渡す為独鈷杵を持って現れると、矢張り霊能力の高いレイコが写真やムービーを撮るとその7割以上に霊等、不可解な者が映り込むという双子の撮影者を伴って現れる。40年前の惨劇に至る過程、惨劇の現場、その後日譚が描かれるが、佐々木・レイコグループは何とか林の霊は退けることができたものの、林に残忍な死を与えられた森は当時妊娠しており、胎児と共に旅立っていた。そしてその胎児の父が事件の際、つれない対応をしたことを恨んでいた。然り、森の霊は復讐を果たす為、今この場に参上したのである。森の持つ怨念のエネルギーは凄まじく、到底林の怨念の及ぶ所では無かった。森は宙に浮き上がる程の能力も備え、遅れて来た観客の体を操って復讐を果たす。
幾つものシーンでマジックが用いられ、音響や照明も効果的に用いられ楽しむことができる。ところで、ラストシーンは、ファーストシーンと瓜二つ。即ちこの惨劇はエンドレスに続く、ことを示唆して幕。ここで問題。胎児の父は誰でしょう?
実演鑑賞
満足度★★★★★
先ずは、虚心坦懐に見るベシ!
ネタバレBOX
板上はその前後中央を下手から上手まで通る平台。この平台の中央から迫り出した一段低いほぼ矩形の平台を手前に置きここから中央の平台の奥に重ねてそのセンターに一段、幅の狭い平台を置く。最上段の高所を左右から挟むように鳥居のような木製構造物。各々の柱の内側には黒幕、ホリゾントは紗のような薄い幕で覆われており、この紗幕がスクリーンとして用いられる。基本的に中央平台の奥、上手・下手が生演奏者のスペースであるが、楽器を持って移動しながらの演奏や弾き語りもあり、これらの演奏の素晴らしさ、映像の用い方の上手さは一度体験しておきたい。殊に生演奏では、和太鼓、小鼓、鉦、篠笛、津軽三味線、ヴァイオリン、洋式パーカッション、琴に似た形状だが自分には名称の分からない筝の一種であろう楽器(ギターのように斜め横に抱えて演奏)等々を奏する演奏者陣。尚、出捌けは上手・下手各2カ所、都合4カ所。
全体として、若い主人公(達)を歌舞伎俳優、ベテランが上手に盛り立て、若手の役者は、内側に力の籠った演技で奮闘している。この辺りのキャスティング・演出もグー。法然役は歌舞伎役者の市村家橘さんが演ずるが、流石の品を感じさせる。
物語は、オープニングで法然や慈円(親鸞の剃髪をした後の天台座主)、親鸞の生きた時代背景を活写する所から始まるが、この際、平家物語の冒頭が筝の弾き語りで演じられ、この場面では身の顫えを覚えた。また、この場面では同時に平家の落人武者、山賊や、叡山に居るものの経も読めない僧、常に収奪の対象となる貧しい民、今は体を開くしかなくなった元白拍子等々が現れて、末法の世界を視覚化している。
親鸞は9歳で慈円の下に赴き剃髪したが、この時詠んだ歌を聴いて慈円がこの子は病んでいる。(無論、心を。現代流に言えば深いトラウマを抱えていた)ことを見抜くのは流石である。法然と慈円との関係も天台絡みであり、無論親鸞も慈円を経由し延暦寺で29歳迄修行して後下山することになった訳だが、この三者の因縁も無論仏縁と解釈することができよう。これらエリート僧たちと対比されて京の都の荒れ果てた様が挿入されたり、里での民衆の苦労や盗賊・山賊らの危険が対比されつつ描かれていることで、作品はいやが上にも厚みを持つ。この間親鸞は、殺生を禁じる仏法の為肉や魚も食えず、戒律の為女人を禁じられる兄弟子、同輩らと厳しい修行に耐えながらも煩悩の頸城から逃れ得ぬ己を責め苛む。この聡明極まるが故に理知的に煩悩を越えようとする方法に根本的な疑義を抱いたのが法然と親鸞であったということであろう。そして慈円には彼らを理解し赦す度量があった。無論、親鸞の兄弟子や同輩にも親鸞同様の悩みを抱える者達があった訳だが、この結末は終盤で表現される。
ところで親鸞自身は、どうしても理論で煩悩を脱することが出来なかった。解脱の切っ掛けは、女人禁制の延暦寺に命の危険も顧みずやってきた女人に対峙した際、彼女が女性であることで無意識に不浄の者と下げすんだことであった。彼女は問い掛けた。「お母さまはいらっしゃいますか?」 と。最終的な答えは無論‟母から生まれた“である。女性は更に問うた。「お母さまは女性です、女性が不浄ならば、あなたは不浄から生まれたのですか?」と。親鸞は答えられなかった。これが親鸞が覚醒する切っ掛けとなった事件である。後は観てのお楽しみだが、今作、史実に基づいて書かれているという。随所に現れる仮借ない人の世の有様は、史実の持つリアリティーであることを肝に銘じたい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
新たな才能発見! 今後とも期待大!!
全日程が終了したので少し、追記しておく。ネタバレで書いたタイプのユーモラスな表現だけが秀逸なのではない。喫煙量が圧倒的に多いのは、奥川唯1人、而も彼はどん詰まり状況を意識して表白する場面では、ペットボトルを握り潰す仕草を繰り返し不協和音を奏で続ける! これが演者岡本セキユ氏自身の発想によるのか、演出の後関貴大氏の演出によるのか確認していないので分からないが、奥川の苛立ちを如実に表現して見事である。このような切迫感は安定した生活に甘んじている人々には決して理解できまい。表現者は常に崖っぷちに立っているのだ!
