リチャード二世
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2020/10/02 (金) ~ 2020/10/25 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2020/10/04 (日) 13:00
「ひざまづいての敬意には、心のともなわぬことが多い。」よいセリフですね。沙翁の他の歴史劇にも転用可能ですね。というか、普遍の定理か。
もうすでに、メンバーはできちゃっている感が強く、よくできていることは否定できないが、彩の国シェイクスピアに比べると、安定感ありすぎで、どうも刺激に欠けるかな。
そもそも、「リチャード二世」という芝居が、他の歴史ものと比べて影が薄く、同じリチャードでも、三世の毒気には、到底及ばぬことをもって、これを上演することには、大いなる遺物の投入が必要と思うのだけれど。
カーテンコールの、岡本、涌井、中島の笑顔を観ては、「アンサンディ」の激情も、「ペール・ギュント」の破天荒も、「女中たち」の猥雑も、求めることはできぬか。
立川、横田などの彩の国シェイクスピアレギュラーには、どいう思いがあるのだろう。
拝啓、衆議院議長様
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2020/09/17 (木) ~ 2020/09/21 (月)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/09/18 (金) 14:00
座席B列7番
どういう評価を下そうか。
これを、古川健の糾弾として観る場合、彼が糾弾しているのは何なのか。その捉え方によって、見方は180度変わると思う。解釈としてどうあるかは別として、ここでの糾弾がいかに悍ましい「思考の停止」に対するものであるということなら、素晴らしい作品だとしよう。
タバコの害について〜追加公演アリ〼
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2020/09/07 (月) ~ 2020/10/04 (日)公演終了
満足度★★
鑑賞日2020/09/11 (金) 20:00
観劇後、家に帰って前回公演の記録やチラシを眺める。
そうだ、前回の「タバコの害について」では、お酒が飲めたんだよなあ。ウォッカ飲んだ記憶がある。ああ、おおらかな過去。
さて、今回はチェーホフ版(夢現舎には、男女の愛憎劇「たばこのがいについて」というオリジナルもある)コロナ禍Ver.。客席を隔てる距離、飛沫を遮るビニール、多分に現在のコロナ禍下の舞台を意識した導入から、舞台での講演会は始まる。
さて、感想。どうしちゃったのだろう。益田さんがとても普通の人に見える。あのエキセントリックな、観客を不安のアリジゴクに引きずりこむ益田喜晴がいない。
妻に怯え、虚勢を張り、せこい欲望を垂れ流しながら、姑息な目つきをした先生がいない。
夢現舎の「タバコの害について」を観ていると、イヨネスコの「授業」を観ているような、底知れない不気味さを感じたものだけれど、それがほとんどない。ちょこちょことそんな顔も見せてくれるのだけれど、すぐに影を潜めてしまう。どうも先生、益田氏は良き家庭人になってしまったような気がする。
そうだな、チェーホフの戯曲を観に来ているのではなく、それがたまたまチェーホフ作品であっただけで、私は益田喜晴の狂気を観に来ているのだな、と得心。
劇後のダメ出し観て途中帰るとき、劇中お預かりした手帖をそのまま席に置いておきましたが、ちゃんとありましたかね。(お見送りまでしていただけるとまで思わなかったので)
「生舞台はカラダとココロの栄養です」本当に心共有です
楽屋 —流れ去るものはやがてなつかしきー
ことのはbox
シアター風姿花伝(東京都)
2020/08/22 (土) ~ 2020/08/30 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2020/08/24 (月) 17:00
座席2列
4つの編成で、日に3回上演もするのだから、各Ver.がそれなりにアレンジされているのは当然か。男性Verはひねりを感じたけれど、他3作品にも潜まれた何かがあるだろうな、という嗅覚も、舞台離れの著しいこの半年に衰えてしまったようだ。
ただただ、「楽屋」を観たくて、風姿花伝へ。
私が選んだのは、こもだまり出演Ver。彼女の「楽屋」が観られるということで期待値が高まる。
原作者清水さんに改変許可を得て演じられる「楽屋」は、サブカルをガンガン盛り込みながら、陽気な体で進んでいくのだけれど、そこには作品全体に通底する女優としての執念と嫉妬心、そしてただ渦巻く諦念が半端ない。
そうだ、そういう作品なんだよな、という妙な安心感と共に、生者と古き死者、やや新しき死者、生者から死者へ移行する者同士の共感と葛藤にただただ、心かき乱さされる。それが起きるのは、各役者がニーナを演じることに執着し、その上で「楽屋」の役に身を挺しているからだろうな。
こもだまりの牽引力と、飯田來麗のそつのなさは見事。やや、死者側に軍配が上がりやすい改変・演出だったかもしれない。
在宅ワークで、東京に出る日も少ない千葉県在住者の日々、もうすこし前から出勤日程調節しておけばよかった。
4Verセット券なんてあざとい商売していたら、きっと早期に私もこの多Verのからくり・楽しみ方に気付いたのだろうに。
追伸:「みなみ」さんの評を拝見して、やはり他Ver.を見損なった感が強い。もう!
