実演鑑賞
満足度★★★
「心のよすがを取り戻す作業」
1992年に246TANK+花光潤子が初演した本作は、日本国内はもとより世界各国で上演され続けている。今回はかつて旧日本陸軍戸山学校のあった戸山公園での上演が実現した
日差しはもとより風も強い、鳩が舞い降りては飛び立っていく、そんな日和の公園に突如目に入ったのは円形の木枠とむき出しの柱に白布がかけられた特設舞台である。近くに寄るとサッカーボールや植木鉢などの日用品、ブロックなどの廃材が散乱している。ここは家の解体を終えた更地という設定である。上演が始まるとそこに向かって全身白ずくめの男(御厨亮)と女(永井茉梨奈)が階段を下りやってくる。無表情で足音を立てないその佇まいはさながら幽霊のようだ。
ネタバレBOX
やがて二人はかつてこの家に暮らした日々のことを回想する。廃材のなかから流しやテーブルを拾い取り付け食卓を整える。窓枠から顔を出す仕草をしたり、便器に腰掛けたりして遊ぶ様は子どものようにあどけない。まだ出会う前に別の人に恋をしていた話や、蝉がけたたましく鳴く日に結ばれた日のことも。二人は一男一女を授かったようだがいまはいないーーこうして様々な不在を埋めるかのようにして対話を続けていく。
この二人がどのような遍歴の末この場に立っていたのか、何の説明もない。しかし観客は、たとえば日々の報道で接する戦争や災害で家を失った人たちの嘆きを想起することもできるし、作中の家や子どもに象徴される一人ひとりの心のよすがの喪失を埋める作業に重ねて観ることもできるだろう。この会場に来た観客は否応なく第二次世界大戦のことを想起しただろうし、戸山学校ができる前この地には尾州徳川家の下屋敷があり、幕末の大火で多くの建物が消失したことを上演後ドラマトゥルクの蒼乃まをによるメモで知ることになった。削ぎ落とされた対話の雄弁さと、それに拮抗するだけの空間を造りあげたことが本作第一の収穫である。
私が観た日が初回だったためか、中盤までは俳優の肉体が公園の自然や特設舞台に負けてしまっているように見えた。空間が広すぎるためにミニマムな芝居が薄っぺらく感じられ、観客を太田省吾の劇世界にいざなうにはいささか物足りなかった。たとえば2場で手づかみでスパゲッティを掴み口に入れるところで恥じらう場面など、もっと客席を沸かせるはずだったのに残念である。
しかし5場で舞台一面に大きな白布を波のように広げたあたりから調子が入ったのか、6場でドヴォルザークの新世界交響曲を聴きながら子どもの不在に言及するあたりから目が離せなくなった。終盤でお互いにアクビをたしなめるくだりで起きた観客の微苦笑は忘れがたい。
終劇が近づくとだいぶ日が傾きますます風が強まった。戯曲の設定では星空の下だがこの幕切れを白昼に観るというのはいささか困難がつきまとったのは事実である。しかし最後に二人が見せた酸いも甘いも噛み分けたような表情は、冒頭の能面のようなそれとは明らかに異なっている。作品の時間を経験した身体を目にできたのはよい経験であった。
実演鑑賞
満足度★★★★
国立劇場で『妹背山婦女庭訓』を通しで観た。人生初の10時間半観劇である(3年前に京都で観た『繻子の靴』を超えた)。前回2004年の通し以来2度目だが、その時が初の文楽鑑賞だったこともあり退屈してしまい途中で席を立ってしまった苦い思い出がある。
ネタバレBOX
第一部は歌舞伎ですら観たことのない段が観られてよかった。98年ぶりの上演となる大序「大内の段」は荘厳。二段目「芝六住家」はまるで忠臣蔵「六段目」のような筋と感じる。歌舞伎では1996年以来上演されていない。貴重な体験である。
第二部の「山の段」「御殿」はこれまで見取りで何度か観ているが、前段を観ているためにより理解が深まるうえ歌舞伎との比較もあり面白い。「山の段」はアクロバティックで特に定高が感動的。何度も観ている「御殿」では求馬の冷酷打算ぶりに怒りを感じ、お三輪の哀愁が染みた。
通して観ることで「国造りと抵抗」「喪失と和解」「自己犠牲と純愛」のような普遍的なテーマを強く感じられた。くわえて『妹背山』は天皇制支持者に市政の人々が巻き込まれていく物語であり、巻き込まれた人たちが死んだり家族と引き離されたりはするものの最後は嬉しそうであるという点が悲劇的と感じた。
実演鑑賞
5ヶ月ぶりに開場した歌舞伎座の初日に勘九郎巳之助の「棒しばり」を観た。
ネタバレBOX
入口で消毒・検温を済ませ自分でチケットをもぎったのちロビーに入ると、平時であれば売店の掛声や弁当・甘味の香りが漂うが、今はほぼ全て休店しているため閑散としていた。同様に客席も前後左右がつぶされた仕様でアナウンスに従い皆話し声も立てない。長いことこの劇場に通って初めて目にした異様な光景ではあるが、観客のマナーの良さを感じないではいられない。左右の桟敷をつぶし後方の扉から換気をしているのが目につく。
開幕前にアナウンスで勘九郎が口上を述べると、本来は嵐のような大向こうがかかるところではあるが代わりに観客は拍手で応える。いよいよ幕開き。勘九郎の次郎冠者は棒指南の豪快さ、両手を棒で縛られてから酒をくむ手際のよさ、終盤の全身を使って舞台を駆け回る様と大したものである。巳之助の太郎冠者は輝くような顔つき、安定した発声がまず印象的。中盤の下半身中心の踊りのキレが良く、勘九郎とピッタリイキが合っている。この二人の亡父・十八代目勘三郎、十代目三津五郎の名コンビは対照的な身体性で魅せたが、この若いコンビは身体がよく動くのが身上。扇雀の大名が安定しており舞台を締める。
まだ手探りの日々は続くだろうがなにはともあれ開場はめでたい。このまま無事に興業が続くことを願う。
実演鑑賞
満足度★★★★
「人間界と自然界の調和をテンポよく描く」
3年ぶりに静岡に行きSPACの『天守物語』の初日(5月3日)を観た。「ふじのくに野外芸術フェスタ2023」での上演である。
駿府城公園に入り城郭を目にしながら特設会場へと歩いていく、その道中からすでに物語の世界に入っていくかのような錯覚にとらわれた。奇しくも同日から玉三郎演出、七之助主演で同作が姫路城に組まれた平成中村座で上演されるというから面白い。
ネタバレBOX
演者たちが鐘や太鼓を演奏しながら舞台上を交差する幕開けが、いかにもこれから宮城聰の芝居が始まるのだという気分にさせてくれる。原作通り天守から侍女たちが釣り糸を垂らして花を集める場面があるのかなと思いきや、そこはカットされいきなり客席側から富姫(美加理)が現れ天守へと帰っていく場面になる。白塗りで鯉のぼりの意匠が印象に残る着物を身にまとった姿に目を引かれるが、語りを担う阿部一徳がドスを利かせて、この美しい姫が異形の者であることが分かる。
まもなく亀姫(榊原有美)の出になるが、ここで思いがけず岡林信康「山辺に向いて」がかかり驚く。思わず目を上げると薄暗がりの奥に尾根が見え、ここは自然のなかなのだと気がつく。亀姫の造形は幼くコミカルで笑いを誘い、その後の朱の盤坊(吉植荘一郎)が富姫への土産に差し出した人首の血を舐め回すグロテスクさとうまくコントラストがとれていた。
とっぷり日もくれて月がこうこうと輝くなか後半の図書之助(大高浩一)の出になる。当初は警戒していた富姫が図書之助の無垢さ、まっすぐさに惹かれ、「返したくなくなった」と漏らすくだりに恋の実感が湧くが、玉三郎の富姫が高貴な女性が純真な若人に惹かれるという造形であったのと比べると、美加理・阿部の富姫はあくまで異形の者であることに力点があり、それによってこの二人に異界と人間界の結びつきというニュアンスがより強く出てくる。あとは原作通り城の者に追い詰められた富姫と図書之助が獅子頭に隠れるが攻撃を受けて一度は失明するものの、修理(山本実幸)の働きで光を取り戻して空を見上げる場面で幕である。最後にまた流れる「山辺に向いて」が冷たくなり始めた空気に心地よく響く。
