アキラの観てきた!クチコミ一覧

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月光のつゝしみ

月光のつゝしみ

ハイバイ

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2013/09/20 (金) ~ 2013/09/26 (木)公演終了

満足度★★★★★

とにかくキツイ舞台だった
いろいろとキツイ。
会話がキツイ。
会話のないところがキツイ。
居心地の悪さはハンパない。

ネタバレBOX

「家族同士の付き合いがあるほどの関係ではない友人に家に行ったら、その友人が家族と罵りあっていて、どうしたらいいのかわからず、とてもいたたまれない気持ちになってしまった」
のような気持ちになった。
とても居心地が悪い。

台詞が痛いのだ。
無言の長さも恐い。
どこで姉が話し出すのか、劇場の空気が凍り付いたようにキンと張った。

他人が他人に向ける苛立ち、例えば、民男(弟)が妻に対して「(民男の実家のあった城下町に)一度も行ったことがないだと!」と言葉を荒立てることは、言われた妻だけでなく、その場に居合わせた人にも辛く響く。
誰の言葉の矛先が自分でないとしても、その場にいる人にはチクチクしてしまうのだ。

たとえ相手を思いやっているような台詞であっても、なかなか額面通りには受け取りにくい響きが絶えずする。
それを受ける側の緊張感までもが伝わる。

頭のいい姉には誰もついていけないが、実は同じように頭のいい弟にも妻はついていけてない。
彼ら姉弟は、気がつかずに自分の身の回りにいる「普通の人たち」を見下している。
つまり、自分たちと同じように考え行動できない者たちに苛立っている。
苛立ちは自分自身にも及んでいる。

あらゆるものに噛み付き、グイグイ、ネチネチと突いてくる。揚げ足を取る。言葉尻をつかまえる。
彼ら2人は、自分がそうしているという自覚はあるのではないだろうか。
頭がいいから、わかっている。
だから、相手の弱り具合までわかっているのではないだろうか。
しかし、サディストというわけではなく、それを楽しんでいるわけではなさそうだ。

楽しくないのにやってしまう。
すなわち、そういう毒が自分の身体にも回ってくる。
そういう彼らの悲しみがうかがえる。誰にも理解されない。
いや、姉と弟にしかわからない悲しみ。

控え目に言って姉のほうは頭がおかしい。
学校という狭い場所にいて、先生という王様になっているから、周囲との距離感や度合いがつかめていないのだろう。たぶんそれがもとで学校を出てきてしまった。

こういう先生はたぶんいる。いや、きっといる。
こんな風に「どういうこと」「どういうこと」と詰問される生徒はたまらない。

姉と弟の、自分を含めたあらゆる方向に向けられた刃によって、ある者は手首を切り、ある者はどうしたらいいのかわからず、途方に暮れる。
しかし、姉と弟のほうは底ではわかり合っている。互いが吐いた毒の中にいることもわかっている。
もちろん姉と弟だから、友人や妻などとは、歴史が違う。さらに彼ら特有の、「頭がいい」世界にいるという共通点もある。

どうやら徹底的にイヤなヤツというわけでもなさそうなのだ。
姉を好いている男もいろようだし、弟も結婚しているし、友人もいる。

ラストで姉と弟が雪が積もっている家の外にプレゼントを拾いに行く様子は、どこか楽しげ。姉弟ならではの、肉親の会話として聞こえてくる。
それを、たぶん寒いであろう家の中から聞いている、妻の心の中はどこよりも寒いだろう。
弟の友人はこの後、彼らと会うことはないだろうが、妻はこの姉弟と暮らすのだ。

彼女は、今までもずっと寒い部屋に1人でいて、これからも1人寒い部屋にいることになるのだろう。

ホントにキツイ舞台だった。


永井若葉さんという女優さんほど、困って泣きそうな八の字まゆ毛が似合う人はいないだろう。額の膨らみまで似合ってしまう。
平原テツさんほど、実はイヤなヤツだった、を演じられる男優さんもいないと思う。妻に対する本音には心底酷いなと思ってしまった。
姉役の能島瑞穂さんは本当に凄まじかった。恐いと思った。
弟の松井周さんも、姉、妻、友人という3人に対する自分の「役割」を見せるというところがなんとも良かった。

劇場から無言で帰宅する感じになった。
悟りktkr(ご来場下さいまして、誠にありがとうございました!!!!!!!!!)

悟りktkr(ご来場下さいまして、誠にありがとうございました!!!!!!!!!)

宗教劇団ピャー! !

STスポット(神奈川県)

2011/11/24 (木) ~ 2011/11/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

一般客の扱いが酷すぎ、ってか最悪
なので、もう観ることはないと思う。
さよなら、宗教劇団ピャー! !




★の数は間違っていない。純粋に公演内容のみについて付けた。

ネタバレBOX

「今観たほうがいい若手の劇団ある?」と小劇場好きに聞かれたら、いくつかの劇団名の中にこの劇団を挙げるだろう。
ただし…。この後は後ほど。

中二病という安易な言葉を使うのはバカだと思う。
そんなレッテルに安穏としているのはバカでしかない。
さらに、それを自ら名乗るのは、「ばっかじゃねーの」と思う。
自虐的な意味で使っていたとしても、自分でつまらないレッテルを貼って、そのレッテルのうらで安心しているのが、大馬鹿なのだ。

しかし、そういうレッテルが欲しいという気持ちは理解できる。
「キャラ」という問題だ。それが安定しないと自分の居場所がない、と感じるからだ。
「演じる」という行為は「キャラ」とは切り離せないだろうから、「演劇やってます」ということは、やっぱり、この劇団の彼らにとっては、「宗教」に近いものがあるのだろう。

で、今回の公演である。

モロにソレなのだ。
「自殺未遂」というのが流行する。まるで悪いウイルスのように人々を苛んでいくという世界の話だ。
「自殺」ではなくて「自殺未遂」。
「死」が目的ではなく、「失敗する」ことが目的なわけで、単純に言えば、「死」と「再生」を繰り返していく行為でもある。
「生まれ変わる」なんて単純に言っちゃってもいいかもしれない。
それは「憧れ」ではないだろうか。

「自殺」なんてできないし、実際は死にたくないのだけど、なんか憧れるような感覚がある。
それが、自ら望んだわけではなく、老人から順々に低年齢化していくという流行なので、そうなってしまう、というのは都合がいい。
しかも死なない。安全。

そんな世界観の中で、自分のキャラを後生大事に、各登場人物が衣装に書いて、演じている。
登場人物が「演じる」という行為と、実際の役者が「演じる」という行為、さらに言えば、役者が「生きるために」日常生活で「演じて」いるという行為が、渾然となっていく。
「ktkr」(キタコレ)って自分をアップさせながら。

それは、前回も感じたことではあるのだが、今回はさらにヒートアップしていて、もの凄いことになっていた。
ホントに凄いと思うのだ。

「宗教(劇団)」の面目躍如ということろで、かなりの割合で、公演とその準備自体が、劇団員のリハビリになっているのではないかと思うのだ。
社会に適応していくためのリハビリ。

世界は大変なことになっているけれど、自分の周囲1センチぐらいだって大変なんだ、ということで、それを真正面から訴えるのは、なんかねー、なんだけれども、この作品では、彼らはきちんと向き合うとしているのではないだろうか。結果的なのかもしれないが。
役者の本気の目が、ビンビンと来るんだよね。ヒリヒリするし。

問題は、彼らが(役の上での「彼ら」ではなく、生身の「彼ら」が)「コミュニケシーション能力に欠けている」と思い込んでいることだ。
確かに、「会話」はダメなのかもしれないが、演劇を通してのコミュニケーションについて、もっと信じていいのではないかと思う。

つまり、やけに丁寧で説明的なのだ。
例えば、開演前に今回の内容について丁寧に解説してある紙を配ったり、同時多発的に起こる台詞の中で、観客に聞いてほしい台詞を、きちんと届けようとして、会話のトーンを意識して調整したりなどだ。

そんなことまったく気にしなくていいんじゃないかと思う。
無責任に勝手にやれ、ということではなく、「届けたい」気持ちがあれば、「届いている」と思う。演劇の中では、そんなに自分をセーブしなくても、いいと思うのだ。
つまり、演劇ぐらいは、もっと言うと「演劇している自分たち」ぐらいは、もっと信じていいのではないかと思う。

前回、今回と観てきて、役者や作者の、自分たちの作品へのめり込み具合、飲まれ方の厳しさは伝わってきている。
それだから、観ていて「凄い」と思う。
この作り方でいくと身体も心も保たないかもしれない。
だけど、乗り越えていけば、「リハビリ」にはなる……と思う。

なんかぶっ壊れるまでやってほしいなと思う。

今回のようにDJとかVJよろしく、照明とか音響をその場でマッチさせるというのもいいなと思う。彼らはど真ん中とか、祭壇のような場所の左右にいてもよかったのではないか。

で、冒頭の話に戻るわけだが、
「今観たほうがいい若手の劇団ある?」と小劇場好きに聞かれたら、いくつかの劇団名の中にこの劇団を挙げるだろう。
ただし、この劇団の姿勢(一般客への姿勢)は酷いものである。
そんな酷い目に遭うかもしれないし、遭わないかもしれない。
遭っても、「まあ、いいか」と思う人のみへのオススメである。


今回、何が起こったのかを一応書いておこう。
ここからは、鬱憤の撒き散らしになるので、そういうのが嫌いな方はスルーで。



会場に着いて、係の人に席に案内された。中央部分の見やすい席だった。
ところが、開幕から30分経って、その係の人が「席を移動してくれ」と、私と隣の人に言ってきた。上演中にだ。演出なのか何なのかわからないから席を動いたら、遅れて3人の男性が入ってきた。
そして、私たちが座っていた席に案内したのだ。
私は、端の後ろに折りたたみを出されて座らされた。
「何これ?」と思った。演出ではない。
単に、劇団にとって大切な関係者が来たので、見やすい席を案内したのだ。上演中なのに一般客を移動させてまで。
これは呆れてしまった。
そこで大人の対応で、セットを壊しながら大声で叫んでもよかったのだが、だらしないことに、結局そのまま我慢してしまった。