ネタバレBOX
劇場の床中程にほぼ正方形の平台を置き、そこがカラオケの402号室、曲尺型の黒い大型ソファが長辺を観客席と平行に短辺を上手側にして置かれている。短辺の手前には荷物入れの箱。ソファ手前にはテーブルが2つ横に並べられ、テーブル上にはドリンクやカラオケ選曲器が置かれている。出捌けは上手奥1カ所。尚2F部分は体育館の2F部分のように落下防止用手摺の付いた狭い通路があり、今作では観客席正面に喫煙所が設けられている。
舞台美術から明らかなように物語はこのカラオケ店で展開する。集まったのは高校時代演劇部に所属していた先輩・後輩たち。そして顧客の1人奥川と昵懇の店員・杉山。かつて演劇部に所属していた仲間の結婚式2次会であり、偶々奥川の誕生日とも重なったこの晩、卒業後10年を経た先輩組と座組ではアルアルの恋バナ絡み。ましてCovid-19の影響下、集まったものの自らも公演中止で借金を抱え唯でさえ苦しい小劇場劇団の台所事情が逼迫、30歳を目前に控え、安定した生活を望むべくも無い為結婚しようとしている相手にも最終的に申し込むことさえできず、更に悪いことに劇作家としても演出家としても大ブレークしていない己を顧みて内心戦々恐々の日々を送りながら、真正面から結婚を前提として同棲している相手・ゆかりにも裸の自分を晒せない。更に悪いことには、高校の演劇部時代脚本を共同執筆していた相棒・松村は、自分より才能が有る彼は、母親の認知症の為に演劇界を去ってしまった。このような事情もあって現在では殆ど書けないこと、様々な問題の累積に何処からどのように手を付け解決の糸口を見いだせば良いのかすら見失って足掻いている。そんな己を他人の目て眺めるもう一人の自分は、何時迄「夢」追ってるんだ! 彼女をどうするんだ? 演劇をやっている以上、安定した生活なぞ望めない。演劇を取るのか、生活を取るのか? 責め苛む。式にかつての相方・松村は来なかった。新婦が元カノだったからである。然し演劇部としては大事なキャラ、演劇部同期では唯一歌がそれなりに唄える岡田が、来ているカラオケ店の住所をラインで送ったので松村も来るかも知れない。来れば、肝心な話も出来るかも知れぬ。
さて、女性陣は、2人が来ている。奥川の同棲相手・ゆかり、奥村を高校時代から好きで現在も恋煩いの瑞季。おっともう一人登場人物がいる、彼女らと同期の具志堅、彼はちっとも悪くないのに女子同士の恋の鞘当てからとばっちりを喰いつつ、一所懸命女性達も先輩たちもサポートしている。ところで高校時代は女王さながらモテモテで眩しかった瑞季は今落魄し、おまけでしかなかったハズのゆかりに最愛の奥川を取られて心は般若の如く猛り狂っている。だが、それもそのハズ。瑞季に無く、ゆかりに在るものは、頭の良さから来る相手に対する思いやりである、要はゆかりの方がまともな大人になっていた訳だ。だがゆかりとて迷わぬ訳ではない。奥川の態度が煮え切らない所へ瑞季との大喧嘩でちょっと踏み迷いそうになる。偶々、そんな時、飲み物のお替りを持ってきた杉山から「細かい事情は分からない乍ら」と極めて適切なサジェッションを受ける。この辺り、殆ど無関係だが、アウトラインを泥酔した奥川から聴いたことのあった杉山が的確にサジェッションする所にこの作家のセンスが見事に現れている。このようなシーンは他にも何か所もあるからこの作家の類まれなユーモアのセンスと捉えることができよう。
ところで、今作開演直後に松村役に就いていた役者が体調不良で降板せざるを得なかった。急遽代役をしているのが、作・演出の後関貴大氏である。若いが役者としても味のある良いキャラであることが見て取れる。今後も期待大! この劇団、制作スタッフも有能で感じが良く好感を持った。役者陣の演技もグー。兎に角、良い友、良い連れ合い、裸でぶつかり合える人間関係があれば、苦境も何とかしのいで生きてゆけるということを等身大で描いた傑作である。
実演鑑賞
満足度★★★★
板上には木製の椅子が7~8脚。焦げ茶と黄土色それぞれ約半分ずつが中央に。上手柱側壁に沿うようにバーカウンター。バーカンの上には、何かを記した紙がやや間を空けて1枚ずつ観客席に向けてスタンドに立てられている他雑然としており、客が座れば足がくる部分にはたくさんの映画ポスターが貼ってある。バーカン観客側手前には、電話を置く台と黒電話。時代は数十年前の設定のハズなので古い電話器である。一方、矛盾するのは携帯電話を用いるシーンも数多く出て来ることだ。上手柱を挟んだ更に上手には黒い幕。これが唯一の出捌けである。下手奥の柱には大きな映画ポスターが貼ってあり、この柱の手前斜め左に架台に取り付けた矢張り大型のポスター、ポスターの左上コーナーが剥がれて丸く垂れ下がっている所は落魄を感じさせる。この架台の観客席側に机と椅子。
ネタバレBOX
作品は、某映画監督と助監督が新作映画の完成記念レセプションを始める5分前を描く。2人共礼装である。監督は燕尾服、助監督はタキシードを着用して序列を表現しているのは無論である。脚本原作は竹内銃一郎氏であるが、小宮孝泰氏により脚色されている。直ぐ思い浮かぶのがベケットの「Waiting for Godot」であろうが、イカンセン背景がベケット作品とは全く異なる。そもそも不条理が不条理として西洋で意識されたのは、ギリシャ・ローマの文化が持っていた人間性の観念が度重なる戦争や露骨な資本主義の収奪による人間性否定、人命否定に至り着いてしまったことから起こる否認感情が正当に評価もされぬ社会に対しての個人による異議申し立てということにあったハズであるが、今作ではそのような深刻さも深みも感じられず、寧ろ大衆化した「文化」への殆ど無意味なコミットそのものが描かれていると観るべきであろう。このように解釈すれば、えんえんと続く、レセプション開始まで5分というシチュエイションの内容を設定し直して延々と繰り返しながら、2人の登場人物が礼装を剥ぎ、下着1枚になることの意味が見えてこよう。そう観客に完全に伝える為にはラストの台詞はもっとアイロニカルで辛辣なものであって欲しかったし、ずっと続く似たプロットにも演出・演技共にアイロニカルな視座で臨んで欲しかった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
この劇団の公演形式で面白いのが、観客参加型の推理劇であることだ。入場時に観客は事件の起こった街の地図と登場人物総ての役名、写真、プロフィールの載った当パンと封筒に入った捜査資料及び観劇をして答えるべき問いと、解答欄が入った用紙(筆記具つき)を渡される。当パンは自由に見て良いが捜査資料は開封指示が出るまで開けてはならない。つまり観客参加型なのだが、何と言っても観客が自分の頭を使って出された問いに自ら答えを見付けなければならない点で観客の主体的関与が必要になる。この点が実に楽しいのだ! 解答が正解であれば尚嬉しいには違いなかろうが、自分の頭を使って物事を処理することほど面白いことは、ざらには無い。
ネタバレBOX
さて、板上は殆どフラットなのだがホリゾントやや上手にはかなり大きなスクリーンがあり、適宜役者陣の演技と組み合わせて効果的に用いられる。スクリーンの手前やや下手寄りに平台を2枚重ねた段があり、間を空けた観客席寄りに2×6尺サイズのテーブルにグリーンのクロスを掛け中央に白いクロスを置き、椅子1脚を置いた舞台美術。上手・下手にスピーカーが置かれている。出捌けは上・下手袖。