「ふじのくに せかい演劇祭2023」の記者会見での私の質問に対する宮城の回答通り、本作は作品の時間軸はそのままに現代に合わせたテンポ感でスピーディに展開していった。テキレジもさることながらセリフ部分を担う俳優たちが泉鏡花の言葉をたっぷり語りつつも時折現代語を交えていたところも大きいだろう。いつもながら出演者による大陸的な雰囲気の音楽(棚川寛子)の演奏も躍動感にあふれている。久しぶりに、十二分にSPACの作品を堪能した。
実演鑑賞
満足度★★★
「珍品二題」
各部珍しい狂言立で印象深かった。
3月10日に観た第三部「髑髏尼」は大正6(1917)年に市村座で六代目梅幸、六代目菊五郎が初演した吉井勇の新歌舞伎。戦後では昭和37(1962)年に歌舞伎座で六代目歌右衛門、十七代目勘三郎で武智鉄二の補綴により上演されて以来じつに61年ぶりの上演である。今回主演の髑髏尼を演じ今井豊茂とともに演出も兼ねた玉三郎がパンフレットに寄せた言葉によれば、前回上演よりもより原作に近い形での上演を目論んだという。
ネタバレBOX
源平合戦後の京都では源氏方が平家の反撃を恐れ街中の幼い子どもを次々に手に掛け親たちの悲鳴で溢れかえっている。海の向こうの戦争を想起させるこの幕開けはなかなかに重い。平重盛の上臈であった新中納言局(玉三郎)は忘れ形見の壽王丸を源氏の武士に殺され、亡き息子の髑髏を傍らに奈良の尼寺に入り、いつしか髑髏尼と呼ばれるようになる。彼女が堂内で蛇やトカゲ、サソリやヤモリの油を愛息の髑髏に注ぐというグロテスクな儀式をすると、そこになんと重衡の亡霊(愛之助)が現れる。つかの間重衡は彼岸へと還っていくのだが、この時舞台後方の幕が上がり数多の平家の武将の亡霊たちが浮かび上がる演出がなんとも荘厳で空恐ろしい。
寺の鐘楼守の七兵衛(福之助)は髑髏尼をひと目見て以来恋い焦がれているが、顔に大きな瘤があり他の尼から毛嫌いされている。髑髏尼のいる堂内に忍び込んだ七兵衛は髑髏尼に一生の願いだから俺と一緒になってくれと迫る。激しく抵抗する髑髏尼をやがて七兵衛は手にかけてしまう場面で幕切れである。国立国会図書館に収蔵されている初演の上演台本と比較すると、後半部分が若干補綴されていることがわかる。
まるで「ハムレット」「マクベス」「ノートルダム・ド・パリ」が合わさったかのような不思議な感触の物語だが、戦争の悲惨さやルッキズムゆえのコンプレックスが起こす悲劇など、現代に通じるテーマが幾重にも織り込まれていて見応えのある一幕であった。玉三郎の髑髏尼が剃髪してからも艶めかしい外見と、重衡の亡霊を呼び起こす場面で見せた怨念の対比を見せ、大抜擢の福之助が見せた七兵衛の未熟さ、狂気に走る若い男の悪が忘れがたい。脇では京の都の惨状を嘆く阿証坊印西を演じた鴈治郎が重厚で、都の烏は平家の血で生きているとせせら笑う烏男を演じた男女蔵の気味の悪い道化ぶりが目についた。
千穐楽に観た第二部の忠臣蔵「十段目」は通しではまず外されるうえに見取りでの上演も極めて稀である。廻船問屋の天川屋義平が赤穂浪士の討ち入りのために調達した武具を追手から隠し通し、妻を離縁し子どもを手にかけようとしてまでも守ろうとしたその覚悟を見た大星由良之助が義平を認めるという筋立てである。
芝翫の義平はその出から描線が太く、武具を隠した長持ちの上に鎮座し「天川屋義平は男でござる」と両手を広げて他を圧する名台詞をたっぷり聞かせていい。特に中盤で本来は味方であるはずの4人の追手たちとともに見せた立ち回りは緊迫感があり一番の見応えがした。女房おその(孝太郎)を強い調子で追い出しながらも心では泣いているという芝居を見せて、義平の心情がより立体的に感じられた。
忠臣蔵の物語の要諦を成しているともいえる大曲「九段目」と、討ち入りを描いた「十一段目」の間の「十段目」は、忠義に尽くす庶民の覚悟を描いた物語といえるだろう。奇しくも今月南座で右近ら若手中心の「五段目」「六段目」を観たため、勘平の悲劇とシンメトリーになっているとも感じた。
都合がつかず「リチャード三世」に着想を得たという宇野信夫作「花の御所始末」(第一部)が観られなかったことは至極残念。いつも出る古典も大切だが上演が稀な作品が出ることは観客として喜ばしい。再演が続き新しい観客が増えることで、また新たな伝承が続いていくことを願う。
実演鑑賞
満足度★★★★
「初日の『籠釣瓶』」
十八代目勘三郎の追善興行の初日に勘九郎七之助初役の「籠釣瓶」を観た。
あばた顔の豪商佐野次郎左衛門(勘九郎)が吉原で見初めた傾城八ツ橋(七之助)を身請けしようとするも、八ツ橋が間夫の繁山栄之丞(仁左衛門)と養父の釣鐘権八(松緑)に強要され座敷で次郎左衛門を愛想尽かしをする。その後再訪した次郎左衛門は八ツ橋を手に掛けるという有名な「吉原百人斬り」をもとにした筋だが、近年性風俗産業で起きた殺人事件や借金苦の女性が売春に手を染めるといったニュースと相まり、遠い昔の出来事とは思えない現代性があった。くわえて、これまで私が観た吉右衛門福助、勘三郎玉三郎、菊五郎菊之助のコンビと比べ、今回は次郎左衛門と八ツ橋の年齢差に大きな開きがなく、ともに40代に差し掛かったばかりという若さが舞台に新鮮な風を吹かせた。
ネタバレBOX
勘九郎の次郎左衛門はいい年になっても仕事ばかりで遊びを知らない素朴な青年といった風体で、こういうひとはどこにでもいそうだという実感がある。八ツ橋をひと目見て顔を震わせ、片足に重心をかけて傘を持ってきまるお定まりのポーズが、このひとの骨っぽく鋭角的な体つきと合致していて見惚れた。連れのふたりに自分がいないときに八ツ橋を買えばいいと悪気なく言ってしまうあたりの迂闊さが、吉原という人身売買の場の残酷さを浮かび上がらせる。八ツ橋の愛想尽かしに対して「花魁、袖なかろうぜ」で始まる愁嘆場は共演者が手練ばかりで盛り上がり、最後の殺しの場面で見せた凄み、あまりの変わりように身震いを覚えた。
七之助の八ツ橋はそのキレイさもさることながら、見初めから愛想尽かしまでまことに芸容が大きい。しかしオモテの世界では女王であっても自分を金づるにしている栄之丞と権八に迫られるくだりや、愛想尽かしをして座敷を立ち去り木戸を閉じて手をかけたその形に、金に縛られて生きざるを得ない苦界の悲しさが出ていた。次郎左衛門に斬られ海老反りになって絶命する最期も余韻があっていい。
この作品が面白くなったのは周囲が粒ぞろいだからでもある。松緑の権八はいかにも金にだらしなく無頼漢ぶりで八ツ橋を追い詰め、歌六の立花屋長兵衛と時蔵の女房おきつが舞台を締める。そして勘三郎玉三郎のコンビに付き合った仁左衛門の栄之丞の洗練された色男ぶりが、次郎左衛門の悲劇をより引き立たせた。愛想尽かしで次郎左衛門と八ツ橋を取り囲む人物たちに割り振られたセリフが劇的効果を上げていることにも今回初めて気がついた。
若い感覚とアンサンブルで古典に新たな息吹が加わる、そんな場に立ち合える幸福に満ちた上演であった。
実演鑑賞
満足度★★★★
「円熟の『御浜御殿』」
真山青果が徹底した資料考証をもとに創作した『元禄忠臣蔵』は新歌舞伎の名作として知られている。なかでも1940初演年の「御浜御殿」は科白劇の傑作である。本作をたびたび手掛けた当代仁左衛門による綱豊を観るのは17年ぶり2回目である。
ネタバレBOX