このエピソードの凄いところは、30分遅れてやってきたその3人の「劇団にとって大切な関係者」たちは、途中で出て行ってしまったということだ。
素晴らしいオチだ。私は笑った。

どうやら、彼らの公演は、今後のステップに大切な「関係者様」にご覧になっていただくためのPRの場であり、観客は公演を飾るセットぐらいにし考えてないんだろう。

で、もう行かないな、この劇団と思ったのだ。

その係の人がどうこうではなく、一般客を大切にしない劇団ということなのだろう。

さようなら、宗教劇団ピャー! ! さよーならー!
スメル

スメル

キリンバズウカ

王子小劇場(東京都)

2009/07/04 (土) ~ 2009/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

やっばり、人は人と一緒にいたいんだ
まず、なんと言ってもフライヤーがカッコいい。素敵だ。
ここに惹かれた。

そして、舞台は、フライヤーのように素晴らしいものであった。
平日夜間に満席なのもうなづける。

表面に見えるテーマ的なものだけではなく、その根底にある人の姿、特に現代に生きる人の姿・気持ちが浮かび上がってきた。

ネタバレBOX

冒頭の「東京都永住禁止条例」についの説明にあたるシーンで、「この説明っぽさは、どうかなのかな・・」と思ったのだが、フリーターの男と都の職員が同窓であることが観客にわかり、さらに葬式シーンが続き、「なんだ?」と思ったあたりから、作者の術中にはまったと言っていい。
この展開、興味の持たせ方は、「うまいなぁ」と思わず唸ってしまった。

「東京って人多すぎ」ってなことを言っている自分が東京にいて、まさに多すぎの人々を自分自身が形成している。
「なぜ東京じゃなきゃダメなの?」と面と向かって訊ねられても返答に窮する人も多いだろう。
そんな人たち(大多数の観客たち)の気持ちに、ざわっとした空気を送り込むような舞台だったと思う。

東京一極集中、ゴミ問題に、介護や就職難なんていう今様のテーマと、親子の関係、男女の関係など普遍的テーマをうまく絡めて、テーマ、テーマしすぎず、見事に台詞で世界を紡ぎ出していた。
台詞の息づかいのようなものがとても素晴らしいと思った。

そんな表層のテーマとは別に、「人と繋がりたいのだけど、うまく繋がることができない人たち」の哀しさが舞台が進むごとにじわっとやってきた。
人恋しさとでもいうのだろうか。
だったら故郷に帰ればいいじゃないか、と言われても「いや、でも・・」と言葉は濁る。
ゴミ屋敷の清掃で人々はかろうじて繋がり、お金や(危ない)仕事、芸能人になるなんていう淡い夢で繋がる。
儚い繋がりと知りつつも、それにすがってしまうのだ。

これって、捨てられないゴミとの関係にも似ているのではないだろうか。
ゴミだから捨てないと、という気持ちと、いつか何かに使えるのではという気持ち。ゴミとわかっていてもつい拾ってしまうような。

本編ラスト(?)でゴミ屋敷の女主人が泣き、「さて朝ご飯でも食べるか」と言い放つ強さにちょっと感動しつつ、本当のラスト、というか蛇足ともとられかねないラストでは、さらにもう一度、人が人と繋がりたいという欲求と、人との繋がりの危うさを、皮肉を込めて見せてくれた。

台詞がよかったのだが、ゴミ屋敷の女主人の台詞も若者言葉にやや引っ張られているように感じた。普段あんなふうにしゃべっているのだろうか。ちょっとだけ気になった。

前作とゆるい繋がりがあると知ってしまったら、前作も観たくなった。再演してほしい。

蛇足だが、登場人物たちの名字が、1人を除きすべて世田谷区の地名だった。異なる1人というのが、娘の岡村。
この疎外感は一体なんだったんだろうか。たぶん意味があると思うのだが。
旅がはてしない

旅がはてしない

アマヤドリ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2009/07/17 (金) ~ 2009/07/21 (火)公演終了

満足度★★★★★

「私」とは、どこからどこまでなのか? 「私という存在」はどこにあるのか?
前作『プラスチックレモン』からこの劇団を観始めた者としては、今回も前回同様に、観劇後、私を深い思考時間に連れて行ってくれた。

火花が出るようなと言うか、切れ味が鋭いと言うか、そんな会話の応酬にひょっとこ乱舞の凄さを観た。台詞の1つひとつが深く、うなってしまう。

ダンスはもとより、すべてにおいて無駄がないし、レベルが高い。
中でも、チョウソンハさんは、あいかわらず凄いし、笠井里美さんと中村早香さんの独自のリズム感ともい言える台詞回しも素晴らしい。
もちろんそれは他の役者さんたちの仕事ぶりがあるからのことでもある。

ネタバレBOX

2009年7月14日、改正臓器移植法が成立した。

未来なのかどこなのか、そこでは臓器だけでなく、身体の各部位の交換、さらには身体そのものの交換まで簡単に行えるようになっていた。
しかも、ファッションとして。

例えば、私の手は「私」のものである。その手を誰かに付けたら、それはまだ私の手なのだろうか、それともその誰かの手になってしまったのだろうか。
他人に渡すのが、「脳」だったら、その脳は一体「誰」なのだろう。

「私」は一体どこに存在するのだろうか。脳なのか、生命そのものなのか。脳であったとしても、例えば、私が「私である」という記憶を失ってしまったら、「私」は「私」であり続けるのだろうか。

ミチは、人と人を繋ぐ。好きな人、想っている人に繋がることもできるし、離れることもある。
ミチは、通路であり、同時にコミュニティでもある。
地面からの高さ30センチ〜60センチにあるコミュニティ。
立ち上がって動き回る者には関係ないというところがミソ。

どんな時代になっても、人は人と触れていたいと思うのは変わらない。
自分という存在が不確かで希薄であればこそ、他人の存在が重要になる。

大勢の人の中に埋もれつつも存在する「私」。ミチでシャッフルしながら、人と文字通り交わりながら、希薄になっていく「私」。だけどそこに「存在」している。

「他人」があるからこぞ「私」があるという感覚。他人の言葉で私が私を確認できるような感覚。

また、他人は、自分の持ってないものを必ず持っている。自分の持ってないものは欲しくなるし、手に入れることができる立場や状況にあるのならば、手に入れる。
しかし、手に入れても、それは自分のもの(あるいは、自分そのもの)になるわけではない。
欲望には終わりがない。

人は、手に入れられるものは何でも貪欲に手にしてきた。これからもそうし続けていくであろう。

舞台を観て、人はこんなところまで来てしまったのかと思うのだが、過去の人から現在を見ると、同じように、人はこんなところまで来てしまったのかと思うに違いない。
3人のミチの管理者は、それぞれが表裏に持つインプラントに代表されるように、人が進むときの要素のようなものを、象徴的に示しているのだろう。

便利だったり、快適だったり、健康だったり、安全だったりという名目の下、実はかけがえのない何かを失ってきているのかもしれない。
もちろん、後戻りはできないし、後戻りしようと言うわけでもないし、立ち止まって考えてみようということでもない。

「ミチ」は、まだ先に続いている。そして旅はまだまだ続くのだ。

ラストの「海」。「海」はから進化したモノたちにとって、それは希望なのか、さらへ先に進むことだけを示唆しているのか、余韻があった。

・・・サナギ版を観られなかったことを悔やむ。
- 初恋

- 初恋

世界名作小劇場

シアター711(東京都)

2009/07/15 (水) ~ 2009/07/20 (月)公演終了

満足度★★★★★

恋をすれば、いつだって初恋
面白かったなあ。
物語を進めるリズムがいいから、舞台に見入ってしまった。

ネタバレBOX

世の中の偏見に立ち向かうはずの、強い意志を持った人が、実は、そういう偏見の根底にあるのと同じ固定概念に最も縛られていた、という展開はとても面白いし、うまいなと思った。

舞台の左右前後のの使い方もうまいし、役者さんもみんなよかった。
中でも、ズボン女の素っ頓狂さは素敵すぎる(笑)。声はでかすぎだけど。
2人でいるときのしおらしさ、スカートになっていた様子なんかは、とても微笑ましい。
また、管理人さんの若いのに落ち着いた雰囲気もとても良かった。

世界名作小劇場は、今回で当分お休みということだ。もちろんそれとは全然関係ないだろうが、ラストの下宿を出て行く男に、管理人さんが「一緒に行っていいですか」と言って断られるシーンに、ついそれをダブらせて観てしまった。

そういえばタイトルの「- 初恋」の「-」ってどういう意味なんだろう。最初は、「一」(いち)かと思っていたけど。

どうでもいいことだが、昨日観たplay unit-fullfullの『罪とハネムーン』でも、親の後を継いで下宿屋をやっている若い女管理人と、男ばかりの下宿人たちの話で、しかもオカマが出てくる。偶然なのだろうが、続けて観たので変な感じ。
ノルウェー国立劇場『人民の敵』

ノルウェー国立劇場『人民の敵』

特定非営利活動法人舞台21

あうるすぽっと(東京都)

2010/11/17 (水) ~ 2010/11/18 (木)公演終了

満足度★★★★★

独特の斬新なスタイルに、リズム、持続する熱量が素晴らしい
ノルウェー語で上演(字幕付き)なのに、ぐいぐい引き込まれた!
役者もいい。

ネタバレBOX

温泉施設の専属医師であるストックマンは、温泉施設の水が工場のせいで、人の健康を害するほど汚染されていることをつきとめる。
それを新聞『人民新報』の編集者に伝えたところ、すぐに新聞に掲載したいと言う。また、旅館組合の組合長は、民衆(絶対的多数)の代表として医師の支持を約束する。

その情報を知った医師の兄であり、町長兼警察署長は、町の評判を落とし、町が凋落していくことを防ぐため、弟の医師に事実の発表をやめるように言う。
汚染防止のためには莫大な資金と時間が必要だからだ。
しかし、ストックマン医師の意思は固く、兄の意見には従わない。

