実演鑑賞
満足度★★★★
今作は実際に起こった事件をベースに書かれた。事件は井上陽水の「氷の世界」が流行った頃起きた。大学助教授による教え子殺人事件の舞台化である。痴情のもつれ、そう言ってしまえばそれだけの事件である。然し犯人はインテリ、名の知れた大学の助教授であり犯人が罪を認めてから被害者の遺体が発見されるまでに7か月以上を要した点は極めて特異である。このように解明に時間が掛かったのには、無論理由がある。
ネタバレBOX
その理由とは錯綜化である。犯行を犯したのは芥川も激賞した「The turn of the screw」を書いたHenry Jamesの研究者・大迫だが、事件を起こした年、彼がゼミで使った教本はStevensonの「Strange case of Dr Jekyll and Mr Hyde」という設定になっている。この設定が起こった事件通りなのか或いは創作であるのかという点迄自分は調べなかったので不明であるが作品化するに当たっての常套手段ではある。閑話休題、本題に入ろう。
今作の錯綜は作家が事件を起こした犯人よりも周囲の人間を描くことに重点を置いて書いていることが無論その契機となってはいる。然し日本の研究者の一般的な在り様というか体質が関係していると解釈したのが自分の観方である。先にも述べたように事件自体は何処にでも転がっている痴情のもつれに過ぎない。特殊なのは周囲の対応なのである。自分はこのような特殊性に着目したという訳だ。研究者になる過程で修士課程、博士課程を経て多くの研究者はその道の専門家となるが、修士論文、博士論文を提出しなければ過程を終了したことにはならない。そして論文が通るか否かは査読で決まる。当然の事ながら指導教授を含め幾人かの先達が書かれた論文を読み判断をする訳であるが、論文提出者の今後の為に先達はサジェッションもするのが通例だ。そして研究者として生きて行く為に必要な最低限のことは、論文に記されていることに客観性があるか? ということである。無論他者の論文を真似たり、データを盗用するなどはもっての外、判明すれば忽ち落とされる。こういった事情もあるので兎に角、自らの視座で集めたデータを用いて客観化するという手法は謂わば研究者たる者の宿命と言えるかもしれない。それで大迫の犯行自認後も中々事件の解決への端緒が開かれなかった。而も航空機ハイジャック事件等もあった時代であるから成り行き次第で学生たちが大学を占拠して大学サイドの「倫理的腐敗や隠蔽」として問題化することも警戒せねばならなかった。周囲の者たちが置かれた状況はかようなものであった。だが被害者の遺体が発見されるのが極めて遅くなった理由は、矢張り大迫の個人的な心理的傾向に原因があったと思われる。この大迫の心理を心理学的に解いてゆく展開であったら、自分にはより面白い作品になったと思えるが、犯人そのものが犯罪を犯すに至り、事件の未解決化を図った心理的闇が抉られ描かれなかった点が自分には表層的に思えた。
実演鑑賞
満足度★★★★★
華5つ☆見入り、聴き入った。
ネタバレBOX
カンタはスペインから来た本場の歌い手。踊りは日本のフラメンコでこれだけ質の高い作品を見せることができるのはArte y Soleraだけではないかと思わせる踊り手たち。しょっぱな、照明は昏めで恰も洞窟内で歌い、踊るジプシーの様な雰囲気で始まる。往時にはスペイン伊達そのものであったであろう初老の男性ダンサーの踊りでいきなり惹きつけ、次には♂vs♀の掛け値なしの争闘。ジプシー女性の激しい叩きつけるような野生のエネルギーをそのステップ、四肢の躍動に急止、舞いつつ用いる優雅な手指の動きや回転の妙で存分に表現。急止した時の勝ち誇ったようなポーズに秘められているであろう女性故の哀しさや流離う宿命から公教育を受ける機会が殆ど無いことから文盲も多く貧しさに苛まれる女性たちの意地が表現されているように思う。腰の曲がった老婆が男性に合わせるシーンもあり当に老若男女入り乱れての男対女のぶつかり合い。見事である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
鉄道に夢中になる友人は子供の頃周りにかなり居た。然し自分には余り興味が持てず縁遠いままであった。唯一鉄道関係で縁があったのはHIゲージ上を走る鉄道模型(山林列車の牽引車と貨物車)であり、小学校時代から始めていた縦走の為に長野方面へ向かう鉄道であった。それだけに今作に描かれた運行する側の人々の労働の苛酷、苛烈は、ショックを受けるに充分過ぎる程のインパクトがあり、鉄道に夢中になっていた子供の頃の友人たちも或いはこのような苦労を既に話に聴いて居た為かも知れないと思い返していた。(追記後送)