江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷に及んでからおよそ1年あまり、次期将軍と目される徳川綱豊(仁左衛門)の別邸の浜遊びに、赤穂浪士の富森助右衛門(幸四郎)がやってくる。助右衛門の目的は、浜遊びに招かれている吉良上野介の顔を見ることだった。綱豊は助右衛門を呼び寄せ、浪士たちは浅野家再興を望んでいるのか、あるいは主君の仇を討とうとしているのか探りをいれる。この二人のやり取りが本作の白眉である。
仁左衛門の綱豊は上の幕のお浜遊びでゆったりほろ酔いの様子の登場がまず周囲を華やかにさせる。中の幕で屋敷にブレーンの新井勘解由(歌六)を呼び寄せ浪士たちに討ち入りをさせたいと本心を打ち明ける、そのときに歌六の勘解由が「したり!」と返すその間が絶妙だった。
いよいよ下の幕で綱豊と助右衛門のやり取りとなる。ここは幸四郎の助右衛門がいいから盛り上がる。この助右衛門はごく普通の朴訥な青年であり、彼が意地を張るほどに仁左衛門の綱豊がおおらかに包み込むような、遊ばれることを遊ぶような大きさを見せていて面白い。終盤で助右衛門が吉良と思い飛びかかろうとするところを静止するくだりも二人のイキが合っており、かつ仁左衛門のキレイさが際立って見応えがあった。
実演鑑賞
満足度★★★
「言霊を舞台に乗せる」
福島在住の詩人・和合亮一が、2011年3月11日の東日本大震災の発生直後からツイッター(当時)で発信した言葉を編み刊行し大きな反響を呼んだ原作を、過去にも和合作品を度々手掛けた篠本賢一が舞台化した。
ネタバレBOX
冒頭、仮面をつけた女が佇む舞台に向かい客席後方から出演者たちが「黙礼」と題した言葉を読みあげ入場する。こうして和合が発した言葉の数々が、ギリシャ悲劇のコロスのような能楽の謡のような俳優たちによって重層的に、立体的に構築されていく。
度重なる余震や緊急地震速報のアナウンス、福島第一原子力発電所の爆発による放射能被害など、13年前に観客の誰しもが震撼した災事が頭をよぎり、思わず身を震わせる。言葉を発することでかろうじて正気を保とうとした、和合に象徴される被災者の苦境に思いを馳せた。ただ警報音を用いた演出や災害を扱った内容であるため、事前のアナウンスは必要であったように感じた。
物語は出演者が群読に合わせ鬼の面を被った女が舞うなか終わる。死者への鎮魂、中央政府への怒り、望郷の想いなどさまざま織り込まれていて圧巻であった。
実演鑑賞
「イメージの飛躍が際立つ歴史劇」
2022年初演の劇団代表作の再演である。私は最終日のAキャストを鑑賞した。
ネタバレBOX
圧政に苦しむ島原の少年益田四郎(初鹿野海雄)は内気で人付き合いがうまくない。友人のハチ(小林かのん)とともにほかの少年たちのからかいの対象となっている。彼らがバイトしているパチンコ店では年貢を納められない百姓たちや、パチンコ玉を拾い陰で銅像を造って売っているナマリ(山﨑紗羅)らがたむろしているのだった。ある日声が出なくなった店長(越智愛)にけしかけられて四郎が客寄せのマイクパフォーマンスをすると皆は一気に惹きつけられる。
四郎の隠れた才能に目をつけた山田(四家祐志)は一揆軍に加わらないかと誘う。手品の仕掛けに四郎の見事なアジテーションも相まって、山田は四郎を神の子として皆に認めさせることに成功する。こうして一揆軍は原城に籠もり叛乱を続けるのだが……
私が面白いと感じたのは天草四郎が創られた神であったという取材をもとにさまざまなイメージを作中に展開させた点である。一攫千金を狙う農民たちがパチンコ店に詰めかけ、それをまた搾取する店長という構造を圧政に苦しむ農民に重ねたり、ナマリが銅像を造って売るという行為に四郎の崇拝化を重ねるなど、穏当な歴史劇にしなかった点が面白い。
しかしこのイメージの豊富さとは裏腹に作劇自体はもう一捻り必要と感じた。一杯飾りのシンプルな舞台にもかかわらず場所の設定がたびたび変わり、一部の俳優が何役か兼ねるため、いま一体何を観ているのかわからなくなっていく事態が頻発した。山田が代官と通じているというのも平板であったし、そのため窮地に追い詰められた四郎の絶望や、神を失いかけた一揆軍の疲弊がまざまざと伝わってこなかったのが残念である。
実演鑑賞
満足度★★★
「夢があぶり出す現実と虚構のあわい」
ネタバレBOX
青年(大石英史)がひとり椅子を並べている。彼の動きに無駄はない。舞台奥に据えられているマイクに向かい注意深くかつ整然と、40名ほどは座れるであろう観客席を作り上げ、後方のカーテンを閉じると闇が空間を支配する。
マイクの前に立ち音楽を流す指示を出した青年は、この話は夢のなかの設定であり、この夢から覚めたら自分は死ぬつもりだと観客に向けて語りはじめる。途中、足音もなく闖入者が二人(深澤しほ、田中美希恵)やってきて、椅子に座り青年の声に耳を傾ける。やがて青年は現実の世界で体験したことを夢のなかに再現していく。小学校のプールでうまく泳げなかった思い出や、コンビニでの気まずい出来事、学校でクラスメートから嫌がらせをされても友人の曽根ちゃん(平嶋恵璃香)が元気づけてくれたことなど。そのたびに闖入者たちがそれぞれ青年があてがった役回りを演じていく。
青年と曽根ちゃんは復讐すべく主犯格の久保田(深澤しほ・二役)と東(田中美希恵・二役)に狙いを定めようと話していると、今度はこの二人の夢語りがはじまる。それぞれの語りの場面ではいつの間にか他の俳優が、冒頭のようにマイクに向かい椅子を並べていく。ここでは青年が受けたトラウマティックな体験が加害者の側から描かれる。こうして複数の夢が交錯し現実と虚構のあわいが描かれていく。
本作第一の魅力はさまざまな演劇的手法を用いたうえでそれを統一して見せていた点である。登場人物が現在進行系で自分の考えや動作内容を述べながら移動する様子はヨン・フォッセの作劇に通じるものがあった。また闖入者たちはさながら能楽師のようにひたひたと舞台端を歩き、入口に見立てたハンガーラックを越えて夢の中へと入ってきた。曽根ちゃんを演じた平嶋恵璃香が夢のなかの出来事を落語のように上下を切りながら語る場面は会場の笑いを誘っていた。手数が多いながらも目線がブレることなく観続けることができた点は特筆に値する。ただし演出のトーンがシリアスなために細かなギャグが客席に通じにくくなったというきらいはあった。
普段着姿の俳優たちが、パイプ椅子やハンガーラックといった日常的なもので夢の世界を描くという演出のコンセプトもはっきりしている。森下スタジオのがらんどうとした空間を十全に使い、たゆたうような照明と音楽で夢のまどろみを作り上げることに成功していた。カーテンを開くと外の明かりが入り終劇するというのもよく考えられたものである。
しかし上演を終えて思ったのは、はたして私はいまなにを観たのかという疑問である。これは青年の一人称であり現実の出来事や願望が反映された世界だったのか、はたまた神の視点から複数の人物の夢の交錯を描いたものだったのかが私には得心しかねた。その前提があいまいであることに加え、作品のパーツとしての役割が大きい登場人物たちに感情移入することが難しかった。自死を選ぶまで追い詰められた青年の心の叫びや、他の登場人物が選んだ行動の動機に肉薄できなかったことは残念である。
実演鑑賞
満足度★★★
「激しくも静謐な男女の交錯」
ネタバレBOX
開演前の舞台上に男(目黒陽介)がひとり、椅子に座って小首を垂れている。ときおり宙を仰ぐ目には光が灯っていない。定刻になると袖から他の出演者が舞台上の椅子や机を動かしてあっという間に場面が変わり、いつの間にか男は消える。われわれ観客はこうして本作の激しくも静謐な世界に誘われる。