そこで、ストックマン医師の告発は、町の評判を下げ観光地としての魅力がなくなる、汚染防止費用のために増税がある、工事中は温泉を休業しなくてはならない、ということになると告げられた旅館組合長や新聞社は、自らの考えを翻し、医師に事実の発表をするなと言い出す。
さらに、医師の妻の父は、汚染源である工場を持つ経営者であり、ここからの圧力もストックマン医師とその家族にかかってくる。

そして、町民集会が開かれ、町の利益を損なおうとする医師を「人民の敵」とする決議を行ったのだ。
医師は温泉専属医師の職を解かれ、教師であるその娘も退職させられてしまう。

そして、医師は決断をするのだった。

そんなストーリーが、本当にまったく何もない、黒い舞台の上で繰り広げられる。。

ノルウェー語で上演され、字幕頼りに観劇しているのに引き込まれる。
古典なので、てっきり重々しくいかにもなスタイルで上演されるのかと思ったら、いい意味で裏切られた。
独特の斬新な演出スタイルがある。
ダンスの様な動きや、登場人物たちの関係性を具体的に見せるような、ねちっこい演出。
一瞬で変わる場所と時間。連続性とスピーディさ。
リズム感と緩急、そして持続する熱量が素晴らしい。
役者も力があるのだろう。特に主人公ストックマンを演じた俳優の、正義への情熱が、抑圧されつつラストに行くに従い、いろんなところから噴き出してくる様が素晴らしい。

「内部告発」という現代に通用するテーマを軸に物語は進行する。
そこで描かれるのは「絶対多数」というものの危うさである。
それは、民主主義の危うさでもある。同時にそれには「古めかしさ」も漂ってしまうのだけど(ラストとか)。
「自由」は「絶対多数」によって脅かされるという事実。

そして、主人公が「正義」のようであるが、追い詰められて発する彼の「正義」の理論は、「少数派」「純血」というキーワードによって、「正義(感)」の危うさまで浮き彫りにしていく。
つまり、「正義」とは今も昔もそんな危ういバランスの上に成り立っているということなのだ。

「内部告発」することが、行為としての、社会との関係における「正義」と、周囲への影響や自己満足(自分の姿に酔いしれる)ということとのバランスというだけでなく、なんかもっと根本的なところにも言及している、そんな印象を持った。

これが今、この舞台を上演する意味や意義ではないのだろうか。

ノルウェー国立劇場『人民の敵』は、とてもよかったのだけど、客席には空席が目についた。「国際イプセン演劇祭」は短期間に集中して上演されるので、時間の都合がつきにくい、それと料金がもう少し安ければと思う。
明けない夜

明けない夜

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2009/07/17 (金) ~ 2009/07/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

物語と演出の巧みさに引き込まれた
よくぞこの時間内にうまく収めたと思う。無駄がない。
この時代設定だからこそ、なしえた物語でもある。

ネタバレBOX

現在から過去、それが徐々に現在に近づきつつ、物語の核心に迫ってくるので、観る者を釘付けにしてしまう。

自分のことと今回の事件をダブらせて、血気にはやる若い刑事がいることで、緩急もついた。緊迫感もある。子どもの誘拐という、やるせない物語に、さらにそれぞれの想いや感情や思惑が交差し、やるせなさが倍増してくる。

ちょっとした台詞などで、登場人物1人ひとりのバックボーンや関係性が徐々にうっすらと見えてくるのも素晴らしい。

足りないとすれば、「汗」と「扇風機」か。
汗をにじませたり、扇風機にあたったりという演技・演出が加われば、「暑さ」も獲得できて、このやるせない話がさらに辛くなったように思えるのだ。

一番の問題は、「外伝」があることだ。
観客としては、この本編だけということであれば、舞台で観た情報だけを頼りに自分の中で整理して、鑑賞するのだが、すでに「外伝」があることを知ってしまっているので、いったん頭で構築したものを、できれば答え合わせのように確かめてみたいという欲求が生まれてしまうのだ。予定に組み込めなかった観客には、ちょっと酷。本編がよかっただけに、できれば観たいと思うのが人情だ。
だから、この2本は、できれば1つの作品として上演してほしかった。

平日の20時開演はありがたい。
サマーゴーサマー

サマーゴーサマー

あひるなんちゃら

OFF OFFシアター(東京都)

2009/08/19 (水) ~ 2009/08/24 (月)公演終了

満足度★★★★★

あひるなんちゃら大好き
「大好き」の後にハートマークだって付けていいほど。
ゆるい気持ちで観に行った。
そして、ゆるい感じでずっとニコニコして観ていた。
所々で笑ったりして。
楽しかった。・・・ツボにはまったとも言う。

ある意味メルヘンだね、これ。
な〜んにも起きないけど。

ハートマークの代わりに星を1つよけいに付けよう。

ネタバレBOX

「それはないでしょ」「大丈夫?」って思ってしまう人しか出てこないけど、特にそのあたりをフューチャーするわけでもなく、まるでどこにでもありそうな日常のように描いてしまうので、「ああ、あるかもしれない」と、まんまと騙されてしまう。そんな人たちは、そうそういるわけがないのに。

そんな変な登場人物が大勢いる中で、突っ込みはわずか3名(ぐらい・たぶん)。普通はオカシナ人が1人ぐらいで、皆で突っ込むというのがセオリーな感じなのだが、これは違う。

映画館オーナーの「ああ、もう、うるさいなー」と絶えず思っているような空気と間、最初から来ている本屋の主人の間もいい(映画館のオーナーを憎からず想っているんじゃないかという雰囲気も)。他の出演者も、ちょっとあり得ない人ばかりだったけど、どのキャラクターもよかった。中でも兄の不毛な冗談のときの不気味な目の光が印象に残った。というより怖い。

なんとも間がいい、そして不毛な会話が楽しい。日常なんて、そのほとんどはこんな時間を過ごしているのだから。ドラマチックなことなんてめったに起こらない。
だから、うっかりすると立ち上がってきてしまう、ドラマなんてものもあえて立ち上がらせない。

舞台となった映画館を含む再開発っぽい話題が出たところで、「おっ、今回の下北沢の上演は、ひょっとしたら再開発問題に揺れる下北沢へ一石を投じるために、あえて打った舞台なのか!」とちょっとだけ鼻息を荒くしそうになったが、当然のごとくそんなそぶりさえも見せない。
メッセージがあるとしたら・・・・いや、そんなコト考えるのはよそう。

登場人物たちは、なんとなく不器用に一生懸命。だけど端から見れば、単にだらだらと時間だけが過ぎていく様子。これは人ごとではないかもしれないのだけれども・・・。

こんな町に住んでみたいとちょっと思う。今や、シネコンじゃない映画館があって、さらに2軒の本屋がある静かな町なんてメルヘンでしかあり得ない。

こんな昼間っから暇な大人が集まれる場所ってないんだし。どうやら、とりあえずはお金には困ってない人たちばかりが住民のようだし。

やっぱりメルヘン。そんな純昭和風なメルヘンに憧れるから、この舞台が好きなのかもしれない。

オーナーが「夏が続けばいいのに」と言ったから夏が1年続いて、「夏が終わればいいのに」と言ったら夏が終わったのが本当ならば、このメルヘンの町がある場所というのは・・・いやいやいやいや、怖いからやめておこう。そんな話ではないだろうからね。あり得ない、あり得ない。

どうでもいいことだけど、この映画館、ポスターを貼るとか、飲み物の自販機置くとか、料金表を掛けるとか必要だったのでは? あえて映画館っぽくしない理由もないし。

それと、最近映画館がなくなっているので、若い人は知らないのかもしれないけど、ここってロードショー館じゃないだろうから(名画座? 2番館?)、1800円の料金は高いし、そうすると完全入れ替え制のわけはないので、1日何回観ても料金は一緒じゃないのだろうかと思ったり。
さらに、映写技師はいるのかな? 上映終了してもオーナーは平然と宿題やってたし。
なんてことがずっと気になっていた。

でも、こんな映画館があったら、大昔に撮った私の8ミリ映画を持って行って「上映してください」とお願いしたいと思ったりして(笑)。



・・・ツボにはまった私って、ひょっとしたら疲れているのか?・笑
君といつまでも

君といつまでも

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2010/06/17 (木) ~ 2010/06/21 (月)公演終了

満足度★★★★★

面白さの宝石箱やぁ〜〜! 不器用だけどねぇ
何と言ったらいいんだろう。
そう、

シアワセだなあ。
ボクはキミといるときが一番シアワセなんだ。
ボクは死ぬまでキミを離さないよ、いいだろ。

って、思わず「君といつまでも」by uozo kayama の歌中の台詞を言ってしまいたくなるぐらいに、シアワセ度が高く、私にとってのツボばかりが散りばめられているような舞台、というか劇団だ。

前説から始まって、ラストまでの約2時間は、楽しくってしかたない。ずっと見ていたい(前説も楽しいので、劇場にはぎりぎりではなく早めにどうぞ)。

ネタバレBOX

毎回フライヤーを飾る、一種独特の(翳りのあるというか特殊というか・・・)人形の造形と、それが動きしゃべるというだけで楽しいのだ。

また、どうでもいいような細かいディテールに溢れた、演出&演技には、笑みがとまらない。
例えば、オープニングで、焼き肉食べ放題の店に行ったカップルが話しているとき、身振り手振りで話す女性が、思わず手を前に出して、そこにある設定の焼き肉の鉄板に手が触れてしまったらしく、「アチチ」なんて言う、どーでもいいディテールなんかには見ほれてしまうのだ(ああ、この感じ伝わらないだろうなぁ・笑)。