上演形態は1部で事件と捜査過程のあらましを演じ、2部で封筒を開ける指示に従って捜査資料を見ながら3つの問いに答える時間が30分与えられる。3部は正解に至り着く為の解を描く芝居の上演である。この構成も面白いではないか! 推理物なので事件の詳細については書かないが、極めて面白いお勧め作品である。
映像鑑賞
満足度★★★
岸田理生の原作を改変した脚本を用い母役・娘役の女優2人と楽師1人の3名が出演。無論演出は居る。作品はオンラインのみで配給された。同じ部屋でマイクを同時に2つ以上用いるとハウリングが発生することがあるのでこれを避ける為、マイク使用は各部屋1つに限られた。
ネタバレBOX
演じ方は、映像音声を含めた音響制作現場を時折挿入しつつ、朗読と普通に暗唱した上での演技を交錯させながらの上演形態を取ったが、実質僅か22分の作品で何故総ての台詞を暗記して演じないのか必然性が全く見えない。というのも一応映像開始前のテロップでは、朗読ということになっているので朗読に徹するか、普通の演技に徹した方が良いと思う。無論、このように思ったのは映像配信は規定の路線で通常の板上での朗読でない以上、朗読に通常の演技を交錯させても舞台効果が期待できないのは明らかだという理由もある。而も以下に述べるように交差させるならさせるで演出上必要となる配慮が全く為されていないのはどういう訳か? 演出は何を考えたのだろうか? 用いられた脚本の内容は以下の如きものであった。
別居している母・娘の関係をベタベタしたがる母とうざったがる娘の対比で台詞が示している。朗読なのか、通常の演技なのかハッキリしたコンセプトの無い「対話自体」の演技に別の場所に住んで居ることを明確化しようとする意図が全く感じられないのは、単に脚本の用い方というより、先に述べた役者陣のアクションがちゃんと別の空間で行われている(例えばズームなどで)ことを背景効果として入れて居ない演出家のミスだろう。住居の色合いが同じトーンで大きく異なるのは娘の部屋のカーテンだけ。而もこのカーテンにもパステルカラーを好む人々が選びそうなセンスが滲み出ており、母子の対立よりはセンスの類似が滲み出ている。センスが類似していれば本質的にセンシブルな対立が起こり難いことは誰でも体験上知っていることであるから、この物語自体の嘘っぽさしか伝わってこない。似て非なる者同士が最も激しく対立するケースは、ある目的に向かって何かを追求する場合の方法論が互いに異なる場合であり、メンタリティーに差がある訳では無いということをも踏まえておきたい。どうしても母・娘の対立を描くことに拘泥するなら住居の色調を変えて母vs娘の対立を視覚的にも明確化する必要があろう。母・娘の距離が実際の上映で描かれていたのは、母の最期の台詞の前、後に現れた長い廊下を1人去ってゆくシーンのみであった。
蛇足だが以下述べることは岸田作品をそれほど観て居ないので確たる見解ではないものの原作者の作品では大抵人間関係そのものが父と娘との間に極めて歪んだ関係があり、その歪みが娘の身体感覚そのものを酷く傷つけて観客にヒリヒリするような痛みを追体験させるような緊張感を伴い、娘の痛む魂の必然性を観客が孕むという構造を持っているように思うが、今作はそのような緊迫感を一切持たない。娘が母を呼ぶ時に「あなた」と呼ぶ1度だけを除いて「あんた」と呼ぶ以外は、他人行儀に徹していないこと、反対語を羅列する言葉遊びをする必然性も感じられないことによって、唯でさえ緊迫感が無くセンチメンタリズムに堕してしまっている作品を魅力の無いものにしている点は残念だ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
手の込んだ舞台美術がリアリティーを持たせる中、夢の中にでも居るように始まった物語は、時折極めて本質的な問いを発し、夢と現の央(さなか)へ我らを惹き込んでゆく。さて、諸君! 問題です。謎を解いてくれたまえ! (若手役者さんたちへのエールを込めて☆は5つとした)
拝見して一昼夜経つと気付いていたが上手く纏まらなかった今作の、面白い深読みを纏めることができたので追記することにした。(8.6 22:45)
ネタバレBOX
舞台美術は駅舎を表現している。ホリゾント手前センター部分が額縁舞台になっており額縁下手上部には1番線を示す看板、上手上部には案内放送用のトランジスタメガホンが据えられている。下手の出捌けスペースを取って客席側、側壁横に男女共用手洗い。正面壁には中段・上段に絵が掛かっている。1番線ホームの上手にはホームへ通じる階段が見える。この階段から見て客席側には休憩所の体裁をした構築物。ホームへ上がる階段へ通じるトランジスタメガホンの客席側地面には改札。休憩所の手前と奥とが上手の出捌け。ホームに接した正面壁には作り付けベンチ。演技スペースを取って亀甲カッコの左カッコを右に九十度回転させたような大型ベンチが1つ。
Monochrome sideを拝見。プロデューサーが若手育成を考えての公演なので役者さんは皆若い。何れの役者さんの声量も程よく、溌剌として清々しい。
物語の構造を理解するのに若干手間どるだろうが、面白い作りだ。謎解きをし乍ら観ると楽しい。無論ヒントは随所に鏤められているからこれらのヒントをキチンと解いてゆけば自ずと答えは出る。途中、一言も台詞を発することの無いキャラが登場するが、謎めいた登場と容易くは謎解きできない脚本、見事な演出が相俟って、一瞬背筋が凍るような戦慄が走ったシーンがあった。
それぞれの登場人物の関係を良く観ること、タイトルは誰と誰を結び付けているのか迄理解できれば作品の理解は程よくできているのではないか。ここまで謎解きができれば物語の主張も理解できよう。知的な仕掛けがふんだんにあって目が離せない作品だ。
以下、追記である。
今作の主要なテーマは自由とそれを追い求め突っ走ることで起きる結果について生起する諸々の事象に関わる物語だが、其処に人々の念(おもい)がキチンと伝えられている点がグー。殊に母の子に対する暖かな愛には胸を撃たれる。
さて深読みである。一般に日本では戸籍関連書類は、アイデンティティーを保証する公的書類としてパスポート取得や就職等の提出書類にも含まれてきたという印象がある。時代の推移の中で多少の変動はあろうが、現在でも例えば子供が生まれるとなれば親や縁の深い者達は新たに生まれてくる子の名前を考えるのは普通のことだろう。だが、それは普遍的なことだろうか? 子の誕生を祝福することは、よほど不幸で深い事情が無い限り喜ばしいことであろう。だが、アイデンティティーに関わるような自分の名を生まれて来た子自身が自ら決められないことは、その子の自由に反する可能性がある。また今作は自由をも大切なテーマとして扱っているのだから、こういったことをも考えるのは作家には自然なことかも知れないではないか? このように自由な発想が作品中の台詞にもフンダンに現れているのだとしたら? この作品の解釈の難しさは先にも指摘した通りだが、この日本人には慣れない名前を自由に発想するという考え方そのものに対する不慣れは、観客をもアイデンティティーの揺らぎに誘い込むには充分な条件かも知れない? だとすれば、これは現代物理学及び生物学の最先端に於ける大問題‟揺らぎ“にも関係してくるのである。ここ迄言えば、観客に対する更なる宿題は明らかであろう。当分、この知的眩きから逃れる術は無い。その意味では更に面白く奥の深い作品ということもできるのだ。