やがて別の男(目黒宏次郎)と女(入手杏奈)によるダンスが始まる。男の首に女が腕を絡ませるところを見ると恋人のようだが、近づくかと思いきや激しい振りへ変わり、やがて離れていってしまう。まるで出会った頃の男女の濃厚なラブシーンが倦怠期に突入し、果ては喧嘩沙汰に発展して別れていくかのようなカップルの時間の経過を見たような心地になった。
次の場面で冒頭の男は別の女(安岡あこ)とお手玉のような、パンの種のような、たるみのある白いボールを使ってゲームに興じる。陣取り合戦のようにもオセロのようにも見える他愛のないやり取りがいつしか体を乗り出した奪い合いとなり、ボールの動きは激しさを増す。暗い舞台上にその白さは一層映える。
こうしてダンスのとジャグリングそれぞれのペアが交互にパフォーマンスを続けていく。ダンスペアで圧巻だったのは、男が椅子の背に手をかけたり女にしがみつかれた状態で見事な倒立を見せたり、長机の背後に張り付き壁に見立てた状態で縁から顔や手を出したところである。まるでスパイダーマンようなしなやかな身体性に目を見張った。机や椅子は出演者が安全にパフォーマンスができるよう、今回のための特注したということにも驚いた(舞台美術:照井旅詩)。他方ジャグリングのペアが見せた、数個の白いリングを腕や首に絡ませて互いの体を近づけては離す、その過程が切ろうとしても切れない縁のようにも、知恵の輪を解くべく苦慮しているようにも見えたところが面白かった。
全員が無表情ながらペア同士激しく体を使うため、息つく暇のない濃密さに溢れゆたかな感情が交錯しているように感じられた。このように書くと張り詰めた舞台のように思われるだろうが、ゆったりと伸びやかに展開していくというのが本作の大きな特徴である。淡々としていながらも不協和音が耳に残るイーガルのピアノ伴奏や、ダンスやジャグリングに陰影を与えた秋庭颯雅の照明も作品に大きな貢献をしていた。ただ男女が近づいては離れていくという振付やジャグリングに型があるように思えてしまい、先の展開がおおよそ読めてしまうきらいはあった。
最後は、それまで交わることのなかったペアが合同で綱を引き合う。ここでもペア同士協力し合ったり邪魔をしたりして面白い。しかし高跳びや縄跳びのようなじゃれ合いも見てみたかったというのは無理な頼みだろうか。
実演鑑賞
満足度★★★
「排除された女性たちが突きつけること」
出演者の熱演と戯曲の強いメッセージが胸を突く1997年イギリス初演の二人芝居である。
ネタバレBOX
物語は1924年、イギリスの収容施設の場面から始まる。21歳のペルセポネー・ベイカー(橘花梨)は、2年前から収容されているドーラ・キットソン(小口ふみか)とともに風呂掃除をしている。ペルセポネーは上流階級の出身のようで、自分を「魔女」と呼び医師の診断のもと施設へと送り込んだ父親に連絡を取ろうとするものの、外界から閉ざされたこの場では叶わない。対するドーラは歴戦の女性兵士の名を挙げながらテキパキと掃除をしている。二人はそう遠くない時期にここを出ることを望んでいる点では一致しているが、性格は噛み合わないようだ。
照明が変わると幾分明るい雰囲気になり第2幕となる。今度はポルフ(橘花梨・二役)が男に襲われたと嘆きながらドルフ(小口ふみか・二役)に泣きつく場面に変わる。ウィッグをかぶりアメリカの俳優で歌手のドリス・デイに憧れているポルフは陽気に「ケ・セラ・セラ」を口ずさみ、その様子をドルフは本を読みながら静かに見守る。
この二つの幕が交互に続きながら、じょじょにこの4人の登場人物とその関係性が明らかになっていく。ペルセポネーは30歳も年長の既婚男性と恋に落ち子どもをもうけていた。兵士に憧れ葉巻が好きなドーラは男性的と非難されていた。女性の人権が認められていなかった時代に逸脱行動をとったと見做された二人は、反目し合いながら身の上話をするなどして少しずつ距離を縮め、日々の掃除に精を出し、ときに一緒に踊ったりする。ポルフとドルフの幕はより自由で軽やかに、好きな映画や食事の話に花を咲かせる。ここは押し込められたペルセポネーとドーラの想像世界のようにも、晴れて自由になったあとの他愛のやり取りのようにも見えてくる。先の見えない物語を見守る観客に突きつけられるのは、現在にも通じる人権問題への痛烈な批判である。
本作第一の見どころは俳優の演技合戦と二役の演じ分けである。橘花梨のペルセポネーは、当初『欲望という名の電車』のブランチよろしく浮世離れした様子でドーラに文句ばかり並べていたが、本来は芯が強く包容力のある人物として造形されていた。ポルフを演じたときは屈託のない少女に変化しており俳優としての幅の広さを示していた。小口ふみかは巧みな台詞回しと軽い身のこなしでドーラを演じており、じつはその闊達さが強がりであり少しずつ精気を失っていく過程をうまく表現していた。特に終盤、あまりにも長い収容生活のため時間感覚がなくなり、絶望した気持ちをペルセポネーにぶつけるほどに錯乱していく様子が忘れがたい。二役ドルフも安定していたが、もっと変化が感じられてもよかったように思う。
私が観たのが初日ゆえか当初は二人とも芝居が固く、自分の台詞を淀みなく発することに集中しており相手の台詞を受けた変化に乏しい印象を受けた。ちいさな劇場であるし収容施設の設定であるならば、もう少し声の大きさを落としてもよかったように思う。しかし中盤を越えたあたりからまばらであった客席の反応が少しずつ静かな熱狂となり、カーテンコールでは喝采となった。印象に残る場面は多いが、中盤と終盤で収容所を抜け出すことを夢見ながら息のあった身振り手振りで空中を掻く「エアスイミング」の場面が忘れがたい。
楽園の劇場機構の大きな特徴である二面の客席を利用した空間設計もうまい(舞台美術:平山正太郎)。舞台を観るうえで自然と他方の客席の様子と視線が目に入るわけだが、それがまるで公権力によって排除された二人のあがきへの「まなざし」を可視化しているように感じられた。中央に置かれたバスタブと横に置かれた二脚の透明な椅子というシンプルな一杯飾りながら、照明変化や電灯、演技空間を囲む円形のカーテンレールを用いて、ややもするとふさぎがちになりそうな空間に細やかな彩りを与えていた。ただこの趣の妙が収容施設の設定と合致するかは好みが分かれる点とも思う。
次節において私は現代では不適切な表現を使用しているが、差別を助長してはおらず論じるで必要と考えているためあえて記載していることをあらかじめ断っておく。
作中では排除された女性たちが周囲から「精神薄弱」と呼称されたという言及がある。上演台本が底本としているであろう幻戯書房刊の小川公代訳と、サミュエル・フレンチ社刊の原書を参照すると、これは原文のmoral imbecileの邦訳である。パンフレットには「原作への尊厳を計らい時流による台詞の改変を行わ」なかったと付記されているが、上演前のアナウンスもあってしかるべきではなかっただろうか。くわえてトランスセクシュアルの揶揄や露骨に性的な表現が使用されていた点への注意喚起もなかった。細やかな配慮が不可欠であろう本作の上演にあたっては必要な対応であったと思われるため残念に感じている。本国初演からすでに27年経たうえでの上演であることを念頭に、この間起きた社会通念の変化を反映し、歴史的事象を扱っている前提を共有したうえでの上演が求められたのではないか。
物語は50年収容されたペルセポネーとドーラが解放される第16幕で終わる。声が低くなりゆっくりとした喋り方になった曲がった背中を見ていて、私はこの二人が背負わざるを得なかったものに改めて思いを馳せ強く拳を握っていた。