物語は結構複雑。

初めてデートするカップルがいる。女性は、ホームレスに絡んでいたヤクザとケンカして約束の時間に遅れてしまう。そこで予定していた映画の前に食事に行くのだが、そこは焼き肉食べ放題の店であった。
そこで、男は、店の中の会話で、結婚詐欺の話、カッパの話を聞いてしまう。
カップルは、カッパのいるという川に出かけ、男はカッパを目にしてしまう。それを追っていくと、ホームレスのいる場所に出くわす。

一方、ホームレスを監視しているヤクザがいる。兄貴分は、映画の話に熱くなり、弟分はそれに付いていけない。

また、同じようにホームレスを監視している探偵と助手がいる。探偵はホームレスの中にいる女性を見て驚く。

ホームレスたちの中に入ったカップルは、ホームレスたちと、「星影のワルツ」でダンスを踊る。

カップルの男は、このときカゼを引き、それが原因で2週間後に死んでしまう。えっ!? 死んでしまう?? そうなのだ、てっきり主人公かと思っていた男は死んでしまうのだ。

ここで、タイトルが出る。そう、ここまでが今回の舞台のオープニングなのだ。

これだけいろんな、エピソードを含んだ登場人物が現れ、物語が進んでいく。さらに進むに従って、児童書の挿絵描きとその同棲相手とその母、あるいは結婚詐欺師やキツネや、神などがそれぞれの意味を持って登場し、さらにエピソードを膨らませていく。

いろんな疑問が浮かび、果たしてどこにどう結びついていくのか、という想いを載せて物語はさらに進行する。

亡くなってしまった妹を想う兄弟、相手を失ってしまったカップルの女、駆け落ちしてきた同棲中の男女、記憶を失ってしまった父を想う娘など、人を想う気持ちが、不器用にしか表現できない人たちが、不器用ながらも、気持ちに素直になろうとする様子や、気持ちが動いていく様子も、笑いの中に、丁寧に込められている。
不器用さが心に響く。
それが「君といつまでも」なんだ、まったくもって。

単に面白ければいいじゃないか、ということだけだはない、作・演出の良さがそこにある。

ラストに行くに従い、それが、じーんとしてきたりするのだ。ラストの楽園のシーンなんかは、台詞がないのに(妹の足が治っていたりして)、本当にいいのだ。結局のところ、優しい。

急に全員が舞台に現れ、踊り、歌うシーンには、うかつにも(笑)感動してしまいそうだった。

そう、劇中で使われる音楽も効果的だった(不気味すぎるオープニング映像のときの曲は何ていう曲だろう?)。

結局、すべてのエピソードがカンフーアクション的な展開になっていくという強引さも、なかなか捨てがたい。ここには「なぜ?」なんて理由を差し挟む余地はない。とにかくそうなっちゃったから、そうなるのだ。いいなあ、この感じも。

6月243日なんていう設定もいいなあ。梅雨も6月も終わらないなんていう。

役者では、最初にカップルとして登場する男女(三枝貴志さん&辻沢綾香さん)の雰囲気が良かった。男の語り口と、女のホントは強いという設定の表現が。
そして、同棲中の女の母(木下実香さん)のどこか飄々とした演技(娘:古市海見子さんとの危ないギャグの応酬も忘れてはならない)、また、探偵助手(新井田沙亜梨さん)の独特のテンション(唯我独尊の台詞回し)、児童書の挿絵画家(武田諭)の神経質な様子の演技なども印象に残った。

それと人形と美術を担当している木下実香さん(あのお母さん役の方なんだ!!!)の功績は忘れてはならない(マックセットに付いて来るノリスケ人形がよく見えなかったのが残念)。

あの人形たちの携帯ストラップが、グッズとして販売されていたら、買うんじゃないかな、いや、私ということではなく、誰かが、たぶん。
さよならシアタートップス 最後の文化祭:短編オムニバス公演

さよならシアタートップス 最後の文化祭:短編オムニバス公演

THEATER/TOPS

新宿シアタートップス(東京都)

2009/03/18 (水) ~ 2009/03/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

ONEOR8 熱帯 泪目銀座
楽しい文化祭、お祭り気分が盛り上がる。
どの劇団も実にうまくまとめてあり、面白く、後味もとてもいい。
だけど劇場を出るときの階段を降りるあたりで、ちよっと寂しい。

ネタバレBOX

3つの劇団の演目に、「倒産」「離婚」という共通のキーワードがあったのは、「さよなら」からイメージされたものだったのかな。

泪目銀座に出演していた村田さん、この日(3/28)の公演の数時間前にアキレス腱を切ってしまったとのことで、松葉杖での出演は、とても大変そうだった。
愛と平和。【ご来場ありがとうございました!!】

愛と平和。【ご来場ありがとうございました!!】

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2012/01/19 (木) ~ 2012/01/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

最高傑作! ストーリーを貫くアガペー。
前にも書いたけど、ここの舞台は前説から観たい。
なんとも楽しいから。

そして、毎回、どこにどう向かっているのかわからないストーリー展開と、過剰なモロモロの中に埋もれてしまいそうだけど、細かくて粘着質で、微妙な台詞そのものと、台詞回し&やり取りがとても楽しいのだ。

人形の登場もわくわくする。

ネタバレBOX

今回、見終わって感じたのは、「これって、ここの最高傑作なんじゃないの?」というものだ。
確かに、短編は別にして、以前の作品に比べ(全部観ているわけではないが)ストーリーの落としどころや、全体がまとまりすぎているかもしれないのだが、でも、全編を貫くテーマがはっきりとしている。
いや、テーマがはっきりとしているから「最高傑作」というわけではないのだが、面白さに、確実に「何かをプラス」してきた感があるのだ。
それが愉快でもあり、ジーンときてしまったりするのだ。

だからこの際「最高傑作だ」と言ってしまおう。

中学生の葉隠弓月は、姉・さくの影響が強い。シスコンと言っていいほど。
姉の期待を背負って彼はトレーニングに励む。姉の理想のタイプになるため。そのタイプとは、姉が子どもの頃見ていたヒーローモノの主人公であった。
姉がいなくなり、弓月は友だちのオカマの金吾郎とともにバイクで町を飛び出す。

一方、騙されてAV出演をさせられそうになったニコという不幸を撒き散らすと思い込んでいる女がいた。
彼女は、その現場からリンとともに逃げ出す。
AVの女社長のあかりは、ヤクザに依頼し、彼女たちを連れ戻すために追いかけさせる。

逃げ出したリンは、かつて助けてもらったことのあるヒーロー、エレファント・ヤンキーとエレファント・ホームレスを呼び出し、窮地を救ってもらう。
そして、彼らは伝説の象、トンキーに合いに上野動物園へ向かう。

その頃、弓月と金吾郎は……。

というストーリー。

一見して、一体何がどうなるのだろうという広げ方で、登場するキャラクターも多い。しかも各キャラクターごとに、かなり濃い味付けがされている。

伝説の象、トンキーだって、戦時中に軍の命令で殺されてしまったはずなのに密かに生きている、なんて設定だし、ヤクザも元広島カープのピッチャーで両親を失った娘を養っている、なんて設定なのだから。

確かに、ヒーローになれ、と言われてきた弓月が、ヒーローになって活躍するという話になっているのだが、実のところ、そこが軸にはなっていない。

物語の軸はズハリ「愛」。

ヒーローモノなので、「悪」の設定はある。それもヤクザの養女が深いところで悪になっているということで、絶対的な悪のように見える。さらに彼女と一心同体、あるいは彼女を操っているような悪の存在があるので、さらに「悪」に対決するという図式が見えているのだ。

しかし、対決するといっても、戦うシーンはあるものの、それは表面上のことであり、最後は「赦し」「包み込み」といういうような手段で、相手を「負け」されてしまうのだ。
それが「愛」。「アガペー」と言ってもいいかもしれない。

劇中で、バッターとしてピッチャーに対決するあかりの従弟・秋助が、あかりの兄から授かった打法は、「相手のピッチャーもボールもバットも観客もすべてを愛せ」だったように。

例えば、娘を誘拐したサチに対して、母の春子は一度は殺意を抱いたものの、彼女を赦してしまう。
また、弓月の姉のトドメを差した金吾郎と弓月の対決にしても、「力」ではないところで勝負は終わる。勝ち負けのない勝負の付き方で。
そのときに、悪の権化のような魔物は、簡単に隅へ追いやられるだけで、こと足りてしまうのだ。

つまり、これは言い古されしまった言葉だけれども、「暴力は暴力しか生まない」という「負の連鎖」を、「愛」で初めから断ち切ってしまっているということなのだ。つまり「平和」。
『愛と平和。』、モロなタイトルだったわけだ。
少々甘くてもそれでいいじゃないか、と思う。

また、「周囲を不幸にしてしまう」と思い込んでいた女は、「月」になって、「人を照らす」なんていう展開はたまらなかったりする。ここは作者から登場人物への「愛」なのかもしれない。

さらに言えば、いくつかの「家族」の「物語」が語られていく。

弓月と姉のさく、あかりと兄、サチと両親という、血のつながった家族は、すでに崩壊している(失ってしまった)のだが、弓月と金吾郎、あかりと兄嫁の春子、サチと養父となったヤクザの津々岡、さらに最後には弓月と春子という、血のつながらない家族の強さが語られていく。
「失ってしまった」後の人の処し方とでもいうか、後の「家族」「つながり」がそこにある。

彼らの間に流れるモノこそ「愛」であり、「赦し」であり、「信じる」ということではないのだろうか。
ラストに弓月と春子が手に手を取り合って旅立つときに、登場人物たち全員が現れ、彼ら2人を乗せた舞台を回す、という演出は、自分たちだけで生きているのではない、という、これも強いメッセージではなかったのだろうか。
だからこそ、グッときてしまうシーンになったのだ。

今回、バジリコFバジオは、予測不能なストーリー、妙にひねりのある設定と、細部に凝った台詞を、畳み掛けるように進行させながら、その根底には、確かなメッセージが確実にあるようになってきたのではないだろうか。
もちろんそうした姿勢はもともとあったとは思うのだが、さらにそれが強く感じる作品だったと思う。