実演鑑賞
満足度★★★★
ホリゾントセンターに大きな月 中央出捌けを挟むようにパネルが貼られ、パネルの開口部近くにシンメトリックに取り付けられた巨大な眼球のような照明。東洋館のレイアウトは、皆さん既にご存知だろうからくどくど書かないが上手には螺旋階段を上った先に小部屋がある。
ネタバレBOX
今回は途中休憩10分を挟んで2時間40分超の長尺。「金色夜叉」は尾崎紅葉の書いた大衆小説の傑作だが、今作はこれに改が付き、ゴールデンデビルVSフランケンシュタインのサブタイトルが付けられて望月ワールドを為している。
少し寄り道をしておく。御存知の方も多かろうが1816年「フランケンシュタイン」を書いたメアリー・シェリーは、詩人のP.シェリー、バイロンらとレマン湖湖畔にあったディ オダティ荘に滞在していた。折あしく長雨に降り込められて屋内に閉じ込められた一行は、バイロンの提案「皆で1つずつ怪奇譚を書こう」との案に乗った。こうしてシェリーは後に「フランケンシュタイン(原題:(Frankenstein: or The Modern Prometheus)」として知られることになった作品の原案を書いたとされている。(余談だが今作中、プロメテウスに関する話題が台詞に出てくるのはこの原題とかかわりがある。)さて寄り道序にressentiment について述べておくことにしよう。台詞ではドイツ語とされているが誤まりである。フランス語だ。ドイツ語の原著を読める訳ではないのでハッキリは言えないものの、今作で用いられているressentimentは、キエルケゴールを経由してドイツの哲学者・ニーチェが用いた、台詞で述べられたような概念の用語として、ニーチェ自身がこの単語を用いていて勘違いなさったのだろう。ヨーロッパの哲学者ともなれば、ギリシャ、ラテンは当然のこと、自国語、仏語、英語その他多くの言葉を理解して当然なのでこのようなことが起こることはヨーロッパで生活していた者にとっては日常的なことである。日本の哲学者でも数か国語を理解する哲学者は一流大学教授にはそれなりに存在している。これも当たり前のことだ。
ところで、今作大きな所で、2つの作品「金色夜叉」と「フランケンシュタイン」という全くタイプの異なる作品が連結されている訳だが、シナリオに書かれた台詞から判断するにこれを繋ぐコンセプトこそ ressentimentであるという。これはニーチェの概念定義によれば‟弱者が抗えない強者に対して内面に抱える「憤り・怨嗟・怨恨・憎悪」というような感情そのもの“である。即ち弱者の遠吠えに過ぎない。一過性のムーブメントなのである。この普遍性にもパースペクティブにもまた論理的整合性や構築性にも欠ける状態を一貫した物語のビルジキール(船の竜骨・船体全体の背骨に該当する構造)として用いようとしたことに今作の弱さがある。サブストリームに現れる心中の構造は、日本人の文化に深く根差した心中物の傑作の豊かな伝統を踏まえれば無論、ストンと腑に落ちる、見事な美しさと強度を具え、哀れをもよおすものの、解決策としては死という形しか持ち得ない、弱者の美学に過ぎまい。意地の悪い見方をすれば単なる敗北主義である。そこで持ち出されて来たのが擬制である。(例えば金融システム、例えば装置としての靖国VSプロメテウスとしてのフランケンシュタイン、そして3者の三つ巴)ラストシーンで高利貸しと貫一、宮が三つ巴になるシーンを観よ! 他没落士族と思しい「三流社会活動家」、ある種の人造人間であるゴーレムの登場等様々な敗者の残影、遊びも鏤められているのは無論のことだが、返す返すも更に奥深い普遍的統一性を持った論理を作品構造の根底に据えないと作品としての弱さは克服できないと考える。
また吉田松陰の「幽囚録」に述べられた膨張主義も混乱を極める現在の情勢を彷彿とさせるために多用されているのだと考えるが、このような膨張主義に何ら普遍性は無い、と自分は考える。無論、もっと別の道を考えてはいるが、今は内緒。
実演鑑賞
満足度★★★★★
今作は人間性を踏み躙るあらゆる政治体制に対する、弱く壊れやすい無数の人間達の苦悩の原点から為政に突き付けられた20世紀で最も優れた告発の代表作品の1つだ。
ネタバレBOX
「最後の手紙」一人芝居研究会 2022‣7.26 19時シアターX
ウクライナには、ベルディ-チゥと呼ばれるユダヤ人の多数住む街があった。作家・ワシリー・グロスマンはこの街で生まれた。彼は「人生と運命」という長編を書いているが、1941年独ソ線が開始されるとウクライナも独軍の占領を受けた。その被占領地に彼の母が居た。女医として仕事をしていた彼女だったが、ユダヤ人であった為、職を追われゲットーに閉じ込められ最期には強制収容所に送られて殺されてしまった。
その母が最期の日々を綴った手紙という体裁で書かれた『最後の手紙』と題された章が今回一人芝居研究会の志賀澤子さんによって演じられた今作である。ユダヤ人に対するホロコーストと差別・迫害の酷さについては皆さん既にご存知であろうから、ここでくどくど繰り返して説明することはしない。今回の作品発表に当たっては山下洋介さんの弟子筋に当たる方が、ショスタコーヴィッチのピアノソナタ2番をイメージしつつ、余り被りすぎないように独自に作曲し直しチェロの生演奏として伴奏を付けて下さった。主人公である母が置かれた苛酷な状況が孕んでいた時代の不協和音を見事に示し物語冒頭で演奏された曲想が終盤繰り返される際には観客にとって冒頭現代音楽の不協和音として機能したその曲のイマージュが、明日をも知れぬ迫害と死への恐怖に追い詰められたユダヤ民間人の不安そのものの表現として立ち現れてくる。志賀さんの演技も流石で厳しい状況の中でも品性を保ち知的に世相を観じながら振る舞う理知的な女性の姿は尊い。
ところで原著は大作で、その眼目はナチスドイツもスターリン体制下のソ連もその本質に大差が無いと観、それをグロスマンが「人生と運命」という作品に結実させていることにある。また1988年から91年に至るソ連崩壊により約80万人と謂われる旧ソ連圏在住ユダヤ人がパレスチナを占領し続けるイスラエルに移住しイスラエル国民となった。シオニズム国家はその為強度、IT技術の粋を尽くした更に悪辣な「国家」と化して現在に至っている。この姿は、正確に世界を観る人々の間での常識である。
実演鑑賞
満足度★★★★
ホリゾントは黒い大型のゴミ袋を連ねて幕とし、板上は完全フラット。但し暗幕センターを頂点とするかなり大きな正方形が床にテープで示されており、これが即ち演技空間である。上演時間約45分。実に誠実で律儀なこの女優さんの性格そのものが作品になったような作品で、良く鍛錬をしている点も好感を持ったが、
ネタバレBOX