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイトルのヘスティアは、今作に登場するVチューバーの名前である。(追記後送)
ネタバレBOX
物語は現代日本で暮らす日本人という可成り特殊な生き方に固定されたまま相変わらず受け身で生きて行く術しか持たぬ多くの人々が抱える日常を、正(まさ)しく現代日本の哀しいカリカチュアとして生々しく描いた作品と観た。
実演鑑賞
満足度★★★★★
脚本は先ず擽りから入ってくる。自分は他の人々の多くが笑うシーンを大抵面白いと思わない。ほんとに偶に一緒に笑えるだけである。ところが今作の擽りに関してはその擽りの95%位まで素直に笑うことができた。その原因の1つが登場人物のキャラ設定の非尋常性にある。先ず、このことから笑いに必要な脱臼が巧みに埋め込まれていることが分かる。(追記後送)
ネタバレBOX
物語は次に謎を提起する。そして次に逃げ場無しの深刻な内容へ怒涛の如くなだれ落ちてゆく。
そして終盤は
実演鑑賞
満足度★★★★
全く頭を使わず仕事帰りに楽しむことができる。
ネタバレBOX
高校時代科学部の活動と十数年後の現在がクロスしつつ展開する物語。発想も実際に良くあるペットボトルを使って何か有用な物を作るとエコロジー絡み。ロケットを作るのだが、これを全国大会に出し優勝したメンバーたちのその後が入れ子細工で展開する。ロケットがミサイルと実質的に極めて近いことは科学少年・少女でちょっと気の利く子なら小学生でも直ぐ気付く。そこに全国模試2位の秀才が絡み部員同士の恋愛感情が絡んで思春期部活のあれこれが観客にも想起される、と同時にかつての同級生が結婚して数年しか経たないのに中三の娘がおり、思春期の反抗が少し複雑なかつての同級生の家庭の有様を薬味として添える等である。
こういったありきたりの状況に荒唐無稽な政治やスキャンダラスなその手法が絡み、マスメメディアが絡んで最終場面ではドンデンもある。
実演鑑賞
満足度★★★★★
評価ポイントが少し低いのは、日本人観客の多くが背景を理解できないからだろう。観る側の世界に対するアンテナ張りを意識させる作品である。(追記後送)
ネタバレBOX
板中央にはテーブル、クロスは白。テーブル短辺各々に木製椅子。客席は対向した位置に各々作られている。センターのテーブルを挟むように部屋の短辺の片側には隅に女の子の人形が置かれた黒いベンチ、ベンチの手前に木製の椅子。反対側には棚、棚には珈琲を飲む為のポット、カップ、ソーサー等々の茶道具、本、食品缶詰等。棚の脇に食品クーラー等。更にその隣には電話台に載せられた電話。
ストーリーが開始される前には黒服を着た男と白いワンピースを着た女が部屋が上演開始時に必要とする板の結界をテープを貼って示すとか、備品のレイアウトを完了したり、テーブルにクロスを掛ける等の作業をしており、作業終了後は直ぐ捌ける。(実はこの2人がK家の使用人と解される存在である)
実演鑑賞
満足度★★★★
A班を拝見、
ネタバレBOX
初日ということもあった為か、音響と台詞のバランスが適切でないシーンが結構あり、台詞が聞き取れないシーンが多々あった。音楽劇と銘打っているだけあって歌を歌う役者陣の声は中々良いがマイクの使い方は習熟度が足りないのか或いは初日で緊張したのか? 途中から良くなったので後者であろうが、ちょっと残念であった。リハをしっかりやって板の上に立って欲しい。
また、ファーストシーンで石炭を掘るシーンが出てくるが、ここにカンテラを下げて灯りを持ってくる役目の女性が出ていたが、ホントに夕張ではこんなことに女性が関わっていたのか? 疑問に思った。自分の読んだ本で九州の炭鉱の切り羽では、男が鶴嘴等で石炭を掘り起こし(サキヤマ)女は切り出し掘り出された石炭を男の後ろに居て籠などに集め坑道で用いられていたトロッコに載せる作業をしていた(アトヤマ)。炭塵爆発等の事故があれば無論死の危険がある中、地下の坑道での作業は単に肉体的にキツイばかりではなく、暑さと命の危険にも日常的に対峙する環境であり、一緒に作業をする者達は夫婦も多かったが妻帯者が別の妻帯者と組むことや、妻帯者が未婚の者と組むことも珍しくなかった為、この苛酷な状況で一緒に仕事をする間に男女の仲になり山から脱走するケースも可成りあった。無論、切り羽の作業では女性も半裸で作業していたから、猶更であったことは想像に難くはない。こんな状況をも実際に炭鉱夫をしていた山本作兵衛さんが描いた有名な絵から了解を取って借用し背景に映すなどの効果を狙っても良かったハズだ。そうすれば晃と志津香の関係もぐっと深いものに見えたに違いない。