また、ラストの選曲はベタながら、全員が歌うシーンはとてもよかった。そして、シーン展開ごとに流れる曲が、見事に決まっていて、選曲の巧みさに舌を巻いた。バラエティに富んだ既製曲を、多く使って、これだけうまくはまることはそうないのではないだろうか。

ラスト、シスコンの弓月は、亡くなった姉にそっくりな旅館の女将・春子(姉と二役)とともに旅立つのだが、ここにシスコン極めり、で、作の佐々木さんにお姉さんがいるのならば…。いや、まあ、それはいいいか。

出演者はどの役者もいい。
特に、弓月を演じた三枝貴志さんは、あいかわらずいい。中学生には見えないけれど、熱さと適当さの同居がたまらない。一本調子になりがちな役だろうが、そのブレーキのかけ方がうまいのだ。
そして、姉・さくと女将・春子を演じた浅野千鶴さんの、「姉」「年上」感(笑)がなかなか。
また、元広島カープのピッチャーで現在ヤクザの津々岡を演じた嶋村太一さんの、はぐれモノなりの哀愁と、養女への愛情がよかった。

今回人形の出番があまりなく残念だったが、象のトンキーは、あまりにも傑作で登場シーンで思わず笑ってしまった。おでこに顔なんだもの。
あと、「月」はいい味出していた。
それに人力で動かす回り舞台も、人力の意味がきちんとあり、とてもよかった。

エレファント・ヤンキーとホームレスのマスクは、バットマン風、そして、黒い帽子に白の上下にステッキ、目のメークで、エレファント・ホームレスが「雨に唄えば」を歌うとなると、『時計仕掛けのオレンジ』。さらに野球のユニフォームのヤクザは『ウォリアーズ』かな。野球ユニフォームのヤクザだから『カマチョップ』だとマニアックすぎか?(笑)。

サチの在り方に、宮部みゆき『名もなき毒』の影を見たような気もするのだが。

劇場ロビーでは、過去に使用した人形を、なんと200円で販売していた。
「これ欲しい」と思っていた「アソム君」を購入した。
家では家族に「目に付くところには置くな」と厳命されてしまうような、でかくて不気味感漂う人形だが、自室に飾りご満悦である。
Dear My Hero

Dear My Hero

LIVES(ライヴズ)

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2009/07/08 (水) ~ 2009/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

リング上で高く高く拳を上げる、爽やかなコメディ
予想外の展開に笑い、予想内の展開に涙するという、オーソドックスなコメディながら、観ている者にとても優しい。
コメディと言っても、流れるようにスマートだったり、爆笑が連続、というようなものではないのだが、観た後、気持ち良く劇場を後にすることができる舞台だった。

「爽やか」と、少しぐらい言ってもいいかもしれない。

ネタバレBOX

今回の試合で引退を決意したボクサーが主人公。引退試合なので、彼は初めてのメインイベントを飾ることになった。彼の願いは、ラストのリング上で高々と拳を上げることなのだ。
彼は、初めてのメインイベントということで、かなり気持ちが高まっているのだが、次々にトラブルやテンションを下げる事態が起きてしまい、気持ちの集中ができない。
また、彼には、この最後の試合に対して、もうひとつの想いがある。それは、ボクサーになることを反対していた父親に、最後の試合だけは観てほしいと思っていることなのだ。
そうするうちに、前の試合が次々終了し、自分の試合が近づいてくる、という、わかりやすいストーリー。

辛い想いをして練習・減量しても、負けてしまえば惨めな思いをしなくてはならないし、たとえ勝ってチャンピオンになっても、ボクシングだけでは食べて行けないボクサーの世界。
勝ち負けがはっきりしていて、勝っても負けても厳しい練習を黙々とこなしていくボクサーたち。
主人公の、この試合で引退するボクサーだけではなく、今回がデビュー戦の新人や中堅のボクサーたちもあり、そんなボクサーたちの哀しくも美しく強い姿が見事に描かれていた。
と言っても、これはコメディであり、そんな物語にも笑いやドタバタが挟まれて、物語は笑いと涙で気持ち良く進んでいく。
ラストは爽やかであり、とてもいい感じだ。

唯一気になったのは、主人公は、引退して終わり、すべてやり切った(完全燃焼した)ということだったが、年齢から言っても、これからが大切であり、ボクサーの夢を断ち切った後に繋がる未来のようなものがほしかったということ。
ろくでなし啄木

ろくでなし啄木

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2011/01/05 (水) ~ 2011/01/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

啄木の叫び
とにかく「うまい」。
展開も構成もいいのだ。
わずか3人だけの舞台なのに、目は3時間舞台に釘付けになってしまった。
三谷幸喜さすが! と言っていい。

ネタバレBOX

啄木が愛人の前から姿を消したある温泉宿の1日が物語の中心になっており、それを啄木の死後、愛人と啄木の友人が振り返るという、ややミステリー的要素のあるストーリー。

前半にトミの口からその日の出来事が語られ、休憩後にテツが同じ日の出来事を語るという構成である。いや、そういう2部構成だと思ったのだが、そうではなかった。なんと言っても、その後の展開が素晴らしいのだ。

単に2人の、それぞれの主観の違いからい出来事を多面的にとらえるというだけではなく、2辺にもう1辺を加えることで、立体に立ち上がっていくように、物語の本当の姿が立ち上がっていくという構成が素晴らしいのだ。
2辺とはトミとテツであり、もう1辺とは啄木である。

それまで「啄木」のタイトルがあるものの、啄木はどこか他人行儀で物語の中心にいるようでいない。どちらかと言うと、トミが中心のように感じていたのだ(前半がトミの記憶なのでよけいに)。
ところが、ラストへ進みながら、啄木が中心にすくっと立ち上がり、この舞台が見事に啄木の物語になっていくのだ。

啄木の「悪」への憧れと、「悪」になり切れない中途半端さ。モノを作り上げていくということへの苦悩と、自らが描いた虚像の枠に自らをはめようとして失敗していく様とが共鳴していく。そして、彼を取り巻いていた、彼への「愛」の姿たちに触れたときのおののき。
そう言ったもものが、徐々に顔を見せてくるのだ。

これには唸った。
ホントに凄いと思う。

2人にとって啄木とは何者だったのか、そして、啄木は彼らに何を期待し、何を得たのか、本当に素晴らしい舞台だったと思う。

テツ役の中村勘太郎さんの激するときの、モロ歌舞伎口調は、ある程度意図されていたのだろう。啄木役の藤原竜也さんの前半の抑え気味さは、後半のジャンプのためだったと思われる。その塩梅が見事。後半の振り絞るような、言葉にならないやり切れなさの全身表現が素晴らしいと思った。また、今回、初舞台のトミ役の吹石一恵さんは、固さはあるものの、この重責を見事に務めていたと思う。
存在と肉体だけが舞台にあるようなシンプルな、逃げ場のない舞台で、3人の役者が絡み合い、ぶつかり合い、調和して、見事にそれを為し得ていたということがとにかく素晴らしいと思った。

シンプルなセットの使い方もうまいし、ちょっとした遊び的な要素の入れ方もうまいと思った(ミカンの瞬間移動、前後の座敷の入れ替え等々)。
一月三日、木村家の人々

一月三日、木村家の人々

青年団リンク 二騎の会

こまばアゴラ劇場(東京都)

2009/05/23 (土) ~ 2009/06/02 (火)公演終了

満足度★★★★★

今日、と言っても1月3日なんだけど、木村さんちにおじゃましました
介護は、先の話ではない、明日、いや今日の話なのだ。
いちいち自分の身に振り返りながら観ていると、いろんなことが脳裏をよぎり、考え込むことしきりであった。
そして、笑ったけど、涙腺を強く刺激された。

多田さんの演出だから、何か仕掛けてくるのではないかと思っていたら、ある一点を除き、かなりストレートだったと思う。
その一点が見事なのだが。

ネタバレBOX

実際に、介護は、私の年齢では、まさに今日の話だ。
友人に仕事を辞めて介護をしている者もいる。自分の親と配偶者の親の4人を看ている者もいる。
彼らを傍目で見ながらも、あまり本気で考えてこなかった、というより現実逃避してきたことなのだが、目前にそれはある。

「家族」「家族愛」という言葉は、便利で万能で、光圀の印籠だ。それを言われたら何も言い返せない。
だけど、現実はその耳に優しく美しい言葉の先にある。

舞台は、客入れのときから微妙に始まっていた。役者さんが、出てきてセッティングするときに、軽く会釈をしたりするのだ。
多田さんも、前説で「あけましておめでとう」の挨拶と真冬の衣装で現れたりする。
また、劇中でも、あきらかに、我々観客に語りかけていたりというように、観客がそこにいることを強く意識させる。

こうなると、よく知らないご近所の木村さんちにお邪魔したら、ご家族が集まってきて、家族間のごたごたを聞かされるはめになってしまった私たち、という雰囲気になってくる。
ピンポーンピンポーンとしつこく鳴るのチャイムは、なんかそわそわしてしまう。すでに家の中にいる気持ちになっている。
帰るに帰れないし、何よりご近所の木村さんちの家庭の事情もよく知らないので、話の中に割って入ることなぞできないのだ。

しかし、この構図は、単に面白いから、というより、介護を巡る家族の話、つまり介護を巡る家族のバトルは、木村家の茶の間だけのことなのではなく、今、そこに居合わせ、そこにいることを意識させられている、私たちの茶の間での話題でもあるのだ、ということを強烈に印象づけているように思えた。
役者の視線は、私たちをその場に縛り付ける強力な力として作用するのだ。
ここが、演出家の仕掛けだっような気がしたのだ。

実体験の重さが込められていると思われる、台詞と登場人物のキャラクターの妙、例えば、直接の家族ではない、いとこやホストの登場による、それぞれの家族との距離感から発せられる台詞は実に見事だった。