幅と深み生々しさからくる味や、豊富な体験をベースにしたバリエーションに乏しい。肝心要は、矢張り生きること、ではなかろうか? 如何にストイックに生きるかより、生きるという行為そのものの生物学的・社会的凄まじさを更に知った方が良かろうと感じるのは、既に老年に達した自分からのアドバイスである。自分は自らの死を意識する年齢になって再び、人間は何処から来て、何処へゆくのか? 人間とは何か? を考えているがこの問いを問い続けることは、矢張り表現する者にとってとても大切だろうと考えている。因みにちょっと参考になりそうな人と本を紹介しておく。「生物はなぜ死ぬのか」小林武彦著 講談社現代新書(税抜き900円)。人としては例えば金子文子、彼女を描いた作品としては瀬戸内晴美「余白の春」
実演鑑賞
満足度★★★★★
若干、空席あり、華5つ☆ ベシミル!(追記7.2813時42分)
ネタバレBOX
明転すると、其処は両側壁、ホリゾント総ての壁面を隠すように堆く積まれた黒い大型ごみ袋の堆積。ヘリコプターの旋回音に被さるように直ぐ脇の高架を走り抜ける総武線の容赦ない轟音、如何にも無防備、無計画都市・東京といった趣だ。その塵の堆積のど真ん中で不可思議な音響に顫えるように徐々に伸びるゴミ袋はその上部のみ別の震えを示している。と、ぬっと現われる頭部。魯迅の「鋳剣」のように首が互いに噛みつく訳ではないし名刀の話でも、無い。寧ろシェイクスピアの「リア王」をある意味下敷きにした作品である。と同時に自分のような年寄りには今作初演の約10年前に起こった‟イエスの箱舟事件“がダブった。お父さんと娘たちの関係が観劇中ずっと千石イエスと支持者であった女性たちとの関係にダブって見えていたからである。
何れにせよ、日本の現在の体たらくの根底にある、明治期以降に限っても勝海舟への極めて意図的で不正確どころか歪曲を極めた体制側為政者の「批判」の内実は、卑怯、悪辣、無定見、無能を糊塗してきた歴史であり、それが貫徹された様がアカラサマに観て取れるからである。結果、現在あらゆる公共交通機関や自治体で垂れ流される単に実質騒音でしかないお節介がまかり通っており、首都東京の街創りにしても無定見がそのまま形になっている。その結果、我ら其処で暮らす住人のアイデンティティーはどうなったか? 頭部だけ出した人物が、己をアイデンティファイし得ぬ存在と化していることから明らかなように、自分が何者で何故ここにこうしているのか皆目分からない、という最早滑稽と呼ぶしかない破綻を齎しているが、そのことに気付く者すら殆ど居ない。
今作の眼目は、当に現代、この存在の根底を失った「国」に存在する総ての我々「日本人」の不如意の根に蟠踞する存在のアヤフヤを提示した。
と同時に自分の頭で考えることを放棄した大多数の我ら日本人の裸形をも。この提示の正しさは、物語の進行と共に無論更なる展開を見せる。
同時に、このような無定見の犠牲となった多くの女性達の魂の拠り所となっているパパと娘たちの観る苛烈だが異様に美しい夢、この塵の街区に、その総ての穢れを清めるが如くに降る雪への希代な夢の実現の美は、演劇ならではの美を実現して見事である。
さて、ここでもう少し分かりやすく今作の構造を自分の見立てとして示してみよう。物語の柱は、坂本弁護士一家失踪・殺害事件、先に挙げた千石イエス事件、また人間生活の証拠としての塵(これはあちこちに残る貝塚等をみても明らかだろう。異なるのは自然に戻る塵か否か、その内容の相違である)。
32年前に一般的であった黒い大型塵袋は、中身が不可視であることで様々な問題も生み出していた。収集に携わる人々が塵袋を収集する際、中に入っている硝子や串等で怪我を負うリスク、犯罪に関係したかもしれない器物・証拠等が塵として不可視の状態で廃棄されてしまう可能性等。こういった負の側面の齎すイマージュの所為もあって、優れた作品がその本質的イマージュによって時に未来をも予見してしまったようにF1人災によって多用され、管理の不備や簡単に予測できた不完全性から流失や破損等が大きな問題となったことは、読者の記憶にも残っているであろうフレコンバッグに重なるのである。無論、これらに共通する臭い物には蓋的な不可視化傾向に気付く人間達から見ても黒い大きな塵袋は、フレコンバッグに重なるのは必然だ。
ここで坂手氏の脚本の基本にある能にも触れておく。所謂世阿弥が大成したとされる複式夢幻能では、この世に無い者達と現世に在る者との対話・交感が可能である。第35回岸田戯曲賞受賞の今作に於いても坂手氏は既にこの根幹を作品に取り入れていると観る。その証拠にパパは、遺体の腐敗を防ぐ巨大な冷蔵庫を普段の棲家としているのであり、それが置かれているのは都会の何処とも確定されないが何処かであることは間違いない片隅なのであり、一部は、合法的に塵収集が公的に担われるエリア、他の殆どの場所は違法に捨てられた塵の集積地に過ぎない「異空間」であることに注意したい。パパの寝ている冷蔵庫は違法塵の山で覆われ通常は不可視であるが、集会の際だけ娘たちと僕(しもべ)・タドコロの前に現れる。ところで塵が塵になるのは、ヒトから塵と判断されるからであって不要・無用とイコールでは無い。要・不要の境界が曖昧なのである。而も登場人物達も殆どが死者、生ある者、それを繋ぐ複式夢幻能の齎す重ね合わせの世界に属している。これは量子物理学にも繋がる世界観であろう。掛かるが故に今作はラストで春の雪が降るのである。而も深読みすれば、また優れた作品の齎す予知によってF1人災をも予知していたとするなら、F1人災を通して改めて想起された被ばく問題を通し、この雪は雪のようにも見える死の灰と解することさえ可能であろう。我らの生きる現在は、このように我々自身が作った破滅原因の上を漂っているのではあるまいか? 少しホントのことを謂うならば、我らヒトは既に自ら滅亡を強く望む程、既に狂っているのかも知れない。その証拠に現在起こっている第3次世界大戦の危機、温暖化、生物多様性の破壊、放射性物質の拡散、自然によっては分解し切れないプラ塵等の環境破壊は総て我らヒトの齎した人災であるにも関わらず、人類の多くはその対処を真剣に考えてはいないことを挙げることができる。
実演鑑賞
満足度★★★★
板上はホリゾント近くの中央にベンチ。その直ぐ上手に床屋のサインポール。どういう訳か、ベンチの下、真ん中辺りにホームベースが在って違和感を醸し出している。
明転すると野球のユニフォームのような衣装を着た男が正面を向いて腰掛けている。男の横にはラジカセ、腰には黒く小さな小物入れを付けている。出捌け導線は上手客席側の通路と併用。
ネタバレBOX
当パンを拝見すると大きな声を出すおつむのよろしくない者達が、世の中を仕切り仕切られている者達も大声で仕切る愚か者も真実を求める者の価値が見えず、掛かるが故に真実を追う者を馬鹿にする。というようなことが書いてあり、そのメゲルような状況の中で大抵の人は愚行に走り、いつしかその愚かさに気付いて成長してゆくのではないか? との視座が提示される。だが、大声で何かを偉そうに謂う者達の声に基本的に真剣に相手をしても始まるまい。言葉は静かに聞き取り得る限りの声で語られるのが理想だ。大抵大声を発する者達の発言自体が、内容の貧しさを隠す為であることを知る必要があろう。