DROP
演劇企画体ツツガムシ
雑遊(東京都)
2020/08/14 (金) ~ 2020/08/16 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/08/16 (日) 13:00
座席2列
観客13人。満員だよね?
雑遊変わったなあ。
皆が皆、厳しい・悲しい・楽しい・面白い夢を、案外心の奥底で歯を食いしばって叶える物語。
カフカですか。彼も全身小説家みたいな人だから。
終戦記念日に夢を、久々に快適な舞台時間でした。
ちょっと悲しかったけれど。
無畏
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2020/07/31 (金) ~ 2020/08/10 (月)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/08/10 (月) 14:00
古川さんことだ、南京事件を描こうということは、かなり前から決めていたことだろう。
そのタイミングがここということ。
「南京大虐殺」という虚構の廃絶に振り回されることなく、真摯にこの事件に向き合う姿勢はさすが。松井石根をただの善人あるいは理想論者として片づけない。
ただ、史実を洗いなおす過程で、彼から引き出せるものは、「南京攻略を急いだのは、私の野心のため」と言わせるのが精一杯と感じたのだろう。おそらく、彼を断罪するよりも、あるいは、いかに反省の弁をのべさせるかよりも、松井の罪業が理念と現実、清廉と非道の狭間でいかような様相を呈したのか、西尾氏の弁護士と、浅野氏の教誨師を配置することで描き出そうとしたのだと思う。松井は、ただただ彼らに回答を求めたのだ。そこに、この芝居の松井石根への、滔々とした残酷さを感じずにはいられない。
千秋楽、ラストコールでの西尾友樹氏の満面の笑みが、コロナ禍で活きる劇団員の矜持として印象に残った。
アンチフィクション
DULL-COLORED POP
シアター風姿花伝(東京都)
2020/07/16 (木) ~ 2020/07/26 (日)公演終了
満足度★
鑑賞日2020/07/26 (日) 13:00
座席c列1番
ほーんとに久しぶりの風姿花伝、目白駅からの道なり、過去に利用した飲食店、スーパーなどの閉店に目が行き、さながら、薄ーいゴーストタウン風情を感じる。
ヘンリー・リー・ルーカスにまつわる..
劇団パラノワール(旧Voyantroupe)
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2020/04/02 (木) ~ 2020/04/12 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/04/06 (月) 14:00
座席2列
『ヘンリー・リー・ルーカスは殺してしまう』
宇野正玖のルーカス愛に満ちた一編。表版と称する意味も、さもありなんの、ヘンリー・リー・ルーカス一代記である。舞台は、伝記を書こうと目論んだジャーナリストが獄中のルーカスに会いに来る場面から始まるといったオーソドクスな作り。少年・青年・壮年のヘンリーを3人の役者(大森さつき、平良和義 渡辺一人)で演じ分け、彼の精神史と行動を丹念に描き尽くす。
その陰惨な幼少期、母親のヴィオラの登場シーンは強烈で、物語の前半まで彼女の存在感が、在不在にかかわらず舞台全体を支配する。
中盤のヘンリーは少女ベッキーとの犯罪行における純情と蛮行。ベッキーがキリスト教信仰に至る場面でのヘンリーとの気持ちの乖離の描き方は丁寧で、愛したい・愛されたいというヘンリーのもがきが観客の心を掴む。
ストーリーの悲劇性は留まること知らないが、それでも、時折訪れるヘンリーの心の安寧に観客も安堵することが、観劇での大きな拠り所になっている。
監獄でのヘンリーは、むしろ神々しささへまとい、浄化を経たかのようだ。
ただ、舞台の広がりを求めたのだろうけれど〈裏〉を含めて、ビデオ画像に頼る演出はちょっと興覚めなところが多い。山中での犯行や草原での遺体の処理など、限られた狭い舞台では表現しづらいことは理解できるのだけれど、その場面の意味も含めて舞台上に顕在化させることはできなかったのだろうか。
ヘンリー・リー・ルーカスにまつわる..