実演鑑賞
満足度★★★★
生者と死者がともにいる世界
新型コロナウイルスが猛威を振るっていた2020年に上演されたアトリエ公演のリメイクである。多くの人が亡くなり常に死の恐怖と隣り合わせだった感染症禍があってこそ生まれた作品といえるだろう。
ネタバレBOX
ピンクの自家用車で山道をドライブ中の高木龍之介(木村巴秋)とユリ(清水緑)夫妻は、ヒッチハイクをしている山本ユカリ(北川莉那)を拾い羽田空港へと向かう。ユカリは7年付き合った彼氏に振られ、傷心旅行への道すがらであった。当初はよそよそしかったユカリが同郷の同い年と知ると、ユリはすっかり心を許し、龍之介の反対を押し切って一路東南アジアへと向かうことになった。
飛行機でユリは龍之介との新婚旅行のときのことを思い出す。客室乗務員(小瀧万梨子)に英語が通じなかったことや、ユリの母の反対を押し切って結婚したことが心残りであったこと、現地でもピンク色のレンタカーに乗って恋愛バラエティ番組「あいのり」よろしく見ず知らずの男女を拾ったこと……到着してメコン川クルーズや寺院参拝などを満喫した3人は、つぎはトルコのイスタンブール、そしてイタリアのヴェネツィアなど世界各地への旅を続けていく。道中ではユカリが相乗りしてきたかなやん(金澤昭)に失恋したり、龍之介が高校時代の知り合いのミキ(菊池佳南)と大沢(亀山浩史)夫妻に出会ったりなどさまざまなことが起こる。この旅のなかで龍之介の存在は徐々に薄まっていき、やがて彼は本来「いないもの」とされてきたことが分かる。
私が面白いと感じたのは、時間や空間が自在に行き来し、彼岸と此岸の境界が取り払われた作品世界のなか、さまざまな位相にいて本来は邂逅しないはずの登場人物たちが舞台上に出現していた点である。いわば本作の主役はこの荒唐無稽な世界そのものであり、登場人物や描かれたエピソードを鵜呑みにするのではなく、この世界の表象や構成しているパーツと捉えて観てみればわかりやすい。しかもこの荒唐無稽さが極めて自然に、ときにおかしみを交えて描かれていた点が独特である。本来は亡くなっている龍之介とユリが一緒にドライブや旅行に行くことはあり得ないが、二人とも龍之介の死を当然のことと受けとめ、感傷を交え得ることなくイチャつきあっている。ユリはユカリにも龍之介を紹介し、彼が亡くなっていることを示唆するがユカリも動揺していない。無論龍之介が幽霊であるなどという言及もない。この世界のなかでは死は生と地続きなのである。観ていて私は、東日本大震災の直後に被災地のタクシー運転手がしばしば幽霊の客を乗せたという証言を思い出した。そう考えれば、実は生きているのは龍之介ただ一人だという解釈も可能なのかもしれない。
コロナ禍に伴い大幅な外出制限を経験した我々観客が、感染症と隣り合わせだった人類の歴史に切実な思いを抱く描写があったことも忘れ難い。一部の登場人物がペストマスクを被っていたりひどく咳き込む描写が挟まれていたりしたことに加え、ヴェネツィアの場面でペスト患者の集団墓地の話題や、コレラが蔓延していた時期を描いた映画『ベニスに死す』で使用されたマーラーの「アダージェット」が鼻歌で流れたように聞こえたことなどからも、作者の意図は伺えた。初演では本作の旅行の描写に掻き立てられた観客が多かったであろうことは容易に想像できる。
数台のパイプ椅子を移動させるだけで車中をレストランに、そして船中に変えるなどテンポの良い展開もうまい。龍之介とユリ、ユカリが海鮮丼を食べている横で、葬式から帰ってきたミキと大沢がいて龍之介の死を示唆したり、数役を兼ねる俳優が旅行の場面で演じる役を自然に入れ替えたりすることで、過去と現在の時間軸をするりと移動させて舞台に厚みを持たせることにも成功していた。奔放に行き交う空間と時間、そして登場人物の移り変わりは目まぐるしく、その後の展開を示唆する歌謡曲や落語を入れ込むなど手数の多い演出は感心したが、果たして自分はいまなにを観ているのかと混乱を覚えたことも事実である。とはいえ本作の感触は他ではなかなか得難いものであったことは疑いえない。
龍之介の葬儀を終えたユリは、今は亡き母を連れてドライブにいく。道中でヒッチハイクをしている龍之介を拾うと、3人でどこかへと旅立っていく。暗転するなか舞台前方に置かれた花がぼんやりと輝きを放ち、それがこの数年間の死者への鎮魂であるかのように見えたのは私だけではないと思う。
実演鑑賞
満足度★★★
観客が物語の鍵を握る討論劇
2年前に小学校で発生した日本刀による無差別殺傷事件を受け、某区でタウンミーティング(政治家などが一般市民に対して行う対話型の集会)が催される。歴史上初めて出される廃刀令の是非をめぐり、8人の有識者が1時間に渡り激論を交わしていく。
ネタバレBOX
司会の宮入智子(前田友里子)からの紹介を待たずして議論の口火を切った社会運動家で元政治家の上林美貴(榎並夕起)は、総人口よりも刀の本数が多い現状を憂い、廃刀令を実現することで安全で安心な世の中を実現するべきと正論を述べる。それに対し全日本刀剣協会で地区支部長を務める隅谷剣慈(矢吹ジャンプ)は、和服に二本差しの姿で「刀は日本人の心」と豪語し、教師全員が帯刀していれば抑止力となり無差別殺傷事件を止めることができたのではと持論を展開し真っ向から対立する。同じく反対派でもジャーナリストの月山亮子(鹿島ゆきこ)は、女性が帯刀することでセクシャルハラスメントの被害を抑止できるという持論を展開。元ヤンキーで傷害事件を起こしたが、今では心を入れ替え刀は抑止力にならないと述べる吉光裕之(斉藤コータ)とは噛み合わない。自分は帯刀しないものの帯刀しないことを中央政府に強要されることは厭うという立場を取る歴史小説家の広木由一(淺越岳人)を除き、刀職人でインスタグラムを通じて美術品としての刀剣の魅力を発信する八鍬舞(江益凛)、刀ではなく鎖鎌の普及を推進するユーチューバーの高橋俊輔(古谷蓮)など、それぞれの立場から好き勝手賛否両論とツッコミを交わし続け、議論は度々横道に逸れる。
挙げ句ものづくり系ベンチャーの若手社長・瀬戸英典(伊藤圭太)が日本刀に交通系ICカードの機能やモバイルバッテリを搭載した「スマ刀」をプレゼンテーションすると、有識者たちは「スマ刀は日本刀か否か」で議論が割れて収集がつかない。各論者の思惑が交錯し立ち位置が揺れるなか、果たして客席の市民は賛否どちらに票を入れることになるのか――ことの顛末を見守った我々観客はあらかじめ渡された投票用紙の「賛成」「反対」のどちらかを丸で囲み投票箱に入れ、その結果によって二通りの結末が描かれることになる。
私が面白いと感じたのは実際に杉並区と墨田区、そして私が鑑賞した豊島区の行政施設で上演を実施し、スタッフ全員がフォーマルスーツを装着して現実に行政が実施している行事らしさを演出した点である。結末が観客の投票によって分かれ、会場によっては集計結果を壁に貼り出して掲示したという趣向は感興をそそるし、当事者意識をもって鑑賞した観客も少なくないだろう。こうした独自性を徹底させた制作サイドの手腕は一目に値する。
さまざまな立場の登場人物による討論劇として一定の説得力を持っていることは先述した通りだが、ところどころに入れ込まれたギャグや小ネタも面白い。傷害事件を起こしたものの更生した吉光が「るろうに先生」としてメディアで有名になったという設定や、公共の場で刀を抜いた写真が拡散したため八鍬がネットで炎上するといった顛末などが特に印象に残っている。俳優たちはやや過剰なまでの力演であったが、それぞれに見せ場があって客席から見てとてもイキイキしていて飽きさせなかった。特に各論者の主張を拾っては自分のそれへと強引に展開させるしたたかな上林を演じた榎並夕起、切れ者でシニカルだが稀に温情を見せる広木を演じた淺越岳人の芝居が印象に残っている。
