下山 ~親鸞の覚悟~ 公演情報 文化芸術教育支援センター「下山 ~親鸞の覚悟~」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     先ずは、虚心坦懐に見るベシ!

    ネタバレBOX

     板上はその前後中央を下手から上手まで通る平台。この平台の中央から迫り出した一段低いほぼ矩形の平台を手前に置きここから中央の平台の奥に重ねてそのセンターに一段、幅の狭い平台を置く。最上段の高所を左右から挟むように鳥居のような木製構造物。各々の柱の内側には黒幕、ホリゾントは紗のような薄い幕で覆われており、この紗幕がスクリーンとして用いられる。基本的に中央平台の奥、上手・下手が生演奏者のスペースであるが、楽器を持って移動しながらの演奏や弾き語りもあり、これらの演奏の素晴らしさ、映像の用い方の上手さは一度体験しておきたい。殊に生演奏では、和太鼓、小鼓、鉦、篠笛、津軽三味線、ヴァイオリン、洋式パーカッション、琴に似た形状だが自分には名称の分からない筝の一種であろう楽器(ギターのように斜め横に抱えて演奏)等々を奏する演奏者陣。尚、出捌けは上手・下手各2カ所、都合4カ所。
     全体として、若い主人公(達)を歌舞伎俳優、ベテランが上手に盛り立て、若手の役者は、内側に力の籠った演技で奮闘している。この辺りのキャスティング・演出もグー。法然役は歌舞伎役者の市村家橘さんが演ずるが、流石の品を感じさせる。
     物語は、オープニングで法然や慈円(親鸞の剃髪をした後の天台座主)、親鸞の生きた時代背景を活写する所から始まるが、この際、平家物語の冒頭が筝の弾き語りで演じられ、この場面では身の顫えを覚えた。また、この場面では同時に平家の落人武者、山賊や、叡山に居るものの経も読めない僧、常に収奪の対象となる貧しい民、今は体を開くしかなくなった元白拍子等々が現れて、末法の世界を視覚化している。
     親鸞は9歳で慈円の下に赴き剃髪したが、この時詠んだ歌を聴いて慈円がこの子は病んでいる。(無論、心を。現代流に言えば深いトラウマを抱えていた)ことを見抜くのは流石である。法然と慈円との関係も天台絡みであり、無論親鸞も慈円を経由し延暦寺で29歳迄修行して後下山することになった訳だが、この三者の因縁も無論仏縁と解釈することができよう。これらエリート僧たちと対比されて京の都の荒れ果てた様が挿入されたり、里での民衆の苦労や盗賊・山賊らの危険が対比されつつ描かれていることで、作品はいやが上にも厚みを持つ。この間親鸞は、殺生を禁じる仏法の為肉や魚も食えず、戒律の為女人を禁じられる兄弟子、同輩らと厳しい修行に耐えながらも煩悩の頸城から逃れ得ぬ己を責め苛む。この聡明極まるが故に理知的に煩悩を越えようとする方法に根本的な疑義を抱いたのが法然と親鸞であったということであろう。そして慈円には彼らを理解し赦す度量があった。無論、親鸞の兄弟子や同輩にも親鸞同様の悩みを抱える者達があった訳だが、この結末は終盤で表現される。
     ところで親鸞自身は、どうしても理論で煩悩を脱することが出来なかった。解脱の切っ掛けは、女人禁制の延暦寺に命の危険も顧みずやってきた女人に対峙した際、彼女が女性であることで無意識に不浄の者と下げすんだことであった。彼女は問い掛けた。「お母さまはいらっしゃいますか?」 と。最終的な答えは無論‟母から生まれた“である。女性は更に問うた。「お母さまは女性です、女性が不浄ならば、あなたは不浄から生まれたのですか?」と。親鸞は答えられなかった。これが親鸞が覚醒する切っ掛けとなった事件である。後は観てのお楽しみだが、今作、史実に基づいて書かれているという。随所に現れる仮借ない人の世の有様は、史実の持つリアリティーであることを肝に銘じたい。

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    2022/08/19 12:16

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  • 皆さま
     駆け足で書いたので誤字があり、直しました。
    ご笑覧下さい。
              ハンダラ 拝

    2022/08/19 12:55

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