劇団パラノワール(旧Voyantroupe)
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2020/04/02 (木) ~ 2020/04/12 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2020/04/06 (月) 14:00
座席2列
『ヘンリー・リー・ルーカスと殺人カルト集団』
ヘンリーが所属し、殺人術を取得したとされるカルト宗教集団「死の腕」にテッド・バンデイやチャールズ・マンソンがいたらという創作。まさに、夢の共演というところだが、バンディやマンソンの個性がうまく描かれておらず、ただのドンちゃん騒ぎに終始している感がある。
ヘンリーは孤高の存在で、終始静かで抑制的。あまり周囲と絡まないので、ただただ教団のどんちき騒ぎを見せられている感が強く、物語としては凡庸。
物語としては、割の良い仕事(教団のビデオ撮影)から教団に入信した(本人たちにその意識はないようだが)2人の若者が、教団内部の不協和音に乗じて、自らが作り上げた脚本と演出によって、教団自体を意のままに操っていくブラックユーモアが通底している。これが焦点となるくらいかな。
揺れる
東京演劇アンサンブル
d-倉庫(東京都)
2020/03/25 (水) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★
揺れる」
アフタートークにて、安田純平さん曰く「知りたいと思うと、知りたいことはどんどん増えていく」公家義徳さん曰く「知れば知るほど、自分は何も知らないのだと思えてくる」つまり、自身の関心の度が高まれば、累乗的に知ろうという意欲が高まるということを、別の表現で語っている。中東やシリアのこと知りたいと思って、インターネットを調べてそれで理解した気になるんじゃねーよ、ということだ。
もちろん、時間は限られているし、ソースは限られている、自分に体験できることなどちっぽけなものだ。そうなると、関心を持ったとしても、とても知り尽くすことなどできないわけで、彼らが言いたいことは、けして知に対して傲慢であるなかれということだと思う。
さて、「揺れる」だ。このテキストには(訳本も見ていないので、パンフの読み書きだけれども)役名が振られておらず、ト書きもなく、詩文のようにセリフが書き綴られているという。だから、舞台の登場人物の人数もそれを割り付けた演出の理解・感性によるもので、セリフを別の人物が話していても、それが別々に発せられた言葉である保証はない。
全セリフを、1人がリーディングで済ませる舞台も可能だ。
原題はbeben,風に揺らぐような優雅なものではなく、地響きがして周辺の事物が震えるという意味らしい。むしろ「揺らぐ」の方が適切かもしれない。
走ってくる子供を射殺したスナイパー、その子供の死体、子供の母親。手をつなぐことは簡単なこと。しかし、手はつなげない。それはとてもとても難しいことだから。バルコニーから屋外を見やる若者たち、屋外に下り散らかったケーブルを片付ける中年女性、彼女は動かなくなる。路上のバスは狙撃を防ぐための盾となり、電波障害は若者たちをイライラさせる。今起こっていることは、現実なのかと自問自答する。ユリズンはこの世界をどう改変するのだろう、それともこれは改変された世界なの?理性とは、誰が持ち誰が実現するものなの。この世界はすでに理性的なのか。
観客はイライラする。阿鼻驚嘆と諦念、何かが何かが地中で蠢いていることだけは判るのだけれど。それを鎮めることは、とても簡単なことに思えるのだけれど。手をつなごう。果たして舞台の登場人物は手をつなげるのか、観客席の私たちは手をつなげるのか。
東京演劇アンサンブルの実験的な演劇。面白いかというと、うーん。でも、退屈はしなかった。そして、知りたくなった。今目の前の舞台で起きた何かを。
歳月/動員挿話【3/28-29公演中止】
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2020/03/17 (火) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/03/25 (水) 14:00