1926年といえば昭和元年でもある。最も極端に短い元年ではあったが。物語はほぼ時系列で展開し描かれる場面は殆どが大正時代である。登場人物たちを襲う様々な事件や事故、戦争や災害などについて深い掘り下げがある訳でもなければ人間関係のゴタゴタや先に挙げた様々な事柄によって変化する心理や人間関係の機微についての掘り下げも浅い為、観客の心と魂を深く揺さぶるような対立を言語化した台詞よりも、ゴフマン流のドラマツルギー理論を援用したような創りになっているので余り心と魂に響かない。ルシファーと契約して格段に腕を上げたとされるブルースと呼ばれる男が時折吐く台詞には中々穿ったものが多いが、また崔の歌う歌詞には彼の在日としての苦悩が偲ばれる言葉が多いが、他の出演者は、この作品が展開する居酒屋食堂「八尋」の店主の立ち居振る舞いに深い人間性を感じさせる他は、晃を除き殆どの登場人物がありきたりのドラマツルギーに従って演技しているように思われた。
実演鑑賞
満足度★★★★★
華5つ☆、タイゼツベシミル!! 全容は敢えて書いていない。実見して素晴らしさを確認して欲しい。
ネタバレBOX
物語が主として展開する板は高めの平台を置いた奥に作られており、下手壁手前にTVや障害1級の末っ子・啓太の遊び道具やリモコン等が置かれている。板中ほどにはソファ、上手の壁前には本などが入った棚他、その客席側に部屋に通じる入口がありここが出捌けにも用いられる。ホリゾント手前は他の部屋へ通じる通路になっており、ここがもう1か所の出捌けである。この部屋は劇団牛後(ウシコウ)座長・伊原文雄の部屋でもあり、劇団の練習場でもあるばかりでなく家族全員の共有スペースでもある。
物語は、タイトルに凝縮されているように憧憬に纏わるものであり、座長の亡き妻の最後に関わるものでもある。因みに亡き妻の位牌は別の部屋にあるので出入りする者達が劇中何度も手を合わせにいったりする。
オープニングシーンは文雄がTV番組見ていた処へ啓太が入って来て「消さないでね」と何度も繰り返す父の気持ちを知ってか知らずか‟アンパンマン“の画面に切り替えるシーンで始まる。座長役は剣持さんで実に上手い俳優さんなのでご存じの方も多かろう。啓太役は河津未来さん、初めてお目にかかる役者さんだが上手い。このシーンでアンパンマンのTV映像では首を挿げ替えるシーンが出ていたのを啓太が真似てお父さんの首を挿げ替えようとするが「それは出来ないよ」と言われるとアンパンマンのほっぺを千切るシーンを啓太はお父さんにするのだ。お父さんは、脂汗を拭って啓太のほっぺに「おいしい脂汗ですよ」と笑いつつなすりつける。この間啓太は無論ご機嫌だ。キーッと倍音を発し機嫌の良いことを示している。
脚本も素晴らしいが、役者陣の演技が凄い。その脚本を身体に溶け込ませてでもいるかのように時に沁み出させまた溢れさせるのみならず、状況によっては箍を外す。或いは関係に距離を置く。最初に述べたようにこの空間自体が極めて親密な人間関係を結ぶ場であり、登場人物総てが家族・劇団員・及びその何れかの配偶者等関りの深い者ばかりである。このような濃い人間関係では問題は厄介になり易い。それはそうだろう。蒸発するとかでもしない限り深い縁は中々断ち切れるものではないからだ。今作は、そのような逃げ場のない人間関係の中で起こる諸問題の幾つかを、それを抱え込んで対立する大人同士は兎も角、育つ中での位置、例えば長男、長女である、次女や三女である等で同一問題であっても状況との出会い方は全く異なる。またその時置かれた状況次第でも事情は大きく変わるし、年齢によっても受け止め方は全く違う。同じことに同じ場所で出会っても出会い方は全く違うのが普通である。そしてこのような事情が時にはトラウマとして機能してしまうこともある。そればかりではない。社会の中ではそういった個人的事情は一切顧慮されないのは普通のことである。このような状況で多くのヒトが生き、誰の助けを求めることもできずに消えて行く。これが掃いて捨てる程もある一般的人生という形であろう。