ところでベンチシリーズvol.1は別役さんの「いかけしごむ」であった。Vol.1の面白さは、例えばフランス語のabsurdeに「馬鹿げた」、或は「不合理な」という元々分かり易い訳語を当てるより漢語の難しい「不条理」という訳語を当てたがる滑稽に掉さしているような点に在るのかも知れない。別役さんの作品創りはそもそもこのように現実の持つバカバカしさを極めて鋭く独特の論理で批判解体した上で自分の思考・創造の過程でメタ化した台詞の面白さにあると言えよう。「いかけしごむ」には、製作者の論理的な思考があり、その思考や証言に矛盾が無いにも拘わらず、発想の突飛故論理的整合性や発明者の言動を信じることができない男の追及がある。即ち常識とされる在りきたりの発想しか出来ない者にとってこの発明者の言動は単に容認できない言動に過ぎない。観客は、そこで起きる事象を観ることによってこれら諸関係の在り様を正確に捉えることができ、このケッタイな発明と常識がぶつかり合った結果を知るのである。シナリオはそのように書かれていたと考えられるから、其処にセンチメンタリズム等が入り込む余地は無い。入り込めるのは、関係性を俯瞰した時にしみじみ見えてくるペーソスまでだろう。
話題は少々飛ぶが川柳にこんな作品がある。‟あきらめましょうと どうあきらめた あきらめきれぬとあきらめた“ このようなメンタリティーは庶民の実感に極めて近く同時に多くの類音を用い、やんわり情に訴えることで成立していて、別役作品のようなドライなタッチとは質的に異なる。それゆえにcreativityでは劣るもののシンパシーを感じやすい作品として成立しているのだと言えよう。
それに対して今回のvol.2は、台詞が余りに生であるように思う。或る意味素直な応答なのだが、捻りが無い。つまり作品の作り方としてベタな感じがするのを否めない。別の言い方をすれば人間の情や生きるということへの執着を何とかアウフヘーベンしようとするもののそれを実現する為の明確なヴィジョンも方法的な論理構築も未だ根拠を持てずにいるようだ。その原因として考えられるのは、我ら人間の位置が確定できていないことだろう。例えば地球という環境の中に存在するウィルスから総ての動植物に至る生態系の何処にどのように存在しているのが人間なのか? を考えてみるのも良いかも知れない。
実演鑑賞
満足度★★★★
星5つを付ける人が多かろう。ただ、自分がそうしなかったのは、自分の感覚では、待合室のデザインが余りにモダンで生命の誕生という生理的現象にはそぐわない気がしたためで、現在では現実にこのようにモダンな施設があるのかも知れないが、この点だけは感覚がついてゆかなかった為だ。(自分は産婆さんに取り上げて頂いている世代ということもあるかもしれない)華4つ☆
ネタバレBOX
2つの作品に共通であろう大道具。板の形から若干変わった形である。上手側の板は観客側に迫り出し而も側壁の反対側は、観客席側がより短く、つまり斜めになるように断たれている。下手奥には円筒を薪割りで真半分に断ったような構造物が側壁に対して斜めに置かれ、これが袖になって下手の出捌け。尚その円周部分には窓のような四角が数個ある。同じ形の構造物が上手にも置かれているが、こちらはホリゾントに対して平行に置かれ上手奥の出捌けとしても用いられる。尚奥は階上の病室に通じる設定である。上手円筒形の手前には正方形スツールが並んで2つ据えてある。他に同様のスツールは客席側下手側壁にピッタリつけて置かれ、上手の客席へ延びた側壁にもピタリ付けて置かれている。上手側壁スツール脇に狭い黒幕を設け出捌け口を隠してあり、奥は陣痛室及び分娩室が在る設定で、待合室と施療室の間には防音用の厚い扉がある。また、下手から丁度板中心辺りに長椅子が間隔を空けて役者陣の姿が観客に良く見えるよう斜めに1つずつ置かれている。全体の色調は淡い。拝見したのは2作品のうち(迎える人々)。産婦人科の待合室という設定である。
登場する人々は以下。陣痛に襲われるも出産がやや遅れた初産妊婦、スーパー助産婦、その夫、研修医、看護士、母の葬儀の日に子供の出産が重なった間もなく父になる夫、もう直ぐ双子分娩の20歳妊婦のバンドをやっている夫、大学の2年先輩だ。20歳妊婦の父。シングルマザーに成ろうとしている女性の親友、シングルマザーに為る道を選んだ妊婦の幼馴染で彼女に恋する若者。シングルで産むなんてと喧嘩している姉。上演中故、ネタバレはここ迄にしておくが、随所にお産の大変さ、母になる女性達の不安な心理や決意・覚悟、出産に関わる人々の優しさや技術研鑽に賭ける人間性の尊さ、覚悟。愛する妻や娘の命懸けの出産に何もしてやれない男達の、それでも必死に連帯しようと藻掻く滑稽な迄の哀れ、報われそうにない恋に挑む若者のチャレンジ、親族同士の葛藤、真の友人の有り難さ等がキチンと描かれ胸を撃つ。
無論、分娩間近の妊婦は1人も登場しないが、登場する陣痛の間隔が徐々に早まってくる妊婦の様子と他の登場人物達の言動によって分娩に向かい合っている妊婦の状況がリアルに伝わる仕組みになっている。
実演鑑賞
満足度★★★★
華4つ☆
ネタバレBOX
何でも六星占いに大殺界と謂われる時期があるそうで3年間続くのだとか、各人の大殺界は生年月日で知ることができるという。今作は、マスター・松坂を含め某スナックに集まる人全員がその大殺界に在る人々の群像劇だが、このおどろおどろしい名の占星術用語が齎す不吉なイマージュを梃にネット小説家デビューを目指す柴田が、その小説のネタ探しにこのスナックを利用し、客達のゴシップをネタに小説として面白く仕立て上げようと奮闘することが主筋となって、このスナックの近所にある会社の社内恋愛、不倫関係、親友の彼を奪い合う三角関係のもつれが引き起こす嫉妬やバレルことを恐れた駆け引き、徐々に明らかになる深層と真相を含めた悲喜交々が描かれる。
ところで普段はテンで駄目な柴田が、アルコールが入れば天下無敵となって顧客のプライバシーも何のその! 唯、小説を面白くしたいという念だけから、あちらに火をつけ、こちらを煽りの「大活躍」。
この大騒動に更にサブストリームが貫入してくるのであるが、こちらは男性3人。1人は25歳童貞の木佐貫、矢鱈死にたがるのは、木佐貫タッチと名付けた苛めを女子から受けてトラウマを抱え、女子を前にすると竦んでしまうからであった。仕事をしてもウダツが上がらず、この日は先輩の和田、課長の小谷野と飲みに来ていたのである。言わずもがなではあるが、この3人が先の登場人物達と絡み合いながら進展する物語に、天下無敵と化した柴田が要所、要所で小説を面白くする為に仕掛ける転轍が物語を更に奇天烈な方向へ向かわせる。
ネタバレはここ迄にしておくが、科学技術がここ迄生活に組み込まれた現代にあって大上段に構えて占星術の話を作っているのだから、無論、キチンと意味を詮索しても始まらない。寧ろ意味を無化する点にこそ、今作は力を注いでいる。その点で無邪気に笑って劇場を後にするのが良い作品でもある。因みに大殺界の後は種子だそうである。今作でもラストは、大殺界を抜けた人々が新たな種子の界に入ってゆくことで締め括られている。が、どんな種子界かは観てのお楽しみ! だ。ぴょん!!