『歳月』
第一幕が昭和初期、そこから第二幕7年後、第三幕がさらに10年後。
第三幕で、次男の紳二が長男計一と遺産分配の額の均等割りの話をしているところから、その時には戦後を迎えているのだろう。
子供を身ごもり、男に結婚を拒まれて自殺を図った長女・八州子を中心とした、家族の物語。八州子の各幕での男への心持ちの違いが、物語の核となる。それに振り回されつつ、それでも頼りになるのかならないのかわからない兄2人。生後、第三幕では17歳になっている八州子の娘・みどり。八州子との結婚を拒んだ男は、結局籍だけを入れるが別れを申し出る。そしてついには復縁を迫る。家族間を漂う波風、心はそれぞれに少しくざわめくが、何かが起きるということでもない。観客が、家族の歳月の隙間を読み込む舞台である。
八州子役の前東美菜子の、幕ごとに歳を感じさせながらも、内面の成熟が見られない少女的な存在感。凡庸に見える生活の一編一編が、これからも続くであろう生活を予測させ、人には過去と明日があることを感じさせる。秀作。
歳月/動員挿話【3/28-29公演中止】
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2020/03/17 (火) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2020/03/25 (水) 14:00
『動員挿話』
恐ろしい話。数代という存在が、この話全体に重くのしかかる。一見すると、夫を慕うあまり、主人に従って戦地に赴く夫を懸命に留めようとする健気な妻の愛情物語。
確かに、妻・数代は夫・友吉と内地に残り、共に生活をすることに、自らの全欲求を向け、そのためにはどのような代償もいとわない。明治の日露戦争期、この時代に夫への深い愛情をもって戦争を忌避し、生涯を共にまっとうしようという構図は、自由で先進的な女性像を描いているかに思われる。しかし、そうだろうか。
よし「戦争もいゝだらうけれど、死にさへしなけれやね。」
数台「それより、死ぬか生きるかわからないからいやなの。」
数代は、夫を愛しているから戦争に行かせたいのではなく、夫を常に存在として支配したいから、離れるのが嫌なのである。離れるということは、双方どちらの生死に関わらず、数代という自己の喪失に他ならない。数代は1人目の夫と死別し、2人目の夫は女と駆け落ちをしてしまった。彼女は3度目の結婚にして、けして夫と離れまいと決心し、それを全うすることのみが唯一つの善となったのだろう。夫人の口から仄めかされる2人の結婚でのひと悶着。
観客も初めは理解を示し、数代の懸命さに同情を寄せるのだが、彼女の言動を通じて次第に感じ出し始める居心地の悪さ。何かが捻じれているような、あるいはあらぬ方向に進ん営るような気味の悪さ。舞台上から落ちてくる出征のための荷物は、数代の心から漏れ落ちてくる大きな重い暗闇のようだ。
得体のしれない気味の悪い作品。
数代を演じる伊藤安那の、明瞭かつ溌溂とした演技が、周囲の登場人物との断絶や、肥大化する自我、周囲に振りまく狂気を一層際立たせる。突然に迎える異様な終幕が、観客の心理をささくれ立たせる。テンポ良い舞台進行と、キレの良い演技が演出効果を倍増する、驚くくらいに後味の悪い舞台。
新雪之丞変化
Project Nyx
ザ・スズナリ(東京都)
2020/03/19 (木) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/03/27 (金) 19:00
座席H列5番
まずは、もったいない。ザ・スズナリの舞台間口が狭すぎる。やはり、東京芸術劇場シアターウエストの幅はどうしても欲しい。せっかくのレビューパートが、狭苦しくてかなわない。
全員が、舞台前面に並ぶと、袖にはみ出してしまい、せっかくのゴージャス感がどうしても色あせてしまう。
登場人物の独唱部分、特に障子にもたれての田上唯などは、むしろ舞台の狭さが、観客との距離を縮めて、その雪之丞への哀切がとてもよく伝わってくるという点で、とてもよいのだけれど。