中でも「大晦日にも元旦にも来なかった・・・」はかなりキツイ言葉だ。何度も何度も繰り返し叫ぶその言葉は、全身を貫いた。

言いたいことを全部吐き出して、すっきりした後の、少し未来があるラストには救われる想いがした。ただし、明日は我が身であるのだから、そんなにきれいにまとまりはしないのだろう。堂々巡りで結論が出ない、「ゴール」のない、本当は考えたくもない話。
「今日1日だけがんばればいい、そしてまた明日も1日がんばればいい・・」ここに大きなヒントがあり、それを受け取ることができた。

冒頭の、「ダンシング・オールナイト」の歌は、サビの部分だけのしつこい繰り返しは、なんかわかる気がした。

あ、そうそう、今回の照明は、こまかい色の追加やライトの数、角度の微調整などがあったようで、一見、平面的なお茶の間なのだが、よく見ているとシーンの様子ごとに合わせ、細かくニュアンスを変えて、表情を出していたのは、うまいなぁと思った。
ケモノミチ

ケモノミチ

ブルドッキングヘッドロック

ザ・ポケット(東京都)

2009/07/08 (水) ~ 2009/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

無駄も容赦もない台詞の応酬に、言葉なく、ただ座って震えて観るのみ
観終わったあとは、「あ〜」という深いため息。
ブルドッキングヘッドロック、その名前はしかと心に刻んだ。

ネタバレBOX

冒頭の雰囲気で、これはそういう物語かと思っていたら、まったく違っていた。
思わぬところに笑いも潜む。

外から見れば、まったく普通のどこにでもある人々。しかし、ちょっと触れてしまえば、崩れてしまうような、人と人、あるいは人そのものが危ういバランスで立っている様が見事に描かれる。
デパートの屋上にいる高校生をちょっと押したら落ちていまうんじゃないかというような感覚。
腹の中で燻りつつ、ときどきさらに弱いモノに当たったりしてしまうような弱さ。

そして、収まるべきところへ収まっていくであろう予感(解決ではなく)。

日常とか普通とかというものは、何も海からの巨大生物なんていう強い力がなくても、崩れてしまうようなバランスで構成されているのかもしれない。当たり前だけど、大都市よりもはるかにもろいのは人間なのだ。
『三月の5日間』100回公演記念ツアー

『三月の5日間』100回公演記念ツアー

チェルフィッチュ

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2011/12/16 (金) ~ 2011/12/23 (金)公演終了

満足度★★★★★

人や世界(社会)との微妙な距離感
出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている人たちの話。

「三月の5日間」の出来事が、「物語」となっていく、ある種の「ぶゆうでん、かっこわらい」な物語。


素晴らしい戯曲と役者たち。
1時間30分+休憩15分。

ネタバレBOX

2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間の話。

イラクの戦争なんてまったく関係ないや、と思っているような若者たちなのだが、やはり気にはなっている。
ラブホに長逗留していても、「家に帰ったら終わっていたりして」のように、どこか頭の片隅で意識している。

反戦デモに参加している2人組も、もちろんそうなのだが、過激系なデモの先頭にいたり、警官を挑発したりしている人たちとは、距離を置いている。

イラクは気になるし、戦争は嫌だけど、ほどほどの距離感でいたい。

それは、「戦争」という、遠い海の向こうの出来事に限らず、彼らにとっての、隣にいる友人との距離感も微妙なのだ。

ラブホで朝起きたら隣に寝ていた知らない女や、映画館で出会ったアズマとミッフィーの距離感の微妙さは当然としても、ライブにわざわざ誘って出かけたミノベとアズマ、デモに一緒に出かけたヤスイとイシハラの距離感も、友人であろうが、かなり微妙なのだ。

相手を気遣っているようで、その実、相手の話をきちんと聞いておらず、「あ、そうなんだ」と、上の空の同じ返事を繰り返していたり、自分の話たいことを、例えば、アンミラの制服話を無理矢理ねじ込んでみたり、なんだか「自分に好都合な距離感」ともいえる。

友人関係を壊すことなく、かといって、踏み込むでもなく、「丁度いい塩梅の距離感」だ。

「戦争」との距離感も、戦争そのものは、反対だし、もちろん、巻き込まれるのは絶対にイヤ。「反対」はしておきたいし、でもハードにかかわるのも、ちょっとな…というところ。「関心」があっても深くのめり込まない。
「評論家的」には、世界とかかわることができる。
そしてそれは、傷つきやすく、だけど傷つきたくない。つまり、自分を守るために、全方位的な関係でもある。

そうした若者たちを巡るストーリーは、すでに「物語になっている」。
「語られる対象」となっている、あるいは「過去の話」になっている、と言ったほうがいいか。

つまり、「あの2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間に、渋谷のラブホに居続けたんだぜ」という「伝説」のような「物語」になっているのだ。
それをミノベから聞いたアズマは、ほかの友人に話すし、そのとき自分はどうしていたのか、も加えて「語る」わけだ。

「じゃ、それをやりまーす」と言って始まるのは、その物語を「語っている(再現している)」わけであり、すでに「過去の物語」になっているということ。

過去の物語だから、何度も同じことを繰り返しているようであり、本人であり、第三者的でもある。つまり、自分の記憶を語るのは「第三者的」な視点が入り、「盛ったり」もする。
コンドームの話とか、どちらが先に「ここだけの関係にしよう」と言い出したのか、なんて微妙なことは、曖昧にしておく。

ラブホにいたミノベは、最初はチャラい感じなのだが、後半は、 オラオラ系な前に出るタイプになっていく(語る役者が変わっていく)。

全体的に、傷つきやすい系の中の、オラオラ系とも言えるキャラは、「伝説の象徴」と言ってもいいのではないだろうか。
つまり、語られていくことで、「ぶゆうでん、かっこわらい」になっていっているということ。

出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている、という今の人たちの微妙なバランスを観たということだ。

独特の長台詞と台詞回しが素晴らしいと思った。
役者としては、メガネのミッフィー(青柳いづみさん)が、戯画化されすぎてはいるが、面白いと思った。

で、スズキはどうした?
元気で行こう絶望するな、では失敬。

元気で行こう絶望するな、では失敬。

パラドックス定数

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2010/06/25 (金) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

どこかの暗闇に忘れてきてしまったコトたちが、(個人的にも)鼻の奥がつーんとなりながら蘇る
かつて、そういう年齢を過ごした者としての共感と、大切な記憶と、探られたくない記憶が交錯する。

ホントに、とてもいい舞台だった。

ネタバレBOX

何ごとが始まるのか? というオープニングから、引き込まれた。
よく考えれば、実際の高校生とダブルスコア近く年齢が離れている役者が、高校生を演じているのだが、どう見ても高校生にしか見えず、とてもいい(あの年代でしか出せないような)エネルギーを発していた。

そのエネルギーは、自己意識過剰のなせるワザで、例えば、「相手をいじめないと、優しい言葉がかけられず、人とつながることができなかった」りしてしまうのだ。
そのエネルギー(負のエネルギー含む)は、もてあまして、顔にニキビとかできてしまったりする。そんなエネルギーを舞台から感じたと言っても言い過ぎではないだろう。

それぞれは、知らず知らずのうち、「闇」のようなものを抱えている。
「闇」と言うほど大層なものではないとしても、「不安」という言葉では言い表すことのできない「モノ」が、鬱々と心にあり、それを「友だち」に知られたくないという、自意識と、無意識がとても困った状態を生み出してしまう。

これって、よくわかる。
たしかに、あの頃はそんな感じだった。

「太宰治は永遠の高校生」なんて言う、フライヤーにある言葉は、「なるほど」と思い当たったりする。
でも、太宰にはなれないのだ、みんな普通の高校生だもの(あるいは「だったもの」)。

そうした「闇」のようなものを内包した男子高校生たちの前には、「森」がある。「誰かに見てもらっていないと、森に飲み込まれてしまう」という都市伝説的な設定には、泣けてくる。

そんな伝説は、これぐらいの年代の妄想から生まれたものなのだろう。
「内なるモノ」を「外」に求めるというのは、最もわかりやすい反応だ。

「森」という共同幻想により、彼らの自意識は保たれているのかもしれない。
この設定は、ホントにうまい!
これが現実と、フィクションの狭間にあって、見事に物語を成立させているのだ。

記憶の隙間に落ちていた、いろいろなコトが、ふと浮かび上がったり、忘れてしまっていた記憶が、蘇ったりする。
私も誰もが、みんな「森」の中に置いてきてしまったモノが、たくさんあることに気がつく、
この舞台では、忘れられてしまったクラスメイトのように。
そう、まさに忘れてしまったクラスメイトは、「森」の中に忘れてきてしまったのだ。そんな記憶は、誰にでもあるのだろう。
そういう、ちょっと柔らかい部分を刺激してくる舞台でもある。

登場人物は、男子高校生20名。
だけど、20名という単位ではなく、そこにいるのは、1名1名1名・・・・の20名だ。どの役者も、鮮やかな印象を、きちんと残している。

これは、役者だけでなく、脚本も演出も素晴らしいとしか言いようがない。
私は、『東京裁判』しか観ていないのだが、あちらは、凝縮された空間で、火花を散らしていたが、今回は、大きな空間を見事に使い切って、エネルギーを発散し、集中をもさせていた。
シンプルなイスだけのセットも効果的だし、廊下のようなつながりのセットもうまいと思った。

また、実年齢に近い36歳への転換(なぜか全員メガネ・笑)もよかったし、演劇をやっている2人という設定も、ちょっと泣けてくる。
高校生までの18年間、そしてそれからの18年間その時間軸の持たせ方がナイスなのだ。
「おめでとう」「ありがとう」のラストの台詞が憎い。
「黄金の時代はこないかもしれない」なんていう台詞もあったけど、いつだって黄金の時代だったし、これからもきっとあるんだろうと、個人的には思うのだ。

何も考えずに、手放しの、輝く未来を期待するのではなく、過去のしがらみと、記憶が重なって、ラストに「未来へ」と、少しだけ橋渡しをしていくところが、またとてもいいのだ(タイトルがその意味ではストレート!)。