然し乍ら、濃い人間関係であれば、上記のような状態であっても、それらを的確に腑分けし、判断する者が存在するケースがある。だからこそ、より微妙な問題として気付いた者も気付かれた者も互いに口には出さず、そのことがかえって問題をこじらせる場合もある。そのような各登場人物の心理の綾迄が見事に観客に伝わってくるような優れた演技を役者陣はしている。これはもう、演技というより当に役を生きている実例と言いたい。脚本家が演出も兼ねているが、脚本、演出、演技は以上で紹介して如く素晴らしい。無論、舞台美術、照明、音響何れも今作同様いい出来である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツベシミル!! 華5つ☆。条理を全うしたが故に不条理と化した物語。不条理劇の快作・傑作、白眉。初演から19年の歳月を掛け、即興、試行錯誤を重ね改稿を重ね纏められた今作。脚本の素晴らしさは出版社に出版させたい程の出来である。
ネタバレBOX
舞台美術は随分工夫の行き届いている点で驚かされる。というのもこの狭いスペースでよくぞこれだけの意味をその舞台美術だけで具現しているか! について驚嘆させられる程のものだからである。例えば舞台手前の上手には遺失物管理所入口と書かれ、看板下部に右下がりの矢印を添えた地下という文字が読み取れるが、舞台正面に見えるのはその地下にある遺失物保管所であり、地下へ通じる階段は、案内板の据えられたコーナーの対角線上に設置されている。これは単にスペースが狭い故の工夫というより寧ろエッシャーの絵のように不思議な空間を現わしていると解した方がしっくりくる。また、看板のちょっと奥には手前の椅子がより高い、高さの異なる丸椅子が置かれているが、何故高低差があるのか? これは観てのお楽しみだ。無論、この他に出捌けの際に袖となるよう然るべき位置に衝立も立てられている。下手側壁近くには衝立がほぼ‟」“状に置かれその向こうに小さな呼び出しベルを載せた、ベルのサイズに不似合いな大きな台が置かれている。件の階段は、この奥の側壁から延びてこの地下保管室へ通じている訳だ。舞台中央には黒幕に遺失物の沢山入った像が映った保管棚が極端に誇張された遠近法を用いて表現されており、如何にも遺失物管理室という奥行きのある雰囲気を濃厚に漂わせる。ホリゾント部分にも黒い暗幕が掛かっているが、これもそれだけに終わらない仕掛けだ。
さて、物語の本題に入ろう。演劇の常道として最初の何分かのシーンで作品の本質を示すシーンが入っているのも近年の小劇場演劇としては珍しく新鮮である。極めて本質的でありながら、言葉遊びの現象学的展開、乃至は遊戯としての人間性の本質、或いは探偵モノの質疑応答と解しても良さそうな知的遊戯とも解せる対話群が嫌が上にも興味をそそる。ここを尋ねてきた男と保管室管理人との質疑応答のシーンであるが、この問答で今作の主題が余すところなく提示されているのだ。(その内容詳細に就いては観劇して欲しいが存在 être(一例を挙げればSartreのL'Être et le Néantに於けるêtre )に関わる根源的な疑義についての問答である。この問答は一般の方々には珍妙に映るかも知れないが極めて論理的で緻密な論を、記憶を喪失しているとされる保管室管理人が展開するので、哲学に興味のある人々はわくわくするに違いない。
もっとも哲学などと構えるまでも無く、誰しも1度は抱えたに違いない以下の自問、ヒトは何処から来て何処へ行くのか? 人間とは何か? という問いに答えを出せぬと諦めた大多数の人々にあからさまに関わる大問題の根底が論議されていることは、このオープニングを観ただけで直ぐに分かる。擽りも随所に的確に置かれていることは、この台詞群が多様な解釈を許す点にも表れていよう。演出、演技(主人公の記憶喪失を患う男を始め、ボランティアとして男を手伝う若い娘、刃物を預けた女、最初に現れ害虫扱いされる男、この地域の名家の子息でエリート、磁石を預けた女、古物商、そして今作で唯一ある種の客観性を提示する男。これらの人物がどのように絡み、どのような人間関係にあるのか? そしてそうなる経緯は? を観劇中に探ることで一種のサスペンスとして楽しむことさえ可能であろう。余談ではあるが、物と語り合うことのできる記憶喪失の男は、登場するエリートの父であるが作品に直接登場することは無い。但し記憶喪失した彼が職を得たのはこの名士の命を救い、その恩返しをしたいと名士が彼に職を世話したということは物語中で示される。更に蛇足ではあるが、これらの登場人物1人1人のうち誰一人欠けてもこの劇の滋味は落ちるだろう。各々の役者が良い演技を自然体でしている証拠である。照明や音響も秀逸。
因みに後半の公演日は少し間が空き10.11~10.14まで。
実演鑑賞
満足度★★★★