傾向は違うものの、同じアングラの系譜を継ぐ女性舞台「月蝕」や「廻天百目」が、最近どうも貧相で粗雑な感じがするのに、こちらは芸達者、歌上手、ダンス自慢が揃い、見得・セリフの切れと緻密な感情描写が、まさに「女歌舞伎」を掲げるだけの艶やか舞台。そして、アングラ王道の弾けっぷり。
主演の寺田結美は、女性が女形を演じるという転倒に、なんの衒いも感じさせない圧倒の押出し振り。歌舞伎役者として屋号がないのがもったいないほどの、漂う色気と溢れる義侠心。そして、物語に貫かれている仇討の執念は、進行とともに雪之丞の身体に眩いばかりと燃え盛る。
対峙する小谷佳加演ずる奉行の怪物ぶり、枠を固めるもりちえ、佐野美幸の悪党ぶり、雪之丞の子供時代を演じ舞う河辺珠怜の可憐さ、もはや言うことなし。
舞台装置の細密、衣装の絢爛、照明の粋、役者一人ひとりの仕草のなんと折り目正しいこと。そして、観客に痺れを催させる太腿の跋扈がたまらない。
2時間超を感じさせない極上のエンターティメントでした。だから、舞台の狭さが、、、、、もったいない。
野鴨
ハツビロコウ
シアター711(東京都)
2020/03/24 (火) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2020/03/28 (土) 13:00
座席3列
ハツビロコウが「野鴨」を上演すると知った時、ついにやったな、という思いが沸き上がった。もちろん、ハツビロコウの役者、演出、志向性あるいは体質というものを鑑みた時に出た心情で、以前から「野鴨」を演るべきだと思っていたわけではない。ただ、とても上演自体がしっくりきたのだ。イプセンであっても「民衆の敵」でも「ヘッダ・ガブラー」「人形の家」、もちろん「幽霊」でもなく、イプセンを上演すべきだと思ったこともなく、それはただ「野鴨」だから。
舞台を盆栽に例えると、今回の舞台には細かい剪定、意図的な構図、宇宙観・自然観の投影というものがない。ただただ、ハツビロコウという盆の上で、幹の強さのみで作品を成立させている。それは、盆栽を盆栽でなくす、つまりは舞台を舞台ではなくす。しかし、そんな惧れをものともせず、ただ自生のみがハツビロコウの「野鴨」であるというような、強烈な自負が、この舞台には芬々と漂っている。
だから、この舞台はシンプルだ。登場する人物に何の癖もない。これは驚くべきことだ。イプセンの芝居を純化することはかなり難しいから。イプセン舞台に登場する人物は、シェイクスピア作品の登場人物のように、ニュートラルな存在ではない。役者が脚本を読み込み、場面の推移を演じる中で想起し、引き起こされる結末に向かい意図をもってしまう。
だから、ついイプセンの作品では、「無作為の悪意」「純粋なるが故の愚かさ」「諦念を装った怨嗟」「勇気に見せかけた蛮行」等々がしばしば演じられる。いや、そう演じるように仕組まれていると言ってもよい。
この舞台はどうか。グレーゲルスはけして、よく言われるような「正義病」ではない。ヤルマールもけして「平均的な人間」ではない。彼らそれぞれにレッテルを貼り、彼らの愚かさを論うことを、演出の松本光生氏は敢えて廃除しているように思える。「この作品が言いたいことは、そんなことじゃないんだよ」と。
グレーゲルスは、友人を思慕し敬愛する、純粋な理想主義者だ。ヤルマールは自己の才気と器量の矮小さに気付き怯えながら、自分を鼓舞する声と支える愛情を信じ、苦悶しながら生きる1市民だ。誰が彼らを非難したり、彼らの言動を蔑んだりできようか。
そう、イプセンは彼らを物知り顔で批評する観客自体を、横目であざ笑っているような気がしてならない。それも意地悪気に。
舞台ラスト、演出家自らが演じるヴェルレが、彼を慰めようとする使用人を遠ざける。音も声もない世界に浸りながら、ただそこで起きた事実を慈しむように(悲しむようにではない)ヴェルレは暗転の中にフェードアウトしていく
ただ、そこで起きた不可避でありながら、あまりにも儚い死への哀悼を包み込みながら。
何とも何とも力強い舞台だったと思う。
葵乃まみ氏のヘドヴィクが好演。この役が「野鴨」の焦点、彼女の心情にどれだけ観客が踏み込めるかが、舞台の成否に関わるから。
そして、グレーゲルス役の石塚義高氏が、驚愕のピュアさをもってエクダル家を蹂躪する。
こんなグレーゲルス見たことない。
バロック
