旅がはてしない 公演情報 アマヤドリ「旅がはてしない」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「私」とは、どこからどこまでなのか? 「私という存在」はどこにあるのか?
    前作『プラスチックレモン』からこの劇団を観始めた者としては、今回も前回同様に、観劇後、私を深い思考時間に連れて行ってくれた。

    火花が出るようなと言うか、切れ味が鋭いと言うか、そんな会話の応酬にひょっとこ乱舞の凄さを観た。台詞の1つひとつが深く、うなってしまう。

    ダンスはもとより、すべてにおいて無駄がないし、レベルが高い。
    中でも、チョウソンハさんは、あいかわらず凄いし、笠井里美さんと中村早香さんの独自のリズム感ともい言える台詞回しも素晴らしい。
    もちろんそれは他の役者さんたちの仕事ぶりがあるからのことでもある。

    ネタバレBOX

    2009年7月14日、改正臓器移植法が成立した。

    未来なのかどこなのか、そこでは臓器だけでなく、身体の各部位の交換、さらには身体そのものの交換まで簡単に行えるようになっていた。
    しかも、ファッションとして。

    例えば、私の手は「私」のものである。その手を誰かに付けたら、それはまだ私の手なのだろうか、それともその誰かの手になってしまったのだろうか。
    他人に渡すのが、「脳」だったら、その脳は一体「誰」なのだろう。

    「私」は一体どこに存在するのだろうか。脳なのか、生命そのものなのか。脳であったとしても、例えば、私が「私である」という記憶を失ってしまったら、「私」は「私」であり続けるのだろうか。

    ミチは、人と人を繋ぐ。好きな人、想っている人に繋がることもできるし、離れることもある。
    ミチは、通路であり、同時にコミュニティでもある。
    地面からの高さ30センチ〜60センチにあるコミュニティ。
    立ち上がって動き回る者には関係ないというところがミソ。

    どんな時代になっても、人は人と触れていたいと思うのは変わらない。
    自分という存在が不確かで希薄であればこそ、他人の存在が重要になる。

    大勢の人の中に埋もれつつも存在する「私」。ミチでシャッフルしながら、人と文字通り交わりながら、希薄になっていく「私」。だけどそこに「存在」している。

    「他人」があるからこぞ「私」があるという感覚。他人の言葉で私が私を確認できるような感覚。

    また、他人は、自分の持ってないものを必ず持っている。自分の持ってないものは欲しくなるし、手に入れることができる立場や状況にあるのならば、手に入れる。
    しかし、手に入れても、それは自分のもの(あるいは、自分そのもの)になるわけではない。
    欲望には終わりがない。

    人は、手に入れられるものは何でも貪欲に手にしてきた。これからもそうし続けていくであろう。

    舞台を観て、人はこんなところまで来てしまったのかと思うのだが、過去の人から現在を見ると、同じように、人はこんなところまで来てしまったのかと思うに違いない。
    3人のミチの管理者は、それぞれが表裏に持つインプラントに代表されるように、人が進むときの要素のようなものを、象徴的に示しているのだろう。

    便利だったり、快適だったり、健康だったり、安全だったりという名目の下、実はかけがえのない何かを失ってきているのかもしれない。
    もちろん、後戻りはできないし、後戻りしようと言うわけでもないし、立ち止まって考えてみようということでもない。

    「ミチ」は、まだ先に続いている。そして旅はまだまだ続くのだ。

    ラストの「海」。「海」はから進化したモノたちにとって、それは希望なのか、さらへ先に進むことだけを示唆しているのか、余韻があった。

    ・・・サナギ版を観られなかったことを悔やむ。

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    2009/07/23 04:55

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