私が疑問に感じたのは本作が前提としている日本の歴史変遷と現実に起きている事件との乖離である。月山は、明治維新を経て階級がなくなり、まずは男子から身分を問わず帯刀できるようになり、終戦後に女性の帯刀が許されるようになったと歴史的経緯を説明していた。また隅谷の発言に鑑みると、成人すると親が子どもに刀を贈る習慣があるようだ。実際の歴史では明治期に廃刀令が出たわけだが、徴兵令に伴い武士の帯刀が必要なくなったという背景がある。それでは本作において日本はどの程度の軍事力を有しているのか、帯刀はよしとされるものの抜刀は許されない理由は何故か、海外からはどのような目で見られているのか……以上のような疑問に対する解答が明示されないまま物語が進行していくため、設定そのものに無理があると感じた。例えば日本が現代でも鎖国していて近代化が著しく遅れている全体主義的な国家で、ナショナル・アイデンティティとして帯刀が義務化されているという次第であるならばある程度納得がいくが、舞台上の登場人物はどこにでもいる現代人であり、情報技術へのアクセスも不自由しておらず、思想信条の自由も許されている。コメディとして秀逸なだけに、鑑賞するなかで度々思い浮かんだ設定の齟齬がなおざりのままであることが気になった。
また現実世界で頻発している銃による無差別殺傷事件にも注意を払う必要があったのではないだろうか。例えばアメリカでは、合衆国憲法修正第二条に基づき武装することが国民の権利であり、建国の精神に繋がるという考え方が根強い。また全米ライフル協会と共和党が強く結びついている事実もある。銃規制が進まず現在でも銃乱射事件が頻発する背景から、本作で語られた以上に根深い断絶を見る思いがする。ノルウェーのウトヤ島で起きた銃乱射事件の犯人が移民に敵意を抱いていたことや、セルビアの銃所持率の高さがユーゴスラビア紛争に起因するなど、市民の武装には根深い背景があることは疑い得ない。コミカルなやりとりが続いたあとの終盤、司会の宮入が立場を無視して迫真の訴えかけをして会場は水を打ったように静まりかえるのだが、この主張が私には深く響いてはこなかったのは残念である。
実演鑑賞
満足度★★★
倫理的な問いかけを放つ近未来の群像劇
青年期を終え壮年期に移行する人生のひととき、10人の男女がそれぞれの人生に落とし前をつけようともがく人間模様のなかから、近未来の国家統治や科学技術の有り様が浮かび上がる異色の群像劇である。
ネタバレBOX
バンド「シャムフィッシュ」ボーカルでソングライティングを担う瑠璃(サトモリサトル)は、ベースのかえで(山岡よしき)とともに新しいドラム担当の候補である近藤(大村早紀)とセッションしたものの浮かない顔をしている。前ドラマーであり瑠璃の彼女だったちさ(横室彩紀)を自殺で失ってからというもの、彼はスランプ状態にあった。音楽活動に反対している母とは距離ができてしまい、姉の裕子(梁瀬えみ)に世話を任せきりにしている。物語は瑠璃の家族や音楽活動、バイト先の人間関係などの小景を積み重ねながら展開していく。
瑠璃の学生時代の音楽仲間のアヤネ(増山紗弓)は、同じく瑠璃の音楽仲間であった平井(小林和葉)が働くレコード会社に所属してヒットを放ち、瑠璃に羨ましがられている。しかし自作と称した作品の多くはすべてゴーストライターが書いたものであるため、彼女は常にやりきれない思いを抱えていた。アヤネは平井にレコード会社を辞めたいと申し出るが、平井は「そうするとお前を潰す。うちの会社はそれができるだけの力がある」と笑わない目で静かに恫喝する。
瑠璃のバイト先では舞(安齋彩音)が社員の色森(宇都有里紗)の後押しを受け、同棲中の柳楽(志賀耕太郎)にプロポーズする。しかし小説家志望の柳楽は待ってほしいと願い出る。舞は柳楽の小説がディストピアを描き現実に起こってしまっていることを怖がっているため、自分に隠れて小説を書いていた柳楽を咎めるのだが、柳楽は飄々として意に介さない。
ある日瑠璃の前だけに成仏できないちさの幽霊が現れてからというもの、彼の周囲では不可思議な現象が起こりはじめる。ちさが遺した詞「半魚人たちの戯れ」に曲をつけバンドで演奏した動画はバズり、平井から誘いの声がかかった。ちさは柳楽について瑠璃に「彼は本物だよ」と微笑む。バイト先で旅行の計画をしていた際「海はやめたほうがいい」と瑠璃に忠告したちさの予言どおり、山を選んだ瑠璃と舞、色森の3名と、海を選び旅行に参加しなかった舞の彼氏の柳楽とでは運命が分かれてしまう。
上述を大枠として、物語はシンプルな漆黒の舞台美術を背景に登場人物たちが対話を重ねつつ、時折なにかに取り憑かれたようにして皆で「ボトンベルトのおかげ」「ムーンショット目標」などと謎めいた文言を群読する場面を挟み進行していく。この場面になると出番のない俳優たちも現れる。それがまるでギリシャ悲劇のコロスのようにも、能の地謡のようにも見えてくる。こうした近未来の不穏な空気感を説明的なセリフを使わずに舞台上にあげようとした作・演出の吉田有希の企みが面白い。
しかしながら、登場人物たちの芝居が細切れになって進行していくことや、一度にあまりにたくさんの情報が入ってくるため、物語の世界観に馴染むのに時間がかかり芝居を堪能するまでには至らなかった。私が観たのが初日ゆえか俳優たちの芝居がかたく、バイト先でのわんこそばの話題をめぐる瑠璃と舞のノリツッコミや、皆で色森の子供の名前を考えるうちどんどん荒唐無稽なものになってしまうくだりなど、本来であれば会場を湧かせる場面が上滑りしていて残念だった。
後半になると平井が働くレコード会社が国家権力に近いことや、大やけどを負った柳楽の治療に使われたロボット技術、流産した色森が子宮に残った赤ん坊の細胞を再生させる「受肉サービス」、亡くなった瑠璃と裕子の母親の意識を残す「メタバース」などといった科学技術の設定を通し、全体主義的で軍事的な統治体制にあり、高度に科学技術が発展した日本の姿がむっくりと頭をもたげる。観劇後に「ムーンショット目標」が、実際に内閣府が標榜している科学技術を用いた大胆な課題解決の指針であると知り驚きを覚えた。倫理的な問いかけを通しカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のような問題提起を狙ったのかもしれないが、こうした設定が音楽仲間の嫉妬と羨望、婚期をめぐる男女の葛藤、成仏できない幽霊などというような話題と有機的に噛み合っているとは思えなかった。試みとしては興味深いので、登場人物や設定を絞ったうえで劇化したほうがよかったように思う。
実演鑑賞
満足度★★★
言語の仕組みに対する意欲的な考察
「コロナ禍の時代の上演」を前提として2020年に始動し、何度か上演されてきたプロジェクトの現時点での到達点を示す二本立て公演である。
ネタバレBOX
第一部「共有するビヘイビア」は出演者である古賀友樹から聞き取りを行ったテキストで上演された。古賀は客席に向けひとり語りを続けるが、なにか意味のある内容を話しているというよりは、心に留まった言葉をダジャレや連想を交えてリズミカルに紡いでいく。客席に向けて「ようこそいらっしゃいました」と語りかけ、観客とじゃんけんに興じたりと終始客席に注意を向けていた。膨大なセリフをよどみなく発しながらなめらかに動いていく様子は達者であり、作・演出が課した高い要求に応えていたことは見事だったが、舞台と客席の間に見えない壁があるように感じた。むしろひとり語りの場面よりはコンピュータの音声と対話するくだりのほうがイキイキしているように見えた。終盤になると場がほぐれてくるからか、照明が点灯したままの状態で観客に目を閉じろと促す「念力暗転」のくだりは面白いと感じた。