実演鑑賞
満足度★★★★★
本日が2年に1度開催されてきたIDTFの最終日、クロージング・ガラである。今回のIDTFはシアターX創立30周年記念公演でもあったが、その幕である。演じられたのは予定の3演目+ヨネヤマママコさんの飛び入りパフォーマンス。
ネタバレBOX
頭を飾ったのはカナダから来日のジョスリーヌ・モンプティさん。タイトルは「MEMORIA」今作はジョスリーヌさんが今世紀初頭にカナダ及びイタリアで共演した舞踏家・高井富子さんの遺品である衣装を纏って踊られた。オープニングでは、この白い衣装を纏った彼女の後姿に長四角の照明が当たる。彼女はそのまま暫く全く動かない。極めて想像力を刺激するシーンで始まった。音響は静かめな曲でほの暗い空間に溶け込み、深い思索に引きずり込む。極めて繊細な動きと微妙な動きで体の向きを変えた彼女は衣装の前垂れの端を持ち、時に永遠や死と生の間を渡る風に載せた祈りの薄布に与える微動のように繊細極まる念動を表現する。静止は死を、微動は生がその念を死に伝え得る最小の動きとエネルギーを我ら観客に伝える。死と生の鬩ぎ合いが殆ど拮抗して力の頂点で顫えている状態を形象化し得た稀有な踊りであった。その余りの力量、抽象度の高さ、そして命の充溢に最高度の能表現に通じる表現域を感じた。
直接的には高井富子さんへのレクイエムでありながら、同時に深く普遍的な生命観を表現した作品だ。つまり生きる事即ち時々刻々死ぬことであり、時々刻々死ぬこと即ち生命の再生であるという生命活動そのものへの深い洞察が表現されていた。
次は仲野恵子さんの「魔羅ソンで届いた命」蝶を象った白っぽい衣装を纏い、背を客席に向けた状態で後頭部に艶やかな面を付けた踊り手が羽化したばかりの蝶の、外気に身体を初めて晒して起こす震えや戦きを微細な表現で示しながら板中央に座している。ホリゾント下手に登場した毛虫を象った衣装の仲野さんの踊りが開始される。毛虫の動きは活発で生命の躍動と伸長を押し出し、蝶の華麗な動きと対照的である。無論、この対称性にこそ仲野さんの主張が込められている。横溢する生命のヴァイタリティ―は他者を凌ごうと只管懸命であり、その懸命な有り様は時に可愛らしく、時に滑稽ですらあるが、生き抜こうとする命の叫ぶ姿は美しい。この毛虫のたゆまぬ動きと抑制された蝶の華麗な動きの対比も終わる時が来る。それは、美しく優雅な蝶がその翅を落とす時であり、成長した毛虫が羽化した蝶から子を産む母となり自らは瓦解してゆく姿、そして新たに誕生する命の姿が、元々の毛虫の色では無く新生の象徴としての白い衣装で表されている点に表象されている。
次に飛び入りで登場なさったのは、ヨネヤマママコさん。何でもシアターXのチーフプロデューサー・上田美佐子さんとの約束を果たしにいらしたとのことで、4年前に大病を患って後、1度退院したものの再発して御闘病のみぎり、最近では認知症も発症なさったとのことで、書いていらした文章をお読みに成りながらご挨拶なさった。フォローについていらしたお弟子さん共々、彼女の掴んだテーマ、生命の輪廻、生命を支え育んできた水の生々流転の様を踊られた。コンセプト自体はお弟子さんの演ずる舞踏と変わらず、各表現の開始・終了のタイミングが若干ずれるだけの見事な生き様表現に心を打たれた。ママコさんの方が客席に近い下手で踊られたので上手後方で踊るお弟子さんの動作は全く見えていないから、コンセプトにずれが無かったのは一目瞭然。而もその踊りの品格と威厳の背景を為す生き様の見事さはひしひしと観る者を圧倒し流石に一流の踊り手と唸らせた。
さてシンガリに控えしはダンサー・武井雷俊氏の「アマデウス」美しき魔笛の授業である。林正浩氏のピアノ、山本茉莉奈さんのフルート、歌唱はバリトン・大井哲也氏、テノール・寺尾貴裕氏。歌劇形式の実に楽しい催しものであった。板中央手前には切株に太陽や様々な文様をあしらったオブジェが数個、上手客席側に小机と椅子。机上にはインク壺や羽ペン、グラス等。グランドピアノは下手の板手前客席側との通路の一角に置かれ、その直ぐ上手にフルート奏者用の椅子と譜面台。無論フルート奏者は観客席側を向いて演奏している。
設定は、魔笛作曲中のモーツアルトが2022年7月10日の上演時刻にウイーンから両国・シアターXにタイムスリップしてしまい其処に居合わせたミュージシャン、歌手らとコラボを始めるというものだが、設定の余りのあっけらかんに皆引き込まれてしまった。無論。各演者の実力は高く、武井氏の高い身体能力から繰り出されるスピーディーでハイテンション、高いジャンプ力の生み出す空中での妙技やしなやかな身体の機敏で誇張された滑稽味などが視覚的な面白さを上手に提示すると同時に、台詞の掛け合いの面白さが見事なバランスをみせて、楽しいといか言いようのない舞台を見せてくれた。
終演後、恒例の三本締めの音頭を江戸伝統文化推進に尽力なさっていらっしゃる望月太左衛さんがとって第15回IDTFは幕を閉じた。
実演鑑賞
満足度★★★★★
IDTF2022 2022.7.9 14時半 シアターX
本日は4公演。
ネタバレBOX
頭を飾るのはひびきみかさん。此れ迄プロ競技ダンスチャンピオンから、大野一雄さん・慶人さんとの出会いを経て舞踏の道に入りシアターXのみならずアスベスト館、神楽坂die pratze、pit北/区域等でソロ公演を行ってきた。キューバ国立民族舞踊団でディプロマ取得、2018年からはオスロのグルソムへテン劇場の活動にも参加。作品タイトルは「Yo Viviré」(ダンス)は、今回のメインテーマを素直に表現した作品となった。
次に一色眞由美さん
1977年マーサ・グラハムコンテンポラリーダンススクールにに留学、ケイタケイさんらに学んだ。78年の帰国後も国内外での公演、指導に携わりミュージカルの振り付け等もこなす。近年は主としてソロ活動に取り組んでいる。今回の演目は「在 れ」(ダンス)である。テーマは、既にとうの昔に神を喪失した現代人である我々は、存在の無根拠性に遭遇し神を信じていた時代のような存在論の根拠を失っている。即ち根本的にアイデンティファイ出来ない状況に在る。その不如意の中で生きると言うことは即ち、我らは何処から来て、何処へ行くのか? 我ら・ヒトとは何か? という根源的問い掛けをし続けるということに他なるまい。その苦しく頼りない在り様の不如意の央から存在の根拠を求め願う、実存の寒さに顫え乍ら祈る行為にも似た、力強いダンス。
3作目は15分間に圧縮された金達寿「玄海灘」より。玄海灘を上演する会が上演、大作の訴えたかった本質をよくこれだけコンパクトに抽出したと感心させられた。それもそのハズ、演出は東京演劇アンサンブル代表の志賀澤子さん。差別の何たるかを朝鮮併合後、大日本帝国が採った皇民化政策によって日本人とされた朝鮮族差別は、その大義名分とは逆に被差別民であることを強いられ続けた史実であり、現在へも続く差別である。その本質を、その複雑さを含めて見事に浮彫にして見せた。(演劇)
トリを飾ったのがイスラエルから来日のダニエル・エドワルドソンさんとドール・フランクさんが共同制作したパフォーマンス。下着1枚で後ろ姿を晒す所から始まるパフォーマンスは「Clouds」と名付けられた作品だ。言語に成る前の音としてのアモルフな音声を音響効果として用いた点で、6月21日に演じられた「」(はく)に出演なさった赤い日ル女さんの唱法に似ている。ダニエルさんらは、ヘブライ語や英語の言語化される前の状態を多く用いた点で異なるにせよ。
タイトルを日本語に訳すと「雲」になるだろうが、アパルトヘイト国家イスラエルのアーティストが演じると、体の震えや言語以前の音声は、シオニストによって追放され、圧殺され、日々の圧政に苦しみ、土地、水、人間らしく生きる為の総てを奪われ、拷問に掛けられる多くのパレスチナ人の苦しみそのものに見えたのは、イスラエルの対パレスチナ人ジェノサイドの実態を知る者にとっては極めて自然な観方と謂えよう。彼らが表現したかった雲のイマージュがBaudelaireが「LE SPLEEN DE PARIS」冒頭の詩「L'Étranger」で表現したような意味を持たせたかったにしても、国家がやっている事実は誤魔化せないこともまた事実なのである。心あるアーティストにとって悲しむべきことではあり、また観る側の我々にとっても極めて残念なことであるが。
以下原文を載せておく。フランス語としては易しい詩だから一所懸命学べば半年もあれば充分読めよう。
L'Étranger
— Qui aimes-tu le mieux, homme énigmatique, dis ? ton père, ta mère, ta sœur ou ton frère ?