これは、ひょっとして個人的な感覚かもしれないのだが、男子の友だち関係って、こんな濃度だったのだろうか、と思った。もっと、表面上はあっさりしていたような気がする。多少のドロドロ感もあったとしても、意外とさらりとしていたような気がする。相手のことなんか考える余裕もなかったということもあろうが(そして無関心でもあった)。

そういう意味で、この舞台は、「女子校版」もあり得るのではないかと思った。

パラドックス定数、これからも目が離せなくなった。
クセナキスキス

クセナキスキス

The end of company ジエン社

d-倉庫(東京都)

2010/06/03 (木) ~ 2010/06/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

クセナキスの不安と苛立ち
クセナキスの曲を、少し大きめのボリュームで聴きながら劇場にやって来た。
舞台で話される「音楽家の高橋さん」の妹のアキさんの演奏によるCDだ。

舞台の幕が開く。
そこには、とんでもない台詞のアンサンブルが聞こえていた。

あえて、クセナキスと比べる必要もないのだが、その緊張感の濃度は等しい。
台詞が、きつい。

研ぎ澄まされた鋭い台詞の音色。
素晴らしい舞台。

ネタバレBOX

100年に一度の東海大地震のすこし後、市民の一部はまだ体育館などに避難している状況。

丘の上にある、開設前のデイサービス。ある宗教団体が運営する予定。
しかし、中心となるケアマネージャーの急死等で、認可がおりる可能性はまったくなく、開設は無理だろうということだ。

しかし、そこで働くスタッフは、準備を進めている。
無理を知っていたり、知らなかったり。

この場所に人が集まったところで、余震により道路が塞がり、ここは孤立してしまう。

集まった人の中には、開設に携わる医師がいる。彼は医療事故により、自分は殺人を犯したと責め、その遺族の女性を、この場所に誘拐してきている。
誘拐された女性は、一日中、音楽を聴き、PCの前にいる。逃げることはしない。ただ、この場所に訪れると思っている(あるいは思っていない)、音楽家の高橋さんを待っている(あるいは待っていない)。高橋さんは、クセナキスの理解者だ。

老人という設定の女性が開設前のこの場所で暮らす。身体に障害があり、どうやら認知症の兆しもあるようだ(もしくは、その設定を全うしている)。

様子のおかしい兄を連れにやってきた、医師の妹。介護用品の営業マン。スタッフの女性の恋人。開設前の空いている場所でバンドの練習をする3人。ここで暮らす女性の元恋人である市役所の職員。

とにかく、全員が何かへの閉塞感を抱えている。閉塞感からくる不安が、苛立ちを醸成する。その苛立ちや不安が舞台の上で充満している。
その源泉がどこにあるのかが、わかっていてもどうしようもない。
とにかく、全員が苛立っている。

大地震の後での疲れや不安が彼らをさらに苛立てている。
文字通り足下の揺れ、立っているところの不安定さは、彼ら全員に共通する。
また、ここへの唯一の道が塞がれ、孤立してしまったという様子も彼らの姿に重なってくる。

ここから出るには、救援隊が必要だと言う。また、自分で帰ることができると主張する者もいる。あるいは、ひょいと簡単に麓と行き来する者もいる。

ここにいる者は、外からの助けを求めている。自らの力ではこの閉塞感を突破できないと感じている。
「独り言」と言いながらも、SOSを発信している(救助を求めている)。SOSの声は届いているが、言葉は届いていない。もちろんそれがSOSであることはわかるが、誰もが自分のことだけで手一杯で、手をさしのべることはできない。
唯一、ここに暮らす女性だけが、手をさしのべようとするのだが、苛立つ者には、その手は見えていない。
というよりは、「助けてほしいあなた」からだけの救助を求めているのかもしれない。

声を荒げることはほとんどないのだが、言葉がきつい。
相手にダメージを与えることを期待しての、一言がきつい。

特に女性から発せられる一言が、ドスが効いていて背筋が凍る。
そんな風には言われたくないという空気をまとった言葉は、きつい。

救いは当然なく、自らの中で納得するしかない。

崖崩れによる、現実の孤立は、救助隊によって解消されていく。しかし、彼らの孤立は解決しない。

元医師は、コミュニケーションがうまくなかったと、過去を振り返るのだが、ちゃんとしていれば、と振り返るだけで前は見えていない。

ラストで、ガラスに映った自分の姿だけは確認するのだが、結局、人とのコミュニケーションは断絶したままで、向かい合う2人の声は、会話とはならず、自分だけに向けられている。

最初から最後まで、PCに向かい、ヘッドフォンで音楽を聴いている女性キスメは、ヘッドフォンの外で起こっていることは、聞こえるのだが、聞こえないことにしていた。

それは、実際にはすべての登場人物の姿であり、人のことは聞こえない。聞いてもわからない。クセナキスの音楽は聞こえてもわからないように。
キスメが待つ高橋さんと、同一の人物とは思えない高橋さんがやってくることで、彼女はひょっとしたら孤立から抜け出せるのかもしれない。高橋さんが本物だった場合は、彼が救援隊になるからだ。

キスメという名前はHNなのだが、KISSMEからきているという指摘は切ない。

クセナキスという作曲家は、高橋悠治という弟子であり、音楽家である人によって、特に晩年は、世界とつながっていたらしい。

クセナキスは晩年、アルツハイマー病に冒されていたと言う。アーチストにとって、自分の作品を世界に伝えられないというのは、どれほど辛いものだったのだろうか。

クセナキスの苛立ちと不安は、登場人物たちの不安でもある。
翻訳者や仲立ちをしてくれる救援隊は、彼らにいるのだろうか。

そういう不安や苛立ちと、外からの「手」は、誰しもが持つであろう願望でもある(あるいはあったはずである)。
ある時期の誰でもが経験するような気持ちだけに、見ていて辛すぎる舞台でもあった。

出演者の台詞のアンサンブルがとにかく素晴らしい。
息をのむ。

久々に凄い舞台を観た。
いろんな人に観てもらいたいと本気で思った、(たぶん)初めての劇団ではないだろうか。

ジエン社はこれから注目していこうと思う。

再び、クセナキスを聴きながら帰路につくしかない。

おまけ:劇中で出てくるクセナキスのシナファイ@ユーチューブ。
http://www.youtube.com/watch?v=9pBMxp8EJFA
ざくろのような

ざくろのような

JACROW

サンモールスタジオ(東京都)

2015/10/08 (木) ~ 2015/10/13 (火)公演終了

満足度★★★★★

会社は、まるで“ざくろの実”のようだ
「人」という1つひとつの小さな実で構成されている。

会社は人で構成されているはずなのに、人を幸福にしないことがあるのだ。

(ついついネタバレボックスにだらだら書いてしまいました)

ネタバレBOX

現実に起こった三洋電機の買収・解体を思い起こさせるような作品。

実際にある企業に似た、山東電機、松川電器、中国のハイミといった名前の企業が登場することで、技術力があるが業績不振の電機メーカーが大手メーカーに買収される、というストーリーから企業と人という視点ではあるが、どちらかというと経済系、社会派的な話ではないかと思って観ていたが、どうもそうではない。

もちろん「企業と人」の話ではあるのだが、特に「人」に焦点を当てている物語だった。
人がどうするのか、という話だ。
それが「どう見えるのか」ということでもある。
我々、「神の視線」から観ている観客が感じることは「人からどう見えるのか」なのだ。

タイトルにある「ざくろ」という植物の実は、割ると中に赤い粒々が見えてくる。
その粒々は、ミカンなどの柑橘類のような、「実の中身」というものではない。
粒々1つひとつにタネがあり、その粒々の1つひとつが「実」としての存在を示している。
つまり、ざくろの粒々のような我々は、ざくろという実を構成する1つの部品なのではなく、その1つひとつが芽を出し成長することができる、1つの実であるということなのだ。
(タネに対して果肉の部分にあたるところが少ないので、食べても充実感に乏しいということは、横に置いておく・笑)

つまり、「ざくろ(の実)」とは「企業(会社)」そのものではないのか。
企業は、粒々、すなわち「人」の集まりであり、それが「会社」という皮、というか共同幻想みたいなものに包まれているだけであり、「企業の実態」とは「人」にほかならないということなのだ。

「会社は」とか「企業は」とかのように、ついつい会社や企業を主語として1つの存在のように語ることが多いのだが、それは「皮」のことであって、実際はそれを構成している人の集まりのことを指しているのだ。しかし、「会社」や「企業」と言うときに「人」を思い浮かべることはほとんどないだろう。

だから、「人=会社」なはずなのに、「会社にとって」のような理論で、いつの間にか本来の実態である「人」がないがしろにされてしまうことがある。それが酷い状況になると、「ブラック企業」などというものになってしまったりする。

企業を構成する人が我慢したり、不幸になったりすることで、その集合体であるはずの「会社」が良くなるばすがないのに、だ。最近言われ始めている「人本経営」はそこから出てきた考え方なのだ。

しかし、「会社にとって」という、どこから出たのかわからない声(や意思)によって人は我慢を強いられたり、不幸になったりしてしまう。

この作品の登場人物たちも同様である。

経営不振による買収からの、会社の解散(倒産・消滅)という不測の事態に遭遇したときに、消滅する側の会社では、あるいは買収する側の会社では、属する従業員たちはどのような行動をとるのかが、この作品で描かれていた。

つまり、企業経営というような、経済的な範疇での、社会派的な物語ではなく、ここには困惑しつつも自ら決定して行動する人の姿が描かれていた。それは普遍的ものであろう。

ほとんどの演劇がそうであるように、観客はあり得ない視線で舞台上の人々を観る。
つまり、それは「神の視線」であり、物語の当事者ではないので、冷静に人々の行動を観察できるのである。

買収される会社は、一部の人は気づいているように「今まさに沈没しつつあるタイタニック」のようなところにまで来ている。
しかし、呑気に翌日のゴルフについて話をしていたりする。
また、会社に残りたい一心で、上司を陥れようとしたりもする。