第二部「また会いましょう」では二人の女性(渚まな美、西井裕美)が思い思いに発話を続け舞台上を所狭しと歩き廻る。こちらもまた客席に向け話しかけたかと思えば相手に対し好きな映画について問いかけたり犬を見つけた話をしたりする。しかし対話が成立することはごく稀で噛み合いそうで噛み合わず、基本的には延々と好き勝手にひとり語りを続けているように見える。語りの切り替えはとてもスムーズで聞いていて心地が良い。まるで発話という音楽に合わせたダンス作品を観ているような心地になった。話が袋小路に行く場面がおかしみにまで至ればなお良いのにと思った。
本公演に貫かれているのはセリフに込められたリアルな感情の再現ではなく、どこまでも醒めてシステマティックな言語の仕組みに対する考察であると私には感じられた。第一部の雑念まみれの客席への語りかけは、人間が発話するまでに交錯する感情の流れを追体験するように感じられたし、雑念が言葉になり発話したところで他者がそのまま受け止められるとは限らない、むしろ誤解されることの方が多いということを第二部で表明していたように思う。言語でしか世界を把握できない人間の哀しさを舞台で観られたのは、他では得難い体験であった。
ただこの試みは満場の客席を湧かせる大きなうねりのようなものにまで至っていなかったように思う。加えて、第一部で自己開示をしている割に古賀が客席に対し恐れを抱いているかのような目をしていた様子であるとか、第二部で俳優が互いにマスクを外し素顔を見せたときの恥じらいなどのリアルな表現はいかにもナマっぽく、この作品の乾いた感触からは浮いているように見えた。
実演鑑賞
満足度★★★
発話をめぐる哲学的な洞察
白壁にアートや落書き、スウェットなどが掛けられた殺風景な空間の真ん中に席が六つ設けられている。「演者のテンションやコンディションで上演時間が変わります」。開演前のアナウンスがかかると男女が席に座りはじめるがなかなか芝居が始まらない。彼・彼女らの関係性は明示されず、なぜそこに腰掛けているのかも不明である。
ネタバレBOX
そこから他愛のない会話が始まり、物語の主軸は母親が癌と告知された男性A(小林駿)になる。皆はAに「はあ」「そっかぁ」などと声をかける。いまお母さんと一緒にいてあげないと一生後悔するよと声をかけた男性H(オツハタ)に対し、Aは「そんなのわかってるよ」「勝手なこと言うなよ」と怒声を浴びせる。そこからAが身の上話を始めるのだが、じょじょに話題の主軸が他の俳優にずれはじめていく。Aが自身の祖母に言及すると女性B(浦田かもめ)が耳の悪いおばあちゃんの話を始める。やにわに男性C(市川フー)が自分の祖母に関する事実を打ち明ける。BとCの話は重なるようで重ならず、そこにまたべつの女性G(二田絢乃)と男性E(zzzpeaker)が会話に入り込み、以降も主たる発話者の話題をもとにして別の発話者へと主軸が入れ替わっていく。途中で舞台の映像が背景に投影されたり、言及された音楽の映像が流れたりする。果たして主軸はAへと戻っていくのだが、他の人物たちが自分の話をほとんど聞いていなかったことへの怒りを吐露するものの、それをBにたしなめられる。
私が面白いと感じたのは発話者の主軸が連想ゲームのように切り替わり、ひとつの流れを形成していた点である。他人の話題からまったく別の連想をするというのは日常誰しも覚えがあることだが、そのことを他者に示すということは行われないことだろうし、雑念だらけの内面をそのまま口にしてはただの垂れ流しになってしまうだろう。本作品では俳優の発話方法を対話/独白/傍白などで区切らず、むしろ観客の視点の移動を利用し、その時点で物語の展開の中心にいる人物に話をさせて観客の注目を集め、流れを作っては位相をずらして壊し、また作っては壊しという円環構造が出来上がっていた。これは立派な演劇批評だと思うし、言語で世界を把握する人間の限界を示す哲学的な洞察になっていたと思う。
しかし後半になってくるとこの流れがやや単調で冗長に感じたということも否めない。ところどころ入れ込まれたギャグや動物を模した動き、終盤で長い筒を用いて「聞く」という動作を立体化して見せた試みなど手数は多いのだが、それがこの作品で用いられた発話者の主軸をずらす方法論の提示とうまく噛み合っていたとは思えなかった。
とはいえ実体験をもとに他者の話を聞くことの困難さを、こうした形で作品化してみせた長谷川優貴の企みはとても興味深い。終幕にどの観客も覚えたであろう、話をすることの傲慢さやバツの悪さを含めて他では得難い観劇体験であった。
実演鑑賞
満足度★★★
色物としてのコンテンポラリーダンスの可能性
「異常事態です」
松竹亭白米の引き合いで口上を述べる松竹亭ごみ箱が開口一番会場の笑いを誘う。それもそうだ、コンテンポラリーダンスのカンパニーが落語会を催すとはいかなるものか、すんなり想像できる観客はそう多くはなかっただろう。私は3月27日に「すし組」「そば組」両プログラムを鑑賞した。
ネタバレBOX
オープニングでは、カンパニー5名が口上の並びのまま上下に首や手先を傾けた落語の所作や扇子を口に含む動作を振付にした工夫と形の綺麗さがまず印象に残る。各自そのまま立ち上がり股を広げ脚を開いてと群舞が始まるが、足袋姿のまま固い床を踏み、裾に絡まりそうになるくらい高く脚を上げる動作にハラハラした。
すし組のトップバッターは松竹亭撃鉄。映画のサウンドトラックのレコード盤を見せながら、自身の映画愛やランキングをマクラに、ランボーやインディ・ジョーンズ、ジェームズ・ボンドの吹替声真似で、「まんじゅうこわいfrom Hollywood」を披露してくれた。映画のエンドロールに見立てた巻物の小道具も気が利いている。
すし組二人目の松竹亭青七は古典落語「今戸の狐」である。自身のばくち好きのエピソードをマクラに噺にはいったが、好みを爆発させていた撃鉄を聞いた後なだけパンチに欠けていたように思う。生来生真面目な性格なのだろう、註釈を多めに噺を進めてくれたが、あまり内容に入っていけなかったのは残念である。
対してそば組一人目は白米。素朴な植木屋が裕福な隠居を真似ようとして起こす滑稽噺「青菜」を、柳かけのくだりでワンカップ大関を出し、鯉の洗いのくだりで缶からシーチキンを出して食べるなど大胆な変化球を入れつつ、ごくごく素直に披露してくれた。
そば組の二人目、afterimage主宰の松竹亭ズブロッカは、なめらかな口調で「蒟蒻問答」を披露してくれた。六兵衛と僧侶の問答が白熱すると、なぜか舞台上から人形が降りてきて踊りだすという展開に客席は大いに湧いた。ただこの場面は人形ではなくぜひ人間で見たかったと思う。
仲入り前最後のゲストは両組共通、名古屋で落語会を主宰している登龍亭福三である。名古屋弁の話題から竹川工務店が名古屋城を作ったというオチにつながる「名古屋城築城物語」(すし組)、四つ葉のクローバーを差し出す霊がチャーミングな「善霊」(そば組)、ふたつの新作で力量を示してくれた。
仲入り後に始まる「ダンスで分かる三方一両損」は本公演のハイライトである。金太郎(撃鉄)が拾った三両を持ち主である吉五郎(ズブロッカ)に返そうとするも、一度落とした金だからと受け取らず、喧嘩するこの二人を大岡越前(白米)が機転を利かせて和解させるという有名な筋を、ナレーションに合わせたダンスでこなしていて度肝を抜かれた。大岡越前の衣装がロボットアニメの敵キャラのように戯画化されていておかしい。