鵺的(ぬえてき)
ザ・スズナリ(東京都)
2020/03/07 (土) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/03/09 (月) 14:30
席は不吉なザ・スズモト特製X-13、それも鵺的だものなあ。
「バロック」というタイトルの意味をどこに見出したらよいのだろう。学生時代に「歪んだ真珠」が語源と習ったけれど、この舞台となる屋敷が、幾つもの歪んだ情念の集大成ということか。その屋敷が咲子という殺された(らしい)女性によって支配されており、死期近い妹との確執を中心に同族全体を巻き込む。
殺された女性のしゃれこうべや、ポルターガイスト現象、死者が往来し生者を死の世界にいざなう。徘徊する怪しい狂人。近親相姦の忌まわしき影が物語全体を被い、いかにもな「鵺的」舞台なのだけれど、何か違う。絶叫したり困惑したり苦悩したりする登場人物の横で、しらじらと過ごす佐藤誓をはじめとする幾人かの人物たち。
含められた因果や、復讐と怨念が横溢しているにも関わらず、なぜか明るいエンディング。
パンフレットに書かれた、高木登は心霊現象を怖がらない、というカミングアウトを逆手に取った、大音響・フラッシュバックバンバンな怪異譚。(ちょっと、耳と目が痛い)
追伸:Tシャツを作る劇団は多いのだけれど、ポロシャツを作るところはない。
できれば、中年すぎとしてはTシャツはアンダーウェアにしかならないので、ポ
ロシャツを作って欲しいなあ。鵺的のTシャツ柄、ポロにも映えると思うのだけ
れどなあ。欲しい。
THE STORIES
東京ストーリーテラー
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2020/03/04 (水) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2020/03/07 (土) 19:00
以前「三篇の意外な結末」「三篇の様々な結末」として朗読劇として上演した作品から計4つ。新作らしきが「魂呼の館」「枷」。2回に分けて計6作上演。通し券で6000円也。(7日夜と8日昼を観劇)
すでに鑑賞済みの4作品については、「杉山さん」「システム」が秀逸だったことを記憶しており、上演と同時にすぐに話を思い出した。ただ、2度目ということなのか、どうも前回の感動が蘇ってこない。朗読劇とはいえ、演者が違えば印象も変わると踏んだのだけれど、何か薄まった感もあり。これは、朗読劇だからなのだろうか。舞台装置や衣装、所作の違いがないと変化を感じないのか、そうなると、単に物語の面白さのみが提示されるので、演出の違いがあっても、それをうまく観客が捉えられないのか。
「システム」は設定としては、それほど目新しくない。神の配剤に関わらず予定外の事が起きてしまい、それを修正しようとする死神らしき人物とバスの乗客の物語。しかし、これを修正しようとする上での手続きを「システム」と名付けたことが面白い。なぜ「システム」と呼ばれるのか、「システム」という語感から受けるイメージと、実際の手続きのアナログチックなやりとりのとギャップ。そのあたりを、もっと掘り込んだら、結構面白い脚本になるのではないか、と思う。もちろん、乗客それぞれの背景の描き方次第もあるだろうけれど。
「杉山さん」良い話だ。でも、それ以上に捻りはできないなあ。
「便乗誘拐」うまい仕組みの話だけれど、実際の犯人の性格の描きこみがたりないので、ちょっと拍子抜け。「便乗」の意味が、なるほどね。と思うけれど→ネタバレ
「枷」はオチがよいですね。仕組んだ男の仕事が、なるほどと思わせるものでした。
「魂呼の館」は、やりたいことは判るのだけれど、今一、オチが解りづらい。
「ジイジお願い」は、途中から話が読めてしまう難あり。
前2回の期待を抱えていったのだけれど、朗読劇ということとチケット代とのバランスを考えると、今2つでしたね。
この状況での上演は、いろいろと大変でしたでしょうけれど
Holmes
少女蘇生
参宮橋TRANCE MISSION(東京都)
2020/02/28 (金) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/02/28 (金) 19:00