そういう人たちを、「ダメな人だな」「イヤなヤツだな」と思って観てるのは、我々が「神の視線」から観ているからであり、実際にその立場、その状況に陥ったとすれば、どう立ち回るかわかったものではない。
つまり、神の視線は「他人からどう見えるのか」がよくわかる視線でもある。

神の視線から観ているから、舞台の上には悲劇があり、喜劇があるのだとも言える。

それは買収される側(山東電機)の人間だけのことではなく、買収する側(松川電器)の人間も同様である。
買収する側の人間は、冷静に、かつ冷酷に山東電機の社員をどう処遇し利用していくかを考え実践しているのだが、彼らもまた買収される側と同様に、「会社」という共同幻想の中に閉じ込められていて、その共同幻想、皮の「会社」の「意思」に従っているだけなのだ。

彼ら自身の意思で業務を遂行しているわけではない。
つまり、いつ立場が逆転してもおかしくないのだ。

観客は買収する側(松川電器)の室長の冷静な判断と計画を観て「冷酷だな」「会社の命令だからな」「会社がなくなっては元も子もないし」と、いろいろなことを考えるだろうが、それは安全な神の視線の側にいるからなのだ。自分がその室長の立場だったらどうするのか、情に流されずに業務を遂行できるのかということだ。

室長は、この仕事をどう考えているのかの本音は、室長とその部下の課長との会話で、室長がふと漏らす台詞からうかがえる。彼女(室長)の「人」が見えてくる一瞬であり、この台詞はなかなかうまいと思った。

副部長が部長を追い落とすような仕掛けをしたり、蔦サブリーダーが副部長に昇格することで、彼のリーダーだった野間に本年を叫ぶように吐露するシーンは、なかなかだ。
なかなかイヤな姿だが、ひょっとしたらどこか天井から眺めている神の視線によれば、自分たちの姿なのかもしれないのだ。

サブリーダーの蔦が副部長になって、(野間が辞めて中国のハイミへ転職したいと思っていたことを知っているのにもかかわらず)あそこであんなこと言うか、と観客は思ってしまうが、それも冷静に観ている神視線の観客だからこそわかることなのだ。後悔先に立たずとはよく言ったもので、我々もそんな過ちをしてしまっている。

山東電機の上司と部下たちに欠けていたのは、心理的契約と言われるような相互理解の関係だ。
暗黙に理解し合えるような関係があったとすれば、買収する側に対しても組織として対応できただろうし、野間に対して営業系の役員が振ってきた急ぎの案件も、うまく対処できたのではないだろうか。

野間と蔦の関係でも同じだ。
蔦は「上司の命令だから野間の言うことを聞いてきた」というが、単にそれだけの関係であって、野間と蔦の間にはそうした暗黙の相互理解がなかった。
だから、立場が逆転してしまっても、それは生まれることがない。蔦は押さえ込んでいた気持ちを吐き出すだけだ。

野間は正論を言っているようで、組織の一員としては問題がないわけではない。
それも実際に同じ組織にいれば、わかるのではないだろうか。

舞台の上での人間模様はとても面白かった。
それは戯曲自体もそうなのだが、役者がとてもいいからだろう。

室長を演じた榒崎今日子さんは、あいかわらず感情を殺して仕事を遂行するという姿が、刃物のように鋭くカッコがいい。
野間を演じた小平伸一郎さんは、オタクな感じを漂わせて神経質な感じがとてもよかった。
サブリーダーの蔦を演じた狩野和馬さんは、野間をしっかりと支えている人というイメージから副部長になるということがわかってからの、感情の爆発が凄い。こんなに感情を剥き出しにしたのは見たことなかったと思う。舞台の上に釘付けになった。

中野副部長を演じた谷仲恵輔さんは、やっぱり上手い。どんな役でも自分の姿にしてしまう(ほとんどがイヤな役なのだが・笑)。部長の前で泣いて見せ、呑みに行こうとするときに蔦に呼び止められ、こちらを振り向いたときに、実は泣いてなかったということがわかる顔には、ゾッとした。人の暗部を一瞬で見せてくれたようだ。
鈴木副部長を演じた佐々木なふみさんは、有能な上司でありながらも(野間は認めていた)、同じ女性社員に対し毒女的、お局様的な毒の滲ませ方が上手い。ロッカーの福山は笑ったけど。
部長を演じた吉田テツタさんの、呑気で人がいいけど無能そうな上司の空気感がいいし(まるで子どものような逆ギレのところとか)、中国人に切り替わったときの殺伐感もいい。

演出的にはホテルの喫茶室のシーンがなかなかだと思った。
普通はウエイターの設定はまどろっこしくなるので、割愛することが多いのだが、この作品ではいちいち注文を取り注文の品を持って来て、を見せる。しかし、それがまどろっこしくはならず、むしろ会話を途切れさせたり、間となったりすることで、ある種のリアリティを感じさせるのだ。
これはなかなかできないと思う。
前作『消失点』でも同様に、婦警さんを登場させることの上手さを感じた。

ただ、後日談のような中国企業のシーンは必要だったのだろうか。
野間は、妻に離婚届を出したことで、(そのことは蔦との会話に出てきたように)中国企業へ転職する意思が固まったことが、観客にはわかったのだから。
蔦が殴りかかるなんていうのは、どうなんだろう、と思った。

ラストにロボットが机から落ちるシーンがある。
人である前に「会社員」である者をロボットにたとえ、それが壊れた様を見せたのではないかと思った。

……野間が中国で突貫開発した電池が不具合を起こしてしまうということを暗示しているというのは、……深読みしすぎか(笑)。
武蔵小金井四谷怪談

武蔵小金井四谷怪談

青年団リンク 口語で古典

こまばアゴラ劇場(東京都)

2010/04/17 (土) ~ 2010/04/29 (木)公演終了

満足度★★★★★

面白い!
「武蔵小金井四谷怪談」「落語 男の旅 大阪編」の2本立て。
何も考えずにアハアハと笑った。

演劇的な、演劇でしかあり得ないような演出の面白さもある。
それをうまく盛り込んでも、観客に意識させないセンスの良さのようなものも感じた。

上演時間も手頃。

ネタバレBOX

「武蔵小金井四谷怪談」は、四谷怪談をどのように口語劇にするのか、という興味で観に行ったわけだが、そのストーリーというより、その内容を伝言ゲームのように伝えていった先に残った程度のあらすじを骨組みとして残して、あとは現代的とも、古典とも思えないような奇妙なストーリーに仕立てていた。

つまり、「四谷怪談」をやったわけではなく、あくまでも「武蔵小金井四谷怪談」なのである。
古典の「四谷怪談」という(文字の)アイコンのようなもを観客の脳裏にいったん置いての、巧妙な書き換えではないかと思う。
まあ、「四谷怪談にインスパイアされました」的な、というか、そんな感じ。
武蔵小金井というタイトルも東八道路という地名がちょっとだけ出てくるだけであまり関係ない。
これも単なるイメージのひとつであり、観客の頭へ放り込んでみただけのものであろう。

だから、舞台の後ろには、四谷怪談のあらすじが投影されるのだが、その文章を読みながらの答え合わせのような進行になると思っていたら、どんどんはぐらかされていく変な感覚の面白さがあった。
この人が伊右衛門で・・・なんて読み解いていくことが意味をなさなくなる。

また、おかしな動きや台詞があるのだが、それが実はということで、後半部分での見事な伏線となっており、丁寧に拾われていく様は愉快である

それがわかってくると、観客は、前半の台詞が繰り返されるのがわかっているだけに、そのオチとも言える台詞が待ち遠しくなってしまうのだ。じらし上手というか、待ちきれずに先に笑ってしまったりする観客もいたりする。


続く「落語 男の旅 大阪編」は、まず、「作・演出の岩井です」と名乗って山内健司さんが登場する。それが台詞であり、台詞の中の岩井さんと本人の山内さんが、山内さんの身体を借りて現れるというちょっとした面白さがある。

本作の成り立ちについての解説で、このまま漫談のように進行するのかと思えば、するりと芝居の中に入り込んでいく。
その様は、落語のマクラから本題に入るような巧みさがある。

登場人物が徐々に増えたりしながら、役者も増えていく。ところが、その役者の役が一定ではなく、あえて1人で何人かを演じ分けたり、あるいは逆に1人を2人で同時に演じたりするのだ。
男女の役者が出てくるのだが、男女の役をそれぞれが演じるわけでもなく、どちらもがどちらもを演じる。
また、年齢についても役者の年齢と登場人物の年齢は一致しない。
それがぐるぐる目まぐるしく入れ替わったりする。
そこに面白さが生まれる。

落語的でもあり、演劇的でもある。

それには特に意味はなさそうだが、役者がうまいので、面白さだけが醸し出されてくる。
テンポもいい。

ストーリーは、岩井さんの実話をもとに、大阪にある飛田新地という風俗街にでかけるという話なのだが、語り口の軽妙さだけで見せてしまう。
落語にありがちな、すぱっとしたオチがあるわけではないのだが、なんとも言えぬ、切なさが残る終わり方がなかなか面白い。
落語の良さをふんわりと漂わせながらの舞台であった。
「落語」という言葉を冠した意味はあった。

この「落語」という言葉をあえて入れたことで、「武蔵小金井四谷怪談」の「四谷怪談」と同様に、観客のイメージを方向付けたのだ。

そういう意味では、全体にかかっている「口語で古典」の「古典」というイメージも、多くの観客がそれを望んでやってくることを逆手にとっていて、そのギャップを演出して楽しませてくれたのだろう。
そのあたりはたぶん確信犯的であり、そこからが演劇の始まりということなのだろう。

ズレの面白さだ。「武蔵小金井・・」では古典の物語とのズレ、「落語・・」では、役者と登場人物とのズレ、そういう一見実験的でありながら、確実に「笑い」をとっていく見せ方にうまくはまってしまったわけだ。

普通に観れば、誰が誰なのかわからなくなったりするはずの、違和感だらけの内容なのだが、それを感じさせず、まるで単なる面白い話として見せてしまう演出の巧みさと、役者のうまさが結実した作品であったと思う。

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