両組共通でトリはごみ箱の「居残り佐平次」。さすがにほかのダンサーと比べて表情が豊かで間もよく、一番の見応えがした。特に佐平治が身の上話をする瞬間の空間の切り替え方、鮮やかさが印象に残っている。
椎名林檎とトータス松本の「目抜き通り」をバックにエンディングはゲストを除く5人の群舞である。オープニング同様にハラハラしたが、好き放題やったあとの多幸感とでもいう明るさがあってさわやかな見ごたえがした。
本公演はダンサーたちが意外なほど愚直に落語に取り組んでいる落語会である。本職と比べ見劣りするのは是非もないが、合間に挟まるダンスプログラムが彩りを添えていた。私はかつて立川談志の独演会で、前座が日本舞踊を踊っていたことを思い出した。最近は寄席や落語会で舞踊を見る機会はあまりないが、噺の合間に漫才や紙切り、モノマネなどと同様にダンスが入れば、演芸の裾野がより広がるようにも思える。そうした意味で私にとっては発見がある興行であった。
ただ劇場の使い方はいかにも殺風景で物足りない。例えば入り口に演者の名前を染め抜いた昇りを出したり、劇場内の黒壁に寄席に見立て木目調の壁紙を貼るなどの工夫があってよかったのではないだろうか。
実演鑑賞
満足度★★★
劇場へのカウンターを提示する
1969年に早稲田小劇場が初演し第15回岸田國士戯曲賞を受賞したこの唐十郎の代表作は、これまで数多の劇団が上演してきた。これまで一軒家での上演を主としてきたゲッコーパレードが本作を演劇の街下北沢の劇場でどのように上演するのか、まずは興味を惹かれた。
ネタバレBOX
劇場に入ると舞台下手側と客席の壁を背景に半円状の演技スペースを設け、そこから舞台後方と客席の段差に向け同心円状に椅子を置き新たに客席を設けるという空間設計にまず目を奪われた。いままで見たことがないOFF・OFFシアターの空間の使い方を見ていると、この劇団の劇場に対する姿勢とテント芝居を敢行した唐十郎の姿勢が重なるように思えてきた。
宝塚歌劇団の伝説的な男役トップスター、春日野八千代に憧れる少女の貝(永濱佑子)は老婆(ナオ フクモト)を伴い春日野が経営する地下喫茶店「肉体」へと向かっている。その頃「肉体」では腹話術師(長順平)が人形(平野光代)を操りながらひとりで対話ごっこをしている。ボーイ(小川哲也)はコーヒーを引っ掛けるなどして腹話術師を軽くあしらい口論になるが、ボーイは腹話術師のことが見えなくなってきている、まるであなたが人形の付属物のようだと主張する。店に入ってきた男(林純平)は喉が乾いているのか、店内の水道の蛇口に口をつけ汚い音を立てて吸い気色が悪い。
やがて入店した貝と老婆はボーイに春日野への取次を申し出るも断られ、諦めて帰ろうとしたそのとき、奥から春日野八千代を名乗る人物(崎田ゆかり)が出てくる。憧れの人に会えた貝は舞い上がり、『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフになりきって芝居を続ける。しかし春日野は演じていくうちに、自分の肉体はファンによって奪われてしまったと嘆きはじめ、幻想的な存在である自分自身を総括していく。終幕では春日野が慕う甘粕大尉(佐藤冴太郎)が春日野のファンの少女たちを連れて登場するが、彼女たちが春日野に返したいと差し出したものが、春日野をさらなる狂気の世界へと突き落とす。
伝説的な作品をテキレジせずほぼそのままの形で上演することで、古典としてのアングラ演劇の魅力を堪能できたのはよい機会であった。俳優の熱量や大仰な動作が劇場のサイズとフィットしているのかはやや疑問ではあったが、戯曲の言葉の強度とは合っていると感じた。小川哲也らボーイたちが見せるアンサンブルの妙、林純平の水飲み男が醸し出す退廃的な味わい、そして春日野八千代を演じた崎田ゆかりの狂気の世界に陥る芝居が特に印象的である。
ただ今となってはやや時代がかって聞こえるセリフや古い固有名詞に対する註釈がないため、偉大な作品を上演するという以上に現代的な意義が感じられなかった点は気になった。劇場での上演に問いを投げかけるこの劇団が、演劇における肉体論がテーマであるところの本作へ新たな解釈を提示してほしかったと思う。
実演鑑賞
満足度★★★
幽霊たちが奏でるコミカルな音楽劇
劇団のアンサンブルと若い才能が光る2017年初演の三演である。
ネタバレBOX
ケン(本城祐哉)とラジョ(布目慶太)は京都駅にある架空の地下鉄、清水線12番出口のコインロッカーに18年前に捨てられた。ふたりはじつの兄弟のように肩を寄せ合い育ってきた。
駅にはさまざまな理由で現世を去らねばならなかった幽霊たちが行き交い、役人の成仏唯(橘カレン)や、体を売ろうとしているサナエ(鳩川七海)ら人間たちも出入りしている。生前の後悔を晴らせない幽霊たちは成仏することを目指しているのだが、成仏できない幽霊は記憶が薄れてきたり、人間の体を乗っ取ろうとすると魂が消滅してしまうため成仏できないという。ラジョは自分を知るマリ(松本真依)という女性に啓発され、最近記憶が薄れはじめているケンを助けるべく奮闘するが、やがて逃れられない現実に向き合うことになる。
私が面白いと感じたのは歌唱場面の多彩さである。冒頭で演奏される「京都駅地下鉄清水線」では幽霊たちが傘を差しながら舞台上で「叶わぬ願い 描くほどに/ありえぬ未来 望むほどに」とこの世の無情を歌い、さながら寺山修司の天井桟敷の舞台を見るような感触がした。続いてケンが幽霊たちに「あぁ、成仏せよ」と激しく歌い上げるタイトルチューン「DADA」はロック調、ラジョと因縁のあるマリがトイレで歌う「水はことば」での鮮やかなトイレットペーパーの工夫、終盤でラジョの旅立ちを見守るように再度歌われる「DADA」はミュージカル『RENT』の「No Day But Today」のような爽快感がするなど、幅広い楽曲が聴けて飽きることがなかった。ケンを演じた振付・作曲の本城祐哉の才気が横溢していたし、劇団員のアンサンブルがよく取れていたことも成功の一因だろう。
私が疑問に感じたのは主に芝居部分の作劇と演出である。開演前に「ゴーストバスターズ」や「お化けのロック」が流れていたこともからも予想できたが、本作の幽霊たちは皆コミカルでまったく怖くない。それはいいのだが、幽霊と人間との差別化ができていたとは言い難いため、彼岸と此岸のあわいを描く設定があまり活きず、クライマックスになってようやく効いてきたために歯がゆい思いがした。そして作中ではキャラクターたちが会話の多くが、本作における幽霊の世界観の説明に費やされていた。そのため物語に入り込む以前に設定に馴染むのに時間がかかってしまった。幽霊が日光に当たると体の一部が大根になってしまうというような場面は面白かったしキャラクターたちは皆チャーミングだが、こうしたコミカルな作劇が照明や音響のどっしりとした感覚とあまり調和しているようにも思えなかった。
また冒頭の場面からおおよその結末は読めるため、ラストの感動が今ひとつ盛り上がらなかったことも残念である。たしかに作中で幽霊と人間は一種の疑似家族を形成していたが、それが従来の家族像へ問いを投げかけるまでに至ってはいないように思う。ラジョとマリの対話や、人間の体を乗っ取ってまで亡くなった娘のあやめ(今井春菜)に会おうとしたホームレスの幽霊サンショウウオ(藤井颯太郎)の想いなどを通し、子どもを置き去りにすることの暴力性とその背景、親子の未練といった要素を感じたいと思った。