座席1列
やはりホームズ物は人気がある。新型コロナウィルスの感染拡大対策を大きく打ち出したことで、同日昼に観た期待の舞台はかわいそうなくらいに空席が多かった。その後の観劇だったから、入場に人が並び満席の会場には正直驚いた。こちらのような固定客がいる劇団開催と、企画制作型の公演の観客の違いかもしれない。
ストーリーはオリジナル。執筆に苦戦している作家エラリー・クィーン(と言っても、執筆担当のリーの方)の下に、探偵小説の原稿が送られてくる。それは、ワトソンが記述した未発表のホームズ探偵譚だった。内容は、かの有名な切り裂きジャック事件をホームズが解決した顛末である。
誰が何の目的で、原稿をクィーンに送ってきたのか、そして、なぜこれは発表されなかったのか。これがこの舞台の骨子となっている。クィーンは安楽椅子探偵張りに、友人や相方(ダネイ)を使って、その理由を探っていく。そして、発表もされず、そしてクィーンに送られてきたのは、執筆したワトソン自身もミスリードしていたホームズの発言から、真の犯人の存在を探り出してもらい、犯人とされていた人物の名誉を担保してもらうためだった。
参宮橋トランスミッションは、フロアのバーが楽しみ。オリジナルカクテルおいしかったですよ。
Gengangere 再び立ち現れるもの 亡霊たち
CAPI-Contemporary Arts Project International
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/02/28 (金) 14:00
イプセンの「幽霊」といえば、同タイトルでその作品世界が広く知られている。それを敢えて今回は「亡霊たち」と訳した。確かに「幽霊」というと、日本的な情緒を引き擦るので、「亡霊」の方がピンとする気がする。また英語題名は複数形なので「たち」と付けるのも理解できる。ただ、2つの点が気にかかる、「幽霊」ないし「亡霊」は、死んだアルヴィングだと思っていたのだけれど、なぜ複数?そして原題‘Gengangere‘には「繰り返される」という意味があること。
これらの点を強調する目的で、翻訳・演出の毛利三彌氏は「Gengangere 再び立ち現れるもの 亡霊たち」という題名を付けたらしい。
そうか、これは人間の業の話なのだな。いかに打ち消そうとしても、隠し通そうとしても、けして無くすことのできない血縁による業の話。
今回の観劇は、イプセン作品ということもあったが、それ以上に登場する俳優陣に興味があった。CAPIの芝居は、2016年に原田大二郎氏をゲストに迎えた「ゴドーを待ちながら」で確認済。久保庭尚子、西山聖了、中山一朗、髙山春夫、藤井由紀という配役に食指が動かぬわけがない。
しかし当日の舞台は、平日の昼ということもあってか、かなり閑散とした入り。ちょうど、新型コロナウィルスの席巻で、多くのイベントが中止に追い込まれた時でその影響からも致し方なかったのかもしれない。それだからというわけではないが、芸達者な俳優陣の芝居がどうも噛み合わない。俳優陣が舞台の両袖で待機するという舞台構成なので、自ずと演者は役者の視線を意識する。これが閑散とした客席(おそらく、数日前までは観客であふれていたであろう)の視線をも意識させ、長台詞がうまく回らない。あの流麗なセリフ回しの中山一朗氏が、ヘレン夫人との対面で途中から四苦八苦し始めた。髙山春夫氏登場で立て直すが、これはもしや演出の問題もあるのではないかと思う。
毛利三彌氏は、パンフレット中で、従来の「幽霊」とは異なった、ライトな現代に通ずる解釈をした演劇にしたいと書いていたが、このイプセン戯曲の陰鬱さを取り除こうと、役者間の距離を意識的に離そうとはしなかっただろうか。それが判るのが、ヘレン夫人とマンダース牧師(中山一朗氏)が、孤児院建設の背景から過去の秘密を話し合う長い対話が、妙に抑揚がなく感情の起伏が感じられない点である。この軽さが、これまでの舞台上との違いで役者の重しを外して、混乱を招きはしなかったか。
西山聖了氏のオズワルドは、まさに亡霊がごとく、現在に呼び戻された因果を体現し、その生の儚さと周囲を渦巻く狂気をうまく醸し出していた。