板状、基本的には素舞台。滑車付きの障子数枚を場面、場面で移動。衝立、間仕切り、袖、或いは裏に書かれた文字、写真を用いて必要に応じたインフォメーション掲示板として用いる。この辺りの演出はグー。然し脚本は劇作家の勉強不足が出てしまった。演技は悪くない。
ネタバレBOX
基本的に内容は敗戦後のどさくさから東京タワーが建設された(1958)頃迄。場面によって主人公らの従軍時代が回想シーンとして描かれる。面白いのが、今作で奇妙な仕事をやる登場人物2人の仕事に纏わる最初のシーンで彼らの仕事が新聞広告に載り、その内容が障子裏に書かれた文字として表現されている点だ。曰く‟命販賣致し〼“。売るは旧字でますは〼で示されているのが実に良い。
自分が勉強不足と指摘したのは、戦中、戦後の描写が余りに表層的と見えたからだ。オープニング早々の模様は障子に張られた写真を移動させつつ見せる内容で所謂『玉音放送』の一端も流されるが敗戦直後の都市部の飢えは極めて深刻で餓死者も多く出た。戦中の方が未だマシなくらいであった。その訳は、戦中は曲がりなりにも配給制度が機能していたせいで極めて粗末とはいえ一般庶民も糊口を凌ぐことができたからであるが、敗戦後はこれも崩れ、敗戦で価値の殆ど無くなった日本通過はハイパーインフレを起した為、生き残る為に人々の多くは家宝を農家に売り食物を得るというようなことがザラであり、庶民は生き残る為に何でもやった。敗戦後長い間、ラジオ・TVドラマの台詞にも「叩けば埃の出る体」という台詞が頻出していた。こんな状況の中で多くはヤクザが仕切る闇市が隆盛をきたし、利権を争う争闘も多発した。因みに特攻帰りの青年らが新興勢力としてこれらのシノギを巡りヤクザともことを構えた。背景には軍が特攻の恐怖を紛らわせる為にシャブを用いていた点も見逃せない。特攻生き残りの若者が抱えていた憤懣やるかたない心情の苛烈と体験して来た亡き戦友たちへの複雑な念、生き残っちまった自らを制御仕切れない「祖国の様変わり」に対する劣情と悔しさの爆発を想像してみて欲しい。
余談ではあるがシャブは敗戦後も合法的に薬局で売られていた。薬品名をヒロポンという。敗戦後も長くこのようにシャブが合法化されていた理由は、国策としてシャブが用いられていたことが中毒者を産み簡単に禁止できなかった、という理由以外には考えられまい? こういった状況をそれとなく挟んで事態の深刻さをもっと皆に分かるようにすべきだったと考える。
実演鑑賞
満足度★★★★★
激奨 タイゼツベシミル!! 華5つ☆(追記後送)
ネタバレBOX
劇団B♭旗揚げ公演。そもそものタイトルからして矛盾しているような不思議なタイトル、無論このタイトル自体に仕掛けがある。物語の舞台は、鹿児島よりは遥かに沖縄本島に近い鹿児島県徳之島。無論周りは海の、島である。であるのに何故、海のない“島”というタイトルなのか?
物語の謎解きはここから始まるだろう。理由は、今作を観れば直ぐ納得するが、この物語は2つの時が綯交ぜになっている。一つは第二次大戦末期の沖縄戦、一つは現在に通じる時代だが、上演の形としては今作30年前に書かれた作品である。而も全く古びていない。それどころか益々大戦中の沖縄の状況に現在の方が近づいている。無論、細かい点で2024年に上演する為の変更はあっただろうが、本質的に差異が無いという実にあからさまな沖縄の置かれている状況があることに気付かない訳にはゆかない。
というのも先に挙げたように今作は大戦中と現在がクロスオーバーする。このタイトルの特異性に気付くか或いは序盤から、演じられているのは現代なのに軍機の飛翔音がしたり、場面、場面で照明の異変に気付くならばしょっぱなから或いは極めて早い段階でこの物語の輻輳性に気付くことができるが、この点を見落としたり聞き逃したりすると物語の輻輳性が掴めず、作品の持つ本質性にも凄さにも気付くことができない。当然、仕掛けられた謎解きが終わって大団円を迎える時の感動の質も重さも全く異なるものになってしまう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
脚本、演出、演技どれも優れていると感じたが、矢張り役者の間の取り方が上手い。
ネタバレBOX