— Je n’ai ni père, ni mère, ni sœur, ni frère.
— Tes amis ?
— Vous vous servez là d’une parole dont le sens m’est resté jusqu’à ce jour inconnu.
— Ta patrie ?
— J’ignore sous quelle latitude elle est située.
— La beauté ?
— Je l’aimerais volontiers, déesse et immortelle.
— L’or ?
— Je le hais comme vous haïssez Dieu.
— Eh ! qu’aimes-tu donc, extraordinaire étranger ?
— J’aime les nuages… les nuages qui passent… là-bas… là-bas… les merveilleux nuages !
実演鑑賞
満足度★★★★★
つかが己の劇団責任者しての位置を宗介に被せ、戦国期から登場した歌舞く者、即ち名詞としては江戸の歌舞伎に連なった概念を、歌舞くを動詞として演劇作品に仕立てた作品と観た。この作家の精神を見事に汲み上げ,
つかの持っていた天才としての才能を今作の舞台表現の随所に鏤めた演出、この演出にキチンと応えた役者陣の殺陣を含めた演技に心から拍手を送る。 ベシミル!
ネタバレBOX
つかは基本的に脚本を残さないという姿勢で演劇に関わった人だった。遠慮のない口の利き方を先輩作家・劇作家に対してもしていた。その態度を彼が存命中、作品を観もせずに嫌っていた自分は、今作は今回初めて知った。彼の死後、つかと関わっていた方々とも知り合い彼の作品を観るようになって上演回数の多い作品は拝見してきたが今作はそれほど上演回数は多くない。だが、恐らく今作を深く理解している北区の北とぴあに関わっている人々の作家個人に対する付き合いや亡くなって以降の更なるつか及び彼の残した作品への追及への成果が今作に見事に現れている。作った側としてマダマダ未完成という想いはあろう。然し乍ら努力の成果はキチンと現れている。此れ迄の努力に応じ、考え得る高い完成度と単に上手いというレベルを超えて個々の役者陣のわざとらしさを感じさせず同時に観客の心を鷲掴みにした演技力の高さ、幅、深みに酔いしれることができた。感謝する。
実演鑑賞
満足度★★★★★
敗戦後12~14年後辺り迄を描いた今作。敗戦直後を描いた作品は数多いが、この時代を描いた作品はかなり少ないのではないかと思う。物語は朝鮮戦争特需で日本経済が持ち直した後、公害が騒がれ始めた1957年頃から1960年1月19日の安保条約改定直前迄の世相を若い新進作家夫婦を中心に様々な世代の生き方、考え方、各々の生活様態をゆるぎない筆致で脚本化した。厚みのある作品である。(追記7.19)華5つ☆
ネタバレBOX
新進作家自体が面白い。某著名作家・菅原のゴーストライターをやっている。というのもこの作家・多々良聡一が住む家は不思議な家で亡くなった先代が徳のある人で自分の子と戦災孤児たちを兄弟姉妹同様に育てた関係で先代亡き後も長女が大家となって血の繋がらない妹たちも2階に住まわせるなどして何くれとなく面倒を観て居たのである。多々良も一種の居候であった。その多々良の書斎に2階に住む秋子の経営する店で働く小春が酔って押し掛けてきた。水商売をやっているとはいえ、純でひたむきな所のある小春に多々良は惹かれてゆき、遂に結婚するに至る。この間、多くの戦友を意味も無い戦争でむざむざ殺され生き残った漢気の強い元伍長は、安保改定に反対であり、元部下と共に叛旗を翻そうと動いているようでもあった。
一方、大家の実妹は、戦後一時吉原に身を沈めていた。恋人がピカの後遺症を気にして失踪してしまったのが原因だった。偶々自分の元の家の近所を通った彼女を見掛けたとの知らせもあり、住人挙って妹を探し見つけ出すことができた。「自分は汚れてしまった。もう戻れない」と嘆く妹に姉は、「あんたは、生き抜いたんだ」と励ましそれが最も尊いことだと諭す。この優しさが素晴らしい。これらのサブストリームが時代の暗部をキチンと照らし出し作品を重層化すると同時に多々良の広島の厳しい叔母が小春の人定に上京するという。多々良の部屋は何時でも誰かが屯するような部屋であったが、皆オメデタの為に、遠慮すべき所は遠慮し手助けすべき所は助けて、何より小春自身の気立ての良さ、裏表の無さ等をキチンと評価した叔母は2人の結婚を許した。然し、多々良が粗筋を書き菅原が完成させた小説が大きな賞を獲った。多々良自身の実力が証明されこれから愈々新進作家として活躍、という段になって多々良の若年性認知症が発症した。若い分、進行が早く多々良は、小春の名さえ思い浮かばなくなることがあった。そんな中、彼は最後の小説を仕上げに掛かる。原稿と向き合っている時ばかりは、認知症の症状が不思議と出ない。小春は傍らにいつも寄り添い、夫の傍らでなにくれとなく世話をし、話相手になっている。小説に描かれた畳屋の所帯の前には、この住いと同じあけびの木がある。