「帽子と預言者」 「鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラ-」
名取事務所
「劇」小劇場(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2020/02/25 (火) 19:00
座席E列1番
「帽子と予言者」
「不条理」というと、何かそれだけで何か分かった風な気分にさせられる。では、この舞台は、不条理かと言われると、そうかしらと思う。主人公の男、その男の子を宿した女、その女の母親、そして、宇宙から来たらしい生物を殺してしまった男を裁こうとしている検事(あるいは裁判官)。彼らがどういう存在なのかといえば謎多く、判然としない。この話自体、寓話なのかSFなのか、現実にはなさそうな話ではある。
パレスチナの作品と聞けば、「帽子」はユダヤ教のラビを、「預言者」といえばイスラム教のナビーを思い起こさせる。母親は宇宙生物を帽子だと言って、頭に被る。主人公はそれに倣い、帽子としてその生物を被るが、一方では彼らを大事な友人と呼び、自らに裁きを加えようとする検事たちに、死の不可抗力性と自分が殺していないことの正当性を述べる。主人公が聞く生物たちの言葉は、周囲には聞こえず、彼はまさに神(=宇宙生物)の声を伝える預言者とも言える。つまり、主人公はイスラム教の預言者(もちろん彼も、高額な金品で生物を売ることに関心がないわけではない)で、生物を売り払い多額な金品をせしめようという母親は、ユダヤ人だ。
彼らは、自らの私利私欲のために生物をうまく利用しようとしているに過ぎない。生物は同じものなのに解釈自体でいかにようにも扱われる。ユダヤ教徒もイスラム教徒も、同じ穴のムジナに過ぎない。そんな彼らを嘲笑し、見放していく検事や裁判官たちは、愛想を尽かせた理性の権化かもしれない。
「鳥が鳴き止む時-占領下のラマッラ-」
突如として訪れた占領軍蹂躪されたラマッラ-に住む作家の独白劇。秀逸。日々の生活風景が、淡々と描かれる。それは戦時下という日常。作家の言葉の陰に埋もれた悲惨に、どれだけ想像力が喚起されるかが問われる作品。それでも、人は日々生きていかなくてはならない。田代隆秀氏の明るく、しかも時々戸惑う口調が、生きるということの切実さと楽しさを同時に醸し出している。
こういう作品こそ、アフタートークのある回を観るべきだった。
少女仮面
metro
テアトルBONBON(東京都)
2020/02/19 (水) ~ 2020/02/24 (月)公演終了
鑑賞日2020/02/24 (月) 16:00
座席4列5番
やはりこの舞台、最大の目玉は、元宝塚男役の月船さららが、春日野八千代をどう演じるかということ。この舞台に関わる月船さららは、何とも不思議だ。まずフライヤーの写真が、月船さららではない(に見えない)、登場してきた春日野八千代が月船さららではない(に見えない)。フライヤーにはただ単に女子高生が写り、舞台には春日野八千代が鎮座する。
月船さららはどこだ?
けして宝塚の男役としては大柄ではない月船さらら。しかし、舞台に春日野八千代として登場する段の、ボリューム感、威圧感、押し出しは、どんなもんだいというほどに観客に迫ってくる。何か見つけたな。今回の役を演じるにあたって、いろいろ逡巡があったようだけれど、何を言わんか演じて御覧じろ、という感じ。
少女という仮面をかぶり続け、それを取れなくなった春日野八千代。唐作品には「仮面」というテーマが時々出てくるが、この作品ではまさにそれが作品全体を通底する。仮面=本来の自分とは何か?
井村昂の水道水を飲む男と久保井研の腹話術師、生という仮面と自我という仮面を被った存在が死にゆく中で、春日野八千代は自身の仮面を剥ぎ取って生きていくことができるのか。年齢に、性差に、虚実に、現代と過去に分裂させられた春日野が自己を取り戻す流浪の物語。見事、大団円を迎えるラスト、春日野八千代は月船さららに昇華してしまった。
全てを力で歪ませ尽くす、岩松力のバーテンダーは、舞台の異化を強烈に突き進めて圧巻。タップダンスも、腹話術人形演技も、観客を舞台の中へと引き擦り込む強力な磁場だ。
metroは、まだまだ堀尽くせぬ大きな鉱脈を発見したのかもしれない。