一筋縄ではいかぬ作品とみた。台詞構成がユニークで背景にあるもの・ことの単に現代に留まらぬ深さ、複雑性を想起させるからである。作家が英国籍ということである意味得心が行った点もある。オープニング最初の台詞も極めて特徴的である。(実際どんな台詞で始まるかは観劇して確かめて欲しいが)。物語は様々な挿話を構成して一編の戯曲としているが、その各々の挿話のみならず、各々の台詞の中でもその要旨を挫くような、脱臼と迄はいかない微妙な頓挫が仕込まれているのだ。それは恰も現代社会そのものがブルシットででもあるかの如き頓挫である。原作者・サイモンスティーブンスは英国の生まれだからブレクジットとも関係があるかも知れない。(ここでブレクジットを用いているのは、何もEU離脱のみを指さない。イギリスが伝統的に大陸ヨーロッパに対してきた歴史的態度である)翻訳も一筋縄ではいかぬ大変な苦労を要したであろうことは容易に推測できるが、良い訳に仕上がり、演出・演技は無論のこと流石老舗だけあって舞台美術から照明・音響、裏方さんを含め素晴らしい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 華5つ☆ 演劇の醍醐味を楽しんで欲しい。(追記後送)
ネタバレBOX
リジョロの25周年記念公演第2弾は、Burrou.隠れ場所や穴を意味するタイトルの作品である。長い間観たいと思っていた劇団だが今回が初見。今作のベースにあるのは夢野久作の「ドグラ・マグラ」とある時期迄の唐 十郎の舞台だろう。演出等にも唐系の特質が見えるのは状況劇場で看板女優を担った時期を持つふじわら けいさんが、リジョロ団長・金光 仁三氏の師でもあるからだと思われる。無論、上記の影響を受け、ベースにしてはいても物語自体は独自で壮大な展開を見せオリジナリティー溢れる快作である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
「誰も知らない」という映画は御存じだろうか? 切り口は全く違うものの今作を拝見しながらこの映画のことを思い出していた。(追記後送)
ネタバレBOX
板上は奥に2F 部分を設け下手階段は板地部分から下手に延びた階段を上がり踊り場で右上に延びた階段。上手階段はそのまま2Fへ上がれる。2Fを支えるようにホリゾント側及びその手前に壁を設けこの壁と壁の間が通路になっている。
オープニングで登場するのは明天前は結界でも張るような仕草を見せる男、素早く部屋の出入口、窓等を封印するかのようにテーピングすると直ぐ去る。物語り自体はゲームに登場するキャラクター・主役級、背景の名もなきキャラを構成し台詞ぽ無いキャラ・モブ等。後者の内ハシクレと呼ばれる者だけが主役級と対話可能であるが、他の者には彼ら2人の対話はテュゥルルルルという具合にしか聞こえないので一般モブは2人との対話も不可能なら対話内容を理解することも不可能である。
ところでどうやらこの物語の舞台はゲームとしてずっと機能していないらしい。ゲーム内の物語と外界と通じるゲーム機との間に出来した齟齬や様々なバグが絡まり合う中でゲームと現実が時に一体化してしまう世界での、とある状況を映し出している。根本的に不安定なので決して安息という状態を基礎とはし得ない。そんな社会に追い込まれた者(最弱者)の余りに痛ましい生涯を描いた物語なのだ。というのも主役級が待つヒーローは永遠に登場しない為、物語が始まることは在り得なかったのだ。この状態に閉じ込められたキャラ達は総て一応給料や社会保障等は出ているものの為すべきことが何一つ無いまま無為に過ごしているのである。永遠と見紛う退屈の中で。
実演鑑賞
満足度★★★★★
アーサー・ミラー原作の作品である。板上はフラットの素舞台。ホリゾントはスクリーンになっており物語の場面に応じた絵画が映し出される。時代設定や場所はハッキリしないものの、イギリスの統治下にあった宗教性の強いアメリカという地域の或る地方の物語と解釈できそうだ。中心になる登場人物の要に地域で人気の高い農夫・ジョンとその妻・エリザベス。そしてジョンと不倫関係にあった元召使・アビゲイル。魔女裁判に至り、遂には刑死者迄出すというシリアス物だ。漠然ととある場所で起こった昔話というより寧ろ正しく現在の世界情勢とそのまま重なるような内容として観ることが出来、長い尺を一切感じさせないお勧め作品である。ミラーの慧眼も大したものだが、演劇ユニット、King’s Menを組む若い2人の表現者がこういった作品を選んでチャレンジしていることを高く評価したい。演出もこのユニットの篁エリさん・平澤トモユキ氏が共同で取り組み役者としても出演している。(追記後送)
ネタバレBOX
オープニング早々、子供たちと若い娘(牧師サミュエルの姪・アビゲイル)がこの地方(セイレム)の森で踊りを踊ったり何やらさざめきあって遊んでいるような場面、と急に一人の最年少と思われる少女(地主パットナムの娘・ルース)が倒れ込み動かなくなる。踊っていた少女たちの内の幾人かは、服を脱ぎ裸を晒す(舞台上では下着になることで裸を表現している)
ところでこの少女たちの様子を見ていた者がいた。この地域の牧師・サミュエルである。彼はハーバード卒を鼻にかけて偉ぶるような人物ではあるがこの地域に赴任して未だ浅く敵も多い。彼の管轄下にあるこの地域では、彼を嫌い敵対する住民が多く、この不可解な事件を魔女と結び付け彼を攻撃する材料として用いることが在り得ると考える彼は恐れ警戒していた。そこで子供たちと何をしており、どうしてルースが倒れ動けなくなったのかについてアビゲイルを難詰する。流石に牧師だけあってその追求は鋭いが、アビゲイルのしたたかさは、これを上回りかつて自分が召使として7か月働いていたが馘首にされた農夫・ジョンの妻・エリザベスが彼女を奴隷として扱いたがり非人間的で冷たいなどという話に切り替えると共に事件の肝心な部分を見抜くような懸念を述べていたサミュエルの問いから逃れることに成功。逆にエリザベスの評判を傷つけ、自らの評判を上げる種を撒くことに成功する一歩を踏み出した。
実演鑑賞
満足度★★★★★
フライヤーからはチャラけた芝居との印象を受けていたのだが、極めてまともなストレートプレイである。
ネタバレBOX
舞台美術も如何にも明治から大正にかけてのし上がった炭鉱成金の屋敷に相応しい調度が並び、なり上がり者の定見の無さを象徴している。例えばリモージュ焼きと思われる磁器の向こう側に洋画、その隣奥に信楽焼きと思われる陶器、その更に奥には、朝顔型の蓄音機、更に奥に家長の後妻である可奈子の居室があり、ベッドには天蓋から映画・クレオパトラの寝台に掛かっている幕のような、西アフリカで用いられる蚊帳のような天蓋部分に円形釣り具を付けそれに細かい目の布をあしらったような物が取り付けられており、ベッドの奥は布で仕切られ袖のように機能するが、劇中この袖は大変重要な役割を果たす。上手奥には中国や李氏朝鮮時代に多く作られたような形の一輪挿しの花瓶、ホリゾント中央には両開きの襖。その手前は畳敷きで平台で一段上げてある。更に客席側は洋間になっており洋式の椅子、ソファを始め中央に使用人を呼ぶ為のベルが載ったラウンドテーブルが真ん中に置かれている他洋間から和室に上がるのには上手に階段が設けられているものの、これも洋式。おまけに和室には木製屏風が上手・下手それぞれに置かれているという塩梅。まあ、日本は和洋中朝折衷文化が基本で我々は慣れ切っているので恐らく外国人が感じる程の奇異感は持たぬ者が殆どと思われるが。物語が展開する舞台美術は台詞だけでは表せない意味をも時に象徴しているので一応指摘しておく。
さて本筋について少し書いておこう。家長の名は伊藤 正久、長男・慎二(実は養子、甥)次男・兼次(正久の実子、使用人・ふゆが実母である)その他実勢は無いものの華族出身の比佐子(東京帝国大学学生慎二の婚約者)、そして先に挙げた可奈子(後妻に収まるまでは慎二の紹介でこの家の女中をしており、その後正久の妾となっていた)
ジェンダーレベルで見ると男性VS女性では女性の完全勝利である。というのも正久は女遊びに長けた積りの金持ちだが、女性達の心理を見抜くことに掛けては少年のようにプリミティブな思考しか持っていないのに対して、可奈子は慎二とはずっと恋仲であり後妻と決まって妾宅からこの家に移ってきた後もずっと隙をみて同衾しており、バレていない。また、正久の見立てでは古風な倫理観に縛られその倫理からは外れないと判断された比佐子は慎二が何をしているかを偶然知って後、その秘密を教えた頭は悪く無いものの同世代の悪童仲間どころか友人も持たない為精神的には幼稚な金次を唆し、褒美に同衾を約して兄銃撃事件を惹起する。而も事件で死んだのは金次の方で慎二は生き残ったのだが、貞淑だとか婚約の約束だとかを守るフリをして婚約解消は敢えて否定した。
このような状態の中、ラスト部分で可奈子は妊娠を告げる。(無論、どちらの子かは分からない)。この後事件の後片付けが終わったあとの展開がどうなるのか? 当然慎二と比佐子は結婚し子供も生まれよう、そうなると遺産相続争いが起きるに決まっている。女性陣で唯一昔風の倫理に生きているのはふゆのみであり、彼女は3人の女性の中で最も年上だから遺産象族争いが起きる頃にはリタイアしているか、亡くなっているかであろう。こんな続編を期待させる面白い作品であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
一言に不条理劇と謂うが、その意味する処をどれだけの人が理解しているであろうか?
(追記後送)
ネタバレBOX
演劇ファンを前に口幅ったいが、演劇は最も時代とその状況を反映する表現形式である。今作の原作は故別役 実氏、1967年の作だったと思う。冒頭こんなことを書くのは、今作が日本の不条理劇を代表する別役 実という劇作家の作品を基に創られていることと大いに関係がある。一言に不条理劇と謂うが、その意味する処をどれだけの人が理解しているであろうか? 先に挙げたように演劇は時代とその状況を本質的に極めて素早く而も的確に表現する総合芸術である。而も芝居という形式が要請する縛りの多い表現形式なのである。
以上のような条件から、それでも作品を創り上演する為には、極めて鋭く要を得た状況把握と膨大なデータの的確な分析、これらを素材として再構築し物語として紡ぐことのできる才能が必須である。
ところで、不条理劇が創られるのは、或いは創られて来た時代とは、どんな時代であったか? を若干再考してみよう。今作の原作は、現在別役実戯曲集に収められているものとは、内容に相違がある。今回、有機座公演では初演時の台本をベースとして用いたという。自分はこの双方を見比べた訳では無いので異同の詳細は分からないが、初演時の台本の方がより尖がり、先鋭的であった分だけ分かり難いかも知れないと想像した。実際、今回自分が書いていることは、この分かり難さを少しでも解消したいと思ったからである。
物語の舞台は国際航路の波止場。舞台美術は至ってシンプルで、板奥の天井からは万国旗が垂れ下がり、その手前中央よりやや上手に棺桶のような形のベンチ、その反対側・下手には、定番の電柱ならぬ電灯。板手前観客席に近い下手に救助用浮き、上手には繋留用の杭。大切なことは、物語が展開するのが国際航路の港だという点だ。
人種や国籍、肌の色や目の色、髪の毛の色、話す言葉の違い、衣装や文化、食べ物や仕草の違い等々様々な違いや、その時代、場所の違い等によってこれらの差異が様々な意味の違い、否意味する処の違いに重大な差を齎し時に取り返しのつかない事態を引き起こすことにもなる。
そして不条理劇の創造された時代にあった社会状況とは、多くの人々が判断の根拠を失い、自分達が属す社会も、己自身の普遍的価値観も信じることが出来なくなった時代では無かったか? 敢えてしょっぱな過去形で書いたが、無論現在もそれは刻々と更に深く不可視にされて進化・深化し続けている。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上は奥に平台を置き素舞台。それだけアクションの多い舞台である。物語は一見勧善懲悪物の体を為すようにもとれようが、総て表現された作品は、それを受容する者達の解釈次第でその消長が決まる。従って表面的には開演前にずっと流れている音楽の歌詞のように勧善懲悪とみえようとも解釈次第で実に深い、また極めて象徴的な意味を持つ作品に変貌するのだ。今作は、その実例と観た。兎に角、エネルギーが凄い。一見バカバカしいことに此処迄一所懸命に向き合い、打ち込む姿勢の底に何があるのか? 観劇中に何度も自問しつつ拝見して居た結果は追記で報告する。
実演鑑賞
満足度★★★★
う~~~~む。
ネタバレBOX
Fluctuat nec mergiturはラテン語で、揺蕩えど沈まずという意味だ。パリの標語である。今作、一応パリを日本に移築するというコンセプトの基に建てられたマンション住人たちの話なのでフライヤーにもこの標語が記されているということだ。
ただ、如何にも日本人のフランス被れらしくフランス語の間違いが多々ある。例えば友人などと別れる際、フランス人はau revoirを用い、決してadieuは用いない。後者は基本的に二度と会わない、会えない場合にのみ用いるからであるが、今作ではau revoirを用いるべき処でadieuが頻繁に用いられたのは実に嘆かわしい。またマンションの名前にLe appartement・・・という言い方をしているが、仏語は母音の衝突を嫌う為、正しい表記はL’ appartement となり定冠詞leのeが落ちる。こんな初歩的なミスがたくさんあるばかりでなく、台詞に‟パリのシャンパンは云々“というのがあって、これをパリで飲むシャンパンと解せば問題は無いのだが前後の関係からパリ産のとも取れる。後者の場合はフランスの法によって罰せられる。何となればシャンパンと名乗ることができるのはシャンパーニュ産のものだけだからである。日本でもスパークリングワインと呼ばれて製法が同じでも恰も異なる種類の酒と勘違いすることもできる呼称はこの法に縛られているからである。フランスを移入するという設定で而もパリで長く過ごしたという設定の人物が、こんなレベルで間違っていたのでは話にならない。
1か所だけ感心したのは終盤に掛かる辺りでシャンソンの歌える店にマンション住人らが出掛けるシーンがあるが、この時歌を披露する店の歌い手の歌が、シャンソンの心根を表現して見事である。この歌1曲だけで星の数を1つ増やした。